「決定されている」(to be determined)ということについて
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(2) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). (現在の法理論) A が落下した段階で即死していたのであれば、死体に対する、 (業務上)過 失致死罪は成立しない(あるとすれば、せいぜい過失致死未遂か過失死体損壊 だが、いずれにせよ不可罰である) 。落下の時点では生存していたが、路上へ の転落による致傷が致命傷であって、轢過されなくとも死亡していた場合には、 A 自身の過失行為と、轢過行為との重畳的因果関係が問題になりうる(たと えば、高層ビルから自己の過失ないしは故意により落下する F を、スナイパー P がライフルで射殺したような場合と同様である) 。 そこで、単純化するためには、落下の時点では A は死亡しておらず、かつ その落下の際の致傷はそれ自体としては致命傷ではなかったと仮定するⅲ。落 下直後は生存していた A が X の車両によって轢過されたとすれば、確かに「X (の運転する車両)は、A を轢死させた」とはいえる。しかし、直前を走行す る車両から人が転落してきた場合に、とうてい回避することができなかったの に、過失致死罪の責任を負わせるのは、実質的に不当な結論であると言わなけ ればならない。ただ、当時の捜査当局には、書類送検を回避するに足るだけの 論理を見出すことができなかったのであろう。 この事例の場合、かりにたとえば、X が前方不注意であった、制限速度を 超過していた等の義務違反にかかる事情があり、されにそれに加えて、前方 を注視していた・制限速度を守っていた等という合義務的代替行為を観念し たとしても、結果を回避できなかったであろうことが認められれば(正確に は、利益原則から、 「結果回避が合理的疑いを超えない程度に確実だった」と いえない限り) 、結果を帰責できない、というのが、現在一部の支持を得てい る結果回避可能性の理論である。この結果回避可能性理論自体が、因果判断 の論理として決定的な欠陥を含むものであることは別の機会に述べる。しか し、かりにこの理論によったとしても、運転者 X において、そもそもかかる 義務違反がなかった(前方も注視していたし、制限速度も順守していた)よ うな場合には、この結果回避可能性の理論の適用余地はない。そして、過失 .
(3) 「決定されている」(to be determined)ということについて. 致死罪を基礎づける過失と、これら前方注視義務・制限順守義務のそれぞれの 違反が、対応関係に立つ論理必然性はないとすれば、過失による帰責の限定に も限界があることになる。 このような場合に、確かに「X は A を轢いている」が、X の車両運転行為 と A の死亡結果との間に因果関係がないといえないか、を考えてみることと したいⅳ。 (条件公式) 因果法則の判断にあたって、最も基本とされ、また最も異論が少ないと考え られてきたのが、 条件公式のテストである。すなわち、 「あれなければこれなし」 の関係が成立する時には、両者の間に因果関係があるとされ、それらの一般的 な関係を因果法則と呼ぶのである。 「一般的な関係」については後に述べる。 前記事例で「X が轢かなければ、A が轢死することがなかったであろう」こ とが、証明されれば、両者の間に因果関係があるとされ、そのテストからは、 この事例における因果関係は疑いのないところとなろう。 しかしながら、例えば、路上の駐車スペースに Y が自らの車両を駐車して 昼寝をしていたところ、そこにローラースケートで遊んでいた子供 B がコー スを誤って激突して死亡したような場合に、Y に致死の結果を帰責させるべき でないことについては、おそらく本事例と同等かそれ以上に多くの支持をえる と思われる。この場合に、生じた致死の結果は、自己答責的に B 自らが負う、 といってもよいかもしれないが、そもそも致死の結果について因果関係がない といえないか、ということなのである。 確かにこの Y(の駐車行為)についても B の死亡の結果については、条件 関係を満足はする。そこに Y が駐車していなければ、B は死亡しなかっただ ろうといえるからである。 ではさらに、例えば、歩道上の歩行者 C に酒に酔った Z 運転の車両が突っ 込んで、C を轢死させたような場合、 「C がそこを歩いていなければ C は死亡 .
(4) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). しなかった」のだから、C の歩行と C 自身の死亡との間に因果関係がある、 といえるのであろうか?もし、これが肯定的ならば、因果関係論は、その客観 的帰責限定という意味で、全く無意味だということになる。歩行者 D が高速 道路に飛び出してきて W 運転の車両に轢かれた場合と、歩道を歩いていた C の場合とで因果判断には差がないことになるからである。 逆に、歩道上の C について自身が轢かれることとの因果関係が否定される ならば(そしてそれは、Z の運転と C の死亡との因果関係も導かれることに なる。もっとも、1つの結果について常に原因が排他的に成立するわけではな く、この場合には、C 自身の因果関係は否定され、Z の因果性が肯定されるに 過ぎない) 、更には、逆に D については自身の死についての因果関係を肯定さ れ、運転者 W については否定されることはありうる。こう考えると、先ほど の X についても、A 死亡との因果関係を否定することが可能であった、とい うことになるはずであろう。もっともその場合の、因果関係ということの意味 とその判断基準が必要となる。 (因果法則) 因果関係ないし因果性の有無は、因果法則によって規定される。想定原因と 結果との間に因果法則が認められる場合、因果関係があるとされ、そのような 法則が成立していない場合には、因果関係は否定される。因果法則あるいは因 果律とは、原因と結果との間の論理的・合理的な結合関係と定義されるであろ う。 「定義されるであろう」としたのは、因果法則についての明確な定義が可 能であるのかどうかの根本的な疑問には答えないまま、しかし反面では、おそ らくはその点については議論する必要すらない程に確実に存在するものだと考 えられていることに起因すると思われる、因果法則についての漠然とした共通 了解が、一般的には確かに存在しているからである。 そして、因果法則それ自体は近代社会に固有の観念ではない。 「小麦の種を 播けば、半年後には収穫できる」 、 「肥料をやれば、収穫が増える」 、等は、お .
(5) 「決定されている」(to be determined)ということについて. そらく原始社会でも知られていたであろう。ただ、現近代になって、こういっ た原因 ‐ 結果関係はますます多様化複雑化し、多数の因果律が支配するよう に感じられることになっているだけのことである。 「鉄鉱石とコークス石をま ぜて高温で熱すると鉄ができる」 、 「スイッチを入れるとテレビが映る」 、 「送信 ボタンをクリックすると、e メールが送られる」等、限りなく因果法則は、利 用され信頼すらされている。 因果関係とは、さきに示したように、原因と結果の間の論理的・合理的関係 であるが、論理的とは一義性――すなわち、一般的にその原因からその結果が 発生すること――であり、合理的とは、その両者の関係をなんらかの合理法則 によって説明することができること、を意味するからである。 かくして、我々は、安心してテレビのスイッチを入れることができるのであ り、なぜなら、 「テレビのスイッチを入れれば、テレビ放送を受信できる」と いう因果法則を知り、かつそれを利用しようとするものだからである。また、 逆に、テレビがつけっぱなしになっているときには、だれがそのスイッチを入 れたのか、を考えることができるからである。 (経験則と一般化) 論理的・合理的関係であっても単なる法則であって、原因結果関係ではない こともありうる。因果法則はあくまでも、原因と結果との関係でなければなら ない。 「蛙が鳴くと、雨が降る」という一般法則について、では、雨を降らせない ために蛙を殺害してみても、おそらく降雨の有無とは、 《無関係》である、と いうことは、現代科学の知見に基づく合理的判断である。しかしながら、現近 代以前において、気象学の知見がなく、気温・気圧や風速の測定手段や大気の 挙動という理解が欠けていた時代にあっては、 「蛙が鳴く」ことと「降雨」と の間には、 一定の原因・結果関係があるといってもよい。つまり、 「蛙が鳴けば、 雨が降る」という法則が一般的に成立しているのであれば、むしろそれこそが、 .
(6) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). 論理的・合理的関係の存在を保証するものであると言いうるからである。 先ほどの、条件公式において、あれなければ=「蛙の殺害」でなく、 「蛙が 鳴かないこと」いう条件を設定すれば、この一般法則が成立しているという前 提の下では、 「雨は降らない」ことになりうる。そうすると、現近代以前の社 会においては、 蛙が鳴くことと、 降雨との間には原因・結果関係が存在して《い た》ということがいえることになる。 もちろん、現在の知見を前提にすれば、降雨と蛙が鳴くこととの間には、原 因・結果関係は存在しない。降雨の原因は、大気の湿度や気圧・気温、風速な どに《よる》のであって、それらがまさに原因だということになり、蛙が鳴く のも、一部はその原因を共有していることによる。 (原因と利用可能性) ナイル河の氾濫と一定の暦日との関係でも、現代的な視点からは、エチオピ ア高原におけるモンスーンの発生が氾濫の原因であるとされることになるが、 エジプト古代社会では、暦日の到来が原因であり、結果として河が氾濫するこ とで充分であったであろうし、それが誤った知見だとはいいえない。 「原因・結果関係」 、なかでも「原因」の観念は、利用可能性ないし予測可能 性と親和力をもつ。それは、 「人格によってもたさられうる外界の因果的変動 の原因」といういわば積極的な意味だけでなく、人格それ自体によっては変動 しえない、外界の変動の原因そのものでもありうる。地震の発生《原因》が、 プレートの変動によるのだとして、しかしそこにおける一般法則は、人格的な 変動の範囲を超えてはいる。 利用可能性・予測可能性は、ほぼ同旨であって、やや「利用可能性」の方が 直接的な実用性を意味するものであるのに対して、 「予測可能性」は、より結 果に対する中立的な価値評価を反映しているに過ぎない。 「乳絞りには天然痘 が少ない」という因果法則は、天然痘の予防という望ましい結果に向けられる 意味で利用可能性なのである。さらにその因果法則によって予測される結果自 .
(7) 「決定されている」(to be determined)ということについて. 体は望ましくないものであっても、因果法則それ自体が望ましい目的のために 利用可能であるならば、なおその法則自体に利用可能性があるといいうる。 「潮 が急激に引いていくと津波が来る」というのは、望ましくない結果にかかわる 因果法則ではあるが、 「だから高台に逃げる」という予測が成立し、その予測 が望ましいものである限りにおいて利用可能な因果法則だということだからで ある。結果が認識される限りにおいては、殆どの場合には何らかのこういった 利用可能性を観念することはできるのであって、現実生活に無関係とも思われ る天体現象であっても、例えば、皆既日食は、過去には凶事の現兆でありえた が、その因果法則が認知されている現在では、基本的には天体ショーを直接に 楽しんだり、それを利用して経済的な利潤を上げようとする人々にとっては有 益な結果であって、その予測は利用可能性をもつことになる。 また、因果法則における「結果」とは、具体的に個別化された結果そのもの、 ではありえない。もしそうなら、その時点における「全存在」 (例えば、A の 死とともに、そこから1万キロ離れた山の木の 1 輪の花の開花も、また更には、 その時点での宇宙天体全ての位置そのものをも含めた全存在)が結果であり、 因果法則によって遡及されるべき起点としての意味を失うばかりか、かりにそ れが可能だとして、今度はそれに原則として時間的に先行する全ての事象を原 因と考えなければならないことになり、因果論そのものが意味をなさないから である。したがって、因果法則における一般化は、法則それ自体の一般化だけ でなく、結果ならびに原因それ自体も、一定の類型化を前提とした抽象化ない し一般化を経由することで、利用可能性・予測可能性を担保することになる。 すなわち、結果として認識されうる事象は、まさにこの有用性との関係からそ の結果が観念され、認識の作用の対象となっているといえるのであって、およ そ、因果法則における結果とはそういった利用可能性の前提だということなの である。 以上から、因果法則の本質である原因・結果関係をささえる一般的法則とは、 予測可能性であり、予測可能性は、論理性と合理性によって支えられる。論理 .
(8) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). 性とは一義性であり、合理性とは、現在知りうる諸認識方法で、その原因・結 果関係について証明ないし説明が可能であるということを意味する。 (一般法則の限界) しかし、この一般法則には一定の限界が原則として存在することになる。一 般性を支える、論理性・合理性は、純粋数学・形式論理学等の、すなわちそれ 自体が観念として完結している世界を除けば、経験的な知見に基づくア・ポス テリオリなものだからである。 1+1=2という数式において、右辺を結果、左辺を原因と読み替えた場合に も、これらの両者の間の一般妥当性については何らの制限を受けることはない。 一方、純粋数学・形式論理学以外の諸認識方法において、その限界は、3つの 側面から根拠づけられる。第1には、認識方法それ自体の限界である。第2は、 いわゆる複雑系である。もっとも、認識論的には、この両者の区別は連続的なも のであると同時に、その区別は絶対的に必要なものでもない。最後に、要素還元 主義の究極としての量子力学的な制限があるが、これも実は、人間の行動という マクロ的な因果法則が問題になる限りでは、第2の問題を内包している。 (方法の限界) 第1の認識方法の限界とは、科学その他の認識諸方法の歴史的な限界にかか わる。原因と結果の一般法則について、そもそも我々がそれをまだ知らないと いうことは、 ある。そのような未知の因果法則が、 現在知られている法則よりも、 はるかに多いのか、殆どないのか、自体も、現在のところは知りえない(つま り「知らないことすら知らない」こともある)のであるから、解らないし、ま た解ったところで意味はない。つまり、常に我々には「知のフロンティア」が あって、その先は認知の闇に囲まれているということである。 伝染病の病原菌が知られていない過去の時代においては、伝染病による死は 悪魔の仕業とされたであろう。これは現代の認知からすれば「誤った因果法則 .
(9) 「決定されている」(to be determined)ということについて. である」ということになろう。しかし現代でも、ある結果に対して、その原因 が解明されていないものは、少なくない。例えば、癌の発生機序は、未だ知ら れていない部分の大きい領域である。その中でも歴史的な文脈において最も重 要であるのは、宇宙起源論であろう。つまり、アリストテレス的な第一原因は、 常に宇宙起源論に集約されることになるはずだが、起源のさらなる起源につい て何らかの収束を見ない限りは、素朴な決定論的世界像では、因果法則の究極 の出発点を欠くこととなり、因果論的な構造を全うしえないはずだからである。 (量子力学) 第2については、次節で述べる。第3の量子力学的な限定は、つとに指摘さ れ、コペンハーゲン解釈に典型的に示されているように、決定論的な法則性に 対する反論になりえてきた。もっとも、量子効果が問題なるような充分にミク ロな領域についてはともかく、日常生活を営む上で、量子力学的な確率的存在 (シュレディンガーの猫)は問題にならない(理論的にいえば、例えば、目の 前のリンゴそれ自体も構成する原子について、人間の知覚として巨視的に観測 できる程の大量の素粒子が同時に、確率的に「そこに存在しないこと」があり うるのかもしれないが、それは、全く考慮するに足らない程度の限りなくゼロ に近い確率に過ぎない) 。さすれば、素粒子からみれば、マクロ的に存在して いる、現実の現象( 「リンゴ」であるとか、 「殺意」という意思とか)は、これ らの存在ないし現象を構成している素子( 「リンゴ」であれば、 原子・分子、 「殺 意」であれば、神経細胞、更には、それにおける原子・分子の挙動)のかなり の数に及ぶ統合的な行動によって決定されているということであり、まさに第 2の複雑系の応用に他ならないことになる。 (認識の限界――複雑系(complex system) ) 一方こういった、マクロの宇宙論やミクロの量子力学それ自体がまさにそう だが、それに至らないレベルであってもおよそ、極めて多数の決定要素が複雑 .
(10) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). に関係しているような場合には、やはり因果法則の認識に限界が生じる場合が ありうる。それは空間的な多数の場合もあろうし、時間的に長期間にわたるこ ともあろうし、その両者の混合もありうる。 つまり、これらの場合には、原因となる事象と結果の事象との間は、 《近接し ている》とはいえない。大きな数にわたる複数の要素・長期間にわたる要素の変 化は、われわれの認識の限界を超えるだけでなく、そもそも存在論的にも、それ ら両者の間に因果法則が機能しているかどうか、疑わしいからである(この点は、 もしヒュームに忠実に従うならば、後段については言及は不要であろう) 。 例えば、複数の学生が、教室に座っていて、席替えをするような状態を想定 する。もし2人の学生がその座っている位置を交換することにより、席替えに は、2通りの方法があり、もし席替えに要する時間をそれぞれ1秒と考えると、 席替えに要する時間は、2秒である。次に3名の学生であれば、席替えの可能 な並び方は、3×2×1=6通りであって、その可能な席替えの方法を全て尽 くすに要する時間は、同じく6秒である。同様に4人であれば、4×3×2× 1=4! = 24 秒かかることになる。この方式で、例えば、20 人の学生について、 その全て可能な席替えを尽くすには、20 × 19 × 18…×3×2×1= 20 !秒か かることになるが、この 20 !秒とは、2. 4 × 1018 秒であり、年に換算すると約 770 億年であって、これは現在知られている宇宙の年齢をはるかに超えている。 この思考実験は、ある巨視的な挙動をささえる個々の素子の組み合わせの数 が膨大なモノになることを、時間に換算して直感的に理解できるように示した ものであって、時間の長さそのものには意味はない。ただし、例えば人間の意 思作用が個々の神経細胞という素子の変化の総体によって説明されるのだとし て、個々の細胞の変化を全て連立方程式のような数値化して計算するとしても 膨大な時間がかかるであろうことをも示唆しよう。または、明日の天気を予測 するのに、測定地点のメッシュを細かくすればするほどその精度は高まること になるが、その計算は飛躍的に膨大になり、明日の天気を予想するのにその結 果が出るのが1週間後ということになりかねない。 10.
(11) 「決定されている」(to be determined)ということについて. より直感的に解りやすいのは、金融商品市場における価格変動である。株価 は、投資主体による個別的な投資行動によって形成されている。しかし、おそ らく個別的な投資主体の行動を極めて単純化したとしても、全体としての株価 変動を事前に予測することは、おそらく現在の段階では不可能であり、逆にそ うだからこそ、金融商品市場が一定の意味あるシステムとして機能していると いうことでもある。 ある段階での株価の形成を、それに直接関与した投資主体の行動から説明す ることはできても(つまり売り方と買い方を特定することはできるであろうし、 その際の注文状況も明らかとはなろう) 、しかし、それが将来的な利用可能性 はないという意味において、一般的な法則性をそこに見出すことはできないの である。 (帰 結) 説明可能性は、あくまでも《近接した》事象についての、一般的な利用可能 性ないし予測可能性を前提とした原因・結果関係である。従って、歩道を歩い ている歩行者が車両に轢かれるという一般的な関係がない以上は、その歩行者 が、歩道に突っ込んできた車両によって轢かれたという結果の原因だとはいえ ない、ことになる。同様に、冒頭の設例で、高速道路を車両で走行中に前方の 観光バスから落下してきた児童を轢いた運転手についても、高速道路を通行中 に人が落下してくるという一般的法則性はないことから、やはり因果関係は否 定されるのである。 2.自 由 (近代主義と自由) では、ひるがえって、 (意思の)自由というとき、それは明らかに、決定さ れている意思(determinism)の反義であって、後者にあっては、その主語、す 11.
(12) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). なわち因果論的な何者かによって「決定されている」ことが前提なのである。 しかしながら、自由を、因果論的には何者によっても決定されて《いない》 状態だと消極的に定義するとすればそれは充分ではないであろう。自由であっ たというためには、現実に発生したある状態(結果)に対して、 「そうではな かったことがありえた」ことが必要だからであり、そのような状態が想定でき る限りにおいて、 「 (そう「する」ないしは「ある」ことについて)自由であっ た」と言いうるものだからである。ここで、 「そうでなかったことがありえた」 とは、 「そうでなかったかもしれないし、そうであったかもしれない」とうい ことではなく、 確かに、 「そうしなかったことができた」のでなければならない。 意思の自由(論)は、 近代市民社会原理(modernism)のコロラリー(corollary) である。すなわち、何ものにも左右されない、自律的・自己答責的に独立した 主体たる「私」が、自らを原因として、あることを為し、ないしはあることを 為さないこと、を決定するのであって、これは政治体制における個人の尊重の 基盤でもあるからである。 それが社会的に許容され・称賛される結果であれ、その反対に、社会的に忌 避され・非難される行為であれ、自由な「私」による、結果であることが、ま さに重要だということになるのである。 もっとも、自由であることが、結果についての無原因を意味するわけではな い。それどころか、 「私」が決定した意思に基づいて、ある結果をもたらす(= 因果法則的に)ことが、 まさにその結果を、 「私」が引き受ける (因果原因として) ことを意味するからに他ならない。 「 (私が)アラブ人を射殺したのは太陽が眩しかった《から》だ」と言明する ことが、不条理(absurd)として成立するのは、まさに、そこには、アルジェ リアの眩しい太陽の日差しの代わりとなるべき「決定する私」が欠落している からである。というよりも、そこでは、意図的に可能な限り、その「私」が排 除されるように構成されているから、である。 しかし、本人の言明はともかく、喧嘩に巻き込まれて襲ってくるアラブ人に 12.
(13) 「決定されている」(to be determined)ということについて. 対して、友人が手渡したピストルの引き金を引いて4発の銃弾で相手を殺害す る時、そこには、あきらかに「私」の意思が作用しているはずなのである。な いしは、そのような説明がなければ、それを観察する第三者にとって、納得で きない、つまり、アラブ人の死と太陽の眩しさとの間には因果法則が成立して いない、と一般的には考えられる、ということが重要である。 (自由と因果の関係) しかし、この自由論は、一方では、全ての現象にはその論理的・合理的な因 果的原因があるはずだという、近代合理主義とは、少なくとも表面上は矛盾する。 この点について、ヒュームは両立論をとった。すなわち、意思の自由と因果 法則とは矛盾しないのであって、 「私」が決意した意思に基づいてあることを 為し、ないしはあることを為さない、というためには、一定の因果法則の利用 が必要だから、というのであるⅴ。これは、デカルトの心身二元論に、機能論 的な因果法則を応用したものとみることもできる。 このことは、ある意味、当然と言えば当然であり、まさに自由意思を前提と しつつも、刑罰の予防的な性格が強調されるのは、そのような決定する「私」 に対して、まさに因果的な抑制を期待しているからに他ならない。刑罰のシス テム自体が、刑罰を科すことによって犯罪が抑制されるであろう、という一種 の因果法則を利用するものなのであるから。 しかしながら、我々が、今知りたいのは、意思の形成後の因果法則ではなく して、意思の形成そのものが、果たして、無原因なのか、つまり何者によって も決定されていないといえるのかどうか、ということなのである。 周知のように、18 世紀末から 20 世紀初頭において一定の支持を得た、刑法 理論における近代派(新派)においては、むしろ、意思の自由そのものを限定 的に解し、環境その他の外部的な要因によって、意思も形成されると考えた。 これは、その名前には若干の皮肉が込められることになるが、前記の近代社会 原理に対する、機能主義的な修正であって、本来の近代主義から、あえて距 13.
(14) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). 離を置こうとするものであったといってよい。個々の犯罪者の「自由な意思決 定」ではなくして、社会的な貧困や教育の欠如が犯罪の《原因》であるとする とき、それは社会改良としての実践的な意味をもちえたし、今日においてもそ の思想・志向は、一定の影響を残している。とはいえ、理論的に、環境によっ て犯罪の発生件数が左右されうるという統計的な結果と、個々の犯罪において、 それらの環境が、因果法則としての意味において犯罪を引き起こしたといいう るかは、別問題であろう。まさに金融市場モデルで説明したように、それらは 複雑系としては統計的な説明にはなじむとして、また社会政策における因果論 的なメカニズムとしてはそういった大数的な結果の認識で充分だとしても、個 人責任を原則とする刑事責任において、統計化された抽象的な結果では、帰責 には充分ではない。そうすると、やはり、個人のレベルにおいて、その個人が、 外部的な要因だけから、犯罪の意思を形成したというのであれば(例えば、脅 迫や、カスパーハウザーのように一切の人間としての教育が欠落していたよう な場合) 、その個別的な原因が、犯罪意思形成を因果的に引き起こしたといい うるとしても、そのような特段の事情がない限りは、例えば、同じように貧困 にあえぎ教育を受ける機会を得ていなかった者について、犯罪に走らないのが 通例であったというのであれば、因果原因は、それが決定論的であれ自由論的 であれ、その犯罪者個人に帰せられるべきことになるはずだからである。 (ヘーゲル的な解決) 一方、ヘーゲルに典型的に、人格的な意思決定を他の物質的な変化とは区別 して、その精神的自由を尊重するという立場もありうる。つまり、これは、物 質面では、因果法則の妥当性を全面的に承認しつつ(つまり物質的には決定 論的な世界像をとる) 、一方では、人格の精神作用については、自由だとして、 両者の間には決定的な違いがあるとするものである。 しかしながら、デカルトの脳下垂体理論等が成立しえない現代の医学知識の 下で、人間の精神作用のみを特別視して、他の物質的因果法則から自由だとす 14.
(15) 「決定されている」(to be determined)ということについて. る場合には、なぜそういえるのかの特別な根拠が必要だと言わなければならな い。また、情報工学の発達や、動物学における知見の集積は、人間以外の生物 や、生物ではない組織体によっても、人間の精神作用と同様の機能をもち、あ るいはもたせることが可能であることを示しつつある。 すなわち、脳科学等の進歩は、心身二元論における「心」の分野においても、 機能論的な説明を可能とするであろう。ただし、問題は現状においても、それ が、ある程度までということである。そしてこの「ある程度まで」が、将来に わたって、かなりの程度まで明らかになりうるか、はかなり疑問である。 例えば、ある種の染色体異常によって、性的な衝動を抑えられないことが明 らかにされた場合には、その両者の間の因果法則の確実性を担保とし、かつそ れを避けるための措置の副作用、すなわち端的には人権侵害その他の弊害をも 考慮して、遺伝子治療などの治療措置や、行動の遠隔監視等の方法がとられう る。これはまさにそういった犯罪意思が一定の範囲で、他の要因によって決定 されている場合であることを示している。 しかし、このような、意思決定に対する外部的因果要因の認識と、それを利 用・予測することについては、おそらくすべての犯罪類型について妥当するも のではないばかりか、おそらくは極めて限定的・例外的な場合に限られるであ ろうことが予想されうる。 それ以外の意思決定のメカニズムについては、やはり、個々の神経細胞内部 やその境界における電子のやり取りというミクロレベルのメカニズムと、 「あ る人を殺害する意思をもってハンマーを被害者の頭上に振り下ろす」 、といっ たマクロレベルの現象とを、論理的・合理的な原因結果関係としての因果法則 として結びつける中間的なメカニズムを見出すことは、たとえその原理が明ら かになったとしても、現実的に、その意思を形成するかどうかという具体的な レベルでは、おそらく充分に実用的な有限の時間内で予測し、あるいは事後的 に分析することは困難であり、因果論的に《近接している》とはいえない。因 果法則が成立するには、原因と結果の間の近接性が必要であり、細胞レベルの 15.
(16) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). 電子的挙動と意思との間、また、意思と筋肉の働きとの間のいずれについても、 相当数の作用因子が想定されることから、複雑系として因果法則を判断するに は、充分に《近接して》いない。逆説的には、上海の一匹の蝶の羽ばたきによ る空気の揺らぎが、それによって大規模な気団の気圧変動を気流の流れと変え る契機となって、カリブ海のハリケーンに成長するのと同じ程度にしか近接し ていない、のである。 3. 「自由」と「偶然」 (意思の自由) かくして、マクロ現象としての意思の形成については、ミクロ現象としての 神経細胞における電子等の挙動との間の因果法則を論じることはできない、言 い換えるならば、両者の間には、因果関係は《論じることはできない》ことが 示された。因果関係を《論じることができない》とは、因果関係が《ない》と いうことでも、また因果関係について本当はあるのだが《我々が知らないだけ だ》というのでもない。およそ因果関係を論じるような関係にはないというこ と意味する。 なお、因果関係がないことと、意思の自由、さらに「決定されていること」 との関係について、最後に検討しておく。 一般的に――つまり正常な精神状態である場合に――「私」が相手を殺害し た時、 「私」において、そうしなかったことができたという感覚(他行為可能 性の感覚)をもつものと思われる。そしてそれは、刑事司法に参加する市民全 体が基本的には享有するものであるから、この自由意思モデルによる司法シス テムが機能していることになるのである。 しかし、感覚の存在は別にして、認識論的な制約があるとしてもかかる自由 の存在について再検討しておく必要はあるであろう。. 16.
(17) 「決定されている」(to be determined)ということについて. (不可知論) 因果と自由の解決方法の 1 つとして、不可知論がある。つまり因果法則的に は決定されているのだが、我々が無知であるがゆえに、それを解らない領域が あり、その領域については、自由だと理解するというものである。意思の自由 論(非決定論)においてこの論理が援用されることがある。 しかしながら、不可知論に立ちながら、因果法則が機能しているというのは、 矛盾である。解らないことは解らないのであって、さらに先に示したように、 解らないこと自体が解らないこともあるのであるから、現在知りうる因果法則 の存在をもって、その他の全ての事象が、因果論的に決定されているはずだと するのは、単なる願望の表明でしかない。 (偶 然) 因果関係を論じることができない状態は、因果関係がないかどうかが解らな いのではなくて、およそ因果関係を論じる関係に立つとはいえないとするもの であるから、上記の不可知論とは異なっている。不可知論は認識の限界を意識 しようとするが、そもそも因果関係を論じることはできないというのは、存在 と認識の区別すら否定するものだからである。 因果関係を論じることができないということと、単なる《偶然》との関係を 考える必要があろう。偶然であれば、そうでないことがありえたという自由の 存在もまた偶然に左右されることになり、自由を観念することはできないであ ろう。端的には偶然に基づいて発生した結果について帰責させることはできる のか、ということである。 一般的に偶然の事象とされるものについても、よく考えると因果法則によっ て決定されているものであることは少なくない。例えば、籤(くじ)とか、サ イコロの出目は、偶然だとされる。しかし、籤の抽選で回転する数字板を矢で 射る場合に、そのいずれの目が出るかは、それを矢を射るタイミングや角度等 によって決定されている。その決定されていることを、矢を放つ人間があえて 17.
(18) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). それを知ろうとはしないだけのことである。逆に、ある数字を射るためには、 円盤の最初の数字の位置、円盤の回転速度(単位時間あたりの回転数)とその 速度曲線、矢の初速・矢の方向等を考慮すれば、ある特定の数字を狙って矢を 放つことが可能である。サイコロの出目も、それが事前に可能かどうかは別と して、そこには、ある目が出るに必然的な一定の条件が成就されていると考え ることができる。すなわち、掌上に置かれた状態と、それに加えられた力の大 きさと向き、落下距離、机の弾性係数等の諸条件によって、ある目は出るべく して出た、ことになるのである。 では、偶然というものは存在しないのであろうか?例えば、以下のようなモ デルを考える。逆 Y 字になった通路の垂直通路上から鋼球が落下して、分岐 点で左右のいずれかの通路へと導かれる。このようなモデルにおいて、左右の 通路のいずれかに落下する確率は、それぞれ1/2であり、そのいずれかも同 一の確立である以上、右路に落下するか、左路に落下するかは《偶然》による、 というのが一般的な理解であろう。つまり、何回かこのモデルを現実に作った 場合、鋼球が完全球体であり、左右の通路にも全くのゆがみや誤差がなく、直 下通路の真ん中に鋼球をおいて落下させれば、何回かの試行によって、左右の いずれかに落下する発現率は限りなく、計算上の1/2に近づく、というので ある。 しかし、この左右のどちらかに落下するのが、偶然によるというのは誤りで ある。右路・左路のいずれに落下するかは、左右のいずれかに落下するには、 鋼球を落下する段階で、その中心線からずれていたり、逆 Y 字通路にゆがみ があったり、球体が不完全だったり、重力その他の影響が左右均等ではない、 ことによる。それらの要因の因果法則によって、そのどちらかに落下するかが 決定されている。もし、完全球体であって、通路にも左右のバラつきがないよ うな場合には、球体はその逆 Y 字の分岐点で静止し、左右のどちらにも落下 しない。このような理想モデルを現実化するのはおそらく困難であろうが、こ の理想モデルを含めて、偶然は存在しないのである。 18.
(19) 「決定されている」(to be determined)ということについて. 以上から明らかなように、事象が充分に近接的な場合には、因果法則が機能 していて、ある結果に対する原因について、それを因果法則で説明でき、それ を「決定されている」ということができる。 もっとも、具体的に、ある現実的なモデルにおいて、すなわち現実の鋼球を 現実の逆 Y 字通路から落下させた場合に、左右どちらか、に落下することを 予見できるか、という利用可能性については、よほどゆがみが大きなモデルで はない限りは、困難であろう。サイコロの出目についても同様であって、極め て限られた条件で振出されない限りは、その出目を予測することはできない。 事前の予測だけでなく、事後的な説明であっても同様であり、実用的な有限的 時間内に、それらを因果論的に予測・説明することは事実上は、困難ではある。 そうすると、こういった場合の結果(鋼球の落下方向やサイコロの出目)につ いて、因果法則で説明するとしてもそれは、きわめて抽象的なレベルにとどま ることになる。つまり、具体的な結果、すなわち射られた数字や出目の数字に ついては、因果法則によってそれを説明することは困難だが、右に落下するか 左に落下するかはそれぞれ 50 パーセントの確率である、とか、出目はそれぞ れ1/6の確率であるとか、ないしは、ある数字が出たのは、それに作用する さまざまな要因が機能したからであろう、という推論をすること自体はできる。 このような合理的な推論は、因果法則とまでは言えないが、きわめて抽象化さ れた結果と原因となるものとの間における緩やかな関係を示してはいる。つま り、こういった具体的な結果が生じたことが、単なる偶然ではなく、一定の論 理・合理法則に立つものであるということは言えるのであり、逆にいえば、結 果を抽象化すれば、それを因果法則にまで限りなく近づけることも可能であろ う(籤やサイコロの確率的な結果を利用する場合) 。このような場合、籤の数 字やサイコロの出目がある結果となることは、予め「決定されている」という ことができる。つまりそれらの数字の結果について、因果論的な法則性を具体 的に説明することは事実上不可能だとしても、そしてそれは、確率や統計的な 傾向という、因果論そのものになじまない概念にむすびつくものであるだけに、 19.
(20) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). 因果法則としては認めることができないが、なお単なる不合理な《偶然》だと いうこともできないのである。 (意思と決定) これと同様に、意思決定のモデルについても、それに関与していると思われ る大数の素因それぞれの因果法則を明らかにすることが事実上困難だとして も、結果を抽象化した上で、一応の論理的合理的な法則性を見出すことはでき る。それが、意思が「決定されている」ということの意味であり、決定されて いるといいえないかぎりは、 「そうでなかったこと」の可能性を判断すること はできない。 「決定されている」かどうか、も程度による。生まれてきた子供に、 「この子 供は犯罪者になるかもしれないし、偉人になるかもしれない」と予測しても、 「明日は晴れになるか晴れにならないかのいずれかである」と同様に基本的に は無意味な推論である。しかし、意思の自由については、そうでないことの可 能性を事実的に判断しうる必要があり、それは、一定の「決定されている」か どうかが、問題になりうる。かくして、意思の形成については、脳科学的なレ ベルにおいては現段階では少なくとも、複雑系の観点から、因果関係を論じる ことはできない一方、それは、犯罪として非難する場合には、自由の存在が必 要であり、その自由の存在の有無については、それが抽象的な結果について、 どのように決定されているかどうかによる。この場合の他行為可能性とは、合 義務的代替行為を観念するものではない。事実上の他行為(他意思)可能性が あればよい。具体的には、通常、人は人を殺害するようなことはしない、とい う程度のもので足りるのである。 ⅰ . 本年(2011 年)は、 デビット・ヒューム(David Hume)の生誕 300 周年にあたる。ヒュー ムの因果論の全体像に言及することは到底できないが、さしあたって法理論における因 果(法則)と自由(とりわけ意思の自由)の問題に関連する事項にしぼり、まさに管見. 20.
(21) 「決定されている」(to be determined)ということについて. 以外の何物でもないが、これまで考えてきたことをここに記す。時間と因果に関しても、 事後確率や量子力学上の現象等の知見からヒュームの因果論の限界に言及すべきであろ うが、ここでは触れない。. ヒュームの原典については、インターネット上にいくつか公開されているが、それら のうちから、A TREATISE OF HUMAN NATURE, 1739-40, in: The project of Gutenberg EBook, 2010, [EBook#4705], http://www.gutenberg.org/files/4705/4705-h/4705-h.htm, AN ENQUIRY CONCERNING HUMAN UNDERSTANDING, 1748, in: The project of Gutenberg EBook, 2006, [EBook#9662], http:// www.gutenberg.org/dirs/etext06/8echu10h.htm によった。なお、前者はヒュームの主著であっ て、 日本語では、通常『人性論』ないしは『人間本性論』として紹介されているが、そ の部分訳として、土岐邦夫=小西嘉四郎(訳) 『人性論』 (2010 年)があり、後者につい ては、その全訳として、齋藤繁夫・一ノ瀬正樹『人間知性研究』 (2004 年)がある。なお、 前者については大槻春彦(訳) 『人性論(一)~(四) 』 (1948-52 年)があるが、参照し なかった。. ⅱ . 2005 年 3 月 26 日午前 1 時 50 分頃、静岡県焼津市内東名高速道路上にて発生。. ⅲ . 報道によれば、事故当時、鑑定した医師の見解では、女児は高速道路上に落下した時点で、 即死していたか、即死していなかったとしてもその際に負った負傷は、およそ救命の可 能性がない状態であった、という。しかし、捜査当局がこの見解を採用したかどうかは 報道資料からは明らかではない。. ⅳ . 捜査当局は、まさに X の轢過行為と A の死亡結果との間の因果性を否定できないと判 断したのであろう。. このような場合について、結果回避可能性理論による客観的な帰責の限定を導く見解 が主張されている。こういった「合義務的代替行為」という規範的な志向が、因果関係 論という本来事実的であるべき因果関係論になじむかどうかはさておき(もちろん、因 果関係が事実的である必要はない、ないしは因果関係は規範的なものであるという積極 的な立場もありうるし、更に因果関係とは別の、客観的帰属という概念によってこういっ た概念的な純粋性を維持することは、形式論理としては可能だが、本質的に客観的な帰 責を否定するかどうかに、この合義務的代替行為を用いる点では同じことである) 、そ して因果関係論ではないとしても、主観的帰責――すなわち過失の問題――に持ち込む ことは可能なのであるから、少なくとも過失論の場において「結果回避可能性がなかっ たとして、帰責を否定する」という結論自体には、概ね賛同が得られるのかもしれない。 否、逆に、賛同が得られないとしても、ここでは、本筋とは一向にかかわらない。重要 なのは、もし結果回避可能性理論が因果論にかかわるならば、結果回避可能性がなかっ たことによる因果性の否定は、結論として、 「 (前方不注意・速度超過だった)X(の車 両)は、 (まだ生きていた)A を轢いたとしても、A を死亡させたとはいえない」とい うことが言えるということである。これは、まさに本稿において、因果関係がないとす 21.
(22) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). る場合の結論部分と形式的には同じことになる。. そして更に言えば、この結果回避可能性論のさらにメタな前提として、 「合義務的代替行 為が行われている(のに)結果が発生した場合」に、なぜ帰責を否定することができる のか、という点が未だ明らかにされてはいない点こそが本質的である。つまり、冒頭の 設例で、運転者 X が、前方不注意でもなく、速度も超過してなかった場合、それでも「X が A を轢いた」といえる点では、義務違反があった場合と同様であるが、義務違反があ れば、 「合義務的代替行為があったとしても」という概念操作が可能であるが、そもそ も合義務的行為があった場合には、代替行為を観念することはできない。. 逆にまた、合義務的行為があれば、結果が発生しても帰責できない、のであろうか?. 確かに例えば、横断歩道上で歩行者をはね、歩行者が死亡した場合、車両の運転者にとっ ては、対面信号が青信号であって、速度制限も守っており、かつ前方も注視していたの であれば、やはり結論としては帰責させるべきではないであろう。しかし、これを一般 化して、およそ公法上・私法上の法的な義務を順守していれば、発生した結果について 刑事責任を免れるわけではない。道交法の場合には網羅的かつかなり抽象化された義務 が体系化されているから、義務の順守があれば、交通事故については、一定の高い蓋然 性をもって、 その発生した違法結果については、 免責させるべきことにはなろう。ただし、 その義務の内容があまりに抽象化されていれば、この基準すら結局は意味がないものに なる。高速道路を運転していて、前方の車両から人が落下してくるかもしれないという ことについて注視していると胸をはって主張することができる人はおそらく少ないであ ろう。100 キロ制限の高速道路で、100 キロを超過しないで走行している人もまた稀で ある。. そういった、ある意味ささいな義務違反でも見出すことができるならば、結局それは 結果回避可能性の理論の適用局面になり、再び、では、なぜ、合義務的行為については 帰責できないのか、というメタ理論の根拠論へ回帰する。そのメタ理論は、まさにここ で扱っている因果法則の本質そのものに他ならないのである。. ⅴ . Hume, HUMAN NATURE, Book II, Part III, Sect. II. ( ibidem, p. 193 ). 22.
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