• 検索結果がありません。

「分かる」ということ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "「分かる」ということ"

Copied!
20
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)文学・芸術 ・文化. 10巻1号(通巻第24号) 1998. 12. 「分かる」ということ 清. 島. 秀. 樹. 分からなかったことが分かった時、 心の中では、 どんな変化が起こってい るのだろう。 例えば、 親友が奇妙で不可解な行動をするので 「どうも変だ、 どういうつもりかな」と思っていたら、 ある時ふとしたことから友の真意が 分かり 「ああ、 そうだったのか」と納得した時。 気になっていた黒幕の正体 が分かった時。 どうしても分からなかった言葉の意味が何かのきっかけで分 かり 「なるほど」と腑に落ちた時。 訳が分からなかった社会現象の構造が突 然に明らかになった時。 意味不明の儀式の由来が分かった時。「あの山の向 こうには何が有るのだろう」という疑問を持ち続けていた子供が、大人にな って、 その山を越えて向こう側を見た時に 「ああ、 こうなっていたのか」と 心に染み入るような満足感を持った時。 人生の意味についで悩んでいた者が 或時に突然 「分かった」と悟る時。 これらの例のように、 それまで疑問であ ったものが氷解した時、 我々の内側では何がどのように変わっているのだろ う。 更に、 そのような変化(分かること、 知ること、 納得すること)は我々 にとって、 一体、 何の役に立つのであろう。 「分かる」ことが直接に我々の生存にとって役立つ場合もあるし、 一見す ると何の役にも立ちそうに無い場合もある。 まず、 役に立つ場合。 古代人に とっては、 水や肉や木の実が手に入る場所、 時期、 採り方が新たに分かれば、 生存のチャ‘ノスが増したはずだ。 現代の会社で働いている者にとっては、 正 しい御辞儀の仕方や名剌の取り扱い方を分かるか分からないかが、 現実の出 世や給料に影響を及ぽし得る。 あるいは又、 物体の物理的運動の法則が分か っていれば、大砲の弾をより正確に標的にあてることが出来る。この類の「分 かる」には、 日本語では、 「知る」という言葉を使うほうがすんなりするか - 124 -. (85).

(2) 「分かる」ということ 清島 もしれない。 この場合、 分かる前と後では、 それまでは無かった「知識」が その分だけ増えている。 情報量の増大という変化である。 次ぎに、 何の役に立つかが少し怪しい例。 「 一体、 人は何のために生きる のだろう」という問題に悩み、 その解答を得るために人里離れた山奥で岩壁 に向かい独り思索にふけり始めた人が居たとする。 それから十年後、 ある日 突然に全ての疑念が晴れ森羅万象の有り様が明々白々となり 「ああ、 そうだ ったのか」という深い悟りにその人が至ったとする。 この場合、 悟りの前後 では新しい知識の増大は殆どない。 変化は、 その人の頭の中にある概念 (観 念、 知識)の組み替えだけである。 しかも、 それは当人がすっきりするとい うだけで他には何の役にも立ちそうにない。 その人が考えに耽っている間は 外からの知識の流入はない。 子供が積み木を繰り返し壊しては積み上げるよ うに、 自分の内部にある概念を弄んでるだけである。 そして、 ある種の組み 合わせに至った時、 「分かった」となる。 多くの哲学的な疑問と思索と答と は、 基本的に、 これと同じである。 分かる前後では、 脳への新知識の出入り はなく、 既存知識の組み替えだけがある。 他者に助言を求めずに、 脇目も振 らず、 本当に自分独りで考えれば考えるほど新情報の流入は無いはずだ。 こ のような観念的積み木遊びにも等しい思索から 「分かる」 「悟る」ことが得 られたとしても、 それが何だと言うのだろう。 何だか哀れな自己満足ではな いか。 それは、 精神の世界での独り相撲である。 その人自身が行司、 観客、 力士の全てを兼ねると言う形の。 こんな作業をして何の意味があるのだろう。 これについて考えてみるのが、 以下の文の主な目的である。 「分かる」と いう言葉には色々な意味、 用法があるが、 ここでは取り扱うものを明確に定 義することはしない。 大雑把に、「何かの疑問に対して答えが見つかること」 くらいの意味で使うつもりだ。 「なるほど」「おお、 そうだったのか」「うん、 わかった」 「目が開いた」「あきらかになった」「そういうことだったのか」「目 から鱗が落ちた」というような感じが起きるときである。 始めに、「分かる」 前後では、 どのような変化が起こっているのかを幾つかの例をとって調べて (86). - 123 -.

(3) 文学・芸術・ 文化. 10巻l号(通巻第24号). 1998. 12. みよう。. 【「*Ox△□森」の意味が分かる時] 未知の言葉の意味が分かる場合。 本を読んでいたら「*Ox△□森」とい う知らない言葉に出くわし、 文脈から色々と考えても、 意味が分からなかっ た場面を想像していただきたい。さて、知人の一 人がその言葉を知っていて、 意味を説明してくれたとする。「それは、 西暦6 世紀頃に活躍していたイソ ドの思想家の名前である。彼は、 インドに昔からあった言語学と哲学を融合 して独自の言語哲学を展開し、 後のインド思想史に大きな影響を及ぽした」 という具合に。この説明を聞いて、 まあ十分ではないにしても、 我々が何ら かの 「分かった」感じを持ったとする。さて、 この前後では我々の頭の中で は何がどう変わったのだろう。 「分かる」前は、 「*Ox△□合」の語は我々の頭の中にあるどんな知識、 概念とも結び付きが無かった。ところが説明された後では、 その言葉と我々 が以前に持っていた色々な知識断片との間に結び付きが生じている。我々は、 「西暦」「6 世紀」「インド」「思想家」「人名」「言語学」「哲学」「思想史」「影 ‘. 響」などの語に対応する観念を、 不完全でポ ノヤリしてるとはいえ、 既に持 っている。それは、 心の中に貯えられていた概念、 観念、 知識の単位デ ー タ • プロックと思っていただいても良い。友人が説明してくれる前は、 それら のプロックと 「*Ox△□森」との間には、 何の連結の糸も無かったが、 友 人の説明によって初めて連結の糸が付けられたことになる。このような糸を 引けるか否かが 「分かる」「分からない」を決定する。「*Ox△□合」とい う言葉が全く分からなかった時は、 それが自分の持っているどの知識の断片 とも、 どのようにしても結び付けることができない状態であった。友の説明 などによって、 何かの結び付きができて「分かった」という感じに至る。 「西暦」「イソド」「思想家」などの言葉を我々は既に知っていて分かって いたと言ったが、 それは 一体どういうことか。比喩的な視覚イメ ー ジで考え - 122 -. (87).

(4) 「分かる」ということ. 清島. てみよう。 それらを精神世界の中の積み木プロックか、 泥団子の塊のような もの、 あるいは毛糸の塊のようなもの、 何でも良いから一 つの塊としてみる。 「西暦」などの名前が付いた塊である。 それらは我々の心の内にあるが、 現 実の外界の積み木や泥団子と違って固くなくて柔らかく、 塊自身の形や領域 も安定せず、 雲みたいなものである。 それを、 知識、 概念、 観念の構成単位 と考えてみる。「西暦」のレッテルを持つ知識プロックが既知のものである ということは、 それが既にある他とプロックと様々な連結の糸を持っている ことに他ならない。 「西暦」プロックは「時間」 「. 一. 年」「キリスト」「ヨ ー ロ. ッパ」 など無数の知識プロックと結び付いていて、 その結び付き先の「時間」 なども更に別のプロックと結び付いている。 この知識プロックどうしの結び 付きは、 殆ど止まる所が無く、 何処までも続きそうだ。 これが 「知っている」 ことである。. 一. 般的な言い方をすると、 我々が持っている知識、 概念、 観念. の構成単位はお互いに緻密な相互連結の網目を作っており、 その繋がりの関 連網の内にあるものに対して我々は 「知ってる」「分かってる」とレッテル を貼る。 新しく出会った言葉が分からないとは、 それが、 既に自分の内に持ってい る知識デ ー タ網のどの部分とも結び付けようが無い状態のことである。 どっ かの部分との結び付きが見つかれば、 少しは 「分かった」感じになる。 現に、 「*Ox△□森」が 「人名」であると説明されただけでも、 かなり不十分だ が、 ちょっとは「ああ、 そうか」と思ってしまう。 手持ちの 「人名」と言う 知識デ ー タとの間に、 たった 一本ではあるが、 糸が引かれたからである。 当 然、 このような連結の糸が沢山あればあるほど 「理解の感じ」は深まる。 「* ‘. Ox△□合」にしても、 「イ ノド」「思想史」などに更に結び付く知識プロッ クである「スポ ー タ」「ナ ー ゲ ー シャ」「ラグマソジュ ー シャ ー 」等々のもの を自らの知識網の内に持っている人は、 そうでない人よりも深い納得感を持 つことになる。 精神の内にある知識、 概念の間の網目の緻密さが 「分かる」 感じの度合の深さを決めている。 (88). - 121 -.

(5) 文学・芸術 ・ 文化 1 0巻1号(通巻第24号) 1998. 12. 又、 これまで「イソド」と「言語学」という知識プロックは持っていたが、 自分の精神の中で両者の結び付きが無かった人にとっては、 あの説明の後に は、 それらの既存知識間に新たな連結の糸が引かれたことになる。 これも、 ある種の「理解」の感じの深まりをもたらす。 網目の内にある別々で関係な かった結び目が、 新たに持ってきた結び目によって繋がったわけである。 既 に持っていたバラバラだった積み木の二つの断片が新しい積み木の断片と組 み合わせることによって、 新たな一 つのまとまった形を作り上げたという比 喩も可能だ。 それは、 知識デ ー タの網目の緻密化、 強化に他ならない。 まとめてみよう。 新しい知識の獲得とは、 自分が既に持っている知識デ ー タの網目の内に、 外の新しいデ ー タを結び付けて取り入れてしまう作業であ る。 友の説明の前には、「*Ox△□唸」は、 我々の持ってる知識デ ー タ網 の外に、 何の関係も付けようも無く独立してあった。 これが「分からない」 「未知」の状態。 説明の後には、 それは我々の知識網と結び付けられて、 そ の網目の内に組み込まれた。 これが「分かった」状態。 そして、 こちらの知 識デ ー タ網全体は拡大して、 より緻密になった。 概念、 観念、 知識の断片の 関連網が大きくなり、 より複雑になることは、 我々の持つ精神空間の拡張で ある。 それは、 情報空間の強化、 増殖と言ってもよい。 これは、 知らなかった言葉が分かる場合だけでなく、 未知のものが既知に なる場合の多くに当てはまる。「この鞄は何処で手に入るの?」という疑問 に対して、 友が「それは大阪の難波の歌舞伎座の向かいにある清島屋だよ」 と教えてくれたとする。 疑問を持っていた人にとって、「目の前の鞄」は、 自分が直接、 間接に知っているどの店屋の知識とも結び付かなかった。 友の 話の後で、 自分の頭の中にある「大阪」「難波」「歌舞伎座」「向い側」、 更に 想像で形成された「見たことも無い清島屋と称するらしい店屋」などの知識 プロックと「鞄」を結び付けることが出来たのである。 そこで、「うん、 そ うか」という感じになる。 又、 古代人が発したであろう「この変なもの食え るのかな?」という疑問に対して、 何処かの老いた賢者が「うん、 食える」 - 120 -. (89).

(6) 「分かる」ということ 清島 と答え、 疑問を持ってた連中が 「そうなのか」と思った場合も、 起こってい ることの構造は同じである。賢者の言葉の後に 「そうか」と感じるにせよ、 それに従い実際に食べてみて本当に納得するにせよ、 起こっていることは、 目の前にある未知の物体と既に持っている 「食える」という思いの連結が出 来ただけである。或は、 山を歩いていたら空に訳の分からない巨大な皿のよ うなものが見えた場合。それが自分の持ってるどの知識断片とも結び付かな い時は、 「よく分からない不思議な現象」 とするか、 「目の錯覚だったかもし れない」となる。後に、 それは「車のヘッドライトがその時の大気の状態で 反射されたものだ」 と言う説明を聞き、 「そうだったのか」と思うような場 合も、 これまで述ぺたものと同じである。実際に目にした丸い皿形の光が、 自分の頭の中にあるいかなるデ ー タとも結び付かない時は 「不可解で、 未知 のもの」となり、 何かのきっかけで結び付きが (この場合は 「車」 「ライト」 「大気」「反射」 などの概念との結び付きが)見つかった時は 「分かった」 になる。 さて、 新しく出会った事物を既に自分が持っている知識の網目に結び付け 組み入れるのが「分かる」ことであるので、 その結び付けがどうしてもでき ない場合は 「何をやっても分からない」ことになる。 タイムマシンで徳川家 康の時代に飛んだ場面を想像していただきたい。家康にテレビとは何かを分 からせることが出来るだろうか。これはかなり難しい。家康の頭の中にある 知識網には 「電気」「電波」「ビデオ」「マイク」「ニュ ー ス」「ワイドショ などの概念は全くない。そこで、 新旧デ. ー. ー. 」. タ連結の糸の引きようが無いので. ある。だから、 どう努力しても、 我々が普通に分かっているような感じで家 康にテレピを分からせることは殆ど不可能に近いと思われる。「遠くが見え る魔法の箱」のような比喩を使えば何とかなるかもしれないが、 その時の「分 かり」方は我々のものとはかなりずれているに違いない。あるいは、 家康を 現代に連れてきてテレビを見せても、 初めは理解できず、 「不可解なもの」 と思うだろう。目の前で、 実際にスイッチの入ってるテレビを見ても、 それ (90). - 1 19 -.

(7) 文学・芸術・ 文化. 10巻1号(通巻第24号) 1998. 12. は、 彼の頭の中の知識デ ー タ網のどの部分とも結び付きようが無いからであ る。無論、 家康が現代社会でしばらく生活して、 彼の知識の網目を拡大させ た後は、 テレビは不可解でなくなる。連結の糸引きが可能になり、 それが彼 自身の知識網の中に組み入れられるからである。 家康の話は、 我々素人が贔子力学の世界を分からない ことと同じである。 ‘. 素人の頭の知識網の中には、 「ジュレディソガ ー の波動方程式」「ハイゼ ノベ ]レクの量子行列力学」 「ファイソマンの経路積分」などのデ ー タ断片はない。 そして、 それらが無い限り、 量子世界の一 現象と自分の知識網との間にいか なる連結の糸も引き得ない。どうやっても、 理解不能である。せいぜい出来 るのは、 家康にテレビを 「魔法の箱」と説明したような比喩を使うだけであ る。 しかし、 比喩による分かり方は、 家康の例からも想像付くと思うが、 か なり歪んだものとなってしまうだろう。ちゃんと分かるためには、 家康が現 代社会で長く暮らす必要があったように、 我々素人も 「シュ レディソガ ー の 波動方程式」などの世界に長く暮らさなければならない。 これは何も自然科 学の最先端の事柄に関してばかりのことでもない。 日常の生活の中でも同じ ような例が幾らでもある。自分と全く違う文化伝統の中に育った人の言動を 「変だ」「不可解だ」 と思う場合。自分が考えたことも無いような話を聞い て 「分からない」「難しい」と思う場合などである。一般的に表現すれば、 Aと言う事物を自分の持ってる知識網に結び付ける ことができなくて、 (新 デ ー タAを自分の頭の中の既存デ ー タ網と関連付けできなくて、 ) 「Aは分か らない」 と感じる場合である。分かるか分からないかは、 その人の知識網、 概念網、 観念網の状態によって決まるわけである。つまり、 人は、 自分の器 以上のものは分からないとも言い得る。. 【新しい理論の発見】 自然科学の世界での発見、 つまり 「分かった!」例から始めよう。ニュ ー トンが万有引力の法則を見つける前と後で、 彼の頭の中ではどんな変化があ - 118 -. (91).

(8) 「分かる」ということ 清島 ったのか。 まず、彼の知識量には変化が殆ど無かったはずだ。 諸天体の運動 に関する膨大なデ ー タ、先人達がそれらに与えた様々な解釈、 身の回りで現 実に目にする様々な運動などに関する知識の星は、引力法則の発見前後では、 何も変わっていない。 変わったのは、 それらの知識断片の組み合わせ方であ る。 以前には、太陽の動きと林檎の落下は何の関係もなかったが、その法則 の発見の後は両者が結び付いた。 それまでは互いに大した関連も無かった諸 天体の動き、 弓矢が飛ぶ様子、坂を転がる石ころの動き、人の体の重さ、等 々に関する知識が全て結び付いてしまった。 彼がやったのは、 物の動きにつ いてのバラバラだったデ ー タ群を統合するための新しいモデルを構築したこ とである。 そのモデルとは、 現実世界の様々な運動に対応する模型であり、 色々な役に立つものである。 ただ単に手持ちの知識材料を関連付け統合する だけなら、 我々は幾らでも勝手なモデルを作り得る。 例えば、「全てのもの には見えない妖精が付いていて、 その妖精がものを押したり弓lいたりするの が運動である」というモデルも可能だ。 この妖精モデルは我々が出会うあら ゆる運動、動きを完璧に統 一 的に説明するし、既存知識とのいかなる矛盾も 無い。 既に持っている知識デ ー タ群を統合する、 論理的に矛盾が無いと言う 点では、ニ ュ ートンの引カモデルも我々の妖精モデルも差が無く同格である。 ただし役立ち度合が違う。 大砲の弾の落ちる所、 今から三ヶ月後の天体Xの 位置、塔の上から落とした石ころが地上にあたるまでの時間などを、 妖精モ デルでは予測できないが、 ニ ュ ー トンのそれは出来る。 このように役立ち度 合が余りにも違う。 更に、 投げた石がどうして放物線の形になるのか、 惑星 の軌道がどうして楕円に近いのか、などの出来事をもニュ ー トソのモデルの ほうが遥かにすっきりと説明する。 単に、数学的処理を使い機械的に導き出 せる。 このようなことは、妖精モデルにはできない。 人の精神空間の中に知識、 概念、 観念などと呼ばれるデ ー タの断片が、相 互連絡の網目を成して存在する。 このデ ー タ断片の関連網の結び付き方を劇 的に変え、統合度を飛躍的に増すようなモデルを作ることが「新理論の発見」 (92). - 1 17 -.

(9) 文学 ・ 芸術 ・ 文化. 1 0巻 1 号 (通巻第24号). 1 998. 1 2. である。 それは、 林檎と太陽のように何の関係も無く遠く離れていたデ ー タ をも結び付けてしまう。 これはデ ー タ網の緻密化に他ならない。 更に、 その ようなモデルによって、 これまでは知られていなかった事柄、 例えば太陽系 の外側の惑星の存在なども分かる。 これはデ ー タ網の拡張化である。 以上の ことは自然科学以外の領域のものにも、 多かれ少なかれ、 当てはまる。 ある老人 が 「近 ごろの若者のやる ことは分からない」と不思議がる場合。 単に「そんな ことするな」という非難の意味の場合もあるが、 ただ単純に「分 からない」 と感 じ る場合は 、 「若者の心理、 行動」についての適 当なモデル を心の内に持ってないからである。 せいぜい、 老 人 が持っているのは、 六十 年前の古びた若者モデルである。 その老人は、 今の若者がする様々な言動を、 実際に自分で見聞きしたり、 テレビや新聞で十分に見て知っている。 但し、 それらの知識は、 老 人の精神空間の中では、 大した連関も無く、 単にバ ラ バ ラ のデ ー タ断片として散在している。 それらのデ ー タ群を材料として形成さ れた 「若者モデル」は、 老 人の心の内には無い。 さて、 その老人が、 テレビ で、 有名な若者文化研究の学者が話す ことを聞いていて、 突然に「ああ、 そ うなのか、 うまい説明だ。 目か ら鱗が落ちた。 だから、 あんな馬鹿な ことを するのか」 と感 じ たとしよう。 その学者が言った ことはどうでも良い。 何か 新しい妙な カ タ カ ナ言葉や新概念を持ち出し、 器用に現代の若者の ことを説 明したとする。 それでともかく、 老人が腑に落ちた感覚を持った。 老人の心 の内には、 その学者が使った新造語や新概念を手助けとして、 特定の 「現代 の若者モデル」 が出来上がったわけである。 それによって、 彼の持っていた 若者の言動に関 するバ ラ バ ラ のデ ー タが統合される ことになった。 たとえ、 若者の言動に対して 「愚かな」「馬鹿な」と言う非難の思いを持っていたと しても、 少なくとも、 すっきりした理解には至ったわけである。 回転の早い 老 人なら、 それで、 若者の反応も予測がつくようになるに違いない。 世間にある「 ノ ウ ハ ウ 本」「何とか早分かり」の類は、 この老 人が持つに 至ったようなモデルを手軽に提供してくれる。 『時代を読み説く』 『哲学が三 - 1 16 -. (93 ).

(10) 「分かる」 ということ 清島 日 で分か る 』 『猿でも分か る コ ソ ピュ ー タ』 『宗教早分かり』 『生き方読本』 『理 想の上司』 などのような題名の書籍や記事は至 る 所にあ る 。 それらは次のよ うな人々に、 各人が求めてい る モデルを、 出来合いの既成服ではあ る が、 与 えてくれ る 。 現代世界の様々な事件についての知識はあ る が、 それらはバラ バラのままで、 まとま っ た世界像の姿が見えなくて不安な人。 哲学というと 何かす ごそうな感じだが、 自分で何年も勉強して哲学史の有 り 様を把握 す る のは面倒くさい人。 コソピュ ー タに関す る 言葉が殆ど分からないものだらけ で、 いったい何なのかイ メ ー ジできない人 。 簡便な宗教の知識模型を持ちた い人。 生き る 意味と目的の設定 を自分だけでできない人。 誰からも好まれ頼 りにされる 上司になりたいのだが、 どうすれば良いか分からない人。 これら の本が提供してくれ る のは、 全て何らかのモデルであ る 。 自分だけで心の内 に理想のモデルを 作 る ことができない人に、 それ を作 る 手助け をしてくれた り、 出来合いのモデルのサ ‘ノ プルを幾つか提供してくれ る のであ る 。 どうも、 我々は自分の見聞きした情報断片を、 そのままバラ バ ラにしてお くと落ち着かなく、 何かそれら を統合す る ようなモデルが手 に 入 る と安心す る ようであ る 。 普通に生活してい る と様々な新情報が頭に飛び込んでく る 。 新しく出来た製品、 政治、 経済、 犯罪、 紛争などの社会的事件の伝聞、 流行 現象などについての新たなデ ー タは、 何もしなくても、 頭の中で増えて行く。 それらに対して、 何らかの整理用のモデル、 処理用のモデルを 持っていない と人はしばしば不安にな る 。 そして 「近 ごろのものは、 どう も 分からない」 とな る 。 分からなくても大した実害はないので、 別に気にしなければ何とも ないが、. 一. 度気にしだすと、 それらの情報断片 を関係付け る 便利なモデルを. 持ちたくな る 。 自分でそれを 作 る のは大変だ。 この手助けを す る のが、 学者 や評論家や宗教家などであ る 。 世で華々しく活躍してい る 識者達は、 しばし ば、 新しい言葉や概念を自説のトレードマ ークとして掲げて登場す る 。 その 新語や新概念によって、 諸デ ー タ を 統一し得 る 簡単な新モデルを人々に提供 してくれ る 。 大概、 「古いaモデルではもう駄目だ。 新しいX概念を使い、 B (94 ). - 115 -.

(11) 文学・ 芸術 ・ 文 化 10巻1号 ( 通巻第24号) 1998. 12. モデルを作って 見 て みれば、 こ れ ら の正体、 構造は 明 ら かにな る 」 と いう話 し 方であ る 。 宗教家な ら 、 「世界の全ての事象はO と X の力の拮抗であり、 我々が す る 全ての行動は 、 こ の宇宙的〇、. X. の勢力に影響を与え る 」な ど と. いう宇宙モデルを出 し たりもす る 。 我々は、 それ ら のモデル に 飛び付き、 「分 かった」惑 じ に なり安心 し 、 得意になったりもす る 。 こ れ は、 一見する と 安 直な感じだが、 別 に 悪い こ と でも何でもない。 と もか く 、 我々は自分の 中 に 溜 ま った知識デ ー タ を整理統合す る ため に 何 ら かのモデ ルを必要 と し て い る 、 そ し て需要 に 答え る 専門家がい る 、 と いう事実があ る だけだ。 無論、 か なり安直 に 作 ら れたモデルもあ る し 、 用 意周 到 に つ く ら れ たモデルもあ る 。 ど れ が 良いモデルかは、 それがどれだけの人に と って、 ど れほ ど役に立つか によって決ま る 。 と 言っても、時代の 多 数 に 受け る のは 、 多 く の人の知識デ ー 夕 網 に し っ く り結び付き易いもの と な る のは当然であ る 。 そ こ で、 最大公約 数的な性格を持った比較的お手軽なもの になりがちだろう。. 【他者の心が分か る こ と 】 分か ら なかった人の気持ちが分か る こ と も、 「新理論の発見」 と 同 じ よう な構造を持ってい る 。 他者の心の内を何 ら かの感官を使って直接に把握 す る こ と はできない。 全 て は推測であ る 。 私 が ビ ー ルを ー ロ 飲んで 「 ま ずい ! 」 と 口 に し た時、 私の身体が感 じ てい る こ と を直接に 知 る こ と は誰 に もできな い。 私だけがそれを直接に捉え得 る 。 例えば、 私の親友であ る A 君に出来 る のは、 私の外観の諸状態を見て 、 A 君自身の過去の経験 と 照 ら し合わ せ て、 推量す る だけであ る 。 仮に、 その時、 A 君 が 「えっ、 どう し たのかな ? 」 と いう不可解さを持った と しよう。 そ し て 、 私 と しば ら く 話した後に 「何だそ うだったのか。 分かったよ」 と 腑に落ちた と す る 。 こ の時、 A 君の頭の中で 起 こ った こ と は、 初めは作 る こ と ができなかった 「清 島の心の状態のモデル」 が、 話の後には何 と か出来あがった と いうだけであ る 。 A 君は清 島 と 付き合いが長いので、 頭の中には 清 島 に 関 す る 膨大なデ ー タ - 11 4 -. ( 95 ).

(12) 「分かる」 という こと 清島 群があり、 それらは相互連関の網目を持って存在 し ている。新たに清島が何 かした時、 A君が直接手にする新デ ー タは、 その時の清島の顔面や手足の動 き、 声の調子、 辺りの状況などについてである。既に持っている古いデ ー タ 群とその新 しいものとを合わせて、 積み木遊びでもやる調子で、 適切な心理 モデル をA君自身の心の中に作る作業が、 「清 島の気持ちが分かる」 ことで ある。他者の心の推贔とは、 このようなモデル形成に他ならない。さて、 先 程のビ ー ルの出来事だが、 A君の頭の中に既にある清 島関連のデ ー タには、 「酒好き」 「ビ ー ルも好き」「いつでも飲んでる」 「ア ル コ ー )レなら何でも可」 などがあり、 清島が目の前で飲んでいる ビ ー ルについても 「X社の製品」「常 に良い品質」などのものがある。これらの既知のデー タ群と、 今目の前で「ま ずい ! 」 とうなった清島の外見などから得られる新デ ー タ群とを組み合わせ ても、 一つのすっきりした心理モデルを作り得なかったので、 A君は清 島の 気持ちが 「分からない」 と感じた。新旧 デ ー タ群の間に適 当 な繋 ぎ合わせ方 を見つけることができない状態である。それが、 その後の談話によって可能 になった時に 「ああ、 そうだったのか」となる。話の内 容は、 例えば、 「昨 日 から身体 を 壊 し ていて何 を 口 に入れても味が変だ」 とか、 「目には見えに くいが、 コ ッ プの縁に変なものが付いてる」でもよい。その新情報によって すべてのデー タが結び付き、 適当なモデル を作ることが可能になったわけだ。 まとめとして繰り返そう。A君が清 島の気持ち を 「分かる」あるいは 「分 からない」という場合、A君が既に持っている清 島関連の知識断片網が旧 デー タで、 今目の前で何かやった清島の外見から得られる情報が新デ ー タである。 A君は清島の心を 直接覗くことは出来ないので、 新 旧 デ ー タ を材料に し て、 自分の心の中に 「清 島の心の状態の模型」つくる し か理解の しようがない。 それが上手く行けば 「分かり」、 そうでなければ 「分からない」ことになる。 これは、 相手が清 島ではなく、 犬でも、 魚でも、 異星人でも、 同じである。 こ れまでの説明の中に出てきた 「新旧デ ー タの連結をつけること」と 「相手 の言動に対応する心理モデル を作ること」 と 「相手の気持ちが分かること」 ( 96 ). - 113 -.

(13) 文学・芸術 ・ 文 化. 1 0巻 l 号 ( 通巻第24号) 1998. 12. とは殆 ど 同 じ ことである。それは、 同じことを別側面から別の言葉で説明し てるに過ぎない。. 【心の中のモデル】 心の中にモデルを作ることが出来るか否かが、 「分かる」「分からない」を 決めている。新しい言葉を知った時でも、 単にそれが自分の知識デ ー タ網に 組み入れられただけの場合 よ りも、 その言葉に対応するイ メ ー ジを思い浮か べることが出来た時のほうが、 よ り納得感は深い。又 、 羅子 力学の世界はそ の道の専門家達も、 しばしば、 「理解しに く い」「解釈しに く い」と 口 にする が、 これは、 量子の世界の視覚的イ メ ー ジ、 つ ま りモデルを作ることが難し いからである。これに対して、 太陽系の縮小版の よ うな古い原子モデル (球 状の原子核の周りを電子の粒が回っているやつ) は、 誰でも簡単にイ メ. ー. ジ. できて「分かる」感じがする。他人が怪我をした時も、 自分の過去の似た よ うな怪我の経験を生き生きとイ メ. ー. ジできれば、 相手の痛さが よ り よ く 「分. かる」はずだ。 心の内にモデルを作ることは、 それに対応する外界の事物を処理、 説明す るためだが、 くモデル. 外界の事物〉 の対応関係はイ コ ールではな く 、. 対応それ自体も怪しいことがある。「太陽系型原子モデル」にしても、 電 子 は砂粒を小さ く した よ うな塊でもないし、 砂粒が飛ぶ よ うな回り方をするわ けでもない。あえて言えば、 砂粒を極度 に 小さ く した電子イ メ. ー. ジ に等しい. 物は原子内に存在しない。他人の心や気持ちと言っても、 直 接 に 把握できな いものだから、 その存在性は、 目の前の机な どの存在性とは少し違う。実は、 モデルに対応するとみなされる事物が、 「本当に存在するのか」 「そのモデル に近い姿で存在するのか」ということは大した問題ではない。重要なのは、 色々な現象 の説明に役立つか ( = 我々の持つ知識デ ー タ群の整 理 に役立つ か) 、 新しい発見に役立つか、 日常生活が便利になるか、 な どの点だけである。 心の中のモデル、 イ メ ー ジ、 像が物理的 に どんなものかは未だ分からない。 - 11 2 -. (97 ).

(14) 「分かる」 と い う こ と. 清島. それが作られた時、 脳のニ ュ ー ロソがどのように変容 し 、 どんな化学物質が 関 係 し 、 どんな物理現象が起こっているか、 などは未だ不明なので、 ここで は触れないことにする。 これまで使ってきた比喩を用いるな らば、 それは、 知識プロッ ク を使った積み木細工、 或は、 知識断片を繋 ぐ 網 目 模様の特定パ タ ーンのようなものである。 目 が見える人なら、 モデルは視覚的光景となる。 聴覚を中心に生きてる人なら、 恐らく、 音的風景になろう。 他の感官を中心 に し て生きてる人にとっては、 それぞれの得意の感官風景となるはずだ。 こ のモデルを作る作業は、 時によって、 推測、 空想、 推量、 思考などと呼ばれる。 モデル作りを人は無意識の内にやっている。 例えば、 新しい 土地に引っ越 し た際、 新たな自宅から近くの駅までの道筋のイ メ. ー. ジが出来上がる場合。. 一. 初めは幾つかの通り道をいろいろ試みるが、 次第に つか二つの経路に定ま ってくる。 その頃には、 頭の中に、 試 し に通ってみた多くの道と、 最終的に 選ぶようになった道との三次元的モデルが出来あがっている。 そのモデルを 構成 し てるものを見てみよう。 その各部分は、 実際に自分で歩いて見た光景 の断片 、 恥に入ってきた匂 いの切れ端、 耳に聞こえてきた音の断片などから 成っている。 五感から入ってきた断片的情報の記憶を部品に し て、 適 当 な変 形を加えながら、 プ ラ モデ ルを作るように し て形成されたものが 「頭の中の 地図」「駅から家までの道のモデル」 である。 その時に使われる部品の質や 性格、 その部品から出来るモデルの質は五感の機能に関 係する。 視覚が中心 的な場合は部品も視覚記憶断片が多くなり、 出来上がるモデルも視覚的もの になる。 目 が見える人の頭の中にある 「Aから B までの道筋」がそれである。 目 が見えない人の 「道筋」は、 身体の運動反応感覚(五十歩動いたら道が低 くなる、 そこで右に 曲がり し ばらく歩くと道が凸凹になる等々) 、 音 、 匂い などの記憶断片から作られたものとなろう。 道順モデルだけでなく、 同 じよ うに無意識の内に作られた様々なモデルを人は頭の中に持っている。 自分の 部屋の家具の配置のイ メ ー ジ、 十年前別れた知人の顔、 自分自身の顔や身体、 などなど。 (98). - Ill -.

(15) 文学 ・ 芸術 ・ 文化. 10 巻 1 号(通巻第24号). 1998. 12. さて、 モデルの部品 (情報断片 ) を集める のに必要なものは、 自立的な運 動能 力と感覚能力であ る 。 (たとえ、 手足が動かなくて瞬きしかできないく らいでも、 それは立派な運動能 力であ る 。 目、 耳、 鼻、 舌、 皮府の感覚が働 かなくてプルプルす る 振動だけが分かる としても、 それは惑覚能力と言い得 る ) そして、 この二つの能 力が一 つの情報処理器官 (脳など ) によって連結 してい る 必要があ る 。 これだけのものが揃えば、 それを使って外界の情報断 片を集めて記憶デ ー タを膨らませて行き、 その貯えたものを使って特定の事 物のモデルを自らの手で作 る ことが出来 る 。 多くの場合、 これは無意識に行 われ る 。 赤ん坊がポ ー ルをつかめる ようにな る こと、 物陰に隠れたポ ールと 出てきたそれを同一 視す る ようにな る こと、 机を避けて動け る ようにな る こ となどは、 このモデル形成の良い例であ る 。 動くことと、 感じ る ことと、 脳 の処理によって、 赤ん坊は我々大人が持ってい る ような世界のモデルを自ら の心の内に作って行く。 そのような心的モデル形成の過程が、 成長と呼ばれ てい る ものであ る 。 大人が、 経験を積んで賢くな る というのも、 基本的に同 じであ る。 ところで、「分か る 」 ことが 「心の中のモデル形成」 に結び付いていて、 そのモデルの構成要素とな る 情報断片を集める には、 運動能 力と感覚能 力が 必要であ る 、 ということから面白いことが分か る 。 機械の 「理解」の問題で あ る 。 現在では、 人と手紙のやり取りで会話をしたり、 俳句や詩を作 る コ ソ ピュ ー タ. ・. プ ロ グラムが幾らもあ る 。 高性能のものだと手紙の相手が人間か. 機械かほとんど区別できないこともあ る 。 これは別に特殊な機械を必要とし ない。 その辺で売って る パ ソ コ ソと プ ロ グラム言語で、 時間さえかければ、 誰でも作り得 る 。 よく出来た プ ロ グラムなら、 コ ソピ ュ ー タ. ・. ネ ッ ト上でお. 喋りをしていて、 まず誰にも怪しまれないはずだ。 さて、 このような会話プ ロ グラ ム 、 文章製作プログラムが極度に高度になった場合を想像してみよう。 但し、 機械は、 キ ー ポ ー ドとデ ィ ス プ レ ー を備えた現在のパ ソ コソが高性能 になったものとす る 。 そのような プログラムの一 つに 「清 島型文章製作プロ - 110 -. ( 99 ).

(16) 「分か る 」 と い う こ と. 清島. グ ラ ム (以下 KH と呼 ぶ ) 」があ っ たとす る 。 これは、 清 島の語 り 癖をすべ て 持 っ ていて、 清島以上の語彙と知識があ り 、 清 島がよく使 う 言葉の リ ス ト も完璧に持 っ てい る 。 KH は会話も 出 来 る し文も書ける 。 学生がネ ッ ト で質 問す る と、 KH は清島と同じよ う に答 え る 。 文章を書かせても、 清島と同じ よ う な文を書く。 あ る いは、 清 島の癖を残 し ながら、 よ り 善い文を作 る かも し れ ない。 清 島が実際には 書かなか っ たテ ー マについても、 も し書いていれ ばこ う な っ たと言 う よ う な論文も KH は 作 る 。 さて、 その KH が、 今あなた が 目 の前に見てい る この文と全く同じものを作 っ たとする 。 さて、ど う な るか。 今これを書いてい る 清 島は、 あ る 種の納得感や理解感を持ち、 「分か り 」 ながら書いてい る が、 KH は何の納得感も理解感も持 っ て おらず、 何も 「分 か っ ていない」。 ど う し て、 そん な ことが言 い 得 る のか。 清島と KH は 全く 同じ文字列を作 っ たのに、 一方は理解 し ていて他方は理解 し てい ないとは。 この差は何に由来す る のかとい う と、 内的 モデ ルを持 っ てい る か、 持 っ てい ないかの点であ る 。 清 島は、 心の中で様々な モデル、 イメ ー ジをこねまわ し て、 それに対応 し た文字列をここに書き出 し てい る 。 KH の内側にはそのよ う な モデル、 イメ ー ジは何も無いと推測でき る 。 KH には、 残念ながら、 自 立的運動能 力 や感覚能 力が無い。 この二つが無ければ、 心に う ちに作 る モデ ルの組み立て材料が集められ ないはずだ。 人の赤ん坊は動きまわ っ て痛い思 いを し ながら、 外 界のモデルとな る 材料デ ー タ を集め る が、 KH にはそれが 出来ない。 彼が持 っ てい る のは、 そのよ う な材料の名札だけで、 材料そのも のは持 っ ていない。 そこで、 KH は自らの内にモデル、 イメ ー ジを作 り よ う が無い。 「私が今 住 ん で る 家の周囲」とい う 文字列に対 し て、 清 島は自分の 身体で得た情報断片を繋 ぎ合わせて視覚モデルを作 る こ とが出来 る が、 その よ う な材料とな る 部品を持ち合ゎ せていない KH は、同じ文字列は作 れ る が、 その視覚モデルを作 り 上げ る ことは出来ない。 し か し、 将来、 KH 2 ができ て、 それがセンサ ー と運動機関とを持ち、 その両者を統合す る 情報処理中枢 を持つことに な っ たら、 話は違 っ てく る 。 KH 2 は 一人で歩きまわ っ て情報 ( 1 00). - 1 09 -.

(17) 文学 ・ 芸術 ・ 文化 1 0巻 1 号 (通巻第24号). 1 998 . 1 2. 断片を集め、 その整 理のため に 何らかの内的モデルを持つ よ うになるかもし れな い。 その時は、 KH Z も「分かる」 感じを持つはずだ。 ちなみ に 、 映画 「200 1 年宇宙の旅」 に 出てくる コ ン ピ ュ ー タ HAL は、 ものを「分かる」 は ずである。 それは、 方向を変えたり瞬きできる 目 ( カ メ ラの よ うなもの) を ‘. 持 っ ているし、 宇宙船内のあち こ ち に 色々なセ ノサ ー を持 っ ている。 人間の ものとはかなり違うが、 自立的感覚能 力と運動能 力を持っ ているので、 自分 で情報を集め得る。 従 っ て、 独 自の内的モデル、 イ メ ー ジを持つ可能性があ る。 こ れ に対して、 現在ある巡航 ミ サイ ルは、 目 的地に行くまでの「地図」 という 一 見すると「内的モデル」「道順モデル」 の よ うなものを持 っ ている が、 それは ミ サイ ル 自身が情報収集の末 に作り 出したものではない。 しかも、 その「地図」 は、 人が頭の中 に持つものと違 っ て、 変え よ うが無い。 そ こ で、 巡航 ミ サイ ルも「分かる」感じを持つことはないと想像できる。. 【思索】. 最初 に 述 べた こ と に 戻ろう。 人生の意味を探るため に 面壁十年の瞑想をし た後、 答えが分か っ た場合である。 さて、 「分か っ てどうなる」 かと言えば、 別 にどうなるわけでもない。 新しい知識が増えてるわけでもないし、 世の人 々 の生 活が直 に 良くな っ たりするわけでもない。 当人の心の不安定な状態、 何かを渇望する状態が解消しただけである。 それは単純な 自己満足 に 他な ら ない。 自然科学 に お ける よ うな新 理論を見つけたわけではないから、 その人 の悟りに よ っ て電気が付いたり宇宙船が飛ぶ よ う に なることも無い。 あくま で、 当人の心が す っ きりしただけである。 「その人は真 理 に 近づいた」と言 う者が居るかもしれないが、 そ の よ うな言い方は余り意味がない。 修行者が や っ ていたことは手持ちの知識プロックの こ ね 回しだけであり、 それは、 頭 の中の既存知識デ ー タ網、 概念網の組み替えである。 ある作業に よ っ て「真 理 」 に 近づく、 という発想そのものが何処かイ ソチ キ臭い。 そ んな徒競走の ゴー ルの よ うな「真 理 」は幻である。 - 1 08 -. (101).

(18) 「分かる」 ということ 清島 だからと言って、 思索や内省が虚しく無意味なのではない。 それを説明し よう。 悟りの前後で修行者の頭の中に起こったことは、 知識 デ ー タ断片網の 変化である。 それも、 未知の言葉が分かる場合のような変化ではなく、 もっ と劇的なものである。 恐らく、 殆どのデ ー タが何らかの形で結び付き合い、 その網 目 全体に密度の高い融合化が生じている。 我々一般人の頭の中では全 く離れ離れで無関係であるようなデ ー タ断片さえも、 その修行者の頭の中で は結び付いてしまっている可能性がある。 そのようなデ ー タ網の激しい再編 の結果として何が起こるのか。 彼は我々が見ているのと違った世界を見るこ とになる。 万有引力登場の前後のことを思い出して欲しい。 ニ ュ ート ソ 以前 の人にとって、 太陽の動きは天上界のもの、 林檎が落ちるのは地上界のこと であり、 それぞれ別の領域に属する無関係の現象であった。 ニ ュ ー ト ソ 以後 の人にとって、 それらは同じ力の現われ、 同じ世界の同じ運動現象にすぎな い。 見ている世界の姿が全く違うではないか。 どちらの人も太陽と林檎を目 にしている点では変わらないのに、 眼前には異なる世界が ひらけている。 そ れは、 両者の知識デー タ網を構成する個々の断片は変わらないが、 結び付き 方、 網 目 のパ タ ー ソが極端に違うからだ。 両者が持っている積み木の知識プ ロ ック断片は変わらないが、 それで作り上げた宇宙モデルが全く違う ものだ から、 と言ってもよい。 これと同じことが、 かの修行者と我々凡人と間に起 こっていてもおかしくない。 別に修行者の瞑想や悟りのような稀なものを持ち出さなくても、 日 常の思 索や内省でも未知の世界がひらけることがある。 思索の度合が深く、 自分の 持っている知識デ ー タ網、 そこに形成されているモデル群を大 幅に変えるよ うな場合は、 世界が違ってくる。 但し、 それはかなりエ ネ ル ギ ー を使い、 簡 単に出来るものではない。 と言うのは、 そのような改変は、 自分の基盤を成 していたものの 一 部を捨てる作業だからである。 例えば、 「部分は全体より 小さい (或は、 少ない)」という観念モデルを捨てるのは誰 でも抵抗がある だろう。 このモデルは人が成長する過程で ごく自然に形成されたもので、 日 ( 102). - 107 -.

(19) 文学 ・ 芸術 ・ 文化. 1 0 巻 1 号 (通巻第24号). 1 998. 1 2. 常世界の殆どの場面で有効であり、 普通に生活してる限り、 これが無効にな るこ と はまず無い。 しかし、 これを捨てるか、 その意味内容を大幅に変更し ない限り、 現れない世界もある。 無限集合論の世界がそれだが、 そこに入る には、 「部分は全体に等しい」 という新モデルを持たなくてはならない。 (こ の新モデルを構成する 「部分」「全体」「等しい」の語の内容も大幅に変化し ている。 ) あるいは、 「物体は同時に別の場所に存在することはない」 の観念 モデルも同 じ ように捨てにくい。 < 今、 清 島が東京にいるなら大阪にはいな い〉 ことは余りに 当たり前すぎて、 〈 清 島は東京と大阪に同時に存在してい た〉 などとは、 わずかな可能性としても思い浮かべることすらしないだろう。 しかし、 これを捨て 「一つの物が同時に複数の場所に存在し得る」と言うモ デルを持たない限り、 量子力学の世界はひらけてこない。 そして、 このよう に無限集合論や量子力学などの新世界がひらけた者にとっては、 更に日 常世 界の色合いも以前とは違ってくるかも知れない。 知識デ ー タ網の上に作られた様々な モデルを変えない内は、 世界に同 じ よ うなパ タ ー ソで反応し続ける。 無意識反応にしろ、 意識的反応にしろ。 例え ば、 人間の性格を叙述する「XYZ」 という言葉に対応して素晴らしく好まし いイ メ. ー. ジ、 内的モデルを持ってる人は、 他人がど ん な状況で 「君は XYZ. だね」と 口 にしても、 大抵、 喜んでしまう。 逆に、 自分の持ってる廉なイ メ ー ジに対応する 「ABC」• 音には、 自動的に、 不快感を持って反応してしまう。 いずれも、 機械のような ワソパ タ ー ン反応である。 そのような人が何かのき っかけで、 自分の持っているモ デルを逆転するに至ったとする。 今度は、 「ABC」の言葉に喜び、 「XYZ」 に腹を立てることになる。 更に又、 何かの きっかけで、 この二つの言葉は基本的には同 じものであるというモデルを持 つようになった場合は、 また以前とは違った反応をするようになる。 別の例。 万物の変化は光の闇のエ ネルギ ー の争いであるという宇宙モデルを持ってる 人は、 何に出会っても、 その見方で理解し、それに即した反応をする可能性 がある。 中東の紛争を聞いても、 隣の夫婦喧嘩を見ても、 我が子の不登校を - 1 06 -. ( 1 03).

(20) 「分かる」ということ 清島 見ても、 そのモデルの眼鏡を通して見、 そのモ デルのパ タ ー ンで反応する。 これらは何も極端な例ではない。 我々がしている行動の多くは同 じである。 「 ABC」 か 「 XYZ」の部分に「頭が良い」「足が長い」「顔の彫りが深い」な どの言葉を入れて、 場面を色々と想像してみればよい。 我々が普段やってる ことであろう。 「 光と闇のエ ネル ギ ー の対立」 の部分に 「階級闘争」「民主的 と非民主的」な どを代置しても、 それは分かる。 自分の持っているデ ー タ網や内的モデルを劇的に変える作業は、 自分を動 かしている基本 プ ログラムを変えることとも言い得る。 外界から身体に入っ てくるデ ー タを解釈したり、 それに反応することは、 その基本 プ ロ グラム群 によって行われる。 そのプ ログラムが変わらない内は、 ど のような新しいデ ー タが外界から入ってこようが、 結局、 人は同 じ ような解釈と反応を続ける。 ただし、 基本プ ログラムを変えるには膨大な労 力を必要とするし、 それは、 自 ら の肉を削り、 血を絞る以上に苦しく難しい。 そんな物好きなことを敢え てしなくても、 我々は普通にちゃんと生きていける。 時たま、 既に持ってい るモ デル群だけでは処理できないような事態に対することがある。 その時、 深い思索によって自らの基本プ ログラムの改変に成功した場合は、 同 じよう な厄 介が再び現れた時に前とは違ってよりスマ ー ト に反応する。 違う世界が ひらけたのである。 残念ながら、 我々の殆 どは、 そのような労 力の要る プ ロ グラム改変をできないので、 同 じような問題が現れた場合、 前と同 じ パ タ ー ‘ノの反応をして 同 じように悩む。 何時までも同 じ 世界の中で同 じように生き ているわけだ。 深い思索や内省によって 「分かった ! 」と感 じると、 その人にとって、 世 界が変わって行く。 新世界がひらけたり、 それらが融合して更なる新世界に なったりもする。 ただそれだけである。 そして、 恐らく、 それに ゴ ー ルや終 わりはない。. ( 104). - 10 5 -.

(21)

参照

関連したドキュメント

(自分で感じられ得る[もの])という用例は注目に値する(脚注 24 ).接頭辞の sam は「正しい」と

としても極少数である︒そしてこのような区分は困難で相対的かつ不明確な区分となりがちである︒したがってその

これからはしっかりかもうと 思います。かむことは、そこ まで大事じゃないと思って いたけど、毒消し効果があ

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から

・私は小さい頃は人見知りの激しい子どもでした。しかし、当時の担任の先生が遊びを

大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場

自分ではおかしいと思って も、「自分の体は汚れてい るのではないか」「ひどい ことを周りの人にしたので

では恥ずかしいよね ︒﹂と伝えました ︒そうする と彼も ﹁恥ずかしいです ︒﹂と言うのです