第一章
芸術の実験:映画、インターメディア、ビデオ
1-1-実験映画の歴史と概要
1-1-1. 「映像」という言語の語源および定義
「映像」という言葉にあたる仏語や英語の翻訳はないということを、記しておかな くてはならない。「映」は、動詞で「ウツル」と読むこともでき、光の反射や、光によって 現われるシルエットのことを指す。この言葉はまた、物の影のことを言うこともあり、 フィルムの投影の定義としてふさわしい。「像」はフォルムやシルエットのことを言い、ま た、表象、似せて作ったものという意味もある。「映」と併せて「映像」とすると、光学的 な意味合いを持ってくる。辞書によれば、光線の屈折や反射によってあらわれる物体 の像を指すという。「映像」はまた、想像の中に現われるイメージのことも言う。「画」 は、描かれたものという意味である。この漢字の起源は、一説によれば、田の上に筆 が置かれ、周りに枠を描いたものという。「映」と併せれば「映画」となり、英語 の“movie”のことである。飯村隆彦は、「映像」という用語の定義をこのように提案し ている。これは “image” という英語の翻訳であるが、“image”はむしろもっと広い意 味の「像」にあたり、「映像」の意味に限らない。「映像」は、「画像」、つまりスクリーンの 上に現われた “image” と関係があり、例えば「電子画像」と言うと、ビデオのモニターやコンピュータ画面の “image” のことである。 “Ima1gisme” という言葉は、詩においては、そのまま「イマジスム」と日本語に移 された。しかし、映画では文学に適した用語と別の名称を考える必要があり、雑誌『映 画批評』は、商業主義的劇映画ではなく、映像自体が真の主題であるフィルム、すな わち実験映画を『映像主義』と名付けた。 飯村隆彦を思い起させるイマジスムという言葉は、台本の映像化と対をなす表 現方法を形容するために用いられることもあった。それは例えば、日本の映画作家た ちが60年代の初めから熱狂的に支持していた、フランスのヌーベル・バーグのことで ある。当時は台本主義と映像主義との間の論争が話題となっていた。というのも、映 画は少しづつ「ユニバーサルな」表現方法としての性格を帯びるようになり、台本主義 から映像主義への移行を余儀なくされていた。言葉に基づいて念入りに仕上げられた 「スクリプト」のことはここでは問題にしない。重要なのは、言語や映像を利用するとき の形態よりは、むしろ感覚にあるからだ。 日本語だけが、文学においてはイマジスム、映画においては映像主義と区別し ていることに注目しよう。アメリカ人のポール・アダムス・シトニーが、「イマジスム」とい う言葉を使用した最初の人で、この言葉によってある種の映画を形容し、ついで構造 的映画と対比させて用いるようになったが、この用語を使っていたのは、ごくわずかな 人たちにすぎない。他には、誰もこうした用語を正確に使用することについて、あまり 深く考えなかったようだ。アメリカの実験映画には、その必要もなかった。というのも、 アメリカの実験映画はもともと映像(写真、ビデオ、さらにはグラフィックなど、視覚的 映像)の上に成り立っていたため、用語の定義や使用にまつわる困難を感じることもな かった。 映像主義という用語の特別な感覚を理解するためには、まず日本における映画 1飯村隆彦『『映像実験のために』、東京、青土社、1986、p.99
の発展の様子を検討しなければならない。西洋映画と日本映画の比較をあえてする なら、日本には無声映画の数が大変少なく、すぐにトーキー映画、つまり劇映画に向 かったことが挙げられるだろう。トーキーとは、台本を映像化することが主であり、その 早すぎる出現は、映画の映像が独自な発展をとげるのを妨げたのではないか。実 際、日本には、20年代、30年代に実験映画の盛り上がりはなかった。アバンギャルド映 画は50年代になってから、我々の研究対象となる作家たちの行動によって、やっと明 らかになった。したがって、映画の映像は戦後、特に60年代初め以降に再発見の対象 となったのだ。 220年代、30年代のヨーロッパのアバンギャルド映画は、写真集としてのみ、日 本に紹介されていた。もちろん、それは静止した映像でしかなかったわけだ。だから、 読者は想像力で断片から全体を作りなおさなければならなかった。しかしここで明ら かなのは、役者や台本が特別な存在理由を持ち得ない時には、それは映像が主役と なる世界であったということである。 そこで、映画の “image” の特別な立場を強調する必要が生じ、わざわざ「映 像」という名詞をつけ、一般的な “image” と区別した。この用語は少しづつ広がり、今 日では映画やテレビ、ビデオの映像だけでなく、そこから派生したそれに近い技術、 すなわちデジタル・イメージやデジタルやアナログの写真、ホログラフィーにも使われ ている。映像の発展と様々な専門分野での利用の拡大、つまりは普及によって、この 用語は映画の映像発見当初の感覚を失いつつあるようだ。マスメディアによってある 用語が様々に用いられている現象、それはまた、その用語の定着を証明することに他 ならないのだが、これについて深く考えるなら、まずその言葉の成立を取り上げなけ ればならない。「映像」という言葉は、今では関連メディア全体の発展にともなう一時 的な現象として使われることばかりが多くなり、 “image” に関わる意味を、おそらく失
2 Paul Adams Sitneyによると、Stan Brakhageの《Dog Star Man》(1961-1964)、Maya Deren の《A Study in
Choreography for the Camera》(1945)、Kenneth Angerの《Artificial Water》とCharles Boultenhouse の 《Handwritten》1959)は「imagisme」を代表するは4つの作品である。
いかけているのだ。 「像」という漢字が、形、影、表象、肖像という意味を表すことは、前にも見たとお りだが、「画」という漢字は、描かれたもの、色をつけられたものという意味を持ってい る。この字の起源は、枠の中の田んぼの上に筆を置き、境界線を引いた形である。 「映」の字と組み合わせると「映画」となり、“movie”の意味になる。飯村は後にこの言 葉を分析して、日本語では「映し出された絵」という表現(英語にすれば “reflected picture”) を選んだのに対して、英語では、 “picture movie” 、つまり「動く絵」という 言い方を選んでいることに注目している。日本語の「映画」は、動きではなく状態に重 きが置かれている。重要なのは、絵が光によって映し出された状態なのである。絵が 動いていようが止まっていようが、そんなことはどちらでもいい。絵の性質が能動的な のか受動的なのかという問いに対しては、飯村は、この状態を波に譬えてることがで きると言っている。波は能動性と受動性の組合せだからだ。アジアの影絵は有名であ る。中国語では、映画という言葉を、「電気の影絵」と翻訳している。日本語は手段を 無視し、状態の方に着目した。
1-1-2. 戦前の記録映画と前衛映画
映画は、1920年代からすでに芸術的実験の対象であった。溝口健二は、おそら くは当時のヨーロッパの前衛映画の影響を受け、1923年に《地と霊》を製作した。その 3年後には、衣笠貞之助が「日本の最初の実験映画の一つ」である《狂った一頁》を 作った。シナリオは川端康成による。また、衣笠は《十字路》で、ソビエト滞在中にエイ ゼンシュタインから教えを受けた分析的編集方法を実践している。上記の三作品は、 今日では古典3に数えられている。当 時はまだ「実験映画」の時代ではなく、「前衛4映 画」の時代であった。 1976年にライプチヒで開催された19回記録映画フェ5スティバルの際に、1929年 から31年の間に製作された日本映画が再6発見された。1928年3月には、<全日本無 産者芸術同盟>(略称<ナップ>)が結成された。<ナップ映7画部>から、1929年に <日本プロレタリア映画同盟>(略称<プロキノ>)が生まれた。西嶋憲生は、<プロ キノ>の作家たちがロシア革命とそのイデオロギーにヒントを得て、9,5ミリフィルムと 16ミリフィルムで、ド8キュメンタリー映画、政治的映画、情報映画を作ったと記してい る。彼らは次々に日本の秘密警察に逮捕されていったが、同盟の活動が禁止される 1934年4月までに、労働者や農民たちによる階級闘争を記録する映画を数多く 撮影 した。<プロキノ>の監督たちの行動は、インディペンデントな形で映画を製作し、上 映する道を開く手本となった。残念ながら、<プロキノ>の作品の大部分は、特に第 二次世界大戦の間、没収されたり焼却されたりして残っていない。しかし、最近<プロ キノ>を記録する会>が発足し、ライプチヒのフェスティバルで5本の作品を上映し3Esther Demiro「Kurutta Ippeiji-1927」、『<Giappone Avanguardia del Futuro>』、p.53。Ôshima
Nagisa「Tra cinema commerciale e cinema sperimentale: Mie testimonianze」、『<Giappone Avanguardia del Futuro>』、p.35-38
4飯村隆彦「On “Reflected Cinema” (A Note on the Program)」、『Takahiko Iimura Film and
Video』、New-York、Anthology Film Archives、1990、p.32と「The Structure of Seeing and Hearing、A Lecture Performance」、『Anthology Film Archives』、p.32
5那田尚史「衣笠貞之助という先輩」、『F’s』Vol. 1、東京、pp.69-70
6『20世紀のドキュメンタリー(ライプチヒ映画祭の25年)』、西武美術館/Studio 200、1983、p.7-8
7 Donald Richie「Crossing-1924」、『<Giappone Avanguardia del Futuro>』、p.52
た。 <プロキノ>設立直後、1929年5月に労農党の代表、山本宣治が一人の右翼に 刺殺さ れた。映画《山宣葬(東京)山宣労農葬(京都)》(中島信監督、1929年、白黒、 16分)は、東京本郷の仏教青年会館で行われた葬儀や、遺体が京都に到着した様 子、埋葬地まで付き添う川上肇教授などの名士や、沿道に集結した京都のタクシー 運転手たちの様子を詳細に報じている。 映画《土地》(高周吉監督、1931年、白黒、6分)は厳しい検閲を受けた。とい う のも、この作品が、富山の貧しい農民たちが、なぜ、そしてどのようにして、地主の許 可なく土地を利用しているか、また、工場の労働者たちが、自分たちが働く工場の閉 鎖や移転にどのように抵抗したかを明らかにしていたからだ。 <プロキノ>の事務局長、岩崎昶は、1931年第12回メーデー9のドキュメント の 撮影を指揮している。労働者の権利宣言を記念したこの日、上野公園で警察と労働 者が衝突し、多くの犠牲者を出した。同じ1931年には、東京早稲田大学の学生だった 川添紫郎が、映画《スポーツ》(1931年、白黒、7分)で、大学運動部の特徴 である特 権的な体制をユーモラスに暴露している。《全線》は東京の市電とバスの運転手たち の闘争の実写と再現フィルムを織り混ぜたセミ・ドキュメントの作品で、<東京交通労 働組合>、略称<東交>のゼネストを支持するために作られた。 *** 初期の前衛映画を支えた作家のうち、多くはアマチュアの映画監督で、<パテ・ ベービ>や<シネ・コダック>のカメラを使っていた。アニメを作るのにこれらの機材を 用いた者もいる。その代表は荻野茂二で、手作業でフィルムに色をつけていた。荻野 の作品、《表10現》は、1935年に完成した。これらの実験は、不幸にも、日本軍が中国 に軍事介入した1938年に中断してしまった。映画機材の輸入と生産がストップし、政 府の検閲も、それまでのような作品を作ることを、以降許さなかった。 9岩崎昶(1903年生まれ)は映画に関する数多くの著書を書いている。『映画の前説』(東京、合同出版、1981)など が執筆。 10那田尚史「小型映画」、『F’s』、Vol 2、pp.87-94
1-1-3. 日本の実験映画の誕生
詩人の瀧口修造は、20世紀の日本の芸術界で、最も重要な役割を果たした人 物である。アンドレ・ブルトンやマルセル・デュシャンの友人である瀧口は、ダダイズム とシュールレアリズムの重要性をいち早く支持した。そして、1947年からマヤ・ダレンや ホイットニー兄弟の映画を紹介していた。50年代初めに、若い芸術家たちが<実験工 房>という名の下に集まり、戦後日本の芸術界を先鋭的なアバンギャルドへと引っ 張っていくよう、励ましたのも、やはり瀧口である。<実験工房>の独創性は、仲間が 才能を集結し、共同で仕事11をするときに一段と際立った。そんな中、1953年に、山 口勝弘と北代省三は、踊りと歌のマルチメディア・スペクタクルを必要としていた日劇 ミュージックホールの支配人、岡田恵吉に招かれ、実験映画《モビールとヴィトリーヌ》 を作った。この映画は当時、実験映画ではなく、抽象映画と名付けられ、同年9月、ア メリカ文化センターで、単独上映された。ついで山口と作曲家の武満徹は、映画作 家、松本俊夫の協力で、日本初の実験映画、《銀輪》を35ミリのカラーで製作するとい う、またとないチャンスを手に入れた。自転車の販売促進のために用意されていた予 算を、最大限に活用できることになったのである。 1986年にポンピドウー・センターで開かれた<日本実験映画展>では、イメー ジ・フォラムの中島崇によって選ばれた作品が出品された。1955年に、<グラフィック 集団>の大辻清司、石元泰博と辻彩子が制作した《キネカリグラフ》は、約150mの 16mmフィルムに引っ掻き傷を付けたものである。11 1939年以降、ホイットニー兄弟(John and James Whitney)が、シェンベルグ(Arnold Schönberg)の12音音楽
から着想を得た「Variations」(1939-1941年)や「Five Abstract Film Exercises」(1943-1944年)という映画を制作し た。図形マトリックスを使って、陰画・陽画・移調、バックワード・フォワードなどの可能性をセリー置換として利用して いた。その研究を続け、ジョン・フオイットニーは1961-1962年に「Catalog Permutations」というコンピュータ技術駆 使した映画を制作した。
関東の<実験工房>に対して、関西の芦屋市に生12まれた<具体美術協会> も映画の制作を行っていた。現在名古屋在住の嶋本昭三は1958年の13第2回舞台を 使用する具体美術展の際に《具体映画》を発表した。天皇陛下が現われていたニュー ス映画を変色させ、作ったものである。 松本俊夫が映画作家として活動を続け、《安保条約》(1959)と《西陣》(1961)が 国際映画フェスティバルで受賞する。また評論家として、1958年に、『前衛記録映画 論』を出版し、商業映画から開放する「もう一つの映画」の必要性を宣言する。 *** 日本大学に<日大映研>が設立され、1958年、彼らの初めての白黒16ミリフィ ルムを何本か製作した。まだ学生であったにもかかわらず、彼らの作品は、大学生が 作る一般の映画とは、質の面ではっきりと一線を画していた。《釘と靴下の対話》(16ミ リ、白黒、30分)は、造形と光の点で質の高い映画である。詩情豊かな寓話がとりあげ られていて、ドキュメンタリーでもフィクションでもなく、既成のどんなカテゴリーにも属 さないものである。シュールレアリスティックな場面が、やわらかな明暗の中で継起す る。 以後卒業まで、それぞれ同じグループで、半分実験映画、半分ドキュメンタリー という映画を撮り続ける。城之内元晴が監督をした《プープー》(16ミリ、白黒、20分、 1959年)もその一つである。これは「若者の活力あふれる映画で、混乱した時代を生 きることを余儀なくされた人々の中に入り、その日々の生活と青年の魂の世界をつづっ たもの」である。一方、神原寛は《Nの記録》(16ミリ、白黒、20分、1959年)を撮り、多 数の人命を奪った1959年9月の伊勢湾台風の混乱の中で撮った映像を用い、「混乱し て無感覚になった」被災者たちのインタビューで名高い。 日本の初期の映画監督たちは、媒体の「新しさ」ゆえに本来の状態を保ってい
12.「Repères chronologiques et documentaires」(『<Japon des Avant-gardes>』、Paris、Éditions du Centre
Georges Pompidou、1986年)に「モービルとヴィトリーヌ」に関する記述が見られる。山口勝弘は1952年から『ヴィト リーヌ』を制作していたが、1955年のものは『静かな昇天』と名付けられ、マルセル・デュシャンの大ガラスを思わせ る。この点に関しては、山口勝弘による冷たいパフォーマンス(1985年朝日刊、p.133-135)を参照されたい.
13中島崇「Le quattro stagioni del cinema off in Giappone」、『<Giappone Avanguardia del Futuro>』、
る。そのことは、ビ14デオアートや、他の様々な分野でも同じであろう。映画の技術は 1895年に生まれたにもかかわらず、日本の芸術家たちがそれをまったく自由に使い始 めるのは、やっと戦後になってからだ。ところで、初期の実験映画は、造形作家や写真 家によって作られている。彼らは、映画の技術に厳密であろうという配慮なしに、この 新しい分野に挑んでいった。この点で15比較すれば、日大の学生たちは、戦前からの 劇映画やドキュメンタリーの実験を継続させ、すすんで映画の伝統の中に身を置いて いたということができるだろう。このタイプの映画表現の頂点は、西嶋によれば、金井 勝の作品にあるという。洗練された複雑な作品の中で、現実と不条理を関わらせる金 井の才能は、《無人島》(1969年)や《Good-Bye》の中に十分感じ取れるであろう。 *** 日本映画の数多い分析で有名なアメリカ人、ドナルド・リチーは、また作家で批 評家でもあるが、1957年から、《青山怪談》(8ミリフィルム)、《犠牲》(1959年)、《戦争 ごっこ》(1962年、16ミリフィルム、白黒、30分)、《猫と少年》(1966年)、《五つの哲学的 寓話》(1967年、50分)など、多くの短篇を作った。リチーは様々なフェスティバルで日 本の作品を紹介した。マヤ・ダレンやケネス・アンガーの影響を受けていたリチーは、 アメリカで起きているアンダー・グラウンド映画の動きを日本に伝えた最初の人でも あったようだ。リチーはまた、日本映画の輸出にも尽力した。特に、俳句や生け花など の伝統芸術を復興するものと、リチーが認めたものを扱った。そこには、かわなかのぶ ひろや萩原朔美、安藤紘平、居田伊佐雄などの監督たちによって作られた作品が あった。 1966年、MoMA(ニューヨーク近代美術館)でのリチーの発言を引用して、西嶋 憲生は、 「日本は俳句の国である。俳句は、短く明晰で、内面を表現するものであり、意 味ははっきりと言われるのではなく、暗示される。瞑想がコミュニケーションよりも 重要である。日本の実験映画は、20年代後半に再び高まった伝統に属し、大衆 の心を捉えるように作られてはいなかった。日本の実験映画は、生け花とも似て いる。観客は、称賛するか、まるっきり無視するかのどちらかである。」
14城之内元晴「Pû Pû」、『日本実験映像40年史』/Japanese Experimental Film & Video1955-1994』、東京/大
阪、イメージフォーラム/キリンプラザ大阪、1994、p.48
1-1-4. 草月流の創始:いけばなと前衛
今日では現代音楽の最も優れた批評家の一人に数えられている秋山邦晴は、 かつては<実験工房>にも参加していた作曲家であり、草月会館のことを、「60年代 には前衛芸術の震源地であった」と回想している。ここで草月会館の性格と歩みを振 り返ってみよう。 草月流は、1927年に勅使河原蒼風によって創始された。蒼風は1617、厳しい規 則にがんじがらめになって、ごく18少数の愛好家にしか見られなくなっていた生け花の 将来に「満足できず、絶望していた」。そこで、父の和風に、「科学と同じくらいに厳密」 で、しかも真の芸術として認められる生け花を始める手助けをしてほしいと説得する。 父子は勅使河原家の家紋に草と19月があることから、<草月>という名前を選んだ。 草月流の初期の展覧会は、主婦の友社と、日本で最初のラジオ局、JOAKの援 助で、銀座と神田で開かれた。JOAKは始まったばかりで、日本のお茶の間で絶大な 人気を博していた。蒼風がラジオで連続講演を行うと、蒼風の「革命的な」表明に耳 を傾ける聴衆は、どんどん増えていった。蒼風は1930年に「懐古趣味の拒否、(中略) 既成の型の拒否、(中略)道徳的な観念の拒否、(中略)植物学による制限の拒否、 (中略)」を宣言し、「生け花は成長し続けており、一つの決まった型に留まるものでは ない」と語った。1931年に父が亡くなってから、蒼風は生徒の熱意に励まされ、東京の 真ん中の三番町に「草月講堂」を建てる。また、日本大学の芸術学部は蒼風を招い て、1939年、「自然の芸術」という講座を始めた。 16 1900年に生まれた蒼風は、安部公房の小説の映画化でいくつも賞をとった勅使河原宏の父である。 17西嶋憲生「日本の実験映画小史」、『日本実験映像40年史』、p.3418秋山邦晴「De la musique futuriste au défi de la musique traditionnelle」(未来派の音楽から伝統音楽の挑
戦まで)『Japon des avant-gardes』(前衛の日本)、p.488
草月講堂は1945年5月に東京大空襲で破壊され、戦後は生け花の用具も大変 見つ けにくくなったが、蒼風は1945年秋には早くも生け花の授業を再開し、在京のア メリカ人女性にも教えるようになった。そして様々なグループ展を行い、中には西洋人 の生徒の作20品を展示する「国際的」な展覧会もあった。蒼風はまた、雑誌『草月人』 を発刊し、マッカーサー夫人に記事を依頼したりもした。 *** 蒼風は30年代の初めから、ヨーロッパの前衛芸術、特にシュールレアレズムに興 味を持つようになる。そして、1930年までパリで生活していた福沢一郎の個展を1934 年に訪ねる。 「いままでの形式を脱却して、自由な精神の世界に迫まる反逆運動として のシュールレアリスムに、いけばなにおいて同じことをめざしていた蒼風さんが共 鳴したのは、きわめて当然だった。」 1938年には、「華道とオブジェ」という特集を組んだ『アトリエ』の特別号に蒼風と 福沢の対談が掲載された。蒼風は、床の間に飾る奇石や、生け花に使う鳥の羽や針 金など、シュールレ21アリスムの作品を思わせるものを、「日本のオブジェ」だと言って いる。 40年代終わりの蒼風の作風には、明らかにこのような精神の刻印があり、当時 の前衛芸術が提起する問題に対する深い理解と感受性を物語っている。読売新聞の 記者だった海藤日出男の紹介で、蒼風は、後に20世紀日本の芸術の中心的存在に なる芸術家たち、またはすでにそうなっていた芸術家たちと出会う機会に恵まれた。 建築家の丹下健三、画家の岡本太郎22、写真家の土門拳、デザイナーの亀倉雄策。 20「わたしの花」、p.42-43 21『創造の森』、p.56、福沢一郎の言葉。 22海藤日出男は、常に戦後日本の現代アートを励まし続け、殊に「瀧口修三を美術の世界に深入りさせた」(カタログ、 「実験工房と瀧口修造」、東京、佐谷画廊、1991、p.135、佐谷和彦著、「海藤日出男氏の急逝に思う」)°1951年に 作品の発表を提案し、実験工房の設立を助けたのも、海藤であった。海藤は、当時読売新聞の文化担当記者で あった。
蒼風ももはや単なる生け花の教師ではなかった。同時代の芸術の傾向を反映したオ ブジェや彫刻も作るようになっていた。出版活動にも積極的で、1951年に、息子の宏 の協力で雑誌、『草月』を創刊している。宏はすでに、岡本太郎に紹介してもらった安 部公房や関根弘とともに、<世紀の会>などの様々な芸術サークルに参加していた。 川端康成や瀧口修造も、『草月』の編集委員として招かれた。 蒼風は1955年にパリに赴き、当時特派員をしていた海藤日出男に迎えられる。 海藤は、当時パリに住んでいた画家、今井俊満と堂本尚郎を蒼風に紹介する。蒼風 は二人の手助けで、バガテル公園で個展を開き、「花のピカソ」と呼ばれた。また、 ヨーロッパ滞在を利用して、訪れた各地で写真を撮り、日本に戻ると、<草月カメラク ラブ第一回展>を企画した。そ23こには、50人前後のメンバーたちの作品に混ざっ て、土門拳、石元泰博、24大辻清司、亀倉雄策、北代省三など、若い先生たちの作品 も展示されていた。というのも、蒼風は常に見方を知る必要性を説き、生け花の構成 を見るためにもカメラを使っていたのだ。 1958年には、草月流の新しい本拠地の落成式が行われた。秋山邦晴が言って いたように、草月会館は第一級の芸術的なイベントを行う場となる。赤坂にあるこの建 物は、丹下健三によって設計された。地下には草月ホールがあり、コンサートや映画 の上映に使われることになっていた。実験的なアートが、ようやく発表の場を見つけた わけだった。 *** 勅使河原宏は、1953年に映画界にデビューした。瀧口修造がシナリオを書いた ドキュメンタリー・フィルム、《北斎》の監督を任されることになったのだ。 50年代に入ると様々なフェスティバルが開かれるようになり、<ヌーベル・バー 23雑誌「草月人」は、草月流の生徒たちを対象としたものだったが、「草月」は発行部数も多く、もっと広い読者を対 象としていた。 24アメリカの『タイムズ』誌に与えられた仇名。
グ>も出現する。佐藤忠雄によれば、初めての傑作と呼ばれるべき作品は55年に羽 仁進によって撮られた《教室の子供達》である。ここには「自然な自発性」といったもの が横溢している。谷川俊太郎は、鉛筆25のように扱い易いビデオの特性について語る 際にこの「自然な自発性」という言葉を強調してるが、谷川のその主張は、正に、羽仁 の「映画万年筆説」を思い起こさせるものである。かわなかのぶひろ (1941年生まれ) は大変独創的な映画・ビデオ作家であるが、イメージ・フォーラムの教師でもあり、次 のように書いている。 「画面の上に、作家は「光のダンス」という抽象的、無形態的なイメージを作って 試みていた。戦後の日本では、実験映画は、映画の新しいメディア学に於ける 可能性の手探り、いわゆる「Frame by Frame」の研究に始まった」26。 1953年27の『キネマ旬報』では、羽仁の作品が一位となり、《北斎》は第二位で あった。 勅使河原宏は、青年プロにいたとき知合った井川浩三と一緒に、ホールの技術 的な構想をたてた。このホールで初めて上映されたのは、1957年に行われた東京 フェスティバルだった。その中には、<シネマ57>のプログラムに入っていて、同年の <ブッリュッセル実験映画祭>でも紹介された、羽仁進や勅使河原宏の作品もあっ た。
25 Max Tessier『Le cinéma japonais au présent』、Paris、L’Herminier、1984、p.125
26松本俊夫、森岡祥倫、森下明彦、谷川俊太郎「エレクトロニック時代の私」、『<Electrovisions電視-Japan 87
Video Television Festival>』、p.10
1-2- 1960年代、諸芸術の交流
1-2-1. 草月アート・センターの活動
1960年、草月会館に新しい法人組織が生まれた。<草月アート・センター>は、 芸術的なイベントの企画を、自律した形で行うものだった。九人の作曲家、芥川也寸 志、武満徹、林光、松平則暁、間宮芳生、黛敏郎、三善晃、諸井誠、そして岩城宏之 は、作曲家集団という名のもとに集まり、お互いを分かつ専門分野を越え、日本の現 代音楽を有効に発展させていこうという意志を表明した。打ってつけの場所があった のだから、あとは行動を起こすだけだった。初めの試みは、10年前に<実験工房>で すでに実践に移されていた、諸芸術の交流という考え方に基づいて、ミュージカルを 創ることにした。林光の音楽に安部公房のシナリオ、それにスライドのアニメーション 技術として、真鍋博が加わり、同年の三月に上演が実現した。この活動は<草月コン テンポラリー・シリーズ>として続けられることとなり、現代音楽だけでなく、モダン・ ジャズも紹介された。また、音楽にとどまらず、美術、とりわけ舞台美術に貢献した。中 でも1964年の山口勝弘の参加は記憶されるべきだろう。ジャン・タルデューのシナリオ に基づいた《鍵穴》という作品で、<第一回草月実験劇場>として公開されたものだ。 このような音楽や演劇の活動はまた、宣伝も重要である。杉浦康平は、革新的なアイ ディアでポスターを作った。宣伝美術という新しい芸術は、もちろん展覧会などの対象 となっていった。 草月アート・センターは外国の作曲家を呼ぶことにも力を尽くし、エドガー・ヴァ レーズを招いた。しかし、残念ながらヴァレーズは心臓病のために来られなくなり、代 わりにジョン・ケージの名が挙げられた。このアメリカの作曲家はすでに日本でも有名 になっていたが、<実験工房>も<二十世紀音楽研究所>もケージを招くという計画を実行に移すことはできなかった。しかし、ちょうど一柳慧がニューヨークか28ら帰国し たところだった。そして、一柳はケージと知り合い、大きな恩恵を受けたらしく、ケージ の来日を実現するためにできるかぎりのことをした。1962年にケージとデイビド・チュー ドアが、東京、京都、大阪、札幌で数々のコンサートを行った後で、中原佑介は書いて いる。「今年最大の収穫は、ケージの来日だ」。日本の音楽界は「ジョン・ケージ・ショッ ク」を受け、秋山邦晴、吉岡康弘、中原佑介、高橋悠治らを熱狂させた。彼らは小野 洋子が1962年3月に帰国した時、フルクサスの精神を受け継いだ、日本で最初のハ プニングの一つを行い、観客がホールにいるかぎり、決して舞台から降りないという試 みをした。 ジョン・ケージは1964年、今度はマース・カニングハム・ダンス・カンパニーの音 楽家として再来日した。舞台美術は画家のロバート・ロウシェンバーグが担当した。草 月ホールはダンスを上演しただけでなく、東野芳明の企画で、ローシェンバーグに対 する質問会を開いた。ローシェンバーグは、質問が的外れだと判断すると、立ち上 がって、自分の沈黙を具体的に絵で表した。1950年にヴィレム・デ29・クーニングの絵 を消した時のように、今度は極東の芸術のシンボルである金色の屏風に、白い絵の具 を塗ったのである。 1958年4月15日、ダグラス・カレッジで、アラン・カプローは初めてハプニングを 発表した。1959年10月14日、ニューヨークのロイベン・ギャラリーで行なわれた有名な 《6部で分割された18ハプニング》の際には、観客が、「ハプニングの一部となり、同時 にハプニングを経験することができた」。パリのイブ・クライン、ティンゲリーとクリスト、 ウィーンの<ヴィーナー・グルッ30ペ>やジョン・ケージの<ニュー・スクール・フォア・ ソーシャル・リサーチ>などは「ハプ31ニング」と「ライブ・アート」という芸術の新方向の 代表者になった。 28『創造の森』、p.266° 29中原佑介の言葉、『創造の森』、p.266°
30 <Happening & Fluxus>展のカタログ(Köln、Kölnischer Kunstverein、1970-71、pp.6-10)によると、フルク
サスの第一回目のイベントになる。
日本で32も、比較に値するグループが設立されている。吉原治良を中心に、村 上三郎、嶋本昭三、工藤哲巳、元永定正、<ゼロ・グループ>の白髪一雄、田中敦子 と金子明が、<具体>グループとして、1950年代半ばからパフォーマンスを行なった ことは銘記しなければならない。1955年10月、村上三郎は、東京小原ホールで障33子 のように張り巡らした一連の紙を、体を使って突き破るという非常に印象的なイベント を実行した。 前衛的なグループによる示威行動も盛んに行なわれるようになり、<具体>、 <ハイ・レッド・センター>、<ネオ・ダダ・オーガナイザー>、<九州派>といったグ ループが次々に生まれた。彼らは芸術的にも34、社会的にも既成の価値観を打ち破ろ うとしていた。そして、ヨーロッパやアメリカ、特にフ35ルクサスの運動と結び付いた アーティストに主張を認められ、勇気を得る。ここに交流と交換の時代が幕を開けた。 小杉武久は、東京芸術大学に、音楽における即興について書いた卒業論文を提 出したところだった。フルクサスのアメリカでの活動が、一柳慧の尽力で草月ホール で紹介されたばかりだった。小杉もその機会に自分のグループ、<グループ音楽>を 率いて、「音響オブジェ」という概念によって即興音楽のコンサートを行った。「音響オ ブジェ」とはこの場合、音を出すオブジェのことではなく、具体音楽の創始者たちが定 義したように、オブジェとして捉えられた音のことである。ここ36では、それぞれの音 が、他の音とのハーモニーやリズムのためにあるのではなく、その音自身のためにあ ると見做される。この「音響オブジェ」は、エレクトロニック装置の場合もあったし、そう でない場合もあったが、演奏者が自分で作ったもので、しばしば大変壊れやすく見 え、あらゆる思37いがけない音を出した。小杉は幼い頃からラジオが大好きで、ラジオ を分解して作りなおし、コンサートの時に操作できるようにした。
32 Rose-Lee Goldberg『Performance-Live Art 1909 to the Present』、Thames and Hudson、London、1979 、
p.128
33当時のメンバーのジョージ・マチューナス(George Maciunas)、ジャクソン・マクロー(Jackson McLow)、ジョー
ジ・ブレヒト(George Brecht)、ディク・ヒギンズ、アラン・カプロー、アル・ハンセン(Al Hansen)等が参加していた。
34「ハイ・レッド・センター」という呼称は、創始者三人の名前から取っている。高松次郎の高、high、赤瀬川原平の 赤、red、中西夏之の中、centerである。 35 1962年11月に、九州派の「英雄たちの大集会」は博多湾で行なわれた.福岡市美術館1988年に黒田雷児学芸員 等による<九州派展>が開かれた。 36当時<グループ音楽>には、塩見允枝子、卓植元一、戸島美喜夫、刀根康尚、水野修孝がいた。 37小杉武久著『音楽のピクニック』、東京、書肆風の薔薇社、1991年、p.229。
小杉武久や久保田成子、靉嘔や小野洋子らは、国外、ことにアメリカに活動の 拠点を求めていった。1965年6月27日、ニューヨークのカーネギー・ホールで<フルク サス・シンフォニー・オーケストラ>を主宰した秋山邦晴は、9月には東京のクリスタ ル・ギャラリーで、<フルクサス・ウイーク・イン・トーキョー>を山口勝弘と共に組織し た。山口はこの時に《レインボー・オペーレーション》を発表している。 *** 草月アート・センターで行われた様々なイベントが、それを支えた作曲家や美術 家や批評家や映画作家たちの努力によって明らかにしているのは、当時の日本の アーティストたちが前衛について鋭い理解を持っていたこと、また、前衛とは、ヨーロッ パやアメリカから来るものあったということである。ある場合には、日本のアーティスト が西洋の前衛の先を行っていることもあった。草月アート・センターの活動は、1965年 までは音楽や実験劇の公演に集中していたが、60年代の後半には、勅使河原宏に とって重要なものであった映画表現の方に力を入れることになる。宏は、1962年に初 めての長編、《おとし穴》を撮るが、これは安部公房の同名の小説を元にしたものであ る。翌年には安部公房の《砂の女》を、「女」の役に岸田今日子を配し、浜松の砂丘で 撮影している。この映画は日本の批評家たちの絶賛を浴び、カンヌ映画祭に行って 《シェルブールの雨傘》と競った結果、審査員特別賞を受賞している。サンフランシス コやベルギー、メキシコ、そして日本でも、『キネマ旬報』や『毎日新聞』で、その年の 「ベスト・ワン」に選ばれている。やはり安部公房の小説を映画化した二つの作品、 1966年の《他人の顔》、1968年の《燃えつきた地図》も、多くの賞を受賞している。
1-2-2. 実験映画の初期のフェスティバル
<実験工房>、<具体美術>、<日大映研>、そしてドナルド・リチーの実験の 後で、映画界に属していない三人の作家が現われ、60年代の初めに個性的な作品を 発表して、日本実験映画史に新たな流れをつくっていく。 1960年には、詩人の谷川俊太郎と武満徹が《Q》(バツ、16mm,N&B,15分)をつ くる。 「QはXではない。〇Qのバツである。Qは否定の精神である。主人公は思春期 の少年のように、あらゆるものに反逆し、駄々っ子のように不満を宣言し、育ちざ かりの熊のように、自分のマークを刻みたがる。だが、肯定なき否定に彼はつか れるのみである。」 当時映画音楽の作曲家としてその才能を認められていた武満徹は、当時から 多くのインディペンデントな映画製作に関わっていた。武満の名は、当時の映画や実 験的なアニメーションのほとんどに現われている。20世紀の最も独創的な作曲家の一 人である38武満は、また、フェスティバルの企画や宣伝方針の、最も貴重な助言者の 一人でもあり、次代の若い作曲家たちに計り知れない影響を与えた。武満が映像との 関係で音を想像する仕方、つまり映像化の方法は、ヨーロッパの作曲家の殆どが顧み なかった、ある方向を、日本の現代音楽に与えたのではないか。ジョン・ケージが50年 代の初めから、日本で好意的に迎えられた理由もここにあるだろう。 1960年はまた、細江英公が《へそと原爆》(16mm、白黒、11分)という映画を 撮った年でもあった。細江はだてに写真の名手だったのではない。砂浜で波を前に踊 る裸のダンサーたちが、時にユーモアも交えて撮影されているこの映画は、映像的に 大変質の高いものである。「『へそ』というのは、人間の本質的な生=性につながる生 命の起源として解釈し、『原爆』とは、一切を破壊するものとしてとりあげました。」 ここに現われているダンサーたちは皆、徐々に国際的な評価を受けていく「舞 38谷川俊太郎の言葉、『日本実験映像40年史』、p.47踏」の第一人者である。「舞踏」は、石井漠の生徒である土方巽と大野一雄によって創 始され、しばしばアンダーグラウンドの映画作家たちに撮影され、記録された。世界的 に有名になったのは、90歳近くなってもなお、類い稀な柔軟さと力強さで踊り続ける、 大野一雄や、世界中のダンスフェスティバルに出演している<山海39塾>の活躍に よるところが大きい。 まったく新しい角度から実験映画や長編映画を撮っていくもう一人の作家は、寺 山修司である。寺山は、何よりもまず詩人、そして劇作家であり、1983年に早すぎる死 を遂げるまでに膨大な文学作品を創った。青森出身の寺山は、今でも、詩、演劇、映 画、その他グラフィック・アートやデザインの分野まで、日本の芸術界全体に、かつて ないインパクトを与え続けている。寺山は1960年に《猫学》を撮り、谷川や細江の上記 の作品といっしょに、同年開かれた、<映画実験室ジュンヌ>企画の<ジャズと映画 の会>で上映された。同じ年に、<第一回実験映画を見る会>が開かれ、小林陽一 と松本俊夫の作品を上映している。 *** 大林宣彦と高林陽一が8ミリフィルムを使い始めたのは、60年代初めだった。日 本では、作家が作りたいように作る可能性をもった、「個人映画」の始まりにさしかかっ ていた。<フィルム・アンデパンダン>展は、飯村隆彦によって企画され、1964年に東 京の紀伊国屋ホールで上映された。このような催しの必要性について書かれた文章 の一つは、読売新聞社の主催で50年代から1963年まで行われていた絵画と彫刻の 展覧会に言及している。読売新聞社が資金援助をしていたこの展覧会は、時にすばら しい作品が現われることもあったし、また、ひどい作品が並ぶこともあった。この企画を 失敗に導いた問題の一つは、作品の本質に合わない展示方法がとられたことだろう。 映画はそれまで、作家作品として独立して制作しうる芸術ジャンルとして認めら れていなかった。飯村は<フィルム・アンデパンダン>を作ったとき、映画を独立した 芸術として扱うことから始めた。彼は読書新聞に次のような宣言文を載せ、このような 企画が、必然的に、好ましからざる条件を作り出してしまうことがあることを強調して いる。 「今回のフィルム・アンデパンダンはそのような条件(商業主義的・政治主 39細江英公の言葉、『日本実験映像40年史』、p.47
義的なおもわく)を無視することができる唯一の場所であるといっていい。それは 商業主義映画に対するフリー・シネマ、映画館で上映される35ミリのフィチュア 映画に対するプライベート・フィルムである。フィルム・アンデパンダンが自由を 持つことが出来るのも、こうして個人的な出発点に立ち戻って、映画作りを本当 に作家のものとするという前提に立つのである。」 飯村が<フィルム・アンデパンダン>の出品作品に課した唯一つの条件は、上 映時間だった。作品は2分を超えないこととし、このフェスティバル全体が、組み立て られ、独立 したものとなり、それ自体は2分という条件をつけることにより、出品作品 は、この催しのためだけに作られることになる。そしてその上映は、一回かぎりの事件 とみなされる。もし違う環境の中で上映されれば、作品は、まったく別のものとなるだ ろう。その意味で、40それは「架空の作品」となるのだ。実際今となっては、私たちはこ の作品を「虚像」という形でしか所有することはできない。作品としてのフェスティバル は、したがって、三次元に広がり、上映室の中で生きた映画体験ができることになり、 その結果、真に「独立した」ものとなる。「芸術は根っからがアンデパンダンであるが、 作家は必ずしもアンデパンダンではない。作家は自らをアンデパンダンの場に立たせ るのである。」 40飯村隆彦『芸術と非芸術の間』、p.45
1-2-3. 草月アート・センターの展開
草月アート・センターで行われる催しは、このセンターを支える作曲家、造形家、 批評家、及び映画人が、ヨーロッパあるいは米国から来たものである前衛の精髄につ いて鋭い理解を持っていることを証明する。日本の芸術家達のほうが先行している場 合さえある。 *** 波多野哲朗は草月アート・センターのおかげで映画を発見する。というのも波多 野は勅使河原宏の撮影チームで働いており、1964年の《砂の女》と1965年の《ホゼー・ トレス第二部》の撮影に、そして《他人の顔》では助監督として参加する。スタジオセッ トに出ないときには、彼は草月アート・センターの映画行事のプログラム作成の任務を 引き受ける。この仕事は波多野にとって充実したものに思われたので、ついにこれに 献身することになる。1962年から1964年まで、アート・センターは文化的芸術的に価値 の高い41数多くのダンス、音楽、及び演劇を上演した。しかしながら財政的理由か ら、この種の行事を組織し続けることが難しくなり、センターの活動の方向は修正され ざるを得なくなった。もう少し費用の負担の軽い解決法を見つけ出さなければならず、 その一つが映画の上映だった。上映プログラムの作成にはたった4人で当たった。後 のフィルムアート社社長奈良義巳と波多野、それに2人のアシスタントである。丸尾定 によって組織された<シネマ59>の上映を実現した後、<第一回草月シネマテーク >が1961年7月に、米国の映画人ウイリアム・クラインとペーター・クベルカの開会宣 言によって上映開始され、クベルカは自作の《アルナルフ・レイナー》を上映する。この 映画は直感的な方法で決定されたシークエンスにもとずいて真っ黒なコマや透明なコ マを組み合わせて構成してある。 草月アート・センターはここにおいて広い意味での映画の発見に決然として乗り 出す。<シネマテーク>は毎月開催され、映画史を作り上げた、あるいはこれから作り 上げることになるあらゆる種類の映画をとり混ぜて上映する。草月アート・センターの 最も重要な行事の1つは、日本映画の基礎を探るため東宝映画会社の映画を、<日 41飯村隆彦『芸術と非芸術の間』、p.46本映画の足跡(東宝篇)トーキー初期から今日まで>のタイトルの下に特集し、黒澤 明の長編映画をしばしば上映したが、他の特集の時はホールは比較的空席が目立っ た。 実験映画の分野では、2つの催しがエポック・メイキングなものとなる。<世界 前衛映画祭>は1966年2月3月に開催される。当時<シネマテーク・フランセーズ>所 長であったアンリ・ラングロワの協力のおかげでおよそ300本のフィルムが貸し出され、 貴重な作品の重要なセレクションが上映され、サイレント映画の時代から「シネマ・ ヴェリテ」の時代までの映画の歴史を回顧する。 同じようにして、<アンダーグラウンド・シネマ>が同年6月に開催される。飯村 はここで舞台の中央で椅子に腰掛けて新聞を読んでいる高松次郎の背中の上に《ス クリーン・プレー》と《バラ色ダンス》を上映する。赤瀬川原平はこの場面を次のように 説明する。「彼の上着の背中は投影されたフィルムのフレームによって切り取られる。 高松はスクリーンとし42て提示される」。 実際、スタン・ブラッケージ、ジョン・メカス、ブルース・ベイリー、ロバート・ブリ アー、スタン・ヴァンダービーク、エド・エンスウイラー、ポール・シャリッツのような米国 の作家の映画の上映は日本の観衆によって熱狂的に迎えられた。そこでコダックと富 士は8ミリとスーパー8のフィルムカセットを開発する。その結果多43くの芸術家、デザ イナー、ア44マチュア又は学生が紹介された作品のスタイルで、「アンダーグラウンド」 形式の映画を作製することができた。 *** マスメディアから「アングラ」と略称されているアンダーグラウンドの先駆者たち は実際は演劇人たちだった「小劇場運動」を組織した人達は暗い部屋に集まって、裸 になり、麻薬を飲み、獣のような衣服を着ていると評判をとっていた。彼らのスタイル や身のこなしは、米国、とくにニューヨークで起こっていた出来事と同じものとされ、関 42クリスチャン・ルブラ社刊『ペーター・クベルカ』1990年パリ15ページ参照。さらにオーストリア人のヘルマン・ニー チェは『アルナルフ・レイナー』について『これはマレヴィッチの『白い四角』が絵画に果したことを映画で行っている』 と説明することになるだろう。(『ペータ・クベルカ』表紙) 43これらの作家たちはアメリカ・アンダーグラウンド映画運動の主要な推進者で、ドミニーク・ノゲズは その著書『映画のルネッサンス』(パリ、クリンクシック社、1985年)で彼らを分析している。 44赤瀬川原平著『東京ミキサー計画』、p.234。飯村著『映像実験のために』、p.192に引用。
連づけられて、たちまち反体制派のニューモードを生みだした。この流行は芸術界と 学生の内部でふくれあがり、彼らはこの演劇界の推進者の活動の中に既成の形式へ の1つの挑戦を見ていた。こうしてより幅広い観客がこれらのエキゾティックな舞台を 求めはじめ、こうしてマスメディアはアングラブームの誕生を宣言することとなる。寺 山は1967年に自分の劇団が活動開始したとき、幅広い観客をアングラの名で引き付 けるため有効なプレスキャンペーンを利用する術を心得ていた。実際、天井桟敷の第 1回公演は草月アート・センターの480の観客席を溢れさせた。 このアンダーグラウンド文化を地下から救い出した全国的な熱狂は、同時にアン ダーグラウンド自体の死を命じることにもなった。にもかかわらずこの名称はその後さ まざまな機会に、他の70年代の反体制派運動を名づけるために用いられ、この伝統 の中に位置すると言われていた。この場合はニューヨークで60年代の始めに作られて いた同じ名前の映画と関連づけてのことになるだろう。
1-3- 80年代までの自主映画の発展
1-3-1. 草月のフィルムアート・フェスティバル
1967年1月に、日本映画記者会は草月アート・センターの<アニメーション・フェ スティバル、世界前衛映画祭などの企画上映活動>に賞を与えた。これらの催しがこ こ数年間に獲得した成功によって、運営委員たちはコンクールを企画することを思い つく。このコンクールのおかげで<第1回草月実験映画祭>の観客たちは若手作家た ちの17本の映画を発見することができる。こ45れらの若手映像作家たちの作品はまた 日本の他の都市や外国でも上映される。1968年にフェスティバルには<フィルム・ アート・フェスティバル東京1968>の名称が付けられ、植草甚一、佐藤重臣、武満徹、 勅使河原宏、ドナルド・リチー、中原佑介、松本俊夫から成るコンクールの審査委員は 全員一致で18才の麻布高校生原真人の《喜劇に彩られた悲しみのバラード》に大賞 を授与する。この作品はアメリカやイタリアの作品と競り合った。 草月会館が生け花の流派を起源とすることはついに忘れられている。これらの 催しはアート・センターが日本の前衛芸術の普及において特権的な地位を占めること を確実にする。観客は第二回目の<フィルム・アート・フェスティバル> を待ち遠しい 気持ちで期待しており、フェスティバルは翌年1969年10月14日から24日まで開催され ることになる。フェスティバルの審査委員たち(粟津潔、飯村隆彦、武満徹、勅使河原 宏、松本俊夫、中原佑介、山田宏一)は出品された145本の映画全部を何ら選抜を行 45萩原朔美『思い出のなかの寺山修司』、東京、筑摩書房刊、1992年、p.36参照。わずに上映することに決定する。ところがフ46ェスティバル外部の映画人グループは、 組織委員たちが「新しい権威主義的な制度を作り上げ、作品の間に序列を付け、商 業主義と結託しようとしている」として非難する。 1960年に日本は池田内閣の政策によって加速された経済成長期に突入した。こ の超急速な成長の副次的効果が60年代後半期から感じられるようになる。政治体制 に反対する数多くの運動に参加することが習慣になり、造反という言葉が流行語に なった。 <フェスティバル・フィルム・アート69>に反対するグループは草月会館の地位 と、審査委員たちのエキスポ70の企画への参加を認められないと判断した。大阪万47 博は単なる威信を目的として巨額の資金を使うことを企てる政治的経済的権力の鏡 であるというのである。草月の審査委員のメンバーはフェスティバルの組織委員会の 自立性を強調し、さらに作品は自分の名前と自己の責任で行動する各人の自薦に基 いて提出されていることを強調して反論した。この意味で、権威主義的機構などとは 全く問題にならなかった。それでもおよそ五十人の人々が開催当日に座り込みをする ことによってフェスティバルの開催を妨害する。反対者たちは組織委員会のメンバー と討論集会を開くことを主張し、このため映画の上映は一切行うことができなかった。 こうしてフェスティバルは完全に中断し、公衆の不満が募った。 この事件は1994年に大阪の<イメージ・フォーラム>が企画した日本実験映画 の40年回顧の特別プログラムの対象となった。皮肉なことに、プログラムを構成する4 本の映画は、それらの映画の上映を妨げた反対グループの考えを弁護するものに思 われた。シュールレアリストであり、「ブルジョアジーが常に抑圧しようとしてきた心の 奥底に芽生える愛」の擁護者を自認する矢崎克美は《革命の幻想》(1969年、16mm、 N&B、5分)を作った。 46原は映画の仕事を続け、後に名を正孝に改名する。 47『創造の森』、p.266
パフォーマーの奥山順市は、フィルムにあらかじめ突飛なものを撒き散らし、そ れゆえ切断されている映画《切断》(1969年、16mm、N&B、9分)を発表した。この作 品では上映のあいだ中、現象の性質が言葉で説明されていた。林静48一はイラスト レーターであり、詩的で暗いアニメ画の作者であるが、《10 月13日の殺人》(1969年、 35mm、カラー、4分)のタイトルを持つ、「点滅効果を付けた、ほとんど夢魔のような、 一貫性のない場面」を提案する。 参加作品中最も長いのは金井勝の作品で、タイトルは《無人列島》(1969 年、16 及び35mm§N49&B§56分)と言い、この作品について、西嶋憲生が日大映研の映画 との近親性を強調した。作者の説明によれば、映画は12の異なるテーマを扱ってい る。 「異なるテーマを結び付ける物語りは始めも終わりもない紐のようなもので ある。紐は時に太く、時に細い。(…)策略について言えば、理屈では感じられ ず、一方が勝てば他方が負ける。しかし問題になるのは全体の現象である。富 んだ帝国は陰鬱で、索漠としている。もしこのような王国が正義であれば、わた しは策略家であり、もしわたしが正義であれば、策略家なのは帝国のほうであ る。」 *** これらのフェスティバルの後にアングラブームが到来し、幾人かの映画人たちが メカスの会をイメージしてグループを作ろうと試みる。松本が創立した映像芸術の会 は活動停止せざるを得なくなった。「アンダーグラウンド」映画人たちの協会である< フィルム・メーカーズ・コーペラティヴ> もまた結成後間もなくにして解散した。映画作 家や批評家たちのうちには別の方法で活動50を続けようと模索するものもある。映画 もまた議論と宣伝の対象であった。波多野哲朗は草月センターの活動で非常に多忙 だったが、それでも数多くのサークルに参加した。波多野はそこでとりわけ東京の様々 48『日本実験映像40年史』、p.53に引用 49『日本実験映像40年史』、p.53 50金井勝「無人列島」、『映画評論』1969年5月号に掲載されたインタビュー。『日本実験映像40年 史』、p.54に引用
なシネクラブ の責任者に出会い、そのうちには新しい左翼政治団体の結成を支持し ているものもいた。波多野はさらにエキスポ70の実現を妨げる計画を抱いているグ ループから要請をうけた。しかしながら波多野はこの国際的な博覧会の企画をすでに 仕事としている武満徹、松本俊夫、山口勝弘らと親しかったので、このような行動に 加担する意志はなかった。 この激動の時代に、映画を対象にした数種の雑誌がすでに発行されていた。 『映画芸術』は小川徹によって主宰され、政治的立場が明確なことと、文学への近親 性によって際立っていた。佐藤重臣は『映画評論』の編集長で、波多野はここに幾つ かの記事を発表していた。しかし、この他に3誌が誕生して来る。『季刊FILM』は草月 アート・センターの企画チームによって1968年10月から1972年12月まで発行される。 『映画批評』は松田政男によって1970年10月に創刊され、1973年9月まで続刊され た。 こうして波多野は『FILM』と競争することを決心し、フランス映画と、シネマ59 の催しとに関連して「シネマ」というタイトルを選んだ。1969年1月から1971年10月まで に、専門家とマニアたちの間でいまなお幻の雑誌とよばれている『シネマ69』9号が発 行された。他のほとんどの雑誌が短い記事だけしか掲載していないのに、『シネマ69』 の編集者は徹底した記事と、小津安二郎や溝口健二のような巨匠を故意に脇にどけ て、若手監督への長いイタビューを用意しようと努力する。『シネマ69』誌の編集方針 の一つはまた政治的論争に巻き込まれることを堅く拒絶することである。この時代に はかなり難しいと思われてはいたが、スタッフたちは映画しか取り上げることを望まな い。スタッフたちはかれらの存在理由を確立するため、声明や宣言を公表することを 拒絶する。何よりもまず、戦後というコンテクストのなかで、「映画人たちに勇気を与え る」ようなやりかたで、映画を「見る」、映画について「書く」ことに限定することが問題 なのである。論争は必ずしも創造的であるとは限らないからだ。
1-3-2. アンダーグラウンド・シネマテークの成果
70年代は幸先が輝かしくなかった。協同組合を結成しようという試みが失敗し、 草月アート・センターもまた、1971年に活動を停止せざるを得ないほどの困難に直面 した。しかし一つの事実だけは確かだった。若い映画人の数が次第に多くなり、日本 のあらゆる地方から名乗りを挙げてきた。それゆえ、立ち直り、新しい精力を再び見い だす必要があった。 1969年から貸しホール(しかし決して長くはなかった)でどうにかこうにか最初の <シネマテーク>が51 開催され、最初の足跡を記した後で、<日本アンダーグラウン ド52・シネマティーク>がニュー・ジャズ・ホールで開催され、これが新宿のピット-イン の3階でそのドアを開いた。 <イメージ・フォーラム・シネマテーク>の遠い祖先となるこの<シネマテーク> は、14人の映画作家の個人的作品の上映と3つの特別プログラムを上演した。こうし た努力にもかかわらず、ホールが1971年5月に決定的に閉鎖されると、再び路上にほ うり出された。実際インデペンデントな映画制作は疫病神だと見なされた、なぜなら、 「反体制」思想をあけすけに発表する作家と観衆を集めていたからである。官憲との 対決は、新宿西口広場が夜間の集会を避けるために新宿西口通路と改名されたほど の苛酷さだった。それでも映画人オルガナイザーたちは止めようとはせず、新宿駅構 内に止まろうとし、一種の反体制のシンボルとなっていた。不幸なことに空いたホール は見付からなかった。 51かわなかのぶひろ「四年三か月の滞在」、『イメージ・フォーラム』1983-09、p.52。最初のシネマテークは新宿駅西 口の、かわなかは名をはっきり覚えていないある電気器械会社のホールで開かれた。長髪の観客たちを見て、会 社の役員たちはこの種の集会を自社内でもっと長く続けていく自信を失ってしまった。次にシネマテークはピンポン 場に移ったが、もはや熱烈に支持されなかった。三度目に迎えてくれたのは<ポスター・ハウス>だったが、シネマ テークが開催されて間もなく引っ越さなければならなかった。 52波多野哲朗「映画批評誌『シネマ69』とその時代」、『映像実験誌F’s』、p.831971年8月に、かわなかのぶひろと富山加津江の<アンダーグラウンド・セン ター>は、佐藤重臣が1968年に創設した<ジャパン・アンダーグラウンド・センター> の後を引き継いだ。1972年3月から、上映会が渋谷区(渋谷3-11-7)にある寺山修司の 芝居小屋、天井桟敷で開催された。天井桟敷の地下劇場 の壁の中での「四年三か 月の滞在」の間に、新しい<シネマテーク>は5370のプログラムを上映した。 *** 松本は、このような活動の発展のなかの大きなエネルギーを後になってから証 明した催しの一つは、1973年6月27、28の両日、新宿安田生命ホールで開催された 第一回アンダーグラウンド新作展だったことを指摘する。実際ホールは2日間のあい だ混雑した。20人の参加作家たちのうち、16人は30才以下で、カメラ歴は三年ほど だった。それでもこれらの若い映像作家たちはアンダーグラウンド・センター に勇気を 与えられ、そこで信頼と熱狂のサインを示した。 こうして、<シネマテーク>は若い才能の発掘を目的として活動を続けた。その おかげで、作家たちは自分たちの作品を上映するために資金を調達せずにすんだの である。シネマテークは、利益があれば作家にその半分を支払い、赤字のときは穴を 埋めた。東京のほとんどのギャラリーが展示を希望する芸術家にスペースを賃貸し、 ヨーロッパでも80年代半ばの芸術市場の下落以来、同じ方針で経営している中で、ア ンダーグラウンド・センターは希有な粘り強さで活動を続けていると言える。 富山加津江と中島崇はそれ以来センターの所長をつとめ、かわなかは『アン ダーグラウンド・シネマテーク』という雑誌の発行を受け持った。この雑誌も1977年に 『イメージ・フォーラム』と名前を変えた。この三人はこうして、当時アンダーグラウンド・ シネマと呼ばれていた実験映画の社会の形成を可能にし、それを世に知らしめた。同 時に、松本が言ったように、自分たちの確信とは異なった傾向に対して「セクト的な」 体制の中に落ち込まないように気をつけ、「それぞれがこのセンターの中心から徐々に 遠ざかるようにした。」 このような試みの主な問題は、まさしくそこにある。全ての(芸術的)活動は、悪 趣味であろうと良い趣味であろうと、残念ながら主宰者の趣味に左右されがちであ 53かわなかのぶひろ「四年三か月の滞在」、p.52