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-1- 国語2021年度入学者選抜(A日程 1月24 日) 60 分 国語試験問題学芸学部:日本語日本文学科一つぎの文章を読んで あとの問いに答えなさい(ただし 設問の都合上変更した箇所がある) 私はたえず何ごとかをなしている しかし 私が何ごとかをなすとはどういうことなのか 歩くという例を考えてみ

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(1)

- 1 -

国 語

2021年度入学者選抜(A日程・1月

24 日) 【

国 語 試 験 問 題 60 分】

学 芸 学 部 : 日 本 語 日 本 文 学 科

─ 1 ─

つぎの文章を読んで、あとの問いに答えなさい(ただし、設問の都合上変更した箇所がある)。

私はたえず何ごとかをなしている。しかし、私が何ごとかをなすとはどういうことなのか。歩くという例を考えてみよう。私が歩く。そのとき私は「歩こう」という意志をもって、この歩行なる行為を自分で遂行しているように思える。

(  a  )、事はそう単純ではない。歩く動作は人体の全身にかかわっている。人体には二〇〇以上の骨、一〇〇以上の関節、約四〇〇の骨格筋がある。それらがきわめて 繊細な連携プレーを行うことによってはじめて歩く動作が可能になるわけだが、私はそうした複雑な人体の機構を自分で動

かそうと思って動かしているわけではない。実際、あまりに複雑な人体の機構を、意識という一つの司令塔からコントロールすることは不可能であり、身体の各部は意識か

らの指令を待たず、各部で自動的に連絡をとりあって複雑な連携をこなしていることが知られている。歩く動作が可能になったとしても、それだけで歩くという行為が可能になるわけではない。歩くためには歩くことを可能にする外的な条件があらかじめ整備されていないといけない。足の接する場所は水平に近く、ある程度の硬度をもち、適度に固定されて

いなければならない。急な シャメン、グニャグニャしたところ、グラグラしたところは歩けない。また、 ゲンミツに考えれば、歩くときに足下でまったく同じ条件が繰り返されるということはありえないのであって、踏み出された一歩一歩が踏みしめる場所は一つ一つ違う。したがって、歩行する身体は、毎度毎度異なる外的条件にも対応しなければならない。

さて、こうして 歩く動作と歩く行為が可能になったとして、では、それが 私の思った通りに遂行されているのかというと、これもまた疑わしい。歩くといってもさまざまな歩き方がある。私が自分で特定の歩き方を意識して選んだのかというと必ずしもそうではない。私は

生まれてこの方、特定の歩き方を習得してきたのであり、ある意味では、その仕方で歩くことを強いられている。(  b  )、明治初期に近代的な軍隊がつくられた際、それまで農民だった兵士たちは西洋式の行進がうまくできなかったことが

─ 3 ─ ─ 2 ─

よく知られている。彼らにとって西洋式の歩き方は自然ではなかった。そもそも彼らは自分たちがどのように歩いているのかなど、意識したこともなかっただろう。

私は行為していても、自分で自分の身体をどう動かしているのか、明瞭に意識しているわけではない。したがって、どう動かすのかを、明瞭な意識をもって選んでいるわけでもない。(中略)

さらに、「歩こう」という意志が行為の最初にあるかどうかも疑わしい。現代の脳神経科学が解き明かしたところによれば、脳内で行為を行うための運動プログラムがつくられた後で、その行為を行お

うとする意志が意識のなかに現れてくるのだという。脳内では、意志という主観的な経験に先立ち、無意識のうちに運動プログラムが進行している。しかもそれだけではない。意志の現れが感じられた後、脳内ではこの運動プログラムに従うとしたら身体や世界はどう動くのかが「内部モデル」に基づいてシ

ミュレートされるのだが、その結果としてわれわれは、実際にはまだ身体は動いていないにもかかわらず、意志に沿って自分の身体が動いたかのような感覚を得る。

熊谷晋一郎の表現を借りれば、「私たちは、目を覚ましているときにも内部モデルという夢の世界に住んでいる」。われわれは脳

内でのシミュレーションに過ぎないものに、自分と世界のリアリティを感じながら行為しているということだ。(中略)

われわれはしばしば行為を「意志の実現」と見なす。( c )、以上の短い検討だけでも、そのような見方が少しも妥当でないことが分かる。これだけ多くの条件によって規定されているのだとすれば、行為はむしろ、それら諸条件のもとでの諸関係の実現と見なされるべきだろう。

このことは心のなかで起こることを例にするとより分かりやすくなるかもしれない。たとえば、「想いに耽 ふける」といった事態はどうだろうか。私が想いに耽るのだとすれば、想いに耽るのはたしかに私だ。だが、想いに耽るというプロセスがスタートするその最初に私の 

(2)

- 2 -

国 語

─ 3 ─

Xがあるとは思えない。私は「想いに耽るぞ」と思ってそうするわけではない。何らかのYが満たされることで、そのプロセスがスタートするのである。

また、想いに耽るとき、私は心のなかでさまざまな想念が自動的に展開したり、過去の場面が回想として現れ出たりするのを感じるが、そのプロセスは私の思い通りにはならない。意志は想いに耽るプロセスを操作していない。心のなかで起こることが直接に他者と関係する場合を考えてみると、事態はもっと分かりやすくなる。謝罪を求められた場合を

考えてみよう。私が何らかの過ちを犯し、相手を傷つけたり、周りに ソンガイを オヨぼしたりしたために、他者が謝罪を求める。その場合、私が「自分の過ちを反省して、相手に謝るぞ」と意志しただけではダメである。心のなかに「私が悪かった……」という気持ちが現

れてこなければ、他者の要求に応えることはできない。そしてそうした気持ちが現れるためには、心のなかで諸々の想念をめぐる実にさまざまな条件が満たされねばならないだろう。(中略)

こうして考えてみると、「私が何ごとかをなす I do something 」という文は意外にも複雑なものに思えてくる。というのも、「私が何ごとかをなす」という仕方で指し示される事態や行為であっても、細かく検討してみると、私がそれを自分で意志をもって遂

行しているとは言いきれないからである。謝るというのは、私の心のなかに謝罪の気持ちが現れ出ることであろうし、想いに耽るというのも、そのようなプロセスが私の頭のなかで進行していることであろう。歩くことさえ、「(さまざまな必要条件が満たされつつ)私のもとで歩行が実現されてい

る」と表現されるべき行為であった。にもかかわらず、われわれはそうした事態や行為を、「私が何ごとかをなす」という仕方で表現する。というか、そう表現せざるをえない。「私が何ごとかをなす」という文は、「能動 active」と形容される形式のもとにある。たったいまわれわれが確認したのは、能

動の形式で表現される事態や行為が、実際には、能動性のカテゴリーに収まりきらないということである。「私が歩く」という文が指し示しているのは、私が歩くというよりも、むしろ、私において歩行が実現されていると表現される

─ 5 ─ ─ 4 ─

べき事態であった。(  d  )、能動の形式で表現される事態や行為であろうとも、それを能動の概念によって説明できるとは限らない。「私が謝罪する」ことが要求されたとしても、そこで実際に要求されているのは、私が謝罪することではない。私のなかに Zことなのだ。能動とは呼べない状態のことを、われわれは「受動 passive」と呼ぶ。受動とは、文字通り、受け身になって何かを蒙 こうむることである。能動が「する」を指すとすれば、 受動は「される」を指す。たと えば「何ごとかが私によってなされる something is done by me」とき、その「何ごとか」は私から作用を受ける。ならば、能動の形式では説明できない事態や行為は、それとちょうど対をなす受動の形式によって説明すればよいということになるだろうか。たしかに、謝罪することはもちろん、歩くことですら能動とは言いきれなかった。だが、それらを受動で表現することはとても

できそうにない。「私が歩く」を「私が歩かされている」と言い換えられるとは思えないし、謝罪が求められている場面で「私は謝罪させられている」と口にしたらどういうことになるかはわざわざ言うまでもない(謝罪しているときにそう思っている人は多

いだろうが)。能動と受動の区別は、すべての行為を「する」か「される」かに配分することを求める。しかし、こう考えてみると、この区別は非常に不便で不正確なものだ。能動の形式が表現する事態や行為は能動性のカテゴリーにうまく一致しないし、だからといって

それらを受動の形式で表現できるわけでもない。だが、それにもかかわらず、われわれはこの区別を使っている。そしてそれを使わざるをえない。どうしてなのだろうか。もう一度、能動の方から考え直してみよう。

われわれは、 「私が何ごとかをなす」という文がもつ曖昧さを指摘した。たとえば「私が歩く」が指し示している事態とは、実際には、「(さまざまな必要条件が満たされつつ)私のもとで歩行が実現されている」ことだと述べた。

では、この二つは、いったいどこがどうずれているのだろうか。 「私が歩く」と「私のもとで歩行が実現されている」の決定的な違いは何だろうか。「私が歩く」から「私のもとで歩行が実現されている」を引いたら、何が残るだろうか。「私が何ごとかをなす」について抱かれた最初の ソボクなイメージがヒントになるだろう。能動の形式は、意志の存在を強くア

─ 5 ─

ピールする。この形式は、事態や行為の出発点が「私」にあり、また「私」こそがその原動力であることを強調する。その際、「私」のなかに想定されているのが意志である。つまり「私が歩く」は私の意志の存在を喚起する。しかし、「私のもとで歩行が実

現されている」はそうではない。意志とは実に身近な概念である。日常でもよく用いられる。だが、それは同時に謎めいた概念でもある。われわれはいまの段階

では、この概念を満足のいく仕方で定義することはできない。それは本書のこの後の課題である。ここではただ、「意志」という言葉のもとでイメージされているものを大まかに特定しておこう。意志とは一般に、目的や計画を実現しようとする精神の働きを指す。

意志は実現に向かっているのだから、何らかの力、あるいは原動力である。ただし、力ないし原動力とはいっても、 セイギョされていない剝き出しの衝動のようなものではない。意志は目的や計画をもっているのであって、その意味で意志は意識と結びついている。意志は自分や周囲のさまざまな条件を意識しながら働きをなす。おそらく無意識のうちになされたことは意志をもってなされたとは見なされない。夢遊病者の歩行はその人物の意志による行為とは言われないだろう。意志は自分や周囲を意識しつつ働きをなす力のことである。意志はそれまでに得られたさまざまな情報をもとに、それらに促されたり、急 き立てられたりと、さまざまな影響を受けながら働きをなす。

ところが不思議なことに、意志はさまざまなことを意識しているにもかかわらず、そうして意識された事柄からは独立しているとも考えられている。というのも、ある人物の意志による行為と見なされるのは、その人が自発的に、自由な選択のもとに、自ら

でなしたと言われる行為のことだからである。誰かが「これは私が自分の意志で行ったことだ」と主張したならば、この発言が意味しているのは、自分がその行為の出発点であったということ、すなわち、さまざまな情報を意識しつつも、そこからは独立して判断が下されたということである。

意志は物事を意識していなければならない。( e )、自分以外のものから影響を受けている。にもかかわらず、意志はそうして意識された物事からは独立していなければならない。すなわち自発的でなければならない。 この矛盾をどう考えたらいいだろうか。

(3)

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─ 5 ─

ピールする。この形式は、事態や行為の出発点が「私」にあり、また「私」こそがその原動力であることを強調する。その際、「私」のなかに想定されているのが意志である。つまり「私が歩く」は私の意志の存在を喚起する。しかし、「私のもとで歩行が実現されている」はそうではない。

意志とは実に身近な概念である。日常でもよく用いられる。だが、それは同時に謎めいた概念でもある。われわれはいまの段階では、この概念を満足のいく仕方で定義することはできない。それは本書のこの後の課題である。ここではただ、「意志」という

言葉のもとでイメージされているものを大まかに特定しておこう。意志とは一般に、目的や計画を実現しようとする精神の働きを指す。意志は実現に向かっているのだから、何らかの力、あるいは原動力である。ただし、力ないし原動力とはいっても、 セイギョさ

れていない剝き出しの衝動のようなものではない。意志は目的や計画をもっているのであって、その意味で意志は意識と結びついている。意志は自分や周囲のさまざまな条件を意識しながら働きをなす。おそらく無意識のうちになされたことは意志をもってなされたとは見なされない。夢遊病者の歩行はその人物の意志による行為とは言われないだろう。

意志は自分や周囲を意識しつつ働きをなす力のことである。意志はそれまでに得られたさまざまな情報をもとに、それらに促されたり、急 き立てられたりと、さまざまな影響を受けながら働きをなす。ところが不思議なことに、意志はさまざまなことを意識しているにもかかわらず、そうして意識された事柄からは独立している

とも考えられている。というのも、ある人物の意志による行為と見なされるのは、その人が自発的に、自由な選択のもとに、自らでなしたと言われる行為のことだからである。誰かが「これは私が自分の意志で行ったことだ」と主張したならば、この発言が意

味しているのは、自分がその行為の出発点であったということ、すなわち、さまざまな情報を意識しつつも、そこからは独立して判断が下されたということである。意志は物事を意識していなければならない。(  e  )、自分以外のものから影響を受けている。にもかかわらず、意志はそうし

て意識された物事からは独立していなければならない。すなわち自発的でなければならない。 この矛盾をどう考えたらいいだろうか。

─ 7 ─

問四傍線部A「歩く動作と歩く行為」の説明として最も適切なものをつぎの中から選び、記号で答えなさい。ア歩く動作は人体をコントロールしようとする意識を排除する必要があり、歩く行為は外的条件を満たすために思考す

ることが必要である。イ歩く動作は身体の各部の自動的な連絡、相互の連携によって成立し、歩く行為は歩行に適した環境に対応することに

よって成立する。ウ歩く動作は歩行を妨げないような外的環境が整っていることが必要であり、歩く行為は毎度異なる外的環境に適応することが必要である。

エ歩く動作は人体の機構を意識的に動かすことによって成り立つのに対し、歩く行為は外的な状況が整うことによって成り立つ。

問五傍線部B「私の思った通りに遂行されているのかというと、これもまた疑わしい」の理由として最も適切なものをつぎの中から選び、記号で答えなさい。ア私たちの歩き方は人それぞれのペースで習得していくものであり、その習得過程は一律ではないから。

イ私たちの歩き方は、自然に習得されるものではなく、他者を模倣することで身につけるものであるから。ウ私たちが無意識に身につけた西洋式の歩き方は、日本古来の伝統的な歩き方とは異なるものであるから。

エ私たちの歩き方は習得されたものであり、私たちは自分の身体の動かし方を明確に意識してはいないから。

─ 7 ─ ─ 6 ─

われわれは後に意志の概念をより詳しく検討する。ただ、この段階で通りすがりに軽く論じてみただけでも、この概念には何らかの困難が見出されることが分かる。意志は自分以外のものに接続されていると同時に、そこから切断されていなければならな

い。われわれはそのような実は 曖昧な概念を、しばしば事態や行為の出発点に置き、その原動力と見なしている。(國分功一郎『中動態の世界――意志と責任の考古学』による)

*  熊谷晋一郎……小児医学、当事者研究を専門とする医師、科学者。

問一二重傍線部①~⑧の漢字の読みをひらがなで、カタカナを漢字に直して答えなさい。

問二空欄部

    (a) ~

   (e)に入る最も適切な語をつぎの中から選び、記号で答えなさい。

a: ア つまり   イ なぜなら   ウ しかし   エ たとえばb:  ア  つまり    イ  なぜなら    ウ  しかし    エ  たとえばc:  ア  つまり    イ  なぜなら    ウ  しかし    エ  たとえば d: ア つまり   イ なぜなら   ウ しかし   エ たとえばe:  ア  つまり    イ  なぜなら    ウ  しかし    エ  たとえば

問三次のア~ウの空欄にふさわしい漢字一字を書き、「歩」を含む熟語・成句を完成させなさい。ア日進

     歩イ独

独歩

    ウ  五十歩

(4)

- 4 -

─ 9 ─

問九傍線部D「受動は「される」を指す」の「される」と同じ意味を表さない「される」をつぎの中から二つ選び、記号で答えなさい。

アこちらの方は、全国コンクールで入賞されるなど、若手の中でも注目されています。イこの本は、来年、中国語、韓国語、ベトナム語、タイ語に翻訳される予定です。

ウこちらの相談会は予約制ですので、参加を希望される方は、事前にお申し込みください。エこの方は、ミュージシャンとしてだけでなく、俳優としても評価される、多才な方です。

問十傍線部E「「私が何ごとかをなす」という文がもつ曖昧さ」の説明として適切ではないものをつぎの中から選び、記号で答えなさい。ア

「私が何ごとかをなす」という文は、能動の形式ではあるものの、それが指し示す事態は私が意志をもって遂行して

いるとは言いきれないということ。イ

いということ。 「私が何ごとかをなす」という文は、能動性のカテゴリーに一致しないものの、受動の形式で表現することもできな

ウ 「

私が何ごとかをなす」という文は、その行為が意志をもって遂行されると言いきれるものでありながら、能動性のカテゴリーでは捉えきれないということ。

エ 「

私が何ごとかをなす」という文は、「私のもとで何ごとかが実現されている」と表現するべきであるにもかかわらず、能動の形式をとっているということ。

内容を含む箇所を本文中から十二字で抜き出して答えなさい。 傍線部F「「私が歩く」と「私のもとで歩行が実現されている」の決定的な違い」の説明として、つぎの空欄にふさわしい

「私が歩く」が「私のもとで歩行が実現されている」と異なるのは、

という点である。

─ 11 ─ ─ 10 ─

傍線部

G「この矛盾」の説明としてふさわしい内容を含む箇所を、本文中のここより前の部分から、つぎの空欄にあてはまるように四十五字以上五十字以内で抜き出し、最初と最後の五字を答えなさい(ただし、句読点・符号がある場合は一字に

数えること)。

という矛盾

本文の内容に合致するものをつぎの中から二つ選び、記号で答えなさい。

ア行為を行うための運動プログラムが脳内でつくられるのに先立って、行為を行おうという意志が意識の中に出現す

る。イ想いに耽るという行為において、さまざまな想念が心のなかに生じるプロセスを、意志の力でコントロールすること

はできない。ウ謝るという行為であれ、想いに耽るという行為であれ、その行為は能動ではなく受動のカテゴリーに収まるべきものである。エ意志とは自分や周囲を意識しつつ働きをなす力のことであり、自分以外のものに接続されているという側面も持っている。オ私たちは、身体の各部位と我々の意識とが細やかに連携することによって成立する行為を、「意志の実現」だと錯覚

している。カ私たちが事態や行為の出発点に置き、その原動力と見なしているのは、無意識のうちに心の中に浮かび上がってくる衝動である。

─ 9 ─ ─ 8 ─

問六傍線部C「私たちは、目を覚ましているときにも内部モデルという夢の世界に住んでいる」の説明として最も適切なものをつぎの中から選び、記号で答えなさい。

ア私たちは、自分の動きを自分の意志によるものと捉えているが、実際には、運動プログラムに基づいて脳内で行われるシミュレーションに過ぎない。イ私たちは、自分の動きは脳内でシミュレートされたものだと考えているが、実際には、自分の意志によって生み出し

たものでしかない。ウ私たちは、自分の動きは無意識のうちに成立するものだと思っているが、実際には、運動プログラムに基づいて意識的に作り出されるものもある。

エ私たちは、自分の動きが成立するのは目が覚めているときだけだと考えているが、実際には、睡眠中に無意識のうちに成立する動きもある。

問七空欄部 X Y

  に入る適切な語を本文中から漢字二字で抜き出して答えなさい。

問八空欄部 Z

る場合は一字に数えること)。   として適切な内容を含む箇所を本文中から十字程度で抜き出して答えなさい(ただし、句読点・符号があ

(5)

- 5 -

─ 11 ─

つぎの文章は、『宇治拾遺物語』の一節である。これを読んで、あとの問いに答えなさい。

問一傍線部A「塗籠」  B「太刀」  C「笏」の読みをひらがなで答えなさい(ただし、現代仮名遣いでよい)。

問二二重傍線部①「つくり」 ②「をかしき」 ③「見」のそれぞれの活用形を答えなさい。また、それぞれの終止形を答えなさい。

問三Ⅹ  申す Y  あり Z  けり

  をそれぞれ適切な形に直して答えなさい。

二 今は昔、河原院は融 とほるの左大臣の家なり。陸奥の塩釜の形を つくりて、潮を汲み寄せて、塩を焼かせなど、さまざまの をかしき事

をつくして住みたまひけり。大臣失せて後、宇多院には奉りたるなり。延喜の帝たびたび行幸ありけり。

まだ院住ませたまひける折に、夜中ばかりに、西の対の 塗籠を開けて、そよめきて人の参るやうに思 おぼされければ、 見させたま

へば、 ひの装束うるはしくしたる人の、 太刀はき、 笏とりて、 二間ばかり退 きて、かしこまりて居たり。「あれは誰そ」と問は

せたまへば、「ここの主に候ふ翁なり」と申す。「融の大臣か」と問はせたまへば、「しかに候ふ」と申す。「さは何ぞ」と仰せら

るれば、「家なれば住み候ふに、おはしますがかたじけなく、所せく候ふなり。いかが仕るべからん」とⅩ  申す

ば、

「それ

はいといと ことやうのことなり。 故大臣の子孫の、我に取らせたれば、住むにこそY  あり

。我が押し取りて居たらばこそあら

(  1

  め

  )、礼も知らず、いかにかくは恨むるぞ」と高やかに仰せ(

   2られ

  )ければ、かい消つやうに失せ(

   3ぬ

  )。

その折の人人、「なほ帝はかたことにおはします者なり。ただの人は、その大臣に逢ひて、さやうに すくよかにはいひてんや」と

ぞいひZ  けり

─ 13 ─ ─ 12 ─

問四

(  1

 め

  )  (

   2られ

  )  (

   3ぬ

       ア受身イ打消ウ推量エ完了オ尊敬 だし、同じ記号は二度以上使用しないこと)。   )の助動詞の意味として最も適切なものをつぎの中から選び、記号で答えなさい(た

問五傍線部1「ひの装束うるはしくしたる人」に該当する人物をつぎの中から選び、記号で答えなさい。ア融

イ宇多院ウ延喜の帝エ子孫

問六傍線部2「二間ばかり退きて、かしこまりて居たり」のような態度をとった真意について述べている箇所を本文中から二十

字程度で抜き出して答えなさい(ただし、句読点・符号がある場合は一字に数えること)。

問七傍線部3「異様のことなり」の意味として最も適切なものをつぎの中から選び、記号で答えなさい。ア不格好なことだイ風変りなことだウおかしなことだ

エ不思議なことだ

─ 11 ─ ─ 10 ─

傍線部

G「この矛盾」の説明としてふさわしい内容を含む箇所を、本文中のここより前の部分から、つぎの空欄にあてはまるように四十五字以上五十字以内で抜き出し、最初と最後の五字を答えなさい(ただし、句読点・符号がある場合は一字に

数えること)。

という矛盾

本文の内容に合致するものをつぎの中から二つ選び、記号で答えなさい。

ア行為を行うための運動プログラムが脳内でつくられるのに先立って、行為を行おうという意志が意識の中に出現する。イ想いに耽るという行為において、さまざまな想念が心のなかに生じるプロセスを、意志の力でコントロールすること

はできない。ウ謝るという行為であれ、想いに耽るという行為であれ、その行為は能動ではなく受動のカテゴリーに収まるべきものである。

エ意志とは自分や周囲を意識しつつ働きをなす力のことであり、自分以外のものに接続されているという側面も持っている。

オ私たちは、身体の各部位と我々の意識とが細やかに連携することによって成立する行為を、「意志の実現」だと錯覚している。カ私たちが事態や行為の出発点に置き、その原動力と見なしているのは、無意識のうちに心の中に浮かび上がってくる

衝動である。

(6)

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─ 13 ─ ─ 12 ─

問四

(  1

  め

  )  (

   2られ

  )  (

   3ぬ

だし、同じ記号は二度以上使用しないこと)。   )の助動詞の意味として最も適切なものをつぎの中から選び、記号で答えなさい(た ア受身   イ 打消   ウ 推量   エ 完了   オ 尊敬

問五傍線部1「ひの装束うるはしくしたる人」に該当する人物をつぎの中から選び、記号で答えなさい。

ア融イ宇多院ウ延喜の帝

エ子孫

問六傍線部2「二間ばかり退きて、かしこまりて居たり」のような態度をとった真意について述べている箇所を本文中から二十

字程度で抜き出して答えなさい(ただし、句読点・符号がある場合は一字に数えること)。

問七傍線部3「異様のことなり」の意味として最も適切なものをつぎの中から選び、記号で答えなさい。ア不格好なことだイ風変りなことだ

ウおかしなことだエ不思議なことだ

─ 13 ─

問八傍線部4「故大臣の子孫の、我に取らせたれば」の現代語訳として最も適切なものをつぎの中から選び、記号で答えなさい。

ア故大臣の子孫が私にくれたのでイ故大臣の子孫の私にくれたのでウ故大臣が子孫の私にくれたのならば

エ故大臣の子孫が私にくれたのならば

問九傍線部5「すくよかにはいひてんや」の現代語訳として最も適切なものをつぎの中から選び、記号で答えなさい。

ア健康そのものだと言ったのだろうよ。イきっぱりとはものが言えるだろうか。ウ不愛想にものが言えるだろうか。

エ律義そのものだと言ったに違いないよ。

問十この本文の題として最も適切なものをつぎの中から選び、記号で答えなさい。ア河原院融公の霊住む事イ宇多院、効験の事

ウ宇多院、魔往生の事エ河原院融公の勇力の事

本文の『宇治拾遺物語』と同じジャンルの作品をつぎの中から一つ選び、記号で答えなさい。ア  平中物語    イ  雨月物語    ウ  往生要集    エ  今昔物語集

(7)

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2021年度入学者選抜(A日程・1月

24 日) 【

国 語 試 験 問 題 60 分】

学 芸 学 部 : 英 語 文 化 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 学 科 ・ 子 ど も 教 育 学 科 ・ メ デ ィ ア 情 報 学 科 ・ 生 活 デ ザ イ ン 学 科 人 間 社 会 学 部 : 社 会 マ ネ ジ メ ン ト 学 科 ・ 人 間 心 理 学 科 栄 養 科 学 部 : 健 康 栄 養 学 科 ・ 管 理 栄 養 学 科 短 期 大 学 部 : 食 物 栄 養 学 科

─ 1 ─

つぎの文章を読んで、あとの問いに答えなさい(ただし、設問の都合上変更した箇所がある)。

私はたえず何ごとかをなしている。しかし、私が何ごとかをなすとはどういうことなのか。

歩くという例を考えてみよう。私が歩く。そのとき私は「歩こう」という意志をもって、この歩行なる行為を自分で遂行しているように思える。

( a )、事はそう単純ではない。歩く動作は人体の全身にかかわっている。人体には二〇〇以上の骨、一〇〇以上の関節、約四〇〇の骨格筋がある。それらがきわめて 繊細な連携プレーを行うことによってはじめて歩く動作が可能になるわけだが、私はそうした複雑な人体の機構を自分で動

かそうと思って動かしているわけではない。実際、あまりに複雑な人体の機構を、意識という一つの司令塔からコントロールすることは不可能であり、身体の各部は意識からの指令を待たず、各部で自動的に連絡をとりあって複雑な連携をこなしていることが知られている。

歩く動作が可能になったとしても、それだけで歩くという行為が可能になるわけではない。歩くためには歩くことを可能にする外的な条件があらかじめ整備されていないといけない。足の接する場所は水平に近く、ある程度の硬度をもち、適度に固定されていなければならない。急な シャメン、グニャグニャしたところ、グラグラしたところは歩けない。

また、 ゲンミツに考えれば、歩くときに足下でまったく同じ条件が繰り返されるということはありえないのであって、踏み出された一歩一歩が踏みしめる場所は一つ一つ違う。したがって、歩行する身体は、毎度毎度異なる外的条件にも対応しなければならない。 さて、こうして 歩く動作と歩く行為が可能になったとして、では、それが 私の思った通りに遂行されているのかというと、これもまた疑わしい。歩くといってもさまざまな歩き方がある。私が自分で特定の歩き方を意識して選んだのかというと必ずしもそうではない。私は

生まれてこの方、特定の歩き方を習得してきたのであり、ある意味では、その仕方で歩くことを強いられている。(  b  )、明治初期に近代的な軍隊がつくられた際、それまで農民だった兵士たちは西洋式の行進がうまくできなかったことが

─ 3 ─ ─ 2 ─

よく知られている。彼らにとって西洋式の歩き方は自然ではなかった。そもそも彼らは自分たちがどのように歩いているのかなど、意識したこともなかっただろう。

私は行為していても、自分で自分の身体をどう動かしているのか、明瞭に意識しているわけではない。したがって、どう動かすのかを、明瞭な意識をもって選んでいるわけでもない。(中略)

さらに、「歩こう」という意志が行為の最初にあるかどうかも疑わしい。現代の脳神経科学が解き明かしたところによれば、脳内で行為を行うための運動プログラムがつくられた後で、その行為を行おうとする意志が意識のなかに現れてくるのだという。

脳内では、意志という主観的な経験に先立ち、無意識のうちに運動プログラムが進行している。しかもそれだけではない。意志の現れが感じられた後、脳内ではこの運動プログラムに従うとしたら身体や世界はどう動くのかが「内部モデル」に基づいてシミュレートされるのだが、その結果としてわれわれは、実際にはまだ身体は動いていないにもかかわらず、意志に沿って自分の身

体が動いたかのような感覚を得る。熊谷晋一郎の表現を借りれば、「 私たちは、目を覚ましているときにも内部モデルという夢の世界に住んでいる」。われわれは脳

内でのシミュレーションに過ぎないものに、自分と世界のリアリティを感じながら行為しているということだ。(中略)われわれはしばしば行為を「意志の実現」と見なす。(  c  )、以上の短い検討だけでも、そのような見方が少しも妥当でない

ことが分かる。これだけ多くの条件によって規定されているのだとすれば、行為はむしろ、それら諸条件のもとでの諸関係の実現と見なされるべきだろう。このことは心のなかで起こることを例にするとより分かりやすくなるかもしれない。たとえば、「想いに耽 ふける」といった事態は

どうだろうか。私が想いに耽るのだとすれば、想いに耽るのはたしかに私だ。だが、想いに耽るというプロセスがスタートするその最初に私の 

(8)

- 8 -

─ 3 ─ ─ 2 ─

よく知られている。彼らにとって西洋式の歩き方は自然ではなかった。そもそも彼らは自分たちがどのように歩いているのかなど、意識したこともなかっただろう。

私は行為していても、自分で自分の身体をどう動かしているのか、明瞭に意識しているわけではない。したがって、どう動かすのかを、明瞭な意識をもって選んでいるわけでもない。

(中略)さらに、「歩こう」という意志が行為の最初にあるかどうかも疑わしい。現代の脳神経科学が解き明かしたところによれば、脳内で行為を行うための運動プログラムがつくられた後で、その行為を行お

うとする意志が意識のなかに現れてくるのだという。脳内では、意志という主観的な経験に先立ち、無意識のうちに運動プログラムが進行している。しかもそれだけではない。意志の現れが感じられた後、脳内ではこの運動プログラムに従うとしたら身体や世界はどう動くのかが「内部モデル」に基づいてシ

ミュレートされるのだが、その結果としてわれわれは、実際にはまだ身体は動いていないにもかかわらず、意志に沿って自分の身体が動いたかのような感覚を得る。熊谷晋一郎の表現を借りれば、「 私たちは、目を覚ましているときにも内部モデルという夢の世界に住んでいる」。われわれは脳

内でのシミュレーションに過ぎないものに、自分と世界のリアリティを感じながら行為しているということだ。(中略)

われわれはしばしば行為を「意志の実現」と見なす。( c )、以上の短い検討だけでも、そのような見方が少しも妥当でないことが分かる。これだけ多くの条件によって規定されているのだとすれば、行為はむしろ、それら諸条件のもとでの諸関係の実現と見なされるべきだろう。

このことは心のなかで起こることを例にするとより分かりやすくなるかもしれない。たとえば、「想いに耽 ふける」といった事態はどうだろうか。私が想いに耽るのだとすれば、想いに耽るのはたしかに私だ。だが、想いに耽るというプロセスがスタートするその最初に私の 

─ 3 ─

Xがあるとは思えない。私は「想いに耽るぞ」と思ってそうするわけではない。何らかのYが満たされることで、そのプロセスがスタートするのである。また、想いに耽るとき、私は心のなかでさまざまな想念が自動的に展開したり、過去の場面が回想として現れ出たりするのを感

じるが、そのプロセスは私の思い通りにはならない。意志は想いに耽るプロセスを操作していない。心のなかで起こることが直接に他者と関係する場合を考えてみると、事態はもっと分かりやすくなる。謝罪を求められた場合を考えてみよう。

私が何らかの過ちを犯し、相手を傷つけたり、周りに ソンガイを オヨぼしたりしたために、他者が謝罪を求める。その場合、私が「自分の過ちを反省して、相手に謝るぞ」と意志しただけではダメである。心のなかに「私が悪かった……」という気持ちが現

れてこなければ、他者の要求に応えることはできない。そしてそうした気持ちが現れるためには、心のなかで諸々の想念をめぐる実にさまざまな条件が満たされねばならないだろう。(中略)

こうして考えてみると、「私が何ごとかをなす I do something 」という文は意外にも複雑なものに思えてくる。というのも、「私が何ごとかをなす」という仕方で指し示される事態や行為であっても、細かく検討してみると、私がそれを自分で意志をもって遂行しているとは言いきれないからである。

謝るというのは、私の心のなかに謝罪の気持ちが現れ出ることであろうし、想いに耽るというのも、そのようなプロセスが私の頭のなかで進行していることであろう。歩くことさえ、「(さまざまな必要条件が満たされつつ)私のもとで歩行が実現されている」と表現されるべき行為であった。にもかかわらず、われわれはそうした事態や行為を、「私が何ごとかをなす」という仕方で

表現する。というか、そう表現せざるをえない。「私が何ごとかをなす」という文は、「能動 active 」と形容される形式のもとにある。たったいまわれわれが確認したのは、能

動の形式で表現される事態や行為が、実際には、能動性のカテゴリーに収まりきらないということである。「私が歩く」という文が指し示しているのは、私が歩くというよりも、むしろ、私において歩行が実現されていると表現される

─ 5 ─ ─ 4 ─

べき事態であった。(  d  )、能動の形式で表現される事態や行為であろうとも、それを能動の概念によって説明できるとは限らない。「私が謝罪する」ことが要求されたとしても、そこで実際に要求されているのは、私が謝罪することではない。私のなかに

ことなのだ。

能動とは呼べない状態のことを、われわれは「受動 passive」と呼ぶ。受動とは、文字通り、受け身になって何かを蒙 こうむることである。能動が「する」を指すとすれば、 受動は「される」を指す。たと えば「何ごとかが私によってなされる something is done by me」とき、その「何ごとか」は私から作用を受ける。ならば、能動の形式では説明できない事態や行為は、それとちょうど対をなす受動の形式によって説明すればよいということになるだろうか。たしかに、謝罪することはもちろん、歩くことですら能動とは言いきれなかった。だが、それらを受動で表現することはとても

できそうにない。「私が歩く」を「私が歩かされている」と言い換えられるとは思えないし、謝罪が求められている場面で「私は謝罪させられている」と口にしたらどういうことになるかはわざわざ言うまでもない(謝罪しているときにそう思っている人は多いだろうが)。

能動と受動の区別は、すべての行為を「する」か「される」かに配分することを求める。しかし、こう考えてみると、この区別は非常に不便で不正確なものだ。能動の形式が表現する事態や行為は能動性のカテゴリーにうまく一致しないし、だからといってそれらを受動の形式で表現できるわけでもない。

だが、それにもかかわらず、われわれはこの区別を使っている。そしてそれを使わざるをえない。どうしてなのだろうか。もう一度、能動の方から考え直してみよう。

われわれは、 「私が何ごとかをなす」という文がもつ曖昧さを指摘した。たとえば「私が歩く」が指し示している事態とは、実際には、「(さまざまな必要条件が満たされつつ)私のもとで歩行が実現されている」ことだと述べた。では、この二つは、いったいどこがどうずれているのだろうか。 「私が歩く」と「私のもとで歩行が実現されている」の決定的 な違いは何だろうか。「私が歩く」から「私のもとで歩行が実現されている」を引いたら、何が残るだろうか。「私が何ごとかをなす」について抱かれた最初の ソボクなイメージがヒントになるだろう。能動の形式は、意志の存在を強くア

─ 5 ─

ピールする。この形式は、事態や行為の出発点が「私」にあり、また「私」こそがその原動力であることを強調する。その際、「私」のなかに想定されているのが意志である。つまり「私が歩く」は私の意志の存在を喚起する。しかし、「私のもとで歩行が実

現されている」はそうではない。意志とは実に身近な概念である。日常でもよく用いられる。だが、それは同時に謎めいた概念でもある。われわれはいまの段階では、この概念を満足のいく仕方で定義することはできない。それは本書のこの後の課題である。ここではただ、「意志」という

言葉のもとでイメージされているものを大まかに特定しておこう。意志とは一般に、目的や計画を実現しようとする精神の働きを指す。意志は実現に向かっているのだから、何らかの力、あるいは原動力である。ただし、力ないし原動力とはいっても、 セイギョされていない剝き出しの衝動のようなものではない。意志は目的や計画をもっているのであって、その意味で意志は意識と結びついている。意志は自分や周囲のさまざまな条件を意識しながら働きをなす。おそらく無意識のうちになされたことは意志をもってなされたとは見なされない。夢遊病者の歩行はその人物の意志による行為とは言われないだろう。

意志は自分や周囲を意識しつつ働きをなす力のことである。意志はそれまでに得られたさまざまな情報をもとに、それらに促されたり、急 き立てられたりと、さまざまな影響を受けながら働きをなす。

ところが不思議なことに、意志はさまざまなことを意識しているにもかかわらず、そうして意識された事柄からは独立しているとも考えられている。というのも、ある人物の意志による行為と見なされるのは、その人が自発的に、自由な選択のもとに、自らでなしたと言われる行為のことだからである。誰かが「これは私が自分の意志で行ったことだ」と主張したならば、この発言が意

味しているのは、自分がその行為の出発点であったということ、すなわち、さまざまな情報を意識しつつも、そこからは独立して判断が下されたということである。意志は物事を意識していなければならない。(  e  )、自分以外のものから影響を受けている。にもかかわらず、意志はそうし

て意識された物事からは独立していなければならない。すなわち自発的でなければならない。 この矛盾をどう考えたらいいだろうか。

(9)

- 9 -

─ 5 ─

ピールする。この形式は、事態や行為の出発点が「私」にあり、また「私」こそがその原動力であることを強調する。その際、「私」のなかに想定されているのが意志である。つまり「私が歩く」は私の意志の存在を喚起する。しかし、「私のもとで歩行が実現されている」はそうではない。

意志とは実に身近な概念である。日常でもよく用いられる。だが、それは同時に謎めいた概念でもある。われわれはいまの段階では、この概念を満足のいく仕方で定義することはできない。それは本書のこの後の課題である。ここではただ、「意志」という言葉のもとでイメージされているものを大まかに特定しておこう。

意志とは一般に、目的や計画を実現しようとする精神の働きを指す。意志は実現に向かっているのだから、何らかの力、あるいは原動力である。ただし、力ないし原動力とはいっても、 セイギョされていない剝き出しの衝動のようなものではない。意志は目的や計画をもっているのであって、その意味で意志は意識と結びつい

ている。意志は自分や周囲のさまざまな条件を意識しながら働きをなす。おそらく無意識のうちになされたことは意志をもってなされたとは見なされない。夢遊病者の歩行はその人物の意志による行為とは言われないだろう。

意志は自分や周囲を意識しつつ働きをなす力のことである。意志はそれまでに得られたさまざまな情報をもとに、それらに促されたり、急 き立てられたりと、さまざまな影響を受けながら働きをなす。ところが不思議なことに、意志はさまざまなことを意識しているにもかかわらず、そうして意識された事柄からは独立している

とも考えられている。というのも、ある人物の意志による行為と見なされるのは、その人が自発的に、自由な選択のもとに、自らでなしたと言われる行為のことだからである。誰かが「これは私が自分の意志で行ったことだ」と主張したならば、この発言が意味しているのは、自分がその行為の出発点であったということ、すなわち、さまざまな情報を意識しつつも、そこからは独立して

判断が下されたということである。意志は物事を意識していなければならない。(  e  )、自分以外のものから影響を受けている。にもかかわらず、意志はそうして意識された物事からは独立していなければならない。すなわち自発的でなければならない。 この矛盾をどう考えたらいいだろう

か。

─ 7 ─ ─ 6 ─

われわれは後に意志の概念をより詳しく検討する。ただ、この段階で通りすがりに軽く論じてみただけでも、この概念には何らかの困難が見出されることが分かる。意志は自分以外のものに接続されていると同時に、そこから切断されていなければならない。われわれはそのような実は 曖昧な概念を、しばしば事態や行為の出発点に置き、その原動力と見なしている。

(國分功一郎『中動態の世界︱︱意志と責任の考古学』による)

*  熊谷晋一郎……小児医学、当事者研究を専門とする医師、科学者。

問一二重傍線部①~⑧の漢字の読みをひらがなで、カタカナを漢字に直して答えなさい。

問二空欄部

    (a) ~

       a:アつまりイなぜならウしかしエたとえば    (e)に入る最も適切な語をつぎの中から選び、記号で答えなさい。

b: ア つまり   イ なぜなら   ウ しかし   エ たとえばc:  ア  つまり    イ  なぜなら    ウ  しかし    エ  たとえばd:  ア  つまり    イ  なぜなら    ウ  しかし    エ  たとえば e:  ア  つまり    イ  なぜなら    ウ  しかし    エ  たとえば

問三次のア~ウの空欄にふさわしい漢字一字を書き、「歩」を含む熟語・成句を完成させなさい。

ア日進

     歩イ独

独歩

    ウ  五十歩

─ 7 ─

問四傍線部A「歩く動作と歩く行為」の説明として最も適切なものをつぎの中から選び、記号で答えなさい。

ア歩く動作は人体をコントロールしようとする意識を排除する必要があり、歩く行為は外的条件を満たすために思考することが必要である。イ歩く動作は身体の各部の自動的な連絡、相互の連携によって成立し、歩く行為は歩行に適した環境に対応することに

よって成立する。ウ歩く動作は歩行を妨げないような外的環境が整っていることが必要であり、歩く行為は毎度異なる外的環境に適応することが必要である。

エ歩く動作は人体の機構を意識的に動かすことによって成り立つのに対し、歩く行為は外的な状況が整うことによって成り立つ。

問五傍線部B「私の思った通りに遂行されているのかというと、これもまた疑わしい」の理由として最も適切なものをつぎの中から選び、記号で答えなさい。

ア私たちの歩き方は人それぞれのペースで習得していくものであり、その習得過程は一律ではないから。イ私たちの歩き方は、自然に習得されるものではなく、他者を模倣することで身につけるものであるから。ウ私たちが無意識に身につけた西洋式の歩き方は、日本古来の伝統的な歩き方とは異なるものであるから。

エ私たちの歩き方は習得されたものであり、私たちは自分の身体の動かし方を明確に意識してはいないから。

(10)

- 10 -

─ 9 ─

問九傍線部D「受動は「される」を指す」の「される」と同じ意味を表さない「される」をつぎの中から二つ選び、記号で答えなさい。

アこちらの方は、全国コンクールで入賞されるなど、若手の中でも注目されています。イこの本は、来年、中国語、韓国語、ベトナム語、タイ語に翻訳される予定です。ウこちらの相談会は予約制ですので、参加を希望される方は、事前にお申し込みください。

エこの方は、ミュージシャンとしてだけでなく、俳優としても評価される、多才な方です。

問十傍線部E「「私が何ごとかをなす」という文がもつ曖昧さ」の説明として適切ではないものをつぎの中から選び、記号で答えなさい。ア「私が何ごとかをなす」という文は、能動の形式ではあるものの、それが指し示す事態は私が意志をもって遂行して

いるとは言いきれないということ。イ「私が何ごとかをなす」という文は、能動性のカテゴリーに一致しないものの、受動の形式で表現することもできないということ。

ウ「私が何ごとかをなす」という文は、その行為が意志をもって遂行されると言いきれるものでありながら、能動性のカテゴリーでは捉えきれないということ。エ「私が何ごとかをなす」という文は、「私のもとで何ごとかが実現されている」と表現するべきであるにもかかわら

ず、能動の形式をとっているということ。

傍線部F「「私が歩く」と「私のもとで歩行が実現されている」の決定的な違い」の説明として、つぎの空欄にふさわしい内容を含む箇所を本文中から十二字で抜き出して答えなさい。

「私が歩く」が「私のもとで歩行が実現されている」と異なるのは、という点である。

─ 11 ─

─ 11 ─ ─ 10 ─

傍線部G「この矛盾」の説明としてふさわしい内容を含む箇所を、本文中のここより前の部分から、つぎの空欄にあてはまるように四十五字以上五十字以内で抜き出し、最初と最後の五字を答えなさい(ただし、句読点・符号がある場合は一字に

数えること)。

という矛盾

本文の内容に合致するものをつぎの中から二つ選び、記号で答えなさい。ア行為を行うための運動プログラムが脳内でつくられるのに先立って、行為を行おうという意志が意識の中に出現す

る。イ想いに耽るという行為において、さまざまな想念が心のなかに生じるプロセスを、意志の力でコントロールすること

はできない。ウ謝るという行為であれ、想いに耽るという行為であれ、その行為は能動ではなく受動のカテゴリーに収まるべきものである。エ意志とは自分や周囲を意識しつつ働きをなす力のことであり、自分以外のものに接続されているという側面も持っている。オ私たちは、身体の各部位と我々の意識とが細やかに連携することによって成立する行為を、「意志の実現」だと錯覚

している。カ私たちが事態や行為の出発点に置き、その原動力と見なしているのは、無意識のうちに心の中に浮かび上がってくる衝動である。

─ 9 ─ ─ 8 ─

問六傍線部C「私たちは、目を覚ましているときにも内部モデルという夢の世界に住んでいる」の説明として最も適切なものをつぎの中から選び、記号で答えなさい。

ア私たちは、自分の動きを自分の意志によるものと捉えているが、実際には、運動プログラムに基づいて脳内で行われるシミュレーションに過ぎない。イ私たちは、自分の動きは脳内でシミュレートされたものだと考えているが、実際には、自分の意志によって生み出し

たものでしかない。ウ私たちは、自分の動きは無意識のうちに成立するものだと思っているが、実際には、運動プログラムに基づいて意識的に作り出されるものもある。

エ私たちは、自分の動きが成立するのは目が覚めているときだけだと考えているが、実際には、睡眠中に無意識のうちに成立する動きもある。

問七空欄部 X Y に入る適切な語を本文中から漢字二字で抜き出して答えなさい。

問八空欄部 Z として適切な内容を含む箇所を本文中から十字程度で抜き出して答えなさい(ただし、句読点・符号がある場合は一字に数えること)。

(11)

- 11 -

─ 11 ─

─ 11 ─ ─ 10 ─

傍線部G「この矛盾」の説明としてふさわしい内容を含む箇所を、本文中のここより前の部分から、つぎの空欄にあてはまるように四十五字以上五十字以内で抜き出し、最初と最後の五字を答えなさい(ただし、句読点・符号がある場合は一字に数えること)。

という矛盾

本文の内容に合致するものをつぎの中から二つ選び、記号で答えなさい。ア行為を行うための運動プログラムが脳内でつくられるのに先立って、行為を行おうという意志が意識の中に出現する。

イ想いに耽るという行為において、さまざまな想念が心のなかに生じるプロセスを、意志の力でコントロールすることはできない。

ウ謝るという行為であれ、想いに耽るという行為であれ、その行為は能動ではなく受動のカテゴリーに収まるべきものである。エ意志とは自分や周囲を意識しつつ働きをなす力のことであり、自分以外のものに接続されているという側面も持って

いる。オ私たちは、身体の各部位と我々の意識とが細やかに連携することによって成立する行為を、「意志の実現」だと錯覚している。

カ私たちが事態や行為の出発点に置き、その原動力と見なしているのは、無意識のうちに心の中に浮かび上がってくる衝動である。

─ 11 ─

つぎの文章を読んで、あとの問いに答えなさい(ただし、本文は設問の都合上、二つの部分から抜き出し、Ⅰ・Ⅱ

と記した)

今日、ある科学技術上の大きな変曲点にいるという印象は強い。そこでしばしば、AIの能力が人間を上回るという特異点(シンギュラリティ)が論じられると同時に、またAI限界論も唱えられる。いくらビッグデータを駆使して創発的な学習能力を カクトクしたとしても、AIの働きは本質的にアルゴリズム(計算)によるものだから、その能力はあくまで特定の分野での限定的な

ものに過ぎない、という。【ア】私自身は後者に賛同したいが、AIと人間の対決にこの問題の本質があるのではない。そうではなく、AIや生命科学、脳科学などの展開が総体として何を意味しているかを理解することにある。今日の技術革新が現代文明に何か飛躍的で決定的な変化を与

えているのか、それとも、それは技術が自動的に生成する経路における途上現象なのか、といった問題だ。そのことをここで少し考えてみたい。【イ】

そもそも人間は技術を支配している(使っている)のだろうか。それとも支配されている(使われている)のであろうか。通常は、われわれは、人間が技術を「支配」している、つまり、便利な道具として使用していると思っているが、またわれわれは今日、高度な技術がなければ生活できなくなっている。さらに、核抑止や軍事力にわれわれの「平和」も「破壊」も委ねられてい

る。とするなら、われわれの生は、かなりの部分が これらの技術次第だということになろう。われわれの生の技術への依存は、決してAIに始まったことではない。【ウ】支配されるとは、自分自身ではない何ものかに従属することである。自らの決定権を失うことである。自律的な決定可能性を自

由というならば、自由を失うことである。その意味で、依存とは、自由の喪失である。(  A  )技術の展開には二つの面が張り合わされていることになろう。ひとつは、技術は、自然がもたらす偶然性からの人間解放を意味し、自然に従属した生の不安定性を解消する手段であった。それは理性の展開であり自由の拡大である。農耕革命から始まり、科学革命、産業革命と続く人類の文

明化の歴史とは、技術革新による活動範囲や幸福の可能性の拡大であった。【エ】しかしもうひとつには、その道具を生み出す理性の展開が、人間を技術に依存させ、逆に自由を奪ってゆく。人間は技術がもた

Ⅰ 二

─ 13 ─ ─ 12 ─

らす生産システムに縛られ、技術の産物に生を委ねる。いつの間にか技術がなければ生きていけなくなる。これは、技術の展開に人間の生の 命綱を預けようとする 近代社会の逆説的な特徴にほかならず、『啓蒙の弁証法』において アドルノとホルクハイマーが強く主張したことである。【オ】

しかし、技術に関して(  B  )にたとうが(  C  )にたとうが、ここで、われわれは、すでに一つの見方を前提にしていることに注意しなければならない。それは、技術を、まずもって自然の制約からの解放の手段とみる、ということである。(中略)

技術を人間の能力を高める道具とみる見方は、 ハラリが、今日の新技術について次のように述べる場合にもあてはまる。彼はいう。神を追放した近代社会は、人間を世界の中心に据えた。人間は、高度な理性と想像力を駆使して自らの環境を自らの幸福のた

めに作り変えてきた。だが、この「人間至上主義」は、ついに最後の領域にまで手を染めるに至った。死を克服し、知能を最大限高め、人工知能を人間の代理として人間のなしえなかった事柄を実現しようとしている。つまり、人間は自らが生み出した技術という道具を最大限に活用して「完全性」へ向けて飛躍しようとしている。【カ】

人間が人間を超えようとする。これは一種のパラドックスであるともいえるし、人間の根源的な欲望への カイキともいえるだう。(中略)そして、 自らを「神」の位置につけることを 企む人間は、何とも皮肉なことに、人間自身を脳内の情報処理と情報伝達系へと切

り詰め、最終的には、自らをあらゆるデータの中に流し込んでしまうのだ。人間からそのもっとも「神的なもの」つまり「精神」を奪い取るといってよい。ハラリはそれを「データ教」というが、確かに、偶然的なもの、偶発的なものを排除して「完全性」を求めれば、確実なものは、ただただ蓄積されたビッグデータだけ、ということになろう。【キ】

これでは人間はほとんど脳科学やAI技術、コンピューターの奴隷ではないか、といいたくもなるが、それにもかかわらず、人間の合理的能力の信奉者は、世界の主体はあくまで人間である、という考えを手放そうとはしない。神のごとき完全性を手に入れ

ることは、絶対的な自由を手にすることであり、技術こそがその自由を現実化する手段だという。そして、仮に人間の生み出した技術が問題をもたらすとしても、この同じ「人間至上主義」によって、われわれは、技術のもたらす 隘路からも脱出できるだろう、

参照

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