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九州大学大学院言語文化研究院 : 准教授 : 中国文学

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

[050_2009]第50回附属図書館貴重文物展示 : 濱一衛 と京劇展:濱文庫の中国演劇コレクション

中里見, 敬

九州大学大学院言語文化研究院 : 准教授 : 中国文学

中尾, 友香梨

佐賀大学文化教育学部 : 講師 : 中国文学

https://doi.org/10.15017/14739

出版情報:展観資料, pp.1-44, 2009-05-11. 九州大学附属図書館 バージョン:

権利関係:(C) 九州大学附属図書館

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奥野信太郎は1930年代の北京と京劇 を次のように記しています。

北京は静かな美しい町である。

槐樹と柳と楡が鬱蒼と茂った町で ある。 夏の頃は合歓の花が淡紅く 墻壁のところどころを彩り、 空に は白い鳩の群が銀粉を撒らしたよ うに輝きわたる。 大きな城壁に囲 まれたそのなかに、 宮殿や並木路 や彫像が、 整然と左右相対に配置 された、 すばらしい構想をもった 図案だといえば間違ない。 夕方に なると娘たちは 晩香玉

ワンシアンユイ

や茉莉花

モオリイホワ

を形よく結んで胸に飾っては、

王府井

ワンフーチン

や北海

ペイハイ

を散歩しはじめる。

その姿は実に美しい。 (中略) わたくしは老若男女に拘らず純 粋の北京人はその好みに他地方の ものの窺知し難い冴えがあると思っ ている。 久しい間の荘麗な宮廷生 活が中心となって馴致されたこの 町の人たちの嗜好は余りにも繊美 であり華奢である。 それが料理に あらわされ、 手芸にあらわされ、

娯楽にあらわされ、 その他生活の 諸方面に顕然と認められる事は此 上もなく北京というところをたの もしく思わせる。

(奥野信太郎 「書肆漫歩」, 随筆北 京 東京:第一書房, 1940;東京:

平凡社, 1990)

男も女も老も若きもただうっと りとして蒼ざめた 老生

ラオシヨン

の悲しい 唱に耳を傾ける。 喉が渇けば熱い

香 片 茶

シアンピエンチヤア

、 口がさみしければ舌 先で瓜子児

コアヅル

を操る以外、 身も心も ひたすらに吸引されているのは前 方の戯台である。 どこともなくうっ すらと匂ってくる茉莉花

モウリイホワ

や 瑰花

メイクイホワ

の香と人いきれの臭気とのなかで、

胡弓の咽び泣きを繋ぐ銅鑼の咆哮 に乗って今や戯舞の上では、 「捉 放曹」 の幕切れ陳宮が睡れる曹操 を殺さんとして思い止まり 「こは これわれ陳宮は事をなして差えり。

賊に随うべからず。 天涯に走らん。

落花意あり流水に随い、 流水心無 くして落花を恋う。」 と 二簧揺板

アルホワンヤオバン

の唱を終えて下場しようとしてい る。 場内の彼処からも此処からも 拍手と懸声がかかる。 これはいう までもなく戯院内の風景である。

(奥野信太郎 「三国志演義を中心と して」, 随筆北京 東京:第一書房, 1940;東京:平凡社, 1990)

九州大学教養部・元教授の濱一衛が 北京に留学したのは、 1934 (昭和9) 年から1936 (昭和11) 年の2年間、 満 洲事変後とはいえ、 まだ北京では平穏 な生活が営まれていました。 濱一衛は その北京で、 文豪・周作人邸に下宿し ながら、 足繁く京劇に通う日々を送り、

現在、 九州大学附属図書館濱文庫に収 められている当時の中国演劇の生の資 料を多数収集しました。

濱一衛帰国の翌1937年7月には、 盧

溝橋事件により日中両国の全面戦争、

日本による北京占領が始まり、 女形の 名優・梅蘭芳は髭を蓄えて香港・上海 に隠棲し、 京劇の舞台に立つことを拒 んだのです。

奥野信太郎の随筆は、 濱一衛が下宿 していた当時の周作人邸の様子を次の ように伝えています。

周先生の住んでおられる八道湾 はその名の示すが如く屈曲した小 路の奥である。 樹木の多い如何に も文人の住居らしい、 そして院子

ユアンツ

のほかに、 たっぷりと空地のある 閑雅な一廓である。 夏ならば蝉時 雨、 秋ならば落葉の響に気も心も 澄むほどの落ちついたところで、

南面の客庁西端の椅子で、 主人の 来出を待つ間、 いつも何の音も聞 こえないほどの静けさである。

客庁東端の一室は所狭きまでに 書架を並べて、 古今の書籍が詰っ ているのだが、 間じきりのカアテ ンで見えないようになっているゆ かしさ。 だが収めきれない日本や 西洋の書物はなお数多く応接対談 1. はじめに

図1 2 1930年代の前門街のにぎわい (絵葉書 北平大観 第3輯 濱文庫/追 (2008)/49)

図1 3 1930年代の東単牌楼大街 (絵 葉書 北平大観 第2輯 濱 文庫/追 (2008)/49)

図1 4 1930年代の東四牌楼大街 (絵 葉書 北平大観 第3輯 濱 文庫/追 (2008)/49)

図1 1 1930年代の崇文門と城壁 (絵 葉書 北平大観 第2輯 濱 文庫/追 (2008)/49)

(5)

の席にも溢れ出ている。 すべて整 頓されていて乱堆の跡は微塵だに ない。

やはり昔ながらの支那住宅であ る。 下には 磚

チヨアン

を敷きつめて板張 りの床ではない。 所謂一暗両明の 建て方で光線はやや薄暗い。 先生 は窓を背にして坐られるから、 後 から外光がさすことになる。 そし てその薄暗さのなかで、 時々小さ な眼鏡のたまが、 おちついた話の 口調の間々に鋭く光って見える。

先生はいつもこうして、 やや羞ず かしそうに肩をすぼめて、 遠慮深 く、 それでいて含蓄のある話をさ れることを常としている。

(奥野信太郎 「周作人と銭稲孫」, 随筆北京 東京:第一書房, 1940;

東京:平凡社, 1990; 奥野信太郎 随想全集 5 知友回憶 (東京:福 武書店, 1984) に再録)

今回の展示では、 「 濱一衛と京劇 展:濱文庫の中国演劇コレクション」

と題して濱一衛が収集した京劇の資料 を展示するとともに、 中国演劇をこよ なく愛した 戯迷

シーミー

学者・濱一衛の業 績と人柄にも迫りたいと思います。 京 劇と濱一衛をとおして、 当時の北京の 様子を、 そして中国と日本の関係をも 垣間見ることができるでしょう。

なお、 濱一衛が留学していた時期、

国民政府は南京を首都とし、 北京は 北平

ベイピン

と改称されていましたが、 本展示 ではすべて北京とします。 引用文中の 歴史的仮名遣いや旧字体は改めました が、 「支那」 等の表記は原文のままと します。

2. 京劇とは 2.1. 京劇の歴史

中国の伝統演劇の一つである京劇の 起源は意外に新しく1790年とされ、 実 際には19世紀中葉に中国各地の演劇が 融合して、 北京で発展したものです。

それ以前に盛んだった崑曲に比べて、

通俗的で娯楽性に富む点に特徴があり ます。 京劇の全盛期は1920 30年代と いわれ、 ちょうど濱一衛の北京留学時 代と重なります。

2.2. 京劇の特徴 京劇は音楽劇

であり、 俳優は 「唱

うた

・ 念

せりふ

・做

しぐさ

・ 打

たちまわり

」 によって演じます。 役 柄は、 男性役 「生

せい

」・女性役 「旦

たん

」・顔 に隈取りを描く男性役 「浄

じょう

」・道化役

「丑

ちゅう

」 の四つに大別されます。

舞台装置は机と椅子くらいしかなく 質素ですが、 京胡 (弦楽器)・チャル メラ (管楽器)・ドラ (打楽器) など を使う音楽はにぎやかです。

2.3. 京劇の俳優

昔の京劇は男優のみで演じられ、

「旦」 も女形の男優が演じましたが、

民国期から女優の舞台進出が始まり、

新中国では一部の例外を除き 「旦」 は 女優に一本化されました。 京劇の俳優・

伴奏者の育成は、 昔は科班

か はん

と呼ばれる 私塾的な俳優養成所で行われ、 新中国 では戯曲学校が各地に設置されました。

濱一衛の留学期は、 「四大名旦」 (四

人の女形の名優、 梅蘭芳・尚小雲・程 硯秋・荀慧生) の活躍していた時代で した。

図1 5 曲がりくねった八道湾胡同 (現在)

図1 6 濱一衛が下宿していた旧周作 人邸 (現在)

図2 1 「戯台全景」 ( 北京風俗図譜 東京:平凡社, 1986)

図2 2 「楽器各種」 ( 北京風俗図譜 )

図2 3 四大名旦 (1949年撮影、 徐城 北著, 陳栄祥・施殿文訳 見 て読む中国:京劇の世界 東 京:東方書店, 2006)

図2 4 芥川龍之介、 1921年中国・大 同の石仏前にて ( 芥川龍之介 全集 第8巻, 東京:岩波書 店, 1996)

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2.4. 日本での京劇公演

日本での京劇は、 1918 (大正8) 年 の梅蘭芳による東京公演が最初で、 大 正年間に6回の公演が行われました。

しかし、 昭和の戦前には一度の公演も なく、 戦後になって1956 (昭和31) 年 と1964 (昭和39) 年に来演され、 1972 (昭和47) 年の日中国交回復後は様々 な機会に京劇の公演が行われています。

2.5. 戦前中国の劇場

1921 (大正10) 年、 芥川龍之介は大 阪毎日新聞社より二ヶ月間、 上海・北 京等へ派遣された際に、 中国の芝居を 鑑賞しています。 芥川の文章は、 当時 の劇場の様子をいきいきと伝えてい ます。

序に芝居を見る順序を云えば、

一等だろうが二等だろうが、 ずん ずん何処へでもはいってしまえば 好い。 支那では席を取った後、 場 代を払うのが慣例だから、 その辺 は甚軽便である。 さて席が定まる と、 熱湯を通したタオルが来る、

活版刷りの番附が来る。 茶は勿 論大土瓶が来る。 その外

ほか

西瓜の種 だとか、 一文菓子だとか云う物 は、 不要

プヤオ

不要をきめてしまえば好 い。 (中略)

支那の芝居の特色は、 まず鳴物 の騒々しさが想像以上な所にある。

(中略) 実際私も慣れない内は、

両手に耳を押えない限り、 とても 坐ってはいられなかった。 (中略) その代わり支那の芝居にいれば、

客席では話をしていようが、 子供 がわあわあ泣いていようが、 格別 苦にも何にもならない。 これだけ は至極便利である。 或は支那の事 だから、 たとい見物が静かでなく とも、 聴戯には差支えが起らない ように、 こんな鳴物が出来たのか も知れない。 現に私なぞは一幕中、

筋だの役者の名だの歌の意味だの、

いろいろ村田君に教わっていたが、

向う三軒両隣りの君子は、 一度も うるさそうな顔をしなかった。

支那の芝居の第二の特色は、 極 端に道具を使わない事である。 背

景の如きも此処にはあるが、 これ は近頃の発明に過ぎない。 支那本 来の舞台の道具は、 椅子と机と幕 とだけである。 (中略)

支那の芝居の第三の特色は、

隈取

くま ど

りの変化が多い事である。

(中略) その又隈取りも甚しいの は、 赤だの藍だの代赭

たいしや

だのが、 一 面に皮膚を蔽っている。 まず最初 の感じから云うと、 どうしても化 粧とは思われない。 私なぞは武松 の芝居へ、 蒋門神

しょうもんじん

がのそのそ出て 来た時には、 いくら村田君の説明 を聴いても、 やはり仮面

だとしか 思われなかった。

支那の芝居の第四の特色は、 立 廻りが猛烈を極める事である。 殊 に下廻りの活動になると、 これを 役者と称するのは、 軽業師と称す るの当れるに若

かない。 彼等は舞 台の端から端へ、 続けさまに二度 宙返りを打ったり、 正面に積上げ た机の上から、 真っ倒

さかさま

に跳ね下り たりする。

(芥川龍之介 「上海游記」, 支那游 記 東京:改造社, 1925; 芥川龍 之介全集 第8巻, 東京:岩波書店, 1996)

(この節の記述は、 加藤徹 「京劇城」

1963 を参照しました。)

3. 濱文庫のコレクション 3.1. 濱文庫の京劇資料 3.1.1. 戯単

浜文庫/集181/1 134、

ほかに未整理68枚 濱文庫の中で最も貴重なものは、 186 枚にもおよぶ戯単 (芝居番付) です。

日本に所蔵される中国の古い戯単とし ては、 名古屋大学附属図書館の青木文 庫 (青木正児の旧蔵書) に1925年から 1928年までの戯単29枚があります。 濱 文庫の戯単は1934年から1939年までの もので、 時代はやや下りますが、 枚数 では青木文庫をはるかにしのいでいま す。

濱一衛自身の著書から、 戯単につい て述べた箇所を見てみましょう。

何時だか華楽戯院かで前置きの 芝居 大体、 座頭は最後の一に しか出演せず、 その前の四五番は 新進乃至二三流以下に委せてある。

未熟の芸は辛いがその間に気分が 出て来るのは仲々いゝ の外題、

戯単子

プログラム

が配布されるのが遅かった 為わからず、 前後左右の人々に聞 き合せたが誰方も御存知ない。 彼 等も誠に茫として楽しんで居る。

(中丸均卿・濱一衛 北平的中国戯 東京:秋豊園, 1936)

番付は戯単と申しますが、 座席 へ売りに回って来ますから買えば よいのです。 これも以前は両大枚 でしたが、 今日では何倍もします。

只今では活版か石版刷りですが、

以前は木活の風雅なもので、 つい 七八年前迄は広和楼の番付がそれ で、 愉快なものでした。 戯単につ いて一寸お話ししましょう。

或は戯単子ともいいます。 紅楼 夢に見えている戯単は堂会の点戯 (お客が好みの芝居を注文するこ と) の用に供せられたもので、 そ れが劇場のボックスにのみ行われ るようになり、 劇場全体に行われ るようになったのは光緒初年から といわれます。 昔は当日の劇碼

だしもの

だ けを順序通りに木刻或は木活で、

黄色い長さ三四寸巾一寸位の劣等 紙に印刷して、 第四五番目の劇が 上演される頃に売られます。 二文 位だったそうです。 この外赤色の 紙で、 前記のより少し大きい位の 戯単に戯碼を筆で書いたものを順 次見せてゆきます、 勿論心付けを するのです。 それが光緒三十三年 から、 上海や天津の戯単にならっ て、 赤黄緑等の色紙に活版刷りか 石版刷りの戯目も演員の名もある 今日のような戯単になりました、

この新式戯単は第一舞台が最初で 銅貨一枚で売っていたそうです。

今日北京で行われているのは悉く 新式のです。 以前国劇博物館に戯 単の蒐集がありましたが、 色々蒐 集している人が有るようです。

(7)

1935年3月3日 「華楽戯院」 浜文庫/集181/122

住 所 上 演 ( 劇 団 名 ) 時 間 住 所

俳優の格が上がるにつれて、 「站

チャン

」 (立つ)、 「坐

ヅオ

」 (腰かける)、 「

タン

」 (横になる) の順に文字の配置 と大きさが変化します。

1. 「站

チャン

」 (立つ):下位の俳優は、 右端の 「蕭盛萱」

から 「銭富川」 まで、 左側では 「扎金奎」 「徐 霖甫」 のように縦一列に配置します。

2. 「坐

ヅオ

」 (腰かける):中位の俳優は、 右端の 「張 雲溪」 「袁世海」、 左側の 「尚富霞」 「何雅秋」

のように、 姓を頂点に、 二字の名を底辺にし た三角形に配置します。

3. 「

タン

」 (横になる):最高位の俳優 「尚小雲」 は 右から左へ横並びに大きく書かれます。

文字の大きさと配置による、 俳優のランク

(8)

「義務戯」 (チャリティ公演) の戯単は、 通常の 戯単とは逆に、 演目が上、 俳優名が下に書かれま す。 比較的大きな文字で右から左へ、 「大賜福」 か ら 「鐵龍山」 までが演目です。 次の段に 「坐

ヅオ

」 の 文字配置で右から左へ 「羅萬華」 から 「楊小樓」

まで、 さらに下の段に 「站

チャン

」 の文字配置で書かれ た人名はすべて俳優名です。

チャリティ公演では劇団の枠を超えて俳優が参

加するため、 ここでも 「四大名旦」 のうち尚小雲 と荀慧生の2人、 さらに馬連良、 孟小冬、 楊小楼 といった名優たちが勢揃いしています。 孟小冬は 男形女優。 近作の映画 「花の生涯:梅蘭芳」 では、

孟小冬と梅蘭芳の結ばれぬ恋を 章子怡

チャン・ツィイー

と 黎明

レオン・ライ

が演じています。

右欄外には60元から1元まで、 チケットの料金 が記されています。

「義務戯」 (チャリティ公演) の戯単

1934年10月5日 「第一舞台」 浜文庫/集181/42

(9)

1939年2月22日 「新新大戯院」 浜文庫/集181/未整理

両面印刷で二つ折り。 表面左側が戯単で、 右側 は広告になっています。

裏面には、 劇評や演劇関係のニュースに加えて、

「日機再猛襲蘭州:撃落党機三十六架:党空軍根拠 地全滅」 や 「日軍各部隊:継続掃蕩冀中党軍」 と いった、 日本軍が国民党軍に対してあげた戦果を 宣伝する記事が見られます。 欄外には 「人寿年豊 騰歓東亜、 河清海晏永祝中華。 日華携手和平乃現、

亜陸同春国運更新」 というスローガンが書かれて います。

日本による北京統治は、 京劇の戯単さえも宣伝 の道具として利用しました。 女形の梅蘭芳が髭を 蓄えて、 北京に戻らなかったのは、 こうした日本 の占領統治および京劇を利用した文化面での懐柔 政策に対する抵抗だったのです。 映画 「花の生涯:

梅蘭芳」 はこうした事情にも触れています。

日本占領下の戯単

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(濱一衛 支那芝居の話 東京:弘 文堂書房, 1944;東京:大空社, 2000)

清の光緒年間 (1875 1908) に始まっ た黄色い戯単は、 劉復・周明泰輯 五 十年来北平戯劇史材 という本で見る ことができます。 これを見ると、 当初 は大変粗末な木版刷りであったことが わかります (図3 1)。

濱一衛が収集した1930年代の戯単は、

かなり洗練されて情報量も多くなり、

演目だけでなく、 俳優名も記され、 劇 場名や電話番号、 さらには予告が載せ られているものもあります。 印刷方式 も木版刷りから活版印刷へと移行し、

のちには両面印刷で二つ折りの新聞の ような戯報に発展しました。

3.1.2. レコード

浜文庫/集187/1 66 浜文庫/集188/1 65 戯単はいつ、 どこで、 誰が、 何を演 じたかを知ることのできる貴重な記録 ですが、 芝居それ自体を再現すること はできません。 京劇は唱が中心ですか ら、 レコードに録音することにより、

いつでも芝居を聴くことができるよう になります。 中国でレコードの録音が 始まったのは1902年頃ですが、 初期の レコードの多くは伝統演劇の録音でし た。 濱文庫には1930年代の勝利公司 ( ) のカタログが所蔵され ていますが、 それには京劇以外にも地 方劇や評劇・大鼓・ 子といった伝統 芸能のレコードが多く掲載されていま す。

濱文庫には1930年代から解放後まで のレコードが所蔵されており、 濱文 庫 (中国戯劇関係資料) 目録 (第二 刷, 福岡:九州大学附属図書館教養部 分館, 1988) によると、 レコード 66枚、 レコード65枚を数えます。

図3 1 「早年北京梨園戯単」 (劉復・

周明泰輯 五十年来北平戯劇 史材 北平:商務印書館・直 隷 書 局 , 1 9 3 2 。 浜 文 庫 / 集 123/1)

図3 2 濱文庫で最も古い戯単 1931 年8月25日 第一舞台 (浜文 庫/未整理)

図3 3 変形六角形の戯単 1934年11 月5日 慶楽戯院 (浜文庫/

集181/112)

図3 4 木活版の古風な戯単 1935年 10月14日 広和楼 (浜文庫/

集181/3)

都 市 劇 場 枚数

北京 華楽戯院 66

吉祥戯院 23

哈爾飛戯院 22

中和戯院 18

広和楼 14

慶楽戯院 8

新新戯院 5

開明戯院 5

第一舞台 4

長安戯院 2

広徳戯院 1

三慶戯院 1

協和礼堂 1

奉天 共益舞台 1

天津 中原公司遊芸場 1

開封 永安舞台 2

上海 天蟾舞台 2

金城大戯院 1

更新舞台 1

栄記大世界 1

劇世界 (上海版) 1 湖州南潯鎮 張王廟橋民衆教育館 2

蘇州 開明大戯院 1

不明 3

表1 濱文庫所蔵戯単劇場別枚数

図3 5 同じ劇場の鉛活字の戯単 1936 年2月12日 広和楼 (浜文庫

/集181/80)

図3 6 横長形式の上海の戯単 1936 年5月3日 金城大戯院 (浜 文庫/集181/44)

図3 7 京劇のチケット (浜文庫/集 181/20)

(11)

美国勝利唱機公司はアメリカの

。 フランスのパテ ( ) と並 んで、 戦前中国の二大レーベルでした。

香港芸声唱片公司は、 1956年に中華 人民共和国の中央華僑事務委員会が香 港で設立したレコード会社。

3.1.3. 雑誌

濱文庫には中国の演劇関係の雑誌が 多数所蔵されています。 濱一衛が留学 中に入手したもののほかに、 帰国後も 何らかのルートで入手していたようで、

戦前は1942年頃までの雑誌が10種以上 あり、 戦後も雑誌の購読を再開してい ます。 これらは現在では所蔵する図書 館も少なく、 当時の演劇界を知るため の貴重な資料となっています。 (図3 14, 15, 16)

図3 8 流行歌曲と伝統演劇のレコー ドが混在する勝利公司 (RCA Victor) のカタログ

図3 9 百代 (Path ) のカタログ

図3 11 梅蘭芳 「刺虎」 (美国勝利唱 機公司 RCA Victor 54357) (浜文庫/集187/48)

図3 12 杜近芳、 袁世海 「覇王別姫」

(香港芸声唱片公司 O-2091 (591126)) (浜文庫/集187/

38)

図3 13 馬連良、 譚富英、 袁世海、 裘 盛奎 「赤壁之戦」 (香港芸声 唱片公司 ATC-109) (浜文庫

/集188/50)

図3 10 程艶秋 「罵殿」 (美国勝利唱 機公司 RCA Victor 43796) (浜文庫/集187/29)

図3 15 国 劇 画 報 第 1 期 第 1 号 (北京国劇学会, 1932.1.15) (浜文庫/新学戯曲/80(1))

図3 16 劇学月刊 創刊号 (南京戯 曲 音 楽 院 北 京 分 院 研 究 所 , 1932.1) (浜文庫/雑誌/4(1)) 図3 14 戯劇旬刊 第一期 (上海国 劇保存社出版, 1935.12.21) (浜文庫/雑誌/11(1))

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3.1.4. 新聞切り抜き

濱一衛が生涯をとおして、 中国と日 本の新聞から演劇関係の記事を切り抜 いたスクラップ帖は、 全部で46冊にも なります。

最も古い日付の切り抜きは、 北京留 学開始直後の1934年6月28日 大公報 の記事のようです。 帰国後も中国から 取り寄せた新聞の切り抜きは終生続き、

逝去10日前の1982年8月31日の切り抜 きは、 スクラップ帖に貼られずに、 は さまれたままになっています。

その結果、 濱文庫の新聞切り抜きは、

演劇をとおして見た中国現代史となっ ています。 この新聞切り抜きは、 中国 の戯曲研究者の関心もひきました。

2001年に濱文庫を調査した中国・中山 大学の黄仕忠教授は、 次のように書い ています。

地處南方福岡市的九州大學, 所 藏戲曲數量也較豐富, 見於其中央 圖書館、 文學部和教養部, 大多爲 清代刊本, (中略) 此外, 濱一衛 (一九〇九〜一九八四) 所彙集的 二十世紀三、 四十年代北平戲劇剪 報資料, 亦引人矚目。 (中略) 他 爲九州大學留下了戲曲研究的一脈 香火。 其藏書現歸九州大學教養部 圖書館, 爲之設立 「濱文庫」。

(南方に位置する福岡市の九州大 学が所蔵する戯曲もかなりの数に 上り、 中央図書館・文学部・教養 部にあり、 ほとんどは清刊本であ る。 (中略) そのほかに、 濱一衛 (1909 1984) の収集した1930 40 年代北京の演劇の新聞切り抜き資 料も、 注目に値する。 (中略) 彼 は九州大学に戯曲研究の伝統を残 した。 その蔵書は九州大学教養部 図書館の所蔵となり、 「濱文庫」

が設立された。)

(黄仕忠・金文京・喬秀岩編 日本 所蔵稀見中国戯曲文献叢刊 第1輯, 桂林:広西師範大学出版社, 2006,

「出版前言」)

3.1.5. 隈取り図

浜文庫/日文芸術21 濱一衛はガリ版刷りで人面の台紙を 作り、 それに隈取りの彩色図を多数描 いています。 時代によって、 同一人物 の隈取りに変遷のあることがわかりま す。

著書 日本芸能の源流 の口絵にカ ラー版の 「隈取り図」 が掲載されてい ることから、 そのための原画を自身で 描いたもののようです (図は次頁)。

3.2. 濱文庫の唱本 3.2.1. 濱一衛と唱本

濱文庫には数百冊を数える唱本が収 蔵されています。 唱本とは、 京劇を含 むさまざまな戯曲や民間俗曲を文字で 記録した通俗的な 「歌の本」 を指しま すが、 大きさはだいたい縦10〜17 、 横6〜12 ぐらいで、 わずか数葉な いし十数葉からなる薄い小冊子のもの が多いです。

唱本は明の中期頃から民国期にかけ 図3 20 江青による京劇改革の講話を

伝える記事。 1967年5月10日 (浜文庫/集183/15) 図3 19 田漢を批判する文革初期の記

事。 1966年12月7日 (浜文庫

/集183/15)

図3 21 濱一衛逝去10日前の最後の切 り抜き。 1982年8月31日 (浜 文庫/集183/27)

図3 17 劉半農死去を伝える記事。 濱 一衛の北京到着直後。 1934年 7月15日 (浜文庫/集182/5)

図3 18 欧陽予倩死去を伝える記事。

1962年9月25日 (浜文庫/集 183/10)

(13)

て大量に出版されましたが、 ほとんど が坊刻本 (民間の書肆による出版物) であるため、 誤字が多く、 加工もかな り粗雑です。 印刷形式は木版が多いの ですが、 民国期に入ってからは活字版 も多く出版されています。

濱文庫の唱本は、 木版と排印とが混 在しており、 時期的には清の光緒八年 (1882) 頃から民国二十四年 (1935) 頃までのものが主です。 濱氏が北京留 学や中国旅行の際に、 彼の地で買い集 めたものと見られます。 それゆえか、

濱文庫の唱本は北京で出版されたもの が多く、 内容的にも北方の芸能を収録 したものの多いのが一つの大きな特徴 です。

濱氏がこれらの唱本を収蔵したのは、

時流に沿ったものでした。 魯迅が1913 年に中国教育部に対して、 各地の歌謡 を収集・整理することを提言し、 その 弟である周作人が翌年1月に 「児歌之 研究」 (童歌の研究) と題する論文を 紹興県教育会月刊 に発表します。

これを皮切りに、 貴族文学に反対して

図3 22 馬武:明 図3 23 馬武:清初

図3 25 包拯:明 図3 26 包拯:清初

図3 28 鉄勒奴:明 図3 29 鉄勒奴:清初

図3 30 関羽:清初 図3 31 関羽:現代

図3 24 馬武:現代

図3 27 包拯:現代

(14)

平民文学を提唱する 「文学革命」 が起 きた1917年の翌年、 北京大学に 「歌謡 徴集処」 が設置され、 民間の歌謡・俗 曲の収集が始まります。 「歌謡徴集処」

は1920年に劉復 (半農)・周作人らを 中心とした北京大学歌謡研究会へと発 展し、 機関誌 歌謡 を発行します。

この活動は、 中国に民俗学を成立させ、

方言・風俗・神話・歴史などの各方面 において多様な成果を生み出しました。

また大正15年 (1926) という早い時 期に、 北京留学中の青木正児氏が 歌 謡 所収の童歌約120首を翻訳して、

支那童謡集 ( 世界童話大系 第18 巻、 [東京:世界童話大系刊行会、 1925]

所収;のち 江南春 [東京:弘文堂 書店、 1941] に再録) を刊行している のも興味深いことです。

最も特筆すべきことは、 濱氏が北京 へ留学する2年前の1932年に、 劉復・

李家瑞両氏によって 中国俗曲総目稿 (中央研究院歴史語言研究所、 1932年。

1973年に台北文海出版社より影印出版。

濱文庫/新学戯曲/82) が刊行された ことです。 これには、 断片的ではあり ますが、 6000種類余りの民間俗曲が収 録されています。 劉復はその序におい て、 楽曲のついていないものを歌謡と いい、 楽曲のついているものを俗曲と いうとし、 「俗曲」 という名称からこ れを俗なるものと考えるのは間違いで、

「俗曲」 の中にはきわめて高雅な詞も 含まれており、 逆に京劇にもはなはだ 通俗的なものがあると記しています。

また翌年には、 李家瑞氏によって 北平俗曲略 (中央研究院歴史語言研 究所、 1933年。 1990年に上海文芸出版 社より影印出版。 濱文庫/新学戯曲/

229) が刊行されます。 中央研究院歴 史語言研究所、 故宮、 北平図書館、 孔 徳学校などに所蔵されている2000種類 近くの唱本、 および街頭で買い集めた 1000種類以上の唱本をもとに、 北京の 俗曲について分類・解説を行った本書 は、 中国の民間芸能について初めて系 統的な叙述を行った著作として、 内外 の注目を受けました。

濱氏が唱本を大量に収集した背景に は、 このような時代の趨勢があったの

です。 つまり五四運動・文学革命以降 の、 民間文芸に新たな価値を見出そう とする大きな歴史のうねりの中に、 濱 氏もいたといえます。

数百冊にのぼる濱文庫の唱本は、 実 に豊富で多様なジャンルと内容を網羅 していますが、 紙幅の都合上すべてを ここに紹介することは不可能ですので、

できる限り今回の展示会のテーマであ る 「京劇」 と関連のあるもの、 また特 徴的なものだけを数点とりあげます。

なお唱本に関する専門書としては、 身 近なものに澤田瑞穂氏の 中国の庶民 文芸―歌謡

・ 説唱

かたりもの

・ 演劇

しばい

(東方書店、

1986年) があり、 今回の執筆に際して も同書から多くの裨益を受けました。

3.2.2. 京劇唱本

京劇はもともと役者によって舞台で 演じられる芸術です。 しかし、 その 唱詞

と道白

せりふ

を文字で書き記せば 「唱本」

になります。 もちろんこれは他の戯曲 においても同じです。 戯曲を記した唱 本は 「曲本」 ともいいます。

濱文庫には 「京調」 と記された唱本 が多数収蔵されていますが、 言うまで

もなくこれらは京劇の唱本です。

図3 32の唱本に記された題目は、 い ずれも京劇の有名な演目であり、 二冊 目の 「捉放曹」 はまさに、 本図録の冒 頭で紹介した奥野信太郎 随筆北京 に登場する三国演義の一幕です。

3.2.3. 唱本に描かれた 「戯館子」

濱文庫の唱本に 「鼓詞月明楼」 と題 されたものがあります。

「鼓詞」 は明清時代に北方で流行し た説唱芸能の一つですが、 陸游の詩に

「斜陽古柳趙家荘、 負鼓盲翁正作場、・ 死後是非誰管得、 満村聴説蔡中郎」

(斜陽 古柳 趙家荘、 負鼓の盲翁・ 正に場を作らんとす、 死後の是非は誰 か管し得ん、 満村 説くを聴く 蔡中 郎) とあることから、 南宋前期にはす でにこの芸能が存在したと言われます。

濱文庫には 「鼓詞月明楼」 巻二しか 収蔵されていませんが、 内容は 「月明 楼」 という戯館子

シーグァンズ

(戯院) を舞台に、

そこでくり広げられる一連の出来事を 唱

うた

と白

かたり

で表現したものです。 堂児

パウタンアル

(給仕) の劉三が、 次から次へとやっ て来る客の応対にてんてこ舞いする場

図3 32 京劇唱本 (集161/1 23)

図3 34 「鼓詞月明楼」 (集162/2)

図3 35 「鼓詞月明楼」 巻頭 (集162/2) 図3 33 「校正空城計京調全本」

(集161/10)

(15)

面や、 文戯 (唱

うた

中心の演目) と武戯 ( 打

たちまわり

中心の演目) を好む客同士が、

点戯

デンシー

(演目のリクエスト) をめぐって 喧嘩する場面など、 清代の戯館子の中 の様子を生き生きと伝えてくれる貴重 な資料です。

それでは、 「鼓詞月明楼」 の冒頭の 部分を少し抜き出してみましょう (図 3 35)。

頭出点的無底洞 二出点的張飛去敢

ママ

船 三出点的秋胡把妻戯 四出点的一門五福双状元 以

ママ

共点了四出戯 再把長

ママ

班的叫一番 叫声長

ママ

班的快打

……

八旗老爺人不少 也有朝中満汗

ママ

……

个就把劉三叫 那个就叫小劉三 叫的劉三離了地 不是到

ママ

茶就是装煙 内外堂上厳了坐 又来了西城毛包光棍夾 頭裡走的旗干叫李三 後跟着劉黒還有痩馬名張三 三家毛包把楼上

拍打着卓

ママ

子叫劉三

一幕目に 「無底洞」

二幕目に 「張飛去 船」

三幕目に 「秋胡把妻戯」

四幕目に 「一門五福双状元」

全部で四幕の戯

しばい

をリクエストし 大声で座頭を呼びまする 座頭 開演の太鼓を早くと

……

八旗の旦那 招待客も多く 朝廷の満・漢の官吏まで顏を出す ありさま

……

こちらから劉三を呼べば

あちらから小僧劉三と叫びまする 劉三は足が地につく暇もないほど 慌ただしく

お茶を入れたりたばこを詰めたり

内堂も外堂も客でびっしり埋まっ たところへ

西城のごろつきどもが やってま いりました

先頭を切って入って来たのはリー ダーの李三

その後について来たのが 劉黒と 痩馬の張三

三人のならずものは二階に上がり テーブルを叩きながら 劉三を呼 びまする

このように、 「鼓詞月明楼」 巻二は、

八旗の旦那が 「月明楼」 という戯館子 で客を接待する場面から始まりますが、

彼がリクエストした四幕の京劇はいず れも有名な演目で、 当時の民衆にとっ てはなじみ深いものだったと思います。

「長班」 は 「掌班」、 劇団の座頭。 「打

」 は、 戯

しばい

の開演を知らせる太鼓を打 つこと。 「打 」 については、 同じく

「鼓詞月明楼」 巻二に、 次のようなく だりが見えます。

月明楼上来看戯 鼓打三 要開班

(白) 明公、 京外唱戯二 開戯 京里大戯館子裡都是三 才開戯 在京裡聴過戯的都知道

月明楼の戯

しばい

はといえば

三度目の太鼓の後に始まりまする (せりふ) 旦那、 よそでは二度目 の太鼓の後に戯

しばい

が始まりますが 北京の大きい戯館子では三度目の 太鼓の後にやっと始まります 北京で戯

しばい

を見たことのある人なら みな知っていることです

北京の戯

しばい

の始まり方が、 他の地方の 戯曲とは異なるというのを強調するこ とから、 北京住民の京劇に対する誇り が窺えます。

それはさておき、 話を戻せば、 八旗 の旦那が戯館子で客を接待していると ころに、 西城の 「毛包光棍夾」 がやっ てきたわけですが、 「毛包」 は北京方 言で、 いさかいをして大騒ぎを好む人 間を指します。 「光棍夾」 もほぼ同じ

意味で、 無頼漢を指します。 また 「痩 馬」 は、 妓女として人手に渡すまで養 い育てる童妓を指しますが、 もともと 揚州で盛んに行われたこの風習、 北京 にまで伝わっていたことがわかります。

この後また、 「仮皇帯

ママ

子」 (偽皇太子) と呼ばれる東城の 「毛包」 がやって来 て、 点戯をめぐっていさかいが起こる わけですが、 引用は割愛します。

3.2.4. 大鼓書唱本

「鼓詞」 に使われる扁鼓 (扁平な太 鼓、 2頁の図2 2の単皮鼓に似る) の 俗称を 「大鼓」 ということから、 「鼓 詞」 はまたの名を 「大鼓書」 といいま す。

大鼓書は、 芸人が一人で立ったまま 扁鼓と拍板 (短冊型の木片を束ねた打 楽器、 2頁の図2 2を参照) を打ち鳴 らしながら、 唱と白を交互に混ぜて一 つの物語を表現する芸能ですが、 場合 によっては、 三弦などが加わり数人で 演奏することもあります。

濱文庫には多数の大鼓書唱本が収蔵 されていますが、 中には図3 36のよう なものも見えます。

劉宝全は清末から民国初期にかけて 最も活躍した大鼓書芸人の一人です。

同治八年 (1869) に北京で生まれ、 9 歳頃より大鼓書を習い、 京劇にも造詣 の深かった人物です。 劉宝全が最も得 意とした演目は、 三国演義 や 水 滸伝 の武勇伝ですが、 図3 36の 「黄 忠馬失前蹄」 はまさにその一つです。

弓の名手黄忠が関羽と一騎討ちして

図3 36 「新編劉宝全准詞/黄忠馬失 前蹄」 (集164/30)

(16)

いる真っ最中に、 黄忠の馬が前足をつ まずかせて倒れてしまいます。 それを 見た関羽は、 年老いた黄忠を憐れみ、

またその豪勇を惜しんで、 斬らずに兵 を引き返します。 そして翌日、 再び戦 いとなった時、 黄忠は恩義に報いて関 羽のかぶとの紐を射抜くにとどめると いう、 三国演義 第五十三回 「関雲 長義釈黄漢昇」 にもとづく段物

だんもの

です。

「准詞」 (唱本によっては 「真詞」 と ある) は、 「標準的な唱詞、 正確な唱 詞」 という意味ですので、 この唱本は 劉宝全の正確な唱詞にもとづいて新し く編集したものであるということでしょ う。 このように有名な芸人の名前を掲 げたり、 または 「名班抄出」 などの文 字を入れたり、 といった体裁の唱本は、

濱文庫に多数見えますが、 おそらく版 元が商業的な宣伝効果を狙った広告の 一つでしょう (図3 37、 図3 38)。

3.2.5. 子弟書唱本

満州八旗の子弟によって始められた 子弟書は、 北方の満族の間で流行した 代表的な芸能の一つです。 雍正年間 (1723〜1735) にはじまり、 乾隆年間 (1736〜1795) に隆盛をきわめ、 清末 以降は衰退し亡びました。

子弟書は鼓詞の流れを汲んでいます が、 唱を主とし、 八角鼓と三弦で伴奏 を行います。 子弟書は旗人の子弟によっ て始められただけあって、 形式は通俗 的でも、 唱詞はかなり格調の高い文雅 なものです。 そのため、 「清音子弟書」

ともいいます。

ほとんどの民間芸能の場合、 その作 者を知る術はありませんが、 子弟書に 限っては、 作者名が判明できるものも 多くあります。 もちろんはっきりわか る形で記されているわけではなく、 歌 の冒頭または末尾にさりげなく作者の 名が歌い込まれているのです。 たとえ ば、 図3 39の唱本を見ましょう。

これは清の李玉の伝奇 一捧雪 に もとづく有名な子弟書の段物ですが、

歌の冒頭には次のように記されていま す (図3 40)。

半啓芸窓翰墨香 瀟々風雨助凄涼

半開きの書斎の窓に墨の香り漂い 瀟々たる風雨は淋しさを募らせる

第一句に 「芸窓」 の二文字が見えま すが、 実はこれが 刺湯子弟書 の作 者名です。 子弟書の作者には、 「韓小 窓」 「羅松窓」 「芸窓」 をはじめ、 「雪 窓」 「明窓」 「竹窓」 「梅窓」 「幽窓」

「閑窓」 「寒窓」 「書窓」 など、 「窓」 の つく名前が多かったのです。 ちなみに

「韓小窓」 「羅松窓」 「芸窓」 の三者は、

子弟書の元老と呼ばれました。

京劇に武戯と文戯があるように、 子 弟書にも風格の異なる二つの流派があ りました。 東城調と西城調です。 東城 調は慷慨激昴・沈雄闊大の趣があり、

三国の英雄や梁山泊の豪傑たちの武勇 伝に題材を借りるものが多いのに対し て、 西城調は凄婉低廻・纏綿緋惻を特 色とし、 悲歓離合の人情物語をその内 容とします。 たとえば 紅楼夢 第八 十七回 「感秋声撫琴悲往事」 を題材に した 「黛玉悲秋」 などは、 代表的な西 城調の子弟書段です (図3 41)。

図3 38 「龍鳳閣名班抄出/徐楊二進 宮真本」 (集/162/50) 図3 37 「燕京第一名角徳建棠曲本/

魚腸剣」 (集162/61)

図3 39 「京都新刻/刺湯子弟書」

(集/162/8)

図3 40 「京都新刻/刺湯子弟書」

巻頭 (集/162/8)

図3 41 「新刻子弟書全段/黛玉悲秋」

(集/162/26)

(17)

3.2.6. 時調小曲唱本

唱本の中で最も多くの分量を占める のは 「時調小曲」 です。 「時調」 とは

「当代はやりの曲調」 という意味であ り、 「小曲」 は単曲単篇の相対的に短 い歌を指します。 わかりやすくいえば、

当時の流行歌謡のことです。

小曲はまた 「小令」 「小調」 「小唱」

「雑曲」 などと呼ばれますが、 清の李 斗 揚州画舫録 ( 歴代史料筆記叢刊 所収、 中華書局、 1997年) には、 次の ように記されています。

小唱は琵琶・三弦・月琴・檀板 (拍板) の合奏とともに歌われる。

はじめの頃には 「銀紐糸」 「四大 景」 「倒板 」 「剪 花」 「吉祥草」

「倒花藍」 などの曲があったが、

「劈破玉」 が最も優れていた。 あ る人が蘇州の虎丘でこの歌を歌う と、 蘇州の人々はこれを珍しがり、

聴きに集まった者が数百人に達し た。 翌日にはさらに多くの人が聴 きに来た。 しかし歌者が歌を崑曲 に変えると、 みんなわっと声をあ げてすぐに散らばってしまった。

また黎殿臣という人物がいたが、

新しい曲を作るのが得意だった。

今でも彼の曲を真似る者がおり、

その曲を 「黎調」 といい、 また

「跌落金銭」 と呼ぶ。 二十年前は 咽び泣くような悲しい曲がはやり、

これを 「到春来」 といい、 また

「木蘭花」 とも呼んだ。 その後、

運河下流域の土着の曲調で 「剪 花」 を歌うことがはやり、 これを

「網調」 といった。 近年は 「満江 紅」 「湘江浪」 が流行しているが、

いずれも本調である。 「京舵子」

「起字調」 「馬頭調」 「南京調」 の 類は、 四方より伝わったものであ り、 ときどきこれを真似る人がい るものの、 魯の斤、 燕の削のごと く、 土地を変えればその本来の良 さは発揮できなくなるものである。

小曲に引子と尾声をつけ加えたも のもあり、 たとえば 「王大娘」

「郷里親家母」 などがそれである。

また 牡丹亭 、 占花魁 などの

伝奇を小曲に作り直したものもあ り、 いずれも俗曲の中の優れたも のである。

これは清の乾隆六十年 (1795) 頃、

揚州における時調小曲の流行情況を記 したものですが、 程度に差はあれ、 明 の成化 (1465〜1487) 頃より各地でほ ぼ似たような現象が見られたようです。

北方は江南ほどではありませんが、 や はりさまざまな時調小曲が次から次へ と流行しました。

濱文庫にも実に多様な時調小曲の唱 本が収蔵されています。 たとえば図 3 42のような唱本があります。

若い娘が嫁入り支度をする話です。

「陪送」 は 「嫁粧」、 つまり嫁入り道具。

娘は親にあれこれと嫁入り道具をおね だりしますが、 一月から十二月まで順 に数えながら、 季節ごとに必要な嫁入 り道具を並べ立てます。 いかにも庶民 の歌らしい俗曲です。 ちなみに 「関東 調」 は、 山海関の東つまり東北の歌を 指します。

このように一定の数字を順に数えな がら歌っていく、 いわゆる 「数え歌」

形式は、 時調小曲ではしばしば用いら れる表現手法の一つです。 たとえば、

また図3 43、 図3 44、 図3 45のような ものがあります。

これらの唱本は、 その題名を見れば わかるように、 いずれも数え歌の形式 ですが、 その内容はそれぞれ異なり ます。

図3 43の 「十盃酒賀新郎」 は祝い歌 の一つで、 結婚式で歌われたものです。

「第一杯酒」 に始まり 「第十杯酒」 に いたるまで、 新郎・新婦を祝福するめ でたい言葉を並べ立て結婚を祝う内容 です。 この類の祝い歌の唱本はほかに も多数見えますが、 たとえば 「撒帳文

/閙洞房」 (集162/4) 「喜謌詞」 (集 162/29) などが濱文庫に収められて います。

また図3 44の 「二十四糊塗」 は、 早 図3 42 「新刻十二個月関東調/姑娘

要陪送」 (集/162/32)

図3 44 「最新小曲/二十四糊塗」

(集/166/14)

図3 43 「新刻閙洞房/十盃酒賀新郎」

(集/162/34)

図3 45 「新出代十二月/百花名 十採花」 (集/164/60)

(18)

く嫁に行きたい若い娘が、 その焦りの 気持ちに気づいてくれない母親を、

「媽媽好糊塗、 愛々約」 (お母さんった ら、 本当にわからず屋なんだから。 アィー アィーヨ) と24回くり返しながら嘆く 怨み節です。 ちなみに 「愛々約」 は、

時調小曲によく用いられる囃子詞

はやしことば

の一 つです。

なお図3 45の 「百花名十採花」 は、

図3 42の唱本と同じく、 一月から十二 月まで順に数えながら、 各月に咲く花 を並べ立て、 恋に落ちた女性とその身 辺のあらゆるものを花に見立てるといっ た内容です。

このように、 たとえ同じ形式の歌で も、 その内容は千差万別で、 まさに時 調小曲の多様性を示します。 また前述 のように、 時調小曲は特に中国の江南 地域で発達しましたが、 北京にも南方 の時調小曲が伝わり出版されていたこ とが、 図3 46、 図3 47から窺えます。

3.2.7. 工尺譜

中国の伝統的な楽譜を 「工尺

こうせき

」 と 言います。 音高を 「工」 「尺」 などの 漢字で表記することから、 このように 称しますが、 西洋音楽の 「低いソ、 低 いラ、 低いシ、 ド、 レ、 ミ、 ファ、 ソ、

ラ、 シ」 にあたる音階を、 それぞれ

「合、 四、 一、 上、 尺、 工、 凡、 六、

五、 乙」 で表し、 リズムは 「。」 また は傍点で示します。 日本でも後に紹介 する明清楽をとおして普及しましたが、

大正以降、 西洋伝来の五線譜にとって かわられました。 唱本に使われる楽譜 はもちろんすべて工尺譜です。

図3 49の 「簫笛譜」 には 「定価大洋 二角」 と記されており、 これらの唱本 が商品として流通していたこと、 また その相場を知ることができます。

3.2.8. 教化唱本

教化唱本とは、 社会の風気を教化す るために作られた唱本を指しますが、

醒世歌や勧善劇などの内容が主です。

たとえば濱文庫には図3 50、 図3 51の ものがあります。

「洋煙」 はアヘン。 これらはいずれ もアヘン禁止を唱える唱本ですが、 ア ヘン中毒者の醜態や不幸な結末を尽く 並べ立て、 アヘンの害毒を力説します。

アヘン禁止を唱える教化唱本は、 清末 から民国初期にかけて多数出版されて いますが、 それだけアヘン問題が社会 的に深刻であったことを示します。

これらのアヘン禁止を唱える教化唱 本が盛んに出版された背景には、 一部 の知識人や政府の働きかけもあったと 思われます。 図3 50と図3 51を較べれ ばわかるように、 図3 51の唱本はかな り立派な体裁をもっており、 版元の名 の下には印までしっかり墨刷りされて います。 唱本においては、 きわめて珍 しいことです。 そこで図3 51の唱本は、

地方政府または民間団体のバックアッ プによって、 それなりの正当性をもっ 図3 46 「南方蕩調/打骨牌」

(集/163/81)

図3 47 「南方雅曲/改良時調/調兵」

(集/164/8)

図3 48 「新刻/弦子工尺字」

(集/162/40)

図3 49 「二集一冊/簫笛譜」

(集/162/10)

図3 50 「新出/勧戒洋煙/快戒洋煙」

(集164/3)

図3 51 「新刻 四回/戒洋煙文」

(集162/36)

(19)

て出版された可能性が考えられます。

むろん題名が 「戒洋煙文」 とあるので、・ 実際に歌われていたとは限りません。

しかし唱本と同じく薄い小型冊子の形 態に仕上げているのは、 やはり民衆に なじみやすい形で、 広く流布させたい、

という出版者の思慮があったからでしょ う。

実は、 清代中期以降このように社会 風気を教化しようと努力した善士 (善 を行う民間人士) たちの活躍が目立ち ます。 彼らは 「善会」 を組織し善挙に 尽力しましたが、 教化唱本の出版もそ の一つでした。 もちろん教化唱本は無 料で配布されましたが、 一定期間流布 した後は、 板木が書肆に受け渡され、

書肆によって増刷・販売されることも ありました。

咸豊・同治期 (1851〜1874) に活躍 した善士の一人に、 余治という人物が います。 彼は多くの孤児を集めて劇団 をつくり、 勧善懲悪の教訓を趣旨とす る多数の戯曲 (善戯) を自ら創作して は、 劇団を率いて地方を巡回し、 善戯 を上演することで民衆の教化に努めま した。

図3 52の 「 砂痣」 は余治の創作に よる善戯の一つですが、 あらすじは次 のとおりです。 戦乱の中で妻子とはぐ れてしまった双州の太守韓廷鳳は、 後 継ぎがほしくて姜氏を後妻に迎えます が、 実は貧乏な上に病気にかかった夫 のために、 彼女が売られてきたことを 知った韓廷鳳は、 気の毒になり、 銀百 両を添えて姜氏を返します。 そのお金

で病気を治療してすっかり元気になっ た姜氏の夫は、 商売に出かけて帰って 来る際に、 韓廷鳳の後継ぎとして一人 の少年を買ってきますが、 なんとその 少年は戦乱の時にはぐれた韓廷鳳の息 子であったという話です。

3.2.9. 時事唱本

唱本には情報メディアの役割をした ものもあります。 いわゆる時事

ニュース

唱本で す。 社会で起きた事件を、 芸人が素早 く歌にして、 民衆の間に流布させたも のと見られます。 たとえば濱文庫には 図3 53、 図3 54の唱本があります。

「査抄」 は 「強制捜査」、 「楽」 は

「喜ぶ」、 「楽十声」 は 「一声」 から

「十声」 まで順に歌う数え歌の形式で す。 言うまでもなく、 これらは光緒二 十四年 (1898) の 「戊戌の政変」 の様 子を伝える唱本ですが、 図3 53の 「査 抄康有為」 の中から数句を抜き出して みましょう。

出奇事又一番 列位不知聴我言 奸党有為太不端 隠悪揚善多不堪 有為做事欺了天 既読詩書知礼儀

……

有為立的会保国

内中還是汗

ママ

官多 如今事敗全各散 有逃 有頭割 皇上又施一分徳 亦

ママ

往不究

ママ

自顛奪

またしも奇妙な事件が起きました 皆の衆 存じなければ 拙者の話を お聴きなされ

奸党の康有為 身のほどしらず 悪を隠して善を装う まったく不届 きな奴

康有為は悪事をなして お天道さま を欺きました

経書を読んだからには 礼儀を知る べき

……

康有為の立てた保国会 メンバーはやはり漢官が多く 今や失敗して各々散らばり

逃げた者もいれば 処刑された者も います

それでも皇帝さまは慈悲を賜り 過ぎたことは咎めないつもり

康有為らの維新運動が当時の民衆に は、 「奸党」 による反逆として認識さ れていたようです。 しかも康有為のつ くった保国会のメンバーは漢族の官吏 が多かったと揶揄することから、 満族 の間で流布した歌として見ることもで きるでしょう。

時事唱本にはまた図3 55、 図3 56、

図3 57のようなものもあります。

これらはいずれも、 咸豊十年 (1860) に連合軍が北京に攻め込んだ時のこと を伝える唱本ですが、 前掲の戊戌政変 の場合と同じく、 今日から見れば実に 荒唐無稽で夜郎自大な情報が、 当時の 民衆の間で一人歩きしていたことが読 み取れます。

図3 52 「新刻二簧/ 砂痣」

(集162/44)

図3 53 「査抄康有為」

(集162/17,1)

図3 54 「康有為人人楽十声」

(集162/16)

(20)

このように事実とはかけ離れた 「誤 報」 が、 しばしば時事唱本によって民 衆の間に流布したようですが、 その背 景には、 民衆の無知と蒙昧のほかに、

清朝政府による情報統制があったと考 えられます。 また場合によって、 デマ を流す 「偽唱本」 が、 前述の教化唱本

のように、 無料で民衆に配布されたの かもしれません。

3.2.10. 唱本の出版と流通

唱本には 「新編」 「新刻」 「新出」

「最新」 などの文字がしばしば見受け られます (図3 36、 図3 39、 図3 44、

図3 45)。 これはもちろん書肆による 宣伝文句の一つですが、 その背景には 新しい唱本が次々と刷られて民間に流 布した出版隆盛の状況もあります。

前に引いた李斗の 揚州画舫録 は、

当時大流行した 「小郎児曲」 という時 調小曲について、 次のように記してい ます。

郡中の刻工は多く詩詞や戯曲を 刻して利益を得ている。 最近、 こ の曲を翻刻した書肆は数十軒あり、

(その唱本は) 遠くの荒村僻巷の 小間物屋にまでおよび、 いたると ころにおいてある。

揚州府内の板木彫師たちが、 詩詞や 戯曲の板木を彫ることで大もうけして いること、 また一つの歌が大当たりす ると、 数十軒の書肆が競ってその唱本 を出版したので、 町から遠く離れた辺 鄙な田舎の雑貨屋にまでその唱本が置 かれるほど広く流通したことが記され ていますが、 李斗のこの記述は、 濱文 庫の図3 58の資料によって実証され ます。

一見、 同版のように見えますが、 よ く観察すると、 文字の形などからそう ではないことが判明します。 また巻末 の刊記においては、 右側の致文堂の唱 本は蔵板元の名前が削られています

(図3 59)。 致文堂が他の書肆から板木 を買いとり、 新しく表紙をつけて出版 したことがわかります。

このようにわずか数葉しかない片々 たる唱本でも、 売れ筋がよければ、 各 書肆が先を争って出版したのです。 濱 文庫の唱本に関していえば、 北京で出 版された唱本は、 その多くが致文堂と 宝文堂から出ていますが、 この二つの 書肆はともに崇文門外の打磨厰東口内 にあったらしく、 この一帯に唱本屋が 軒を連ねていたのでしょうか。

3.3. 濱文庫の明清楽 3.3.1. 明楽と清楽

濱一衛氏は中国の戯曲の研究に携わ る傍ら、 日本の明清楽についても研究 を行ない、 珠玉の論文を残しました。

明清楽に関してはまだ系統的な研究が ほとんど行なわれていなかった当時、

濱氏の研究はまさに草分け的存在であっ たと言えます。 特に氏による 「清楽伝 承系譜図」 は後世の多くの明清楽研究 者の依拠するところとなり、 その学術 的価値は極めて高いと言えます。

明清楽はもともと 「明楽」 と 「清楽」

の総称ですが、 文字どおり日本に伝わっ た明の音楽および清の音楽を指します。

明楽で圧倒的に主流を成したのは、

寛文年間 (1661〜1673) に来日した福 建人魏

し えん

(1618〜1689) によって将 来された 「魏氏楽」 です。 唐詩・宋詞 などを主な内容とし、 華音の歌に11種 類の管・絃・打楽器による演奏を伴う 魏氏楽は、 京都の漢学者を中心に、 公 家・武士を含む教養人の間でもてはや さ れ ま し た 。 そ の 結 果 、 宝 暦 九 年 (1759) 頃には 魏氏楽器 という書 物が、 また明和五年 (1768) には 魏 図3 58 「新編改良大鼓/韓信算卦」

(集164/31、 集164/32) 図3 56 「外国/洋人嘆十声」

(集163/7)

図3 57 「頭本 洋人進京/二本 洋人 回国/三本 太后回朝」

(集163/54)

図3 55 「日本国 順民/洋人進京/

大元帥」 (集162/62)

図3 59 「新編改良大鼓/韓信算卦」

巻末 (集164/31, 集164/32)

(21)

氏楽譜 という明楽譜が、 さらに安永 九年 (1780) には 魏氏楽器図 が刊 行され、 文化人の間で広く読まれまし た。 濱文庫には 魏氏楽譜 と 魏氏 楽器図 が収蔵されていますが、 いず れも九州大学附属図書館蔵本の写真版 であるので、 ここでは書誌情報を掲げ るにとどめましょう。

魏氏楽器 一巻

(九州大学中央図書館蔵本写真版) 魏子明輯、 明和五年 (1768)、 芸 香堂板 (新字音楽/12) 魏氏楽器図 一巻

(九州大学中央図書館蔵本写真版) 筒井郁 (景周) 撰、 安永九年 (1780)、 松寿亭板

(新字音楽/13) ところで、 宝暦年間から明和年間に かけて大変流行した明楽ですが、 化政 期 (1804〜1830) を境に、 新たに伝来 した清楽によってその流行の座を奪わ れます。 清楽は長崎を訪れた清の貿易 船の船主及びその乗組員によって伝え られましたが、 その内容と性質は明楽 より遥かに通俗的であり、 実は前項で 紹介した時調小曲や戯曲がそのもとに なっているのです。

清楽は明楽と同じく、 華音の歌に管・

弦・打楽器による演奏を伴いますが、

その異国情緒豊かなメロディーとユニー クな楽器ゆえに、 広く人気を博しまし た。 そしてやがては長崎だけでなく、

三都を中心に各地に広まり、 日清戦争 の勃発直前まではやり続きました。

清楽は幕末を経て明治初期から中期 にかけて隆盛のピークを迎えましたが、

その前後に刊行された清楽譜は、 現存 するものだけでも再版・重刻を除いて 計84種類が確認されています。 濱文庫 にも7点が収められています。

以下これらの清楽譜について紹介し ますが、 紙幅の都合上、 比較的重要と 思われる二点についてのみやや詳しく 説明し、 その他の資料については簡単 な情報と写真のみを掲げることにしま す。

3.3.2. 清楽曲牌雅譜

一帙三巻三冊、 和装袋綴、 中本、

活字版 (集51/1〜3) 紺色無地の帙に 清楽曲牌雅譜/四 明胡小蘋/題簽 と記された短冊型の 題簽がついています。 第一冊の見返に

「瓊浦河副作十郎編選/清楽曲牌雅譜

/丁丑夏日刊杏村書舎蔵版」 (図3 60) とあり、 長崎の人、 河副作十郎が編纂 し、 明治十年 (1877) の夏に刊行され たことがわかります。

「月琴贅言」 と題された冒頭の序文 は、 題簽を書した四明 (寧波) の胡小 蘋こと胡震が、 光緒三年 (1877) 六月 に兵庫県で著したものですが (図3 61)、

清楽の代表的な楽器である月琴につい て、 次のように述べています。

ちょっと前まで、 月琴は長崎に しかなかった。 それは商船によっ てもたらされたものであった。 し かし今は両京 (東京・京都) の男 女にこれ (月琴) を好む者が頗る

多く、 三弦 (三味線) の代わりに 四絃 (月琴) を弾くようになった。

女性たちがみな満月 (月琴) を懐 に抱いているのを見かけるように なった。

月琴は琵琶の変形である阮咸から派 生した弦楽器ですが、 胴が満月のよう に丸く扁平な形をしており、 音は琴に 似ています。 四弦が張られ、 二弦ずつ 同音を出します (2頁の図2 2を参照)。

清楽曲牌雅譜 の編者である河副 作十郎は、 長崎の唐通事家系の帰化人 ですが、 この時期、 大阪で 「杏村書舎」

という中国語の私塾を開いていました。

清楽曲牌雅譜 の蔵板元が 「杏村書 舎」 となっていることから、 この楽譜 は作十郎の自費出版によることがわか ります。

なお、 この楽譜の出版動機について、

作十郎は自序の中で次のように述べて います。

そもそも中国の月琴が誰によっ て作られたかはわからない。 その 楽譜を見るかぎり、 古代の雅楽で はない。 もっとも上・尺・工・六・

五は、 古楽の一越調の宮・商・角・

徴・羽にあたる。 雅な古楽におよ ぶ曲は一つもないものの、 これ (月琴音楽) によって性情を養う ことができる。 月琴音楽は以前、

長崎ではやったが、 ようやく京攝 (京都・大阪) にまで伝わり、 今 は関西でもこれを好む者が多い。

そこで、 私蔵の楽譜を上梓し、 同 好の士女に贈る。

明清楽は明・清の音楽ですので、 も ちろん工尺譜を使いますが、 その 「上・

尺・工・六・五」 の五つの音階が、 雅 楽の一越調の 「宮・商・角・徴・羽」

にあたると、 作十郎は述べています。

また以前は長崎で流行した清楽が、 今 は関西でもはやり出したので、 自分の もっていた清楽譜を出版して同好の士 女に贈ると書いています。

ところで、 作十郎がもっていた楽譜 とは、 いったい如何なるものであった 図3 60 清楽曲牌雅譜 見開き

(集51/1)

図3 61 清楽曲牌雅譜 序 「月琴贅 言」 落款 (集51/1)

参照

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