瀬 戸 内 町 の 竈 神 信 仰
−加計呂麻島を中心として−(続)
窪 徳 忠
( D ) 神 名 な ど
中国の道教では、ざまざまなものを神としているが、面白いことに、それらの神々にはみな 名前がつけられている。たとえば、『晴書』の「経籍志」によれば、最高神とされている元始 天尊は楽靜信という名前である。また、人間の身体のなかにも多くの神々がいると説くが、た とえば頭髪の神は蒼華、眼の神は明上、舌の神は通命、心臓の神は丹元、肺臓の神は皓華、腎
(1)
臓の神は玄冥という名だと説く。さらに人間の体内には、いわば電神と同様に、その人間の毎 日の言動を監視していて、天の神に報告し、早死きせてしまおうとたくらんでいる三戸なる鬼 神的なものが巣食っているとも説いているが、その三戸にもそれぞれ名前があるとしている。
道教の三戸説は、日本人にはあまり馴染みがないので、いささか横道ながら、ここでごく簡 単にその内容を紹介しておこう。
人間の体内には三戸九虫がいるが、三戸は庚申の日の夜に人がねると上天して、人間の犯 した悪事をすべて天帝に告げ、人を早死させようと企んでいる。人がもし庚申の夜に徹夜をす れば三戸は上天できないが、庚申の日の徹夜が守庚申である。そうして3回守庚申をやれば三 戸は恐れおののき、7回やれば三戸は永久に絶えてしまう。そうなれば精神は安定し、身体は やすらかになって、その人の生命は天地とともに永らえることができる。だから、「道」を学 ぶ人は、つねに三戸をなくすように心がける必要がある。三戸のうちの上戸は彰据、中戸は影
(2)
盾、下戸は彰矯という名前である。
このようなきわめて簡単な紹介だけによっても、三戸が竈神と同様な司過神的な機能をもつ ものだということは、理解していただけたと思うが、実は、その起源が3世紀ごろにあり、し かもその信仰は今日まで続いているのだから、かなり内容に変遷がある。たとえば、報告内容 にしても、3,4世紀から8,9世紀ごろまでは、悪事のみとされていたのに、それ以後には 善悪の双方を報告すると考えられるようになった。その名前にしても、居場所にしても、同様
(3)
である。だから、同じくながい歴史をもつ電神について、ざまざまな異説力説かれるのは、当 然といわなければならない。
(1)体内の諸神名については、道蔵第190冊所収の『黄庭内景玉経注』によった。道蔵の冊数は上海版
道蔵のそれである。(2)以上は、『太上三戸中経』(道蔵第694冊所収『雲笈七銭』巻81所引)によったが、三戸説とその信 仰のややくわしいことについては、拙著『庚申信仰の研究』上(1980年原書房復刻本)、第一章によっ
て承知していただきたい。(3)くわしくは、拙著『道教の世界」(1987年、学生社刊)225頁〜229頁の表参照。
− 2 −
篭神の名前については、古くから祝融、回禄、炎帝などの説があったが、その他になお燧人 氏という説もあれば、張槐、張単、張禅、張宙、張定福などという説もある。さらに蘇吉利だ
(4)
ともいわれている。ただし、いまでは篭神の名前をきいて即座に張槐とか、張単だと答える人 はきわめて少なく、せいぜい張姓だと答える程度にすぎず、大半の人々は知らない。なお、道 教では、東厨司命通天定福真君という号を竈神に上っている。
中国色がかなり濃厚だと考えられる沖縄県地方の竃神信仰においても、その傾向は同様で、
ほとんどの人はフィヌカンの名を知らなかった。知らないというよりも、むしろまったく無関 心だといった方が適切であろう。そうして、私の知るかぎり、『八重山島大阿母由来記』の「御 蔵元火神由来之事」の条にオタイカネというフイヌカン名が記されているのを除けば、池間島 の一部にミムイノヌシ、平良市松原にミズマエ(イ)ガナスという名が伝えられているにすぎ なかった。しかも、その名の由来などは知るべくもない。この点は中国との大きな相違である。
おそらく、神々に人間のような姓名をつけることが、県下の人々の考え方にあわなかったので、
受容しなかった点にその原因が求められるのではないかと考えるが、いかがであろうか。那覇 の孔子廟の敷地の一廓に祀られている天尊はしきりに信仰しても、その名が聞仲であることに
(5)
は全然考え及ばず、蛎祖をブサとよんで祈願の対象としながら、それ力淋氏の娘であるという 伝えなどはまったく問題にしないのは、その明証となるのではないかと思っている。
加計呂麻島においては、今年度の調査においても、ヒニャハムガナシの姓名を知っている人 にはまったく出会えなかった。実久で、名前はときいたら、それはヒニャハムガナシだという 答えが返ってきたにすぎなかったことは、篭神の名前などについては一切無関心だというよい 証拠となるのではなかろうか。この点は大和・宇検・住用の3村、ざらには徳之島などとも同 様である。私は、奄美地方の電神信仰は、以前琉球王国の支配下にあったときに、同地方のそ れが流入したものと考えているが、その点からみても当然のことであろう。あるいは、神名な
どはあまり穿鑿したがらない日本的感覚の働いた結果かもしれない。
竈神の数については、夫婦とする『酉陽雑俎』を除けば、中国の文献資料はみな1人と記し ている。近ごろの民間の信仰でも、まれに夫婦2人とすることもないではないが、多くは1人 である。印刷きれた神像も、戦前の夫婦2人とした例を除けば、最近はすべて1人である。従っ て、中国では、多くの場合、古くから今日まで、篭神は1人と考えられていたとみても大過な いであろう。
ところが、沖縄県地方では、私力調べたかぎりにおいてのことだが、中国のように夫婦2人 と答えたところは1カ所もなかった。そうして、3人、もしくは1人、あるいはわからないと 答えたところばかりであった。そのうち、3人と答えたのは、竈神のよりしろが3石を鼎形に
(4)これらの篭神名はいろいろな文献資料にみえているが、陳沢明『諸神的起源』(香港、河洛出版社刊)
には、それらの資料をまとめて紹介してある。なお、炎帝は火をつくったので、死後竜神となった という「准南子』の説は、火と篭神との関係を示す話として注目される。
(5)天尊すなわち九天応元雷声普化天尊を聞仲とすることは、宗力・劉群『中国民間諸神』(1986年、
河北人民出版社刊)152頁参照。
おいた原初的な竜にもとづく結果からの着想だろうと考えられる。1人というのはごく当然の 考えだろうし、不明というのは関心が薄らいだためだろうと推測される。とにかく、神数の点 においては、県下の人々の考えがかなり加っているように考えられる。
加計呂麻島では、1人とのべたのは芝、木慈、須子茂、嘉入、瀬相、西阿室、於斉、花富、
佐知克、与路および古仁屋の11シマであった。また、大和村の今里、宇検村の宇検と名柄でも、
同様に1人だとのべた。そうして、2人とのべたところはなく、芝と薩川とで3人と答えた人 もいたが、薩川では兄弟3人だといった。その他の2lシマでは不明といった人が多かったが、
嘉入、瀬相、西阿室、花富、与路では、前にあげたように1人だといった人もあった。従って、
神数についてはあまり明確な認識をもった伝えはないといってもいいのではないかと考えられ る。なお、今里を除く大部分の大和村や、宇検村の田検、芦検、久志でも神数は知られていな
い。
竃神の性別について、中国では明記した文献資料はほとんどない。始めから、男神を前提と しているように思われる。そのことは、氏名からみても明らかであろうし、『酉陽雑遡に美 女のようだけれども子卿とよぶ妻があるとみえている点からも確められよう。ただ、『史記』
の「封禅書」に、前漢の高祖が天下を平定したのち、長安においた晋巫の祀る「先炊」という 神は、「古炊母神」だという注がある。唐の張守節の『史記正義jの説である。けれども、他 の資料には「炊母」という神はみえないので、果たして張守節の説を正しいと考えていいかど うかはわからない。いまひとつ、道教でも女性とみる説がある。すなわち、『太上霊宝補謝篭 王(妙)経』には
道言。昔登崖需之山◎有一老母。独処其中。莫知其由。(中略)天尊日。惟此老母。是名 種火之母。能上通天界。下統五行。達於神明。観乎二無。在天則為天帝。在人間乃為司命。
又為北斗七元使者。主人寿命長短。富貴貧賎。掌人職禄。又為五帝竈君。管人住宅。十二 時辰。普知人間之事。毎月旦(日)。記人造諸善悪。及其功徳。録其軽重。夜半奏上天曹。
(6)
定其簿書。悉是此母也。
とみえている。その説によれば、崖帯山中に独居している「種火之母」とよぶ老母は、天界や 五行に通じ、天にいくと天帝、下界にあるときは司命となる。また、北斗七元使者としては人 間の生命の長短や貧賤、職録を司り、五帝電君となっては、つねに人々の住宅や人間界の一切 のことを管理する。そうして、人間のやることの是非善悪や功徳すべてを記録して、毎月−
も ち ろ ん 旧 暦 を い う − の 朔 日 一 別 本 に よ れ ば 朔 旦 一 の 夜 半 に 天 神 に 奏 上 す る と い う わ け である。だから、竈神のもとの神は女性、とくに年輩の女性ということになる。
道蔵に収められている竃神関係のもうひとつの経典である『太上洞真安竃経』には、太上元 始至尊−いわゆる元始天尊であろう−が罠需山の金銀壇に降臨すると、三界十方の多くの 神仙たちが朝見のためにやってきたが、そのなかにあった五帝の司命神で、人間統御を職務と
(6)『太上霊宝補謝篭王(妙)経』は、道蔵第180冊所収。全1巻。撰者不詳。また、『敬竃全書』にも
収められている。− 4 −
する「炊母神」が、近ごろ凡情におぼれて過ちを犯す人間が多いと言上したとみえている。し かもその後文には、「司命篭君」という語が記されているから、ここでも竃神を女性神として
( 7)
いるように思われる。従って、道教では1部で竈神を女性神とみる説のあったことが明らかで ある。けれども、一般的には男性神としている。よくわからないけれども、竈神を女性神とみ る説は、時代が下るにつれて男性神とする説に圧倒されて人気を失い、いつしか消滅してしまっ たのではないかと考える。いづれにしても、現今では、道教々団内においても、竜神は男性神 とされているのである。
これに対して沖縄県地方では、男もしくは男神らしい、女神らしい、および3人のうち1人 は男神などと告げたところもあったが、多くの人たちは、わからないとのべた。わからないと いうのが、偽らざるところだろうと思われる。そうして、女神らしいとみる根拠は主に女性が 祀る点におかれていて、確たる根拠があるわけではない。ただ、国頭村辺土名で、フイヌカン
は男神で、女性がおがむのを喜ぶとのべた人がいたが、これは玉皇上帝の3男が女好きなので、
父の玉皇上帝はやむなく、つねに女性がみられる炊事場にいる竃神にしたという中国の民話と
(8)
共通しているので、注目をひく。おそらく、中国から伝えられた話ではなかろうか。かりに直 接伝えられたのでなくとも、両者のあいだにはなんらかの関係があったに相違ないと思われる。
加計呂麻島で、ヒニャハンガナシを男性神らしいとのべたのは、於斉の1人だけで、芝、実 久、薩川、瀬武、阿多地、武名、嘉入、俵、瀬相、西阿室、於斉、呑之浦、押角、花富、勝能、
佐知克、与路、および古仁屋、清水、節子、請阿室では女性神、もしくは女性神らしいと考え ている。於斉で男性神らしいとのべたのは、ユタにつくと大へん荒々し<なるから、気性の荒 い神と思われる。だから、男性神と考えるという理由であって、確たる根拠があるわけではな い。女性神らしいとのべたところも同様で、武名、嘉入、瀬相、呑之浦、押角などでは女性が 拝む点が根拠であり、与路では嫁が世話するという点が論拠となっている。従って、これまた もとづくところは左程明確な根拠があるわけではない。薩川では、男女3人とのべた人がいた ので、その内訳を尋ねたら、そこまではわからなかった。
なお、芝、木慈、須子茂、西阿室、於斉、呑之浦、花富、諸数、生間、佐知克、秋徳、諸鈍、
渡連、安脚場、与路、古仁屋、清水、請阿室の18シマでは、神の性別はわからないとのべた人々 が多かった。以前の伝承がいつしか忘れられたのか、始めからこの点には注意が払われなかっ たのか、よくわからないが、おそらくあまり重要なことではないので、最初から注意されなかっ たのではないかと推測される。ちなみに、以上の神名、神数、性別については、『奄美の島か けろまの民俗」その他の書には、まったく言及されていない。
実久、阿多地、須子茂、武名、嘉入、西阿室、於斉、押角、花富、勝能、秋徳、諸鈍、与路、
古仁屋や請阿室などでは、主人が自分の妻、すなわち主婦を冗談にヒニャハムガナシ、または
11 78
1『太上洞真安竃経』は、道蔵第32冊所収。全1巻。撰者不詳。
この話に酷似する伝説が『諸神的起源』55頁に収められている。なお、私のきき書については、拙
著『増訂沖縄の習俗と信仰』(1974年、東大出版会刊)502頁参照。
雛
珂好報
呼亜晶︒亜
否亜●輔■亜■
一︾餌
廿や■酢●恥■
一●矛悪寺
第1図ウチガミサマ(須子茂)
よりしろの形が少しくずれているが、そのままにしてある
ヤーノヒニャハムなどとよんだ。そのうちで古仁屋では、ヤーノヒニャハムガナシをおこら すなよなどといったという。与路では主婦の他に、戸主、老人、主人夫婦をいう場合もあれば、
重宝がられている人をそうよんだこともあったそうである。これに対して、薩川、瀬武、木慈、
俵、瀬相、於斉、諸数、勝能、佐知克、安脚場、清水、網野子や節子では、いわない。また、
芝、呑之浦、生間、渡連などではわからないということであった。このふざけたよび方は、以
(9)
前に報告したように、徳之島の面縄や阿権、および鹿児島でもいうのだから、おそらく加計呂 麻島でもいう場合があったに相違ないと考えられる。薩川などの13シマではいわないように告 げられたが、それらのシマでももう少し大ぜいの人にきいたならば、以前はいっていた由が判 明するかもしれない。芝以下4シマのわからないというのも、同様であろう。主婦などをヒニャ ハムガナシとよぶようになった理由はよくわからないけれども、いまのところ私は、主婦など の女性が篭神を祀っていたためだろうと考えている。そうして、その分布範囲は、断言はでき ないけれども、おそらく徳之島以北の地域であり、鹿児島方面から伝播してきたのではないか と臆測している。中国や沖縄県地方には、このようなよび方はないようである。従って、この よび方は加計呂麻島の竈神信仰が、鹿児島方面のそれの影響をもうけていることの一証となる のではないかと考えられる。ちなみに、大和、住用、宇検の3村を調査した際には、このよう なよび方のあることを知らなかったために、きかなかったので、わからない。
沖縄県地方では、分家する際には、本家の篭の灰をわけて持参する場合が多いのに対して、
加計呂麻島では、これまで調査した範囲内では、そんなことする家はないとのことであった。
(9)拙稿「徳之島の竈神信仰」(沖縄国際大学南島文化研究所「徳之島調査報告書(2)、1985年刊所収)
85頁参照。
− 6 −
また、沖縄県下では、結婚のときに嫁が実家の董神を拝したり、婚家先についたらまずそこの 竃神をおがむ場合がかなり多いけれども、加計呂麻島ではまったく行われていなかった。これ らの2点は、さきの主婦などを冗談にヤーノヒニャハムガナシとよぶこととともに、沖縄県地 方との相違点となるであろう。
(E)祭祀日と祭祀
中国では、一般に神々はその誕生日に祀るのが原則ときれている。現在、竃神の誕生日は8 月3日一本稿でいう月日は原則として旧暦である。以下同じ−と伝えられているが、少な
くとも台湾ではその日に祀る人はあまり多くないようである。竈神の誕生日をこの日に定めた のがいつごろのことだったかはっきりしていないけれども、私はおそらく明代ではなかったか
と考えている。清代の蘇州地方の年中行事をのべた『清嘉釧巻8の「竃君生日」の条には
(八月)初三日。為竈君生日、家戸具香蝋素差。以祀天王堂及福済観之竃君殿。進香者絡 鐸終日。
と記されているから、本書のまとめられた19世紀前半ごろの蘇州地方の人々が、8月3日に竃 神を祀っていたことは事実である。けれども、竜神に上天して玉皇上帝に悪事を告げられては 困るので、次第に誕生日の祀りよりも、上天日である12月23日か24日の祭祀の方がきかんにな り、それにつれて誕生日の祀りはすたれていったのではないかと思われる。もっとも、毎日朝 晩主婦が線香1本を供えて拝むことは、当然の習慣としていまなお行われている。
沖縄県地方では、私の調べた範囲内の約80%の人々が、フイヌカンは上天するとのべた。そ うして、残りの15%<、らいがわからないといい、残りは上天はしない、そんなことは知らない とのべた。ただ、上天するとのべた人々の大半は、上天日を12月24日としているけれども、な かには12月25日、12月27日、12月吉日だなどと信じている人々もいた。そうして、その日にそ れぞれそれなりの供物を供えて、主に年輩の女性か主婦が拝むが、まれに戸主、または男性が 拝む場合もある。また、老婆と嫁が並んで拝むこともあれば、たとえば12月24日は男性で他の 日は女性、もしくはその逆などと、日によって拝者の性別が異なる場合もある。さらに、毎日 拝む場合が多いけれども、そのようなところでは毎月朔望の日を重視する家が少なくない。面 白いことに、台所の煤のなかには1年間家族の人々のおかした悪事が入っているから、そのま ま掃除もせずに祀ったら、竜神にそれらの悪事をすべて天帝に告げられてしまうといって、祀 る前に台所の煤払いをするところがある。そのような理由づけはしないけれども、事実祭祀前 に煤払いをする家はかなり多い。この点は、台湾と共通していて注目される。大陸のことは、
うっかりして、昨1988年の秋にいった折にもきかなかったので、わからないが、おそらく煤払 いをするところもあるのではなかろうか。次回訪中の折には、ぜひ確かめてみたいと思ってい
る 。
私は前回の報告で、加計呂麻島では芝、実久、諸鈍、渡連などの4シマしかヒニャハムガナ
シが上天する話をしらない旨を報告した。今回の調査でも、かなり努力して竈神上天説の名残
りをざがして廻ったけれども、ようやく芝、実久、佐知克、諸鈍、渡連、与路の6シマできき
だせたに止まった。けれども、私にはこんなわずかなシマだけにしか竃神上天説が知られてい
ないことは、まことに不審でならない。というのは、すでに長沢和俊が、笠利町に2部所蔵さ
⑩
れている『日柄吉凶控』に、電神上天説のみえていることを報告し、私もまた同町里在住の岡 本隆二よりまったく同様の説明をうけたためである。長沢の報告によれば、笠利町城間在住の 中場源太郎所蔵の『日柄吉凶控』の「火ノ神出入ノ事」の条には
子
庚 根 リ 屋 ヨ リ 家 二 入 ル 午
亥
癸 家 ヨ リ 根 リ 屋 二 入 ル 巳
未
丁 家 ヨ リ 天 二 登 ル
丑寅
甲 天 ヨ リ 家 二 入 ル 申
とみえ、条項名の下には所蔵者の
昔は火の神かまどの神にシューギ(シトギ)ワンに二つ入れ、酒をカンビン二つに入れて ミキをつくり、ミキをワン二つに入れて神に捧げた。
という説明が書きこまれている。また、同町佐仁在住の南実太郎所蔵の「年中日柄見』の「火 神出入」の条にもほぼ同様に
寅 亥
甲 天 ヨ リ 家 二 入 ル 癸 家 ヨ リ ネ リ 家 エ
申 巳
子 未
庚 ネ リ 家 ヨ リ 家 二 入 ル 丁 家 ヨ リ 天 二
午 丑
と記きれ、かつ条項名の下に所蔵者の
昔はどんな家にもイロリに火の神がいた。家に一週間、ネリヤに一週間、天一家一ネリヤ と一週間づつ歩いていた。火の神には九月神月にミキを捧げる、願立てには米で団子を作 り祈る。お礼にはミキ、オゼン二つ、皿に入れたもの五品、七品を捧げてお礼した。ヒナ ガナシ(火神様)という。
との説明文が附記きれているという。
後者の表紙には「昭和拾六年正月改」と記きれ、前者はペンがきの由だから、おそらく両者 ともそのころ相前後して筆写されたように思われるが《その原本の記された年代は不明である。
けれども、いわゆる『大雑割類がしきりに作られたのが江戸中期以後のことだから、多分18 世紀の後半か19世紀の前半ごろの習俗を反映しているように臆測される。従って、両者の説明 にでてくる「昔」とは、その以後、これまたまったくの臆測にすぎないが、19世紀の後半、明 治のなかばすぎ以後を指しているのではないかと考える。もしそうだとすれば、それから以後
⑩長沢和俊「奄美のトキ双紙について−奄美日柄見資料集成一(「南日本文化」第4号、1971年、
鹿児島短大南日本文化研究所刊)22頁以下による。
− 8 −
しばらくのあいだは、少なくとも笠利町方面の多くの人々のあいだには、竜神がネリヤ(トネ ヤと同意の建物で神をまつる)→家→天→家→ネリヤ→家の順で、各所に約1週間ずつ滞在し つつぐるぐる廻っていると信ぜられていたことになるわけである。そうして、おそらく多くの 家々では、20世紀の前半ごろまではこの説を承知していて、両者の説明にあるような竃神の祭 祀を行なっていたことと判断される。なお、上記のような竈神が逐次ネリヤ、家、天の順で廻 る説の根拠は、私は知らない。ぜひ博雅の示教をえたい。また、天から家に入った際の滞在期 間は、干支を調べてみると、甲寅の場合も甲申の場合も、ともに9日間となり、そのときだけ、
すなわち家にいるあいだだけ、他の場合に比して2日多い。その理由も不明なので、あわせて 教えていただければ、幸いである。
それはとにかく、笠利町は奄美大島の最東北端に位置し、瀬戸内町は最西南端にあり、島内 としてもっとも遠い関係にある。けれども、いかに距離が遠く、かつ交通がまことに不便で、
情報伝達が至難であった「昔」のころとはいえ、両町地区のあいだに全然関係交渉がなかった とは思われない。細々ながらでも、なんらかの連絡はあったのではなかろうか。ことに信仰習 俗の場合には、意外にはやく伝達きれるのではないかと考えられる。とすれば、加計呂麻島に おいても、上記の笠利町と同様の篭神巡廻説が、かなり多くのシマシマに伝承きれていてもい いのではないかと思われるが、以前の生活条件を知らないものの勝手な推論であろうか。しか も、わずか6シマながら、笠利町のそれとはやや異なった内容とはいえ、竃神上天説がいまな お伝えられている以上、私にはどうしても、笠利町に類似する内容の竈神上天説が島内のどこ かに伝えられていてもいいように考えられてならないのである。もっとも、前にのべたような 過疎化の進んでいる今日としては、その名残りを求めるのは、あるいは無理かもしれないと思 われる。
加計呂麻島では、のちにややくわしく紹介するように、多くは8月から9月にかけてのころ、
ヒニャハムガナシにミシャク(ミキともいい、米の粉やいもなどを水にといて発酵させたもの)
その他を供えて祀ることがある。そして、その折に竃神が上天するという場合もあるが、別の 日に上天するというシマもある。便宜上ここで、それらの上天日の祀りについて、簡単にふれ ておこう。
芝では、8月から12月までの吉日を選んで祀るという説と、11月上丙日(最初のヒノエの日)
に祀る、9月9日に祀るなど、さまざまな説がある。また、ヒニャハムガナシは防火の神だか ら、天に上って留守になっては困るではないかと、私の質問に反論して、上天などはしないと 主張した人もあれば、3ヵ月に1度天から下りてくるとのべた人もある。その人は、祀りが終
るとヒニャハムガナシは上天するといったが、そうなるとつねには天にいて、祀るときだけ天 から下ってくることになって、毎日祀ることがおかしなことになるような気がする。けれども、
上記のように私に告げた人は、そんなことには全然気がつかないようであった。実久では、家
の継承者がいなくなると天に上るといわれたけれども、これは当然のことだから、いわゆる竈
神上天説とは無関係で、別に取扱うべきである。しかし別人は、11月8日に天上で会議がある
ので、ヒニヤハムガナシばかりでなく、すべての神が上天すると告げた。芝のひとりも、すべ
ての神が会議のために上天するという話はきいたことがあるとのべた。この話は台湾の送神と 共通点があるので、注目をひく。なお、実久では、以前は11月8日に3斗3升3合の米をヒニャ ハムガナシに供えたが、それを天神に献げるため上天するともいわれた。
佐知克のある女性は、ヒニャハムガナシは天にのぼるといわれているけれども、くわしいこ とはわからないといい、他のひとりは、はっきりとはしないけれども、モノシリが天から下り てくるのが11月上丙日だというから、そうだろう。そして、その日に祀りが終ると上天すると、
大へんたよりない答えをした。これに対して、父が「ウーザッショ」(大雑書であろう)を所 持していたという実年の女性は、ヒニャハムはつねに天→竜宮→家の順で<、るぐる廻っている。
そのために、父はその本で日をみて、12月下旬の先勝の日に祀ることにし、まず12月大安の日 に予じめ神にその旨を告げて、家にいてくれるように願ってから祀った。だから自分もそのよ うにして祀るとのべた。そうして、父は天、竜宮、家には、つねに各1日しか滞まらないといっ ていたと教えてくれたが、この説は笠利町の「日柄吉凶控』の説とやや共通点があるので、注 目をひ<。加計呂麻島にも、以前は笠利町と同様な習俗の行われていた由を推測きせる有力な 一事である。
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…
第2図上ニャハムガナシ(与路)
3石の中央の黒いものはオキ、前の凹みに砂を入れて線香をたてる 屋崎中央公民館長造
与路では、以前のことをきわめてよく記憶している78才の老婆は、ヒニャハムガナシは上天 しないと告げたが、他の3人の人たちはその説に反して、11月8日に会議のために上天すると のべた。だから、与路島でも竈神は上天すると信ぜられていたことは事実だったであろう。た だし、下天日はわからない。なお、諸鈍と渡連での伝承については前稿でふれたので、ここで は説明をはぶく。
きて、加計呂麻島において、一年のうちでとくに丁重にヒニャハムガナシを祀るときがある かと尋ねると、前にふれたように、一様にないとの答えが返ってくる。けれども、事実はどう
零
津沖詫。:
‑ 1 0 ‑
もそうではなきそうである。そこで、ここでは先ず通常の祭祀を説明し、ついで平素の日に比 して丁寧なその祭祀に及ぼうと思う。なお、徳之島では多くのところで月待と篭神信仰とがか なり密接に結びついているけれども、加計呂麻島では大部分のシマで関係がないといわれた。
ただし、須子茂、嘉入、俵、瀬相、於斉では、同じく家で祀る神だというところから、月待の 前に一寸あいざつをする。なかでも須子茂では月待をした翌日、竃上にシュク(楽)をおいて 月待をした旨を、俵では月を拝んだのちに篭神に供物を供えてその旨を、それぞれ報告すると いう。
通常の祭祀とは、中国や沖縄県地方と同じく、毎日の祀りをいうが、元旦と毎月朔望しか拝 まないとのべた人のいる与路を除いて、ほとんど毎日朝晩拝むとされている。そうして、拝む 時刻はまちまちながら、大体食前が多い。面白い習俗として、ミニ竃を神のよりしろとしてい る芝、実久、瀬武、阿多地、須子茂、武名、嘉入、俵、瀬相、西阿室、於斉、佐知克、花富お よび与路や請阿室などでは、朝食前に拝む際に、竜からオキをとり、よりしろの中央の凹んだ 部分に入れたことがあげられる。その理由や意味は不明ながら、私は「火」との関係からでは なかったかと臆測する。屋崎一中央公民館長談によると、以前与路では毎朝オキに酒をかけて 拝んだというが、別人の話では毎月朔望だけだったという。西阿室でも毎月朔望に同様にした とのことである。この2シマを除いて、朝拝む際に酒または水をかけたという話はきけなかっ た。わからない、忘れたという木慈、呑之浦、押角、勝能、節子を除いた他のシマでは、オキ などは入れなかった由である。
『奄美の島かけろまの民俗』(82頁および167頁)には、毎朝主婦力§茶と線香をあげて拝むよ うに記きれ、『沖縄・奄美の民間信仰」にも同様にみえている(190頁)。けれども、私のきき 方が悪かったのかもしれないが、今回の調査で毎朝茶を供えると答えたシマは1ヵ所もなかっ た。それらの書の著者や筆者たちの調査時と現在とでは、拝み方が変化したのだろうか。また、
線香の数にしても1本(薩川一ただし晩は3本一、木慈、於斉、呑之浦、秋徳、諸鈍、渡 連、古仁屋、清水一家により3本もあり−)、2本(勝能、与路、節子)、3本(芝、実久、
薩川、瀬武、阿多地、須子茂、武名、嘉入、俵、西阿室一朝だけ−、於斉、花富、諸数、
生間、佐知克、与路、清水)などの相違がある。その上、瀬相、押角、諸鈍では人々の好みに よるから、1本の場合も3本のこともあるといい、古仁屋ではふつうは1本か3本たてるが、
全然線香をたてない家もある。安脚場のある家では、仏壇には2本たてることになっているか ら、竃神は1本にしたといい、与路の某家では祖母が2本たてていたから、いまでもその習慣 を守っている。また、西阿室の某家は、前述のように朝だけ3本だというけれども、他の家々 では朝晩とも3本宛であった。このように、ざまざまな場合があるが、一般的には、元来は3 本線香をたてたとみていいのではなかろうか。ただし、その理由はわからない。
なお、芝ではミキとさかき、薩川でも酒を供えたが、他のシマでは他の供物をも含めて、毎 日そんなことをしたところはなかった。
拝む人も、通説のように、主婦などと簡単にきめてしまうわけにはいかない。
芝、実久、薩川、瀬武、嘉入、瀬相、於斉、呑之浦、押角、花富、勝能、佐知克、与路、古
仁屋および節子では、老婆が拝む。また須子茂では老婆か主婦、とくに老婆が拝むといい、秋 徳でも時々老婆が拝む。主に主婦が拝むことになっている阿多地や諸数でも、老婆が拝むこと もある。一方、木慈、嘉入、西阿室、於斉、花富、生間、秋徳、諸鈍、渡連、安脚場、与路で は、主婦が拝むとされている。佐知克、諸数では老婆か主婦だともいう。諸鈍では、以前はヌ ルが拝んだが、のちには主婦になった。また、炊事をする女性(年齢不問)という武名、俵、
古仁屋、火を扱う女性(於斉)、火をおこす人(西阿室)、誰でもいい、子供でもよいという清 水のようなところもある。男は炊事場に入らないから(古仁屋)、男性はヒニャハムガナシは 拝まないため(木慈、瀬相、花富)に、女性が拝むとのべたところがあるかと思うと、女性の 代理(阿多地、於斉)、主婦の代理(渡連)、主婦病気のため(安脚場)などといって、男性が 拝む家もあるから、拝む人を主婦と断定はできない◎電神祭祀を主婦権の行使と結びつける説 もあるが、私がその説に反対するのは、以上のように、ざまざまな場合があるためである。そ うして私は、以上の結果に基づいて、いまのところ加計呂麻島のヒニャハムガナシの通常の祭 祀は、年輩の女性によって行われる場合が多いとみるの力獺当ではないかと考えている。
これまでの調査では、私は中国の電神上天説をつよく意識していたあまり、上下天という点 のみをきき、1年のうちの篭神の他の祭日についてはほとんど注意を払わなかった。ようやく その点に気づいたので、1988年度の調査ではそのことを考えて、少々質問の仕方をかえてみた。
その結果、前にふれたように加計呂麻島で8月か9月またはその他のときにヒニャハムガナシ をやや丁重に祀る由を知ることができた。それらの祀りについて、『奄美の島かけろまの民俗」
には、「ヒニャハム祭りというのを8月ごろにする家もあって、そのときにはヒニャハムミシヤ クを作って供えるものであった」と(167頁)、また191頁のヒニャハン祭り(9日など)」の項 にはややくわしく、「9月9日とはきまらず、旧8月から旧10月までの間の日柄のよい日とか、
丙の日などにヒニャハンガナシ(火の神様)の祭りをするが、9月9日の例が相当に多い。
(中略)この祭りには3日前からヒニャハンミシヤクを米の粉と生藷をおろしたものを水にと いて発酵させて作る。シューキというシトギも作り供える。火の神は3人だといい、これらの 供え物は3つずつの容器に入れて供える。このほかニラの束を3束供えるとか、松のアーシ(明 かし)を3束供えるなどという例もある」と記されている。
また「沖縄・奄美の民間信仰jには、「実久では10月のヒノエにはヒニャハムミシャクを作っ て供え、シュギ(シトギ)と塩を供え、松のアーシ(小きいたいまつ)を5束と3束とにして かまどの中で3回まわして祭った。於斉では、旧8月の吉日、木慈では9月9日に祭ったとい う。(中略)宇検村の佐念では、旧11月にヒナンマツリ(火の神祭)をする。3日前からミシャ クを作り供える。このミシャクはヒナガナシの前においておく。供えるのは松のアーシ、1年 間神棚に置いておいた芭蕉の繊維を干したものを3束と米とミシャクシュギである。祭りが終 るとアーシを地炉で燃やす」(190頁〜191頁)とみえている。私が、これらの記載から大きな 示唆をうけたことは、もちろんである。
登山修『蘇刈(嘉善否晨)民俗誌」には、「9月9日は、ふつうクグワツクンチと呼び、神
様祭りをした。グンギンサン(権現様)とウガヤマ(神山)の祭りは、今もざかんである。そ
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の日は御馳走をこしらえ、スイヘンフヮツ(焼酎のお初)を持参して神山に登る。そこで酒宴 を開きながら、ティディム(太鼓)を叩き、八月踊りをして過ごす。そして1年間の健康や家 内安全を祈願する」とだけ記きれていて(175頁)、竈神の祭祀とはほとんど関係がないように 受取れる。同じ瀬戸内町でも、加計呂麻島とはいさきか趣きが異なっているのかもしれない。
けれども、私のきいた範囲内では9月9日にやや丁寧にヒニャハムガナシを祀るシマがもっと も多かったので、つぎにその日の祀りの様子を、島の北東部から逐次紹介してみよう。
芝では、9月9日から3日間にわたって行なうので、3日の願いともいう。以前は、第1日 目にはミシャクを大・中・小の3瓶につめてヒニャハムガナシに供え、身体の弱い子を前にす わらせてから、宵の口にランプを小さくし、モノシリに拝み方を教えてもらって拝み、その子 を始め家族の健康をもらう。その際、家によっては、モノシリをたのむこともある。供物は、
御飯、刺身、酒、肴など7品である。拝みが終わると、ランプを大きくし、御飯、シュキ2つ を一同にわけ、さらにその他の供物もわけて、酒を飲み、供物をいただく。第2日目にはミキ をつくる。第3日目には、朝方、御飯を除いて第1日と同様の供物7品のお膳をつくって供え、
よくもえる松の芯を何本(たしか3本)か括って火にあぶるが、これは松明のつもりと考えら れている。ついで手を組んでまず竈、つぎに四方を東西南北の順で、各33回宛おがむ。この意 味は、各方面にいる家族への運気をもらうことである。以上は、家族だけでやるが、それが終 ると近所の人たちにもきてもらって御馳走をたべる。これを「ひらく」という。この祀りは運 気願いというが、この話者は、怪我や病気をした場合にも、酒1対とさかなか削った鰹節、塩、
吸物に線香3本を供えて願わなければ、ヒニャハムガナシから運気はもらえないといいそえた。
なお、11月または8月か9月といった人もいたけれども、その紹介ははぶく。また別人は、生 まれ年により、それぞれの吉日を選んで祀ったとのべた。
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薩川では、今日ではミキ、水、線香をあげるだけとなったが、以前は9月7日にミシャクー
−3日間で仕上げるため通常ミッカ(キャ)ミシャクという−をつくり、9日にひらいて、
よくもえる松脂を3.5.7束として供え、その日の干支にあった5人から7人の男女が集 まって、東西南北に向って合掌して、10時から12時ごろのあいだに拝んだ。そこに、主人が加 わったことは、もちろんだったという。けれども、別人は9月9日11時ごろに、ミシャク1本、
さかな、餅、豚など、できるだけの御馳走を供え−ただしくきい物を除く−、老婆が線香 3本を供えて、一家の無病息災、健康、無事を祈ったとのべた。さらに別人は、ミシャクをひ らいて2本供えるとともに、「1斗1升3合3勺」といいながら3回取った米を白紙にのせ てその脇におき、線香7本をたてて老婆が家族の運気を願った。その際には、他出中の子供の 写真の前にもミシャクなどの供物を供えたが、その場には親属たちも陪席したと告げた。
瀬武では、9月9日をジリョの神まつりといい−なかにはいわぬ人もいる−、その日に 9月7日につくったミシャクをひらいてシュキとともに供えて、老婆が家内安全を祈ったとい う人々と、同様の祀りはしたけれども、それは運気をもらうための祀りであって、ヒニャハム ガナシの祀りではないという人とがあった。そうして、ヒニャハムガナシのよりしろがこわれ たときには、大体9月9日に造り直したという。ところが、『瀬戸内町誌(民俗篇)』には、
「波うちぎわから小石を5つか7つ拾ってきて、ミキと一緒にヒニャハムガナシに置いた。こ の日は3日前にこしらえたミキ(ミキャミシャク)の蓋を開き、ミキのお初をヒニアムガナシ
⑪
に供えた。そのあと、高千穂神社に行き祝宴をした(瀬武)」(298頁)と記されている。
登山修は、「沈黙の島影から」(「民話」第8号、57頁)のなかで、阿多地の祀りについて、
大体つぎのようにのべている。すなわち、旧4月初午の日にミシャグをつくり、3日たった甲 の日にひらいて大小3本の瓶に入れ、ナナンデ(山ぶどう)、すすき、菜、昆布、芋などの7 品や、浜から拾ってきた小石などとともに膳にのせて、ヒニャハムガナシに供える。朝食後、
家族一同母屋で鉢にもった御馳走をたべ、ミシャグをのみ、家族の無病息災、家内安全を祈っ てから、仕事にでていく。これをウリデイミシャグ(神酒)の祭日という。そうして、あいた
⑫
ウリディミシャグの瓶は東方に向けてねかすという。
けれども、私のきいたところでは、9月7日につくったミシャクを9月9日にひらき、大小 3本の瓶に入れて、すすきや乗とともに供え−楽はよりしろの3石を入れた部分の上にのせ る−,家内安全と家族の健康とを願うということであった。そこで、私が祭祀について念を おすと、神月である正五九月のうちの9月だと明言した。どちらが正しいのだろうか。それと
も、時代による変化であろうか。博雅の示教をえられれば幸いである。
木慈では、3日前につくったミシャクを9月9日にひらき、すすきを供えるとともにミシャ クをよりしろの3石を埋込んだ部分の上にそれぞれかけ、線香1本を供えて主婦が祀ったが、
⑪町誌編集委員会編『瀬戸内町誌(民俗編)』は1977年刊である。あるいは、私の調査が不備だった
のかもしれない。
⑫「民話」は「民話と文学の会」編。同号は、奄美の伝承特集号で、1976年刊。
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その目的は運気をつよめることと、防火、災難よけだった。そうして、その日には、ミシヤク を仏前にも供えたというが、一方で、ミヒニャハムマツリは8月吉日で、10時ごろミシヤクを つくった人が線香を3本供えて祈ったという話もあり、どちらが本当かわからない。けれども、
『沖縄・奄美の民間信仰』には、「木慈では9月9日に祭った」(190頁)と記されているから、
おそらく9月9日説が正しいことと思われる。須子茂では、9月7日につくったウンキミシヤ グを9月9日にひらき、大小3本の瓶にいれ、芋や干物など3皿乃至5皿とともに供えて、家 内中の運気を授けていただきたいといって、10時ごろ拝んだ。また、9月9日は厳島神社(権 現さま)のまつりなので、いまでは神社の供物のお下がりをもらってくるだけで、各家ではや らない。そうして、豊年祭をヒノエ祭りというとも告げられた。さらに、9月9日が厳島神社 の祭りで、社守や女神人たちが神社の周囲を三周して神社を拝み、相撲をとって遊んだと、
『瀬戸内町誌(民俗篇)』には記されているから(299頁)、どれが正しい姿なのかわからない。
ただ、ここに「厳島神社の神社祭りの日」とみえていることは、後述の場合と考えあわせて注 意する必要がある。
武名では、9月7日につくったミシャクを3日間供え、9月9日にひらいて大小3本の瓶に 入れ、海から3乃至5個の石を拾ってきて供えたという場合と、ミシャクは大黒柱に供えるの で、ヒニャハムとは無関係で、2月に海からとってきた5個の石とアダハ3本とともにミシャ クを供えるのが、ヒニャハムの祭りである。その目的は火の元の用心と家内安全で、拝むのは 女性だが、その祀る日は忘れたとのべた人とがあった。どちらが正しいのか、ここでは信仰が 衰退していて、知っている人が少ないので確める方法がない。しかも、『瀬戸内町誌(民俗篇)』
にも、ふれるところがない。
『瀬戸内町誌(民俗篇)』には、嘉入では(9月)8日の晩にお酒にシュク(米をふくらせ たもの)をわった物を入れてミキを作り、ヒニャハムガナシに供えた。9日の朝に、浜に出て、
波打ちぎわから小石を拾って、ヒニャハムガナシに供えた(嘉入)」(298頁)と記されている けれども、私のきいたところと多少異なっている。ある女性は、9月7日につくったミキを9 月8日に主婦一以前は子から辰の年の人一があけて、夕方海からとってきた石7個、米、
酒、飯1盛り、楽、おかずなど7Ⅲとともに供え、さらに9日早朝に海から拾ってきた5個の 石、米、線香を供えて、主婦が拝んだとのべた人と、ミキャ(3日)ミシャク、楽、線香3本 を供えて、9日朝拝んで家族の健康、幸福(運気)を願ったのち、家族一同で祝う。終わると、
ミシャク1碗をとって寺山に供えると告げた老婆とがあった。同一シマながら、各家々によっ て、それぞれやり方が一定していないのだろうか。
西阿室では、ミッカミシャクを9月9日にひらいて大小3瓶に入れて、菜、汁と共に供え、
老婆が家内安全と健康とを願ったが、9月7日からの3日間は、平素は朝だけしか拝まないの
に対して、朝晩拝んだ。線香は3本だったとのべた老婆と、9月7日につくったミシャクを3
日間供え、楽をよりしろの3石を入れた3ヵ所の上にのせた。なかには、川から拾った石をの
せた家もある。けれども、それは単にヒニャハムだけに供えるのではなく、床の神、秋葉、巌
島などすべての神に供えて祀った。これは、ヒニャハムの祀りではないとのべた男性とがいた。
しかも、『瀬戸内町誌(民俗篇)』(297頁)には、この日に秋葉権現に65才以上の男の老人が集 まり、火の神の祀りをし、オボツの中腹にある、テラという場所にある巌島神社には、男の神 守と、65才以上の老女たちが一重一びんをして祝宴をすると記きれている。一体、どれが本姿 なのか、わからない。あるいは、9月9日は、ヒニャハムガナシの祭日ではないのではないか という疑念きえ、うっすらと感ぜさせられるのである。現地の方々の示教が望まれる。
『瀬戸内町誌(民俗篇)』には、俵では、9月9日には、権現山までの道をなぎ払い、昼か らミキ、シュク、酒、花、線香を持って権現山に集まり、火の用心の祈願をした。昔は部落で ミキを作っていた(297頁)と記されているが、私のきいた89才の老婆は、9月9日は権現の 祭りであって、ヒニャハムとは関係がない。だから、ミッカミシャクもつくらないし、その日 に供えもしないとのべた。従って俵では9月9日はヒニャハムガナシの祭日ではなかったので はないかと考える。もしこの推測が正しければ、俵の場合は火の神と電神とを区別していた例 になるのではないかと思われる。そうして、その老婆は、8月丙日にミシャクを供えるが、そ の際には甲の日に川から蟹と3個の石を拾って、ヒニャハムの前に供えておく。蟹は碗に入れ る。丙日に拝みが終わると、蟹と3石を白紙に包んでヒニャハムガナシの脇においておく。す ると、いつの間にかなくなるとのべた。
俵とやや共通しているのが、瀬相である。『瀬戸内町誌(民俗篇)』には、火の神である権現 山にある権現神社に一重一びんや菊の花、線香をもって(9月9日に)参拝する。ここでは火 の用心や、旅に出ている人の無事故、海上安全などを祈願する。祈願が済んだら、しばらくそ こで祝宴をして山を降りる。夜はアシケェヌミヤで八月踊りを夜通しおどるが、盆の15日の晩 からおどり始めた8月踊りは、この9月9日が踊り納めであるとみえている(298頁)。ところ が、私の尋ねた家の主人は9月ではなく、8月吉日だといい、妻女は9月9日だと主張する。
そうして、主人は8月吉日に酒を大小3本の瓶子に入れて、ミシャクや干物とともに供えて、
健康と幸福を拝んだ。拝みが終わると、一同で酒を飲んだ。もし他出中の子供がいれば、その 写真の前にも干物、酒、ミシャクを供えた。これをヒニャハム祀りといった。ただ、ミシャク は2日前に大黒柱の前に供えた。この日、神社を拝み、村中が祝って、八月踊りをしたが、9 月9日はヒニャハム祀りとはいわず、9月9日の祀りというのみで、ヒニャハムガナシとは無 関係だった。それは村の祀りだといった。これに対して妻女は、9月9日がヒニャハムの祀り で、いまはミシャクは家ではつくらず、買ってくるように簡略化した。他の家では、この日に サケ、ミシャク、線香を供えるところもあるが、自分は供えない。また、グンギン(権現)に いく人もあるが、自分はいかないと説明した。そうして、以前はこの日に村中から1人1合宛 の米を集めたこともあったといい添えた。どちらが本当なのか、私には皆目見当がつかない。
於斉も瀬相と同様に、さまざまな説がある。94才になる老人は、3日前につくったミシャク を大黒柱の前には大きな甕に、ヒニャンガナシの前には小甕に、それぞれ入れて供え、9月9 日にひらいて、家族一同でいただいた。家によっては、ヒニャンガナシの横に御幣をたてた。
これをヒニャンマツリといったが、これは火の用心と、危険をきけ、幸福をもらうのが目的だっ
たとのべた。ところが別人は、9月9日には、ミッカミシャクを大黒柱などには供えず、ヒニャ
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ンガナシのみに湯呑みに入れて供え、家内安全を祈り、家族一同でご馳走をたべた。また、よ くもえる松の木の束を3つつくってヒニャンガナシの前でたいたが、その意味はわからないと 告げた。これに対して、1女性は、ヒノエマツリは8月上丙日であって、9月9日ではない。
9月9日のまつりは妻が夫の運気のよいように祀る祭りで、なかにはシマにある厳島神社に参 る人もある。その神社には、戦争中には出征兵士の無事帰還を祈ったといった。ざらに別の女 性は、8月上丙の日におはぎや赤飯を作ってヒニャハムガナシに供えたことはあるが、これは ヒニャハムマツリではない。また、9月9日に床の神や先祖など、家中のすべての神に供物を 供えたけれども、これまたヒニャハムの祭りではない。ヒニャハムガナシの祭りは10月中の大 安や先勝などの吉日に行ない、ミシャクや酒を供えるとともに、竹に花のように紙を切ってつ けたもの−はっきりとはしないが、フサというらしい−を作って、よりしろの後方にたて、
線香3本をたてて午前中に家族の健康と家内安全とを祈ったと教えてくれた。もうひとり、約 10年前に夫をなくした1老婆は、夫の死去以来祀りをやめたからよく覚えていないけれども、
9月9日とヒニャハムガナシとは無関係で、8月丙日にミシャクを供え、松の木3本宛の3束 と同じく7束の2種をつくって火をつけてから、線香3本をたてて1年中無事に守ってくれた 礼と、将来の加護とを祈ったのがヒニャハムマツリだろうと告げた。その他、4月初午と、ア ラセツにも火の神を祀ったといい副えた。こうなると、私などにはどれがどれやらまったくわ からない。ただ「瀬戸内町誌(民俗篇)』に、9月9日には神ジョ達が公園でおミキを供えて、
豊作を神に感謝していた。この日は、十五夜豊年祭と同じように盛大なナクサミがあったと記 されているから、9月9日をヒニャハムの祭りとするのは、誤りかもしれない。
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諸鈍の85才の1老人は、アラセツ(8月上丙日をいう)に上天したヒニャハムガナシは9月 8日に下りてくるので、その前日にミシャクをつくり−3日前とも−,9月9日に芋のつ るや喰くることのできる葉などでつくったあえ物とともに供え、一家全員で拝んだ。その拝み 方は、まず本家で親族や友人などをもよんで拝む。拝みが終わると、一同でミシャクを1〜2 杯のみ、ついでよんだ人々の家々を順々に巡って拝んだとのべたが、これはまた珍しいやり方 である。しかも、『瀬戸内町誌(民俗篇)jには、そのことには一言もふれず、ただ大屯神社の 神社祭りの日で、相撲や諸鈍シバヤが行なわれると記されているのみなので(300頁)、かなり 疑問が残る。なお、諸数では、9月9日に現在でこそ公民館に皆が集まり、一重一びんで祀っ ているが、これはうぶすなの祭りで、シマが漁業をやりだしてから始めたにすぎないといい、
『瀬戸内町誌(民俗篇)』にも、9日の午后から、集会場前の広場で、豊年祭とまったくかわ らないナクサミをした。晩には八月踊りをすると記されているだけなので(299頁)、ヒニャハ ムガナシの祀りなのかどうかは明確でない。私は、むしろ諸数の場合はヒニャハムガナシの祀
りではないのではないかと、ひそかに考えている。
つぎに、宇検村の場合にふれておこう。田検では、9月9日に台所の一隅においたヒニャン ガナシに翌年の豊作を祈り、このときにしか祀らないとのべた家がある反面、その日に楽、南 瓜、里芋、団子などとともに、前日につくったミシャクを供え、主に老婆が線香をたてて拝ん だ 。 ま た そ の 日 に は 、 人 の 踏 ま な い と こ ろ に あ る 川 石 3 個 一 こ れ を 石 ビ ナ ン と い う − を と り、かつ半紙2枚で包んだ芭蕉糸ですすきの葉をまいたものと一緒に台所の一隅においた。こ れを代えるのは、9月9日であったが、神月の正五九月にもこれを拝んだ。ヒニャンガナシは 一家や子供の守り神なので、家を守ってほしいと願ったが、子供の守り神だというところから、
供物はすべて丼に盛りあげて供えた。そうすると神が喜ぶといわれているためであると説明さ れた。なお、9月9日ではなく、アラセツに祀るという人もあり、どれが本来の姿なのかわか らない。芦検でも、9月9日に人の踏まない石3個を川からとり、紙で包んだ芭蕉糸を竹で挟 んだもの(名称は不明)を取りかえ、老婆が一家の人々の幸福を願ったという。
以上、宇検村をふくむ各シマの9月9日のヒニャハムガナシの祀り方の概略を紹介した。け
れども、『蘇刈(蟇善舗)民俗誌』には、前引のように記されている上に、同書の「屋内神」
の項ではヒニャハムガナシにふれながら、9月9日の祀りには全然言及していない(122頁)。
従って蘇刈では、9月9日がヒニャハムマツリの日であったとは思われない。同一町内であり ながら、あまりにも大きな相違なので、加計呂麻島の各シマで、上述のようにいわれてはいる けれども、それが果たして古くからのヒニャハムガナシの祭祀日だったかどうかは、すこぶる 疑問としなければならない。しかも、これから紹介するように、加計呂麻島では9月9日以外 にヒニャハムガナシを祀ると伝えているシマがかなり多い。従って、9月9日の祀りは、神祭 りの日ということから、ヒニャハムガナシをも祀るように、混同された結果ではないかと臆測 きれる。
さきにふれたように、俵や於斉で8月丙日がヒニャハムガナシの祀りの日だとのべた人が
あった。これとほぼ同様なことは、勝能や渡連でもいわれた。勝能では、8月甲日につくった
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ミシャクを丙の日にひらき、楽とともに供えてヒニャハムガナシを拝んだが、それはヒニヤハ ム祭りといった。ヒニャハムガナシは運気をもらう神だから、健康や幸福を祈ったが、供えた 楽をたべるのが運気をもらうのにとって肝心なことだといわれていた。そして、平素の祀りは 線香2本だったが、その日だけは3本たてた。むかしは、その日の干支にあたる人が新しい水 を汲んできてからミシャクをひらくことになっていたとのべた。渡連の1話者は、多分8月の 丙日に−話者の記憶はさだかでない−,甲の日につくってヒニャハムガナシに供えておい たミシャクをあけ、空の瓶を外にだした。そうして、瓶の口を東方に向けて横にしておいたが、
自分の母はそれにさわってはいけないときつくいっていた。そのミシャクはヒニヤハムミシヤ クといい、楽や他の御馳走とともに中柱の前に供えたが、親族たちがきてミシャクをのみ、家 内安全や健康を祝った。そして9月9日は、部落の氏神の祭日で、以前は米をシマ中から集め て、シマとして拝んでいたが、戦後は各家単位となった。けれどもいまなお、ミシャクをあげ、
一重一びんで祝い、三味線や太鼓で賑やかにやっている。ただし、これはヒニャハムガナシの 祀りとはまったく無関係だと告げられた。
秋徳では、9月9日はヒニャハムガナシにもミシャクを供えはしたけれども、モリ山にある 五穀守護の神社に参って祝詞をあげるミシャク祭りの日であり、また袷に着換える日でもあっ た 。 そ れ と は 別 に 8 月 丙 午 の 日 、 す な わ ち ア ラ セ ツ の 日 一 本 来 は 8 月 上 丁 の 日 一 に ヒ ノ ト 祀りをやったが、シマの有志が各家々を廻って祝った。まず集会所で祝い歌を歌い、それから 別の歌を歌ってから各家を廻ったが、1戸で3つの歌を歌えばよいとされていた。そして、各 戸の庭で踊ったが、各家々ではその人々に酒を振舞った。これをヒノトマツリといい、参加者 の多くは女性であった。各家を廻ることは、その家を浄めるといっていた、と説明された。こ れは、ヒニャハムガナシが一家の守り神なので、それを祝って家が栄えることを祈ったのでは ないかと思われる。
押井彬『押角ぱなし』(105頁〜106頁)には
8月の十五夜が過ぎてから最初にくる大安の日にミシャク(みき)を供えて祀りをおこな う。当日は、椀の3つにミシャク、同じく他の椀3つにシュク(米粉を水で練ったもの)
を入れて、膳にのせて供える。更に膳の前には盛った米、酒を入れたグセビン2本を供え る。
祀りが終わると、白紙に、シュク、ミシャクを少し載せ、酒を少量注ぐ。更にその上にク サラの枝3本(ダバネと言う)を置いて白紙で包む。別の白紙では前述の米を包む。この
2つの包み紙をヒニャハムガナシに供えておく。(中略)
これ等のことが済むと、シュクとミシャクを表座敷に持参してきて、ヒムン(魚の肉など を焼いたりして酒の肴とする)を食べてからミシャクをいただいた。これ等のものは女だ
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