印度學佛敎學硏究第69巻第2号 令和3年3月
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チベット語の音声論について
班 青 東 周
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.序論チベット語の音声論が最初に現れるのは,トンミ・サンボータ(Thon mi / Thu mi
sam bho ṭa: 7世紀)の文典『三十頌』(Sum cu pa)である.トンミは『三十頌』終結部
において,文法学の初学者は最初に音素(nga ro,*svara)を正しい調音位置に合わ せて発声する方法を学んだ後,その発声法に従って各音節(/ka/,/ki/,/ku/,/ke/な ど)の発音を習得するべきであると説いている.しかし,同書においてトンミは チベット語の調音位置や発音法について具体的な説明を与えていないため,トン ミ以降のチベット文法学者達はサンスクリットの音声論に依拠して,チベット語 の音声論を展開する.18世紀に現れたシトゥ・パンチェン(Si tu paṇ chen: 1699/1700–
1774)は,『三十頌』に対する註釈『シトゥ大註』(Si tuʼi ʼgrel chen)において,チャ ンドラゴーミン(Candragomin, 5世紀頃)の『ヴァルナ・スートラ』(Varṇasūtra)に現 れる音声論に依拠して,チベット語の音声論について説明を与えている.シトゥ のその説明から浮かび上がるのは,サンスクリットには見られないチベット語独 自の音声論の展開であり,サンスクリット音声論のチベット語への適用の可能性 とその限界である.本稿は,『ヴァルナ・スートラ』に立脚するシトゥのチベッ ト語の音声論を検討し,さらに他のチベット文法学者の説明も比較することによ り,チベット語の音声論の特色を明らかにすることを目的とする.
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.『シトゥ大註』に見られるチベット語の音声論2.1.『ヴァルナ・スートラ』に現れる音声論
『三十頌』において,トンミはチベット語の調音位置や発音法について具体的 な説明を与えていないため,シトゥ・パンチェンは『ヴァルナ・スートラ』に立 脚し,調音位置と発声器官と発声努力という三つの概念を用いて,三十のチベッ ト文字の発音法を説明している(SG 126.11ff.).
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― 800 ― 2.2.母音記号付き文字の発音法
次に,シトゥは母音記号(i,u,e,o)付きのチベット文字(ཀི ki,ཀུ ku,ཀེ ke,ཀོ ko など)の発音法を説明している(SG 127.16ff.).セルトク・ラマ(Gser tog bla ma: 1845–
1915)は『三十頌』と『性入法』の註釈(Gser tog sum rtags)において,シトゥの説 明を補足するため,母音/i/と/e/は喉から,母音/u/と/o/は喉および唇から発声され ること,また,母音/i/と/u/は口の形を少し狭くして発声されるものであり,母音 /e/と/o/は口の形を広くして発声されるものであることを明らかにしている(STST 45.19ff.).
2.3.チベット語における結合文字の発音法
次にシトゥ・パンチェンは,ジェツン・ソナム・ツェモ(Rje btsun bsod nams rtse
mo: 1142–1182)の理論(YGLT 501.15ff.)に従って,前置字・後置字・上接字・下接
字などを有する結合文字の発音法を説明している(SG 128.9ff.).その内容を次の 三点にまとめることができる.[1]上接字の発音:ra上接字は舌尖の振動によっ て発音される.la上接字は舌尖の弛緩と伸長によって発音される.sa上接字は 歯の隙間から発音される.もし結合文字を上手に発音できないならば,例えば
kraをka ra,sgraをsga raというように,それぞれの文字を切り離して発音する
べきである.[2]前置字の発音: 前置字g-はまず口蓋から発音される.前置字 d-は舌尖の弛緩により発音される.前置字b-とm-はまず唇を閉じて,次に鼻か ら発音される.前置字 ʼa-は咽喉の奥から発音される.[3]積重文字の発音: 前 置字を有しかつ上接字・下接字の積重を有する文字の場合にも,それぞれを同時 に発音できないならば,例えばmkhraをmkhaʼ raのように切り離して発音するべ きである.
続いて,シトゥ・パンチェンは後置字の発音法について次のように説明を与え
ている(SG 131.4ff.).その内容を次の四点にまとめることができる.[1]ʼa後置字
はほとんど発音されない(例: ʼgaʼ, dpaʼ).[2]ʼa以外で明瞭に発音される後置字を 持ち,かつ再後置字を持たないならば,それぞれの後置字の調音位置と合致する 音が基本文字の後に発音される(例:gang, lam, tshul).[3-1]再後置字-sを持つ場 合,共起語がなければ/s/音を発声する寸前程度にして読む(例:tshogs).例えば
tshogsの/s/音は声門閉鎖音(glottal stop)に変わる.もし共起語があれば直前の後
置字の音の後に/s/音を発声する(例:tshogs pa).[3-2]再後置字-dを持つ場合,共 起語の有無にかかわらず,/d/音を発声する寸前程度にして読む(例:pha rol [< pha rold],pha rol tu [< pha rold tu]).例えばpha roldやpha rold tuの/d/音は声門閉鎖音に
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変わる.[4]語改訂の時,実際の発音に合わせて,大部分の ʼa末尾字(例:ka <
kaʼ, kho na < kho naʼ)と再後置字-d(例:pha rol < pha rold)は表記されなくなった.
2.4.チベット語方言に見られる固有の発音法
結合文字を構成する前置字・後置字・上接字・下接字をそれぞれ明瞭に発音す るべきであるという主張を根拠づけるために,シトゥはチベット語の地方語(方 言)に見られる固有の発音法に注目して説明を与えている(SG 129.3ff.).シトゥに よれば,12世紀から13世紀頃のディクン(ʼBri khung)地方においても,トンミの 時代と同じように,結合文字の全要素を完全に発音するという伝統が残ってい た.シトゥが生きていた18世紀の時代になると,多くの地域ではその伝統が失 われたが,アムド地方(A mdo)やギャルモロン地方(Rgyal mo rong)などの東北部 では,前置字・上接字・下接字などの音の要素を正しく発音する伝統の名残が 残っていた.これらのことが,チベット語の結合文字を構成する全要素を完全に 発音するべきであるというシトゥの主張の根拠となっている.つまり,彼はトン ミが記述している古代のチベット語を基準にして,正しいチベット語の発音法を 規定しようとしている.ここにシトゥ文典の規範文法的要素を認めることができ る.
2.5.結合文字の正しくない発音法に対する批判
シトゥは,チベット語の結合文字の正しい発音法を表すために,サキャ派の ジェツン・ソナム・ツェモによるチベット語の結合文字の発音法と7世紀のトン ミの時代の「表記と発音の一致」の原則に基づいて,シトゥ自身が生きていた時 代のある地方に見られたチベット語の正しくない発音法に対して批判をしている
(SG 131.15ff.).シトゥのその批判はジェツン・ソナム・ツェモの論理(YGLT
502.15ff.)から導き出されたものであると考えられる.
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.結論トンミは『三十頌』において,発音法について具体的な説明を与えていないた め,シトゥはチャンドラゴーミンの『ヴァルナ・スートラ』に依拠してチベット 語の音声論を展開している.しかし,シトゥによるサンスクリット音声論のチ ベット語への適用はkaからaまでの三十文字のみに対するものであり,結合文 字への適用は不可能である.それゆえ,シトゥは結合文字の発音法を説明するた めに,ジェツン・ソナム・ツェモの理論に従って,サンスクリットには見られな い結合文字を考慮に入れた,チベット語独自の音声論を展開したのである.シ
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トゥの解説によれば,7世紀のトンミの時代では,チベット語の「表記と発音の 一致」の原則が守られていたことがわかる.しかし,ジェツン・ソナム・ツェモ が生きていた12世紀の時代には,既にチベットの中央部(Dbus)とツァン
(Gtsang)地方においてその原則が失われつつあった.また,シトゥが活躍した18
世紀の時代になると,アムド地方(A mdo)やギャルモロン地方(Rgyal mo rong)な ども含めた多くの地域において,その「表記と発音の一致」の原則が失われた.
シトゥはそうした現状を考慮し,トンミの時代のチベット語を模範として,当時 の発音法を同時代に復活させることを目指していたのではなかろうか.トンミが 目指していたのは記述文法であった.しかし,シトゥの時代以降,チベット語文 法は規範文法へと転換する傾向を示すようになる.
〈略号および一次資料〉
VS Varṇasūtra (Candragomin).Liebich, 1918, 515–517.
VS D Varṇasūtra (Candragomin).D. sgra mdo, Re. Tohoku no. 4271.
VSV D Varṇasūtravṛtti (Candragomin).D. sgra mdo, Re. Tohoku no. 4272.
BDJNS Byis pa bde blag tu ʼjug paʼi rnam bshad (Sa kya paṇḍtia kun dgaʼ rgyal mtshan).Lhasa:
Bod ljongs bod yig dpe rnying dpe skrun khang, 1992.
YGLT Yi ge bklag thabs byis pa bde blag tu ʼjug pa (Rje btsun bsod nams rtse mo).Beijing: Krung goʼi bod rig pa dpe skrun khang, 2007.
SG Si tuʼi sum rtags ʼgrel chen (Si tu paṇ chen chos kyi ʼbyung gnas).Xining: Mtsho sngon mi rigs dpe skrun khang, 2001.
STST Gser tog sum rtags (Gser tog bla ma blo bzang tshul khrims rgya mtsho).Lanzhou: Kan su mi dmangs dpe skrun khang, 1981.
〈二次資料〉
Liebich, Bruno. 1918. Candra-vṛtti: der Original-kommentar Candragominʼs zu seinem Grammatischen Sūtra. Leipzig: Kraus Reprint.
Verhagen, Pieter Corneils. 1994. A History of Sanskrit Grammatical Literature in Tibet. Volume 1.
Transmission of the Canonical Literature. Leiden: Brill.
稲葉正就 1986『チベット語古典文法学』法蔵館.
班青東周 2020「チベット語文法学におけるyi geの概念」『哲学』72(予定).
〈キーワード〉 チベット語,音声論,結合文字,方言
(広島大学大学院)