著者 市丸 雄平
雑誌名 東京家政大学附属臨床相談センター紀要
巻 12
ページ 1‑16
発行年 2012‑03
出版者 東京家政大学附属臨床相談センター
URL http://id.nii.ac.jp/1653/00010067/
心身の健康はつくられる
市丸 雄平
Cross talk between Brain and Body
Yuhei ICHIMARU
1.健康を求めて
1
いつか起こるものと予測はされていたものの、
3
月11
日、唐突に東関東の人々はパニックに陥 った。あるものは、寄せくる津波にのみこまれ、あるものは、かろうじて自らの生命を維持するこ とができた。一瞬の出来事であった。2万以上の ひとびとの魂が、朝日に照らされて気化する草の 露のごとく、光陰に移された。
「無常憑み難し」
報道される映像によれば、津波は瞬時にして、
家屋を瓦礫と化し、悲嘆・慟哭・不安・寒さが被 災地の人々を襲い、沈黙と漆黒の闇が被災地の夜 を覆った。家族を亡くした家庭では、純白の棺を 前に頭を垂れ死者の魂の安寧を祈り、残された家 族の嗚咽の中での読経が行われていた。大地震・
津波はヒトのみならず、絶対安全とされる原子力 発電所をも瞬時に崩壊させた。最近判明したこと ではあるが、津波の後、炉心の融解により生じた 水素が爆発することによる放射性物質が、関東の 土地を覆い尽くした。放射性物質は、陸のみなら ず茫漠たる海をも汚染し、生命体に対しては多大 な障害を、私達を育む自然に対しても壊滅的損傷 をもたらした。この放射性物質による被害は、静 かに、広範に、陸上のみならず海上に浸潤し、さ
1家政学部栄養学科臨床栄養情報研究室
らには私達の体内に蓄積し細胞あるいは核、
DNA
にも影響を及ぼしつつある。私達の信じた科学文 明は私達の生活を快いものにした。都会では、夜 の闇を消失させる煌煌たる光が街を照らし、われ われの、生活時間と空間を拡大した。夜の天空ま でも明るくした。しかし、その光エネルギーの源 泉である電気エネルギーを作り出す装置は、いま から生命をさずかる人々に対して大いなる闇を 残した。この事故を予言し問題化してきた先見の 明のある識者は古の預言者のごとく叫んでいた1)。 しかし、その魂の訴えの多くは無視され、原子力 発電は安全であるとみなされてきた。物質の源で ある原子さらには原子核を利用するにあたり、人 智の限界をあらためて感じさせられた出来事で あった。古代より災害、天災あるいは強力な感染性物質 は混然一体となってヒトを不安に落とし込み、生 体を病に追い込み、さらには生命を黄泉へといざ なった。人々が死に対し先験的に恐怖をもつよう になった出来事は、歴史を垣間見ると、枚挙に遑 ない。おそらく、死を意識しヒトが己の行く末を 考える生命体となった時を嚆矢とする。哺乳類に とり、自己の死をおそれたのは、ネアンデルター ル人とされ、死者に麻黄と花束をささげ、埋葬の 習慣をもったものと推測されている。また、クロ マニヨン人によるとされるラスコーの洞窟にも、
牛によって倒されたヒトの魂を描いたものと推
測させる絵が存在する。もちろん、ホモサピエン スにおいては、創世記によれば、善悪の実を食し てからヒトは自然と共生していた楽園より追放 され、「カインとアベル」の兄弟の例を挙げるま でもなく、ヒトが視床下部より発生する生存の欲 望が自己生命維持あるいは集落の存続のため、生 命より経済を優先させたため、復讐、殺人を繰り 返す時代に突入した。この問題は、現在まで色濃 く引き継がれ、ヒトは石油・石炭・原子力などの エネルギー確保のために、平和維持・経済維持あ るいは正義・宗教を理由として、戦争に突入して いる。
ヒトのもつ未来を考える能力は、確実に自己に 訪れる病と死を克服するため、自己の健康な病を 予防し余命を延長したい、さらには死に対峙して どのように生きるかという考え方を開花させる とともに、その方法を進展させた。「生老病死」
がなぜ存在するのか。修証義の冒頭には、「生を 明らめ、死を明らめるは、佛家一大事の因縁なり」
と記載されている。「病気になってはじめて知る、
健康のありがたさ」とは
Thomas Fuller
の言葉で ある。この病からの回復、「飢えと寒さと渇き」からの脱出、健康を維持したいとの願いは古代よ り存在した。病より回復することは、医療・医学 を進展させた原動力であり、健康な生活環境の維 持を約束するものが「衣食住」の安定した供給で あった。
現代人の発祥の地はアフリカとされる。いまか ら、約
20
万年前のことである3)。ヒトは、心身 にふりかかる飢え、渇き、病、寒さ、などをもた らす環境からのがれ、「肥沃な土地」、「密と乳が 流れる地」、自己の生存を守る環境を求めて大移 動し続けた。この間にDNA
の塩基に異常(SNIP)が生じ、人類の形態を変化させるとともにヒトは 新しい環境に遺伝子レベルでも適応し、その遺伝
子は子孫に受け継がれた。アルコールに強い遺伝 子(アルデヒド脱水素酵素)を持つヒトはヨーロ ッパに移動することを可能にした。「倹約遺伝子」
を有する人種は貧しい食環境で生き延びる力を 獲得した。遺伝子の変化は形態にも影響を与えた。
寒冷地に移り住んだ人種は温暖な人種よりも体 が大きく、日光の照射が少ない地域に移り住んだ 人種は皮膚の色が白くなり、蒙古などの寒い地域 にいた日本人の祖先の一部などは寒さに適応す るため、一重まぶた、鼻の高さの低下をもたらし た。また、環境に対する適応の限界状態になると、
ヒトはその土地を離れた。現在、砂漠と化してい る場所に、往時の壮大な古代国家を偲ばせる古跡 が次々と発見されている。人骨とともに、金銀、
宝石などの装飾品の発掘が、往時の繁栄と衰退を 物語っている。これらの宝飾物の中に人骨が混じ り、頭に正円型の穴がみられる頭蓋骨も発見され ている。すでに、経験的に脳の手術が施されてい たものと推測されている。また、古代より、各種 症状を軽減することを生業とする、「いし」、「く すし」が存在していたことも推測されている 4)。 一方、古代では病の原因、とくに精神疾患の原因 は憑き物によるものと考えられていた。この憑き 物としては、日本では、狐の霊があげられる。狐 がついたヒトに対して、霊媒師、祈祷師あるいは シャーマンが除霊・祈祷などの儀式をおこなうこ とにより、いわゆる狐あるいは悪霊が追い出され るという治療がなされている。このような憑き物 を原因として病気になるという考え方は、日本の みならず、外国にも散見される。また、これに類 似した考え方は、現在でも、とくにジャーナリズ ムによって盛んにとりあげられている。
西洋医学において、病気の原因を追究する学問 体系は病理学である。病気には、原因(内因と外 因)があり、その結果として各臓器は機能不全に
陥るという、因果律が存在する。西洋医学の嚆矢 となったヒポクラテスは、その著書「空気、水、
場所」において、病気の原因・誘因として環境因 子の重要性を述べている。さらに、「我々の快楽 感、喜び、笑い、戯談も、苦痛感、不快感、悲哀 感、号泣もひとしく、脳から発する」ということ を述べ、ヒトの心の座あるいは精神の座が脳にあ ることを述べている。また、ギリシャでは“炎症”
の症候も定義されている。その後、「西洋医学」
では、病気の原因を病理学的形態変化に求め、屍 体解剖(ネクロプシー)により各種臓器の存在と 役割(解剖と生理)が明らかにされ、とくに形態 学的な変化が生体の生理状態の変化をもたらす ことが明らかにされた。さらに、ルーエンフック による顕微鏡の開発以降、微小な形態である細胞、
細胞内器官が発見され、肉眼には見えない微生物 の存在が顕在化した。これに引き継づき、
Virchow
は細胞形態の病的学的変化を細胞レベルで観察 し、細胞病態が、ヒトを「健康体」から「病体」に変えうることを明らかにした。顕微鏡による形 態学変化を捉えることにより、細胞分裂、染色体 の存在および染色体の異常が生体の形態変化(奇 形)の原因となることも解明された。その後、電 子顕微鏡の開発により細胞病理学は細胞内小器 官、細胞内の生理・生化学変化のレベルでの変化 によって説明されるようになった。一方、顕微鏡 によって明らかにされた細菌よりもさらに形態 の小さい、いわゆる濾過性病原体であるウィルス の存在と、細菌・ウィルスが病気の原因であるこ と、つまり、これらの病原体がヒトに住み着くこ とにより種々の感染症が引き起こされることが 解明された。今日では、生命体として認められて いない、狂牛病の原因としてのプリオンがどのよ うに生体に危険をおよぼすのかについても、分子 レベルで検討されている。このように、病気は分
子のレベルあるいは遺伝子レベルで解析される ようになった。また、感染に対抗する因子として は、生体がどのような防御機構を発現しているの か、生体防御の概念が、免疫学を中心に解明され るようになった。この免疫の基本となった概念は、
“自己と非自己”の峻別であった。免疫は自己を 攻撃せず、非自己を攻撃することにあった。非自 己である細菌は生体を隈なくパトロールする免 疫細胞により攻撃される。とくに、白血球、NK 細胞、マクロファージはその重要な担い手である。
これらの自然免疫により病原体が処理しきれな い場合は、Tリンパ球による免疫系が作動し、自 然免疫、体液および細胞性免疫機構により非自己 は徹底的に峻別され排除される。しかし、免疫機 構がかえって、生体に悪影響を与える場合がある ことも明らかにされた。その一つがアレルギーで ある。気管支喘息、蕁麻疹、溶血性貧血、急性糸 球体腎炎、あるいはバセドウ病・重症筋無力症は アレルギーの種々のタイプによって引き起こさ れ、ときにはアナフィラキシーショックにより急 死することもある。さらに、自己の認識機能に障 害が発生した場合には、免疫系は自己の臓器、細 胞に対して攻撃を加えるようになり、“膠原病”
あるいは“自己免疫病”として、疾患の病因と治 療法が開発されつづけられている。自己免疫疾患 では、免疫反応を低下させることが肝要であり、
それが治療に結びつく。これには、免疫細胞から 放出される細胞攻撃因子あるいは免疫制御物質 であるサイトカインの働きを抑制する必要があ る。今日、分子治療学が発達し、サイトカインの 働きを特異的に抑制する生物製剤が開発される ようになり、生物製剤は自己免疫病の治療の一翼 を担っている。これらの生物製剤の開発を可能に したのは、分子レベルで病態を解析する免疫学と 分子生物学によることが多い。また、生命科学の
一分野では、ヒトの染色体を構成するは遺伝子が
22,000個であることを解明した。これにより、病
気とその遺伝子的解説、遺伝子より各種たんぱく の発現機序と、たんぱくの機能と病態が次々と解 明され、遺伝子により発現する病気と治療は分子 レベルで行われるようになった。今日、死因の第 1位となっているがんについても、遺伝子自体に がん遺伝子あるいはがん抑制遺伝子があること など、がんの誘因についても遺伝子レベルで解明 されている。老化については、テロメアの長短が 細胞分裂回数に深くかかわっていることが明ら かにされた。今日、日本人にも多くみとめられる ようになったアルツハイマー病5)についても、ア ミロイドβ42(アミロイド前駆たんぱくの異常に より産生されたもの)が脳神経細胞に蓄積し、神 経毒性を惹起する原因であるとの推定されてい る。さらに、医療工学の進歩により、生体内部を 生きたまま、生体に損傷をあたえることなく、画 像と観察できるようになるとともに、生体の機能 についても、ある作業のとき、脳のどの部分が作 動していることも、明視できるようになった。こ のような医学の進歩はさらに進み、臓器機能の消 失に関しても、臓器移植技術が著しく発展し、例 えば心不全の患者においても寿命を全うするこ とが可能となった。また、iPS 細胞を用いて臓器 を作成することも試みられている。昨今では、iPS 細胞より、血小板がつくられ、臨床応用されるよ うになった。
2.健康を阻むもの
2.1 医療統計
厚生労働省の統計によると、平成 20年の死亡 数は114万2467人で、年次変化としては、増加 傾向にある(表1)。年齢構成からみると75歳以上
の高齢者の死亡が増加し、死亡数の3分の2を占 めている。また、平成20年の簡易生命表による と、日本人の平均寿命は女性が86.05歳、男性は
79.29歳と過去最高の年齢となっている。このよ
うに、日本人の高齢化は人類史上最高となってい る。高齢化を維持する社会背景として、医学の進 歩が挙げられる。たとえば、肺炎、肺結核に代表 される感染症は戦前では死亡率の第1位を占め ていた、また結核は不治の病と考えられてきたが、
抗生物質・抗結核薬の開発および栄養状態の改善 により免疫力が高まり、戦後の感染症による死亡
図1:厚生労働省人口動態統計
表1:性・年齢(5歳階級)別にみた死亡数・死亡率
(人口 10 万対)
死亡数 死亡率
全死因 1,142,467 907.1
悪性新生物 342,849 272.2
心疾患 181,822 144.4
脳血管障害 126,944 100.8
肺炎 115,240 91.5
不慮の事故 38,030 30.2
老衰 35,951 28.5
自殺 30,197 24.0
腎不全 22,491 17.9
数は激減している。しかし、皮肉にも栄養状態の 改善が栄養過剰となり、今日では、生活習慣病6) を増やすリスクとなってきた。とくに、エネルギ ー摂取量の増加および運動不足は肥満あるいは 2型糖尿病の原因となり、糖尿病を基礎疾患とし て、脳梗塞、腎疾患、透析状態、失明などの合併 症が出現することはよく知られている。また、高 血圧は食塩摂取量の増加、心疾患はコレステロー ル値増加と関連性を有し、虚血性心疾患は冠状動 脈硬化の結果として認められる。
2.2 健康をむしばむ疾患と治療
心因の上位より、悪性新生物、心疾患、脳血管 障害、肺炎、老衰、腎疾患は内科系疾患であり、
自殺の原因とされるうつ病は精神科的疾患とし て取り扱われている。
2.2.1 悪性新生物
日本では、男性では肺がんの、女性では胃がん の罹患率が高い。この肺がんの誘因として、タバ コ、アスベスト、大気汚染があげられている。喫 煙量の多い例では、気管支上皮が扁平上皮に化生 し、肺がんの病理組織型は扁平上皮がんとなる。
また、喫煙本数が多い例では、p53(癌抑制遺伝 子)が変異しているとの報告もある7) 胃癌では、
食塩、ヘリコバクター・ピロリ菌の持続感染、ニ トロソアミンなどがリスク因子として考えられ ている。とくにヘリコバクター・ピロリ菌は胃潰 瘍の原因菌とされている。これは、ウオーレンと マーシャルの業績である。マーシャルはピロリ菌 を服用し、自分自身が胃潰瘍になった。さらに臨 床疫学的解析によりピロリ菌は胃がんの原因と しても考えられるようになった。このことにより、
少なくとも胃潰瘍の治療としてのヘリコバクタ ー・ピロリを除菌することにより胃癌を予防でき
る可能性がでてきた。また、胃がんは食塩の摂取 過剰も誘因の一つであり、塩分摂取を制限するこ とにより、胃がんが減少しているとの報告もある。
つまり、冷蔵庫の普及により食塩を食物の腐敗予 防のための手段として使用する必要性が少なく なったために、胃がんが減少したとされている。
食道がんの原因としては、タバコとアルコールが リスク因子として挙げられている。最近では、子 宮頸がんのリスク因子としてパピローマウィル スが挙げられ、パピローマウィルスワクチンの有 効性が報告されている。
しかし、がん死を防ぐには、癌組織を早期に発 見し早期に取り除くことが重要である。人間ドッ ク、定期健診により、胃癌でも早期発見さらには、
内視鏡手術も可能となり、がんも徐々にではある が征服されつつある。
2.2.2 心血管障害の治療と予防
死因の第二位は、心疾患である。とくに心筋梗 塞に代表される虚血性心疾患は急性心不全の原 因であり、ひいては死亡の原因となる。この疾患 も胸痛の段階で、冠動脈狭窄を拡張あるいは
A-C
バイパス術を施行すれば、予後は改善する。さら に、バルーンカテーテルを挿入し血栓を壊したの ち、ステントを留置すると、良好な予後が得られ る。動脈血栓についても、抗凝固薬あるいは抗血 小板薬を投与することにより、血栓症を改善させ る試みがなされている。ナトリウム感受性の高いヒトに対しては、ナト リウム摂取の制限により高血圧の発症を抑制す ることが可能となってきている。不整脈も心室細 動では瞬時に脳血流量を低下させ、患者を死に導 くことが多いが、
AED
で除細動することにより、患者を死に至らせないことも可能となった。致死 性不整脈は不整脈を出現させる心筋の部分切除
により死を防ぐことも可能になった。徐脈性不整 脈、伝導障害例では、植え込み型ペースメーカに より、QOLを改善することができる。
虚血性心疾患のリスク因子である粥状動脈硬 化の出現機序については病態生化学的立場より 明らかにされた。すなわち、その発生には LDL コレステロールの増加、HDL コレステロールの 低下、および活性酸素が深く関与している。動脈 硬化の進展を抑制、あるいは予防するにはコレス テロール値を低下させること、魚油に代表される 多価不飽和脂肪酸を積極的に摂取することが肝 要であるとともに、適度の運動による肥満の治療 が重要である。
2.2.3 脳血管障害
CT, MRIの技術は、以前では困難であった脳血
管障害の鑑別診断を容易にし、適正な治療を可能 とした。また予防の面からも、脳ドックなどで脳 血管瘤を早期発見することにより、くも膜下出血 を予防することも可能となってきた。さらには、
頸動脈の血栓は、超音波で診断し、血栓内膜剥離 術を施すことにより、脳梗塞の予後を改善するこ とが可能である。脳血管障害の慢性期には QOL の低下、寝たきり状態、認知症8)となり、要介護 となることが多い。
2.2.4 老衰
高齢化とともに生体機能は低下する9)。とくに 呼吸機能の低下は著しく、軽度の運動でも呼吸困 難となる。高齢者に肺機能障害をもたらす疾患と して、肺気腫をあげることができる。肺気腫の原 因の一つとして喫煙があげられている。肺気腫で は、最大に酸素を摂取量する能力が低下し、運動 が障害されるようになるため、最終的には安静時 にも酸素を吸入することが必要となる。以前は酸
素を安全に取り扱うことが難解であったために、
肺気腫患者は常に病院に入院する必要性があっ たが、最近では酸素産生機器の発達などにより在 宅酸素療法も可能となった。嚥下障害、誤嚥は高 齢者の肺感染症のリスク因子である。また、高齢 者では免疫能が低下しているため、インフルエン ザウィルスなどの感染に対してはワクチンなど により予防することが可能となった。また、肺炎 球菌も肺感染症の原因菌として重要な意味を有 する。この肺炎球菌に対してはワクチンによる予 防策が講じられている。
高齢者では栄養障害にもとづく PEM(たんぱ くエネルギー障害)がみられる。栄養の低下は、
筋肉の減少を招き、いわゆるサルコペニアの状態 となる。このことにより、生体のQOLは低下し、
小脳機能の低下とともに転倒の危険性が増加す る。さらに、女性では、更年期以降において骨粗 鬆症となり、転倒により骨折の危険性は増加し、
QOL を低下させ、いわゆるロコモ症候群の原因 となっている。
寝たきりになると、全身臓器の廃用性萎縮が高 度になってくる。高齢者においても、生きる希望 を見出し、運動・栄養・および休養、嗜好の習慣 を適正に保持すること、頭を使い続けること、新 しいことに挑戦し、いわゆる社会脳を維持するこ とが肝要とされている。
2.2.5 精神疾患と自殺
日本では毎年3万人以上の自殺者がみられる。
年齢構成では50歳前後および75歳以上の自殺者 が多い。その原因としては、精神疾患によるもの が多く、とくにうつ病では自殺に至る例が多く見 られる10)。うつ病・統合失調症などの精神疾患で は、一般的に脳の肉眼的病変あるいは顕微鏡学的 な病変はみとめられず、脳における情報処理の神
経ネットワークを修飾する神経伝達物質が障害 されていると考えられている。とくに、うつ病で は脳の高範囲制御系であるセロトニンレベルの 低下がみられ、シナプス間隙のセロトニンレベル を増加させる薬物により、症状が改善することが 多い。
3.こころの健康をつくりだすしくみ
高齢期においては、各種臓器の疾患が増加する とともに、認知症・ねたきりとなり、介護を必要 とする精神・神経疾患が著しく増加する。精神神 経疾患は、便宜的に中枢神経系の器質的(ハード ウェア)障害と、ネットワークの信号伝達を修飾 する神経伝達物質を中心とした機能的障害に分 類することができる。神経疾患は神経の部位(筋、
神経筋接合部、末梢神経、脊髄、延髄、橋、中脳、
小脳、間脳、終脳)および病変(奇形、循環障害、
炎症、変性、脱髄、腫瘍)により疾患分類が行わ れ、その診断は解剖・組織学的異常と運動・感覚 系の症状に基づくことが多い。一方、精神疾患の 診断基準は本人の訴える精神症状によることが 多く、現段階では脳障害の部位を特定することが 困難であり、その障害は広範囲調節系神経伝達物 質の障害に基づくことが多い。
3.1 神経系の役割:受想行識
中枢神経では、身体内外の情報を受け取り(受)、
その対応方式についてときには想いめぐらし
(想)、適切な動作系(行)を駆動する。それら の反応様式は生体に対する重要度に応じて、ハー ドウェアに格納され、必要に応じてとりだされる
(識)。
3.1.1 信号の受信
中枢神経系は生体内外の情報を適正に受け取
り(求心路:efferent)、中枢神経のネットワーク で演算し、処理した結果を出力する(遠心路:
afferent)情報処理系である。生体に入力される情
報は、生体内外の物理、生物および化学情報に大 別される。生体外の情報は、生体外の情報として 物理的には光、温度、湿度、圧力(大気圧、水圧、重力、振動)、化学的には分子(たんぱく、糖質、
ビタミンなどの栄養素、アルコール、ニコチン、
麻薬などの化学物質)、さらに生物的には微生物
(寄生虫、真菌、細菌、ウィルスなど)などがあ る。生体内の情報は多岐にわたるが、血液酸素分 圧、血液炭酸ガス分圧、水素イオン濃度、動脈圧、
胸腔内圧、浸透圧、グルコース濃度などがあげら れる。これらの情報は生体内に存在する受容体に より感受されるが、必要に応じて(受容体の閾値 レベルをこえれば)線形あるいは非線形反応によ る情報として、中枢にまで信号が伝達される。
生体にそなわった専門の受容体(受)としては 嗅覚、視覚、聴覚、位置覚、皮膚知覚、および内 臓知覚などがあげられる。これらの情報は、情報 伝達経路(受:求心性神経、脊髄、延髄、橋、中 脳、小脳、間脳、大脳)の種々のレベルで適正に、
また自動的に処理される。情報を処理する神経は 単一ニューロンによることは少なく、多くは情報 処理ネットワークより構成されるモジュール(情 報処理モジュール:多くの入力情報によりさまざ まな反応を示す機能単位であり、モジュールを動 かす単位としてサブモジュールがある)により構 成される。モジュールは他のモジュールからの信 号を受け取り、相互に通信網を張り巡らしている。
中枢神経系では、生体内外の多くのモジュールが 同時並行的にモジュール内神経ネットワークで 並 行 的 に 信 号 が 処 理 さ れ る (
PDP: parallel distributed processing)
。受信情報は単一ではなく、同時に複数の情報が入力される。とくに既存情報
(想:想起)、過去の経験との照合により、入力 信号に対する反応様式の優先度、重要度が選択・
決定され、その結果としての信号が出力(実行)
される。
この出力信号は他のモジュールに送信される とともに、最終的には行動系(行:遠心路神経、
運動神経、自律神経、平滑筋、心筋、骨格筋)に よって具体的に処理される。また、これらの出力 された結果は、常時フィードバックされ、その出 力が適正であったのか、評価が行われて、その必 要と重要性によりシナプスの強化および消失あ るいはスパイン形成などの方式により、反応様式 が記憶・保持される。
生体外の情報も同様に、特殊感覚で受容される が、中枢での処理方式は、進化の形跡が垣間見ら れる。例えば視覚情報は、角膜、レンズ、水晶体 を介して網膜に至る。網膜からの信号は視神経を 介し、外側膝状体、視放線、後頭葉、に信号を送 信するが、視神経の一部は外側膝状体(背側核)
に入らず、上丘・視蓋前域核・視交叉上核(メラ ノプシン神経節細胞からの情報、日内リズムの中 枢)・視床枕核(外側前頭前野に情報伝達)に信 号が伝達され、瞳孔の調節、あるいは日内リズム
(視交叉上核の信号は松果体にも信号伝達され る)の調節に関与する。後頭葉は、物体の認識を おこなうものの、視覚情報は後頭葉に達する前に 脳の各種の部位に情報を提供している。このこと より類推すれば、視覚情報が認識される前(意識 下)に一部の情報はあらかじめ処理されている。
すなわち、後頭葉が障害された例(皮質盲)にお いても一定のパターンを認識することが可能で ある。すなわち、種々の受容体から入力される特 定の情報は、大脳新皮質にいたる前に信号が緊急 に処理されている(意識下による前処理ともいえ る)。しかし、視覚や聴覚でも、その信号が何で
あるのか、明確に判定されるには、大脳の広範な 面積を占める皮質処理系が必要とされる。また、
皮質の情報処理系も客体をカメラのように確実 にとらえているものでもなく、脳内の精神状態
(欲望・情動など)にある程度左右され修飾され る。このため、自己に必要な情報に対してのみ選 択的に焦点が当られる、ときにはデフォルメされ こともある。これが亢進すると、幻視、幻覚に変 化していく可能性がある。一方、とくに注視した いものがあり、あるものに集中する程度が高いと、
自己の関心領域以外の周辺の情報は無視される こともある。「心ここにあらざれば見れども見え ず」の状態となる。この現象は他の感覚入力情報 についても同様である。
3.1.2
中枢神経内信号処理の部位受信された生体内外の信号は、中枢神経系で処 理される。中枢神経系は脊髄、脳幹(延髄・橋・
中脳)、小脳、間脳(視床・視床下部)、大脳辺縁 系、大脳皮質(前頭葉、頭頂葉、側頭葉、後頭葉)
に分けられ、大脳皮質の判断をまつことなく、信 号処理を行うことも多い。大脳皮質に信号を伝達 するには、脊髄からの情報伝達には数ミリ秒では あるが、伝達遅延があり、皮質判断には、ネット ワークが関与するため、判断より指示まで一定の 時間を要するからである。このように、脊髄では、
体を侵害する刺激に対しては、大脳皮質あるいは 意識を介せずに反射的に回避反応のとして屈筋 が収縮する。さらに速い反射としては、軸索反射 がある。
延髄には、嚥下、呼吸・循環などの中枢が存在 し、生命自体を維持する基本的装置で、延髄が広 範に障害されると、死にいたる。しかし、心臓は 拍動していることがあり、いわゆる、この時は、
脳血管系の中枢は作動し、呼吸を含む脳幹の器質
的障害が脳死と判定される。
橋には多くの脳神経核が存在するとともに、前 頭葉運動野からの小脳に信号を送信している。橋 からの小脳に投射される神経路の信号は経験側 にしたがって、運動の調節に関与する。
小脳は橋のみならず脊髄あるいはオリーブ核、
前庭神経核からの情報も受ける。これにより、小 脳では関節の位置(筋肉収縮状態)、身体の空間 認識、体の位置の認識が行われる。小脳の障害で は体のバランス、運動失調、関節位置認識障害に もとづく症状が認められるようになる。
中脳には、錐体路、感覚路、赤核、黒質、瞳孔 調節中枢、脳幹網様体などが密に存在する。中脳 に障害が及ぶと、脳幹網様体機能が低下し意識障 害がみられるようになる。Edinger-Westphal核が 障害されると、いわゆる死の徴候である対光反射 が消失し、瞳孔は散大する。また中脳の腹側被蓋 野からは、ドパミン線維が間脳および終脳に投射 される。黒質のドパミン産生が不足すると、線状 体ではドパミン不足に陥り、とくに錐体外路系障 害による運動障害が出現する。また、中脳からの ドパミン神経線維は扁桃体、側坐核、帯状回にも 投射する。これらの系は報酬系とされ、扁桃体で の行動決定とともに、喜怒哀楽の感情を営む。パ ーキンソン病患者では、顔面における喜怒哀楽の 表情が乏しくいわゆる仮面様顔貌となる。さらに 橋および中脳には網様体賦活系があり、意識レベ ルを保つ。脳幹網様体が障害されると、種々のレ ベルでの意識が障害されるようになる。
間脳には視床および視床下部が存在する。視床 は嗅覚を除く体性感覚の全てが経由する場所で ある。視床の下の視床下部には、本能行動・欲望 の中枢が存在し、自己の能動的生命維持および種 族の維持を図る。視床下部はとくにストレス系の 主座となり、下垂体、副腎皮質はストレス系を構
成する。視床下部前方の視交叉上核には、日内リ ズムをつかさどる神経核が存在する。喝中枢は、
体液の浸透圧が増加したきには口渇とともに飲 水行動を刺激し、また、内分泌的には、抗利尿ホ ルモンの分泌を促進させ、腎臓よりアクアポリン を介しての水の再吸収を亢進させる。
体温も視床下部で調整される。感染症などによ り、体温調節のためのセットポイントが上昇する と悪寒戦慄が生じ、体温を上昇させる。また、セ ットポイントが低下すると、体温をさげるために、
発汗が多量となり解熱する。この発熱因子として インターロイキン1(IL-1)、TNF、インターフェ ロン、エンドトキシンが関与している。また、こ の体温調節中枢は食欲中枢に影響を与える。発熱 で高体温の際には食欲は低下する。
飢餓および満腹中枢は、血糖、グレリン、レプ チンニューロペプチド
Y
など種々の因子によっ ても制御されている。血糖低下は摂食行動を亢進 させる原動力となる。脳内アミンであるセロトニ ン・ヒスタミンは咀嚼、食欲・食事選択に影響を およぼしている。性欲の中枢は性行動を制御する。性欲とともに 下垂体を介した性ホルモン(黄体化ホルモン、卵 胞刺激ホルモン)の調節を行う。
視床下部は本能行動を支える中枢とされるが、
その行動を維持する物質としては、下垂体前葉お よび後葉からの下垂体ホルモンが、神経系として は、自律神経が作動する。視床下部の神経系に供 えられた情報は、生体が欲望を成就するための行 動に向かわせる。その行動は、ときに攻撃的とな る。
大脳は、大脳鎌、左右の半球に分かれる。大脳 皮質はさらに、前頭葉、側頭葉および辺縁系、頭 頂葉、後頭葉、大脳基底核にわけることができる。
これらの部位には種々の高次機能が局在してい
る。
前頭葉は運動野、運動前野および前頭連合野に 大別される。前頭連合野は脳の高次機能をつかさ どる。この部位はいわゆる知・情・意に代表され る神経活動を司り、いわゆる意識レベルに支えら れた意志の発動による運動の発現が可能な部位 である。この部位の脱落症状として、前頭葉症候 群があげられる。この場合、発動性の低下が認め られる。この意志により、栄養素に対する嗜好は 司られる。アルコール、マリファナ、たばこ、コ カイン、ニコチンはドパミン分泌を誘導する。と くに報酬不全の状態では、これらの嗜好物は好ま れて服用される。また、うつ病の場合では、前頭 葉腹内側部の機能低下があることが報告されて いる。さらに、前頭葉は社会とのかかわりも司り、
いわゆる“人格”と称せられる行動を制御する。
前頭葉に障害を受けた例では、人格が変化し、社 会生活を営むことが困難となる。さらに、人格障 害としての解離性障害をきたすこともある。また、
運動野にはブローカの言語野が存在し、脳血管障 害でこの部分が障害をうけると発語による意思 伝達が困難となる。
側頭葉には聴覚、言語野(ウェルニッケ野)、
視覚に関する機能、大脳辺縁系(海馬、扁桃体)
が存在する。海馬は記憶を司り、扁桃体は喜怒哀 楽の中枢であり、視床下部、行動に影響をあたえ る。
後頭葉の主な役割は、視覚信号の処理である。
視覚信号はさらに、視覚系をつかさどる数個のモ ジュールに信号が伝達され、そのモジュールで再 処理される。
3.1.3
中枢神経系ネットワークを修飾する神経伝達物質
神経ネットワークを駆動しているのは、神経と
神経の間(シナプス間隙)あるいは神経を刺激す る神経伝達物質である。神経伝達物質としては、
アセチルコリン、ドパミン、ノルアドレナリン、
アドレナリン、グルタミン、γアミノ酪酸(GABA)、 セロトニンなどがあげられ、アンジオテンシン、
エンドルフィン、レプチン、コレシストキニンな どのペプチド中枢神経とくに視床下部の中枢に 影響をあたえている。とくにノルアドレナリン、
セロトニン、ドパミン、アセチルコリン作動性性 線維は脳の種々な機能を司る広範な部位に投射 している。
神経伝達物質は、主に脳幹の縫線核(セロトニ ン)、青班核(ノルアドレナリン)、黒質(ドパミ ン)、中脳腹側被蓋野(ドパミン)で産生され、
脳の種々の機能単位(神経ネットワーク)制御し ている。例えば青班核からの神経は約
25
万個の シナプス形成能を有し、覚醒、学習と記憶、不安、などなどを司る脳神経部位のモジュールを賦活 する。
これらの神経伝達物質はアミノ酸より生成さ れるものが多く、フェニルアラニン、チロシンよ りドパミン、ノルアドレナリン、アドレナリンが、
トリプトファンからセロトニンおよびメラトニ ンが、グルタミン酸よりγアミノ酪酸(GABA)
が、ヒスチジンよりヒスタミンが合成される。こ のことより、神経伝達物質は摂取したアミノ酸あ るいはたんぱく代謝と関連性がたかく、その意味 では食物は脳機能に大きな影響を与えている。
神経伝達物質は、軸索終末から神経刺激に応じ てシナプス間隙に放出され、シナプス後膜の受容 体を刺激するが、その一部は軸索終末に再吸収さ れる。受容体が刺激されると、膜電位が陰性化あ るいは陽性化する。膜電位が陰性化すると、神経 の興奮性は低下し、陽性化すると興奮性が高まる。
たとえば
GABA
受容体はGABA
に対する受容体であるが、ベンゾジアゼピンおよびエタノールが 結合する部位があり、この刺激によりクロールイ オンが細胞内に取り込まれ、膜電位は低下(過分 極)し、興奮性は低下する。この結果、不安など が抑制される。
3.1.4
神経伝達物質と疾患先天性代謝異常であるフェニルケトン尿症は、
フェニルアラニン水酸化酵素が先天的に欠乏す る常染色体劣性遺伝による疾患である。チロシン、
ドパミン、ノルアドレナリン、あるいはノルアド レナリンの産生が低下し、知能の低下を来す。ま た、メラニン欠乏により、黒髪は茶髪または白髪 となり、皮膚も白くなる。
統合失調症の原因として、ドパミン過剰説が唱 えられている。また、中脳にある黒質におけるド パミン産生不足により、黒質から線状体に送り込 まれるドパミン量が不足し、振戦・固縮・無動を 主徴とするパーキンソン病が発症する。
アルツハイマー病では、マイネルト核からのア セチルコリンが不足していると報告されている。
したがって、アセチルコリンエステラーゼ阻害薬 を服用することにより、一次的に記憶力が改善す る。また、アセチルコリンは末梢神経において神 経筋接合部に作用する。神経端末からのアセチル コリンの放出を抑制するボツリヌス毒の作用に より、筋肉収縮は抑制される。
うつ病では、食欲の減退(食べ物に対するおい しさの欠如)、体重の減少、味覚の低下(砂を噛 むような味)、睡眠障害(中途覚醒、早朝覚醒)、 行動の制止などがみられる。これらの症状はレセ ルピン投与によっても出現することがある。レセ ルピンという薬物は、降圧作用、鎮静作用を有す る薬物として用いられていたが、カテコールアミ ンあるいはセロトニンを枯渇させるうつ状態を
惹起させる副作用があるため、最近は降圧薬とし て は 使 用 さ れ て い な い 。
Parachlorphenylalanine
(PCPA)はセロトニンの合成をさまたげるが、
この物質の投与により攻撃性が増加する。また、
臨床実験的に、うつ病から回復した症例に、トリ プトファンを欠く食事をあたえたところ、7時間 のちに、うつ病を示す自覚症状が多くなり、血液 中のトリプトファンレベルが低下していたとの 報告がある11)。うつ病で自殺した患者ではセロト ニンレベルが低下していたとの報告されている。
またセロトニンの低下は不眠の原因となる12)。セ ロトニンの基質であるトリプトファンが脳内で 増加すると、気分の高揚、眠気の増加、不安が軽 減することが報告されている。このようにうつ病 はセロトニンを密接な関連性を有す。脳内トリプ トファンは血液より補給されるが、血液脳関門が あり、分岐鎖アミノ酸はトリプトファンが脳内に とりこみにおいて競合的に拮抗する。したがって、
分岐鎖アミノ酸が低いレベルの場合には、インス リンにより筋肉内取り込みが増加する。インスリ ンは糖質摂取により増加する。これらのことより、
トリプトファンを含む食品を摂取する際に糖質 を摂取すると、血液にトリプトファンが増加し、
分岐鎖アミノ酸は筋肉にとりこまれる。このため、
血液脳関門におけるトリプトファン取り込みに 際して、分岐鎖アミノ酸の競合はすくなくなる。
以前より、不眠には、牛乳と少量の砂糖が有効で あるとされたのは、これらの機序が働いているも のと推測される。今日では、セロトニン・ノルア ドレナリン選択的再吸収阻害薬によりうつ病は 改善することが認められている。
これらのことより、セロトニンの減少はうつ病 の症状緩和に有用であることがわかる。うつ病で は、食欲が低下し、味覚としても砂を噛むようで あると表現されることがある。うつ病で食欲が減
退することにより、トリプトファン摂取量が低下 し、血液中にトリプトファンを増加させないと、
トリプトファンの脳内レベルは減少し、うつ病の 症状は悪化することになる。また、うつ病の症状 が増悪すると食欲が低下する。これを、Deflation
spiral
にちなんでDepression spiral
を称する人もい る。Dedpression spiralにおちいらないためにも、うつ病に対する早期の栄養ケアが重要である。
3.2 心身医学と身心医学
こころの作用によって、体の疾病が作り出され る疾患の種類・機序については、心療内科で取り 扱われ心身医学として定着した概念となってい る。日本心身医学会はその沿革として「心身医学
(Psychosomatic Medicine)は、心と身体の関係を 科学的に研究して、これを医学に活用しようとす る学問である。現代社会はストレスに満ち溢れ、
多くのストレス関連疾患がみられるが、そのうち 高血圧症や胃潰瘍などの身体疾患に、心理・社会 的因子が密接に関与した病態を心身症と呼ぶ」と 宣言している。著者は学生時代に日本で最初に心 身医学を打ち立てられた池見酉次郎教授の授業 を受けたが、とくに心療内科の対象疾患は身体疾 患であることを強調され、胃潰瘍、蕁麻疹、気管 支喘息、過敏性腸症候群、腹部緊満症などの疾患 とストレス既往歴について詳細に講義を受けた 記憶がある。「はぜ」により、蕁麻疹が出現する 患者に対して催眠下で、“あなたは、はぜの木の 下を通っていますよ”と従者が声をかけると、蕁 麻疹が出現していた患者を、ムービーで紹介され ていた。教授はさらに、Psychosomatic はさらに ひろく、
Socio-Psycho- Soma
という概念が必要で あり、社会の変化がこころに影響をおよぼし、こ ころが身体に影響を及ぼすことも述べられてい た。今日では、この分野は診療内科として定着し、多くの疾患の診断と治療がおこなわれるように なった。
体の変化が特殊受容体と求心性神経を介さな いで精神神経活動に影響を及ぼすことは経験的 にもよく知られていることである。中枢神経系に 影響を及ぼす体液因子として血液成分があげら れる。一般には、血液内の情報は脳血管関門が存 在するため、中枢神経に影響を及ぼすことは少な いが、脳血管関門が存在しない視床下部の一部で は血液成分の情報が脳に伝達される。また、小さ な分子は脳血管関門を介さず中枢神経に影響お よぼす。ここで、神経伝達物質あるいは中枢神経 系に影響をあたえる物質としては、生体内代謝産 物、と体外からの摂取および吸収により取り込ま れる物質にわけることができる。また体外より体 内に取り込まれる物質は薬物・嗜好品と食物に大 別される。食物摂取により血液成分を変化させる 因子としては各種栄養素をあげることができ、呼 吸器より吸入・排泄される物質としては、酸素・
炭酸ガスをあげることができる。また、代謝産物 あるいは腸管より吸収される物質としては、アン モニア、尿素窒素、尿酸、アミノ酸、尿酸、尿素 があげられ、内分泌物資としてはレニン・アンジ オテンシン、コーチゾール、エストロゲン、テス トステロン、甲状腺ホルモン、レプチン、グレリ
ン、
CCK-PZ
など多くの物質をあげることができ、これらの物質は脳機能に影響を及ぼす。
3.2.1
酸素酸素は脳のエネルギー産生に重要で、短時間で も酸素供給が低下すると、脳神経は壊死に陥り、
この壊死が広範である場合、全身死につながる。
また、慢性の脳虚血状態では、記憶障害、健忘、
認知障害など多彩な症状が出現する。局在性に脳 虚血あるいは脳梗塞が出現すると、神経入力とし
ての感覚障害、神経出力としての運動障害が認め られる。
3.2.2 ブドウ糖
脳のエネルギー基質はグルコースである。血糖 は健常人では70-110㎎/dL程度に保たれている。
空腹時、飢餓状態、食後反応、あるいはインスリ ン投与、インスリノーマなどにより、低血糖とな る。血糖が徐々に低下すると、頭痛、痙攣、人格 変化、記銘力低下などの中枢神経症状があらわれ る。グルコースの血液中濃度がさらに低下すると、
脳機能が低下し、死にいたる。一方、高血糖では 海馬が障害を受けることも報告されている13) 。
3.2.3 コレステロール
コレステロールは細胞膜の構成成分およびス テロイドホルモンの骨格として重要であるが、血 液中のコレステロールの増加により動脈硬化が 発現することはよくしられている。コレステロー ルの低下例では、暴力行為および自殺が増えると され、この機序としてはコレステロール濃度低下 のためにセロトニン受容体が減少するものと推 測されている14)。
3.2.4 アンモニア
肝硬変非代償期ではアンモニアが高値となり、
ときとして昏睡状態となる。昏睡状態の前には、
錯乱、妄想、幻覚、攻撃性の亢進などがみられる。
その機序として、アンモニアが大脳のエネルギー を産生する神経細胞のミトコンドリアにおける TCA サイクルの回転を低下させることによるも のとされている。
3.2.5 性ホルモン
性ホルモンが生殖器の構造を決めること明ら
かにされている。さらにエストラジオールは海馬 における神経の棘突起数の増加作用、低酸素・酸 化的ストレスに対する保護作用が認められる。ま たアルツハイマー病は女性に多くみられるが、女 性ホルモンの補充療法によりその開始を遅らせ る試みもなされている。
3.2.6 甲状腺ホルモン
甲状腺ホルモンも精神活動に影響をおよぼし、
その機能低下症では記銘力の低下、思考過程の滞 り、無気力状態となる。一方、甲状腺機能亢進症 では、被刺激性が高まり落ち着きのない状態とな る。甲状腺ホルモンは中枢のTRHを経てTSHの 作用で分泌が亢進するが、TRH は脳の機能にも 影響を及ぼし、いわゆる”やる気“を出す物質と して、重要な区割りを演じている。この、甲状腺 ホルモンは一方では、体の代謝を亢進させるが、” やる気“とその行動を支える身体の代謝亢進には 関連性があるものと推測される。摂食低下を中心 とする、神経性食欲不振症では、甲状腺ホルモン の低下が指摘されている。
3.2.7 コルチゾール
生体はストレス下において、視床下部の CRH を増加させる。CRHは脳下垂体に働きACTH分 泌を増加させる。ACTH は副腎皮質に働きかけ、
コルチゾールを増加させる。コルチゾールは糖 質・脂質代謝に影響を及ぼすとともに、腎臓、免 疫、骨代謝および神経系に影響を及ぼす。コルチ ゾールが増加すると視床下部のコルチゾール受 容体を刺激し、CRH が減少するという陰性フィ ードバックが働き、CRHは低下する。このCRH を動物の脳内に大量注入すると、うつ病に類似し た行動を示すことが報告されている。うつ病では、
コルチゾール受容体が減少し、ストレス時に大量
のコルチゾールが放出されることと陰性フィー ドバックが働かないため、CRH が増加している ものと推測されている。また、SSRIは視床下部の コルチゾール受容体の数を増加させるとの報告 もある。つまり、うつ病患者においては、コルチ ゾール受容体の減少による HPA系の過剰反応が あるものと推測されている。
3.3.8 レニン・アンジオテンシン
腎血流が低下すると、腎臓よりレニンが分泌さ れる。レニンは肝臓で産生されたアンジオテンシ ノーゲンをアンジオテンシンⅠに変える。アンジ オテンシンⅠは、アンジオテンシン変換酵素によ りアンジオテンシンⅡに変えられる。アンジオテ ンシンⅡは血管系に作動し、血管を収縮させると ともに、副腎皮質球状層に作動し、アルドステロ ンの分泌を促す。アルドステロンは腎臓の遠位尿 細管あるいは集合管に働きかけ、管腔内からナト リウムの吸収を促し、カリウムあるいは水素イオ ンの尿細管内腔排泄を亢進させる。一方、アンジ オテンシンⅡは脳弓下器官に作動し、ADH(抗利 尿ホルモン)系を駆動するとともに、必要に応じ て、飲水行動に生体を向かわせる。血圧低下が脱 水による高浸透圧であれば、終板脈管器官にある 神経細胞が脱水となり、活動電位が発生する。こ れらの情報により、生体は飲水行動を動機づける。
以上のべたように、身体より発せられる生物・
物理学的因子の多くは主に、視床下部および脳幹 に働きかけ、生体の行動・情動を駆動している。
視床下部における欲望とくに飲・食・性の行動が 外的に抑制されると、生体は暴力的となり攻撃的 となり、欲望を満たそうとする。この意味で、た んぱく質に多く含まれるトリプトファンの摂取 不足はたんぱく質を摂取する行動あるいは嗜好 を増強し、急性のエネルギー源の不足は糖質摂取
の嗜好性をますものと推測される。さらに、食物 摂取が制限されると、体内ケトン体の増加、セロ トニンの低下などの機序により、食欲は低下し、
行動力も低下(余計な行動はエネルギーを消費す るのみである)されるという、行動抑制機序がは たらくものと推測される。
4.身心の健康をささえる
身体の疾患については、今日では、遺伝子レベ ルでの解析が行われるとともに、各種内科疾患、
神経難病と称せられた疾患に対しても、分子レベ ルでの発症機序の解明と治療法が開発され実用 化されている。
一方、精神科疾患については、古代から現在に 至るまで各々の立場で解釈され、「憑き物」、「悪 霊」、「精霊」、「呪い」などを原因としているとい う考え方より心理分析による類型化、論理的根拠 にうらづけされた精神症候学・反応パターンより 導き出された心理学と脳における、遺伝・分子生 物学を基礎にした神経科学に分析の眼が引き継 がれている。今後は、神経病理学者による脳解剖、
神経機能単位と行動の関連性の決定、神経科学者 によるCT, PET, fMRI, EMG, 脳血流トポグラフ ィーなどの画像診断学の解析にまたれることが 多い。さらに将来においては、ミクロな神経伝導 路の発見、脳における神経作動モジュールを司る 部位の決定、神経ネットワークにおける神経伝達 物質種類とその多寡により、「こころ」を織り成 す神経機能単位と、その表現型である、「形相」
「ことば」を含む「精神神経学的行動・症候」と の関連性の検討が詳細におこなわれる可能性も 存在する 15)。このことにより、神経行動学と脳 機能の因果関係による神経・精神疾患の治療も可 能になるものと推測される。
しかし、「こころ」の形成に、神経ネットワー