• 検索結果がありません。

教育関係を可能にするものとしての「信頼」について [ PDF

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "教育関係を可能にするものとしての「信頼」について [ PDF"

Copied!
4
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

1.章構成 はじめに 第 1 章 教育的かかわりの類型 1.1 教育的かかわりの 4 類型 1.1.1 縦のかかわり 1.1.2 横のかかわり 1.2 4 類型の限界 第 2 章 情感的態度としての信頼 第 3 章 複雑性の縮減としての信頼 3.1 システムと信頼 3.2 人格的な信頼とシステム信頼 第 4 章 教育システム 第 5 章 教育における信頼 おわりに 2.梗概 本稿は、学校という教育の場での教師と子どもの教育 関係における、信頼の意義について考察するものである。 はじめに、学校における教育的かかわりをテーマとして 研究を行い、教育的かかわりの類型化を行った岡田 (2006)の議論をもとに、学校における教育的かかわりの 特殊性について考察する。次に、特に学校で行われる教 育的かかわりについて考察を行うため、「教育的雰囲気」 についての O.F.ボルノーの議論と「システム信頼」につ いての N.ルーマンの議論を参照する。両者はともに、教 育関係における論を展開しているが、ボルノーは希望や 信頼を重視する一方で、どのようにしてそうした関係に 至り、それを継続することができるのか明らかにしてお らず、ルーマンは、教育関係を教師と子どもという個別 的実体から離れてシステムにおける機能として論じるが、 教育システムに参入し、教育関係を開始することがいか に可能となるのかについて論じていない。 また、両者の考えについて、田中はボルノーにおいて 「教育の可能性」が善さと正しさに満ちた清浄この上な い教育的コミュニケーションという「教育の構造」から 生じるのに対して、ルーマンにおいては「教育の可能性」 は子どもが口をつぐんだり嘘をついたりする汚れたコミ ュニケーションにも生じると指摘しているが、両者の議 論をより詳細に検討することによって、教師と子どもが 個人的な関係を持たず、子どもにおいては教育システム の経験もないような状態において、両者が教育関係に参 入していくときに様々な信頼が機能していることを明ら かにする。 第 1 章おいては、岡田敬司による教育的かかわりの分 類について検討している。岡田は、「愛情深く、しかも威 厳を持って進むべき道を示せ」といった教師論について、 それが教育者の本分をついていることを認めつつ、同時 にそれは「人間的かかわりが持つ多面的な教育作用をそ ぎ落としてしまった」と指摘している 。この問題意識の もとに、岡田は、教育者の「任務」や「役割」を考える のではなく、かかわりの教育「作用」に注目することで、 従来の教師論においてそぎ落とされてきた側面を回収し ようと試みている。多様な教育的かかわりについて検討 するために、岡田は教育的かかわりを、かかわりの方向 性と調和性を指標として権力的、権威的、認知葛藤的、 受容的・呼応的の4つに類型化している。この類型を学 校教育において検討した結果、岡田の4つの類型につい ての説明では、学校における教育的かかわりを開始させ、 継続させるものについて語ることが出来ないということ が明らかとなった。 第 2 章においては、ボルノーによる教育的雰囲気につ いての議論について検討を行った。ボルノーは、学校に おける教育者と被教育者の関係性について、「教師と児 童の間に成立し、あらゆる個々の教育的なふるまいの背 景をなす情感的な条件と人間的な態度の全体」としての 「教育的雰囲気」が「あらゆる効果的な教育にとって欠 くべからざる通底をなす」と述べている[ボルノー 2006:31]。そして、この「教育的雰囲気」を形成するの は、子どもの教師への信頼(Vertrauen)と、教師の子ど もへの信頼であると指摘している。ボルノーによれば、 情感的な態度としての信頼は相手の何らかの特定の行動 への期待とは異なってその「人間全体」に向けられるも

教育を可能にするものとしての信頼について

キーワード:ボルノー、教育的雰囲気、ルーマン、システム論、信頼 所 属 教育システム専攻 氏 名 山崎 友里江

(2)

のであり、信頼の対象は「相手の持つ特定の個々の諸特 質や特性ではなく、端的に当の人間そのもの」であると されている[ボルノー 2006:116]。そして、子どもの 教師への信頼は子どもの世界を支えるものであり、教師 の子どもへの信頼は子どもをまったく変えてしまうもの であって、教育者の信頼の力によって、子どものどのよ うな特性が発達するかが左右されるとボルノーは指摘す る。ボルノーの指摘に従えば、教育関係における信頼の 重要性はきわめて高いと言えるであろう。教師が、自分 が関わる子どもそのものを信頼していることが子どもの 成長の条件ということになるからである。しかし、これ には教育的雰囲気、つまり教師と子どもの相互の信頼は いつ、どのように形成されるのかという問題が考えられ る。また一方で、教師が子どもを信頼することは教師の 素質であるとされるが、子どもの教師への信頼が養育者 への信頼の延長線上で自然的に生じ、教師が子どもを信 頼することによって子どもの特性を発達させるというボ ルノーの指摘が正しいとするならば、教育関係における 信頼の維持は教師個人の問題となってしまう。だが、あ らゆる子どもの「人間全体」を信頼するということはい かに可能なのか。教師個人の努力によってその教師が関 わるあらゆる子どもたちからの信頼を獲得することが本 当に可能なのかという点についても検討の余地があると 考えた。 第 3 章においては、ルーマンにおけるシステムと信頼の 議論の検討を行った。まず彼のシステム論や信頼につい ての議論が社会の複雑性という 1 つの問題に準拠してい ることを確認した。複雑性に富んだ世界において、ある 瞬間における他者の行動を予測することは、本来不可能 である。他者の行動が予測できない状況では、自分の行 動を合理的に決定することもまた困難である。システム は複雑性に満ちた世界に対して、その一部を自らの環境 として選択的に構成することによってその複雑性を縮減 するが、選択的に構成された環境と世界の断絶に直面す ると瓦解してしまう。しかし、人間においては、「他者が 自我であるということを、自分が体験し理解する」とい う点において、「予測不可能な複雑性が自己に課されて いるのであって、この複雑性が、自他に共通の類型へと 縮減されなければならない」[田中・山名 2004:8‐9]。 こうした状況において、信頼が必要とされるようになる。 私たちは、他者が自分と調子を合わせて振る舞ってくれ ることを信頼することによって、他者の行動の複雑性を 縮減する。これによって、私たちはより合理的に行動を 決定することが可能となるのである。このように信頼を 複雑性の縮減のためのものとした上で、ルーマンは信頼 を 2 つに分ける。慣れ親しみを基盤とする人格的な信頼 とシステム信頼である。 ルーマンは、人格的な信頼について、次のように述べ ている。「人格的な信頼関係の生成のための第一のそし て基礎的な前提は、人間行為が一般的に個人的に条件づ けられた行為として可視的である、ということである。 信頼は行為に帰属された動機に依存する」[ルーマン 1988:33(69)]。ルーマンの言う人格的な信頼とは、あ る行為の主体者に向けられる信頼であり、その人格に固 有の性質を当てにすることである。また、ルーマンは、 人格的な信頼は慣れ親しみを基調とすると指摘する。つ まり、人格的な信頼は、形成のためにその人との反復的 な接触が必要とされる。しかしながら、同時に社会秩序 が複雑で、可変的な社会においては、こうした慣れ親し みが困難である。ここにおいて、個人を対象としない信 頼の必要性が出現する。 この個人を対象としない信頼がシステム信頼である。 システム信頼とは、「自己の信頼を既知の人間にではな く、この機能しているということに」置く信頼であり、 「システム信頼は、絶えざる「フィードバック」を必要 とはするが特別な内的保障を必要とせず、それ故ひっき りなしに新しい人間を個人的に信頼することとは比較に ならないほどずっと容易に学習されうる」一方で「コン トロールがはるかに困難である」[ルーマン 1988:79 ‐80]。あるシステムが機能しているということに対する 信頼であるシステム信頼は、そのシステムの機能を恒常 的に経験することによって自然と築かれる。 このようにルーマンは人格的信頼とシステム信頼とい う 2 つの信頼について語っている。ルーマンが説明する 信頼は、ボルノーの言う情感的態度とは異なり、他者の 多様な行動に合理的に対応するために、自然に獲得され る一定の思考の枠組みであると言えるだろう。また、ル ーマンの指摘に従えば、システム信頼は私たちがそのシ ステムの中で生きるうちに無意識のうちに形成されるも のであり、社会が複雑化した現代を生きる私たちに不可 欠な要素である。ルーマンによれば教育も社会システム の1つであり、教育システムへの信頼は教育システムを 経験することで自然と獲得され、内部で行われるやり取 りをスムーズなものにすることを可能にしていると言え るだろう。次に、教育における複雑性の縮減としての信 頼の機能をより詳細に考えるために、ルーマンの教育に ついての考えについて確認した。 第 4 章においては、ルーマンの教育システムについて

(3)

の論を確認した。ルーマンは、教育とは人間の能力の開 発を目指す活動であり、人間が社会的つながりを結んで いけるようにするための意図的な活動であるという教育 概念について、これは教育の機能を人間の側から読み取 ろうとする人間本位主義的な教育概念であると指摘する。 そのうえで、実際には、教育がどこで必要とされ、教育 に何を期待できるかは人間と社会の関係がどのように捉 えられるかに懸かっているのであり、教育の社会的機能 を検討する必要性があると述べている[ルーマン 2004 pp6-14]。この点を検討するための概念が教育システムで ある。また、ルーマンは、教師の教育者的抱負がその心 的なありようとは無関係に、教育システムと言う新たな システムの分化を強いるシンボルとして機能したことを 指摘する。分化した教育システムは、授業というコミュ ニケーションシステムとして作動する。ルーマンは、社 会的コミュニケーションについて考える際に経験的所与 としての人間と人格を区別する必要を指摘し、あまりに 複雑な人間に代わって、人格が同定されることによって、 コミュニケーションはより円滑に行われるようになり、 授業もこうした「人格」を利用したコミュニケーション であるという。しかし、授業というコミュニケーション システムは、1 対 1 の関係ではなく、教師は多数の子ど もを相手にしているため、伝達の仕方を計画し、成否を コントロールすることはより困難となる。また、教育は 「人格」を作り出す機能を持つものでもあるとルーマン は指摘する。 つまり、ルーマンによれば教育とは教師の教育者的抱 負に支えられて独自の領域を持つものであり、社会にお いてわたしたちがコミュニケーションを行う際に前提と できる事項を形成するものである。前段で述べた信頼の 話と合わせて考えると、教師の抱く教育システムへの信 頼とは、子どもたちが学校によって社会で生きていく為 に必要な物事を身につけていくであろうという予測であ り、授業中のコミュニケーションの意味づけである。そ して子どもたちが抱く教育システムへの信頼とは、学校 で学ぶことが知っていて当然であることだという認識だ といえるだろう。 ただし、システム信頼は、システムを経験することに よって獲得されるものであり、教師は自身が教育を受け た経験もあり、教育システムを経験していると考えられ るが、教育関係に参入したばかりの子どもは教育システ ムを経験していないために、システム信頼を持つことは 不可能であると思われる。少なくとも、教育システムへ の参入直後において、子どもを教育関係につなぎとめて いるものは教育システムへの信頼ではないだろう。また、 システム信頼は無意識的に獲得されるものであり、かつ その対象がシステムという実態を持たないものであるが ために、それが異なるものへの信頼として表明、意識化 される場合もあるだろうと考えた。 第 5 章においては、ここまでの検討を踏まえて教育に おける信頼について考察した。まずは、教育関係におけ る信頼がどのように形成されるのかについて考える。初 めに、教師から子どもへの信頼は、教育システムへの信 頼を背景に成立していると考えられる。教師は、自身の 被教育経験から、また学校において子どもが変化すると いう経験をすることによって教育システムを信頼する。 同様に、現代社会においても学校において子どもは変化 するという認識が広く共有されている。こうした大人の 教育に対するシステム信頼によって、親や教師は学校に おける子どもの教育可能性を信じている。このような教 育におけるシステム信頼に基づいて、教師は子どもの応 答を期待して働きかけを行い続けることが可能となり、 親をはじめとする学校の外部環境に対して、学校が教育 的な価値を主張することが可能となる。次に、子どもか ら教師への信頼についてだが、これは、かかわりが開始 された時点では存在していないと考えられる。教育シス テムの効果を知らない子どもは教育システムそのものを 信頼することはできない。また、継続的なかかわりの歴 史が形成される以前では、教師を人格的に信頼すること もできない。にもかかわらず、子どもが教育関係に参入 できるのは、ボルノーが指摘するように子どもが養育者 を信頼しているためである。子どもは、教育システムを 信頼する養育者などの周囲の大人を信頼することによっ て、教育関係に参入する。言い換えれば、教育関係、教 育的なかかわりは、子どもが信頼する他者が教育システ ムを信頼しているということによってのみ開始される。 学校という空間において行われるあらゆる活動が、子ど もにとって教育的なものとして社会に了解されていると いうことが、子どもが学校において教育的なかかわりに 参入するよう誘導し、強制すると考えられる。このよう に考える場合、教育者の生徒に対する信頼と、子どもの 教育者に対する信頼の形成過程が全く異なっていること が分かる。教師は子どもに信頼されるように努めるべき だという論は一般に言われていることであるが、少なく とも子どもが教育関係に参入した直後において、子ども は直接的に教師を信頼してはいない。子どもが信頼して いるのはあくまでも身近な大人である。その後、教師と かかわりを続けていくことによって教師に対する信頼を 獲得し、学校の中で生活する中で教育システムに対する

(4)

信頼を獲得するというように、子どもは多様な信頼を段 階的に獲得していくと思われる。したがって、ある子ど もが教育関係にうまく参入できてない場合、その原因は 教師とその子どもの関係性そのものにあるとも限らない。 どの信頼が機能不全を起こしているのかという視点が重 要になるだろう。 部分的な信頼についても、システムの帰属者としての 個人への信頼を考慮することで理解可能である。 システム信頼に基づいて、かかわりが開始、継続される 中で、人格的な信頼が形成される。この人格的信頼は、 ボルノーの述べるような情感的な信頼、ある人そのもの に向けられる信頼とは違って、システムの帰属者として の個人に向けられているものである。したがって、彼の 行為が行われる背景としてのシステムが違えば、その信 頼は効果を持たない。学校、あるいは授業という場の中 で形成された人格的な信頼は、その場と密接に関係した ものである。 もともとこの信頼はシステムに向けられたものである にもかかわらず、それがある個人において発現している ものである。したがって、背景となるシステムが違えば、 その信頼は当然失われるはずのものである。しかしなが ら、システムが個人によって体現されている場合、シス テムの垣根を越えてその影響を受け続ける可能性がある。 教師への信頼は学校、教育システムという背景において 子どもが獲得した信頼であるが、卒業などによってその 背景が失われても教師への信頼が持続することがある。 これは教育システムへの信頼が、教師という 1 人の実体 に帰属したことにより、システムの垣根を越えて作用し ている例だと言えるだろう。 最後に、このように、信頼はある個人の人間全体に対 する信頼、人格信頼、システム信頼、そしてシステムの 帰属者としての個人に対する信頼というように様々な形 態を持つように思われる。教育関係における信頼は、教 師と子どもの側でその獲得の手順が異なることを確認し た。しかし一方で、一度獲得されたこれらの信頼は分離 が困難なほど密接に関連を持っている。1 つのいじめと いった学校の教育機能に対する不信を抱かせるような事 件が、子どもの親に学校の教育システムに対する不信を 引き起こすと同時に、教師個人に対する不信を抱かせる ような事態や、ある環境における教師に対する不信がそ の教師の人間性に対する不信につながるような事態は現 在いたるところで起こっているように思われる。 教師と子どもの間の信頼は、様々な形式の信頼が多層 的に折り重なったものであると考えられ、さらにその一 部が意識化されていないため、個々の場面によって、多 様な現れ方をするように思われる。また、子どもの親を 含めた様々な社会的な要素にも多分に影響を受けている。 この多層化し、互いに関係しあった多様な信頼は、ある 種の信頼が失われた際に、他の種の信頼によって関係性 の再構築を支えることもあれば、反対に、他の種の信頼 を同時に破壊することも起こりうる。この多層化した信 頼によって教育関係は支えられており、またある種の不 信が教育関係を一度に破壊する可能性をも秘めていると 考えられる。 3.主要参考文献 岡田敬司(2006)『かかわりの教育学―教育役割くずし試 論』ミネルヴァ書房 岡田敬司(1998)『コミュニケーションと人間形成』ミネ ルヴァ書房 ボルノー(2006)『教育を支えるもの』 (森昭、岡田渥美訳) 黎明書房 ルーマン(1990)『信頼―社会の複雑性とその縮減』(野崎 和義、土方透訳) 未来社 ルーマン(2004)『社会の教育システム』(村上淳一訳)東 京大学出版会 ルーマン(1993( 上 )・1995( 下 ))『社会システム 理論』 (佐藤勉監訳)恒星社厚生閣 田中智志 山名淳編著(2004)『教育人間論のルーマン‐人 間は〈教育〉できるのか‐』 勁草書房 木村浩則(1997)「ルーマン・システム理論における「教 育関係」の検討」『教育學研究』64(2) pp.171-179 日 本教育学会

Niklas Luhmann(1968), Vertrauen: Ein Mechanismus der Reduktion sozialer Komplexität, Utb Gmbh; 5. unveraenderte Auflage, 2014

井谷信彦(2006)「希望、この無気味なるもの--O・F・ボ ルノウ「希望の哲学」再考」『教育哲学研究』94 pp.1-20 教育哲学会

参照

関連したドキュメント

私たちの行動には 5W1H

関係委員会のお力で次第に盛り上がりを見せ ているが,その時だけのお祭りで終わらせて

大学は職能人の育成と知の創成を責務とし ている。即ち,教育と研究が大学の両輪であ

  「教育とは,発達しつつある個人のなかに  主観的な文化を展開させようとする文化活動

「技術力」と「人間力」を兼ね備えた人材育成に注力し、専門知識や技術の教育によりファシリ

えて リア 会を設 したのです そして、 リア で 会を開 して、そこに 者を 込 ような仕 けをしました そして 会を必 開 して、オブザーバーにも必 の けをし ます

「海洋の管理」を主たる目的として、海洋に関する人間の活動を律する原則へ転換したと

1989 年に市民社会組織の設立が開始、2017 年は 54,000 の組織が教会を背景としたいくつ かの強力な組織が活動している。資金構成:公共