vināśa
とは何か?
―ダルマキールティにおける「有」の解釈と「無」の解釈―
酒 井 真 道
1.はじめに―本稿の目的―
インド仏教論理学・認識論の伝統の中で,男性名詞vināśaが指示する対象に 2つあることは,Stcherbatsky(1962: 94)の研究以来,広く研究者に認知されてい る事柄であろう.Stcherbatskyの指摘は次に引用するTattvasaṅgrahapañjikāにおい て言及されるいわゆる2種のvināśaに基づくものである. TSP 124,5–7: 即ち,vināśaは2種―肯定を特徴とするものと否定を特徴とするものと ―である.即ち,刹那に住することを属性とするモノそれ自体が―「不安定な[モノ] が消滅する」と考えて―vināśaと名付けられる.或いは,モノそれ自体の喪失を特徴とし,「無化」(pradhvaṃsa)を別名とする,「消失」(vinaśana)がvināśaと[名付けられる].
この2種のvināśaはダルマキールティ(=DhK)の 釈者であるカルナカゴーミン
によっても言及される1)が,Dreyfus (1997: 64) がRigs gterにおけるサキャパンディ
タの次の叙述を援用して論じているように,既に少なくともDhKに見ることがで きる―しかし,DhK自身は「2種のvināśa」といった表現を用いることはない. 「消滅」というこの語は,壊れやすい壺或いは薪等といったモノにも適用され,或いは, 滅したのち存在しなくなったモノの無にも適用されるのであるが,DhKは,壊れるべきモ ノに関して,「原因がない」と仰っているけれど,[それは],消滅こそがモノであるので, モノを生み出す[原因]とは別の原因に依存しないということを念頭に置かれてのことで ある.それに対して,滅したのち存在しなくなった[モノ]を「消滅」と名付ける場合, [DhKが]「原因がない」と[仰っている]のは,原因が全くないということを念頭に置か れてのことである.というのも,その場合の消滅とは無であるからである2). また,根本(2011: 203)は,チャンドラキールティによる滅無因説批判を解釈す るにあたりツォンカパはチベット語 jig paが二つの意味―[1]消滅するもの (狭義におけるjig pa),[2]事物が消滅して存在しなくなった状態(źhig pa)―を
指し得ることを前提としている,と述べており,この2種のvināśaはチベット仏 教の伝統にも浸透していた模様である. この2種のvināśaであるが,これがDhKの思想体系において結ぶ関係につい てはこれまで十分に論じられてこなかったように思われる.そこで本稿では先行 研究の成果を援用しつつも,他の資料の記述にも基づいて,この2種のvināśaの 関係を考察したい.筆者の理解では,双方は相補的であり,その意味において有 機的な関係を有している.以下の第2節ではまずその点について論じ,第3節で は,vināśaがこの2種となる必然性について考察したい. 2
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DhKにおける
2種の
vināś
a 2.1. 「有」の解釈 上述のように,男性名詞vināśaの指示対象の1つは,消滅するモノそれ自体の ことである.即ち,「有」であるモノがvināśaと名付けられる.DhKがこの解釈 を立てる背景には論理学上の要請がある.即ち,彼は,本質因「所作性」が所証 属性「無常性」を必ず導出できる論証因であることを説明するために,この解釈 を立てる.もしも,壺等の作られたものの無常性が, 等の消滅原因によっても たらされるとするならば,その 等の消滅原因には不備や妨害がありうるので, 壺等にとって無常性は必然的とは言えなくなってしまう.必然的であるために は,モノの無常性はそのモノそれ自体にのみ帰されなければならない.これを因 果論の観点から説明すれば,モノを生ぜしめる原因が,そのモノの消滅の原因で あるということになる.この原因の同一関係から,モノとそのvināśaの同一関係 が帰結する.これがvināśaという語がモノそれ自体を指示するということであ る3).原因の同一性によるこの同一関係を時間的観点から見れば,モノが自らの 原因から出来上がる時点と,モノのvināśaが成立する時点とは,重なりあうこと になる.この同時性こそが刹那滅を意味する. 2.2. 「無」の解釈 もう一方の解釈は,vināśaという語の指示対象は,「消失」―消えてなくなる こと―であるとするものである.根本(2011: 204,20–205,1)は,シャーンタラク シタとカマラシーラによって述べられるこの「無」の解釈を「シャーンタラクシ タとカマラシーラが vināśa の語義に二通りの解釈を与え,第二解釈として「已 滅(pradhvaṃsa)」の意味を想定しているのは,単に批判対象であるニヤーヤ・ ヴァイシェーシカ学派の見解を顧慮した上での作業仮説に過ぎない.」と評価している.確かに彼らはこのvināśaを,「無化」―無(abhāva)になること―と いう,バラモン哲学学派固有の用語を持ち出して説明しているので,その意味で 根本の説には説得力がある.しかし,少なくともDhKの思想体系においては, 「無」の解釈は敵者否定の為の単なる作業仮説としては位置づけられない面も持 ち合わせているように思われる.というのも,DhKは,この「無」としての vināśaに,世俗領域における意味と役割とを与えているからである.以下,これ について論じたい.
この「無」としてのvināśaについて,先に見たRigs gterにおいてサキャパン
ディタが念頭に置いていた,DhKのテキストは以下であろう. PVSV 100,14–18:[問:]どうして[消滅原因の]作用の否定があるのか.[回答:]なぜな らば,彼ら(=対論者たち)は「vināśa」と呼ばれるものをモノの無として考えているから である.それゆえに,「この消滅原因は無を作る」ということになる.その場合,もしも 「無」と言われる何某かのものが作られるべきものであるならば,他ならぬその本性は有 であるということになるのだから,無にならなくなってしまう.それゆえに,「無を作る」 ということは「有を作らない」ということになるので,作用の否定がこれ(=消滅原因) についてなされたことになるだろう. この叙述を見る限り,「無」の解釈は,DhKの思想体系においては,消滅原因の 必要性を主張する敵者の見解を顧慮した上での単なる作業仮説であり,それ以上 のものではないように見える. しかし,以下に引用する部分では,「無」としてのvināśaは,それを根拠とし て,知の鈍い者(mandabuddhi)がモノの無常性を確定するところのものとして位 置づけられており,その意味においてDhKが否定するものではない. PVSV 21,3–11: 無常性と呼ばれる,[作られたモノとは]別の如何なるもの―[作られた モノが生じた]後で出来上がるような―も決して存在しない.なぜならば,刹那に住す ることを属性としている,そのモノそれこそが無常性であるのだから.…また,この[モ ノ]は,自らの原因だけからそのようなものとして生じているという理由から刹那に住す ることを属性とするというその本性をもっているのだが,知の鈍い者は,[その本性を]見 てはいるけれど,[モノの]存在性の知覚を根拠に,いつの時もそうなのではないかとい う疑いにより錯乱している[ので],或いは/そして(vā),似たものが更に生じることに より錯乱している[ので],[その本性を]決定することがない.最後の刹那を見る者たち には,後の時間になって,これの無知覚を根拠に非持続性が理解されることにより,決定 が[起こる]ので,決定の時間がある.従って,[決定の時間がある]その時に,無常性が 確定される.
この部分では,知の鈍い者がモノの無常性を確定する過程が次のように説明され ている.
antyakṣaṇadarśana → anupalabdhi → asthitipratipatti → anityatāvyavasthā
最後の刹那の知覚 無知覚 非持続性の理解 無常性の確定 ここで注目したいのは,「これの無知覚を根拠に」という部分である.ŚBはこれ を 釈して,「 これの ,即ち,更なる刹那と接続しない壺等の, 無知覚を根拠 に ,即ち,それとは異種の他のモノの知覚を根拠に」と述べている. PVṬ D48b1–4/P57a2–6:[問:]最後の刹那を見る者であってもどうして滅性を決定するの か.即ち,その時(=最後の刹那を見る時)でも存在の知覚はある.そして,存在性を知 覚しているならば,それを存在しないものとして理解することはない.[回答:][この問 に対しDhKは]「後の時間になって」云々と言った.最後の刹那の単なる知覚によって[無 常性が]決定される,とは述べていない.そうではなくて,最後の刹那を見た後に,後の 時間になって,即ち,相続の断絶の時に,「これの」,即ち,更なる刹那と接続しない壺等 の,無知覚を根拠に,即ち,それとは異種の別のモノの知覚を根拠に,非持続性が理解さ れることにより,その時に「これは消滅した」という決定の時間がある.従って,他なら ぬその,決定の時間において,その直接知覚の力によって,無常性が確定される.他方, 推理によっては,以前の[モノ]についても,[無常性が]必ず確定される. ここでは,「無知覚」が「知覚」と言い換えられていることに注目したい.更に ダルモーッタラ を見れば,この部分は,「 これの ,即ち,壺等のモノの,無 知覚を根拠に,即ち,論証因である,壺を欠いた場所の知を本体としていること を根拠に(anupalabdhyā hetubhūtayā ghaṭaviviktapradeśajñānātmatayā)」と 釈されている.
PVinṬI 12,13–16:「然らば,どうして無常性とは滅の状態であるのか」というならば,[これ に対しDhKは]言った―なぜならば,存在性の時間の後の時間になって,これの,即 ち,壺等のモノの,無知覚を根拠に,即ち,論証因である,壺を欠いた場所の知を本体と していることを根拠に,非持続性の理解があるから,それゆえに,後の時間になって,滅 する本性の決定の時間がある.従って,即ち,それゆえに,およそ決定がある時,その時 に,無常性が確定される. ここで,壺を欠いた場所とは,例えば,そこに壺が置かれていた地面のことを意 味する.即ち,ここでの,壺の無知覚が成り立つ状況は,事実上,ニヤーヤ・ ヴァイシェーシカ学派の言う「已滅無」(pradhvaṃsābhāva)―「何もそこにはない こと」―がそこに生じている状況に他ならない.しかし,仏教認識論では 「無」は知覚を引き起こすための適合性(yogyatā)を欠くと解するので,「無」は 認識対象とはならない.このことを踏まえ 釈者は,「無」の知覚を,否定対象
となるものと,即ち壺と,同一の認識に与っている(ekajñānasaṃsargin)他のモノ の,即ち地面の,知覚と説明したと理解される4). 2.3. 2種のvināśaの関係 以上の理解が正しければ,先の文脈では,壺等のモノのvināśaは,そのモノの 「消失」を意味する.そしてそれは,モノの「無化」である.この「無」は知覚 対象とならないので,その「無」の存在は,無知覚という論証因によって,それ 以外の他のモノの知覚(anyopalabdhi)として証明される.そして,このvināśaは 知の鈍い者によって無常性として確定されるものである.そして,ŚBが述べる ように,それ以前の,モノが現に存在していた時に存在していた無常性は推理に よって確定される.そして,推理によって確定されるのは,「有」としての vināśa,即ち,同一刹那においてモノと重なり合っていたところの「刹那滅」の vināśaに他ならない.2種のvināśaはDhKの体系において以上の関係をもってい ると理解される. 3
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vināś
aが
2種となること
HetubinduにおいてDhKは消滅原因の必要性を主張する敵者の説を3つ続けて 紹介し,それらを逐一否定しているが,その議論を追うと,vināśaが「無」と 「有」の2種となる必然性を読み取ることができる. HB 9,2–10: 滅する性質である諸々のモノは,他ならぬそれ自体に基づいて,[そうなって いる].既に出来上がっているそれに他のものから消滅が起こることはない.というのも, それ(=他のもの)は能力をもたないからである.【理由①】即ち,消滅原因が,他ならぬ [滅する性質という]モノの本性を作ることはない.というのも,それ(=滅する性質とい うモノの本性)は,他のもの(=そのモノを作り出した原因)から出来上がるのだから. 【理由②】[消滅原因が]別のモノの自体を作るならば,[それは]その状態をもつモノに とっての「何か」であることもない.だから,[そのモノはその状態をもったまま]そのよ うに知覚される等の不都合な帰結がある.別のモノの自体はこれ(=そのモノ)を覆い隠 しているということもない.それ(=そのもの)がその状態をもつものならば,覆い隠す こともまた不可能だから.【理由③】消滅原因によってモノの無が作られることもない. というのも,無に肯定的な仕方で結果であることが承認されるならば,[その無はそのモ ノとは]1)別であるか,2)別ではないか,という二者択一を踏み越えられないから.そ して[無が]有の否定を性質とするならば,[消滅原因は]「有を作らない」ということに なるだろう.従って,行為者ならざるものには原因たることがないということになる.以 上の理由から,如何なる消滅原因も存在しない. 【理由②】では,消滅するモノ以外の別のモノの自体がvināśaである,という説が否定されている.別のモノの自体とは,例えば,薪にとっての炭―火によっ て作られる―である.アルチャタによれば,ここでの対論者は,炭を薪の「已 滅無」という,別のモノと考えるクマーリラである5).炭は,モノ自体としては 薪とは別の存在,つまり別の「有」である.即ち,「薪」というもの,つまり「薪 の状態をもつもの」にとって,炭はそれの「何か」ではない.あくまでも別のモ ノである.炭は薪を覆い隠している,薪の仮の姿のようなものだ,と主張して も,「薪」というものが「薪の状態をもつもの」である以上,炭がそれを覆い隠 すということは不可能である.以上の議論によって,別の「有」である炭が薪の vināśaであることが却下される. この議論でDhKが主張しているのは,vināśaが「有」であると敵者が主張す るならば,必ずそれは,消滅するモノ自体とは,1)別か,2)別ではないか,を 問われねばならず,別であるならば,上述のように不合理な帰結が生じるので, vināśaは「無」でなければならない,ということである.そして,この「無」は, 何もそこにないこと―「消失」―を意味し,ポジティヴなものではないから, それが原因によって作られることはない.よって,vināśaに原因はない,とDhK は結論付ける.ポジティヴなものではない,この「無」のvināśaの存在証明に仏 教側が他のものの知覚を用いるのは先に述べた通りであり,この点に,同じく何 もないことを意味する「已滅無」でも,それをポジティヴなものであり,原因を もつとするニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派との立場の違いが鮮明に現れている. 一方,消滅原因によってもたらされると敵者が理解するvināśaが「有」であ り,且つ,モノ自体と別ではないとすれば,そのvināśaはモノそれ自体と同一と いうことになる.その場合,モノそれ自体は自身の原因から出来上がるのである から,モノそれ自体と同一となっているvināśaが消滅原因によって更にもたらさ れることはない,という方向に議論は進み,同じく,消滅原因の存在が否定され ることになる.そして,この方向の議論では,モノそれ自身がvināśaである,と いう「有」の解釈が帰結することになる. 以上のDhKの議論の全体を図示すると次頁の図のようになろう. 4
.結語
以上に考察した2種のvināśaを纏めるならば,「無」として解釈されるvināśa は,無知覚因によってその存在が理解される,何もそこにはないという,モノの 「消失」であり,他方,「有」として解釈されるvināśaは,モノが原因なくして消失するということを,因果論の観点から追究した際に帰結するvināśaであると 言える.知の鈍い者は前者のvināśaの知覚を根拠にしてモノの無常性を確定す る.他方,後者のvināśaは推理によって確定される,「刹那滅」としてのvināśa である.知の鈍い者は,錯乱しているがために,前者のvināśaを介してしか,モ ノの無常性を確定することが出来ない.従って,彼は,前者のvināśaの知覚無 しには,刹那滅性の推理を行うことは決してないだろう.そして,刹那滅性の推 理によって確定されるのは,「有」としてのvināśaに他ならない.凡夫にとって, 2種のvināśaは,このような相補的で,有機的な関係にある.仏教のプラマーナ 論を世俗の議論として捉えるならば,「無」の解釈は,推理にその積極的な意義 や役割,場所を与えるものと言えるが,他方,知の鋭い者は,「無」のvināśaを 介さずして,「有」のvināśaを理解することになる. この2種のvināśaという考え方は後代まで継承された模様である.その中で, ジュニャーナシュリーミトラに見られる議論は注目に値すると思われる.即ち, 彼は,Kṣaṇabhaṅgādhyāya第4章において,この2種のvināśaの議論を踏襲しつつ も,「無」の解釈について―彼はこれを純粋否定を本質とするもの(prasajyātmā) と表現する―更にそれを,1)「真実としては」(tattvatas),2)「世俗においては」 (saṃvrttau)という2つの限定詞を置いて,夫々の内容を説明している6).無知覚 因によって把握される「無」のvināśaはこのうちの2)に該当すると思われるが, 現時点で筆者はこの議論の全体像を完全には把握出来ていない.2種のvināśaを めぐるジュニャーナシュリーミトラの議論の解明は今後の課題としたい. 【謝辞】本稿執筆にあたり,藤井隆道,志田泰盛,堀田和義,三代舞,上田真啓の諸氏よ
り,数々の有益な助言を頂戴しました.諸氏のご厚意に深く感謝申し上げます.
1) PVSVṬ 91,6参照. 2)原文テキストはDreyfus 1997: 477(n. 12)参照. 3) Sakai 2018: 425–427参照. 4) ekajñānasaṃsarginの概念についてはHB 26,8–11参照. 5) HBṬ 78,8–13参照. 6) KBhA 146,12–147,2参照.
〈略号表〉
HB Dharmakīrti s Hetubindu: Critically Edited by Ernst Steinkellner on the Basis of Preparatory Work by Helmut Krasser with a Translation of the Gilgit Fragment by Klaus Wille, Ernst
Steinkellner (ed.), Beijing: China Tibetology Publishing House; Vienna: Austrian Academy of Sciences Press, 2016.
HBṬ Hetubinduṭīkā (Arcaṭa): In Hetubinduṭīkā of Bhaṭṭa Arcaṭa with the sub-commentary entitled
Āloka of Durveka Miśra, Sukhalalji Sanghavi and Mini Shri Jinavijayaji (eds.),Baroda: Oriental Institute, 1949: 1–229.
KBhA Kṣaṇabhaṅgādhyāya: In Jñānaśrīmitranibandhāvali (Buddhist Philosophical Works of Jñānaśrīmitra), Anantalal Thakur (ed.), Patna: Kashi Prasad Jayaswal Research Institute, 1987: 1–159.
PVinṬI Pramāṇaviniścayaṭīkā (Dharmottara): In Ishida 2011.
PVSV The Pramāṇavārttikam of Dharmakīrti: The First Chapter with the Autocommentary, Text and Critical Notes, Raniero Gnoli (ed.), Rome: Istituto italiano per il Medio ed Estremo Oriente, 1960.
PVSVṬ Karṇakagomin s Commentary on the Pramāṇavārttikavrtti of Dharmakīrti, Rāhula
Sāṅkrtyāyana (ed.), Kyoto: Rinsen Book Co., 1982. PVṬ Pramāṇavārttikapañjikā: P5718, D4217.
TSP Tattvasaṅgraha of Ācārya Shāntarakṣita with the Commentary Pañjikā of Shri Kamalashīla,
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Ishida, Hisataka. 2011. Dharmottaras Pramāṇaviniścayaṭīkā zum auf der Realität basierenden logisch-en Nexus. Ph.D. Dissertation. The University of Vilogisch-enna, Wilogisch-en. http://othes.univie.ac.at/13375/. (最 終アクセス日:2019年1月24日)
Sakai, Masamichi. 2018. On Dharmakīrti s Notion of Contingency/Dependence, with a Special Focus on vināśa. Journal of Indian Philosophy 46(3): 419–436.
Stcherbatsky, Fyodor Th. 1962. Buddhist Logic. Volume I. New York: Dover Publication.
(平成29年度科学研究費補助金若手研究(B)17K18249による研究成果の一部)
〈キーワード〉 vināśa,bhāva,vinaśana,anumāna,anupalabdhi,有,無,Dharmakīrti