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古代東国と「譜第」意識

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Title

古代東国と「譜第」意識

Author(s)

仁藤, 敦史

Citation

仁藤敦史:古代日本の支配と文化(奈良女子大学21世紀COEプログ

ラム報告集Vol. 18), pp. 46-77

Issue Date

2008-02-29

Description

URL

http://hdl.handle.net/10935/2732

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publisher

(2)

古代東国と 「

譜第」意識

仁藤 敦史 は じめ に 本報告 で は、古代東 国史 を考 えるキー ワー ドと して 、 「譜第」意識 とい う視 角 を中心 に 考察 した い。手許 にある国籍辞典 によれ ば、 r譜代 ・譜第」の語義 と しては、第 1に 「代 々そ の家系 を継 いで いる こと。その系図」,第 2 に r代々にわた り主家 に仕える こと」 と い う 2つの語義が記載 されている 〔注 1〕。埼玉県稲荷 山古墳 出土鉄剣銘 に典型的なよ う に、 この 2つ の語義 を重ね 合わせた意識 、す なわ ち 自己の系譜 の連続性 と大 王 ・王権 へ の仕奉 を重ね る意識が古代東国の豪族たちには顔著 に見 られ る.古代東国の豪族た ちには、 自己の系譜 と中央 のヤ マ ト王権 な い しはそ の後 身た る律令 国家 との関係 を強 固 に緋持 して い こうとす る意識 が連綿 とあ り、 まさに 「譜第」意識 とす るにふ さわ しいと考 え られ る。 それが どのよ うな歴史 的背景 によるものか を検 討 したい。 1 「古代兼国史」の研 究史的位雇付 けとその範 囲 現在 の関東地方 を中心 とした地域 は、ヤマ ト王権や 律令国家か らは、 「東国」 と称 され た。古 くは西方 の 「サ ツマ」 に対す る東方 の 「吾妻」 (上野国吾妻郡)、蝦夷 征討 の兵端 地域 として は 「坂東」 とも称 された。 戦後 にお ける古代史学の研 究 にお いては、 まず東国 と王権 との関係 について 「従 属」か 「独立」 か とい う観点か ら議論 された。すなわ ち

,1

952

年 に発表 され た石井 良助 r東国 と西国一 上代および上世 にお け る」 〔

江 2

〕で は、大化改新 によ り毛野国がヤマ ト王権 に 服属 した と論 じ、 「東 国」 の独 立性 を評価 した 。 また 同年 には井 上光貞 「古 代 の 東国」 〔注 3〕が 6世紀 にお ける毛野の独立性 を主張 して いる。 これ に対 して林陸朗 r古代東国 雑考」 〔注 4)で は、東国 の 「従 属」 的地位 を防人や名代子代、東方従者 の存在 な どか ら 指摘 して いる。 北関東 と南関東で は様相 が異 な り、北関東の毛野氏 の存在 を典型 に 「独 立」 を主張 し、一方では南関東の伴進的な国造 の存在 を念頭 にお いた議論がな されて いる。 当然なが ら二者択一的な議論 は問題であるが、独立的 とされ る北開東の毛野氏 も中央 との 系譜や伝承関係 によ り結びつ いている ことは否定 できな い

「独立」 と 「従 属」 とい う視 角 は、以後 も大化 の東国国司の派遣や平将門の乱な どの意義にお いて繰 り返 し議論 されて きた観点 といえ る。 従来 ,東国の地理的 区分 につ いては、奈 良時代以降 に確認 され る 3つの区分 を古 い時 代 に も及 ぼ して考 え るとい う演符 的な方法が用 い られ て きた.すなわ ち、第 1には、畿 内よ り東方 の諸 国 を示す 区分で、『日本書紀 』大化 二年正 月 甲子条 、 いわ ゆる大化 改新の 詔 にみえる四至畿 内の うち、名墾 の横河以東 、近江 の狭狭 波の合坂 山以 北の地域で あ り,

(3)

律令制下では美濃不破の関、伊勢鈴鹿の関以東の東山道、東海道 を示す 「関東」に代表 さ れ る地域 となる (ちなみに、最近の発掘成果によれば、 「関東」の用例の初見 とな る聖武 朝 に鈴鹿関が整備 された ことは注 目され る)。第 2には、『万葉集 』の防人歌や東歌の確 認 され る範囲で、遠江 ・信濃以東 を示す区分、第 3 は、『常陸国風土記 』の 「古老答日、 古着、 自二相模足柄岳坂_以東諸県惣称二我姫国_

,

F令義解 」公式令朝集使条 に 「東海道 坂東

「東山道山東」 とある相模国足柄峠、上野国碓 日峠以東で、 「我姫国」や 「坂東」 に代表 され る地域である。 しか しなが ら、 これ らの 3区分 と 「記紀」 にみえる東国の記載 は必ず しも一致 しない 場合があ り、歴史的な変遷 を考慮す るな らば、実態 に即 した帰納的な方法で区分の変遷を 考 える必要があるqその場合, しば しば問題 となるのが、『日本書紀 jな どでは律令制下 の地域区分 によ り潤色 されている場合がみ られ ることである。典型的には崇神朝の四道将 軍派遣説話な どがある。 F古事記 』崇神段 此之御世、 毘古命者、遣二高志道 . 子建沼河別命者、東方十二道 ,令 レ和二平 其麻都漏波奴人等_。又 日子坐王者、遣二旦波国一、令レ殺二玖賀耳之御笠_. F日本書紀 』崇神十年九月甲午粂 似二大彦命_遣二北陸J 酸 浮川別這二東海」O吉備津彦遣二西道-。丹波道主命遣=丹波- Q F日本書紀 』崇神十年十月乙卯粂 詔二群 臥 日、今反者悉伏レ課。匪因 無レ乳 唯海外荒俗、騒動未レJto其匝 童垂頭 等、 今急発之。 一見す る とすで に崇神朝 に北陸道や東海道な どの律令制的な 区分 によ り将軍 を派遣 し、 「麻都漏波奴 人マツ ロハ ヌヒ ト」 を鎮圧 した と記載 されているが、 「畿内」 との対比にお いて 「四道 将軍」が派遣 され る とい う中華 的な地域 区分 は

.

「畿 内国」 の範 囲 を定め、 「四方国」 に使者 を派遣 した孝徳朝段階の意識 に影響 された潤色的色彩 が購 い 〔注 5〕。 さらに、崇峻紀の各道への使者記事 と比較す るな らば密接な対応関係がある。 r日本書紀 』崇峻二年七月壬辰粂 遥-、江臣満於東山道 、観=蝦夷国境∴。遣=陸 人臣腐於東海道風 観=東方浜 レ海諸 国境_。遣』珂倍臣於北陸道風 観二越等諸国境-。 すなわち、高志道 ・北陸へ大彦命、東方十二道 ・東海へそ の子建沼河別命が派遣 された と す るが、崇峻紀では同 じく大彦命の後商氏族 とされる阿倍 臣が北陸道、宍人臣層が東海道 へ派遣 されている。おそ ら<、阿倍臣や宍人臣の氏族伝承 と孝徳朝の畿内 ・四方国意識が 反映 して四道将軍派遣伝承がまとめ られたと考え られ, この記載 にみえる地理区分をその まま当時のもの と考 えることはむずか しい。 さ らに、四道将軍派遣伝承には東山道地域へ の使者派遣がみえないが、 これは東山道 と関係が深 い毛野氏の氏族伝承 との関係が想定 さ れ る。

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『日本書紀 』崇神四十八年四月丙寅粂 以=豊城命_令レ匡 丞 是上毛野君 ・下毛野君之始祖也 『日本書紀』景行五十五年二月壬辰粂 以=彦狭嶋王_、拝=床 山道十五国都朝_。是登城命之孫也。 『日本書紀』景行五十五年二月壬辰粂 詔=御諸別i 日、汝父彦狭場王,不 レ得レ向二任所_而早熟 故蜘尊顔二東国⊥ 豊城命 ・彦狭 場王 ・御諸別王 はいずれ も毛野氏の祖先 とされ, 「治東

「東 山道十五国都 督

「専領東国」 とされ るよ うに、上野国を中心 とす る束山道地域 に大 きな独立的な勢力 を有 していた ことが確認 され る。その独立的な勢力が倭王権 にも承認 されたのは蝦夷の征 討に大きな力があった ことによる らしい。その時期は、早 くとも実録的な要素が濃 くなる 野明朝の将軍上毛野君形名による蝦夷征討以前 とは考えにくい 〔注

6

〕。 2 銘文か らみた 「譜第」意識 ① 「王賜」銘鉄剣 古代東国においてヤマ ト王権 との関係 を直接 にうかが うことができる最 も古 い文字資料 は、千葉県市原市稲荷台一号墳出土 「王賜」 銘鉄剣で ある 〔注

7

〕。 この古墳は養老川下 流右岸の市原台地上に位置する直径約

28

m

の円墳で

、5

世紀 中ごろの築造 とされている。 西南部 には 100m クラスの巨大な前方後円墳 を含む姉崎古墳群が位置 し,後 の上海上国 造 との関係が想定 されている。古墳の規模か らは、国造級の在地首長よ りは下位の中小首 長 と考え られ、武具を含 む副葬品か らは中央 に武人として奉仕 した人物 としてイメージさ れている。銘文は,以下のよ うに表裏に 6文字づつ、合計 12文字が象眼されていたと考 え られる。 (義) 「王賜 ロロ敬□ (安 カ)」 (義) 「此廷口 (刀 カ) ロロロ」 表の 「王賜」の文字はやや太 く、東面よ りも 2字分は ど高い位置 に書かれてお り.貴人 に対する敬意を示す 「橿頭」の作法に類す ると評価 されて いる.年号 ・干支 ・下賜対象者 は明記されず、複数の 「下賜刀」の存在が想定 され る。加えて 「王」に固有名がないこと も 「王」号の闘有性 にお いて重要である。 下賜主体 については,大氏 と小氏の氏上認定 において刀を下賜 した ことが参考 となる. 『日本書紀 』天智三年二月丁亥粂 其大氏之氏上賜=大刀_、小氏之氏上賜二小刀_、其伴迫等之氏上賜二千楯 ・弓矢ー ちなみに、F古語拾遺 』の記載 によれば、朝 臣姓 を与え られた中臣氏 に大刀が、宿欄姓 を 与え られた忌部氏に小刀が与え られているので,八色の姓以前では大氏は臣姓相 当、小氏 は連姓相当の家格であった と考え られ る。 こうした例 によれ ば下賜主体 は、おそ らく畿内 の倭王 と考 え られ るが、 「大王」号 との関係で 「王賜」 の表記は問題 とな る。大王号の使

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用開始を雄略朝以降 とすれば時期差 として理解できるが、公的呼称 としての排他的使用の 問題 や 中国 王朝 によ る r倭 国王 」 と して の冊封 の 間捜 な どに も留意 す る必 要 が あ る 〔注 8〕。製作年代については、5世紀 中 ごろ以降が想定 されているが、中央での讃珍か ら済興武 への王系交替期 に相 当 し、東 国で も古墳群 に変動が見 られ る時期 に相 当す る 【注

9

〕。対外関係において も朝鮮半島での軍事活動が活発化 し、革新 された短甲と矢の 配布 を受けている点は留意される 〔注 10〕。関東では 5世紀代における渡来系造物の増加 が指摘 されているが、おそ らく済一允恭のころに朝鮮半島の軍事行動 に参加 し、先端的な 武具 を与え られた武人と考え られる。ちなみに、この当時の外交記事 を列記す るな らば、 元嘉二十八 (451)午 r宋音 J文帝紀元嘉二十八年七月甲辰粂 安東将軍 ・倭王済進二号安東大将軍_。 r宋蕃 J夷蕃伝倭国粂 (元嘉)二十八年、加=使持節 ・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事_、安東将軍 如レ故。井除こ所レ上二十三人軍 ・郡_。 大明四 (460)年 r栄等 』孝文帝紀大明四年十二月丁未粂 倭国道 レ使献=方物_。 大明六 (462)年 F宋蕃 J孝文帝紀大明六年三月壬寅粂 以二倭国王世子興_為二安東将軍一。 r末書 J夷蕃伝倭国粂 済死。世子興這レ使貢献。世祖大明六年、詔日、倭王世子興、変世載レ忠、作二律外海_、 菓レ化寧レ境、恭修二貴職_。新嗣二辺業_。宜 レ授二蔚号_。可二安 東将軍 ・倭国王_。 とあるように、451年には倭王済が23人の将軍 ・郡太守号を請求、460年 にも遣使をし, 462年には倭国王は済か ら世子興に交替 している。 一方 r三国史記J新羅本紀 にみえる倭兵記事 は、459年,462年.463年に記載がある。 とりわけ 459年 には兵船百余膿で東辺 を類 い,月城をBEむ とあ り,462年には括開城を 破 り、千人の捕虜 を略奪 した とあるよ うに活発な軍事活動 を行 っている。ちなみに、倭王 武の上表文によれば、父たる済の時代に大規模な高句屈征討計画が存在 したが、演の死去 によ り頓挫 した ことが述べ られている。 r宋事 J夷蕃伝倭国粂 臣亡考済,実盆三歳磁壁二重天路 _、控弦百万,義声感激、方欲こ大挙一 王系の交番や大規模な軍事動員か ら推測するな らば、旧来の在地首長を経 由せずにヤマ ト 王権 と中小首 長が 直 接 に関係 を取 り結ぶ ことが この時期 に 開始 され た と推 測 され る 〔注 11〕。 しか し、「譜第」意識は、 この段階では銘文 には表現 されていない。

(6)

②稲荷 山古墳出土鉄剣鈍 く人制 と府官制) 「王賜」銘鉄剣 を下賜刀の典型 とする点について異論は見 られないが、埼玉県稲荷山古 墳出土鉄剣および江 田船 山古墳出土鉄刀については議論がある 〔注

1

2

〕。前者は北武蔵の 埼玉古墳群 (埼玉県行 田市埼玉) に属す る全長

1

20m

の前方後 円墳か ら発掘 された もの で

、1

97

8

年の保存修理の際、金象眼による

1

1

5

字の銘文が発見された。製作主体 (大王 か臣下か)の問題以外にも、辛亥年の実年代 (471年か

531

年か)、ヲワケ臣の出身 (中 央首長か在地首長か)、被葬者 (在地首長か派遣将軍か)な どの問題 については議論があ る。 後者は、熊本県玉名郡菊水町の全長

4

5m

の前方後円墳か ら

、1

87

3

年 (明治六)に発掘 された もので、銀象眼によ り

7

5

字が刻 まれている。いずれの史料 にも、記紀の大王雄略 に相当するワカタケル大王、倭王武の名が記載され る。 埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘 (義)障 亥年七月中田乎獲居臣上祖名意富比埴其児多加利足尼其児名皇己加利獲居其児名 多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半皇比 (裏)其児名加差披余其児名乎獲居 臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支歯大王寺在斯鬼 宮 .]左治天下令作此百練利刀記吾奉事槙原也 江 田船山古墳出土鉄刀銘 口 (治)天下獲□□□歯大王 、奉事典曹人名元口

(

利 カ)与、八月中、用大鉄釜、 井四尺廷刀、八十練、□ (九 ヵ)十振、三寸上好 □ (刊 カ)刀、服此刀者、長寿、子 孫洋々、得□恩也、不失其所続、匝 団 名伊太□ (和 カ)、害者弓長安也 た しかに下賜文言や作刀者の記載の有無だけを形式的に指標 とす るな らば、両者 を下賜刀 に含め ることはできな い。 にもかかわ らず、中国皇帝 に倣 い、干支年号や 「治天下大王 世」の表現 によ り下賜主体 を間接的に明示 しているとの議論は有効 と思われ 【注

1

3

〕、さ らに考古学か ら示 された象眼技術が先端技術 で、王権 の附属工房以外 には作成す ることが 不可能な もの とすれば、王 と臣下の共同行為 として捉え、いずれ も製作 を許可 した真の発 注者 は大王 とす る見解 を支持 したい 〔注

1

4

〕O この場合.留意すべきは、 「王賜」銘鉄剣 の段階 には王 と中小首長 との 「譜第」関係 をともなわない 1代限 りの直接的な関係に留 まっていた と解され るが、新たに杖刀人首 としての 「奉事」によるワカタケル大王 とヲワ ケ臣の 「世々」の 「譜第」関係だけでな く、加えて上祖オホ ヒコを介 して中央本宗氏たる 阿倍 ・膳氏系との 「譜第」関係 も公認された点が注 目され る 〔注

1

5〕

。大王および中央本 宗氏 と在地首長 との二重の統属関係が中央での刀剣の下賜儀礼 において確認 されているこ とは、6世紀以降 に本格化する部民制における中央伴進 と在地伴進の系列化 と同様、王権 の 「構造化Jにおいて重要な意味をもったと考え られる。 ちなみに 6世紀以降、大伴金村 に対 し火葦北国造刑部敬部阿利斯登の子である 日羅が

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「我君」 と称 し、高向臣国押が蘇我入鹿 を 「君太郎」 と呼んだ事例が指摘できる。 r日本書紀 J敏達十二年是歳粂 復遣二吉備海部直羽場_、召二日羅於百済_。羽嶋既之二百済_、欲三先私見二日羅_、独 自 向二家門底-。俄而有二家真束韓婦-。用二韓乱 言、I.-於二槍隈宮御宇天皇之世-、匪司 大伴金村大連、孝二為国家_、使二於海表_、火葦北国造刑部扱部阿利斯登之子、臣達率 日薙、聞二天皇召_.恐畏来朝。 r日本賓紀 J皇極四年六月戊 申条 於レ是、高向臣国押、謂=漠直等」∃、吾等 由塵 玉 軋 、応=当被_レ鞍。大臣亦於=今 日 明 EL、立侯=其課一決臭。然別為レ誰空戦 .尽

レ刑平、言畢解 レ勧投レ弓、捨レ此而去。 賊徒亦随散走。 これは、大王および中央本宗氏 と中小首長層 との二重の統属関係 を前提 とした うえで、中 央本宗氏 と中小首長層 にお ける二重身分的な君臣関係 を示す表現であ り、 「キミJの称号 が大王にのみ使用 される排他的なものでなかった ことを示す ものである。 なお,江田船 山古墳出土鉄刀銘には大王 と典曹人ム リテとの 「奉事」関係が 「長寿、子 孫洋々」な どの吉祥句 によ り強調 され、在地で の支配 関係の承認 (「不失共所統」)がな され るのみで、「譜第」関係は表記されないので、両者の中間段階 として位置付 け られ る。 埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣および江田船山古墳出土鉄刀 には、それぞれ 「杖刀人

「典 曹人」の表記があ り, 「職掌 十人」の形式か らは、後 の伴造制度 につなが る豪族 による世 襲的な職務 の分担制度 (人制)の存在が指摘で きる。従来 ,記紀 に散見 され る 「厨人」 「湯人

「船人」などの人制は 6世紀代の欽明朝 を画期 として、百済の制にな らった部

とともに,新羅の制度 を導入 し, トモを構成する氏族に 「人」の称 を付 して整備 した もの と考 え られていた 〔注

1

6〕

。6

世紀以前の雄略期 に杖刀人 (武官) と典曹人 (文官)がみ えること、雄略紀 には人制の史料が多 いこと、 「部」の表記は、6世紀 の出雲岡田山一号 墳出土鉄刀銘にみえる 「猿田部 臣」が初見であること,な どを勘案すれば史料的には部民 制よ りも人制が先行 していた と考 え られ る。 したが って,人制の起源は 6世紀の金石文 に確認 され る新羅 よ りも古 く、朝真 によ り中国南朝か ら導入 され た可能性 が高 い

。r

周 礼 j天官 ・地宮部 には 「舎 人」 な どの記載が ある。 ウマカ ヒ .トリカ ヒの用字 は典 馬 (人)か ら馬養 (部)へ、養鳥人か ら鳥養 (部)へ と変化 した ことに典型的なように、漢 詩表記の人制か ら和語表記の都民制へ と発展する 〔注 17〕。人制は後か ら百済の制度 を導 入す ることによ り整備 された都民制に発展的解消を遂 げる。 埼玉 と熊本 という東西に隔た った異なる場所か ら刑土 した 2つの銘文に同 じワカタケ ル大王の名前が見 え,倭王武の上表文に

東征二毛人五十五国一。西服=衆夷六十六国」 と 表現 され ることか ら.当時の支配領域が東は関東 (東国),西は九州 (西国) にまで及ん でいた ことは確実であ り、人制は全国的な制度であったと想定され る。治天下の王たる倭 国王への校刀人 (武官) と典曹人 (文官) としての 「仕奉」は畿内に位置する斯鬼宮 を拠

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点 として行われていた。ただ し、 まだ 「坐二某宮_時」 と表記され、推古朝以後 に一般化す る 「某官 給天下大 王 (天皇)」 とな って いな い。 「歴代遷宮」 の構想 と対 応 した大 王の r世々」 と 「某官」が一対一に対応 してお らず、一代の大王が時間的な経過 とともに複数 の宮 を経営 して いた段階を想定す ることが可能である 〔注

1

8

〕。遅 くとも七世紀後半まで には 「某富治天下大王 (天皇)」の語 は倭王の 自称 として定着す るが、大王の治天下 と宮 が一対一に対応 した表記 となることで、大王の構想 した天下の中心に宮が位置するという 観念が明瞭でない段階 との差が確認 され る。 これは薫族居館や古墳が首長の一代 ごとに作 り替 え られていた こととも無関係ではな く、首長の人格的支配や 「代替わ り」に制約 され た当該期 における支配の脆弱性 を示 していると考え られる。 r来者 j倭国伝によれば、 「珍又求三除=-正倭階等十三人平西 ・征虜 ・冠軍 ・輔国将軍号 _。詔並聴」 とあるよ うに

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年 に倭王珍は未に自らの除正要求 とともに、倭階 ら

1

3

人 に将軍号 の除正 を求めて許 されて いる。 さらに、 「井除二所 レ上二十三人軍 ・郡_」 とある よ うに,済は栄か ら自らの称号 の他に、23 人に及ぶ将軍 と郡太守の称号 を与え られてい る.倭国王は諸軍事将軍号を自称 し中国に訴求す るだけでな く、国内支配 において も 「軍 都」 と呼ばれ る、将軍 ・郡太守号 を国内の豪族 に与えている。将軍号 と合わせて郡太守が 東西 (あるいは海北を含む) に対する具体的な地域支配 を含む とすれば、吉備 ・毛野 ・筑 紫な ど地方の有力首長 に対 して も与え られた可能性が高い.先述 したよ うに東国の支配 を 任 された毛野氏の祖先 に与え られた 「束山道十五国都督」な どの称号は潤色 を含む として も参考 となる。 これは倭国の身分秩序が未熟なため に中国の身分秩序に補完的に依拠す る 体制であった ことを示 している 【注 19〕。対外的には 「封国偏遠、作二番干外」 とあるよ うに倭国は自己 を中華 とは認識せず、宋王朝の世界秩序 に倭王は臣下 として参加 し,倭国 の国内秩序 をその延長線上にお くことによって、その支配 を維持 していた ことにな る。府 官制 と人制 とは、同 じく中国に起源を有する制度であ りなが ら

、5

世紀 にお ける外交軍事 と内政上の称号、君恩 と春草 とい う表裏、補完の関係 として機能 していた ことにな る。形 式上は卑弥呼の魂への朝貢以来、中国の官僚制秩序 に位置付け られなが らも.その内実は 倭 王 との人格 的的な 関係 によ る責納 奉仕の体 制 と して機能 して いた側面 が指摘で きる 〔注20〕。 倭王武の上表文の意識では 「対高句題戦多国籍軍司令官」への任命要求を背景に、外交 軍事的要求を内政に転化 し、広義の府官制によ り階層的秩序を整備 しよ うとした 「外向き の軍国体制」であった 〔注

21

。 しか し、府官の実例は乏 しく、人制 も内延的要素がつよ く、行政的な統治機構は未発達であった。 (系譜意識) つ ぎは鉄剣銘にみ られる系譜意識 を検討する。 この銘文には上祖オホ ヒコか らヲワケ臣 までを共児で連続する^代の父子一系系譜が記載されている。それを図示するな らば以下 のようになる。

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上組オホ ヒコ一夕カ リ足尼 -テ ヨカ リ獲居 一タカハシ獲居 一夕サキ獲居 一ハテ ヒーカサ ヒヨーヲワケ臣 5世紀後半 と考 え られる稲荷山古墳出土鉄剣銘に刻 まれた 「上祖オホ ヒコ」か ら 「児 ヲ ワケ臣」に至る八代の系譜については、父子継承の系譜 として考 える説が有力である。 し か しなが ら,古代の地位継承が父系直系ではな く広い範囲の傍系継承が一般的であること な どか ら.この系譜は職位の継承を示す 「地位継承次第」であるとする見解が支持 される 〔注 22〕。 この形式の系譜 は、「聖生」や 兄弟記載がな く、代 々の奉 仕文言を持ち、始祖 か ら自己 までを児 (千)で直線的に記載す ることを特徴 とする。首長が共 同体 を代表する 段階の原初的な系譜 とされ、父系出 自集団 としての 「氏」の成立 によ り消滅するとされ る。 稲荷山古墳出土鉄剣銘は 「オホ ヒコ」を始祖 と規定するが、背後 にその社会的存在 を語 るもの (-原王統譜) を想定 しなけれ ば系譜は完結せず、 「世々」の表記は,奉仕する氏 族側だけでな く王の連続性 をも含意す ると考 え られ るO したが って銘文か らは、 rオホ ヒ コ」の社会的存在 を正統化する原王統書きの存在の可能性が指摘でき、加えて,原帝紀 (育 王紀)には系譜的記載だけでな く、王位継承に関わる簡単な内容 (日嗣の物語) も記載 さ れていた とす るな らば 〔注 23)、津 田左右 吉以来の帝紀 ・旧辞二分法による系譜記載に対 す る信頼性がゆ らぐこととな る。すでに論 じた ことがあ るよ うに王統譜 には氏族系譜の 「奉仕文言」 に対応す るもの として、 「世々」 の 「日嗣」 (騰極之次第)が語 られて いた ことが想定 され る 〔江 24〕。推古朝 に編纂 された 「天皇記

「国記」の内容が、大王系譜 (帝紀) と諸氏族の奉仕横波記載 (本記)のセ ッ トで構成 されている点 も相互補完的な意 味で偶然ではな い。すなわち、r新撰姓氏録 J序文には 「蘇我臣蝦夷等臨レ殊,悉焼こ天皇 記 ・国記 ・珍宝_。船史恵尺

即疾取二所レ焼国記、而孝二中大兄」 (F日本書紀 J皇倭四年 六月己酉粂) との記載を前提 に、允恭朝の盟神探院 と天智朝の庚午年籍 の記載の間に 「皇 極握レ鏡 、国記皆播 、幼弱迷二英機源_、狭 強倍=其偽 説」 と記載す る。 これ によれ ば, 「国記」が r新撰姓氏録 Jのよ うな氏姓 に関係 した書物であった ことを示 し、「臣 ・連 ・ 伴追 ・国造 ・百八十書臥 斤公民等本記」 (rEl本番紀l推古二十八年是歳粂)は 「国記」の 内容 を示す注記であったと考え られ る 〔注

2

5

さらに系譜のカバネ的記載 に注 目す るな らば, ヒコースクネーワケ (3代) 一無姓 (2 代) 一臣の順 に変化 している。 まだ氏の名前は明記されず .カバ ネも世運 されていない段 階での ヒコースクネーオミ (シン)は,身分称号 としてのプレカバネ とされている。 こう した ヒコースクネか ら臣への変化は、葛城氏の系譜 において も確認 され る 〔注

2

6

葛欄 咽 1 ≡

:冨

=

R

冨 こうした系譜類型は一般的であった。葛城氏の系譜上においては、 ヒコース クネの段階は 伝承的人物であ り、銘文において も後世の系譜的な架上が想定 されるO ヲワケ臣の系譜に ついて、父 と祖父 にあたるカサ ヒヨとハテ ヒにはカバネ的称号がない点 を重視 して、上祖

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か らの 5代 とそれ以下の 3代 には系譜的断絶があると考 え られて いるO中央豪族の系譜 であるとすれば身分称号 としてのプレカバネ段階であった として も、ハテ ヒーカサ ヒヨの 世代に称号がない点は理解 しにくい。 ヒコ ・スクネ ・ワケはいずれ も古 くは豪族 と大王が ともに名前に用いた称号で序列化 されていなかった。ただ し、 ヒコとスクネは葛城氏のよ うな畿内豪族の祖 に多いのに対 して、 ワケは西国を中心 に した地方豪族 に多 く分布す ると いう特徴がある。 これによれば、上祖オホ ヒコ一夕カ リ足尼までは、 『日本書紀 』孝元七年二 月丁卯粂 兄大彦命o是阿倍臣 ・膳臣 ・阿開臣 ・狭狭城山君 ・筑紫国造 ・越国道 ・伊賀 臣、凡七 族之始祖也。 とあるよ うに、大彦命 を祖 とする阿倍 ・膳系の氏族系譜の可能性が高い。 これに対 してテ ヨカ リ獲居 一タカハ シ獲居 一夕サキ獲居 という3代のワケ系譜 は、 F日本書紀 』景行四年二月甲子粂 夫天皇之男女。前後井八十子。然除二日本武尊。椎足彦天皇。五百城入彦皇子_之外。 七十余子皆封二国都_、各如=其匡L。故当二今時_、謂=蹄 国之別L者即其別王之甫商乱 という皇子分封説話 に仮託 された ものと考え られ、 「諸国之別」 とい う地方豪族的な名称 となっている。 しか しなが ら、その名前にはイ ワカムツカ リ (高橋氏文) とタカ リ ・テ ヨ カ リ, トヨカ ラワケ (本朝皇胤紹運録) とテ ヨカ リワケ、高橋 (膳) とタカハ シワケ、狭 狭城山とタサキ ワケなど阿倍 ・膳系氏族の名前 と酷似することか ら 〔注 27〕、上祖オホ ヒ コ一夕カ リ足尼 と同様 に架上された部分 と考 え られ る。 上祖オホ ヒコ一夕カ リ足尼 という中央 の阿倍 ・膳氏系氏族の系譜が、 「諸国之別」 とい う地方豪族的な要素 をも含 む 3代の ワケ系譜を媒介 として、カバネ的記載 のない在地で のハテ ヒ-カサ ヒヨーヲワケ臣 とい う 3代の系譜が刀剣銘の上で接合 されていることに な る。 5代 にわたる大彦命 を祖 とす る阿倍 ・膳系の氏族系譜が架上 された とすれ ば、先述 した よ うに上祖オホ ヒコを介 して中央本宗氏たる阿倍 ・膳氏系 との 「譜第」関係が公認 された ことなる。 これは、杖刀人首 としての 「奉事」 によるワカタケル大王 とヲワケ臣の 「世

」の 「譜第」関係 を前提 にした もので、大王だけでない中央本宗氏 と在地首長 との二重 の統属関係が中央での刀剣の下賜儀礼において確認 される。当時の王権構造が必ず しも大 王 による一元的な統治ではな く、王権 を構成する中央有力氏族 と職掌上の上下関係 にある 在地首長層 との間に結ばれた擬制的な同祖同族関係 を含めて大王が承認する儀礼が、刀剣 な どの下賜 によ り行われていた ことが想定 され る。 3 「武蔵国造の乱」 6世紀 にはいると 『日本書紀 』安閑紀 には、東国における 「国造」 による屯倉献上につ いて 2つの伝承がみえるOすなわち、伊甚国造 による伊甚屯倉 の献上 と武蔵国造 による

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横停 ・橘花 ・多氷 ・倉棟の四処屯倉の献上である。 前者は、 「内膳 ・膳 臣大麻呂が珠 を使者 を遣わ して伊甚 に戎めたが .伊甚国造稚子直の 上番が遅れたため膳 臣の怒 りをかい、それ を恐れた稚子直は,春 日皇后の寝所に逃れたた め皇后は驚いて しまった。その購罪のため伊甚屯倉が設置 され、現在 の上総国の郡 となっ ている」 と伝える。 後者は、 「武蔵国造の笠原直使主が同族の小杵 と国造の地位 をめ ぐって争 い、長年のあ いだ決着がつかなかった。そ こで/」、杵は上毛野君小熊に助 けを求めため、使主は朝廷 に助 けを求めた。その結果、使主が国造 と裁断され、小杵は課殺 された。その結果、使主はた いへん喜び横浮 ,摘花 ・多 氷 ・倉榛の四つの屯倉 を献上 した」 と伝える。 『日本書紀 』安閑元年四月発丑粂 内膳卿膳 臣大麻呂奉レ軌 遣 レ使求=珠伊甚_。伊 甚国過等詣レ京遅 晩、輸レ時不レ進.陪 臣大麻呂大怒収二縛国造等_。推二間所由_。国造稚子直等恐偲逃=匿後宮内寝_。春 日皇 后不 レ知二直入_、驚飲而顛

漸悦無レ己。稚子直等兼坐二聞入罪一、当二科重_。謹専為二 皇后-、献=伊甚屯倉一、話 レ娘=聞入之罰L。 因定=押 甚 屯乱 。今分為 レ郡属=上総臥 。 『日本書紀 』安閑元年閏十二 月是月粂 匝 森国過笠原直使主与二同族小杵一、相=争国遥し く使主 ・小杵 、皆名也)経レ年難レ決也 小杵性阻有レ逆。心高無レ順。密就求二援於上毛野君小熊一、両謀レ殺二使主_。使主覚之 走臥 詣レ京言レ状。朝庭臆断、以二便主_為二国造一、而謙二小杵一。国造使主便意交レ懐、 不レ能二黙己一。謹為二国家_、奉.,置= 浮 ・橘花 ・多 氷 ・倉機、四処屯 _。 まず、 この時期に集 中的に屯倉記事が記載 されている点については、津田左右吉以来, 作為的に集めたとの見解が有力であるが、那津宮家へ諸国の屯倉 の穀 を運んだ との記載 を 重視するな らば、当該期における対外的緊張がその背景に想定 される。 すなわち,継体朝前後の朝鮮半島情勢は、加耶諸国に対する新羅 と百済による東西か ら の軍事的圧 力が強化 された時期 にあた り、加耶諸国はその独立 を維持す るために倭国 ・高 句麗を含む周辺諸国 との連携を期待す る外交 を展開 していた 〔注

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8〕

。倭国は南部の加耶 諸国とは古 くか ら密接な交流があ り倭系の人々が多 く居住 して いた。百済や新羅の加耶諸 国への侵攻 に対 して、倭国は軍事的強攻策 をとる立場 と現状維持による先進文物の安定的 供与 を重視する立場が存在 したと考え られる。継体朝では、継体 に対す る 「軍事王」 とし ての期待か ら、前者の軍事強攻策の立場が前面に出てお り、継体 と勾大兄皇子、さらには 継体 を擁立 した大伴氏な どが この主張を リー ドした と考え られ る。継体 は近江臣毛野を将 軍 として対新羅戦への派遣 を計画 し 〔注 29〕、後には 「任那王」の要請 による百済 との交 戦記事 もみえている (継体二十 四年九月条)。勾大兄皇子 は 「任那四県 の割譲」 を強硬 に 反対 しているo大伴氏 も量化朝に 「任那」救援 の軍 を派遣 した と伝えている (量化二年十 月壬辰粂)。近江臣毛野が百済 とも交戦 した点を重視す るな らば、百済 ・新羅の軍事的圧 力に対 して加耶諸国の独立維持をはかる 「任那王」の 「乞師」 (派兵要請) を根拠 に して、

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百済 に対する軍事的 ・外交的主体性 を維持す るのが倭国の基本方針であった と考 え られ る (欽明四年十一月甲午粂)。後 にも倭 臣の印岐常が新羅だけでな (百済 を討 とうとしてい た ことが聖 明王の言 として記載 されて いる (欽明五年十一 月粂)。九州筑紫 の 「那津宮 家」 に対する諸国屯倉か らの食料集積は こうした軍事対決路線 における後方兵姑基地 とし ての役割があった と考 え られ る (窒化元年五月辛丑条)。安閑 ・量化期 にみ える諸国屯倉 の設置記事は こうした背景で理解すべきと考 え られ る。 つぎに, これ まで屯倉 は王権 の直轄地的な意味づけが強 く、国造は屯倉 を献上 した後 は、 その経営に関与 しなかったかのようなイメー ジが強調 されてきた。 しか しなが ら、中央か ら使者が派遣 された として も、屯倉の経営は在地首長層の協力がなければ経営は不可能で あ り、実質的には後 の武蔵国造 に経営 を委任 した と考え られ る 【注

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0)

F府曹 J倭国伝 には国造国 と推定 される 「軍尼」 と郷 レベルの r伊尼巽」の行政的な重層性が存在 したよ うな記載があ り.一方、孝徳朝以前の東国には郡県の 「宮家」 として国造 ・伴造だけでな く県稲置 (コホ リノイナギ)が置かれていた ことが記載 されている。 『陪賓 』東夷倭国伝 有こ匡 国一百二十人_、猶如二中国牧宰_。八十戸置二一匪 重囲 _、如二今里長_也 十

匿亘

園属二

廃す。

r日本書紀 』大化元年八月康子粂 若有=求 レ名之人一、元非一国造 ・伴造 ・県稲 ,而鞭詐訴、言,自=我祖時_、観=此直

_ 治中是匪 塾 ヒ、汝等国司不レ得三随レ詐便牒=於臥 。審得=実耕し而後可レ申。 すでに指摘があるよ うに、r階書 Jにみえる国 と県 とい う重層的な郡県支配組織 は、遅 ( とも七世紀には国造 と彼が管理する屯倉の間に部分的に存在 した と考 え られ る 〔注 31〕。 おそ らくは 「武蔵国造 一横浮 ・橘花 ・多 氷 ・倉撰の四屯倉 (県稲置)」 という統属関係が 孝徳朝 までには形成 された と考え られる。 しか しなが ら、国造 と稲置の関係は、 「凡国家 所有公 民、大小所領人衆」 (大化元年八月庚子粂) とあるよ うに大小様々な課税単位が錯 綜 していた もので、本質的 には国造 ・評造 ・五十戸造 (県稲置)は基本的 に同質な 「宮 家」 として扱われた と考 え られ る

。r

播磨国風土記 Jには、里 レベルの ミヤケがい くつか 存在するが,これ こそが (県)稲置の実態 として位置付 けられ るものではないか。発展段 階 としては白村江の敗戦 を契機 に国一評 一五十戸制 という明確な重層化が実質化 した もの と考 え られる。 広域行政組織 としての国造制は西国では磐井の反乱、東国では崇峻朝の境界の設定 を契 機 に6世紀代 に整備 された と考え られる 〔注32)。ただ し.地域支配への浸透度は、裁判 権 ・祭紀権 ・兵士や屯倉の耕作 を含む篠役労働の徴発な どに限定 される。 これは部民制 と 国造制 とい う王権 との二元的な関係 として機能 していたか らである。 以上のように国造 と屯倉 を考 えた うえで 「武蔵国造」の乱 を考察す る。東国における国 造 制の成立 を領域 を確定 した下記 の史料 を重視 して崇峻朝 ごろ とす るな らば、 「伊 甚国

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造」 と 「武蔵国造」の記載は、同時代の表記ではない。 F日本書紀 j崇峻二年七月壬辰粂 遼遠圧江臣満於東山道札 .観二蝦夷国境_.遣一、人臣鷹於東海道便_、観二東方浜レ海諸 国境_.這」阿倍 臣於北陸道使」,観二越等諸国境_。 加 えて、イザナミとイザナギのよ うな使主オ ミと小杯 オキ という 1対 の名前や,従順 と 反抗 という両者の対照的な人物描写な ども説話的である。 しか し、他の地名や氏名は具体 的であ り、豪族 の内紛にヤマ ト王権 と上毛野氏が介入 した というモチー フまでは否定でき ないと思われる。 従来の議論では,笠原直使主 と同族小杵の本拠地、横浮 ・橘花 ・多 氷 ・倉楳屯倉の比定 也.乱の実年代 と古墳群の消長、上毛野氏の勢力圏な どが論点 となってきた 〔注 33〕。 まず笠原直使主 と同族小杵の本拠地については,笠原直 の笠原は埼玉県鴻巣市笠原 に比 定 され、使主の本拠 を北武蔵に比定することに異論はない。一方、小杵 の本拠地を、北武 蔵の横浮屯倉 とす るか、3つの屯倉が位置する南武蔵 とするかについては議論が ある。 梅花 -武蔵国橘樹郡御宅郷 (川崎市 ・横浜市東北部) 多氷 (未)一多氷は多夫の誤 りで武蔵国多磨郡 (旧西多摩郡) 倉楳 一倉棟は倉樹の誤 りで武蔵国久良 (久 良峻)郡 (横浜市南部) 従来は、横浮屯倉 を武蔵国状見郡 (埼玉県比企郡吉見町) に比定す るす る説が有力であっ たが、近年では横浮屯倉だけが北武蔵 に所在す ることが疑問視 され るようにな り、多摩の 横 山 ・横野 (東京都八王子市) に比定す る説が提起 されている 〔注 34】。横浮 (メ) と横 見 (ミ)が音通 しにくいのに対 して、横浮 (ヌ) と横野 (ノ) との普通が根拠 となってい る。多氷 (多末)屯倉 との重複 については、多上 (上流)・多下 (下流)の区分が多摩地 域 にあ り (武蔵国分寺 ・国府出土瓦)、多下が横浮に相 当す るとの想定がある 〔注 35〕O そ うすると献上 された 4 つの屯倉 は南武蔵に集 中す ることにな り、屯倉の献上が敗者の 本拠 とするな らば、笠原直使主 と同族小杵の対立は北武蔵 と南武蔵の主導権争いと解釈 さ れ るb す で に、乱 の実年代 と古墳群 の消長 につ いて は,北武蔵が南武蔵 を制圧 した との説 〔注 36)や北武蔵内部での争乱説 〔注 37)が考古学か ら提起 されて いるが、6世紀前半 の安閑朝 という時期 に大規模な古墳群の変動は認め られないとの批判や北武蔵は広義の上 毛野氏の勢力圏であ り、武蔵国という地域的な まとまりが古 くは存在 しなか ったとの批判 もある 【注 38〕。近年では、南北武蔵の対立 を前提 に、南武蔵で も田園調布の浅間神社古 墳

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m)や上野公園の摺鉢山古墳

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な どに注 目し、一時的な前方後 円墳の復活 を 考慮する議論や埼玉古墳群内部での争いという議論 も提起 されている 〔注 39〕。少な くと も古墳群 の大変動-社会的変軌 と 「武蔵国造の乱」 を直結 させる旧来の議論は現状では困 難であるといえるD しか しなが ら、南武蔵にお ける一時的な前方後円墳の復活や上毛野氏 の介入をまった くの虚構 とす ることもできない。武蔵の有力首長層の争いにヤマ ト王権 と

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上毛野氏が介入 した結果、後の国造氏族 による屯倉献上が行われた ことに一定の史実性 は 認め られ るのではないか。 南武蔵 における一時的な前方後 円墳の復活や 「国造本紀」における胸刺 ・天邪志の二国 造の記載,さらには南武蔵 に集 中す る屯倉な どか らすれば、北武蔵 と南武蔵の主導権争い と見て も問題はないと考える。争いの範囲は措 くとして もまさに 「同族」同士の争いとい う点に東国氏族の構造的的矛盾があ らわれてお り、国造制段階 において もこうした矛盾は 解消 しなかった と考え られ る。 4 東国の国造 6陛紀以降に設定 された国造の類型 としては、地名国造 (西国) と伴造部姓的国造 (東 国)の二類型が確認 される 〔注 40)。 この違 いは地域 ごとの社会構造 に規定 されると考え られ る。すなわち、出雲の岡田山一号墳の被葬者である額 田部 臣は中央の額 田部連 との旧 来か らの部民制的な関係に加 えて、歴史的には出雲国造たる出雲 臣による地域支配強化 に おける額 田部臣との関係が新たに加わ り、額 田部 臣と王権 との二元的な関係 (これは矛盾 で もある) として機能 した。出雲の額田部臣は父母双系的な系譜意識を前提 として.出雲 国造たる出雲 臣 (在地のヨコ系列) と中央の額 田部連 (職掌のタテ系列)に両属す ること が可能であった。『出雲国風土記 』の郡 司記載 にか らうかがわれ るよ うに、在地の ヨコ系 列において出雲 国造たる出雲 臣は、 「臣」 を共有す る同族的関係を創出す る ことによ りに よ り出雲地域 を支配 し、一方で中央 の額 田部連は職掌のタテ系列 として、「額田部」 とい う脇挙上の同一性か ら額田部臣を同祖的関係 として支配す ることができた。 こうした関係 は 『新撰姓氏録 』の同祖関係な どか ら確認 され る。出雲地域では職掌のタテ系列よ りも在 地の ヨコ系列 (国造秩序)が卓越 し、地名国造 としての支配が可能であった。吉備 ・出雲 ・毛野 ・尾張な どは国造を中心 に在地のヨコ系列が卓越する。 これ に対 して、 「武蔵国造 の反乱」にお ける同族争いにもあ らわれているように東国では一般的に職掌別のタテ系列 が優越 し、国造 を中心 とする在地の ヨコ系列の卓越 は弱い。そのためEg造間の同盟的関係 によ り地位 を補強す る側面が強 くな って いる。 こうした選択は、在地社会の構造によ り選 択的に選ばれた と考え られ る 〔注 41〕。 この二元的な関係は 7世紀以降は政策的に解消す べき矛盾 と認識 され るが、原理的には併存 しうるものであった。 大化改新 において東国国司が派遣 された地域は、基本的に伴退部姓的国造が卓越す る地 域 と重なる。おそ らく伴造部姓的国造の地域には、複数の有力国道民が国造区域内に存在 す るため、排他的に地名国造 を称 しにくい状況があ り、領域的支配者 としての力量が弱か った と想定 される。国司の派遣理 由としては,名 目的な国造支配よ りも細分化 した評制へ の移行が要請 されていた地域であったと想定 される。具体的には,印波国造の本拠が下総 国印旗郡 と推定 され るのに対 して、7世紀代の竜角寺や竜角寺古墳が隣の埴生郡に所在す るの も、印旗郡の丈部直氏か ら埴生郡の大生部直氏に印波国造が交替 し、埴生評 として分

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立 した ことが想定されている 〔注 42〕。同様 に r常陸国風土記Jにみ られる行方郡の有力 氏族壬生直氏 と壬生連氏がそれぞれ那珂国造 と茨城国造を称 して いるの も国造一族の呼称 ではな く,分家が有力化 して現任国造になった事例 と考え られ る。推古朝 に設定 された壬 生部集臥 こよ り東海道地域 を中心 とす る在地の再編がなされ、r常陸国風土記 Jにみえる よ うな開発伝承 とのかかわ りが指摘できる点 も注 目される。 孝徳紀 によれば,国造だけでな <伴造 ・県稲 置 らまで 「宮家Jを治めた実績が評司任令 の条件 として強調されている。 F日本書紀 J大化元年八 月庚子粂 若有二求レ名之人_、元非一 途 ・伴造 ・県稲 、而鞭詐訴、言,自二我祖時_、領二此

乳 治中是都県上、汝等国司不レ得三随レ詐便牒二於彰L。審得二実状_而後可レ申 これは、国造 一国造制、伴造 一部民制、県稲置 一県 ・屯倉制のように令前の三つの地域支 配 システムの統合 として評制ない しは五十戸制が位置付け られ るもので、重要な意味を持 つ。令前には国造が地方伴造 を兼ね,そのどち らか を称号 として用いる選択肢が存在 した。 さ らに、 ミヤケ と県稲置 ・子代な どの融合的運用が可能であったのは、いずれの支配制度 もヤケ という属性が共通 した ことによると考 え られ るDヤケは古墳時代以来の豪族居館が 有 した支配 ・経営 ・所有相続の拠点 という未分化なあ り方 を持 ちなが ら、支配や農業経営 の拠点にも特化することもできる可変性 を合わせ持 っていたのである。 5 東国国造の系譜意識 東国には 「国造本紀」 にみえる 24の国造 に加えて、正史のみ にみえる長狭国造 (『古 事記 j神武段) と千葉国造 (r日本後紀 J延暦二十四年十月突卯条な ど)の 2国造 を加え て合剤 26国造が確認され る。その地域的な分布は以下 に示すように、上絵 ・常陸な ど南 関東 に小規模な国造が多 く分布す るのに対 して、北関東は上野の上毛野国道,下野の下毛 野国造な ど令制国一国 レベルの国造が存在 し対照的なあ り方 を示 している。 相模 2-師長 ・相武 安房 2-阿波 ・長狭 上総6-須恵 ・馬来田 ・上海上 ・菊麻 ・伊甚 ・武社 下総3-千葉 ・印波 ・下海上 常陸7-新治 ・筑波 ・茨城 ・仲 ・久 自 ・高 ・道 口岐閉 武蔵3一元邪志 ・胸刺 ・知々夫 上野1一上毛野 下野2-下毛野 ・那須 「匡l造本紀」 にみえる成立時期 については,崇神朝か ら仁徳朝 にかけての任命記載があ り、 当然なが ら成務朝が最多 となっている。 崇神2-知々夫 ・上毛野

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景行1-那須 成務

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-相武 ・師長 ・元邪志 ・須恵 ・馬来田 ・上海上 ・伊甚 ・武社 ・菊麻 ・阿波 新治 ・筑波 ・仲 ・久 自 ・高 応神4-印波 ・下海上 ・茨城 ・道 口岐閉 仁徳 1-下毛野 不明3-長狭 ・千葉 ・胸刺 「国造本紀」全体 でも、成務朝に最 も多 くの 63国造が任命 された とされ る。 これは、す でに前代の景行朝にヤマ トタケルの遠征 によって 「普天率土、英レ不二王臣_ (アメノシタ、 シタガ ワズ トイ フコ トナ シ)」 とい う状態になったが、人々が野心 を俊めないので国郡 に 君長を置 くという r日本書紀 j編者の構想に対応するもので,史実性 を認めることはでき ないものである (令制下の郡はすべて孝徳朝 に成立 した との 「譜第」意識 も同様に必ず し も自明の ことではない) 。なお、上海上 と下海上,上毛野 と下毛野、元邪志 と胸刺のよ うに対 になる名称の国造につ いて異なる時期に設定 されたと伝え られることは、両者が対 等の関係では必ず しもなかった こと,本来的にはセ ッ ト関係ではなかった可能性な どが指 摘できる。 つぎに、祖先伝承によ り分類するな らば、大 きくは豊城入彦命系,天穂 日命系、天津彦 根命 系の3つに分けることができる 〔江 43〕。祖先伝承は後述す るように時期 によ り流動 的であ り、いつの段階 に形成 されたかは慎重に議論 しなければな らないが、平安期初期 ま で伝承され る最終的な関係 としては尊重することができる。 ・豊城入彦命系 止 毛野 ・下毛弼 ・天機 日命系 土師連 ・出雲臣 (出雲国造) と同族 恥 武 ・元邪志 ・胸刺 ・止 海上 ・伊甚 ・菊刺 ・阿波 .下海上 ・新治 ・高 工タモ ヒ克邪志-オオカクニ ノアタヒ菊麻 ・イサチノアタ ヒ胸刺 ・イセツヒコ相 武 オシタテケタ ヒ上海上-クツギ ノアタ ヒ下海上 東京湾と香取海が上下か 遠江 と近江の対比 と同 じ ミッロギ-オオ トモノアタ ヒ阿波 ・イ コホ ト伊甚 ・ヒナ ラフ新治 ・ミサ ヒ高 ・天津彦報命系 師長 ・顔 意 ,馬来 田卜 茨城 ・道 口岐閉 ・(道奥菊田 .石背) タケコロ茨城-・ツクシ トネ茨城 ・オホワシオミ師長 ・オホフヒオミ須恵 ・フカカ ハオ ミ馬来田 ・ウサ ヒ トネ道 口岐 閉 (ヤヌシ トネ道奥菊 田 ・タケ ミヨリメ石背) ・諸氏 系 印波 ・長狭 ・仲 (多)

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久 自 ・筑波 (物部) 知々夫 (大伴)/武社 (和讃)/那須 (阿倍)/千葉 (不明) 領域的に隣接す る国造が同祖同族関係 にある事例 としては、登城入彦命系の上毛野 (上 野)・下毛野 (下野)、天穂 日命系の相武 (相模)・尤邪志 ・胸刺 (武蔵) と上海上 ・伊甚 ・菊麻 (上総)の事例がある。後者の事例はヤマ トタケル東征伝承で明 らかなよ うに東京 湾が海上交通で結ばれていた とす るな らば一体の もの として考えることも可能 となる。領 域的 には連続 しないが.天穂 日命系 として さ らに、阿波 (安房)・下海上 (下総)・新治 ・高 (常陸)を加えて海上ないし内水面で結ばれた関係 を想定する こともできる。また, 天津彦根命系は須恵 と馬来田 (上総)を除けば天穂 日命系ほど領域的な隣接状態は顕著で はないが、師長 (相模卜 須恵 ・馬来田 (上総)・茨城 (常陸)・道 口岐閉 ・道奥菊田 ・石 育 (陸奥)のように海上ない し内水面で結ばれた関係 を想定す ることも不可能ではない。 こうした大 きな連合に挟 まれて多氏系の長狭 (安房)・印波 (下総)・仲 (常陸)、物部系 の久 自 ・筑波 (常陸)のまとま りが確認される。 ちなみに.推古朝に設定 された壬生部の在地伴道 として東海道 を中心 に壬生直 (逮)の 名前が多 くみえるoかれ らは相武 (相模)・長狭 (安房)・印波 (下総)・筑波 ・茨城 .仲 (常陸)の国造の氏姓 とも考え られているが、上述の氏族系統 とはほとんど因果関係は確 認 されない。先述 したよ うに在地伴道 としての奉仕 という職掌のタテ系列によ り編成され たものであ り、設置段階が新 しく常陸国行方郡や下総国埴生郡な ど国造の本拠地 とは異な る新開地 (評 として国造国か ら分立) に設定 されている事例が多い ことか ら国造本家では な く、ヤマ ト王権が有力化 した国造家の分流や配下の中小豪族 を任命 した ものと考え られ る。毛野地域な どを例外 とすれ ば領国内部において国造 を中心 とす る在地のヨコ系列 (同 視同族関係 によるネ ッ トワークの形成)の卓越は弱いので,国造間の同盟的関係 によ り地 位 を補強する側面が強かったと考え られる。 つぎに国造氏姓 における地名 と伴進の選択 について検討するな らば、西国のよ うな出雲 国造-出雲 臣といった国造-地名+杏 (君)の事例は関東に少な く,壬生直のよ うな某部 +直の事例が多いO こうした傾向は,在地 において西国 とは異な り国造 として排他的な名 乗 りが難 しい分裂状況があ り、伴迄的なタテ系列の系譜を選択 した場合が多かった ことに よると考え られる.わずかに検 出され る上毛野君 ・下毛野署や笠原直 .伊甚直 ・武社直 ・ 新治直な どの事例は、豊城入彦命系の君姓および天穂 日命系の直姓 に限定 され、地縁 同族 的ヨコ系列の系譜 を選択 し地域連合によ り自己の地位 を確保 していた ことが確認 される。 最後 にカバネと系譜の関係を検討す るな らば、登城入彦命系 (上毛野君 ・下毛野君)の 君姓 を除けば、関東の国造 26氏の多 くは直姓の天穂 日命系 (10氏) と非直姓の天津彦根 命系 (5氏) に大別できる。 君 一登城入彦命系 Lt毛野 ・下毛均 一上毛野国に緑野屯倉

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直一天徳 目命 系と諸氏系 在地的独立的 中央氏族 との関係希薄 細 武 ・元邪志 ・胸利 一横浮 ・摘花 ・多 氷 ・倉臥 四処屯倉 - 「辛亥」銘鉄剣 l上海上 ・伊甚 ・菊朝 一伊甚屯倉 - 「王賜」銘鉄剣 進達使圭 一天津彦根命系 伴道的 額田部 豊城入彦命系の君姓および天竜 日命系と諸氏系に多い直姓には地名 を付 した事例があるよ うに在地独立的な要素が強 く,中央氏族 との従属関係はどち らかといえば希薄である。 こ れに対 して天津彦相命系は非直姓である遣 ・連 ・使主姓が与え られ.壬生連 ・丈部追 ・日 下部使主 ・湯坐連のような伴通的氏族が多いといえる。 とりわけ武相 (相武 ・天邪志 ・胸刺国造) と中総 (上海上 ・伊甚 ・菊麻国造)における 地域連合 には安閑朝の こととして 「横浮 ・摘花 ・多氷 ・倉操、四処屯倉」 と 「伊甚屯倉」 というミヤケ献上伝承がそれぞれ残 されて いること、さらに 「辛亥」銘鉄剣や 「王賜」銘 鉄剣が分与 されたのも当該地域であることは偶然ではな い。ヤマ ト王権 は、5世紀後半以 降,在地独立的な地域連合勢力に対 して、その秩序を解体 させ るべ く有力化 した 「国造」 家の分流や配下の中小豪族 との直接的な関係 を強め、5 世紀代の刀剣の賜与には じま り、 6世紀以降ではミヤケ設定、伴道任命な どの手段で従属させようとしたのではないか と考 え られる。 東国国造の系譜意識 には、領国内部 において国造 を中心 とす る独 自の在地 ヨコ系列秩序 編成 (同祖 同族関係によるネ ッ トワークの形成)の卓越は弱 く,個 々の伴造的職掌 による タテ系列の秩序形成 (中央氏族 との政治的理 由による系譜の擬制-中小氏族や地方豪族 と の階層的序列的な関係) というヤマ ト王権 による分断支配 (刀剣賜与、ミヤケ設定、伴造 任命) に対抗 し、国造間の同盟的関係 (武相 ・中総の地域連合や上毛野君小熊 と武蔵国造 の同族小杵 との系列化)によ り自己の地位 を補強する側面が強かった と考 え られ る。

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東国国司 と東国惣領 (D東国国司と立評 7世紀の東国にお いて大きな画期は、大化改新 における東国国司の派遣であ り,それ に ともな う評の設定であった。東国国司派遣の 目的 としてはすで に論 じたよ うに以下の記載 が重要である。 r日本書紀 J大化元年八月庚子条 若有二求レ名之^-、元非=極 道 ・伴造 .県稲乱 、両輪詐訴、言,自二我祖時_、領二此匿

拾中是匪 臥 汝等国司不レ得三随レ詐便牒二於臥 。審得=実状_而後可

。 これ によれば、国造 だけでな く制度的に異なる伴造 (部民制)・県稲笹 (屯倉制)が歴史 的に宮家 (頁納奉仕の拠点)を領 した と認識 され、その実績が評進や五十戸造 といった新 たな宮家候補者の選定の前提になって いた ことが指摘できる。従来の宮家を再編 して新た な 「宮家 ミヤケ」の一種 としての評豪 コホ リノミヤケと 「五十戸家」サ トノイへ (平城京墨

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書土辞)が置かれる こととな った。 しか し、官街施設 としての評衝の成立は遅れ、まだ豪 族の私宅 と官衛の区別 は明瞭ではなか った 〔注 44〕。よ うや く天武朝後半段階に 「詔二四 万匡LE].大角′J頒 戟吹幡旗及替地之類、不 レ応 レ存二匿 覇_、成収二千匪 司_」 (天武十 四年 十一月丙午条) とあるよ うに 「私家」 に対比され る 「郡家 (評家)」が成立 した。かつ同 じ 「造」 と表記 されるように国造 ・評造 ・五十戸迫は併存 し,行政組織の重層性は弱かっ た。ようや く天智朝の庚午年籍段階 に至 り全国的な国 一評 一五十戸迄への転換がな された と考 え られ る。 「譜第」意識の連続性 において品部や屯倉の廃止命令は、国造 を除 く伴道 や県稲置にとっては大 きな転換点 として認識 されたはずである。 しか し、新たに宮家 を領 す ることにな った者の一斉任命 については 『E]本書紀 』に明証はな く.F常陸国風土記1 の記載によれば在地の事情による個 々の申請 によってお り,あくまで第一次東国国司の段 階では 「宮家」運営候補者選定

-

「譜第」の決定に留まっていた としなければな らない。 大化元年八 月の第 1次東国国司は、① 「収衆 国郡刀 ・甲 ・弓 .矢」② 「作戸籍」(卦 「起造兵庫」 という三つの任務が明記されているが、 この前後 に全国に派遣 された(》六月 か ら九月にかけて諸国 (四方国)で兵器 の収公 (大化元年九月丙寅粂)I②民の元数 を記 録 (大化元年九月甲中条).③ 兵庫 を修営 (大化二年正月是月粂) という3回の使者 との 類似が指摘 されている 〔注 45〕。全国的政策 としては対蝦夷関係の緊張 を背景に課丁数の 把握 と評家 (兵庫)への武器収公が中心であったと考 え られる。ちなみに,蝦夷 と境 を接 す る毛野地域では収公 した武器 を規定に したが って本人に返 さず、国造 に渡 した ことが と がめ られている。 これは毛野地域の国造の力量 を示す記事 といえる。 国造だけでな く伴造 ・県稲置か らも評や五十戸の 「宮家 ミヤケ」経営へ転換 した者があ り、 令制での伴造姓郡司成立の契機であった ことはみ とめなければな らない。孝徳朝は責納奉 仕関係および 「譜第」意識の大 きな転換期 と後世には観念 された ことは事実 として も全面 的な施行 を意味す るものであったかは確実でない。成務朝 における国造設置 と同様 に,後 世の認識がそのまま孝徳朝の史実 とはできないと考える。郡 司の 「譜第」において難波朝 廷以来の 「労効」が語 られ、国家がそれ を公認す るという関係において再生産 されて くる もので、厳密に検 討す る必要がある. た とえば 『日本書紀 』の第 2次東 国国司の行 動 を補完す る史料で ある 『常陸国風土 記 』の記載は、『日本書紀 』を前提 に国郡制の施行 をすべて大化二年の改新之詔 に収赦 さ せてお り、『播磨 国風土記』とは異なって庚午年籍や庚寅年籍段階での記載がほとんどみ えないことが指摘できる。さ らに、評の分割 を記載す るのは新立の郡 (秤)のみで、旧来 の国造国の拠点 と考え られる郡の記事が残存 しない点 も問題 となる。孝徳朝の立評記事は 各郡 ともに統一的な記載様式であ り、 「古老 日」の中身は郡司の 「譜第」記載 を基本的に 公認 した ものが掲載された と想定 され る 〔注 46〕。国造国に系譜す る郡 については、 「国 造本紀」にみえるような国造任命記事が奉事相渡 として 「譜第」ではよ り重要であ り、 こ とさ ら国造か ら郡 司への転換 を画 期 と して語 る必要がなか った と考 え られ る (「国造本

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紀」では国造国 と令制国の違 いを区別せず連続す るもの として記述 している)。反対に、 伴道や県稲置の系譜 をもった者たちにとっては、孝徳朝 における屯倉や晶部の廃止直後か ら郡司に任命 された ことを 「譜第」の連続性 において語 ることは重要な意味を持 っていた わけである。 しば しば r美佳波朝廷天下立レ評給時」 (皇大神宮儀式帳) とい う記載 は、孝徳朝の 「全 両立評」 を示す と解釈 され るが、 この場合の 「天下」 は 「某富治天下大王時」 のよ うに 「難波朝廷」 と一体 の表記で時代区分 を示す とも廃釈 され る。一方、同じ内容を語 る 「大 同本紀」は 「己酉年」 (大化五)に初めて 「度相郡」 を立てた とのみ記すが、史料的な信 頼性 に欠けることが指摘 されている 〔注

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。ちなみ に,「元三箇郡摂二一処_」 という主 張 は 「神痔 (大神宮) 一三宮家 (屯倉)」 の古 い体 制 を示 してお り、武蔵国造 一四屯倉 (県稲置) と同質な もの と考え られる。正史 には天平期以降 しば しば、 「難波朝庭以還譜代重大」 (天平七年五月丙子粂) r昔難波朝庭,始置=諸郡_」 (『類史 J巻一七延暦十七年三 月丙 中条) 「夫郡領者,難波朝庭始置二其職-」 (弘仁二年二月契卯粂) との表記 も散見す るが、最初の 「難波朝庭以遠譜代重大」の表現 は,国擬以外に副える場 合で、 「天二譜代_」のケース も想定 されているように、絶対条件 とはなっていない。む し ろ、郡司任用制度の時代的変遷か らすれば前後の労効や才用主義か ら譜第主義へ一時的に 転換 した時期 に見える表現である点は無視できない。後者の 「昔難波朝庭、始置=諸郡_」 「夫郡街着、難波朝庭始置二共職J な どは開始が孝徳朝であることを示 しているにすぎな いものである。あくまで r日本書紀 Jは 「名 を求むる人」 -希望者のなかか ら宮家を鎖す る者の候補者 を選定 しただけで,全面的な施行 は明記が無 く、第 2次国司以降に順次任 命されていったと解 して も支障はな い。 ②東国惣領 と東国国司 r常陸国風土記 Jに記載 された東国惣領 は、r日本書紀 】孝徳紀 にみえる第 2次東国国 司以降に派遣 された使者 を在地で記録 された もの として補完的に考 えるのが通説的な理解 である。 しか しなが ら,両者の記鞍には必ず しも整合 しない部分が存在する。 F常陸国風土記 1では 「東国惣顔」については以下の5箇所に記載がある。 総記 孝徳朝に惣鎖高向臣と中臣暗殺田連 らが坂東八国を分割 信太郡 高向大夫等 莫丑年 白維四年 (653) 行方郡 高向大夫 ・中臣幡織田大夫等 発丑年 香島部 高向大夫 己酉年 大化五年 (649) 多珂郡 高向大夫 発丑年 総記 と行方郡 に中臣幡織田連 (大夫)の名前が加え られて いるのを除けば、すべてに惣領 高向臣 (大夫)が関与 したと記載 されている。ちなみ に惣領 に任命 された高向臣について は 『続 日本紀 』和銅元年八月丁酉条 に記載がある国忍の可能性が指摘 されている。惣領は、

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坂東 8カ国に派遣 され、その うち常陸では大化五年に香島部 、自推四年 に信太郡 ・行方 郡 ・多珂郡 の 4郡分立 に関与 した ことが明記 されている。すべて 「古老 日」 という形式 で伝承的な部分 に含 まれなが らも 「某天皇之世」 という漠然 と した表記で はな く 「莫丑 年

「己酉年」 とい う干支年が明記 されていることは異例である。 しか も,立郡 の記載 に 限って この形式が統一的に書き込 まれていることにも留意 され るO国司の側で統一的に立 郎の経緯が書 き込 まれた ことは明かであ り、当該郡の郡 司が提出 した 「譜第」を基礎資料 とした と考 え られ る。『常陸国風土記 』では時期区分の要素 として国革 として当麻 ・久米

川原大夫の名前 もあ り惣領は、それ ら国軍 とは区別 され る表記 となっているo これ らは、 いずれ も奈良時代の国司とは異な り常駐的ではな く、孝徳朝の時代 に 「遣」 された とある よ うに使者的記載 になって いる。 しか しなが ら、 「発丑年

「己酉年」 に高向大夫が駐 留 した ことが確実だ とすれば、最短で も 4年以上、第 2次東国国司の派遣 に含 まれていた とすれ ば最長で 7年間 も現地に駐留 していた可能性が指摘できるB この点は半年で帰還 した第一次東国国司とは大 きく性格が異なる。 このように東国惣領 と東国国司にはいくつか異なる性格が指摘できる。すなわち、東国 惣領 は、派遣の範囲が明 らかに坂東 に限定 され .立郡の前提 として坂東 8国の分割 に関 与 した とある。派遣期間 も大化五年か ら白矩四年 まで最短で 4 年 あ り、 この点では現地 に駐留する令制下の国司と類似す るが、以後 にみえる総観 とは異な り国司とは併存 してい ない ことが指摘できる。一方、東国国司の派遣地域は、大化元年七月条の記載 によれば蝦 夷地域 を除 く,尾張 ・美漉以東 〔注 48〕 と考 え られ、坂東八国よ りは確実 に広 い。ちな み に、磐舟柵の柵戸が越 と信濃か ら徴発 されたよ うに (大化四年是歳粂)、越へ は美濃信 濃経 由で 東国の一部に含 まれていた。派遣期間は半年で帰還 してお り、令制下の国司と は異な り任務 と期 間が限定 された巡検使的な性格が強い。以上によれば、東国惣領 と東国 国司では、明 らか に範囲 と任期が異なっていた ことが指摘できる。 ③ 「譜第」か らみた立郡人 加えて.『常陸国風土記』は基本的に大化二年の改新の詔を前提 に 「国 一部 一里 一戸 の 編成」を記述 していることが指摘できる。坂東の8カ国への国の分割、6国造国を前提 と した第 1次立郡 、里の編成、編戸 を前提 とした郡 の分割な どは,明 らか に大化二年の改 新の詔にみえる国郡制や編戸の規定が常陸国で も完全 に実施 された ことを前提 にしている。 一方で、『播磨国風土記 』では先述 したよ うに、郷里 レベル において孝徳朝か ら庚寅年籍 までに順次、氏族的な名称が一般的な地名に変更 されてお り、明確な画期がない対照的な 記載 になって いる。『常陸国風土記 』では新たに分立 した郡のみ記載が残 され、六国造国 を前提 とした第 1次立郡 についての明確な記載はない.おそ らくこの欠落は意図的であ り、 旧国造が任命 された と推定 され る残された新治 ・筑波 ・茨城 ・那賀 ・久慈 ・多珂の 6 郡は、前代の国造国との連続性が彼 らの 「譜第」 によ り自明であった ことによるのではな いか。逆に言えば、 自己の系譜的正統性 として 「難波朝庭以遠譜代重大」 をことさらに強

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