• 検索結果がありません。

t 中世後期近江国における領主権力の裁定プロセス

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "t 中世後期近江国における領主権力の裁定プロセス"

Copied!
2
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

− 273 −

中世後期近江国における領主権力の裁定プロセス

一『今堀日吉神担文書』にみる商人間相論と在地支配を事例にー

教科・領域教育専攻 社会系コース 西 弘 仁

はじめに

脇田晴子氏や仲村研氏が『今堀日吉神社文書』

による保内商人と他郷商人との商人間相論の 分析は、保内商業の展開過程を示す重要なもの である。しかし、近年比叡山延麿寺(山門)や六 角氏の領主権力側の支配構造が明らかになっ ていることを踏まえることで、脇田・仲村両氏 の見解を再検討していくことが可能となって いる。脇田氏が注目した市座権をめぐる商人間 相論が、一六世況には、満盈路の独占権をめぐ るものへと変化したとの指摘や、商業の性格変 化により相論の裁判権が、山内から守護(六角 的〈新子したとし、う指摘を、今一度商人間相論 の裁定プロセスからを見直すべきである。

本研究の目的は、脇田氏と仲村氏の研究に依 拠しつつも、近年の成果を踏まえて、商人間相 論の裁定プロセスを再検討することである。

第 1章領主権力の動向と在地支配

当時の領主権力である山門と六角氏の動向と 在地支配につして、蒲生君隅珍保を事例に検討

t

4山門が編成した荘園年貢徴収である名が、

得珍保では公方名として田畠に賦課されていた 名が解体し、名の呼

U

洛に耕眠庁有者の名称が つけられて、単なるかの表示となった。

つまり、かつての名が、山門に賦課する様々 な年貢を貢納する役割を失い、耕地に付属して その所有者が負担していた。そして、耕地が売 買、譲渡、寄進される際には公方年貢を負担す

指導教員 町 田 哲

ることが、不帯条件として土地売券に明記して いたのである。公方名の解体は、荘園領主の土 地支配の転換をもたらした。名は、村単位では なく野方=野々郷=保内下回郷の名として、荘 園領主が掌握していたのである。名の解体が進 むと、荘園領主は名のまとまりではなく、村を 単位とする耕地のまとまりへ変化していたこと がいえよう。

得珍保内での惣村間相論では、一六世紀半ば まで山門の衆議によって、裁定が下され、学頭 代により伝達されていた。他郷との相論では、

蒲生野入会主世相論を事例にすると、山門が独自 に裁定を下す権利をもっていた。しかし、大永 五年になると入会地に関する裁判権は、守護六 角氏にも裁判権が荷主した。また、得珍保内に おける六角氏は、得珍保に対して軍事動員を求 めていた。これは、明らかに需要に対して山門 が完全に屈服したとするが、果たしてそう言え るだろうか。六角氏は、在地領主と被官関係を 結ぶことで、保内の年貢負担などを軽減させて いたのではないだろうかと考えられよう。

では、こうした領主権力の動向と在地苅己を 踏まえて、商人品官目論では、どのように関わっ ているかを検討していくことにしたしL 第

2

章一五世紀の商人間相論における裁定プ

ロセス

一五世紀における商人間相論の事例を見て いくことで、領主権力がどのように裁定を下し

(2)

− 274 − たのかを検討した。商人間相論においては、相 論の性格・詰和理に基づいて、基本的には、山門 の東塔東谷の学頭代が発給主体者として、東谷 の衆議の裁定を伝達していた。そして、裁決に 対して反論がある場合は、東谷の集会が開かれ、

決議がなされ、学頭代を通じて在地武士ぺ云達 されることもあった。

一方、直接幕府に対して反論が挙げられ、裁 定 の 新

T

ができない場合には、山門使節や翻守 などを通じて、守護守護代一在全世武士へ遵行 がなされていた。つまり、一五世紀の商人間相 論における裁定プロセスは、従来の研究で明ら かになっているように、荘園領主である山門に よって裁定がなされていた。その上で、一五世 紀における商人間相論における裁定を再検討し ていくと、山門の裁定で、も一院(東塔)やー谷(東 谷)の裁定があり、その時の相手によって裁定を 行う場所に違いがみられた。一谷(東谷)の衆議 は、下級の裁判権を持ち、一院(東塔)は、上級 の裁判権を持っていた。また、院ぞ谷は、時期 によって衆徒が堂舎を閉館することで、抗議新子 動を起こすことがある。そして、衆議で意見が 一致しない場合は、山門儲巨による幕府へ守護 選者子のための推挙伏を出す裁判があった。つま

り、山門使節裁判権を有していた。

3

章一六世紀の商人間相論における裁定プ ロセス

一六断己における商人間相論は、どのように 変化したのかを検討しむ一五世紀の商人間相 論では、裁定者は山門(比叡山延暦寺)で、あった。

しかし、一六断己の商人間桶命は、裁定者は 六角氏権力で、あった。六角氏は、応仁・文明の 苦以降、寺社

f

頁の横領が目立っていた。また、

守護代である伊庭氏の巨大化により、一六断己 はじめは、伊庭氏による下知が下されている。

伊庭氏の乱以降、六角氏は相論裁定にも介入し、

六角氏奉行人を通じた裁定が行われていた。つ まり、脇田氏が指摘したように、一五 一六世 紀において商人間相論の裁定主体者が、山門か ら六角氏に移行していることは、確認できる。

しかし、市座権をめぐる相論から溺亘路の独 占権をめぐる相論への変化とは言い切れない。

それは、五箇商人との九里半相論の裁定を見て いくと、五箇商人と保内商人の双方が、九里半 街道にて商売できるというものだったからで、あ る。また、保内商人を保護し、流通樹蕎を保内 商人以外の商人から守ろうとしようとしたと考 える。そして、六角氏は、在地武士と被官関係 を結び、近江国の領国支酎鱗の再編の中で、

戦国大名へ変イ七する段階であった。

おわりに

本研究では、領主権力の裁定プロセスが商人 間相論においてでどのようにあらわれたのかを 検討した。以上述べたように脇田氏が指摘した ように、一五 一六世紀において商人間相論の 裁定主体者が、山門から六角氏に新子していた ことは、確認できる。しかし、市座権をめぐる 相論から総重路の独占権をめぐる相論への変化 とは言し切れず、指直路の拡大を求めた相論へ と変化したと位置づけることができる。なお、

荘園制の解体期に差し掛かる当該期は、領主権 力の動向に注目しなければならない。

特に六角氏の支西白書造は、本排氏持俗氏な どによる基礎的な研究をベースとし、在地との 関係を含めて、検討しなければならない。また、

得珍保研究においては、惣村構造と保内商業の 関わりなくしては、語ることができない。今後 は、惣村構造を踏まえた保内商人の研究を行っ ていくことで、領主権力の支配概査を明らかに

していくことを課題として、取り組む。

参照

関連したドキュメント

三二 京都府立大学学術報告﹁人文﹂第六十四号 図版 1 ︵寛文四年   山本九左衛門刊﹃うすゆき物がたり﹄   国会図書館蔵︶ 図版 2

中川飛騨守が秋山松之丞に相達して,秋山から至時に連絡があり,内分に

 第二は未申両年︵元文四・五年︶午年︵元文三年︶山崩洪水の為田畑立毛よからず、以後村中殊之外難儀せる為、村中の

 更に主人が奴隷を殺害した場合に、その罪は、世俗の裁判では問われないと規定する「裁判法」

   近世後期上方語におけるテルをめぐって ︵増井典夫︶ とし︑

護人はその請求が入れられなかったので、裁判官の忌避申立をした。裁判所は、忌避申立を却下する決定のなかで、﹁裁

197) ドイツにおけるラント憲法裁判の様々な展開については, Christian Starck, Verfassungsgerichtsbarkeit der Länder, in: Josef Isensee/Paul Kirchhof (Hrsg.),

を背景にも視点場の一つにもすることが大きな特徴の枯