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2.日記のなかの戦争と日常生活

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【資料紹介】

神奈川大学資料編纂室蔵〈『北村久吉日記』(昭和17年2 月1日~6月21日)〉

 齊 藤 研 也 はじめに―北村久吉とその日記

ここに紹介する『北村久吉日記』は神奈川大学の前身校である横浜専門 学校を卒業した北村久吉が記した日記である〔1〕。北村は1921(大正10)

年5月20日に生まれた。三重県宇治山田出身の北村は宇治山田中学校

(現・三重県立宇治山田高等学校)を卒業後、横浜専門学校高等商業科に 進学した。1942(昭和17)年9月横浜専門学校を繰上卒業し、日記には在 学中の1942年2月1日から6月21日までが書かれている。翻刻はその全文 である。

日記は厚手の表紙に厚口の紙を用いた横罫のノートで、「丸善」にて購 入したものと思われる。大きさはタテ21.0cm、ヨコ14.8cm のA5サイズ、

本文は黒インクのペン書きにてしたためてある。

〔1〕『北村久吉日記』は、2016(平成28)年11月21日、実弟の井上宇助氏によって神奈川 大学の卒業生組織である神奈川大学三重県宮陵会を通して、アルバムや関連書籍と ともに神奈川大学資料編纂室へ寄贈された。資料寄贈者の井上氏も横浜専門学校経 済科を1949(昭和24)年3月に卒業している。

写真1  『北村久吉日記』

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様々な学問分野において日記が重要な研究資料の一つになっていること は論を俟たない。明治後期から大正期の日本政治史における『原敬日記』

の価値はいうまでもなく、政治家や官僚、軍人、作家そして市井の人々な どにいたる多くの日記が残され後世のわたしたちはそれを活用している。

近年ではそうした近代日本の日記文化を学際的な視点から捉えようとする 試みや日記を活用した展覧会なども行なわれている〔2〕

『北村久吉日記』をここで翻刻するのは三点の理由による。一つ目。限 られた横浜専門学校期の資料に少しでも厚みを持たせ、その歴史を明らか にする糸口を見出したいからである。二つ目。この日記には戦時下の状況

〔2〕田中祐介編『日記文化から近代日本を問う』(笠間書院、2017年)。近年の日記をめ ぐる研究状況などについては、著名な人物の日記だけではなく市井の人々の日記の アーカイヴまでを視野に入れた同書の整理が参考になる(12~16頁)。横浜に関連 した展覧会についてはたとえば、横浜都市発展記念館主催・特別展「時計屋さんの 昭和日記 一青年のみた戦中戦後の横浜」(会期:2015年4月25日~6月28日、横 浜都市発展記念館)(横浜都市発展記念館編『時計屋さんの昭和日記 一青年のみ た戦中戦後の横浜』横浜市ふるさと歴史財団、2015年)。

写真2 山下公園にて同級生と写る北村久吉(前列中央)

『1942年9月横浜専門学校高等商業科卒業アルバム』

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はもちろんのこと、しかしそれだけではなく時代の様々な様相が記されて いるからである。三つ目。日記だからこそ現れる個人の思いや気質などを 残したいと考えるからである。

この日記で記されている期間は半年にも満たない。だが一日も欠けた日 がない。果たして北村は学校教練の野外演習で富士山麓を訪れたときでも 日記を持参して書いたのだろうか。北村はしばしば旅行をしている。そう した場合でも出先で書いたのだろうか。帰省しているときでもそうであろ うか。持参していたとすれば北村にとって日記を記す意味は日々の行為の なかで大きかったといえる。もとより一学生の日記をおおやけにするとい うことは個人のプライベートをさらす無神経な行為であるとの謗りを受け るかもしれない。しかし短い期間ではあるが、神奈川大学史のなかで当時 の日常をこれほど濃密に記した資料はほとんどなく一学生が記したものと いうことで、誤認はあったとしても記述内容に作為は少ないと考えれば、

以上の三点も踏まえて翻刻に値すると思われるのである。

以下、その三点を軸に『北村久吉日記』の翻刻にあたり注目される個所 を紹介していきたい。

1.横浜専門学校における学校生活

日記を横浜専門学校期の資料として学校生活に着目し読み進めている と、興味深い記述に出くわす。それは横浜専門学校の「休業日」について である。

北村は「例年ならば、開港記念日で休校であるが、今年からは廃止」

(6月2日)と書いた。この記述を手がかりに関連資料を確認すると、確 かに横浜専門学校の休日は従来、「大祭日、祝日、日曜日、創立紀〔記〕年日、横 浜開港紀〔記〕年日」、加えて「春季休業」「夏季休業」「冬季休業」であった〔3〕。 その廃止について見てみると1942(昭和17)年1月24日の「校則変更ニ関 スル協議会」にて、「横浜開港記念日ヲ削除シ他ハ現行通其ノ儘トスルコ トニ決定」したことが分かる〔4〕。北村がいう通り、学校開設以来の休日

〔3〕「横浜専門学校々則(横浜市中区西戸部町富士塚横浜専門学校)」(国立公文書館所 蔵・文部省専門学務局「横浜専門学校校則中変更認可」1930年8月15日)。

〔4〕神奈川大学資料編纂室所蔵『会議録綴其二』(大学資料編纂室編『神奈川大学史資料 集』第10集、学校法人神奈川大学、1994年、87頁)。

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が同年から削除されたのである。横浜の開港記念日は〔5〕、1858(安政5)

年に結ばれたいわゆる安政の五カ国条約に基づいて翌年横浜が開港となっ たことにちなみ、開港一周年の1860(万延元)年に催された横浜の洲干弁 財天の例大祭が開港記念日の始まりという。そして1909(明治42)年の開 港50年祭で行なわれた各種の祝賀行事が開港記念日を市行事として定着さ せる契機となり、のちに市役所や全市小学校の休日として定められていっ たといわれる。横浜にとって大きな記念日が横浜専門学校の休日であった わけである。このとき廃止した理由は残念ながら不明である。先に見た校 則変更の協議会でもとくにその理由については述べられていない。ただ推 測できるのは、1941(昭和16)年度の卒業生から、軍事上の目的を主とし て大学や高等学校、専門学校などの高等教育機関在籍者に対する在学・修 業年限の短縮、いわゆる繰上卒業が行なわれているので〔6〕、教授する時 間数の確保が理由かもしれない。ちなみに横浜所在の他の専門学校では開 港記念日を休日とはしていなかった。たとえば横浜市立であった横浜商業 専門学校(現・横浜市立大学)では学年暦のなかには開港記念日を含めて いるが、休日ではなく〔7〕、官立の横浜高等工業学校および横浜高等商業 学校(現・横浜国立大学)では学年暦にもそれは現れず休日にもなってい ない〔8〕。学校が定める休日は創立記念日がそうであるように、その学校 の成り立ちや学校方針などに深く関わっている〔9〕。貿易科を設け、校歌

〔5〕大西比呂志『横浜をめぐる七つの物語』(フェリス女学院大学、2007年)35~58頁。

ちなみに横浜の開港記念日は6月2日とされているが、開港したのは1859年7月1 日(太陰暦・安政6年6月2日)である。実は開港50年祭は7月1日に実施されて いる。同書では、太陽暦の7月1日で定着し始めていた開港記念日をなぜあえて太 陰暦の6月2日に変更してしまったのかについて解明を試みている。

〔6〕西山伸「戦時期における高等教育機関の在学・修業年限短縮について」(『京都大学 大学文書館研究紀要』第15号、2017年)。

〔7〕横浜市立横浜商業専門学校編『横浜商業専門学校一覧(昭和五年度)』(横浜市立横 浜商業専門学校、1930年)4~6頁。なお日記中の「Y専」とはこの横浜商業専門 学校のことである。

〔8〕『横浜高等工業学校一覧自昭和五年至同六年』(横浜高等工業学校、1930年)5~6 頁および13~14頁、『横浜高等商業学校一覧昭和九年度』(横浜高等商業学校、1934 年)8~9頁および19頁。なお日記中の「高商」とはこの横浜高等商業学校のこと である。

〔9〕ところで近代日本の女子教育の振興には皇室からの援助が大きな位置を占めていた。

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の第一番で「近代日本の文化の曙光/初めてまばゆく照しゝ港/港に基お く吾等の母校」〔10〕と歌われた横浜専門学校においては開港記念日を休日 とする意味は大きかったのである。

北村の学校生活は充実していたようである。日記には教員との交流や講 義の感想などが頻出する。「三浦教授の英語の時間は気分の上でぴつたり 来るものがある。大いに頑張つて教授にぶつかつて行かう。」(2月3日)

と意気込みも記される。北村にとって印象深かった教員は、貿易実践や商 業英語を担当したこの三浦運五郎や、倫理や国民道徳担当の朝比奈宗源の ようだ〔11〕。朝比奈については「教授は僧侶であるが、然し決して線香臭 いところがない。実に青年の気持を理解し指導される方だ。自分は斯る師 を持つた事を嬉しく感じるのである。」(6月1日)と書く。「教授の学識 見識は二時間を有効に過して感深い」(2月2日)と講義の感想をいう商 法や海商法などを担当した児玉正勝もそうしたうちの一人であったようで ある〔12〕。ところで神奈川大学の創立者である米田吉盛が〔13〕、1942年4月

日本女子大学校(現・日本女子大学)は、数度にわたって皇后や皇室関係者から「御 下賜金」を得ている。「御下賜金は、皇室による女子高等教育への支援と受けとめら れ、本校〔日本女子大学…引用者注〕関係者にとって力強い励ましとなった」とい う(日本女子大学編『日本女子大学学園事典―創立100年の軌跡』日本女子大学、

2001年、128頁)。試みに、日本女子大学校が「女子総合大学」を目指して1927(昭 和2)年、大学本科・高等学部を新設したときの学則を見ると、休日には「皇后陛 下御誕辰」が含まれている(「日本女子大学校学則(昭和二年三月印刷)」、日本女子 大学成瀬記念館編『日本女子大学史資料集第五―(六) 日本女子大学校規則〔大正 一三年―昭和二年三月〕』日本女子大学成瀬記念館、2014年)。

〔10〕神奈川大学創立五十周年小史編集委員会編『神奈川大学五十年小史』(神奈川大学、

1982年)45頁。校歌の作詞は土井晩翠、作曲は岡野貞一である。

〔11〕横浜専門学校における三浦運五郎や朝比奈宗源については、以下を参照。大坪潤子

「三浦運五郎」(神奈川大学資料編纂室編・神奈川大学百年史編纂委員会専門委員会 監修『神奈川大学人物誌 横浜専門学校編』学校法人神奈川大学、2018年、88~89 頁)、拙稿「朝比奈宗源」(同前40~41頁)。

〔12〕横浜専門学校における児玉正勝の詳しい事績は不明である。神奈川大学資料編纂室 にて管理する履歴書によれば、児玉は1897(明治30)年に生まれ、1921(大正10)

年に法政大学を卒業し同大学高等研究科に在学、1929(昭和4)年から二か年にわ たり英、仏、独に留学、主にロンドン大学に在学した。1931(昭和6)年帰朝しそ の後横浜専門学校に着任している。

〔13〕米田吉盛については、以下を参照。神奈川大学米田吉盛伝編集委員会編『教育は人

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に実施されたいわゆる翼賛選挙(第21回衆議院議員総選挙)にて非推薦で 当選したが、このことの印象を北村は記している(5月3日)。当時の一 学生の意見として記録しておきたい。さてほかに学生らしい記述を探せ ば、5月15日の学校創立記念日のことを書いている。創立記念日は前述の 通り休日であったが、記念式や記念祭が実施され、同時に催された運動会 や展覧会では地域住民など「多数の参観人ありて、大いに活気づく。」と 記した。学生の楽しみはいつの時代でも変わらないのである。北村の日記 は全般に自身の行為を省みた実直な筆致であることが多い。そのなかで定 期試験に関して「学年末の大試験は開始さる。正々堂々真正面よりぶつか つて行かう。貨幣、文化史、英作、余り自信がなかつた。時前のデマは憎 みて余りあるも、要は実力さへ備はつて居れば問題はない。一層実力養成 に邁進せん。」(2月23日)とあるのは微笑ましい学校生活の一場面である とともに、あとで述べる北村の現実志向の性格をよく表している。

北村はのちに海軍へ進むことになるが、日記を見ると在学中から学校教 練や野外演習に熱意を持って取り組んでいたことが分かる。学校教練とは 1925(大正14)年以降、陸軍現役将校の学校配属により男子の中等学校以 上で正課となったいわゆる軍事教練のことである。そのなかで3月9日か ら13日までの富士山麓の駒門廠舎で実施された野外演習の記述は演習の実 際を知るうえで貴重な記録といえる。

2.日記のなかの戦争と日常生活

(1)戦時下の記録―ドウリットル空襲

時代の記録として戦時下に着目して日記を見ると、北村は戦況について よく書いている。日記の舞台となる1942(昭和17)年は日本軍にとって転 機となる年であった。前半はマニラやシンガポールの占領、フィリピンは コレヒドール島でのアメリカ軍降伏などの戦果が続くが、6月になると ミッドウェー海戦で敗北、のちガダルカナル島への上陸を許す。そして年 末にはそのガダルカナル島からの撤退が決定され、この年の後半からアメ リカ軍の反攻が本格的に始まることになった。以後、日本軍は守勢にまわ り、劣勢を挽回することはできなかった。

を造るにあり―米田吉盛の生涯』(御茶の水書房、2008年)、澤木武美「米田吉盛」

(前掲『神奈川大学人物誌 横浜専門学校編』18~21頁)。

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こうした戦局は学生にとってももちろん無関心ではいられない。なぜな ら、北村が「友人の中には、徴兵検査の事で話はもちきりだ。……自分は 延期してゐるものの何時かは行かねばならぬ身だ。」(4月20日)と記して いる通り、学生はその修業年限に応じて、徴集の延期が認められているだ けで、いつ出征することになるか分からなかったからである。これから実 際に戦争の世界に身を置かなければならない者にとって、戦局は重大な関 心事であったのである。

北村はシンガポールの占領やミッドウェー海戦についてその所感を書い ているが、それ以外に「今日は自分として一生忘れられぬ日だ。」(4月18 日)と記す出来事が起きる。

午后の時半、校門の処で友人と話中、突如空襲警報だ。驚いて芝生か ら立ち上つた瞬間爆音がすると思ふ間もなく、16番講堂の空に、電柱 すれすれに米国の星印を胴体につけた、双発中翼の軽爆が飛来した。

その場にいたものは、唯、目を見張つて、中に敵機だ敵機だと叫ぶも のあり、一同丘まで敵機の後を追かけ、遠く去る敵機をぼう然と見送 つた。

横浜専門学校の16番講堂は、現在の神奈川大学横浜キャンパスの東門に 入りすぐ左側にあった教室である。空襲警報が鳴り、キャンパスのその頭 上をアメリカ軍機が低空飛行で飛来したというのだ。この空襲は日本本土 ではじめての空襲となったいわゆるドウリットル(ドゥリットル、もしく はドーリットルとも)空襲と呼ばれるものである〔14〕。アメリカ軍は真珠 湾攻撃の報復とし、アメリカ国民の戦意を盛り上げるため日本本土の空襲 を計画した。ノースアメリカン B25として知られていた航続距離の長い爆 撃機を空母から発進させ、東京などを爆撃したのち中国の飛行場などに着 陸させることにしたのである。この日、B25のあわせて16機が空襲に成功 し、東京一帯を13機が、名古屋・神戸を3機、このなかの数機が横浜市に 来襲した。北村は「搭乗者二名までを確認した」といい、「よく機銃掃射 をしなかつたものだ」と書いてその安堵感を伝える。この空襲は実際の被

〔14〕横浜市・横浜の空襲を記録する会編『横浜の空襲と戦災1―体験記編―』(横浜市、

1976年)566~567頁。

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害よりも、以前から恐れていた「帝都空襲」が現実のものになったという 心理的な衝撃のほうが大きかった〔15〕。北村はこの空襲について、翌日の 空襲警報の出来事も含めて4ページにわたり、興奮気味に記述した。本土 初空襲のショックはやはり大きかったのである。日記にはその驚きだけで はなく空襲時に果たす学生の役目についても記されている。筆者は以前 に、日中戦争後の教育機関において戦時下に対応する組織が設けられたこ とについて横浜専門学校を事例に明らかにしたことがあった〔16〕。そこで 触れた横浜専門学校報国隊に置かれた「特別警備隊」の出番はこうしたと きであったのである。北村の日記には初空襲の驚きも束の間に「吾々は直 ちに特別警備隊を組織して警戒した」とある。翌日の記述には「……空襲 警報だ。直ちに配置警備。自分は分隊長として一年生を率ひ、街に警備に 行つた。隣組、警防団の方と協力するのだ。町内会長さんの説明を聞い て、用意を終へ待期〔機〕す。」(4月19日)と記し、前日と同じように防火や防 空対策のため地域と連携するべく出動していることが分かる。ちなみに5 月6日の空襲警報の際には、応援のため「神奈川警察署」に出かけ、「交 通整理」にあたったようだ。日記はこうした活動の実際を伝え、横浜や横 浜専門学校の戦時下を知る貴重な記録になっている。

(2)時代の諸相―「旅行ブーム」と「食」

時代の様々な様相がうかがえるのがこの日記の特徴である。行き詰まる 日中戦争の打開策の一つとして太平洋戦争が始まったことは周知の通りで ある。日中戦争から続いているこうした戦時下にわれわれが持っているイ メージは戦争によって生活や情報が制限された「暗い谷間」〔17〕であるが、

〔15〕前掲『横浜の空襲と戦災1―体験記編―』566頁。被害は軽微であったといわれる が、同書によれば、横浜市で1名が亡くなっている。亡くなったのは当時5歳の中 村由郎である。頭部に当たった機銃掃射が原因であった。同書には、当時9歳であっ た由郎の兄、秀吉がのちに記した手記が掲載されている(44~45頁)。

〔16〕拙稿「横浜専門学校における報国団と報国隊」(『歴史民俗資料学研究』第13号、

2008年)。

〔17〕日中戦争以降の戦時期における文化状況を研究した赤澤史朗・北河賢三編『文化と ファシズム』(日本経済評論社、1993年)によれば、「戦前から戦中の時期は、単な る「暗い谷間」の時代だったのではない。というよりも、「暗い谷間」にもかかわら ず、さまざまな領域で文化創造の営みがあり、一定の成熟が見られた」という(4 頁)。旅行=ツーリズムもそうした営みの一つであった。

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日記を読むと北村はしばしば旅行に出かけていることが分かる。「暗い谷 間」と旅行、一見そぐわないように思われる。しかし日記を追いかけてい るとそうしたイメージに再考が促されるのである。

北村は3月4日から5日にかけて「伊豆旅行」と称し友人たちと三島、

修善寺、下田を巡った。三島では三嶋大社に寄り修善寺の温泉街で一泊 し、「温泉の気分はなかなかよいものである。部屋も美しいサービスも可 だ。写真を撮りに出る。梅が美しく又小学生のモンペが目立つ。夜は完然 警戒管制だ。何事かあつたのかな?と思ひ乍らも愉快にトランプに夜を過 して明日の天気を念じ乍ら寐についた。」(3月4日)と書き、旅行を満喫 している様子がうかがえる。帰路は伊東行きを変じて下田に向かいお土産 を購入して帰った。帰省していた4月3日には「神武天皇祭で大変な人 出」であったが、大阪に出かけている。「上六の駅前は非常な混雑」で あったという。5月になると二度ほど旅行があった。10日の日帰り旅行は 小田原へ出かけ箱根を散策するコースで、16日から17日にかけてのものは 途中まで友人の母親も交えて成田山新勝寺、香取神宮とまわり佐原に泊 まったことを記す。翌日鹿島神宮、潮来の水郷を訪れ犬吠埼まで行き千葉 を経由し、帰宅したようだ。

実は「暗い谷間」のあいだでは旅行がブームとなっていたのである。日 本で旅行=ツーリズムが成立したのは第一次世界大戦後といわれ、1934

(昭和9)年には鉄道省の旅客政策の拡大に対応して社団法人ジャパン・

ツーリスト・ビューロー(のちの公益財団法人日本交通公社、営業部門が 独立したものが現・株式会社 JTB)が誕生し、国内旅行を斡旋するよう になった。そして国も観光事業の整備を後押しする。旅行ブームはこうし た要因にも支えられていたのである〔18〕。ブームの頂点にあったのがしば らくすると迎える1940(昭和15)年の「紀元二千六百年」にまつわる神武 天皇東征神話にちなんだ橿原神宮などの「聖蹟観光」であった〔19〕。以後 も太平洋戦争緒戦の戦勝ムードもあってブームが続き、たとえば伊勢神宮 観光がピークを記録したのは1942(昭和17)年のことで内宮349万人、外 宮で430万人といわれる参拝者は1960年代にいたっても超えられなかった

〔18〕高岡裕之「観光・厚生・旅行―ファシズム期のツーリズム―」(前掲『文化とファシ ズム』所収)9~13頁。

〔19〕ケネス・ルオフ、木村剛久訳『紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム』(朝 日新聞出版、2010年)137~169頁。

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という〔20〕。実際、宇治山田出身の北村は帰省した際に伊勢神宮の参拝者 が多かったことを書き、「参宮客の多いのは驚くばかりだ。」(3月23日)、

「参宮客の数はものすごいものだ。毎日満員だ。之も四月から鉄道、電車 の料金が上る関係からかも知れない。然し正月に比敵する。」(3月29日)

と記している。ところで、北村はその帰省中のこととして「神宮御造営用 材奉曳の初式が来る十三日挙行」(4月8日)と書く。これは「お木曳き」

行事のことをいい、伊勢神宮では二十年ごとに装いを新たにする式年造営 を実施するが、その用材を運搬する行事として知られているものである〔21〕

「暗い谷間」のなかでもこうした民俗行事は実施されていたのであった。

「奉曳」当日の4月13日の記述によれば、天候にも恵まれ、家族総出でこ の行事に参加したことが分かる。また「実況放送録音班、ニュース映画班 の活動、アマチア写真班の行動も多忙だ」とあり、行事の実施はとても注 目されていたのであろう。この日の参加者は92,907人にのぼったという〔22〕。 先に述べた伊勢神宮観光のピークにはこうした行事の観光客も含まれてい るのかもしれない〔23〕

旅行だけではなく、「食」の描写も興味深いものがある。横浜市内では 1941(昭和16)年4月から米の配給制が実施され〔24〕、北村も「学生の米 配給量の方も今少し増して欲しいものだ。壮丁の身体云々の問題ある時、

将来軍中堅幹部となるべき吾人の栄養に当局は同情されると同時に何等か

〔20〕前掲「観光・厚生・旅行―ファシズム期のツーリズム―」46頁。

〔21〕文化庁文化財保護部編『民俗資料選集4 伊勢のお木曳き行事白石持ち行事』(国土 地理協会、1976年)。この1942(昭和17)年と翌年に実施された「お木曳き」行事は 1949(昭和24)年の第五十九回式年遷宮のためであったが、戦後状況のため造営は 延期となった(同書153~159頁)。ちなみに、北村が日記中にいう幼少期に体験した

「お木曳き」行事は1922(大正11)年、1923(大正12)年、1926(大正15)年の三年 度にわたって行なわれたときのことと思われる(同書126頁)。

〔22〕前掲『民俗資料選集4 伊勢のお木曳き行事白石持ち行事』158頁。

〔23〕「お木曳き」行事の前日4月12日の日記には「今日は中山教授も娘さん二人と来田さ れた。」とある。「中山教授」とは横浜専門学校で教鞭を執っていた経済学者の中山 伊知郎のことで、中山は三重県宇治山田の出身、北村と同じく宇治山田中学校の卒 業であった。まさに中山は観光もあっての帰省だったのかもしれない。横浜専門学 校における中山については、出雲雅志「中山伊知郎」(前掲『神奈川大学人物誌 横 浜専門学校編』70~73頁)を参照。

〔24〕横浜市総務局市史編集室編『横浜市史Ⅱ第一巻(下)』(横浜市、1996年)895頁。

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の処置を講じていたゞきたひ。」(5月24日)と、将来軍務につくことを理 由にしながら米の配給量が少ないことを嘆く。以後、米だけではなく野 菜、みそ、しょうゆも切符制、配給制となり物資の統制が強まっていく。

まさに「暗い谷間」のイメージである。しかし一方で、帰省中の宇治山田 では「澁谷さん達とすき焼を食べに行く。久し振りの肉でビールの味も忘 れられず、たらふく食べたのでねむくてたまらない。」(4月5日)と書 き、成田・佐原旅行では「宿の朝食もおいしく、白米と魚は忘れられな い。」(5月17日)という。横浜の南京街(中華街)では「支那料理」に舌 鼓を打つことがあり「今夜は実に珍らしいものを食べた。竜の肝、鱶の 鰭、支那料理は美味な為に悪食だと聞くが、悪食にしてもその料理は学ぶ べきだ。」(6月4日)と感想をいうのである。

北村が記してきた旅行の記述は本人からすると日常の記録であり、食に ついては特別なことであったから記したのかもしれない。しかし日記とい う生活がこまやかに描かれる資料から歴史を見るとき、こうした細部に着 目して時代を重層的に見る切り口としたいのである。

むすびにかえて―横浜専門学校卒業後

最後に注目しておきたいのは日記全体を貫く北村の内面や性向に関する ことである。日記のなかの北村は「一度振られたさいの運命は決定的のも のである。然しその運命を開拓すべき即ち振り方如何は実に現在の努力次 第である。現在をおろそかにして決してよき将来は望み得ないのである。」

(2月10日)、「自分には、大望があるのだ。一日たりとも無駄にはならな い。常に反省、努力して一日を生活しよう。」(4月12日)、「何事によらず 人の仕事は批評するものの自分がやるとなると少し考へさせられる事が 多々ある。批評にくれる者は大なる仕事はなし得ないと思ふ。」(4月23 日)と書き、常に自己の行為を省み現実に生きることを志向する。日記を 読むとそのことを強烈に感じるのである。

北村の卒業後の希望は大学へ進学することであった。旧制の専門学校は 大学や高等学校と並ぶ高等教育機関であり、卒業後は実社会に出て、学ん だ専門的技能を活かした。そうした即戦力の人材養成が専門学校の役割で あったが、さらに勉学を続ける者もいたのである。北村は「大学進学者の 推薦状について本日発表があつた。」(2月12日)、「学校長の推薦状交付の 要員に入る一層勉学して必ず目的を達せねばならぬ。」(2月20日)とその

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希望を書く。北村の日記は6月21日で記述が終わっているので、進学した のか、仕事に就いたのかそこからは分からない。

しかし北村は大学進学の道をおそらくたどることはなかった。北村は海 軍に志願し、1945(昭和20)年8月9日、茨城県の百里原航空隊から出撃し て金華山東方沖のアメリカ軍の機動部隊に特攻攻撃を行なって戦死したの である〔25〕。そしてその戦功は全軍に布告された〔26〕。北村がたどったのは 1943(昭和18)年5月29日に募集された第十三期海軍予備学生の道であっ た〔27〕。北村が学校を卒業して8か月後のことである。海軍予備学生とは、

大学の学部や予科、高等学校高等科、専門学校などの卒業者で所定の身 体検査および採用試験に合格した者を海軍の予備士官にする制度で〔28〕、 戦時の際にはそうした予備士官が現役とともに戦時編成の部隊を組織す る。北村は海軍機の搭乗員を養成する海軍予備学生の飛行科に進んだので ある。

こうした道を選択したのは北村にとって当然のことであったのだろう か。日記から推測するにおそらくそうであったに違いない。現実をいかに

〔25〕「附表第2 沖縄方面神風特別攻撃隊一覧表」(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 沖縄方面海軍作戦』別冊付図・付表、朝雲新聞社、1968年)。北村の弟である資料寄 贈者の井上宇助氏は、兄の思い出を氏が勤めていた会社 OB 会の文芸クラブ創刊誌 に掲載している(神奈川大学資料編纂室所蔵・井上宇助「戦後七十一年 我が家の 戦争」)。それによれば、終戦となり9月になって戦地の兄、北村から手紙が届いた という。そこには、「自分は沖縄戦に参加したが、なんら戦果をあげることなく、百 里ヶ原にて元気にしておる」とあり、家族は生きて帰ると思っていた。だが、10月 になって、国から特攻で戦死したという通知と、中身は空の白木の箱が届いた。こ のとき井上氏は、兄は本土決戦か敗戦を覚悟してそれに志願したと思ったという。

井上氏は、北村が海軍中尉に昇進し帰省した折に弟に言った、「国には俺が尽くすか らお前は両親に孝養を尽くし、軍隊には志願するな」、帰り際に母に「髪と爪」を渡 していったことが印象深かったと述べている。

〔26〕前掲『戦史叢書沖縄方面海軍作戦』769~770頁。

〔27〕1943(昭和18)年5月29日海軍省告示第13号(『官報』1943年5月29日)。「第十三期 海軍飛行専修予備学生総員名簿」(第十三期誌編集委員会著・編『第十三期海軍飛行 専修予備学生誌』第十三期海軍飛行専修予備学生会、1993年、351頁)。

〔28〕海軍予備学生の制度と教育については、高野邦夫編『近代日本軍隊教育史料集成解 説』(柏書房、2004年)68~74頁を参照。

(13)

生きるかが重要な北村にとって、眼前に海軍予備学生の募集があれば応じ ることに迷いはなかったであろう。このような性向は生活や習慣から培っ た個人的なものなのか、戦争が隣り合わせの時代のためか、専門学校とい う実社会と近い世界で学んでいるからなのか、日記だからこそ現れるこう した内面の分析は日記を資料とする意義の一つと思われる。内面を探るこ とができれば、たとえば大学生、高等学校生とは異なる専門学校生像を見 ることもできようし、横浜専門学校における教育の実際を考える際の助け ともなろう。しかしその分析はここでは行なわない。その作業には北村だ けではなく他の学生との比較が必要であり、それがうかがえる資料の発掘 も行なわなければならないからである。課題としてむすびにかえたい。

歴史は人の営みの集積である。人の営みを記したものが日記であるか ら、間違いなく日記は歴史の資料に成り得る。これまで述べてきた通り、

埋もれていた横浜専門学校の歴史に対する示唆、時代の記録だけではなく 時代を重層的に見る手がかり、貴重な当時の学生の心のうちなどを書き留 めた『北村久吉日記』は翻刻に値するのである。

〔謝辞〕

『北村久吉日記』をはじめとした資料をご寄贈いただいた実弟の井上宇 助氏には改めてお礼を申し上げます。井上氏は2019(平成31)年3月10日 に逝去されました。心より哀悼の意を捧げます。日記の翻刻などにあたり ましては、ご子息の井上宏氏、神奈川大学三重県宮陵会にご配慮をいただ きました。お礼を申し上げます。

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(翻刻)

昭和17年 横専3年 21才

2/1 日曜日 雪

八時頃目を覚ました。昨日相沢と約束 したので割合日曜日としては早い方だ。

窓の方に首をやると冷こい道理だ外は一 面の銀世界だ。雪はまだまだ降つて来る。

こんな日になると知つてゐたら約束しな かつたらよかつたと思ひ乍らも用意をし てオリンピックの前に出掛けた。約束の 十一時になつても来ない。彼の事だから まさか約束を破る事はないと考へて少頃 くますます降り積つて来る雪の中で待つ た。矢張彼は来て居たのだ。然もオリン ピックの中で待つて居た。待ち合せをす る時には十分なる相談をなす事が大切だ。

もう少しで約束を果さずに帰る所であつ た。

図書館は之の雪の中をもかまわず勉強 連で一杯だ。貸し出しの本は時間が後れ た為め後の祭だ。暖のとれない図書館に 本もなく何時までも居ても仕方がないの で間もなく帰途についた。

馬が雪ですべつて重い荷車が道路の真 中で立往生なのは気毒であつた。馬子は 一生懸命に縄を足に巻いてすべらない様 にして一時も早く道を開かうとするのだ がそれも無駄であつた。巡査は “ お前わ らぢ位馬をあつかふのだから作れるだら う ” と少し皮肉な面をして言つてゐたの

も変な気持がした。

雪は益〻激しく銀世界はその化粧を厚 くして来た。

2/2 月曜日 曇

今日から三学年の課程に入るのだ。卒 業繰上の為め変な気分ではあるが、新し い時間割の下に新教授の時間も何んとな く最高学年の気分がする。然し昨日迄二 年生として生活して来た自分と今日の自 分とは幾何の異があるのか。吾々の生活 の仕方こそ重大な問題なのだ。雪は夜中 から雨に変つて今日の道を汚して居る。

全く困つたものだ。靴は浸水甚だしく、

足の先から風邪をひきそうだ。

夜喜久屋に於て哲学研究班の会があつ た。“ ランケの強国論 ” に就いて小野教授 の担当である。民族と云ふものに就いて 大いに議論を闘はせた。先にも云つた如 く、吾々は社会的立場の上から自分と云 ふ者を常に考へなければならぬ。即ち自 覚の方向を生活様式に合理化する事が第 一である。

〔児〕

玉教授の商法手形法の時間は、特に 今日の時間は愉快であつた。教授の学識 見識は二時間を有効に過して感深いもの があつた。今日社会生活上不満の声ある を聞く時、教授の所謂 “ 白紙委任状 ” 提

※ 人名以外の旧字は新字に改め、〔 〕内は補記である。抹消がある場合は該当部分を

〔 〕でかこみ、該当箇所に〔抹消〕と記した。判読が不明なものなどは□で表示し た。改行は紙幅と読みやすさを勘案し、最小限にとどめた。

(15)

出の説明は至極最も事である。吾人は日 本人として生れるや否や、生命の白紙委 任状を誇りとして提出して居るのだ。総 べての生活は之の決意を以つて律しなけ ればならぬ。

2/3 火曜日 晴

雪は大部分消えて了つたが未だ諸々に 見受けられた。三浦教授の英語の時間は 気分の上でぴつたり来るものがある。大 いに頑張つて教授にぶつかつて行かう。

2/4 水曜日 晴

青空は気持がよい。地上の雪は全く消 失。新時間割の半分を過した。現在の学 課に心懸にならうとする気持は十分ある のだが、試験の方の事が気になり、つい おろそかになつて了ふ。之も転換期の性 格の一端を形成するであらう。

“ 白い壁画 ” を観たが実際教訓的で大い に感動せしめられた。之の映画によつて、

医者の仁者たる本分が理解されると同時 に、現実の医学界を思つて反省させられ る点が多々ある。

画中、会話に於て、“ 或る画家があつ た。彼は真白な壁に真白な空間を画いた。

それは誰にも見られなかつたが、彼は満 足して死んだ ” と云ふのを聞いて大いに 感ドさせられた。現今日本の凡ゆる階級 の人々が皆己が職場に於てかゝる画家の 精神を以つて生活するならば、その効果 は大なるものがあると信ずる。

2/5 木曜日 晴

午後の時間が休講になつた。グループ

一同 “ 家族 ” を観る。演技の巧妙さに実 に感嘆させられた。然し現実の社会は決 してこんな生やさしいものではなからう と想像する。操人形は生れて始めて見た が実際、芸術的な又、良心的なものだ。

死せる人形を生かして使ふところに妙味 がある。人生航路に於ても、真に自己を 生かすも殺すもその方法は同一である。

吾々は之の同一の中に生、を発見しよう と努力精進せねばならぬ。死の中にも亦 生はある。

新聞は益々重大ニュースで一杯だ。

吾人はシンガポールの陥落の一日も早か らん事を祈るものである。然しシンガ ポール陥落後に於ける心掛こそ今日の吾 人に必要なのだ。吾人は支那事変の初頭 大いに感激してその精神が幾分でも生活 面に発見されたのである。然るに大東亜 戦勃発と同時に新たなる感激は専ら大東 亜戦争の方に感じ、その作戦地域たる南 方に感激の焦点を置くは当然であるが、

今一層眼界を開展して北方の方向にも関 心を払ふと同時に、支那満洲方面の事は 一層重大なのである。

吾人の生活中、余りにも近視眼的生活 態度は大いに修正されるべきである。

気宙を大きくせよ、―。

2/6 金曜日 晴

七時半集合、査閲を受く。陸軍少将松 本標閣下臨席の下に挙行。全校生真剣に 教練を行ふ。最後の楽隊に合しての分列 行進の気持を何時も体して、時局下学徒 として之の世紀の進軍に参加せねばなら ぬ。

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査閲官の言の如く、時局下青年学徒と して “ 負荷の大任を全くする ” と云ふ覚 悟を常に体して生活すべきである。

2/7 土曜日 晴

二時間の授業で後は休講の為早く帰宅 につく。中島、長沼と靴屋に行くと、丁 度伊勢から第一生命の人が尋ねて、直ぐ 東京本社に来てくれと云ふので面倒では あつたが先日母の手紙にもあつたし、一 緒に行つた。なかなか立派な建物だ。地 上八階、地下四階で凡らく日本一であら う。身体検査を受けたが始めて、胸部の レントゲン写真を撮つた。一度見たいも のである。美松で中食をして別れた。凡 べての費用を出してくれたのには少し気 毒な気がしたが之も契約の中に予算され ている事だらうからと厚顔しく受けた。

五反田に寄つて久し振りで君子さんに会 ひ少頃らく話をして渋谷の高橋を訪れた。

耳の手術に3.5hour もかゝつた人間とは思 はれぬ位の元気であつたので安心した。

二度の手術をよくも思ひ切つて受けたも のだと感心する。

2/8 日曜日 晴、〔〔 ママ〕曇 〕〔 ママ〕

大詔奉戴日だ。新聞の詔書を奉読する。

実際感激の二字に尽きる。“ 承詔必謹 ” こ そ現今の日本臣民として一日もおろそか にしてはならない事である。毎日毎日を 之の気持を以つて生活せねばならぬ。昨 日は又米蘭の艦隊を海軍航空隊が撃沈し てゐるが、誠に皇軍将士の活躍には御礼 の言葉がない。

相沢の処で餅を食べながら種々試験に

ついて話す。丁度坪内も来て共に語る。

彼は下宿で靴を盗まれたとの事誠に気毒 だ。実際現在の如く金よりも物の世の中 では盗難位馬鹿らしいものはない。一層 注意せねばならぬ。

2/9 月曜日 晴

出席簿改正の防止策として小〔児〕玉氏印を 捺す様になつた。之は一寸考へた方法だ 然し手落は相互に認めなければならぬ。

吾人の生活は常に明瞭であり度ひもので ある。今日は大いに反省させられた。

2/10 火曜日 晴

シンガポール敵前上陸は敢行された。

待ちに待つたシンガポール陥落の日は直 ぐだ。吾人は大いにその日を感激に送る と共に一層の決心を以って遠き将来に思 を至し大いにその感激を以つて一日一日 を送るべきである。

正木大佐より教練の時間に認められた 事は気持のよいものである。訓練は普段 が大切だと感じた。“ 人生は賭博だ ” とは 児玉教授の講義中の話であるが、吾々は 如何に “ さい ” を振るかは唯、日毎の努 力による。一度振られたさいの運命は決 定的のものである。然しその運命を開拓 すべき即ち振り方如何は実に現在の努力 次第である。現在をおろそかにして決し てよき将来は望み得ないのである。

2/11 水曜日 晴

音楽堂に於て大東亜学生大会を開催。

大矢海軍大佐の講演あり。学生代表の演 説ありて後伊勢山皇大神宮に参拝す。大

(17)

いに感激す。留学生の演説は明日の東亜 を思はせるに希望を以つてした感がある。

三時より紀元節の挙式、大東亜戦争下に 迎へる紀元節は大いに意義深きものがあ る。遠く建国の代に思を至し大いに現在 の日本の理想を実現せん。

“ 希望に起きて、感謝に送れ ”

“ 国家と共に生き、国家と共に死ね ”

2/12 木曜日 晴

財政学の講義を受けた。自分としては 此の方面に最も研究をせねばならぬ。

大学進学者の推薦状について本日発表 があつた。一時的成績の結果を以つて殆 んど人生の一端を決せられてはたまらな い。吾々は大学入学の意義について今更 反省しなければならぬ。遠き将来を夢み て現実を忘れる様な事があつたら大変だ。

2/13 金曜日 晴

シンガポール攻略は益〻激烈となつて 来た。相当の犠牲もある事と思ふが吾等 は一日も早からん事を願ふのである。星 港陥落の日に備へて日の丸の旗を作る。

2/14 土曜日 晴、曇

久し振りで神谷さんの宅を訪れた。丁 度日米問題やかましい頃帰朝された親類 の方が居られて色々アメリカに就いて話 された。結局、ジュの手によって切廻さ れてゐるアメリカこそ馬鹿な国である。

ジュの政策こそ宇宙を害するものはない。

中にはすぐれた文明貢献者もあるであら うが、然し我々は最も之のジュには警戒 せねばならぬ。

2/15 日曜日 雪

昨夜戸外で雨の音を聞いたから今日は 雨降だらうと想像しながら床に入つた。

然し朝窓外に目をやると一面の白。雪か と思つて起きると、案の如く銀世界だ。

友人の所へ行くつもりであつたが何んだ か面倒臭くて中止した。約束はしていな かつたからである。

中食も抜いて床に入つたまゝ本を読ん だ。夜臨時ニュースはシンガポール陥落 を報じた。遂に来るこの報知、全国民の 感激の日、待ちに待つた一日であった。

シンガポールに凱歌はあがる。一億の 決意いよいよ固し、進め貫け米英に最後 のとゞめ刺す日まで。日本人の気持は将 に之の句に盛り上がつてゐる。我々は感 激感謝し陥落を祝すと共に大いに覚悟を 新たにして最後の勝利者とならねばなら ぬ。

2/16 月曜日 晴

昨日の雪は固く氷つてシンガポール陥 落の日を祝すが如く吾々に凡ゆる感覚を 与へてゐる。

新聞は星港陥落の記事で一杯だ。学校 でも之の話で持ちきりだ。全国到る処そ の風景は同じだと思ふ。国旗は毎戸には ためき、道ゆく人々の顔も明るい。酒、

菓子の増配、南国のプレゼント 吾人は 皇軍に満腔の感謝を表す。

午后講堂に於て校長臨席の下に祝賀式 を挙行、大いに今後の生活を戒しめられ る。

新聞子の報道は、スマトラ方面に陸海

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軍の落下傘部隊の赫々たる戦果を報ず。

吾々は日本の落下傘部隊の出現に全く 驚きと喜びを感ず。日本人すら知らなか つたのだから敵の驚きは想像に難し。日 本民族の優秀性は益々その真価を発揮す。

2/17 火曜日 晴

雪積の校庭で教練、全く北満の皇軍を しのんで実感が出る。折から飛来せる陸 軍機に対し速刻、対空射撃の姿勢体形、

等学校教練にも益〻熱が加はる。吾人の 運命はやがて戦場に発見するであらう。

卒業期繰上を味あふ吾々として一日一日 の学業こそ真剣なものがある。

夕刊はシンガポールが陥落して、昭南 島と改名された事を報じた。これで名実 共に日本のものになつたのだ。吾々の南 方基地昭南島こそ明日の日本の発展を表 徴するものでなくて何んであらう。

2/18 水曜日 晴

大東亜戦争祝賀第一次の本日吾々は武 装行進旗行列を行つた。県庁前で五専門 分列式あり、後伊勢 崎〔佐木〕町を行進、伊勢山 皇大神宮に参拝す。

実に感激の一日であつた。之の世紀の 行進に参列出来る自己の光栄は永久に記 念されるべきであらう。

学校に於て松村中将の講演を傾聴す。

「シンガポール陥落に就いて」

2/19 木曜日 曇

試験前の授業に往々見受けられる熱心 の欠乏、吾等は果して之でよいのか。現 実こそ大切だ。

下宿の炭の配給は一体どうしたのだ。

今の時期を過して何時、使ふのだ。余り にも官庁関係の仕事は円滑にゆかな過ぎ はしないか。特に今日の寒さに一層反省 される。吾々は決して不平を云つてはな らぬ事は知つてゐる。然し手続の遅速は 要は人の問題だ。誠意さへあれば解決さ れる。

2/20 金曜日 晴

学校長の推薦状交付の要員に入る一層 勉学して必ず目的を達せねばならぬ。山 田より菓子多数を送らる。直ちに手紙を 出した。之で試験中の食料も大丈夫だ。

野外演習日付発表。

3/9~3/13 富士駒門

2/21 土曜日 晴

試験前の休暇。今度の試験こそ頑張ら ねば悔を後に残すものだ。一日中、机に 向ふ。

2/22 日曜日 晴

良い天気だ。試験の事等考へたくない 位小春日和だ。早く試験が終ればと友人 と語る然し現実は矢張り現実だ。将来は 現実あつての事である。先づ頑張らう。

小林君、病気の為帰田するとの事誠に気 毒だ。彼は甲種合格者なる故一日も早く 戻の健康になられる事を切に祈る。

2/23 月曜日 曇

学年末の大試験は開始さる。

正々堂々真正面よりぶつかつて行かう。

貨幣、文化史、英作、余り自信がなかつ

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た。時前のデマは憎みて余りあるも、要 は実力さへ備はつて居れば問題はない。

一層実力養成に邁進せん。

2/24 火曜日 雨後雪

試験の日にこんなぐづついた天気は実 際憎い。民法、保険の試験を終へて出る と一面銀世界。何時の間に雨が雪になつ たのかそれも知らなかつた。

夜益〻雪は盛んに降つて来る。比較的 気温が下らなかつたのは幸だ。

時計の音が良く響く。風が出たのか屋 鳴の振動を感ず。

2/25 水曜日 曇

昨日の雪は夜中又降つたのであらう今 朝は五六寸に達して、歩行の後に深い足 跡を残した。今年は実際雪が多い。雪の 多い年は豊年だと云はれるから大東亜戦 争の物資は益〻豊富を加へん事を望む。

英語、税関倉庫の試験

朝雪の為め市電不能となり時間切迫に気 が気でなかつたが大して遅れる事なく、

学校に入つた。

2/26 木曜日 雨、曇

試験始まつて今度位天候の不順な時は ない。受験上大いに影響される。

商工政策、商業作文の試験

候文の感じもなか〔ママ〕くよいものだ。字を大 きく美しく書く。明日の銀簿が気になる。

早く床につくもねむられず、何んとなく だるい感じがする。

2/27 金曜日 雨、曇

相当早く登校頑張る。試験も後わづか だ。工業通論、銀行簿記、計算問題には、

大部困つたらしいが、幸自信があつた。

銀簿の仕訳には手こずつた。

2/28 土曜日 曇

銀行金融、商品学の試験十分の自信あ るも、採点の結果は未知数だ。

愈々試験も終幕に近づいた今一層の頑 張りを続けねばならぬ。久し振りと云つ ても一週間目だが風呂に入つてのんびり した。

健康は益〻良好だ。ベストコンデショ ンで最後まで闘はねばならぬ。

月は満月に近い。電灯のぬくもりを感 ず。

3/1 日曜日 晴

早朝勉強にとりかゝらうと思つたが遂 に正午を過ぐ。明日の三課目は大奮闘し よう。

久し振りの卵もおいしかつた。栄養に は十分注意せねばならぬ。家が実際有難 く感じる。試験が済んだり〔ら〕早速御便しよ う。

3/2 月曜日 曇後雨

十分遅刻したので相当急いで商英の答 案を書いたが、先づ満足なものであらう。

教育心理も気持よく、出来た。

愈々明日で試験も最後だ。今日は一層張 切る。

3/3 火曜日 雨後曇

最後の試験だ 商法、倫理学に有終の

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美を飾る。思へば長い試験であつた結果 の如何は問題でない。之の週間中、相当 頑張つた積りである。然し人も頑張つて いるから成績は如何に表はれるか知らな い。でもそれは未〔末〕枝未〔末〕葉の事だ。

試験は終つた。勉強は続く。

友人と明日からの伊豆方面の旅行に関し て相談を行ふ後 “ 三人姉妹 ” を観る。姉 妹愛、母親を中心とする家族愛こそ日本 独特のものである。美しきは愛の結晶だ。

3/4 水曜日 晴

伊豆旅行にはもつてこいの上天気だ。

外人墓地から富嶽の姿誠にたのもしい感 じだ。今からあの麓近くまで行くのかと 思ふと気もはずむ。八時半迄に横浜駅に 集合。中島、鈴木、小川の四人だ。汽車 の中もたのしく三島に着く。三島神社に 参拝。事代主をお 祈〔祀ヵ〕りしてある。 恵〔恵比寿ヵ〕様 の御神体である。境内もうつくしい。中 食をとつて、電車で修善寺へ。予想して いたのとは反して田舎臭のある温泉町だ。

渓流沿ひにハイキングして町に入る。仲 田館に一泊。温泉の気分はなかなかよい ものである。部屋も美しいサービスも可 だ。写真を撮りに出る。梅が美しく又小 学生のモンペが目立つ。夜は完然警戒管 制だ。何事かあつたのかな?と思ひ乍ら も愉快にトランプに夜を過して明日の天 気を念じ乍ら寐についた。

旅行は実際愉快だ。温泉に浸つて、試 験の苦労も全く忘れたゞこんこんと湧出 る湯は凡てのものを洗ひ流してくれる。

池の鯉も旅の情緒を慰めて、修善寺の鐘 の音は何んとも云へぬ、情緒的なもので

あつた。

3/5 木曜日 小雨

〔 昨ヵ〕

日に比べて何んと変化の多い天気な のだらう。時々雲間をもれる日の光をた よりに早々雨が上ればと思つた。朝湯の 気分は全く雨の事も忘れて十分温泉気分 を味ふ。伊東行のバス不通との事で下田 の方のコースを変じて一緒に帰る事にす る。町で土産の茸を買つたら藤細工の盆 を柱掛によからうと買つた。今日は富士 も見えず、途中箱根の方へ廻らうかとも 思つたが、明日又降ればつまらないから と、むなしく横浜に着いた。中島の下宿 で一泊、東京方面は今朝空襲警報が約一 時間ばかし発せられたとの事。然し日本 軍の飛行機であつたとわかつて、先づ安 心したとの事であつた。発令中、上空を 飛行機がものすごく飛び各人はすぐ配置 についたとの事で日頃の訓練が思ひ遣ら れた。街は警戒管制で暗黒だ然し渋谷の 人出は大したものだ。全く余裕があると 云へば、大変うれしいが、少し時局認識 に欠けたところはなからうかと心配する。

3/6 金曜日 晴

実際皮肉なものだ。今日の天気が昨日 と代つて行たらと思ふと残念だ。朝九品 仏寺の境内に写真を撮りに出る。午后、

村岡さんの御仏前をお参に行く。 □〔茶ヵ〕屋で 生花を買つて持つていつたら大変よろこ ばれた。実際死人のある家のさびしさは 何物にもかへられぬさびしさだ。四時頃 高橋を見舞に行く。大変元気なので安心 した。八時頃迄長居して御馳走になつた。

(21)

お母さんも大変高橋の回復によろこばれ て居られた。丁度青木が見舞に来て相沢 が試験の直ぐ後病気になったとの事で驚 いた。明日は早速見舞に行かう。

3/7 土曜日 曇

中島と共に相沢の家に行く。丁度叔父 さんが来て居られたので隣の部屋で待つ た。永井が帰つて来たのでうれしかつた。

約一年も休学した彼の事だからどうかし らと心配したが大変元気で反へつて肥え てゐるのはたのもしかつた。叔父さんの 帰りの遅いのには参つてしまった。学校 へ行つても面白くなく、お茶を飲んで戻 れば、相沢は病気も直つて元気で居たの で又安心、多分胃痙れんだったのであら う。神谷さんに御無沙汰していたので土 産を持つて行つた。十時頃迄話して、帰 つた。

自分の寐具で休む程のんびりする事は ないと感じた。のびのびと手足を伸ばし てぐつすりねこんだ。ハワイ攻撃の特別 攻撃隊九軍神の発表。誠に涙なくしては 聞けない忠勇無双の勇士だ。自分の現在 を考へて一層修養に鍛錬に精進せねばな らぬ。

3/8 日曜日 晴

一日交代で晴れたり降つたりするのが 近頃の天気模様だ。十一時起出して食事 をとる。明日からの富士山麓の演習で学 校に行く。背嚢、銃の配当あつて、帰る。

少し冷えるから十分防寒の用意をして行 かねばならぬだらう。然し要は精神の持 方如何で少し位の頑張りはきくものであ

る。

3/9 月曜日 晴

七時集合、武装して横浜駅に向ふ。今 日から五日間富士山麓駒門に於て野外演 習だ。車中、談話の中に甲〔国〕府津で乗換へ、

御天〔殿〕場に着く。浅間神社に参拝、中食を とる。さすがに田舎だけあつて、菓子も 豊富だ。多数の者が買ひに走る。九合余 の米は背嚢を通して肩にくい込む気持が する。試験で余り重い物をもたなかつた 性であらう。昨年と同じく駒門廠舎だ。

楽しいなつかしい思ひ出が又今日から五 日間の中に作られるのだ。演習はなく、

皆元気に談笑す。酒保はあいかわらず盛 況だ。しるこ三杯をつめ込む。川田と遠 い思ひ出、ロマンスを語り乍ら寐につい た。

3/10 火曜日 雨後晴

起床ラッパに飛び起きた。薄暗い筈だ 外は雨だ。今日は陸軍記念日だから非常 呼集があるだらうと予想していたが此の 雨で中止したのだらう。点呼、朝食、全 部がそろつて食べる程うまいものはない。

皆お代りをする。

軍人に賜たる勅諭の奉読あり。午后か らは分隊教練、夜間は小隊小哨の教練あ り。本日小隊長に当つた自分は、十分の 働きをなしたと思ってゐる。酒保の楽し み、昨日と同じ。

3/11 水曜日 晴

富士山が朝日に照つて何んとも云へぬ 美しさだ。実際演習地の朝のみが知る感

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じだ。勅諭奉読、ラヂオ体操、小隊戦闘 教練、夜間は中隊の夜襲動作だ。富嶽を 望んで大東亜戦争下の学徒は張切つて たゞ数ヶ月後の自己の姿を想像して演習 に参加した。砲兵学校の生徒の演習は猛 烈だ。今年の演習場は砲兵のトラックの ためものすごく掘り返されて、夜間演習 では婁〔縷〕々足をとられた。パンを買ふ友人 達は、土産にしようと盛んに買溜めを始 めている。自分は食ひ溜めの方だ。今日 は誠に遺憾な事があつた。剣を失くした 者が他人のものをすり代へて使用した事 件だ。実に卑劣極まる話だ。全員扮〔紛〕失し た剣の捜索を行つた。後で学校の職員が 発見したのでよかつたものの、若しなか つたら大変な事だ。実際扮〔紛〕失者の良心的 反省を求めたひ。吾々学徒は男らしく、

清らかな素直性を持たねばならぬ。

3/12 木曜日 晴

中隊攻撃演習に於て、B 組は、仮設敵 となる。富嶽の下日光を十分浴びて実際 楽しい演習だ。演習では決してない然し 精神の持ち様如如〔何〕によつては実に尊いも のとなる。楽しい演習とは、自己の身心 共によく耐へ得る自信を得る演習であろ う。学生の演習は遊びだと断言して了ふ のもどうかと思ふそれは、実に教練の精 神そのものを体する学生各人の心がまへ の上に於て異なるものである。

午后、学生間のみの指揮によつて、中 隊の遭遇戦を行つた。尖兵小隊の斥候と して大いに活躍した自分は、全く、カレ ヂライフの演習に於て、凡ての役を経験 出来た事は最も感謝するところである。

実際人の長となつて、人を指揮する事は 余程の修養が必要であると感じた。酒保 の盛況は、腹痛患者を多数出した。之も 本人の自覚によるものである。自己の健 康は自己が最も良く知るものである。

3/13 金曜日 晴

廠舎内外の掃除兵器の整頓、八時出発。

浅間神社に演習終了を報告参拝。車中の 人となる。五日間の演習も今日で終つた。

実に思ひ出深い廠舎生活だ。思へば之で カレヂライフ三年間の廠舎生活も終りだ。

もう二度と全員一緒にかゝる生活をする 事は出来ないのだと思ふと何んだかもの さびしい感がする。でもよく皆張切つた。

実際兵隊に行く日の近〔緊〕迫感と云ふものが、

之の五日間の生活に充満して居た様に感 じる。実に貴重な経験であつた。

横浜駅で解散田舎の素朴さと比べて大 した相異だ。都会人の欠点は実によくわ かる。戦争下の生活こそ、田舎人に学ぶ 点が多々ある。

湯にひたつて、のんびりした身を蒲団 にねこる〔ろ〕んだ感じは、やつと自分の身に なつたと云ふ気持だ。実際日本人には畳 の上でふとんに寐る気持は何んとも云へ ぬ本当に日本人たる感覚にひたる事が出 来る。それにつけても、戦地の兵隊さん の御苦労がしのばれて、吾々は一層困苦 欠乏に耐へる修業を積まねばならぬと感 じた。

3/14 土曜日 晴

野外演習から帰った体は、全く寐る事 のみと知つてゐるかの如く、太陽の一杯

(23)

入り込だ室の主は、十一時頃までも前後 不覚であつた。実際ふとんの寐心地程よ いものはないとつくづく感じた。

午后学校に出掛けて、推薦状を下附し てもらつた。兵役関係の事は出来るだけ 早く処理せねばならぬと気ばかりあせつ て、なかなか思ふ様に出来ない。兵事係 の人も多忙だからだらう う〔ママ〕がもう少し情 味があつてもよからう。

3/15 日曜日 曇

喉を少し痛めた為め、少し頭が重い。

せきがなかなか止まらないのも気になる。

午后の雲間をもれる太陽をたよりに、

残つてゐるフイルムを下宿のじゆんちや んに向けて、四枚パチリと撮る。伊豆旅 行の写真も案外そつなく出来上つたのは、

嬉しかつた。何分始めて、フイルターを かけて撮たものだけに失敗を覚悟をして いたが幸全部、調子がよかつた。

意志の勝利なるドイツ映画を観て、ドイ ツの精神的訓練のうま味、熱情を十分知 る事が出来た。ヒットラーの偉大さは実 にすばらしいものだ。日本映画今後の発 展に大なる影響暗示を含むものだ。

3/16 月曜日 雨

二時間の休講だ。少し体がだるい気が する。三浦教授の時間は実際油断も出来 ない。然し之が本当の教場態度だと思ふ。

3/17 火曜日 晴

教練の時間健康について訓話があった が実際健康第一だ。よき健康体こそ、十

分なる奉公が出来るのだ。現今の自分は 自分のものにして然らず、之れ皇国のも のである。余り身勝手な不摂せいはよき 学徒のとるべきところではない。ドイツ 映画 “ さすらひ ” を観たが実際母子の愛 程美しく又尊いものはない。又之の映画 でドイツ人の科学的生活を切に感じた。

子供にして友人の熱病に対し、先づ体温 計を買ひ然も体温表を作る等実際考へさ せられる点が多々あつた。

3/18 水曜日 晴

今日も休講が多い、之の休講時間の利 用こそ、学校当局、学生共にもつとよく 考へるべきだ。般若心経の本を読む。実 に感めい深いものがある。大いに研究し て精神修養の糧とせん。

3/19 木曜日 晴

春期休暇前最後の授業だ。居残る学生 も数へる程しかない。何んだか落着かな い気分がするのは、どうした事か。

3/20 金曜日 晴

小机から豊源寺まで五里の行軍だ。天 気に恵まれて、絶好のハイキング日和だ。

演習以来の行軍で少し靴が痛い。豊源寺 の桜はなかなか見事なものであらう。一 度桜の時機に訪れよう。長沼のもらつて 中食のむすびを食べた。実際おいしかつ た。バスで伊勢 崎〔佐木〕町まで出て、野沢屋の 版画展を見る。

相沢と一緒帰郷する予定で横浜駅に午 後十時半までに行く。十一時の山田行、

十一分の鳥羽行にも一杯で乗り込めな

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かったのでやむなく二十五分の下関行急 行に乗る。急行券を買つて、名古屋まで 立つて行くのかと思ふと残念だ。少し不 合理の様でもあるが、仕方がない。

“ 人間同志 ” を観る。哲理を含んだ映画 だけに深い感じを受けた。

3/21 土曜日 晴

夜汽車の立往生には順れているものゝ 少し疲れた。名古屋からも一杯で途中、

立つて代つてやつたが田舎の人の素朴さ は感じがよいが又一方心臓ものゝ出現は 嫌な気がする。祭日、日曜と続く今日明 日の人出は大したものだ。車中、山中の 先輩に会つた。伊勢路の風物は実になつ かしい。

家の者も相変らずで何よりだ。少し疲 れた性か人と話すのが面倒で一日中、だ まつていたひ感があつた。

3/22 日曜日 晴

実際よく天気が続く。久し振りで我家 の布団に寐込んで目を覚ましたのは、九 時過ぎであつた。何時帰つた時も一つも 変つていない家の中は何んだかものたら ない気がする。変らないとは、物の置い てある位置とかそんな事である。人の変 らないのは有難い事である。然し昔の まゝの方がよいのかも知らないが、少し 位位置の変つているのもあつてよいと思 ふ。

3/23 月曜日 晴

参宮客の多いのは驚くばかりだ。長尾 が訪れた。鉄道員になつて多忙との事。

でも働くもののよろこびと云つたものを 持つ事は、嬉しい事だらう。

3/24 火曜日 雨

張特派大使来田。丁度間際までどしや 降りの天候も大使の列車到着着前上り、

出迎への国民学校の生徒や中学生をぬれ ねずみにしなかつた事は、こゝにも天裕〔祐〕

があるのであらうか。丁度駒田先生に会 ひ、山中、高嶋両先生も元気であつた。

中学生をみると全くなつかしい気がする。

3/25 水曜日 晴

神宮御造営、御木曳の歌の練習で恒徳 は毎晩、公会堂に出掛ける。晴れの少年、

木遣子に選ばれたのだ。大いに頑張つて やる事だ。自分も幼い時のせん望の的で あつたのだ。

3/26 木曜日 晴

曳歌の練習に出掛けた。なかなか熱心 だ。然し少しく感じが悪かつた。何んだ かつまらない気がしたのは、どうした事 か。青年の少い本町は、二三人の青年団 員さんの努力に感謝した。

3/27 金曜日 晴

橋川が来た。丁度試験が終つて帰郷す るとの事。仲々元気だ。中学時代の友達 はなつかしいものだ。後十年もたてば全 く変化してしまふだらう。特に之の時代 の如く、戦争の影響は、若人の将来に大 なる変化をもたらすものである。帝大入 学者の話も出たが自分も大いにやらねば ならぬ。

参照

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