著者 崔 弘徳
雑誌名 基督教研究
巻 73
号 2
ページ 51‑69
発行年 2011‑12‑05
権利 基督教研究会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013153
シュライアマハーに対する 波多野精一の宗教哲学的解釈 1
Seiichi Hatano’s criticism of Fr. Schleiermacher’s thought based on the philosophy of religion
崔 弘徳 Hong-Duk Choi
キーワード
宗教哲学、哲学的神学、神、啓示、直観、絶対依存の感情
KEY WORDS
The philosophy of religion, Philosophical theology, God, Revelation, Intuition, The feeling of absolute dependence
要旨
本論文の目的は、シュライアマハーの宗教思想に対する波多野精一の解釈を検討す ることにある。波多野は、その歴史的位置や価値について、シュライアマハーの思想 を高く評価している。しかし、シュライアマハーの『宗教論』における「直観」と
『信仰論』における「絶対依存の感情」に対しては厳しく批判した。その批判の内容 のポイントを列挙すれば、類型論に立つ宗教哲学、人間本性の所産としての宗教、汎 神論・神秘主義、意識内に共在する神といった諸点である。
本稿では、特に、その批判の内容に不適切な面が多く内在していることを認識しつ つ、シュライアマハーの諸資料に基づき、キリスト教神学の視点をもって、その批判 内容の妥当性を究明する。
本研究を通して、波多野のシュライアマハー解釈には次のような限界があったとい うことが明らかにされると考える。第一、波多野はシュライアマハーの宗教思想に深 く根づいている神学的内実を把握しきれなかった。第二、波多野は「直観」と「絶対 依存の感情」の思想を、『宗教論』と『信仰論』の全般において解釈したのではな く、一面においてのみ解釈した。第三、波多野は、宗教一般の本質究明には最大限の
力を尽くしたものの、シュライアマハーが心血を注いだ各個別宗教の本質やアイデン ティティーについては殆ど関心を示さなかった。
SUMMARY
The purpose of this paper is to examine S. Hatano’s interpretation of the religious thought of Fr. Schleiermacher. Although Hatano highly appraised Schleiermacher’s historical position and value in religious thought, he criticized Schleiermacher strongly on the issue of ‘intuition’ in On Religion (Über die Religion / Reden) and ‘the feeling of absolute dependence’ in The Christian Faith (Der Christliche Glaube / Glaubenslehre).
Hatano’s criticism of Schleiermacher is multi-faceted, involving such diverse issues as Schleiermacher’s viewpoint on type theory (typology) in the philosophy of religion, his notion of religion as a product of human nature, his pantheistic and mystical bents, and his belief that God coexists in the interior of consciousness.
However, this paper demonstrates that there is no validity in Hatano’s criticism from the viewpoint of Christian theology based on the documents of Schleiermacher.
As a result of our study, several problems are shown to be inherent in Hatano’s interpretation of Schleiermacher. First, Hatano was not able to grasp the theological meaning in certain ideas: Although these ideas are both religious and theological, he interpreted them only from the viewpoint of the philosophy of religion. Second, Hatano’s critical observations on Schleiermacher’s The Christian Faith as well as On Religion are incomplete with regard to his interpretation of the concepts of
‘intuition’ and ‘the feeling of absolute dependence.’ Third, Hatano devoted himself to determining the essence of a general religion, but he had little interest in the essence of each particular religion.
はじめに
波多野精一(1877-1950)の宗教哲学思想は、概ねルター(M. Luther, 1483-1546)、
カント(
I. Kant,
1724-
1804)、シュライアマハー(Friedrich Daniel Ernst Schleiermacher,
1768-1834)、そしてヘーゲル(G. W. F. Hegel, 1770-1831)といった諸思想家の系列に 立つ2。その中でもシュライアマハーからの影響は看過できないほど多大である。こ れをいち早く濱田與助は、「波多野宗教哲学とシュライエルマッヘル」3という論文の中で、波多野とシュライアマハーの間にはその歴史的・体系的面で密接な関係を有し ていると、肯定的に論じている。しかしシュライアマハーと波多野における思想をそ の内実から厳密に検討・分析し、さらにはシュライアマハーの場合は神学者でもある という観点からすれば、両者の関係をそのように肯定的に捉えるものでないことが分 かる。それ故に本稿では、シュライアマハーを宗教哲学者であると同時に神学者であ ることを前提した上で、何よりもシュライアマハーに対する波多野の解釈を思想的内 実の側面から探り、またそれに関して検討する。この目的のために、波多野がシュラ イアマハーの思想をシュライアマハーの諸資料に基づいて綿密に分析・解釈したもの か、その解釈の内容には妥当性があるものか等を探る。こうした研究により、シュラ イアマハー思想に対する曲解を正すだけでなく、宗教哲学との関係における神学のア イデンティティーも、ある程度鮮明に打ち出すことが出来ると考える。特に、シュラ イアマハーの諸思想の根底には、キリスト教的動機が横たわっていることに注意しつ つ、神学、とりわけシュライアマハー用語で言えば、哲学的神学及び教義学の視点か ら、事柄と関連した諸資料を分析する方法をもって、シュライアマハーに対する波多 野の解釈への検討を試みる。
第1節 波多野の諸著作におけるシュライアマハーへの言及とその特徴
所謂、波多野宗教哲学3部作、すなわち『宗教哲学』(1935年)、『宗教哲学序論』
(1940年)、そして『時と永遠』(1943年)4において、シュライアマハーへの言及は非 常に多い。具体的に見てみると、『宗教哲学』では約11箇所5、『宗教哲学序論』では 約9箇所、そして『時と永遠』では2箇所程度である。殊に、『宗教哲学序論』におい ては17ページ(「宗序」『第三巻』、191
-
207)に及ぶほどの多くの紙幅(23、24節)を もってシュライアマハーの思想に対する解釈が集中されている。ちなみに、宗教哲学 3部作以外のものであるが、「小論」においても3箇所ほど現れる6。波多野のこのシュライアマハーに関する叙述の特徴を大きく四点にまとめておこ う。第一は、特定の思想や理論を展開する中で、シュライアマハーの思想を紹介する ことである(ibid., 191;「宗哲」『第四巻』、7参照)。第二は、一定の見解でもって シュライアマハーの思惟を分析し、その特徴を論じるもの(「宗序」『第三巻』、202参 照)、第三は、シュライアマハーの思想の評価あるいは業績を賞賛するものであり
(「小論」『第三巻』、290参照)、そして第四は、波多野自身のシュライアマハーとの立 場の相違に関して論じるものである(「宗序」『第三巻』、209参照)。以上のように波 多野は自分の諸著作において種々の事柄に渡り、様々な視点からシュライアマハーを 取扱っている。こうした諸言及に基づき、次に宗教哲学における宗教体験の事柄との
関連で、波多野のシュライアマハー解釈を探る。
第2節 本質論的宗教哲学の立場からの解釈
2-1 宗教哲学の方法論への理解
波多野は、「宗教哲学」(Religionsphilosophie)を特殊宗教、すなわち実定宗教
(
positive Religion
)を対象とする学であると規定し、その起源をカントとシュライアマハーに見出す(ibid., 232, 291)。殊にシュライアマハーは、宗教の独立性を確保 し、また個体性を強調することにより(「宗哲」『第四巻』、8)、当時の傾向であった 主知主義の宗教哲学の弊害を克服し、宗教体験を重視する高次的実在論(höherer
Realismus
)に基づく宗教本質論にも深い関心を寄せた(「宗序」『第三巻』、290)、「卓見というべき」人物であると評価する(ibid., 8)。但し、シュライアマハーにおけ る宗教理解は事実を挙げることに止まっており、本質より理解しようとする試みは見 当たらないと批判する(ibid., 156)。敷衍すれば、『宗教論』7において第五講話「諸宗 教について」(
Über die Religionen
)が取り上げられるように(ibid., 161-
164)、シュ ライアマハーは類型論的宗教哲学の立場とされる(ibid., 209)。これと関連するが、波多野は宗教哲学に関わり、神学(Theologie)と哲学(Philosophie)との相違を論 じるに止まらず、シュライアマハーをプロテスタントの傑出した神学者であり、牧師 であると論じることにより(ibid., 111
-
112,
204-
205)、シュライアマハーの宗教哲学は あくまでも神学的動機で成立したものであると主張する(「宗哲」『第四巻』、26- 28)。結局、波多野自身にとって、宗教哲学は事実に基づきながらも、事実に没入し てはならないにも関わらず(「宗序」『第三巻』、39)、シュライアマハーにおいては事 実を超え得なかったという批判が底流にあると捉えられる。2-2 心理学的所産としての「直観」及び「絶対依存の感情」
波多野は、シュライアマハーの『宗教論』における「直観」と『信仰論』における
「絶対依存の感情」(
schlechthinniges Abhängigkeitsgefühl
)とに対し一定の解釈を行 う。まず『宗教論』に有名な宗教定義、すなわち「宗教の本質は思惟でも行為でもな く直観(Anschauung)と感情(Gefühl)とである」8に目を向ける(ibid., 193-194)。ここで波多野は、シュライアマハーの宗教理解は、あらゆる主体の直観は直観される もの(対象)の影響に基づいていると認めつつも(ibid., 194)9、他方で、シュライア マハーの『宗教論』においてはカントに始まり、ドイツ哲学の特徴をなした人間精神 の創造的能力の思想を脱し切れなかったと述べる。敷衍すれば、シュライアマハーに とって宗教は「人間の本性の必然的動作の産物」10であり、また宗教体験は「本源的
創造によって生産する」11ものだということである(ibid., 198)。そこで波多野は、
シュライアマハーにおける宗教的体験による宗教本質の叙述を、「宗教の心理学的所 産」を定めたものと見なし(ibid., 193
-
194)、宗教本質の最も重要な構成要素をなす のは「神聖性」すなわち「超越性」であるのに12、シュライアマハーにおけるそう いった「先天論」、すなわちア・プリオリ(a priori)は非常に危険なものであると批 判するのである(ibid., 198-199)。シュライアマハーにおける宗教理解を心理学的側面から把握する波多野の見地は、
『信仰論』13の解釈においても見出すことが出来る。波多野は『宗教論』における
Religion
が『信仰論』においてはFrömmigkeit
に取って代わって用いられているのは、研究の対象が特に体験であることを強調するためであると指摘する(ibid., 200)。さらに『宗教論』における感情は、直観による主体の反応状態に過ぎなかった が、『信仰論』においては直観の役目を一部分引き受けたものとして現れている。そ れはまさに心理学的修正であり、感情概念をもって、心理学的に記述したのは「反省 の産物」ではなく、「自己の状態の直接的意識」であることを言うためであると論じ る(ibid., 200)。ここで波多野は、シュライアマハーが『信仰論』において、宗教を 人間の理性が造り出すものとなす思想を投げ捨てたことには注目に値するものの、宗 教の居場所を自己意識に局限し、結果的には主観主義、観念主義に傾いてしまったの は、「感情と自己意識とを全く同一視した心理学的過失」であり、宗教本質に関する 理解において著しき欠陥を露呈しているものと批判を施すのである(ibid., 204)。
2-3 汎神論及び神秘主義としての「宇宙の直観」
波 多 野 は、 シ ュ ラ イ ア マ ハ ー に お け る「 宇 宙 の 直 観 」(Anschauen des
Universums
)14に対し、感性的直観の対象と宗教的直観の対象との間の区別が曖昧であると指摘する。シュライアマハーのごとき、直観の対象をただ「全体と部分乃至個 物(das Einzelne)」 と の 相 違 と か、「 無 限 者(das Unendliche) と 有 限 者(das
Endliche, das Beschränkte)」 と の 相 違 程 度 の 説 明 に 止 ま っ て し ま う な ら(ibid.,
195)15、結果的に、「宇宙」は「全体」としても、また「無限者」としても直接に直 観されるものとなるのではないかということである。そこで波多野は、「直観」と は、表象的・具体的像を内容とするものである以上、その対象は輪郭および限定を必 要とせねばならないのに(ibid., 194-196)、シュライアマハーにおいては「無限者の 直観」という矛盾概念に陥っていて、結果的には、スピノザ(B. Spinoza,
1632-
1677)の影響による汎神論(Pantheismus)、すなわち「全体の部分においての又無限者の 有限者においての内在性の思想」に基づいていると批判するのである(ibid., 195)。
波多野によれば、こうした汎神論的世界観に宗教的性格を与える体験が神秘主義であ
るが、まさにそれはシュライアマハーの宗教思想にも内在しているという(ibid., 197)。それはまず、表現の側面から、シュライアマハーにも神秘主義的な言葉、すな わち不思議な、言語に表現できない(
geheimnisvoll
、unbeschreiblich
等)といった 形容詞が用いられることを指摘し(ibid., 197-198)、次は内容の側面から、神秘主義 とは直観により超時間的実在者、すなわち神と合一すること、さらには実体的に神と なること(『時永』、126、127)であるが、シュライアマハーの『宗教論』における「有限性の真中において無限者と一になり、一瞬時において永遠的である―宗教の不 死性はこれ」(ibid., 127)16という思想こそ神秘主義を表すものであるというのであ る。波多野は、シュライアマハーの思想が、「宇宙の直観」によって、主体の永遠性 が実現されるものと解したのである(ibid., 133)。
2-4 「絶対依存の感情」における要請としての「他者」
波多野は、シュライアマハーの『信仰論』における「敬虔」(Frömmigkeit)の定 義を、宗教の定義として捉える(「宗序」『第三巻』、199)17。そしてシュライアマ ハーにおける宗教は、「直接的自己意識」(
unmittelbares Selbstbewußtsein
)、すなわ ち「絶対依存の感情」であるが、それは単なる自己意識ではなく、そのうちに「他 者」、すなわち自己と「共に定立された他者」(das mitgesetzte Andere)の契機を含 蓄しているものである、と理解する(ibid., 200)。もちろんこの他者は、「世界内存 在」(Sein in der Welt
)としてのわれわれが自由感情(Freiheitsgefühl
)と依存感情(Abhängigkeitsgefühl)の中で交互し得る「世界」ではなく、むしろ依存性の由来
(Woher)としての「神」、敷衍すれば、世界との関係における諸感情の次元を超越 し、主体を絶対的依存の状態に置くものとしての絶対的実在者である、と波多野は把 握するのである(ibid., 200
-
203)。しかし波多野は、シュライアマハーにとっての他者とは、対象的、客体的表象では ないと批判する。波多野の論理によれば、他者が対象として与えられるならば、そこ には主体との間に対立あるいは相互関係が生じるか、あるいはただ「反省的産物」に 過ぎなくなるが故に(ibid., 201
-
202)、結局のところ、絶対依存の感情は成り立たな い。そこで波多野は、シュライアマハーにとって他者は、われわれの外なる原因でな く18、あくまでも自己の傍ら(mit)に含まれた契機として第二義的・副次的意義に過 ぎないと批判するのである。波多野にとって、宗教における最も固有な体験は、自己 と対立的に存在する無限者、すなわち「実在的他者」を体験することである。然る に、シュライアマハーにおいては、神意識より自己意識が一層重要視されているとい う訳である(ibid., 203-204)。第3節 その解釈の妥当性に関する検討
以上、述べた内容から見れば、波多野はシュライアマハーにおける宗教体験とその 論理的展開を、一面においては高く評価しながらも、他面においては厳しく批判して いる。ここでは、その批判の中で幾つかに限り、その妥当性を検討したい。第一は
「宗教哲学」と「神学的哲学」をめぐる問題、第二は宗教の根源における神の働き、
第三は超越的かつ内在的神をめぐる問題、第四は根源的啓示としてのイエス・キリス ト等の事柄をもって述べる。
3-1 「宗教哲学」と「哲学的神学」の間
波多野は、シュライアマハーの宗教哲学においては宗教的体験が重視されたにも関 わらず(ibid., 194)、宗教理論の展開においては本質論より、類型論に止まったとい う(ibid., 156;ibid., 39参照)。これ自身、適正な把握ではあるが、残念なことは、そ の理由に関して波多野が諸学体系との関係の中で論じていないという点である。以下 で、シュライアマハーの諸学体系における宗教哲学理解を探ることにより、波多野の 主張の妥当性を検討すると同時に、両者の立場の相違を明らかにしたいと思う。
シュライアマハーの『神学通論』19によれば〔哲学的〕「倫理学」(Ethik)とは、「理 念の純粋な表現」を課題とするものであって、歴史における人間精神の諸活動、例え ば国家、芸術、教会といったものの理念との関連を一般的な方法で叙述する学であ る20。ここでとりわけ、教会の理念、すなわち宗教の理念を追求する学が「宗教哲 学」である21。これは諸実定宗教における関係や相違、またその固有なものを探り、
さらには、その固有なものはそれらの諸相違に如何に関係するのかを究明することを 課題とする学である22。しかし、シュライアマハーの当時では、この宗教哲学が確立 されていなかった。さらにはそれをもってキリスト教の固有性(Eigenthümliche)を 追求するには、有効性があまりにもなかったのである23。こうした宗教哲学の未熟性 を意識しつつ、シュライアマハーは一つの短縮された方法、すなわち「弁証学」
(
Apologetik
)を試みる必要性を提起する。これは、まずは、あらゆる諸信仰様態に共通的なものの基礎を成している敬虔の本質を見出し、次には比較する方法をもって キリスト教の固有性を十全に見出すものである24。シュライアマハーがこうした学科 を構想したのは、『神学通論』で言及した宗教哲学はキリスト教の本質究明やキリス ト教会の実践と直接には無関係であって、「神学的な知識であることをやめた」学で あるが所以である。彼によれば、「キリスト教会の全現象における本質的なものを理 解することは、神学における哲学的部門の課題」である25。それでシュライアマハー は、〔哲学的〕倫理学と宗教哲学との関連や相違、さらにはそれらと神学との関連や
相違を認識しつつ、特に「哲学的神学」(die philosophische Theologie)という学科 を新たに用いる26。彼によれば、これは「キリスト教共同体の型態」と「キリスト教 の本質」における両者の区別や差異等を叙述するもので27、「批判的諸学科」28の課題 をキリスト教の立場より成し遂げる神学の一学科である。要するに、哲学的神学の課 題は、キリスト教の本質を究明し、それを規範にしてキリスト教共同体の形態を評価 することにある。一方、その本質究明は、宗教哲学の方法や成果からの借用によるだ けでなく、キリスト教の起源(新約聖書の諸文書)を探ることによってもなされ る29。以上の叙述より推察できるのは、シュライアマハーにとっては、本質論に立脚 した宗教哲学そのものが主な関心の対象でなく、まさにこの哲学的神学が関心の対象 であったと波多野は考えたのではないか―波多野は哲学的神学であると特定して言及 していないが―という点である。
3-2 宗教の根源における神の働き
波多野は、宗教体験と関連し『宗教論』において重要視されたのは神の神聖性では なく、人間の本性であると捉えた。これは『信仰論』の解釈の際、シュライアマハー の宗教理解においては神意識より、むしろ自己意識が重要視されていると批判した点 と一致する見解である。しかし、シュライアマハーにおける人間本性と宗教の関係 は、ただ心理学的にのみ捉えられない側面を有している。まず言えるのは、シュライ アマハーにおいて大前提とするのは、宗教における人間とは全く受動的立場にあ り30、また宇宙(無限者、超越的実在者)からの先行的啓示がなければ、宗教は成立 できないということである31。そういう点で、シュライアマハーにとって宗教を生み 出す人間性とは、既に宇宙からの啓示によって、言わばその宗教の根源における神の 働きと密接に関連したものであると言えよう。そういう観点で、この啓示は伝統的な 神学の事柄としての聖霊論とキリスト論との関連で解釈することができると考える。
K. バルト(Karl Barth, 1886-1968)が晩年にシュライアマハーの神学的活動を支配 していた正当な関心事は、聖霊の神学であったと述べたことがあるが32、武藤一雄は 直接に『宗教論』における「無から新しく創造される宗教」33という言葉をもって、
「自己の内なる神」(Gott in uns)としての聖霊の働きによって、真の宗教が無から誕 生すると解釈する34。もちろんこうした解釈は、聖書にも記されているように、聖霊 の働き、すなわちイエス・キリスト及びキリスト者にのみならず、非キリスト者にも 働きかける聖霊の業と一致するものである35。要するに、シュライアマハーにとって の関心事は、人間性における啓示、換言すれば人間の内での聖霊の働きによる宗教の 誕生のことであると言えよう。これは、われわれの外からの啓示、すなわち宗教体験 における絶対的実在者(他者)の神聖性(超越性)を強調する波多野と異なる側面で
ある。
それから
H.
フィッシャー(H. Fischer)は、シュライアマハーの言葉、すなわち「宗教が存在し、働く場合、宗教は固有な仕方で心情を動かし、人間の魂のあらゆる 機能を混ぜ合わせ、あるいはむしろ取り去り、そしてすべての活動を、無限者への驚 くべき直観の中に溶かし込むということを、現わさなければならない」36に目を向け る。フィッシャーは、ここで、シュライアマハーにおける「仲保者」(der Mittler)
の 観 念 を 窺 う こ と が で き る と 論 じ つ つ、 こ れ は、 後 に は「 キ リ ス ト 論 的 」
(christologisch)に満たされると言い表す37。この指摘に依拠しつつ、特に『宗教論』
の第五講話における「根源的直観」(ursprüngliche Anschauung)あるいは「キリス トの根本直観」(die Grundanschauung Christi)でもって、シュライアマハーの次の 叙述を新たに解釈することが出来よう38。シュライアマハーはこのように述べる。
「宇宙の直観の最中にある人・ ・間(der Mensch)は諸君すべてにとって尊敬と畏敬の対 象 に 違 い な い 」39が、 そ の「 人 間 」 は 他 な ら ぬ「 受 肉 し た 神 」(Gott, der Fleisch
geworden ist)である。もちろんこの「人間」、すなわち「受肉した神」は、イエ
ス・キリストを指すものである。イエス・キリストは「その無限性を捨てて、しばし ばみすぼらしい姿で人々の間に現れる」宗教であり40、神と人間との間の仲保者とし て神性(Gottheit)と人間性(Menschheit)が緊密に一致された「永遠の存在」(dasewige Wesen)である
41。以上の内容から考えるならば、波多野がシュライアマハーの叙述を心理学的に理解したのは、宗教そのものが根本的な意味においては、無限者 であると同時に有限者であるイエス・キリストの根源的な直観に基づいているとい う、シュライアマハーの思惟を十分読み取れなかった帰結であると言えるだろう。要 するに、シュライアマハーが叙述しようとしたのは、イエス・キリストこそ真の宗教 であり、さらにはそのイエス・キリスト及び個別人間における聖霊の働きにより宗教 が誕生するということであろう。
波多野は、『信仰論』における「絶対依存の感情」も心理学的に解釈したが、もち ろんそれは
G. ヘーゲルの解釈に従うものであると言える。ヘーゲルは、シュライア
マハーにおける「感情」を、ただ人間性における要素のごとき把握し、感情を最も強 く自己の中に有し生を営む犬こそ、最も優れたキリスト者であろう、とシュライアマ ハーを批判したのである42。波多野が、「絶対依存の感情」を「われわれ」が「自己 の全存在を挙げて」「依属の状態にあるものとして自己を意識」(ibid., 201)すること であると捉えるのも、同様の次元である。これに関する詳述は第3節、3-
4のところで 論じる。3-3 超越的かつ内在的神
波多野は、『宗教論』における「宇宙の直観」の概念でもって、シュライアマハー の思想には汎神論が横たわっていると批判した。もちろんこうした批判は、『宗教論』
第一版が出された際にもなされたもので、既にシュライアマハーは「リュッケへの手 紙」43の中で反駁したことがある。それによれば、神において偶然的なものは一切な いということ、また、敬虔を軽蔑する人たちにおいても敬虔が存すると弁証すること であった44。今日において
H.
キュンク(H. Küng
)は、『宗教論』に関する叙述の中 で、一般に提起される汎神論という嫌疑は妥当でないと言及し、シュライアマハーに とって根本的に肝要な点は「宗教の固有な、真の『対象』は、有限な存在の中に現わ される無限な存在、神的生命と行為である」と述べつつ、シュライアマハーの立場は むしろ「万有在神論」(Panentheismus
)と呼ぶべきであると主張する45。但し、私見 と し て は、 シ ュ ラ イ ア マ ハ ー は 自 身 を「 実 在 的 超 自 然 主 義 者 」(reellerSupranaturalist)であると名付けられることを好んだ如くに
46、彼を「超越的かつ内在的」あるいは「内在的かつ超越的」神の存在を論じた人物として見なすべきである と考えたい。
シュライアマハーは神秘主義者であるという波多野の批判も妥当ではない。もちろ ん『宗教論』においては、所謂、有限者の無限者との体験的合一のように見られる箇 所が幾つか存する。例えば、「私は無限世界の胸にもたれかかる。その瞬間、私は世 界の魂だ。世界のあらゆる力、無限の生命を自分自身のもののように感じているから だ。その瞬間、私は世界のからだだ。......〔中略〕この瞬間こそ、宗教が花咲く瞬 間である」47といったものを挙げることができる。しかし『宗教論』において、こう した神秘的体験に関する叙述は主流をなすものではなく、極めて限定されたものであ る。また宗教哲学において、あるいは宗教の本質を究明するに当たり宗教体験が無視 できないものであるならば、神秘的表現が全く除外されるわけではないことである。
それ故に、シュライアマハーにおける幾つかの神秘的表現をもって、神秘主義とか神 秘主義者であると批判することは、妥当ではない。当然のことであるが、キリスト教 信仰においても「神秘的」要素は欠かすことのできない事柄であって、例えば「わた しは、キリストと共に十字架につけられています。......キリストがわたしの内に生 きておられるのです。」48といったものを挙げることができよう。これは「神秘的な」
(mystisch)もので、「神秘主義」(Mystik)ではない49。波多野にとって神秘主義は、
主体が「神と成る」ことによって「永遠性」を得るものである。しかしシュライアマ ハーにとっては、主体が無限者と実体的に合一する、神となるということは見当たら ないのである。なぜなら、その無限(永遠)における有限な存在者とは、根本的意味 でイエス・キリストを意味するからである。敷衍すれば、イエス・キリストは「神と・
成・る・」存在者ではなく、永遠の昔からずっと「神で・あ・る・」(もちろん同時に人間でも ある)存在者なのである。ヨハネ福音書10章30節では、そのイエスが「わたしと父と は一つである」と述べる。すなわち、永遠性と時間性、無限性と有限性、超越性と内 在性を同時に有しているイエス・キリストが、その父なる神と「一つ」であることを 論じるものである。
3-4 自己啓示としてのイエス・キリスト
波多野は、シュライアマハーにとって他者としての神は対象的・超越的存在者では なく、ただ存在していると仮定・要請し得る程度の存在者であると批判した。もちろ んこうした批判も、やはり『信仰論』の中心に置かれているのはキリスト論であるこ とを看過した結果であると言えよう。キュンクが指摘したごとく、シュライアマハー の『信仰論』におけるキリスト論的諸言明は、正統教義学にその座を有しているもの であるが故に、「自己意識」を単に個別人間における意識そのものに捉え、そこには 対象としての他者が存在していないと批判するのは妥当ではない。キュンクによれ ば、『信仰論』におけるキリスト論は、「永遠かつ無限なる者が、自分自身の絶対的権 能をもってイエスの自意識の中に、それを破壊せずに現存された」50ということであ る。こうしたキリスト論中心の理解は、既にシュライアマハーにおいても現れたもの である。彼は、当時の人々が自分の「神意識」を誤解していたことに対し、「リュッ ケへの手紙」の中で弁明を行なった。「このキリストは、私の唯一の関心だ......観 念のキリストのことを言っているのです。つまり、それは人間とはいかにあるべきか という模範と神意識の両者であるところのものを指しているのです」51。言ってみれ ば、神性と人間性の統一的存在としてのイエス・キリストを論じるものなのであ る52。
それを参照しつつ、シュライアマハーの『信仰論』におけるキリスト理解を一層具 体的に探ってみよう。彼によれば、イエス・キリストは救贖者(Erlöser)として、
「人間的本性と同一性によってすべての人間に等しいが、しかし救贖者たる神意識の 不変の強力さによってすべての人間から区別される」存在、すなわち真の神と真の人 間が相互関係し合っている存在である53。すなわち、パウロにおいては「神がキリス トの中に存在した」(Gott war in Christo)、またヨハネにおいては「言葉が肉となっ た」(das Wort ward Fleisch)と表現される、要するに、「人間的活動」のみならず、
「神の存在(
Sein
)」が固く結び付けられている救贖者なのである。それ故に、シュラ イアマハーにおける自己意識と神意識は不可分の関係にあり、真の人間としてのイエ スの神意識は、「神の真の存在」(ein wahres Sein Gottes)あるいは「神の本来的存 在」(ein eigentliches Sein Gottes)を表すものである。ここでは一般の個別的人間とイエス・キリストとは徹底に区別される。前者の場合は、「不明瞭かつ微弱な」神意 識を有しているが、後者の場合は「全く明瞭な、かつあらゆる契機を絶対的に規定」
する神意識を有しているのである。そういう点でイエス・キリストは、あらゆる人間 にとっての「模範」(Vorbild)でありながら、同時にあらゆる人間に働きかける神意 識の「原像性」(Urbildlichkeit)を有する、無罪性(Unsündlichkeit)の存在なので ある54。
シュライアマハーの啓示理解では、この救贖者たるイエス・キリストは「神の根源 的啓示」(eine ursprüngliche Offenbarung Gottes))、換言すれば「キリストにおける 神の啓示」(Offenbarung Gottes in Christo)を指す。敷衍すれば、神が「キリスト に、 ま た キ リ ス ト に よ っ て 」 自 分 自 身 を 啓 示 す る、 神 の「 自 己 啓 示 」
(
Selbstoffenbarung
)である55。こうした考察からすれば、シュライアマハーの「絶対依存の感情」における「共に定立された他者」というのは、イエス・キリストにお いて存在する神を指すものに他ならない。ここで、自己啓示であるイエス・キリスト 自身が神でありながら、三位一体の関係の中に存する存在であれば、イエス・キリス トにおける神は必ずしも対象的・超越的にのみ存在するのではないはずである。こう した観点から見る際、波多野が「絶対依存の感情」における他者は、対象的・超越的 でもないし、ただ要請された存在に過ぎないと解釈したのは、シュライアマハー思想 における神学的構想や叙述を看過したものと言わざるを得ない。
結び
波多野は宗教哲学的諸著作の中で、シュライアマハーを優れた神学者であると積極 的に評価しつつ、何よりシュライアマハーを宗教哲学の側面からその歴史的に重要な 位置に関して高く評価した。後者の一例として挙げられるのは、宗教哲学における宗 教体験や宗教の具体的個別性を強調することにより、歴史上宗教哲学における主知主 義を克服したという点である。しかし波多野がシュライアマハーの思想における具体 的な事柄に対しては、非常に批判的であった。波多野のシュライアマハー解釈の大半 は、『宗教論』における「直観」と、『信仰論』における「絶対依存の感情」に集中し ているが、一言でいうと、宗教における神聖性すなわち超越性が欠如しているという ことである。それが故に波多野は、シュライアマハーの宗教理解においては宗教の心 理学的所産、汎神論や神秘主義、さらには意識の中に要請された神といった否定的な 諸事柄が内在していると批判しなければならなかったのである。
もちろん前述したように、波多野のシュライアマハーへの批判的解釈は、シュライ アマハーの思想を十分に読み取れなかった結果であると言えよう。それでは、なぜ波
多野は、シュライアマハーの思想を十分把握し切れなかったのか。次に幾つか考えて みたい。第一は、アプローチの相違の問題である。言ってみれば、波多野は宗教哲学 者であるが、シュライアマハーは宗教哲学者であると同時に神学者である。当然の帰 結ではあるが、シュライアマハーの思想においては、神学と哲学が密接に関係し合っ ている。ここでシュライアマハーと波多野の間には、宗教哲学の方法論における大き な相違が現れるのである。要するに、波多野が本質論の立場から諸宗教一般における 本質を追求したのに対し、シュライアマハーは類型論の立場、すなわちキリスト教や 哲学的神学の立場から宗教哲学の成果を援用しつつ、あくまでも個別宗教としてのキ リスト教の本質を追求した。それ故に、シュライアマハーにおける宗教体験の諸概念 は、ただ宗教哲学的にのみ解釈されるものではなく、むしろ神学的にも解釈されねば ならぬものである。ここで波多野のシュライアマハーへの解釈の限界が露呈される。
敷衍すれば波多野は、シュライアマハーにおいて神学的な動機が内在している諸概念 や諸思想を神学の視点から十分に、妥当に解釈することができなくて、ただ宗教哲学 の次元で一面的・断片的にしか把握することができなかったのである。その結果現れ た大きな問題点は、シュライアマハーにおける宗教本質を理解するに当たり、啓示に おける聖霊の働きや自己啓示としてのイエス・キリストの存在を見失ってしまったの である。第二は、シュライアマハーのテキストの分析の問題である。波多野は少なく ともシュライアマハーの『宗教論』と『信仰論』のテキストを全体的に、また綿密に 分析したとは言い難い。一例を挙げれば、『宗教論』における「直観」の事柄を解釈 するに当たり、第二講話「宗教の本質」における「直観」を重要視しながらも、第五 講話「諸宗教について」における根本直観としてのイエス・キリストに関する事柄に はあまりにも目を向けていない。同様のことは『信仰論』においても起こる。「絶対 依存の感情」をただ一般の個別的人間の次元で解釈し、従って対象としての超越的神 が論じられていないと批判するが、その根本的意味におけるイエス・キリストに関し てはあまりにも触れていない。シュライアマハーにおいて「直観」と「絶対依存の感 情」といったものは、一般の個別的人間に適用される場合は、宗教の普遍性を表すも のでもあるが、根本的意味におけるイエス・キリストを中心とした事柄として適用さ れる場合には、特定宗教の独自性、すなわちキリスト教の固有性を表すものとなる。
波多野はあくまでも諸宗教一般の本質を強調する立場であるが故に、「直観」と「絶 対依存の感情」における特定宗教の独自性を表す側面まで掘り出すことができなかっ たのではないか。第三は、文化的背景の問題である。波多野の東アジア人としての視 点が、シュライアマハー解釈に深く反映されているのではないかということである。
東アジア、殊に日本の場合は宗教多元的状況が大昔から存在してきているし、それと 関連した宗教哲学も発達していると言えよう。こうした状況の中で生き、学問を営ん
でいた波多野は宗教哲学を通じて、諸宗教一般の本質を追求することに心血を注ぎ、
現実的には諸宗教間における「一致」の問題に力点を置いたものと考えられる。反 面、シュライアマハーの場合はヨーロッパ人として、所謂キリスト教的文化の中で生 き、学問を営んだが故に、諸宗教における本質や関係性等を意識しつつも、あくまで も個別宗教としてのキリスト教の本質や現象の問題に取り組んだのではないだろう か。今日の宗教多元的状況においても、否、おいてこそ、シュライアマハーのように 諸宗教一般の本質の問題に留まらず、各個別宗教の本質の問題をも強く意識しなけれ ばならないと考えるのである。なぜなら、諸宗教一般の本質のみを追求するならば、
各個別宗教のアイデンティティーが不明瞭となり、結果的には個別宗教の存在理由が 希薄になってしまう恐れが存するがゆえである。例えば宗教間の対話においても、も し各個別宗教が自分のアイデンティティーを明確に持たない場合は、それは対話では なく、単なる遊びないしは混合し合うことに過ぎないであろう。
以上を鑑みて、波多野のシュライアマハー解釈には最初から妥当でない、あるいは 断片的な解釈しか遂行できない限界を有したものであったと言わざるを得ない。シュ ライアマハーにおける宗教・キリスト教思想を適正に解釈するには、何よりも解釈者 自身が宗教哲学的視点のみならず、神学的視点をも有していなければならないと考え る次第である。
注
1 本論文は、日本組織神学会と日本シュライアマハー協会のコラボレーション企画シンポジウム(2011 年、9月5日/同志社大学)での研究発表に要約・訂正をしたものである。
2 西谷啓治「波多野先生のこと」松村克己、小原国芳(編)『追憶の波多野精一先生』玉川大学出版 部、1972(昭和47年)、54頁。また日高第四郎「恩師の面影」松村克己、小原国芳(編)『追憶の波多 野精一先生』、180頁、宮本武之助『波多野精一』日本基督教団出版部、1965(昭和40年)、79頁を参 照。
3 濱田與助「波多野宗教哲学とシュライエルマッヘル」『哲学研究』〔第35巻、第8冊、第406号、1952
(昭和27年)3月〕、京都大学文学部京都哲学会、16-30頁参照。
4 本稿では、「宗教哲学序論」は波多野精一『波多野精一全集(第三巻)』岩波書店、1949(昭和24年)
(以下、「宗序」『第三巻』と表記する),「宗教哲学」は波多野精一『波多野精一全集(第四巻)』岩波 書店、1949(昭和24年)(以下、「宗哲」『第四巻』と表記する),「時と永遠」は波多野精一『時と永 遠』岩波書店、1943(昭和18年)(以下、『時永』と表記する)をそれぞれ用いる。ちなみに後の『全 集』においては、「宗教哲学序論」は波多野精一『波多野精一全集(第三巻)』岩波書店、1968(昭和 43年)に、「宗教哲学」と「時と永遠」は波多野精一『波多野精一全集(第四巻)』岩波書店、1969
(昭和44年)にそれぞれ含まれている。波多野精一『宗教哲学体系:宗教哲学序論・宗教哲学・時と 永遠』書肆心水、2007も適宜参考する。
5 以下で取り上げる諸箇所の数は、注のところを含めたものである。
6 「小論」は、波多野精一『波多野精一全集(第三巻)』岩波書店、1949(昭和24年)、223-309頁に収録 されている(以下「小論」『第三巻』と表記する)。これには六つの小論文が含まれている。「小論」
『第三巻』、232頁;「小論」『第三巻』、290-291頁;「小論」『第三巻』、297頁等を参照。
7 Fr. Schleiermacher. Über die Religion; Reden an die Gebildeten unter ihren Verächtern(1799), 7. Aufl.
Göttingen: Vandenhoek & Ruprecht 1991(以下、Redenと略す);高橋英夫訳『宗教論:宗教を軽ん ずる教養人への講話』筑摩書房、1991、佐野勝也・石井次郎共訳『宗教論』岩波書店、1995を参照;
波多野は、Redenを『宗教に関する講演』あるいは『講演』と名づけるが、本稿では『宗教論』と表 記する。
8 Reden, S. 50; “Ihr Wesen ist werde Denken noch Handeln, sondern Anschauung und Gefühl.”
9 Reden, S. 55; “Alles Anschauen gehet aus von einem Einfluß des Angeschaueten auf den Anschauenden, von einem ursprünglichen und unabhängigen Handeln des ersteren,……”.
10 “……so ist es ein Produkt der menschlichen Natur, gegründet in einer von ihren notwendigen Handlungsweisen oder Trieben,…….” Reden, S. 22.
11 Reden, S. 48; “……und in geistigen Dingen ist Euch das Ursprüngliche nichts anders zu schaffen, als wenn Ihr es durch eine ursprüngliche Schöpfung in Euch erzeugt, und auch dann nur auf den Moment, wo Ihr es erzeugt.”
12 もちろん波多野も神の内在性を全く否定するわけではない。「宗序」『第三巻』、57-58、62-63頁。ちな みに「神聖性」に関しては、「宗哲」『第四巻』、212頁以下を参照せよ。
13 以下、『信仰論』の原典の第一版は、Fr. Schleiermacher. KGA, 1/7, 1=Der christliche Glaube nach den Grundsätzen der evangelischen Kirche im Zusammenhange dargestellt(1821/22), Teilband 1, hg.
v. Hermann Peiter, in: Fr. Schleiermacher: Kritische Gesamtausgabe I. Abt. Band 7, 1. hg. v. Hans- Joachim Birkner…―Berlin/New York 1980( 以 下、CG1と 略 す ) を、 第 二 版 はFr. Schleiermacher.
Der christliche Glaube nach den Grundsätze der Evangelischen Kirche im Zusammenhange dargestellt
(1830/31), 7. Aufl., hg. v. Martin Redeker, Berlin/New York 1999(以下、CG2と略す)を用いる。
14 Reden, S. 55参照。
15 “und so alles Einzelne als einen Teil des Ganzen, alles Beschränkte als eine Darstellung des Unendlichen hinnehmen, das ist Religion;…… ” Reden, S. 56.
16 原文は次のとおりである。“Mitten in der Endlichkeit eins werden mit dem Unendlichen und ewig sein in einem Augenblick, das ist die Unsterblichkeit der Religion.” Reden, S. 133.
17 CG2, I, S. 14, §3, Leits.―“Die Frömmigkeit, welche die Basis aller kirchlichen Gemeinschaften ausmacht, ist rein für sich betrachtet weder ein Wissen noch ein Tun, sondern eine Bestimmtheit des
Gefühls oder des unmittelbaren Selbstbewußtseins.” 私訳;「あらゆる教会共同体の基礎をなす敬虔と は、純粋にそれだけで考察するならば、知識でも行為でもなくて、感情の、あるいは直接自己意識の 一様態である」。§4, Leits.―“……also das sich selbst gleiche Wesen der Frömmigkeit, ist dieses, daß wir uns unsrer selbst als schlechthin abhängig, oder, was dasselbe sagen will, als in Beziehung mit Gott bewußt sind.” 私訳;「(敬虔の多様な表現にも関わらず、それらにおける共通なもの、すなわちその 共通なものによってこの敬虔は同時にあらゆる他の諸感情と異なる)。従って敬虔の自己同一的本質 は、これである。すなわちわれわれがわれわれ自身を絶対的に依存するものとして、あるいは、換言 すれば、神との関係に存するものとして意識することである」。
18 CG2, I, §4. 1, S. 14を参照。
19 Fr. シュライアマハー(加藤常昭・深井智朗共訳)『神学通論(1811年/1830年)』教文官、2009。こ の訳書は第一版(1811年)と第二版(1830年)の合本となっているが、第一版の内容は25-119頁に、
第二版の内容は121-268頁に収録されている。以下の表記では、『神学通論』(第一版)、『神学通論』
( 第 二 版 ) と 区 別 し、 ペ ー ジ を 付 け る。 原 典 の 第 一 版 は、Fr. Schleiermacher. KGA, 1/6=Kurze Darstellung des theologischen Studiums zum Behuf einleitender Vorlesungen, Berlin 1811, in: Fr.
Schleiermacher: Kritische Gesamtausgabe I. Abt. Band 6, hg. v. Hermann Fischer... ―Berlin/New York 1998((以下、KD1と略す), S. 243-315に収録されている。また、第二版はFr. Schleiermacher.
KGA, 1/6=Kurze Darstellung des theologischen Studiums zum Behuf einleitender Vorlesungen, Berlin 1830, in: Fr. Schleiermacher: Kritische Gesamtausgabe I. Abt. Band 6, hg. v. Hermann Fischer... ― Berlin/New York 1998(以下、(KD2と略す), S. 317-446に収録されている。
20 KD1, §6, S. 257, KD2, §23, S. 334. u. §35, S. 339;『神学通論』(第一版)、41頁及び『神学通論』(第 二版)、138、143頁を参照。ここで言う「倫理学」は、「哲学的倫理学」(phiolosophische Ethik)を 指す。
21 S. W. Sykes, “Schleiermacher and Barth on the Essence of Christianity”, ed. by James O. Duke and Robert F. Streetman, Barth and Schleiermacher: Beyond the Impasse?, Philadelphia: Fortress Press, 1988. p. 94参照。
22 CG1, §7,2, S. 24―「各々の信仰様態の関係を規定し、またその諸信仰様態を類似性及び等級に従っ て総括することは、普通に宗教哲学と呼ばれる、学問的歴史学における一つの分野の真の課題であろ う」。KD2, §23, S. 334の私訳、『神学通論』(第二版)、137-138頁参照;「諸信仰共同体(fromme Gemeinschaften)という概念を更に展開することは、一定の宗教共同体が他の宗教共同体とどんな ふ う に、 ま た ど の 程 度 ま で 相 違 し 得 る か、 同 時 に、 歴 史 的 に 与 え ら れ て い る 諸 信 仰 団 体
(Glaubensgenossenschaften)の固有なものがこうした諸相違に如何に関係するかを、生み出すこと でもなければならない。そしてこのために宗教哲学に特定の場所が存する」。KD2, §43, S. 342;『神 学通論』(第二版)、147頁も参照。
23 CG1, §7,2, S. 24;『神学通論』(第二版)、131、137-138頁参照。
24 CG1, §7,3, S. 24-25.
25 KD1, §25,S. 253, §4, S. 256, KD2, §24, S. 335;『神学通論』(第一版)、36、41頁、『神学通論』(第 二版)、138頁等を参照。
26 KD1, §17,S. 258, KD2, §38, S. 340;『神学通論』(第一版)、43頁、『神学通論』(第二版)、144頁参 照。
27 KD2, §24, S. 335;『神学通論』(第二版)、138頁。KD1, §25,S. 253;『神学通論』(第一版)、36頁参 照。
28 シュライアマハーは弁証法的構造において、精神(人文)科学の領域である(思弁的)倫理学
(Ethik)と(経験的)歴史学(Geschichtskunde)との間に、批判的諸学科(kritische Disziplinen)
と技術的諸学科(technische Disziplinen)を付け加える。これらの特徴は、一方では倫理学から生 じ、他方では歴史学に関係しつつ、思弁と経験の間にその場所を占めるという点である。殊に、批判 的諸学科の課題は、歴史的に与えられたものを思弁的に展開された形式世界に関係して吟味するとい う点に存する。シュライアマハーは、批判的諸学科として宗教哲学、美学、国家論(Staatslehre)、
法 哲 学、 文 法 学(Grammatik) 等 を 挙 げ る。 こ の 内 容 に 関 し て は、Fr. Schleiermacher. Ethik
(1812/13), hg. v. Hans Joachim Birkner, Hamburg 1990, 5-18, 特にS. 12; Hans-Joachim Birkner.
Schleiermachers christliche Sittenlehre, Im Zusammenhang seines philosophische-theologischen Systems. Berlin 1964, 34-35を参照せよ。
29 シュライアマハーは、キリスト教の本質を新約聖書の諸文書にも求める。なぜならそこにはキリスト の活動やキリスト教の基礎を据えた弟子たちの共同活動が記録されているからである。そういう点で シュライアマハーは釈義神学を哲学的神学に属すべきものとして見なす。KD1, §24,S. 269, §§1, 2, 6, S. 271-272;KD2, §§103-105, S. 365-366;『神学通論』(第一版)、58、61-62頁、『神学通論』(第 二版)、172-173頁を参照。
30 Reden, S. 50参照; “……von seinen unmittelbaren Einflüssen will sie sich in kindlicher Passivität ergreifen……”.
31 Reden, S. 56; “So die Religion; das Universum ist in einer ununterbrochenen Tätigkeit und offenbart sich uns jeden Augenblick.”
32 Karl Barth. “Nachwort”(1968), in: Schleiermacher-Auswahl. Mit einem Nachwort von Karl Barth.
Besorgt v. Heinz Bolli, 2. Aufl. Gütersloh 1980, 311;J. ファングマイアー(加藤常昭・蘇光正訳)
「シュライエルマッハーとわたし」『神学者カール・バルト』日本基督教団出版局、1973、135-136頁。
33 Reden, S. 311参照; “Aus dem nichts geht immer eine Schöpfung hervor,……”
34 武藤一雄『神学的・宗教哲学的論集III』創文社、1993、139頁。しかし武藤は、ヴォバーミンがシュ ライアマハーの神学を主観主義とか意識神学ではないと弁証したと紹介しながらも、シュライアマ ハーの神学において神は「自己意識の糸(Korollarium)」となっているが故にやはり主観主義、心理 主義、意識神学であるという批判を免れ難いと述べる。これに関しては武藤一雄『神学的・宗教哲学
的論集III』、118-119、121頁参照。
35 「ヨハネによる福音書」『新共同訳聖書』(日本聖書協会、1988)、16章7-13節参照(以下聖書からの引 用は、『新共同訳聖書』を用いる)。
36 “Wo sie ist und wirkt, muß sie sich offenbaren, daß sie auf eine eigentümliche Art dau Gemüt bewegt, alle Fuktionen der menschlichen Seele vermischt oder vielmehr entfernt und alle Tätigkeit in ein staunendes Anschauen des Unendlichen auflöst.” Reden, S. 26.
37 Hermann Fischer. Friedrich Schleiermacher, München 2001, 52.
38 Reden, S. 291ff.を参照せよ。
39 Reden S. 235;傍点は筆者のもの。
40 Reden, S. 237-238.
41 Reden, S. 293;他のところでは、この仲保者は無限と有限に同時に属し、「神的本性」と「有限の本 性」とを有している存在であるという。Reden, S. 302参照。
42 F. W. Kanzenbach. Schleiermacher, ro/ro/ro 1967, 70より再引用。
43 ジェームズ・デューク、フランシス・S・フィオレンツァ(松井睦・上田彰訳)『シュライエルマッ ハーの神学』ヨベル、2008;この中に、「リュッケへの第一の手紙」と「リュッケへの第二の手紙」
が 含 ま れ て い る。 原 典 は、Fr. Schleiermacher. KGA I. 10=Dr. Schleiermacher über seine Glaubenslehre an Dr. Lücke. in: Fr. Schleiermacher: Kritische Gesamtausgabe I. Abt. Band 10, hg. v.
Hans-Joachim Birkner…―Berlin/Newyork 1990(Dr. Schleiermacher über seine Glaubenslehre an Dr.
Lücke, Erstes Sendschreiben, S. 309-335; Zweites Sendschreiben, S. 337-394)を参照。
44 J. デューク・Fr. S. フィオレンツァ(松井睦・上田彰訳)「リュッケへの第一の手紙」、90-98頁。
45 한스 큉(이종한 역)『그리스도교: 본질과 역사』(경북 : 분도출판사, 2002), 864 ‐ 865쪽;〔H. キュ ンク(イ・ジョンハン訳)『キリスト教:本質と歴史』(慶北:ブンド出版社、2002)、864 ‐ 865頁。〕
46 J. デューク・Fr. S. フィオレンツァ(松井睦・上田彰訳)「リュッケへの第二の手紙」、162頁;「それ 故に、私は超自然的なものが同時に自然的なものでもあるという立場に自分が位置づけられることを 好みます」。
47 Reden, S. 74-75参照。
48 「ガラテヤの信徒への手紙」、2章19-20節参照。
49 もちろん波多野も「宗教的体験の秘儀(Mysterium)」を全く否定はしない。「宗序」『第3巻』、63-64 頁参照。ちなみに、神と直接的に統合(融合)し、そういう宗教的体験に没頭するという意味での神 秘主義は、キリスト教においては異端視されるもので、否定的に取扱われる。こうした内容に関して は、『ブリタニカ国際大百科事典』(小項目電子辞書版、2006年)を参照。
50 한스 큉(이종한 역)『그리스도교: 본질과 역사』, 873, 876쪽;〔H. キュンク(イ・ジョンハン訳)
『キリスト教:本質と歴史』、873、876頁。〕
51 J. デューク・Fr. S. フィオレンツァ(松井睦・上田彰訳)「リュッケへの第一の手紙」、87頁;Fr.
Schleiermacher. KGA I. 10(Dr. Schleiermacher über seine Glaubenslehre an Dr. Lücke, Erstes Sendschreiben), S. 325.
52 これは、シュライアマハーが自分の教義学の基本箇所は、ヨハネ福音書1章14節であると告白したの と一脈相通ずるものである。デューク・Fr. S. フィオレンツァ(松井睦・上田彰訳)「リュッケへの第 二の手紙」、111頁参照。ちなみに、ヨハネ福音書1章14節は次のとおりである。「言は肉となって、わ たしたちの間に宿られた。わたしはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵み と真理とに満ちていた。」『新共同訳聖書』。
53 CG2, II, §94, Leits., S. 43; CG2, II, §96, 3, S. 57参照;「イエス・キリストにおいては、一つの人格に神 的本性と人間的本性とが結び付けられている」。CG2, II, §96 Leits., S. 49.
54 以上、CG2, II, §96, 3, S. 57, 58, CG2, II, §94, Leits., S. 43, CG2, II, §93, 5, S. 42-43,参照。
55 以上、CG2, I, §4, S. 30; Hans-Joachim Birkner. “Offenbarung”, in: Schleiermachers Glaubenslehre, in:
Schleiermacher-Studien, hg. v. Hermann Fischer, Berlin/New York 1996, 84、85、CG2, II, §164, 2, S.
442; CG2, II, §103, 2, S. 110、CG2, II, §100, 2, S. 92参照。