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貨幣思想から考察した 近代日本貨幣システム

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貨幣思想から考察した 近代日本貨幣システム

一三貨制度から金本位制へ一

東條 隆進

1.はじめに 2.貨幣間分業

3.江戸時代の三貨制度の意味 4.明治維新体制と貨幣革命 5.19世紀の世界通貨体制 6.明治政府の貨幣理念 7.国立銀行設立 8.租税国家と貨幣制度 9.むすび

1.はじめに

 市場経済とは市場のみによって統制され,規制され,方向づけられる 経済システムであり,財の生産と分配の秩序が自己調節的メカニズムに ゆだねられているシステムである。自己調節とはすべての生産が市場で の販売のために行われ,すべての所得がこのような販売から生まれるこ とを意味する。すべての生産要素において財(サービス)のみならず,

労働,土地,貨幣にも市場が存在している。商品価格,賃金,地代,利 子という諸要素価格が所得を形成する。所得はつぎに商品交換や商品生 産に向けられる。所得は貨幣所得として支払われる。所得の貨幣支払い 機能が市場の需要と供給関係をスムーズに機能させることによって市場        早稲田社会科学研究 第59号 P99(H.11).10  1

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経済システムを形成する。

 市場経済形成にとって決定的に重要であるのが労働や土地が商品化さ れることであり,市場の価格関係が抽象化・機能化・一般化されること である。商品でないものが商品化されていく。市場は商品間の関係をと おして商品でないものを「商品化」し商品関係の中に組み込んでいく。

商品関係は市場という座標軸体系のなかで形成されるが,商品でないも のが商品関係のなかに組み込まれることによって市場という座標体系を 拡張していく。この市場という座標軸の形成にとって貨幣が決定的役割 をはたす。貨幣が価格を持つようになることによって市場の座標軸の体 系化がスムーズにスピードをもって進められる。

 ヨーロッパ近代世界はこのような市場経済体制の流れの中で近代諸国 民体系・世界システムを形成していった。国民国家と市民社会の複合体 制としてである。

 このような市場経済体制に二世紀以上も「鎖国」を続けた日本がどの ように参入するようになったのか。日本が「近代化」を成し遂げる過程 で直面した諸課題の根底にあるものをもう一度検討してみたいと思う。

2.貨幣問分業

 経済人類学は近代以前の世界,それも過去にさかのぼればのぼるほど,

「貨幣」とよばれたものの機能範囲が限定されていたということを教え ている。初期的な,アルカイックな世界においては財宝と富とがまず 別々のものであった。財宝とはそれを所有しているだけで所有者に共同 体のなかで威信を与えたものであった。富はそのままでは財宝になりえ なかったのである。

 初期的な世界において貨幣の重要な機能である「支払い」というのは 罰金,身の代金,花嫁代償:などと結びついていた。人類史は支払いと懲  2

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罰が近い関係にあることを示し,責務と罪が近い関係にあったことを示 している。民法が刑法に従い,刑法が宗教法に従っていた長い時代を通 して責務とその責務の履行としての支払いとは質的な次元に属し,質的 な行為範疇に属していた。罪が鞭打ちの回数,断食の回数によって免除 される場合,懲罰は「支払い」という性格を帯びてくる。支払いは量的 性格を持つようになるとはいえ,罰金のような貨幣による支払いとはそ の性格を全くといってよいほど異にしていた。

 近代以前の身分社会において,貨幣は身分によってそれぞれ違った役 割をもっていた。貨幣それ自体が身分を規制するために思慮深く作り出 された一つの制度であった。使用貨幣の種類が身分によって違っていた。

これに結びついて,貨幣と財の関係も差別化されていた。食料や手工芸 品のランクは,共同体のなかで最下級に属していた。そして家畜や奴隷 がその上にくる。最後に,妻として所有されるべき女性は最上級にくる。

そこで取引も二つのカテゴリーに別れていた。同じランクどおしの財の 交換と,違ったランクに属する財の間の取引である。前者は道徳的に中 立である。後者はこの取引を引き受ける人に危険をもたらす。勇気ある 行為として共同体に認められるときは,その身分を高める役割を果たし,

認められない場合は共同体から追放される。貨幣のこれらの機能が共同 体全体の制度的秩序と安定を生み出す機能を同時に果たした。

 貨幣のもう一つの重要な機能である「価値尺度」機能も,現代のもの と違っていた。価値尺度としての機能が,帝国や領国支配のための手段 としての財を集中し再分配するために使用された。帝国や領国支配のた めには異なった種類の財が必要であり,それらの財を結びつけるために,

何らかの比率関係が必要となる。価値尺度や計算機能は,官僚的管理体 系に属するものであった。

 前近代的世界における貨幣の役割において,個人的な財交換というも        3

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のは副次的意味をもつにすぎなかった。前近代的世界と近代的世界の貨 幣思想を分かつもっとも重要な違いは,前近代的世界においては,共同 体や領国全体の秩序形成に貨幣の最も重要な役割があったのに対し,近 代的世界になると,個人間の財交換関係の形成が貨幣の最も重要な機能 になっていったということであろう。個人の所有する財の交換を中心に して,経済社会が成立し,交換の発達が経済のみならず社会,したがっ て文化・文明の発展を促すという思想である。(Polanyi, K.[198G],pp.97−

137>

 アダム・スミスは,経済社会の基礎的モデルに「鹿とビーバーの交 換」という物語を据えた。それ以来,この物語が全近代経済社会のモデ ルの基礎的公理になった。そしてこの前提が,スペンサーやデュルケー ム,ジンメルといった近代社会学者たちの社会理解の土台に据えられて いったのである。

 そしてこの前提は,もう一つの出来事と結びついていった。それは,

「交換手段」としての貨幣機能に「支払い」,「価値尺度」,「価値跳馬」

手段が吸収されていったということである。この貨幣の一元化過程で貨 幣の「全目的化」が遂行されていった。「万事お金」の時代である。「経 済時代」を可能にするもっとも重要な役割を果たしたのが,あらゆる目 的を遂行できる貨幣の出現であった。1)

3.江戸時代の三貨制度の意味

 このような視点で日本の貨幣形態を見たとき,どのような理解が得ら れるであろうか。まず,現代日本の経済社会の基本モデルを与えたとさ れる江戸時代の貨幣制度について簡単に考察したい。

 江戸時代の貨幣制度は,経済人類学が教える世界の貨幣制度と多くの 共通点をもっている。江戸時代は,支配身分体制というピラミット体系

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の上部を占めた将軍・大名・武士等の知行・奉緑が,石・俵・扶持によ って表示される農業を基本とし,土地を中心とする「米遣いの経済」と よばれる実物経済であった。徳川幕藩体制の法・政治・経済・社会シス テム全体を支える基盤が,「米」による集中・再分配体制であった。価 値尺度は米であった。2)

 しかし17世紀中頃よりの生産力の拡張と,商品生産・流通に関わる商 工業者の台頭により,「二二:いの経済」の基礎部分に「金遣いの経済」

が割り込んできた。貨幣経済の発達である。貨幣制度も発達してくる。

 江戸時代の貨幣制度は金貨・銀貨・銅貨の三種類からなる三旧制度で あった。金貨・銀貨・銅貨のいずれも流通圏に規定されることのない無 制限の通用力をもつ全国的規模での本位貨幣であった。(三上隆三[昭和 50],31ページ)この三貨幣はそれぞれが市場比価によって取引され,相 場によって変動しつつ相互に取引された。江戸期貨幣制度は,それまで の,各地に自然発生的に出現した領国貨幣・地方貨幣を,幕府がその権 威のもとに品位の統一された貨幣に整備していった結果,成立した制度 である。戦国時代を統一した豊臣政権が開始した全国的貨幣制度を,意 識的・計画的に整備していったのが徳川幕府であった。徳川氏自身が支 配していた佐渡・生野・石見等の金山・銀山から掘り出された貴金属を 基礎にして,全国的貨幣システムを意識的・計画的に形成していった。

 三貨制度における金貨の計算単位の基本単位は両である。徳川家康は 武田氏の甲州金に注目し,甲州金の単位名・計算法をモデルにしたとい われる。両を基本単位とし,両の四分目一にあたる単位として分,分の 四分の一にあたる単位として朱を設けて,両未満の単位で四進法を採用

した。しかし両以上では十進法を採用した。

 画素制度における銀貨は匁を基本単位とし,匁の十分の一を分,分の 十分の一を厘と定めた。千匁を貫と称した。銀貨の計算単位は金貨と違       5

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って十進法であった。江戸幕府は丁銀・豆板銀・小玉銀を鋳造した。こ れら銀貨の品位は一定であったが,金貨と異なり,一個の量目も形状も 一定ではなかった。銀貨は重量をはかって使用することを原則とする秤 量貨幣であった。

 三貨制度の中の銅貨=銭貨の出現は金貨・銀貨よりも大幅に遅れ,

1623(寛永13)年に寛永通宝として鋳造が始められた。銅貨の基本単位 は文であり,一文銭千個をもって一貫とする十進法の計算単位をもつ計 数貨幣であった。銅貨は一種の補助貨幣であった。

 幕府はこれら金・銀・銅乱淫の相互関係を公定していた。幕府は 1609(慶長14)年に金一両=銀五十匁=永楽銭千文=京銭(鎌銭)四千 文に公定し,1770(元緑13)年には金一両;銀六十匁=銭四貫に公定し

た。

 ところが貨幣経済が発達しつつあったこの時期,これらの貨幣は幕府 の公定とは違う貨幣市場で形成される価格で流通するようなった。幕府 が制定した金貨・銀貨・銅貨間の関係比率と現実の貨幣市場で交換され る比率が一致しなくなってきた。貨幣経済,商品交換経済の発達が土地 と米を基礎とする幕府の全秩序基盤を崩していくことになる。幕府権力 によって遂行される財の集中・再分配体系が,市場における財貨交換関 係に合わなくなっていった。幕府は元緑期以降,市場経済,貨幣経済の 発展に適応せざるを得なくなる。

 しかし,このような高度な貨幣経済の進行にもかかわらず,近代的貨 幣体制とは全く異なった貨幣的特徴を残していた。地域的には,江戸を 中心とする東国では金貨幣が価格標準として用いられ,大坂を中心とす る西国では銀貨幣が価格標準として用いられていた。身分によっても貨 幣使用形態が違っていた。支配者・高級武士は金貨を用い,下級武土・

一般町人・豪商は銀貨を用い,百姓・下層町人は銅貨を用いるというよ

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うに,身分によって貨幣使用形態も違っていた。大量取引には金銀貨が 用いられ,小額取引には銅貨が用いられるように,取引高によっても違 っていた。財の種類によっても違っていた。鯛は金貨で,米,上質の茶,

呉服,砂糖,塩,薬等は銀貨で,茶,野菜,豆腐等は銅貨で支払われた。

それぞれの貨幣が流通圏を異にし,身分的秩序の違いや財の種類によっ て,ことなった貨幣使用形態が一般的であった。日常の貨幣使用が身分 意識や行為基準をも規定していたのである。(三上隆三[昭和50],30−31ペ

ージ)

4.明治維新体制と貨幣革命

 1867年,徳川幕府から政権を奪取した明治維新政府は,明治3年伊藤 博文を「凡ソ理財二関スル諸法則・国債・紙幣及ヒ為替・貿易・貨幣鋳 造ノ諸恋」の調査・研究のために派遣した。伊藤は紙幣発行の特権をも つ銀行設立をすすめる「新紙幣発行法」の建議とともに,「金銀貨幣の 鋳造法」の建議書をアメリカから政府に送った。

 第一に日本の貨幣制度を金本位制度にすべきである。

 第二に金札引換公債証書を発行すること。

 第三に国立銀行制度を導入すること。

 とくに第一の貨幣制度については絶対に金本位制度にすべきであると 主張した。

 抑,貨幣ヲ鋳造スルニ当タリ,三原位ヲ定ムル,金銀何レカ基礎ト ナルベキ当否ハ,二二方今文明欧州諸国の碩学多年の経歴ヲ以テ,金 貨ヲ原位ト定ムルノ議略一轍二帰ス。…… 今若シ新二貨幣ヲ鋳造ス ルノ法ヲ創立スル国アレバ,必ズ金貨ヲ原位ト為ス疑ナカルベシ。是 以見レバ我国今日新二貨幣ノ鋳造スル宜シク他邦従来ノ経歴二基キ,

       7

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或ハ学者ノ議論ヲモ折衷シテ至当ノ正理二法ルベシ。然レドモ,銀貨 ヲ原位トセザレバ,現今全国ノ損害トナルベキ実験アル時ハ止ムヲ得 ザルベシ。然うザレバ,金貨ヲ原位ト定ムルニ如クナシ。金ヲ原位ト 定ムレバ銀ヲ助金ト為シ,通用払高ノ定限ヲ定ムベシ。(r明治貨政考

要』)(三上隆三[昭和50],立脇和夫[1992〕)

 明治政府は最初銀本位制度の採用を考えていた。徳川幕府による『日 米修好通商条約』締結以来通貨問題は重要な課題になったが,新政権も 幕府の旧貨幣制度を引きついだ。新政権は内外への新政権の威信を示す ために「画一純正の貨幣ヲ新鋳スヘキコト」を決議し,新鋳貨幣は祖の 形状を円形に定め,貨幣の計算単位を十進法に改めた。

 新政府は慶応4年の会計局口および太政官布告で,江戸時代の金銀銅 貨の通用を告げた。そのかぎりで新政府に貨幣鋳造の必要はなかった。

しかし新政府が遂行しなければならなかった戦争のための費用を賄うた めに,貨幣鋳造をよぎなくされていた。新政府が明治2年までに鋳造し た貨幣は,金貨では貨幣司吹とよばれた二分判金だけであり,銀貨は一 分銀と一朱銀だけであった。新政府は,江戸旧貨幣制度の原貨幣である 小判の鋳造能力を持たなかった。二分判金が価値尺度・価格度量基準機 能を果たしていたのが実情であったことから,まず銀本位制から出発せ ざるを得なかった。しかしその後,政府は金本位制度へ方向転換をした。

そこで金本位制度と銀本位制度の関係について見てみたい。

5.19世紀の世界通貨体制

 アジアと銀本位制度

 メキ・シコ・ドルの鋳造は1513年に始まるとされる。当時スペイン領で あったメキシコで,スペイン王カルロス(Carlos)一世(神聖ローマ帝

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国カール五鈷)がスペイン本国の貨幣制度に似せて鋳造した銀貨がメキ シコ・ドルの始まりであった。

 16世紀,ハプルブルク家の大帝国の支配者であったスペイン王カルロ スの指導のもとで新大陸から膨大な金銀という貴金属がヨーロッパにも たらされた。そしてスペインの支配下にあったメキシコから莫大な量の 銀が産出され,この銀によってメキシコ・ドルが作られた。メキシコ・

ドルは南北アメリカから西インド諸島・太平洋上の諸島,ウラジオスト ックからシンガポールにいたるまで流通し,世界通貨としての機能を果 たした。アメリカ合衆国では1857年まで法貨でさえあった。メキシコ産 銀貨であるスペイン・ドルを旧メキシコドル,独立国メキシコのドルを 本来のメキシコ・ドルと呼ぶことになったが,メキシコ・ドルは400年 間ほとんどその品位が保たれた。

 銀本位制度を担ったと見られる中国では各王朝で鋳造された銀貨の偽 造貨の横行に手を焼き,銀貨を廃止し,銀貨の鋳造を民間にゆだねた。

その結果,量目・品位の確認に便利な銀塊,馬蹄銀と呼ばれる秤量銀貨 が流通するようになった。この中国に18世紀末から19世紀初期にかけて,

スペインのカルロス銀貨とメキシコ・ドル銀貨が流入するようになった。

(三上隆三[1998])

 そしてこのメキシコ・ドルが,幕末日本にも流入した。日米和親条約

(1854年置でアメリカ合衆国の船舶が下田・箱館に渡来のとき,金銀銭 をもって入用の品を調達するという条項があった関係から,日米間の貨 幣交換比率を定めることが必要となり,ここから本格的に洋銀すなわち メキシコ・ドルとの関係が強まっていった。したがって徳川幕府から権 力を奪取した明治新政権も,対外的には旧幕府が締結した条約規定,貨 幣関係を順守することが要求された。当時のアジアの国際通貨であった メキシコ・ドルとの関係を避iけることはできなかった。

       9

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 しかも問題はそれだけではなかった。アジア地域が銀本位制度とも呼 べる状態にあったのに対し,世界は金本位制に向かっており,明治維新 政権も金本位体制に対応せざるをえなかった。そこでヨーロッパが金本 位制度に向かっていた理由について見てみたい。

 ヨーロッパの金本位制度化

 16世紀スペインによる新大陸からの金銀といった貨幣用貴金属がヨー ロッパに流れ込んだ量は10倍にも増大したと見積もられている。金と銀 はペルーとメキシコからスペインのセルビアに流れ込み,ヨーロッパ諸 国に流れ込んでいった。

 では,ヨーロッパではいかなる理由で金本位制度が主流を占めるよう になったのか。

 1588年スペインの無敵艦隊を撃破したイギリスは,オランダとともに 世界帝国への歩みを始めた。名誉革命が遂行された1688年からイギりス の覇権が最終的に確定した1815年まで,イギリスは7回も戦争をした。

名誉革命政権は,国内の権力秩序を確立しつつ対外戦争を遂行するため に必要とされる費用の増大と国家債務の増大に苦しみ続けた。そして国 家債務をまかなうための財政金融機構がどうしても必要になった。イン グランド銀行はこうした国家の財政金融上の必要から設立された制度で あった。イングランド銀行の主要な任務は財源を確保して国家を助ける ことであった。戦争は経済を不安定にする。イングランド銀行は手形の 再割引者としてまた最後の貸し手として緊急事態に対処することが求め られた。まさに「貨幣鋳造機」であった。貨幣鋳造機としてのイングラ ンド銀行はその信用創造機能によって商業世界のみならず国家にたいし ても強力な権威を確立していった。

 そして18世紀後半,イギリスは産業革命に突入する。産業革命の時代 を通じて貨幣問題はイギリスにとって頭痛の種であった。工業化は莫大

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な額の流通貨幣を必要にさせる。信用創造がどうしても必要になる。こ こでもイングランド銀行が重要な役割を果たすことになる。

 イングランドの工業企業は泡沫会社法(Bubble Act)という枠組み の中で発達した。この法律は南海泡沫熱(South Sea Bubble mania)

が最高潮に達した1720年に可決されたものであって,105年間もの間法 令に収録されていた。そしてこの法律が廃止された後,半記紀以上もイ

ングランド会社法に影響を与え続けた。この法律は法人化されていない 企業が法人設立特許状を所有しているかのごとく行動することを禁止す

ることにあった。企業家が法人設立特許状を申請できないということは,

企業が資金を獲得することを困難にさせる。企業家は銀行や他の金融機 関が供給する銀行貨幣を運転資金として使用する必要性に迫られたので

ある。

 泡沫会社法が会社設立を制限したために,個人や小規模な合名会社が 許可とか登録といった法的規制を受けることなく事業に参加することに なり,ロンドンでは個人銀行家から,地方では個人かちなる地方銀行か

ら信用創造を受けていた。

 産業革命期,地方銀行が急速に成長していった。19世紀になるとイン グランド銀行以外の株式銀行が加わる。1826年,議会はイングランド銀 行の独占条項を変更し,他の株式組織の銀行業務を許可する法案を可決 した。しかし決定的に重要な役割を果たしたのはやはりイングランド銀 行であった。イングランド銀行は,イングランドの正貨準備保有者とし ての地位と,シティにおける巨額の取引にイングランド銀行券が支払い 手段として用いちれた理由から,中心的地位を占めたのである。そして,

ロンドンの商人のための為替手形や約束手形の割引を行って,信用体制 の安定に貢献した。

 さて,18世紀のイングランドは,名目的には金銀複本位制を取ってい        ユユ

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たが,造幣局の銀価値の過小評価の結果として,それ以前にすでに金本 位制度に移行していたのである。1766年の大改鋳は銀を放置して金のみ を本位とする措置をとり,事実上の金本位制を導入した。イギリスの16 世紀以降の近代産業は羊毛工業であった。しかし,インド貿易の発展は インドのキャラコとの競争を引き起こし,イギリスの羊毛工業に深刻な 打撃を与え,18世紀後半,産業革命に突入し,綿織物工業の発達となっ て再出発する。

 羊毛工業の原料はイギリス国内で賄うことができたのに対し,綿織物 工業の原料である綿花供給は海外市場に求めざるを得ない。原料の購入

と製品販売とも貿易依存度が高く,国際経済との関係が強い性格のもの であった。イギリスにとって安定した国際経:済秩序と国際通商・国際金 融機構の確立が求められたのである。

 イギリスが選択したのは,イングランド銀行券を国際通貨である金に 直結させる方法であった。イングランド銀行券を党換可能な状態にする ことによって,国際金融によって国内金融を調整する方向であった。こ うして重要になってきたのが国際金本位制度の確立ということであった。

1816年前鋳貨条例によって金本位制度を確立したイギリスは,1844年の 銀行条例(ピール条例)によって,貨幣数量を正貨の数量と同様に硬直 的・非弾力的に調整しようとした。そしてこの動きが,19世紀後半国際 的な金本位制へと拡大されていくことになった。

 ではイギリスが銀本位制度を採用する可能性はなかったのであろうか。

イギリスの貨幣制度が金貨・銀貨・銅貨の統合によって貨幣秩序の安定 を図ることは,18世紀には不可能になっていた。17世紀後半,29万ポン ド近く発行された銀貨は18世紀中頃には1万5000ポンドに減り,18世紀 末には3000ポンドにまで減っていった。発行された完全な形の銀貨の大 部分は鋳潰されて輸出されてしまった。流通の場にとどまっていたのは,

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ひどく磨滅したり端を切り取られたトークン(代用貨幣)になってしま った貨幣であった。その結果小銭の著しい欠乏が生じ,賃金支払いや小 売り取引さえ困難になった。人々は外国貨幣,偽造貨幣,および私的に 発行されたトークンの助けを借りて使用した。18世紀にイングランドで は金貨,補助貨幣のほかに銀行券,小切手が使用された。ロンドン以外 では金属貨幣以外為替手形が使用された。18世紀後半にロンドンの個入 銀行業者や地方銀行が発達した理由である。銀本位制度が採用されるこ

とは有り得なかった。

 おそらくイギリスに産業革命が起こらなかったなら,金本位制度への 動きも弱かったであろう。1688年からの7度の戦争も,イギリスにとっ ては重要であったろうが,国際金本位制度のような世界史的展開にはな らなかったであろう。決定的に重要であったのは,やはり産業革命であ った。19世紀以降工業化が世界の運命となったことが,国際通商体系,

国際通貨体系の一元化を推し進めることになった根本的理由であった。

 イギリスにとってイングランド銀行券を中心とする銀行貨幣の増加は 価格変動を引き起こし,経済全体を不安定にする。ここから銀行貨幣を 金本位制度で党回する方向が考えられてくる。1816年の鋳貨条例,1844 年の銀行条例はこのような課題に対処するためのものであった。

 ところがイギリスはアジア地域を金本位制にしょうとはしなかった。

イギリスは18世紀から19世紀中頃までに,ルピーによる海峡植民地より のメキシコ・ドル追放を目論んだ。1835年イギリスはインドを銀本位制 にしアジアを銀本位体制にしょうと乗り出す。1841年イギリス本国の補 助貨幣を本位貨幣として香港に導入してメキシコ・ドルを追放してイギ リス主導の銀本位制度にしょうとした。しかしこの試みは失敗し,つい に香港ドルの鋳造を企てることになった。(三上[昭和50],206ページ)

1864年にイギリスが香港造幣局を設置したのは,それが鋳造する香港ド        13

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ルによってアジアにおける植民地からメキシコ・ドルを追放し,それに 代わって香港ドルを流通させるためであった。しかし新鋳の香港ドルは メキシコ・ドルと実質的内容を同等にしていたが,それまで流通してい たメキシコ・ドルの信用に勝つことができず,中国商人は香港ドルを額 面価格よりも1%割引でのみ受取り,受取った香港ドルもただちにメキ シコ・ドルに交換されてしまった。このため香港ドルの鋳造は満二年に ならず,造幣局も1688年に閉鎖されることになった。イギリスの戦略は 完全に挫折したのである。

6.明治政府の貨幣理念

 そしてイギリス貨幣戦争の担い手になるはずであった香港造幣局の機 械が1868年(慶応4年=明治元年)に日本政府によって購入され,大阪 に到着したのである。この機械とともに技術者として雇用されたのが元 香港造幣局勤務のキンドル(Kindle, T, W.)であった。(立脇和夫[1992],

61ページ)

 明治2年,新政府は新貨幣制度を決定した。本位貨幣となる金属・貨 幣の種類・品位・量目等についての検討がなされ,横浜上所における大 隈・伊藤・井上等の当局担当者とイギリスの銀行である東洋銀行(オリ エタル・バンクOriental Banking Corporation)の支配人ロバートソ

ン(Robertson, J.)との相談・協議から新貨幣制度の具体化過程が始 まった。ロバートソンは銀本位制度の採用をすすめた。メキシコ・ドル と同位・同量の銀貨を本位貨幣とする銀本位制度を主張したものと考え られる。日本の政策当局も日本の円銀をメキシコ・ドルに代わる国際通 貨にしょうとしていた。しかし日本の二二も現実に流通する段になると 香港ドルと同じ壁にぶつかることになった。円銀は中国商人に平価では 受け取られず,0.5%から1.5%の割引の下でのみ取り引きされた。これ

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に対処するため,日本政府は損失・負担をかけたときはその費用・利子 を日本政府が負うという条件で,円銀をメキシコ・ドルと等価通用・取 扱いで東洋銀行に委託したり,努力したのである。そして円銀はその量 目・品位の確かさによって次第にメキシコ・ドルを駆逐し流通圏を広げ ていった。このような事情が銀本位制度内定の重要な要因となった。

 金本位制への趨勢       ・

 しかし,世界の趨勢は金本位制度に向かっていた。法制上金本位制度 を確立していたのは1816年鋳貨条例を制定したイギリスー国であったが,

その他の主要な国々も金本位制度へ向かっていた。もとより金銀比価の 安定と複本位制の復活を目指した努力が,銀と深い関係をもつアメリカ やフランスによって試みられていた。フランスを盟主とするラテン貨幣 同盟(Latin Monetary Union)が1865年に結成された。1867年にパリ で20力国が集まって国際通貨会議が開催された。しかし,1860年以降の 金産出の停滞と銀の急激な増加による銀価格の下落にさらされて,どの 国も金本位制度の採用を主張した。1871年ドイツが金本位制度を採用,

そのドイツと深い関係にあったスカンディナビア貨幣同盟(1875年)

一スウェーデン,デンマーク,ノルウェー一が金本位制を採用した。

1873年標準量目25.8クレインの1ドル金貨をもって価格標準単位とする ことを決定したアメリカ,1865年オランダにおける銀貨の自由鋳造禁止 による践行本位制度の出現,フランスにおける5フラン銀貨の自由鋳造 停止により,肢行本位制へと転化することになって銀の本位貨幣化は不 可能となった。1870年代以降ヨーロッパ世界は金本位体制へと向かって いったのである。

 こうした状況のもとで明治政権も金本位制度の採用へと向かっていっ たように思われる。1867年の国際通貨会議の内容,世界の金本位制度へ の傾向を把握していたように思われる。そして将来世界経済のリーダー        15

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シップを握るはずであるアメリカの動向が重要になった。アメリカでも 金本位制度への動きが強くなっていた。1860年代アメリカ下院で新ドル 金貨の発行議案が審議されたが,この審議は議会を通過しなかった。

1879年に紙幣の金党換規定が導入され,1900年に金本位制度法が成立し,

堅固な金本位制度を確立した。

 伊藤がアメリカ下院で審議中の新ドル金貨と同位同量の金貨をもって 世界の金融システムに参加しようとしたことは世界の金本位制度の趨勢 にかなっていた。アメリカの新ドル金貨鋳造をタ)ぐる議案を「万国普通 ノ新貨幣ヲ鋳造セントスル議案」と見なしたことは正しい世界の貨幣観 であった。そして富国強兵の理念で日本の進むべき方向を目指していた 明治政権担当の若きナショナリストたちが金本位制度に決定したのもこ のような世界の貨幣体制に対する理解をもっていたからであったように 思われる。日本の将来にとってアメリカとの関係がますます重要になる であろう。金本位制度の採用はアメリカ通貨圏に参入することも意味す る。貨幣金融制度上決定的に重要な位置を占める銀行形態をアメリカ型 にしようとした理由にもこのような洞察があったように思われる。もう 一つの理由は,伊藤が提案した一円金貨に含まれる金量が,明治二分判 金を基準にして政府がもし鋳造したならば存在したであろう原価である 小判に含まれる金山に近似していることがこの決定を容易にした。(三

上[昭和50],228ページ)

 しかしこの試み,金本位制度の確立と地方分散型のアメリカ型のナシ ョナル・バンク制度の試みは挫折する。その挫折は必然的であった。

 金本位制度はイギリスのように産業革命に成功した所でのみ有効に作 用する。そして高度に信用体系が発達したところで有効である。

 ケインズは1913年の『インドの通貨と金融』の研究を通して次のよう なことを発見した。3)

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 金本位制は,当然それに金通貨を伴うというようなナンセンスなこ とが議論されている。もしわれわれが,金通貨とは金が主たる通貨で あるか,あるいは全体として非常に重要な交換手段である事態を意味 するとするならば,いかなる国もかつてこのような状態にあったこと はない。金は国際通貨であって,国内通貨ではない。各国の通貨問題 は,必要なときに国際通貨を入手しえない危険に陥らぬようにし,し かもこのことと矛盾しないように実際の金保有を資源の一小部分の浪 費に止めるよう努めるところにある。各国にとっての正しい解決は,

国際貨幣市場における各国の地位と,主たる金融中心地に対する関係 の性格によって,およびそれを撹乱するのは賢明でないと思われるよ うな通貨に関する慣習によって,決定されなければならない。(p.21,

邦訳22−23ページ)

 諸外国の貨幣制度の現在の型への発展は,19世紀の最後の四半世紀に 始まった。その当時,ロンドンは,その金融制度の頂点にあり,イギリ スの貨幣制度は時間と経験の試練に耐えてきた。したがって,諸外国の 制度はイギリスの制度の基本的な教義と見なされるものの導入によって,

大きな影響を受けた。しかし,外国の観察者はイギリス人が机の中に小 切手をもっているという事実よりも,ポケットにソヴァリン金貨を持っ ているという事実のほうにより強い印象を受けたようにみえる。そして 仲介人とロンドン貨幣市場の独特な組織およびイギリスの債券国として の地位よりも,公定歩合の「効力」と木曜日の理事会の審議に,より多 く注目した。このようにして,彼らは実態よりも形式を模倣することと なった。彼らは,金本位制を導入したとき,金通貨もいっしょに作った。

そしていくつかの場合,公定歩合がイギリスを手本として作られた。

       17

(18)

(pp.13−14,14−15ページ)r

 世界が金本位制に進んできたこ爾40直間に(しかし,その理由で,紙 幣や補助貨幣からなる国内通貨を廃止することなく).二つの方策が一 千金準備自体と公定歩合は別として一国内通貨.を防衛するために発展 してきた。第一は,国内通貨と金との交換比率における小変動を認める ことであり,それは多分,時として金に対して四分の三パーセントg)打 歩となった。このことは,純粋に国内的な取引に対する割引率を危険な 水準にまで高めることなく,季節的なまたは短期間の逼迫期を切り抜け るのに役立った。第二は,政府まには中央銀行が海外に利用可能な資産 を保有することセあり,それは必要な場合には,国内通貨の金平価を維 持するなめに使用することができるのである。

 われわれは,今や,インド自身の通貨に立ち帰り,他国通貨とのより 正しい関係で,それを見ることができるようになった。全階梯の一端に はイギリスとフランスー短期貸付市場における債券国一がある。中 間の地位にはドイッー多くの近隣諸国との関係では債券国であるが,

しかし,フランス,イギリスおよびアメリカ合衆国との関係では債務国 になりがちである一がくる。次にロシアとオーストリア=ハンガリー のような国一裕福でかつ強力で莫大な金準備をもっているが,債務国 で短期貸付市場では近隣諸国に依存している国一がくる。これらの国 の通貨からアジアの大きな貿易国一インド,日本,オランダ領東イン

ドーの通貨にすすむのは容易である。(p.19,20−21ページ)

 ケインズから見たとき,1913年段階においてさえも日本はインドと同 じ経済的段階にあり,金為替本位制がもっともふさわしい制度であると 考えられた。金為替本位制の本質は,国内通貨として金を主として使用

(19)

せず,国内で国内通貨と交換に金を供給するにもある程度抑制的であり,

しかしある極大の相場に達すれば,国内通貨と交換に外国為替を売却し,

そのために外国債券を使用するのには高度に意欲的であるような制度で あるということであった。(p.20,20−21ページ)

 明治政府の金本位制度の決定が理念において正しかったとしても,現 実においてはいかに無謀なものであったかが理解されよう。

7.国立銀行設立

 さて維新政府は出発当時,諸藩の存在をそのままに幕府から政権を引 き継いだのであったから権力基盤となる財政基盤も弱かった。全国石高 3000万石,そのうち新政府の直轄地は800万石しかなかった。いわゆる

「八百万石の御朝廷」がこれであった。維新政府は御用金の調達と政府 紙幣の発行を併用する財源調達に依存することになった。会計基立金の 募集と太政官札の発行がなされた。会計基立金は東征費や内戦費調達の ためであり,金札は殖産工業資金調達のためであった。明治金札は徳川 幕府時代の藩札と幕府金札の役割を継承しつつ,中央政府紙幣としての 性格を明確にした。明治金札は幕府金札と違って不換紙幣であった。明 治政府が党換準備がなかったという理由と中央政府としての権威に頼っ た発想であった。しかし金札は平価流通に失敗する。とくに諸外国から の抗議にさらされた。この事態に直面して,政府は金札を党換紙幣に転 換し「金札正貨引換」政策を採用することになった。

 政府は「新貨条例」を交付し「円」をもって表示する新紙幣の発行と,

これによる官省金札ならびに旧藩札との交換を認め,新貨幣との交換は 認めなかった。金札から新紙幣への転換によって紙幣統一が成功した。

国内において成功したこの処置は諸外国に対しては有効ではなかった。

政府は六分金利付金札引換え公債による金札回収,ならびに国立銀行党        19

(20)

換券による面接的な金札党換を模索した。

 明治5(1872)年「国立銀行条例」の交付により,日本の銀行はアメ リカのナショナル・バンクをモデルにした分散設置型の発券銀行として 発足することとなった。国立銀行を設置しようとするものは,まず資本 金の60%を金札で政府に納入し,同額の金札引換公債証書の交付をうけ る。銀行はさらに同証書を政府へ抵当として預託することによって同額 の銀行券発行券を得る。ただし資本金の残り40%は正貨をもって払い込 み,銀行券の畑江準備としなければならない。この方法によって各地に 設立される銀行による不換金札は回収され,党換銀行券にかわる。また 発券銀行券の運用により地方産業に資金提供が可能になる。しかし1875 年目でに設立されたものは四行にとどまり,その業績もよくなかった。

正貨にプレミアムがついた結果,発行した銀行券はすぐに正貨と党換さ れ銀行に還流し,市場にほとんど流通しないというグレシャムの法則が 作用したのである。「新貨条例」にもとつく第一次金本位制度が崩壊す

ることになった。

 その後「国立銀行条例」が改正される。改正国立銀行条例によれば,

銀行設立者は資本金の80%を四分利付以上の公債証書をもって政府に預 託し,同額の銀行券発行権を得る。資本金の残り20%は政府紙幣をもっ て引換え準備金とする。この条例改正によって国立銀行券の性格が変わ った。銀行券は政府紙幣交換の紙幣になることで正貨党換の責務を免れ,

発行額を資本金の60%から80%へと増大させ,預託公債の選択の幅を広 げた。この結果,国立銀行経営は有利になり,銀行設立ブームを巻き起 こした。1879(明治12)年までに開業銀行数は153行にのぼった。銀行 設立に際して銀行資本金の各府県への割り当てを決めるに当たって各府 県の人口や租税額が基準とされた。これは分断された地域市場へ均等に 資金分配を行なうことが目的であった。しかし合衆国に比べて市場の狭

(21)

い日本においては地域市場の統合が急速に進み,国家政策の中央集権化 要求が強くなるにつれ,銀行組織もアメリカ型地方分権方式からイギリ ス型の中央集権方式に変えることが求められた。

 政府は明治15年,「日本銀行条例」を制定し,日本銀行の開業の運び となった。明治17年「免換銀行条例」によって党換日本銀行券の発行が 開始された。ここに中央銀行制度と銀本位制度が確立されることになっ

たのである。(山本有造[1994],1−55ページ)

8.租税国家と貨幣制度

 徳川幕府炉ら諸国税法を引き継いだ明治政府は,田方貢租は上納,畑 方貢租は町代金納という原則で統一を図ったようである。金納は金札,

現物納は米に整理されていった。明治政府は1873(明治6)年,地租改 正条例を公布し,年貢・地租の全国的金納化に着手した12年をもって完 了した。土地所有者を確定して地券を発行し,地価を定める。その地価 から租税を決定した。

 維新政府の中央政府としての地位は1869(明治2)年の藩籍奉還によ って確立した。しかし藩籍奉還によっては「八百万石之御朝廷」を「三 千万石之御朝廷」にすることはできない。明治4年廃藩置県によって維 新政府は租税と軍事力をもって中央統一政権を確立した。しかしそれま で藩が担ってきた諸負担を中央政府が引き継ぐということを意味した。

150万士族の家緑の保障,300藩債務の引継ぎである。

 維新政府は大知行取たる藩諸侯に従来の収入の代わりに公債を与え,

その経済的存立を保障した。そのことによって封建領主は農民から年貢 を獲得する土地所有者的権力者から,秩緑処分によってあらたに資本化 された富を,銀行,株式,産業,土地,不動産に投資した。旧幕藩体制 の権力階層が明治政権を支える財閥と手を握る金融的権力者になったの        21

(22)

である。(Norman, E. H,[1940],邦訳123ページ)そしてこれらの公債が国

立銀行設立をはじめ殖産興業資金となっていったのである。明治政権は 封建制を「金銭で買い」,この金銭で「近代化」を進めることになった。

 明治維新体制は徳川幕藩体制に比べてより強力な中央集権体制であっ た。廃藩置県は封建領主を国家の権力体系に組み込むことを意味した。

ヨーロッパでは封建領主を近代国家の官僚体系に組み込むために宮廷の サロン化が必要であったが4),日本では華族という新たなピラミット的 ハイラルヒーと公債という賞金が必要であった。制度的には封建体制と 原理上同じ権力の集中化と財の集中・再分配制度化が進められた。

 しかし米という自然生産物に基礎を置く「米遣い経済」から貨幣によ る「金遣い経済」への完全な転換,世界的商品市場経済体制,国際的金 本位体制への転換過程で,国家もまた貨幣としての租税に依存すること になり,貨幣的租税国家になる。国家は租税によってその機能を遂行す るが,租税じたい国民と国民企業体によって負担され,国民経済が貨幣 経済化,市場経済化することによって市場の自律的運動と自己調整シス テムに規定されるようになる。この過程で国家も商品化・貨幣化される。

国際市場の場で国家の貨幣・商品価値が為替関係で決定されていく。市 場経済の発展が貨幣の「全目的化」を進め,この表現が「本位制度」と なった。それが金本位制であれ,銀本位制であれ,いずれにせよ統一的 価値尺度体系化がすすめられる申で近代的主権国家そのものが市場世界 の歯車になっていく。

9.むすび

 市場経済の発展のためには労働力の商品化,土地の商品化が必要であ るということは経済学が繰り返し取り組んだ問題であった。しかし市場 経済の成立のためには貨幣が計算手段,交換手段,支払い手段,価値尺  22

(23)

度,価値蓄蔵という諸機能を統合しつつ,新たな貨幣創出(信用創造)

機能をもつことが必要であった。

 日本近代化が成功した理由の研究がずっと進められているが,近時江 戸時代の経済発展と明治以降の経済発展の連続性が注目されている。こ

、れから江戸期の経済状態と明治期以降の連続性と不連続性の研究が進め られるであろう。

 われわれが江戸期から明治期にかけての貨幣制度の簡単な考察から教 えられることは,明治期の貨幣機能が強力な一元化・総合化・全目的化 を成し遂げていったということである。その一元化・統合化は19世紀の

「世界システム」に参入する過程で進められていった。そして世界シス テムは近代世界の基本的性格を形づくった主権的国民国家と市場経済の 価値尺度の基準となった金本位制度それ自体を変えていくことになる。

1) カール・ポランニ」によって強調された近代的貨幣システムの特徴をなす,

 貨幣の「全目的性」について述べておきたい。

  人類学的には貨幣は言語,書くこと,度量衡と同じ範疇に属する意味論的  システムとして定義できる。これらのシステムで違うことといえば,用いら  れる目的や使用され.る記号(sign)にある。言語や書くことは,概念の伝達  という目的を持ち,度量衡は量的で物理的関係の伝達という目的をもつ。記  号についてみれば,言語は音声を用いるし,書くことは表意文字や可視の文  字を用い,度量衡はシンボルの基礎として物理的対象物を用いる。貨幣はあ  る点では度量衡的システムに似ている。記号が物理的存在に対して付与され  ているという点で度量衡の役目を果たしている。しかし目的において度量衡  と違う。度量衡のように単なる長さとか大きさを計ることに目的があるとい  うよりも,ある一定の状況における重要性の測定が目的なのである。計算手  段であると同時に価値尺度である。

  言語および書くこととの関係でいえば,貨幣は記号が話す場合のように音  声に付与されたり,記述のように可視の文字に付与されるのでなく,金属片  や貝殻や印刷された紙片のように物理的なものに付与されているという点で  ちがっている。しかし貨幣が最も近い関係にあるものは言語と記述である。

 これらはどれも精巧な意味論上のシステムであり,どれもがそれぞれのシス  テムの要素として音声や文字,対象物を正しく用いる方法を作り出す原理的       23

(24)

 コードによって組織されている。どれもが数々の異なった用法を遂行するた  めに,明確な原則にしたがって記号をあらゆる目的に適うように,しかし限  られた数だけ使用する。このような仕方で貨幣が使用されるようになったの  は近代市場経済の発達以降である。(Polanyi, K.[1971],186−191ページ)

2)経済人類学は経済過程が社会全体の政治的・文化的領域に対して重要な関  係を持っているということを明らかにした。経済行為は経済過程によって規  定されるが,経済行為や経済過程が,空間的・時間的・距離を克服し,占有  上の差異を克服しつつ財.と人との移動がその移動の中で相互関係を生むよう  に制度された統合システムによって遂行される。経済過程の諸要素,物的資  源や労働,財の輸送,貯蔵,そして分配までを統合するように,制度化され  た統合形態のもとで経済行為が営まれる。この統合形態,統合システムは社  会的次元によって支えられる。人間行為の社会的次元が経済行為の基底とし  て支えるのである。

  経済行為の根源的様式としての互酬制度(redprocity)は対等な力をもつ  部族と部族の問に成り立つ。財,サーヴィスの動きも対照的な配列に呼応す  る対称軸間に成り立つ。図式的には,互酬は対称軸に対称的に配列する点に  結合する矢として現される。

  巨大な帝国における集中・再分配制度は中,央に強力な権力が存在している  ような社会に現れる。中心の一点に多方面から財,サーヴィスが集中し,そ  して中心からまた放出されていく。図式的には星状の図表で表せる。幾つか  の矢印は中央に向かい,他のいくつかの矢印は中央から外に放射する。集  中・再分配は一集団内で,土地・天然資源を含む財の分配にあたって,それ  らが〜手に集められ,慣習,法,あるいは中央における決定によって分配さ  れる限りで現れる。再分配は物理的であれ,管理処分的であれ,中央への運  動とこれに伴う外への運動を生じさせる仲介物が必要である。中央の組織は  政治的だけでなく経済的にも必要である。(Polanyi, K.[1971],3章参照の  こと)

  江戸時代の徳川幕藩体制はこの集中・再分配制度の理想的システムであっ  た。

  なお江戸期貨幣制度の論述は全面的に三上隆三(昭和50)に負っている。

3)イギリス古典派経済学のもっとも重要な貢献は19世紀通貨問題の解決のた  めの論争から生じた。1844年の銀行条例は論争の勝利者D・リカードの理論  的影響のもとに制定された。リカード派と呼ばれた地金主義・通貨学派は反  地金主義・銀行学派に勝利した。

  ケインズはケンブリッジ学派で育ち,マーシャルの影響のもとに育ち,彼  の主著『雇用・利子及び貨幣の一般理論』(1936)では明確に反マーシャル主  義者になっていたが,すでに1913年時点で金本位制度:批判者としてリカード  とは違う立場に立っていた。

  ケインズはイギリスの金本位制度に批判的であった。かれは「インドの通 24

(25)

 貨と金融』の研究から,第一に,イギリスの制度は独特なものであり,他の  環境に適していないと主張する。第二に,「健全」通貨という伝統的な考え方  は,主としてイギリスの制度のある表面的な局面から引き出されたものであ  るとしている。第三に,大部分の他の国においては,やや違った型の制度が  発展してきたこと,そして本質的にはインドで発展してきた制度,つまり金  為替本位制が世界の国々に適合していると主張した。(Keynes, J. M.[1971],

 11ページ)

4) おそらく明治国家体制形成の特徴を最もよく解明しているのは今日でもシ  ュンペーターの『租税国家の危機』であろう。ヨーロッパで近代国家が形成  されるようになった理由は封建領主の領地経営の失敗であり,対外戦争を遂  行ずるための兵力,財政力の欠乏から破綻していった。それと封建領主が反  抗的な地方貴族を変じて従順な宮廷貴族,官僚貴族,軍人貴族にするための  費用賄いに失敗していった。領主に奉仕する貴族客人の生計負担が「宮廷浪  費」を必然化させていった。明治政権の歴史的業績は封建勢力の危険な部分  を「公債」で購入し,それを資本化していくことに成功した点にある。

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