根雨近藤家の歴史︵承前︶
ヘ ヘ ヘ
一あるたたら製鉄業者の軌跡1
木 村 時 夫
和鉄製造の衰微
かげりの見えはじめた近藤家の製鉄業をともかくも維持発展させたのは︑第五代喜八郎とその次男八郎治︵勝瀬
家を嗣ぐ︶とで︑いわぽこの両者は近藤家の中興の英主ともいうべぎ存在であったことについてはすでに記した︒
しかしその間にあって喜八郎の長男で︑近藤家の第六代目を継いだ喜兵衛の影はいかにも薄い︒
喜兵衛は喜八郎の長男として文久三年中一八六三︶正月二四日根雨に生れ︑昭和七年︵一九三二︶八月七日︑六
九歳で没している︒弟の八郎治とは一歳上の兄ということになるが︑八郎治がすでに一六歳の頃から家業に関心を
もち︑熱心に種々の情報を集めていたことについてもすでに記した︒しかし﹃日野町史﹄によれぽ︑喜兵衛が実際 ︵19︶に家業を継いだのは四五歳の時であるというから︑それは父喜八郎の死の直前である︒︵喜八郎は明治四三年没︶
恐らく喜兵衛は父喜八郎や弟八郎治の積極的かつ惨憺たる苦心の経営の陰で︑風雅な生活をすごしていたと思わ
早稲田人文自然科学研究 第29号(S6L 3)
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れる︒同じく﹃日野町史﹄は喜兵衛について﹁彼は素朴憎淡の性格であって︑多くの人と交わることを好まず︑孤
独の生活をたのしむ人柄であ・たが︑有象と号して俳句をよくした・﹂と記してい強
このように六代目喜兵衛は必ずしもその家業に専念したと思えないが︑近藤家の製鉄業が一時息を吹き返したよ
うに繁栄をきわめるのは︑第一次世界大戦の勃発という︑偶然の事態によってである︒たまたま近藤家では大戦勃
発の年である大正三年︵一九一四︶に︑従来のタタラ形式を全廃し︑すべて低減銑鉄の製造に切換えたという︒そ
れがいかなる技術上の変革であったか︑遺憾ながら筆者はこれを詳びらかにしない︒しかしその切換えが行なわれ
た直後に大戦が勃発し︑ヨーロッパからの銑鉄︑なかんづくスエーデン銑鉄の輸入が杜絶した︒そしてこれに代っ
たのが近藤製鉄所産の除燐銑鉄ないし除燐半銑鉄で︑その需要はにわかに増大し︑それを各製鋼所に供給して国家
的寄与をもなしたという︒
近藤家所蔵の文書の中に︑ ﹃大正三年鳥取県日野郡勢要覧﹄という小冊子があったが︑その生産物中︑鉱産物の
項を見ると︑鉄︑銑︑銀︑鋼の販売価格の上昇ぶりを上のように示している︒
円 相憎それ以前以後の﹃要覧﹄がないので細かいことは言えないが︑大正三年の生産量およ 138245197274 卵師錦鵬銅粥 び販売高が急増したことは事実で︑それが人口にも反映したらしく︑明治四二年に三七︑0 8 2 0 1 9 8 1 1 1 1 二一という日野郡の人口は︑その後微増を続け︑大正元年には三七︑四三三となり︑それが
年 翌二年には三七︑一九一と減ずる︒そして大戦勃発の大正三年には急増して三七︑七八六と那2元町霧な・てい・・にわかにはいえないが・林業と肇とを除いて籍別の肇のない同郡の人︒ 大 明 の変化は︑製鉄業の隆盛を反映したかと思われる︒
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しかしこの好況も大正七年︵一九一八︶の大戦の終結と共に終る︒再びヨーロッパからの︑いわゆる洋鋼の輸入
が復活したからであることはいうまでもない︒
このように見てくると︑大正初頭の近藤家の家運は消えようとするローソクの火がしばらくは光輝をまし︑やが
て消えてゆくのに似ているかに見える︒製鉄業についていえば︑まさにその通りであった︒しかし近藤家はその少
ヘ ヘ へし前から新たな途を摸索しており︑たたら製鉄という伝統技法の中から新しい活路を見出しつつあったのである︒
そしてそれは喜兵衛の長男寿一郎の努力と手腕によるものであった︒
近藤寿一郎
根雨近藤家の歴史(承前)
寿一郎は六代目喜兵衛の長男として︑明治=二年目一八八○︶=一月八日︑根雨に生れた︒その年譜︵下村章雄
編﹃近藤寿一郎﹄所収︶によれば︑明治二九年九月︑彼が一六歳の時︑﹁官立大阪工業学校に入学︒病気のため中
退︒﹂とのみ記してあって︑それまでの経過については記されていない︒推測するに地元の小学校および高等小学
校を卒業して大阪に進学したと思われる︒高等小学校は明治一九年に初めて設置され︑修業年限は四力行であった
から︑寿一郎が一六歳で上級学校に進学したという年数に合致する︒官立大阪工業学校が今日のどのような学校の
前身であったか分らないが︑少くともそれは中等学校であったろう︒当時中等学校に対して官立という肩書を付し
たかどうかは疑問である︒恐らくは公立の意味で︑大阪府立ということではなかったか︒或は政府が工業教育発展
のために︑殊更︑・直轄の施設として設けたものか︑明らかではない︒しかも﹁病気のため中退﹂とあるが︑それが
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入学直後のことなのか︑つまり少くともそこで︑どの位修学したのかも明らかではない︒
なぜこのようなことに筆者がこだわるかというと︑地方素封家の相続人ともなれぽ︑その進学には種々な制約が
あったであろうと思うからである︒前号に記したように寿一郎には叔父に当る︑勝瀬八郎治はたしかに慶応義塾に
学んでいる︒しかしそれは彼が次男であったからで︑そして家郷を後にして上京することができたからである︒喜
兵衛の簡単な伝記からは︑どのような学歴を有したか明らかではないが︑他郷で修学したということはなかったよ
うである︒それは彼が長男であり︑近藤家の相続人であったからであろう︒父喜兵衛の相続人としての制約は︑そ
の子の寿一郎もまたそのまま当然負わねばならなかったものである︒
寿一郎の伝記が収録するその後年の手記の一節には次のようにある︒
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余は十五歳にして小学校を卒業す︑余の家庭は余をして文明教育を受けしめず︒却って︑余の向上的修養を差
止めんとするにっとむ︒従って︑余は十五歳にして修学上の指導者を失ひ︑大いに修学の方向を誤れり︑独学孤 ︵21︶究︑少々学問の真意を解するに及びて既往の失敗を救はんがために︑ますます迷路に入れり︑今尚解決を得ず︒
寿一郎の二女︑近藤妙子が︑その父を追懐した文章の中に次のような一節がある︒
父の明治三十六年から九年まで︵寿一郎 二三歳から二六歳まで︒一筆冠注︶の日記をひもとくと︑当時の
日記には父の将来大家族を擁してゆかねばならぬ家長としての責任を痛感して︑移りゆく時勢の波に対処する
根雨近藤家の歴史(承前)
ために家業の改革問題について真剣に考え悩んだが︑父の両親や祖父母にはその考えがわかってもらえず︑また
向学心に燃えていた青年時代に大学に進ませてもらえなかったやり場のない煩悶をつぶさに記している⁝⁝︵下
︵22︶略︶
また次のような一節もある︒
両親とも私達が子供の時から︑家庭の躾けは厳格であったが︑個性は十分に尊重してくれ︑私達が大きくなっ
てからは各自の好きな勉強をさせてくれた︒これは父が若い時に︑大学に進学させてもらえなかったため︑自分
の子供達にはそれぞれ凪ぎな専門教育を受けさせてくれたのだと思うと︑涙の出るほどありがたい気持がする︒ ︵23︶私が女学校四年の時︑卒業後︑同志社女専に進学させて下さいと頼んだ︒父は快く承諾してくれた︒
妙子が指摘する寿一郎の日記を筆者は披見していないが︑
であろう︒ その伝記に収録されている左の断片的文章がその一部
昨年は一言にして尽せば余の煩悶の歴史なり︒旧頂吉迫りて益々甚しく砕心搾脳︑ために健康を誤らんとす︒ ︵%︶偶々露伴叢書を読みで胴晴せる心意大いに爽快を覚え︑長閑なる新年を迎ふるを得たり︒
︵明治三六年一月︶
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例の余の煩悶問題漸くにして解決するを得︑
て将来に望を置くことに決心す︒独学孤究︑ ︵ゐ︶ざるも亦男子の面目なるべし︒ 即ち語学研究のため郷関を出ることは成功の見込みなし︒思ひ切り苦心惨憺の効を積むも亦男子の快事︑独立独行︑みだりに人に椅ら
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これらによれば寿一郎には強い大学進学の希望があった︒そしてそれは恐らく理工系の専門知識の修得であった
ろう︒実際にはそれは実現しなかったのであるが︑その後の寿一郎の言動がそれを裏付けている︒素封家としての
近藤家には十分その資力があったであろうに︑何故寿一郎の大学進学が許されなかったか︒父の喜兵衛が何故それ
に反対したのか︒それは伝統的な家業を代々継承してきた︑素封家の相続人が負わねばならぬ宿命ともいうべぎも
のであった︒家業を継ぐのに高度の学問は必要でないという考え方もあったであろう︒さらに他郷において高度の
学問を修めれば︑再び故郷に戻らず︑肝腎な家業を愛郷するであろうという危惧もあったのであろう︒
筆者の回想によっても︑まだ昭和の十年代までは︑その資力にも拘らず︑素封家といわれる家の長男の多くが︑
せいぜい中等学校を最後に家業を継いでいるのである︒寿一郎にしてみれば︑家業を継いで︑それを発展させるた
めにも一大技術革新が必要であり︑そのためにも高度の新知識が必要であると考え︑それを実現しようとして大学
への進学を志したのであろう︒しかし父喜兵衛は文事を事とする人ではあったが︑寿一郎の大学進学の希望を家業
の将来に結びつけることをしなかった︒病気中退というのも或いは寿一郎の絶望感からきた諦念によったものであ
るかもしれない︒
昭和六年一月といえば︑満州事変勃発の年の幕明けである︒この年九月一八日には柳条湖︵溝︶に戦火の発生を
みる︒国内においては日本精神が強調され始めたころである︒
と女子教育﹂という一文を発表している︒寿一郎時に五一歳︑
わば円熟期の手に成るものである︒その一節に︑ その時寿一郎は地元の﹃日野郡報﹄に﹁農村の更生後に述べるように各方面で十分に活躍している︑い
吾等の見るところでは︑国民の政治に対する態度を見るも︑社会的行動に見るも︑また産業方面の実績に見る
も︑知識の不足こそ痛感するが︑知識の過当と思う点はさらにない︒多々益々知識の充実を計らねばならぬと思
う︒人或は物質文明を呪って日本特有の精神文明を高唱するも︑現代世界の大勢として︑物質文明の擁護なき精 ︵26︶神文明は︑恰も砂上の楼閣の如く存立し能わざる実状を知らざる痴人の夢に過ぎぬのである︒
根雨近藤家の歴史(承前)
実に堂々たる立言ではないか︒当時の片々たる精神主義が横行する風潮の中において︑まさに頂門の一落ともい
うべぎ発言である︒
年譜によれば︑これより先︑寿一郎は大正一二年目月一〇日︑地元の根雨小学校に︑四百余点の理科標本を寄贈
している︒それは器械器具はもとより︑自己の選定により︑孔雀やライオン︑丁々の剥製を含む彪大なもので︑当 ︵7弓右︶時の金額にして四︑五百万円をこえるものであったという︒
筆者は寿一郎が高等小学校卒業後の進学の志がどのようなものであったか︑そしてそれは理工系の新知識の修学
がその目的ではなかったかという推測を裏付けるために︑以上の事柄を掲げたのである︒
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釜石製鉄所の視察
寿一郎は明治三〇年四月二六日から同年五月にかけて︑釜石製鉄所視察のための旅をしている︒これは彼が︑病
気のためであったか︑大学進学の夢を断たれたためであったか︑とも角︑大阪の工業学校を中途退学してから約六
ヵ月後のことである︒退学の理由がどうであっても︑寿一郎としては大学における専門学理の研究を断念し︑家業
に専念することを決意したのであろう︒しかし彼の信念や抱負からすれぽ︑現状のままで家業を推進することはど
うしても肯じられなかったのであろう︒そのためには洋風の新施設たる釜石製鉄所の実態を視察し︑そこに取り入
れるべぎもの︑そして取入れられるものがあるならぽ︑それを見究めてこようという︑大ぎな意欲に動かされたの
であろう︒
その結果が同年七月に刊行された︑寿一郎の手に成る﹃奥州漫遊所見﹄である︒同書は四六判の和紙二つ折︑二
二葉︑四〇頁︵緒言は別︶石版刷の小冊子で︑表紙には多少稚い寿一郎の筆で﹁奥州漫遊所見﹂と墨書されてい
る︒ 内容は前半の﹁釜石鉱山視察概要﹂と︑後半の﹁奥州漫遊日記﹂の二部から成っている︒﹁漫遊日記﹂四月廿六
日の項に︑始発駅神戸から乗車の模様を
ママ午前六時五十三分急行列車落選来ルや場内ノ雑沓立針ノ余地ナキニ至ラシム乗客混交辛ジテ車内二突入スル﹁ヲ
得タリ汽笛一声轟々トシテ進行ヲ始ム沿道ノ光景春色既二半ヲ去り桜雲千里ノ為メニ近郊ヲ朦朧タラシメシニ今 ママヤ 々タル田面新二黄金ノ光ヲ放ツニ至ル車窓ニヨリテ看光二慨重臣リシが暫三シテ吹田高紐︵槻か︶ト過ギ去
リ朦糊トシテ東寺ノ塔ヲ見ルニ至ル時早朝鐘声遠寺林二反射スルノ感アリ︵中略︶沿道漸ク狭斜トナリ左方遙二
泉山ヲ拝シ快然タル春風二様セラレ行ク﹁数里有名ナル琵琶湖二至ル湖上ノ連波快ク三井寺ヲ臨写シ春帆之二挿
ママシテ春和国︵恰か︶然タリ︒瀬田唐橋霞ヲ脱シテ昏々トシテ浮ビ共二湖上千古ノ勝景ヲナス尚急行スル﹁数時関 ママケ原ノ古戦場ヲ過グ其星霜ヲ見テ転ダ三百年ノ昔ヲ追懐セシム︵中略︶静岡二曹セシバ午后六時ナリキ即チ下車
シテ旅館大同館二入ル︵下略︶
根雨近藤家の歴史(承前)
恐らく汽車での東海道の旅は︑寿一郎にとって初めての体験であったろう︒移りゆく車窓の光景に胸を躍らして
いる数え年一八の青年の心境がよく分る︒そしてこの紀行文の背後にはまた︑家業に専念しようと︑はるぼる東北
の地へ視察に赴こうとする健気な決意さえ読みとれる︒
二六日目早朝神戸を出発し︑仙台︑花巻︑遠野を経て︑目的地の岩手県釜石に辿りついたのは五月二日目ある︒
この間︑寿一郎の眼は単に自然の風物にだけ向けられていたのではない︒東北随一の都市仙台を眼前にして﹁大ナ
ル商業生埋ダ発達セズ亦工業モ進歩セズ即チ途上煙突ノ空中二屹立シテ黒煙ヲ濃ルノ現象ハ未ダ視ザル所ナリー
一二当地ノ富ハ農鉱産物二因テ致サル・モノニシテ即チ粗製品ナリ﹂という観察をしている︒しかしその仙台も︑
今や鉄道によって南北諸地方と連絡し︑将来の発展が予想される︒寿一郎の想いはここで一転して故郷根雨にと
ぶ︒
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而シテ一顧我地方ヲ視レバ未ダ運輸ノ吉開ケズ随テ生産力義膜劣等ニアリ陰陽聯絡線︵山陽山陰両線を結ぶの
意︶開通ノ上ハ果シテ如何ナル現象ヲ来スベキや然レドモ蝕二彼是運輸上二藍テ其方針ヲ異ニスルモノナキニア
ラズ即チ彼ハ土地ノ生産ヲ開発誘発スルニアリ我ハ寧ロ商略的交通ノ便ヲ得ルノ主眼アリ将来両者ノ発達果シテ
如何︑
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はしなくも仙台と根雨地方との未来論になるのであるが︑寿一郎のいう商略的交通の便は︑今も根雨を中心とす
る地方には恵まれなかった︒そしてそれが最終的には近藤家の事業に対する大きな打撃となったのではなかろう
か︒ さて肝心な釜石製鉄所の視察であるが︑同製鉄所は明治七年︵一八七四︶に官営釜石製鉄所として発足した︒こ
の東の釜石が豊富な鉱石と薪炭や︑長年にわたる伝統技術がその根底としたものであったことは︑根雨のような山
陰および中国地方の︑いわゆる西の製鉄業と共通するものがあった︒しかしその後の釜石における官営事業は所期
の成果を収めることが出来ず︑一〇年代に入ると廃止された︒そして採掘された鉱石や燃料用の木炭が多量に敷地
内に放置されてあったという︒これに着目して民間事業としてその再興に着手したのは︑静岡県生れで旧薩摩藩の
御用商人であり︑当時東京在住の田中長兵衛である︒田中は工部省鉱山局に願出てその払下げを受け︑釜石鉱山田
中製鉄所と名称を改め︑製鉄業を再開した︒洋式の高炉を築き︑明治一八年に吹き入れをして多くの失敗を重ねな
がら︑ようやく良質の銑鉄を得たのは同一九年九月であったという︒その間︑帝大教授野呂景義の技術指導と︑娘
婿横山久太郎の物心両面の援助があったという︒今は新日鉄釜石製鉄所となった︑その事務所の前にはこの田中︑
︵28︶横山二人の胸像が立っているという︒
寿一郎が視察に赴いた明治三〇年の前々年である二八年には︑前記野呂が農商務省製鉄事業調査員として︑釜石
において新方式パットリング法による粗製錬鉄の生産および彼の開発した方法による︑砂鉄からの錬鉄の直接生産 お 等の実験が成功し︑それによって我が国は初めて国産のレールを生産することができるようになったともいう︒
寿一郎が遠路釜石を訪れたのも︑右のような目ざましい成果にひかれたものであったろう︒彼は前記﹃奥州漫遊
所見﹄の緒言に︑
一
{巻は我国に在て就業しつΣある洋風製鉄所の視察録にして管下鉄山当事者の参考に供するものなり
一
{巻は執務者及職工等の普く熟読するを以て目的とす故に文体平易にして教導的に記述せり︵中略︶
一
{巻は視察概要にして所謂鉱山誌なり尚微妙の作用彼我対照上の所感等に至ては繁雑にして尽す能はす故に
他日当事者に会し舌頭説明することあるへし
根雨近藤家の歴史(承前)
と記している︒これは釜石訪問を一片の視察にとどめず︑そこから実際的知識と改良案を探り当て︑近藤家一個の
ためでなく︑運命を同じくする周辺同業者に対しても︑有効な改良策を提供しようという熱意に濫れていたことを
示している︒そして自己の見聞とそれから得た知識については︑関係者に口頭で説明してもよいとすら記してい
る︒ 寿一郎が釜石において見たものの一々は専門的にわたるところも多いので︑その項目だけをここに列挙してお
35
く︒
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鉱山︑木炭︑熔鉱所︑熔鉱炉︑製出物品質︑送風器︑熱風炉︑
クス炉︑製作所︑運搬ノ便︑鈴子製鉄所事務所︑現世興醒商品︒ 予熔炉︑鉱津︑鍛工場︑鋳工課︑煉瓦製造︑コ!
当時釜石の責任者は前記横山久太郎であったが︑横山はこの遠来の一青年に対し懇切に応怪し︑専門的な事柄に
関しては部下の技師をしてその説明に当らせた︒その間に寿一郎が得た知識はいかなるものであったか︒その二︑
三を寿一郎自身の記述にしたがって掲げておこう︒
大高炉燃料ニハゴーh列ズ︐ヲ用ヒ小高炉ニハ木炭ヲ用ユ蓋シ木炭銑ハ其質純良ナルヲ以テ多ク上等ノ銑鉄ヲ出シ諸
官省造船所二供給スコ!クス銑ハ木炭銑二比シ梢不純ニシテ多ク民間二供給ス
歩止リノ如キモ種々アリテ其原料二従ヒテ差等アリ前記セル佐比内鉱ハ最純良ニシテ殆ド百分ノ七十ノ産額アレ
共其他ハ大抵百分ノ五十位ナリ鉱石ニハ熔誘剤トシテ石灰石ヲ混合ス其比例ニハ種々アリテ各鉱ニョリテ異ニセ
リ杉本技師日ク若シ熱風注入ヲ行ヒテ作業ヲ為ストキハ其燃料二於テ三分ノ一ヲ減ズルコト難カラズト
熱風ノ方法ヲ行フハ敢テ難事タルニアラズ燃料二於テモ別二消費スルニ及バズシテ高炉ヨリ廃棄スル一酸化炭素
瓦斯ヲ鉄管ニテ引用シテ熱風炉二導キ炉底ヨリ奔出セシムレパ炉底二遊散セル酸素ト化合シテ直二火炎トナリ昇
騰ス炉内ニハ鉄管ヲ蛇曲セシ戸吹子ヨリ来ル圧風ヲ通過セシメ八百度以上ヲ熱セシムルヲ得
鉱津ハ含鉄量甚ダ僅ニシテ酸化鉄ノ僅々百分ノ一乃至ニヲ含有スルニ過ギズ之レ蓋シ石灰ノ効力ナリ其鉱津ノ蹄
鉄量ヲ比較スル時旧習地方産出鉱津ハ殆ソド十倍ノ鉄分ヲ含有ス驚二堪タリト云フベシ色沢ノ如キモ大抵白色ニ
シテ僅二黒色ヲ帯ブルモノアリ然レドモ光沢性質ノ如キ破璃質二類似シ我地方鉱津ノ如ク半石筆鉄ノ如キモノハ
更ニナシ以テ大二銑鉄産出歩止リヲ増加セシムルや疑ナシ
これらいくつかの断片的な引用によっても︑寿一郎が釜石において何を見︑何を考えたかが理解される︒そして
これらの記述を通しても︑いち早くこれらの新手法を自己経営の製鉄業に取入れようとする意欲が感ぜられる︒
そしてこの視察録の最後を次のように締めくくっている︒すなわち
根雨近藤家の歴史(承前)
商業上需要供給ハ相伴ハザルベカラズ故二鉄属︵方響の意︶モ用途ノ発達ト共二供給之二応ズベキハ当然ノ結果
ナリ現今隷属ノ需用社会ハ前陳セル如ク区々タル日用品製作ニアラスシテ製作建造ニアリ故二黒形状重量ノ如キ
モ亦手職的精錬ニカ・ル小鉄材ニチハ到底其用ヲ弁ゼザルや明ナリ
ー我国工業ノ発達ハ僅々三拾年来ノ寺請二過ギザルが故二需用供給ノ不平棄乱ヲ来スモノ甚ダ多シ就中鉄牛ノ
類ハ最モ其平均ヲ誤ルモノニシテ我鉄器工作ノ業ハ日々長足ノ進歩ヲナシツ・アルモ其原料供給ノ釜日未ダ全ク
脂漏ラズシテ恰ド供給スル﹁能ハズ僅二中国地方ヨリ産出スル鉄属ノ類ハ所謂手職的製品ニシテ形状倭心産額少
ニシテ普ク需用二応ズル﹁能ハザルナリ故二年々洋鉄ヲ輸入スル﹁拾五万頓価格壱千万円以上二達ス
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この最後の数行は我が国の製鉄業の現状とその将来を見通した寿一郎の歎声である︒鉄に対する需要の増大に比
例して︑その生産が上昇しないのである︒根本的には我が国の鉄資源の絶対量の不足である︒製鉄における伝統的
手法には見るべきものがあり︑洋鋼に見られぬ良質の鋼を鍛冶することもでぎる︒しかしそれは寿一郎のいう﹁手
職的精錬﹂であって︑量産には向かない︒しかもその生産品たるや形状媛小で︑近代社会が要求する﹁大々的機械
の製作﹂や建材としては用をなさない︒それを行うにはその施設は余りに媛小である︒しかもその改良に要する資
本は余りにも彪大で︑一資本家のよくするところではない︒廉価な洋鉄の輸入に立ち向う余裕もないのである︒近
藤家のその後の命運ともいうべきものが予想せられる︒
寿一郎は釜石からの帰途横須賀に立寄り︑そこの造船所におけるシーメンス式製鋼炉をも実見し︑それについて
も詳細な報告を記しているのであるが︑ここではそれを割愛する︒
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寿一郎の﹁製鉄業改良意見書﹂
ヘ ヘ へ かつて勝瀬八郎治が次男でありながら︑よくその父喜八郎を助けてたたら製鉄業の改良に努力したことは前号に
記した︒そしてそれはほぼ明治一六年から一二年にかけてのことであった︒しかしその八郎治は惜しくも明治二六
年には没している︒そして近藤家にとって幸運なことは︑その直後日清戦争に際会したため︑勿論八郎治の改良の
努力によるものではあったにせよ︑軍事用の中大な需要に応え︑鉄の生産量は増加し︑家運もまた挽回した︒しか
ヘ ヘ へし一時の戦争景気が終りを告げれば︑伝統的なたたら製鉄は新技術による洋鋼の輸入攻勢には耐えられなくなつ
根雨近藤家の歴史(承前)
た︒ 叔父八郎治に代って祖父喜八郎を助け︑伝統的手法に改良を加えるという大きな役割を担うのが︑年若い寿一郎
であった︒その寿﹁郎は専門知識の修得という強い願望を断たれて悶々としていた時であるが︑やがて家郷根雨に
おいて﹁独学孤立﹂し︑勇猛心をもってこの大事業に当るのである︒そしてその前提となったものが︑前記の釜石
鉱山の視察である︒またこの視察の結果︑得たところの改良の具体案が﹁製鉄業改良意見書﹂で︑彼の伝記には︑
明治三四年︑二二歳の時に草せられたものとして収録されている︒筆者は前号において勝瀬八郎治の天才ともいう
べぎその青少年時代の識見について記したのであるが︑これを一読すると︑寿一郎もまた八郎治に劣らぬ︑優れた
資質と識見とをもっていたことが分る︒
ヘ ヘ へ 同書はもと祖父喜八郎に提出したものであるといわれるが︑日本に伝統的なたたら製鉄業の特殊性をよく見究め
ると同時に︑欧米における製鉄業の進歩についてもよくこれを究め︑しかも時勢の進運というものも十分に考慮
し︑伝統的な手法に対する十分な自信をもって︑その改良策が論ぜられているところに大きな特色がある︒そして
それが二二歳の︑独学孤究の青年の手に成ったものであることに︑改めて驚かされる︒
ヘ ヘ へ 彼は砂鉄を原料としたたたら製鉄業というものが︑祖先以来の﹁勤倹勉励﹂と﹁細々相積むの方針﹂によってそ
の基礎を固め︑今日にいたったことに感謝する一面︑それが一部の人間の間における独占事業で︑他に競争者をも
たぬという商業上の利点に安住し︑技術の改良を怠ったことを反省している︒すなわち
維新の変動以来︑我国の工業は大いに面目を改め︑殊に外国交通のために外国製品は続々輸入せられて︑既に商
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業上の強敵を得たり︒加ふるに︑泰西の学術を学んで︑よく凡ての工業進歩改良すること著しく︑或は品質の改
良︑製造費の節減等進歩の速なること甚しく︑一日も停止することなく︑到底旧式の業務を守ることを得ざるに
至れり︒此際我が製鉄業が明治維新以来︑幾何の進歩改良をなしたるか︑悲しきかな進歩の状到底同日の談にあ
らず︒此の間非常の差異あるを知るべし︒殊に海外に於ける製鉄業の進歩は著しきものにして︑萄も新発明の方
法と云えば毛無の差と錐も旧を捨て新を採るに躊躇せず︑熔鉱炉の改築︑製錬機械の改造︑製鋼装置の改良等︑
経済上及び品質改良上に於て得る処あれば駿々として改むる事ただ驚くの外なし︒︵この後に寿一郎はアメリカ
の製鉄業の現況に及び︑以前は鉱石の熔解に酸性炉を使用していたが︑今は塩基性炉に転換するという︑技術革
新ぶりを紹介している︒︶
我国の現況を見れば︑年々物価騰貴し︑ことにもっとも工業家の恐るべぎ労働問題も早晩盛んならんとするに際
し︑従来の如き職工使用方法を今後へ期するは︑到底不可能の事とす︒︵この期においてすでに労働問題の将来
に関心を示していることも注目すべきである︒︶
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以上が﹁意見書﹂の序ともいうべき部分である︒原文は漢字と片仮名とをもって記されていたというが︑ここで
は伝記に収録された文章に従った︒ ヘ ヘ へ さて寿一郎はその改良意見を展開するに当り︑まず砂鉄を原料とするたたら製鉄に関する誤解を解いておかねば
ならないという︒その誤解とは﹁泰西鉄冶金の理﹂によって砂鉄精錬事業を改良することが出来るか︑という疑問
から生ずるものである︒むしろこの疑問が障害となって︑従来の精錬業の改良が行われなかったともする︒それで
根雨近藤家の歴史(承前)
は我が国の冶金学者が何故そのような疑問をもつのか︒それは主として次の三つの誤解と無知とがあるからであ
る︒ その第一は︑我が国の学者が砂鉄をもって︑鉄鉱石に比して貧鉱︵鉄分の含有量が少いもの︶としていること︒
第二には︑砂鉄が微粒の粉鉱であるため︑鉄鉱石の場合と同じように高炉に装入することが出来ない︒︵西洋にお ヘ ヘ へいては︑勿論︑高温を得るために高炉を採用している︒︶第三には︑我が国の学者が従来のたたら製鉄という伝統
的精錬のもつ長所と短所を全く知らず︑これを無視していること︒この三点をあげている︒
しかし寿一郎によれば︑まず砂鉄は決して貧鉱ではなく︑磁鉄鉱に匹敵し︑有害物たる硫黄燐の含有量の少いこ
とは︑むしろ前者にまさるものであるという︒しかも価格は鉱石に比して低廉であることが何よりも利点であり︑
鉱石と同じ鉄の含有物であるという点から︑これに一般鉄冶金学の理論を応用できることはいうまでもないことを
強調している︒
第二の熔鉱炉の形式については︑砂鉄が粉鉱であるという点から高炉には適せず︑具体的には高さ一算程度の小
炉が適当であろうといっている︒しかし砂鉄を原料とする製鉄法が我が国に特殊な方法である以上︑砂鉄精錬の改
良策を︑坐して西欧人の発明にまっという態度は不可で︑砂鉄に最適な小型高炉を日本人自からが考案すべきであ
る︑とも言っている︒
第三の︑学者の伝統的手法に対する無知に対しては︑具体的にその長所とされるもの︵燃料として木炭を用い︑
良質の鉄を得るなどの︶は挙げておらず︑むしろその欠点ともいうべきものを挙げてその克服法を説明している︒
伝統的手法の欠点は︑従来の手法では砂鉄の含有する鉄分の四︑五〇パーセントというものを鉄渣︵かなくそ︶と
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して廃棄しているということである︒それが西洋式の高炉における鉄渣の鉄含有量は一パーセントを越えぬとい
う︒事実釜石製鉄所が用いる鉱石は砂鉄と同成分で︑鉄分六〇パーセントであるが︑釜石においては銑鉄五〇パー
セントを得るに対し︑砂鉄からは二〇パーセントを得るにすぎず︑要するに従来の手法では︑西洋式の三分の一弱
の銑鉄しか得られぬわけである︒しかしその原因は寿一郎によれぽ︑従来の手法による築炉には粘土を用いるの
で︑その粘土中の硅酸が砂鉄中の鉄分と化合して多くの鉄面を生むためである︒︵硅酸は粘土の中ばかりでなく︑
砂鉄そのものの中にも含まれている︒︶そこで西欧においては高炉に石灰を混入して硅酸と化合させ︑鉄分が硅酸
と化合することを防ぐことによって影響を少量ならしめている︒したがって我が国においても石灰の使用によって
効率を高め得るとしている︒
さらに寿一郎は︑自からの創意によるものとして︑かつて砂鉄と粘土汁と石灰石粉とを混合して砂鉄の塊︵塊
鉱︶を作ったところ︑鉱石と同じように扱うことができたばかりでなく︑精錬にコークスを用いるようになれば︑
熔鉱炉の立地条件も有利となり︑木炭使用の場合と異なり︑輸送上の便宜を中心に炉を構築することができると言
っている︒
砂鉄の溶解についで︑錬鉄製造法の改良についてものべている︒寿一郎の欧米における錬鉄製造法に関する研究
は相当なものであるらしく︑﹁パットリング法﹂﹁ベセマ!法﹂にもふれている︒︵専門外の筆者の理解し得るとこ
ろではない︒︶しかしその高度の技術と大規模な施設︑したがって多大の資本を要する点から︑﹁精錬法は当分旧式
の火窪を持続することとなし︑火窪の構造を少しく改良すれぽ其利益少なからざるべし︒﹂と言っている︒
そして火窪の改良には耐火煉瓦の使用を凪ぎ︑自からの実験の結果の良好であったことも述べている︒しかし当
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時の我が国においては︑その耐火煉瓦の良質なものを得ることがそもそも困難であったようである︒
次には鉄の鍛延に必要な﹁鎚の改良﹂についての主張である︒
鉄の鍛延に必要な鎚を︑人力によらず︑気鎚︵スチーム・ハンマー︶に替えたことについては︑明治二〇年代は
じめの頃の八郎治の苦心と努力について︑すでに前号に記した︒しかし気鎚を作動させるに必要な熱源は︑どうし
てもそれを薪ではなく︑石炭に求めなければならない︒しかし山に囲まれ︑海岸からは遠い根雨周辺という立地条
件では︑石炭の入手はきわめて困難かつ高価なものとなり︑その使用には限界があった︒
寿一郎が提唱する気宇は蒸気ではなく︑圧搾空気利用のそれであった︒しかもそのエネルギーは同地に豊富な水
力を利用するものであった︒彼は意気高らかに︑﹁此の機械は価高からず其成功に付ては殆んど直なし︒汽鎚の如
ぎ不経済のものは速に廃して之を採用すること尤も急務なり︒﹂と主張している︒
そしてこれらの改良意見は次のような言葉をもって結ばれる︒
根雨近藤家の歴史(承前)
一今日の機運只旧法のみを守ると錐も︑到底後来長く持続するものにあらず︒早晩改良は止むを得ざるとこ
ろ︑坐して窮境に至らんよりも寧ろ速に改良を断行して一日も早く今日の遺墨を拾得するに若かず︒只坐して改
良の模範を得んと欲するも得べからず︒1只自ら進んで改良試験を行ひ独立独行自家の幸福を謀るにあらざれ
ぽ他日千歳の悔を残すに至らん︒以上の議論学術上の研究なれば︑実地試験をなさざるべからず︒始めより大な
る計画をなすも或は失敗の憂なしとせず︒
以上陳述せる如く改良の見込充分なるを以て︑速に専門の技師の意見を求めて改良試験の挙あらんこと︑希望
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︵30︶に堪へざる所なり︒
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以上見たところによっても︑寿一郎の提案はぎわめて慎重である︒少からざる部分がその研究と実験との結果に
基いている︒そしてその数年前における釜石鉱山の視察によって得た知識がその大きな根抵になっていたことはい
うまでもない︒しかしその態度はあくまで謙虚で︑﹁専門の技師の意見を求めて云々﹂と言っている︒その心の底
に︑自からが希望してしかも達することの出来なかった︑専門知識獲得の夢の果されなかったことに対する無念さ
が潜んでいるように思われる︒それにしてもこれらの提案が二二歳の青年の手によってなされたことに改めて驚か
される︒ さて先にも引用した寿一郎二四歳︵明治三六年一月︶の時の日記の一節に次のような記事がある︒
鉄山に滞留すること一週間︑不便の地に在って煙草を飲まず︑間食をなさず︑つとめて克己の練習をなせり1
徒らに如何にすべきかといふ原理の探究に煩悶する事を止め︑今日の課業を規則的に望むることの須要なるを
︵31︶感ず︒
これは右の﹁改良意見書﹂を認めてから二年足らずの後のことである︒寿一郎はその前年一一月二〇日に結婚し
ているから︑彼にとっては︑まだ新婚の夢さめぬころである︒﹁鉄山に滞留すること一週間︑不便の地云々﹂や
﹁克己の練習﹂等の文字が特別の意味をもつのである︒しかしそれにもまして彼の苦心の手になる改良意見は︑そ
の後具体的にはどうなっていたのであろうか︒この断片的な日記の文面からはそれを覗うことはできない︒彼のい
う﹁原理探究﹂の言葉からすると︑まだ改良はその緒に就いていないようである︒そのために煩悶することも多か
ったのであろう︒
木材乾鯉から酷酸製造へ
根雨近藤家の歴史(承前)
祖父喜八郎は寿一郎の改良意見の中︑人力を動力に代えるという部分だけは採用した︒しかし従来の炉を寿一郎
が主張するように︑洋式の半高炉に改めることには賛成しなかった︒その理由は何よりもそのための設備投資が過
大であり︑その成果に必ずしも自信を持ち得なかったからである︒
しかしそれでも鉄の需要が増加し︑それまでの窮境を脱することのできる事態が生じた︒いうまでもなく︑明治
三七年の日露戦争の勃発によってである︒戦争となれば鉄の需要は急増する︒しかも砂鉄を原料とし︑木炭を燃料
ヘ ヘ へとするたたらによって作り出す鉄は良質である︒銃砲やその弾丸の製造には欠くことのできないものである︒平和 ヘ ヘ へ時における生産コストの割高は問題でなくなる︒いかに高価であろうと︑軍国の用を満たすためたたら鉄の需要は
急増したのである︒従来の施設とその技法はそれによって維持された︒
しかしそれも戦争が継続したニカ年のことで︑やがて戦争が終結すれば事態は旧に復するっ需要は激減し︑生産
ヘ ヘ ヘコストの高いたたらによる鉄は洋算に太刀打ちも出来ない︒日用品としての鉄は多少品質が劣っても︑結構間に合
ヘ ヘ へうのである︒そして砂鉄によるたたら製鉄を続けるとなれぽ︑どうしても生産量を上げ︑コストを下げるための改
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良が必要となるのである︒
寿一郎の苦悩はここにあった︒祖先伝来の手法は何とかして維持したい︒しかしそれを存続させるためにはどう
したらよいのか︒寿一郎がそこで思いいたったのは燃料としての木炭の経費を切りつめることである︒そうするこ
とによって全体のコストを切り下げることができるからである︒そこで考えついたのが木材の勾画である︒木炭も
一種の耳蝉であり︑平易にいえばむし焼きである︒ただ寿一郎の創意は木材の静置によって生ずる煙を冷却して木
酷液を作り︑さらにこれから数種の工業薬品を得て販売すれぽ︑木炭そのものは経費を要せぬ副産物となるという
点である︒木炭は原木材の二〇%位しか得られず︑残余は煙となってしまうのであるから︑その煙が有効に利用で
きるとなればきわめて有利である︒そこで寿一郎は根雨に近い菅福の製鉄工場において初めて木材乾鯉の実験を行
った︒明治三八年のことである︒そして木材の乾鯉によって生ずるガスを冷却することによって木犀三五〇%︑可
燃ガスニ五%︑木炭二五%を得た︒そしてさらに木酷液を精製することによって導燈八%︑メチルアルコールとア
セトンを各二・五%︑タール八%等を得ることがでぎた︒まずまずの成功である︒何よりも副産物として得られる
木炭を製鉄に廻すことによって製産コストを下げ︑本業である製鉄業の窮境を救う見通しをもっことができたので
ある︒ しかし木酷液から採取出来る酷酸製造に必要な酷酸石灰は微量であるから︑本格的な酷酸製造のためには︑他か
らそれを購入しなければならない︒当時東京にただ一つあった酷酸精製工場からその供給を得ていたのであるが︑
同工場の閉鎖によって︑寿一郎の事業もまた中止せざるを得なくなった︒
寿一郎が第二次ともいうべき実験に着手し︑根雨に木材乾鱈実験工場を設置したのは明治四三年である︒当時東
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根雨近藤家の歴史(承前)
京においては新たに大倉喜八郎を社長とする日本酪酸製造株式会社が設立され︑その塩原工場においては新しい方
式による国母の製造が行われていたのである︒新しい方式とはドイツ人マイエルの発明した減圧蒸鯛法で︑それに
よると酷酸石灰から容易に︑しかも純粋な墨池が得られるのである︒寿一郎は日本酷酸の塩原工場を視察して自信
を得︑自からその実験に着手したわけである︒なお当時塩原工場で初めて出会った青年技師村崎茂三郎は後に寿一
郎の招請に応じ︑堺市に近藤製薬工場を設立する際︑寿一郎の片腕となって事業の発展に貢献することになる︒
根雨の実験工場においては木薬液からメチルアルコ:ルやアセトン等の工業用薬品の抽出が試みられた︒従来は
木酷液か粗製の酷酸石灰を得るだけであったが︑これは飛躍的な実験といえよう︒
酷酸︵O国ωOOO国︶というと専門外の筆者の認識ははなはだ薄いのであるが︑工業用薬品としての重要性はきわ
めて大きく︑まさに諸薬品の宝庫ともいうべきもので︑その用途は広い︒セル戸イド︑ビニール︑アセトン︑ニス
テル︑エチル等の原料となるばかりでなく︑合成繊維の原料となるアセテートやビニロンもまたこれから抽出され
る︒ さらに湿布剤や媒染剤の原料ともなれば︑人口果実のいわゆるエッセンスとして人口香料の原料ともなるのであ
る︒さて根雨実験工場における実験は順調に進み︑大正二年には根雨に木材乾鯉工場を設立して本格的生産に乗り
出すことになる︒
そしてその直後に第一次大戦が勃発し酷薄の需要が急増し︑大正四年に設立計画をはじめた堺市の近藤製薬工場
は翌大正五年一〇月一八日にボイラーに火入れ式を行い︑大々的な生産に従事することになる︒奇妙な巡り合せで
あるが︑第一次大戦の勃発はふたたび和鉄の需要を激増させ︑そのために必要な木炭は原木材の確保をめぐって︑
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かえって製鉄業が乾瑠事業を圧迫するにいたった︒そのため一時は原材を求めて乾鯉工場を北海道長万部に移転さ
せるなどのこともあったが︑大戦終結とともに事態は前に戻る︒そして長い歴史をもった近藤家による和鉄製造は
閉業されることになる︒大戦の終結する大正七年︵一九一八︶のことである︒
以後根雨においては家庭用の木炭の生産だけが行われるようになる︒さて堺工場における酷酸製造は大戦と同時
にドイツから輸出が止り︑しかもその需要の多い東南アジア方面に︑ドイツに代って日本が輸出することになった
から︑事業はきわめて好調であった︒競争会社も次から次へと設立された︒
しかしそれも大戦の終結によって終焉する︒ドイツの新方式︵アセチレンガスから合成酷酸を製造する︒︶によ
る廉価な酷酸の輸出によって大ぎな打撃を受けることになる︒
そのため業者間の生産ならびに出荷の協定が必要となり︑日本酷酸︑近藤製薬︑広栄些些︑伊藤酷酸の大手四社
がそれを行うことになった︒この間︑業界の指導的位置に立っていた寿一郎は各社の利害の調整という困難な仕事
を引き受けてこれを成功に導いた︒後に昭和二年にはこの四社が主体となって︑日本合成化学工業株式会社を設立
し︑寿一郎もその取締役に就任した︒
しかし新会社の内部は人の和を欠き︑寿一郎は敢て詳しくその詳細は記していないが︑次第にその経営に意欲を ︵32︶失い︑逐次持株を売却し︑太平洋戦争中には完全な絶縁状態になったという︒
これに代って寿一郎は旧近藤製薬工場を株式会社に組織変更をし︑社名も近藤化工株式会社と改め︑独自な経営
を進めることになった︒昭和=ハ年一〇月のことである︒
同社も同一九年には協和化学工業株式会社に合併され︑戦後の二四年にはさらに東亜化学興業株式会社に合併さ
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根雨近藤家の歴史(承前)
れた︒これら一連の経過は戦時中の統制によるものと思われるが︑一面には大資本の進出の前に吸収を余儀なくさ
れたのではないかと思われる︒
戦時中の一九年には大阪に残存していた鋼鉄販売店も戦災に遭い︑事後は土地も売払って根雨に引揚げることと
なった︒ このような酷酸製造という主事業とは別に︑寿一郎は明治四五年には日野郡是製糸株式会社を設立して社長とな
り︑途中社名の変更はあったが昭和の初めまでその経営に当っている︒
また大正四年には根雨電気株式会社︑翌五年には大正醤油株式会社︑同七年には根雨酒造株式会社を設立してそ
れぞれ社長に就任している︒
戦後の昭和二一年にはそれらの事業のいくらかを統合ルて近藤興業株式会社とし︑その監査役に就任している︒
寿一郎の事業はその他地元の銀行の設立︑木材会社の経営︑森林組合の育成軽きわめて多方面にわたっている︒
事業とは別に教育方面においても各種役員としてその功績は大きい︒
寿一郎は昭和三三年一一月七日病気のため没している︒
寿一郎の三男廉三は父の生涯における事業を︑明治末期から大正にかけての和鉄生産︑昭和初期の木材化学工業
から有機合成化学︑満州事変から太平洋戦争にいたるまでの魚崎の販売をあげている︒子から見た父の主たる事業
はそこにあったのであろう︒
廉三はさらに近藤家が蒙った打撃として︑特に戦後の財産税について述べている︒近藤家に課された彪大な財産
税を金納するため︑敗戦直後︑また価値も上っていなかった山林や有価証券の売却によってそれが行われたため馬
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近藤家は実にその資産の八割を失うことになったという︒協和発酵の前身である協和産業の株が︑五〇円全額払込 ︵詔︶みのものが一〇円︑同じく半額払込みのものが五円で処分されて税金に代ったともいうのである︒
寿一郎の伝記に収められた旧部下の大瀬悌次郎の回想によれば︑大戦署すでに寿一郎は石油化学の前途に関心を ︵34︶もちイソプロビールアルコールからのアセトンの製造を堺工場で実施していたという︒また日華事変勃発の直前︑
前記村崎技師をヨーロッパに派遣して実状を視察させ︑村崎の献策により合成樹脂の製造の企業化も考えたとい
う︒これは戦争勃発のため実現されなかったが残念のことである︒寿一郎には窮境を打開し︑新時代に適応する先
見の明が常にあったのである︒
ヘ ヘ へ 筆者は長々と近藤家の歴史を辿ってきた︒ことにたたらという伝統的手法によって和鉄を製造してきた近藤家の
盛衰を︑その時々の近藤家の人々を中心に見てきた︒今日の近藤家は決して往時の隆盛時代の面影を留めていると
はいえない︒﹁何故か﹂それが勝瀬氏の第一の疑問であった︒筆者はその疑問を解明する︑いくらかの手掛りは提
供し得たと思うが︑結論を得るにはいたつていない︒適切な結論は読者にまつ以外にはない︒唯だ近藤家の歴史を
辿ってきて︑その祖業の衰亡を一片の経済理論で割り切ることはできないというのが筆者の感想である︒思わざる
事態の展開︑それぞれの人々の理想と営為︑そのようなものが案外に歴史を大きく動かしている︑という思いが強
いのである︒
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根雨の教育環境と山田方谷
根雨近藤家の歴史(承前)
鳥取県といっても岡山県境に近い︑山間の僻地ともいうべき根雨の近藤家一門から︑早稲田や慶応等の中央の大
学に進む者の多かったのは何故であろうか︑というのが勝瀬康三氏の疑問である︒前号にも記したように勝瀬氏を
はじめ︑近藤一門で早稲田に学んだ者の数は女子四六を含む二七名である︒
根雨の周辺にはそのような教育に熱心な地盤があるのであろうか︒試みに朝日新聞社編﹃別冊民力ーエリア・
都市別民力測定資料﹄の一九八五年版によってその数字を拾ってみると︑根雨地方は米子エリアの郡部に入れられ
ているが︑教育化水準は全国平均を百として四九・六で︑鳥取の一=二・二︑倉吉の九一・六︑米子の九六・九︑
松江の一〇四悪ニ等︑その周辺地域と比較して︑そのいずれよりも低い︒また高専以上短大︑大学等の在学生値は
零になっている︒一戸当りの教育費などの統計があれぽ︑大いに参考になるであろうし︑他郷の高等教育機関にお
ける在籍老の統計でもあれば︑或いは納得できる数字を示してくれるかとも思うがそれはない︒
ただ鳥取県私立学校協会が編集した︑﹃鳥取県の私学﹄には︑明治初年の文部省の調査による寺子屋数が峻別に
出ている︒それによると︑根雨のある日野郡の寺子屋数は七二で︑会見郡の七九についで第二位である︒しかも根 ヘ ヘ へ雨宿には医師山本器が医業のかたわらそれを開いていたことを記している︒またたたらの置かれていた︑筆者には ︵35︶なじみの深い黒坂宿には九箇︑また宮内や笠木等の村にはそれぞれ四ないし五箇の寺子屋が置かれている︒これは
注目してもよい数字ではないかと思う︒
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かつて筆者が近藤家を訪問した時︑番頭の恩田謙氏の話では︑医師山本器が定期的に近藤家に出張教授をしてい
たということであった︒この山本器が前述のように根雨宿に寺子屋をも開いていたのである︒なおその時に蘭学者
の医師長尾操や︑国学者の医師足羽某も近藤家に出入りしていたということである︒今も近藤家が所蔵する書画の
中には︑江戸末期から明治にかけての学者文人のものが多いようで︑近藤家に長く維持されてきた学問的ないし文
化的な雰囲気をうかがわせる︒
なおその訪問の際忘れられないのは︑山田方谷先生が時々根雨を訪れて教授されたという恩田氏の言葉である︒
山田方谷︵文化二年〜明治一〇年︶は備中国阿賀郡西方村︵現在の岡山県高梁市中井町西方︶に生れた︑幕末か
ら明治にかけての有名な学老である︒伯備線で根雨に向う途中︑方谷︵ほうこく︶という駅がある︒筆者は車窓か
らその駅の案内板を見ていたので︑根雨で恩田氏から方谷の名を聞いて不思議な感じがした︒
方谷は農民の出であるが︑その学識を認められ︑幕府老中として幕末維新の歴史に活躍する備中松山藩主板倉勝
星︵いたくら・かっきよ︶によって抜擢され︑藩政の実務に参画した︒維新前は現高梁市の高梁川沿いの長瀬に居 お さかぺを構えていたが︑維新以後はその母の生地である小坂部︵現在では刑部と称し︑岡山県阿哲郡大佐町に属す︶に居
を移し︑同時に私塾を開き︑子弟の教育に当った︒
小坂部と根雨とは伯書往来によって結ばれ︑交通は至便であった︒﹃大佐町史﹄によれぽ
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だいせん回書往来 この街道は一に大山道とも称された︒小坂部より峡谷の川岸をただり︑
山を経て中国山脈を越え︑坂井原に出て根雨に至る︒ 山奥に入り︑赤松・伏谷・君
旧弊書道は︑大山を結ぶ江戸時代の幹線道路で雑︵難か︶路であった︒
鉄を運んだ道である︒
とある︒かつての方谷もこの道を辿って根雨を往復したのではないか︒
筆者は方谷に興味をもって山田当盤の﹃方谷先生年譜﹄︵明治三八年刊︶
伝記史料として価値高いものである︒その中の︑嘉永三年の項に けれどもこの街道は山中で生産されたに当ってみた︒ちなみに同書は方谷の
北備ノ三室吉田ノ両鉄山諸多及ビ鋳長山那賀ヲ開掘シ︑盛二砂鉄ヲ採取シ︑近似村二鍛戸数十屋ヲ設ケテ︑鉄器及 ︵36︶ビ釘ヲ製シ︑北方吉岡ノ両銅山川阯騨鍵醗ヲ開盛二製銅ヲ廻漕シ巨利ヲ得
とあった︒これは方谷四六歳の時で︑備中松山藩の財政建て直しに専心していた時のことである︒
さらにそれから三年さかのぼった弘化四年の項には
根雨近藤家の歴史(承前)
四月請ウテ津山藩二遊ブ︑当時諸藩ノ軍政︑従来ノ形式ヲ墨守シ︑碓術ノ如キモ︑所謂古流ニシテ︑洋法ヲ講習
スル者稀ナリ︑偶美作藩士天野某︑高島秋帆ノ伝ヲ得テ帰国ス︑故二曹行アリ︑︵中略︶昼ハ某二就テ臼砲忽微
砲及銃陣ノ大要ヲ伝習シ︑︵中略︶凡ソ月余ニシテ帰り︑直二二砲ヲ製シテ一聯二伝授シ︑古流ノ晒習ヲ一洗ス︑ ︵田︶是レ我藩軍政改革ノ濫膓ナリ︑
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とある︒なおこの文の頭注に
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先生此時文事アルモノハ武備アルノ則二従ヒ︑小臼砲ヲ製シ︑枕二代ヘテ寝ラレシコトァリ
とある︒ なお降って安政四年の項には
大砲数十門ヲ鋳造シ︑城門内二陳列ス︑ ︵錦︶諸藩ヨリ来り観ル者︑武器ノ精備小藩二似ザルヲ驚カザルモノナシ︑
ともある︒
ここで注目しなけれぽならないのは学者としての山田方谷の特異な一面である︒我々はともすれば三島中洲や川
田剛などという著名な漢学者で︑しかもすぐれた詩文家であった人々を弟子にもつ︑師としての方谷を理解しがち
であったのであるが︑方谷はいわゆる実学者である︒経済的には松山藩の財政改革に当り︑その一助としての殖産
興業においては鉱山採掘から銅や鉄の生産︑鋳造にも当り︑また軍政の改革にも当ったのである︒いち早く洋式の
大小砲を鋳造することができたのも︑それに関する知識と技術とがありたからであろう︒
私は三年前︑高梁市の郷土資料館を訪れ︑その方面の資料を探したのであるが︑それは無かった︒資料館前庭の
方谷像や︑館内に展示してある︑方谷の数条の書幅は見ることができたが︑資料室にはその方面に関する資料はな
かった︒心がけて方谷関係の文献に当り︑山田方谷全集全三巻にも眼を通したが︑それらしいものはなかった︒
余談に類するが︑維新前の北越戦争において大いに官軍を悩ました︑越後長岡藩の家老河井継之助は方谷を慕っ
て前記長瀬に方谷を訪ね︑入門して教えを受けている︒入門に先立って彼が父母に送った安政四年四月二四日付け
の書状には
私輩の未熟︑師範に致す可ぎ者は幾等も御座候得共︑兎角学問を職業の様に致し候老多く︑才徳を兼候実学の人
少なき様存遣られ候処︑第一志望仕候は山田安五郎︵安五郎は方谷の通称︶当三月黒表江戸へ罷出候由承り︑楽
に存じ奉り候処︵事故があって方谷は上京しなかった︒︶⁝⁝右安五郎と申者は︑元来百姓にて︑唯今は登用せ
られ︑政事を預り︑国中神の如く伏し候由︑其事業実に感心仕候︒已に此頃も諸国遊歴人に承り候に︑政事の万 ︵39︶事行届候者︑備中松山侯︵板倉勝静をさす︶と相馬様︵奥州中村藩相馬大膳太夫のこと︶と承り︵下略︶
根雨近藤家の歴史(承前)
とある︒ なお継之助には﹃塵壷﹄︵平凡社刊﹁東洋文庫﹂所収︶という日記があり︑その安政五年六月七日前ら九月一七
日までの記事は備中松山における方谷との交情のそれである︒またそれについての詳細な解説としては山田琢の著
︵つ4︶作がある︒後年河井が長岡藩の藩政改革に従事して成功したのも︑そして今日の機関銃に類する新兵器を外国商人
から購入し︑大いに官軍の進攻を悩ましたというのも︑その根抵には方谷の実学思想と︑方谷その人から得た影響
があったと思われる︒
55
さて︑話を再び方谷と根雨との関係に戻さねばならぬ︒前記恩田氏は近藤喜兵衛︵寿一郎の父︶は晩年の山田方
谷に師事していたといわれた︒恐らく︑方谷が明治三年秋︑長瀬から小坂部に隠棲するようになってからのことで
あろう︒しかし文久三年︵一八六三︶生れの喜兵衛は︑方谷の最晩年といえ︑その年齢は一〇歳前後であったろう
から︑彼の方谷師事は父喜八郎の発意によったものであろう︒むしろ喜八郎こそ︑方谷から実際的な知識を吸収し
たのではなかろうか︒というのは︑現に刑部に在住する長瀬という元小学校長であられた婦人の方からの筆者への
電話では︑﹁根雨の近藤家の番頭さんが︑しばしば方谷先生の教えを受けに来ていたそうです﹂とのことであった︒
長瀬氏というのは筆老の方谷と根雨との関係に対する関心を知った某氏が筆者に紹介された方であるが︑老齢の故
をもりて取材には応ぜられず︑わずかに電話で右のことを伝えてくれたのである︒
この際における近藤家の番頭の方谷訪問は喜兵衛の師事とはその内容を異にし︑製鉄に関する実務的知識であっ
たろうというのが筆者の推測である︒
﹃大佐町史﹄には﹁水谷氏知行所没収後の民政につぎ答申﹂という宛名ならびに年月日不詳の︑方谷自筆の文書
が収められている︒その執筆年代は内容から見て︑水谷氏の知行所である小坂部に方谷が移住した直後の明治四
年︑或いは廃藩置県の直前ででもあったかと思われる︒その同地方の改革方針を述べた一節に
56
此上追々田畑を検し︑
申︑尚又郷校を設け︑
︵41︶それ申上候︒︵下略︶ 荒蕪を開き︑山林を養ひ︑鉄鉱を盛にし可申と評議己︵のみか?︶に而︑手を下に及不レ農兵を編み候儀は︑己に略論定仕総譜共︑取掛り不レ申場合に御座候︑其次第下条にそれ
根雨近藤家の歴史(承前)
とある︒ これは議論だけで実際に着手はされなかったが︑小坂部地方において維新後も鉄鉱を採掘し︑製鉄業をも拡大し
ようとする方針のあったことが知られる︒当然方谷にもそれに対する関心はあったであろう︒筆者は近藤家が維新
後も方谷が抱いていた鉄鉱に関する知識や関心をそのままにせず︑いろいろな方面にわたってその意見を徴したで
あろうと推測するのである︒
なお前記﹃町史﹄には寛政二歳︵一七九〇︶の記年のある棟札が︑同町本町の蛭子宮にあり︑それには﹁伯州根 ︵42︶雨町大工定平﹂の名があるという︒これは比較的便利な交通路によって︑小坂部と根雨とが古くから結ばれていた
証拠にもなると思う︒そしてそれは著名な方谷の影響が早くから根雨に及んでいたであろうという推測の根拠にも
なるであろう︒
筆者は勝瀬氏の疑問を十分に解くことはできない︒しかし以上の考察によって︑少くとも江戸時代の末から明治
にかけて︑根雨地方には教育に熱心な風土のあったことが知られる︒また近藤家にも学者文人を大切にする風習が
あり︑子弟をしてそれら学老に師事させたことも分る︒ ヘ ヘ へ 特に根雨︑ことにそこの近藤氏と山田方谷との関係にはかなり緊密なものがあり︑方谷の鉱山やたたら製鉄なら
びに鋳造に関する実学的知識は近藤家によって吸収され︑そのことが近藤家の学問や教育に対する考えを深める一
助になったのではないかとも推測されるのである︒
寿一郎はたまたま長男であったために︑大学進学は許されなかったが︑江戸時代このかた地方素封家には︑その
師弟を江戸︑京都︑大坂等の大都市に学ばせ︑その新知識を地方に還元すべきであるという一種の責任感をもって
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いたように思う︒責任感とまでもいわなくても文事や芸能を教養として身につけることは素封家の子弟にとって好
ましいことであるとする風習があったように思う︒
また一つには信州がその例にひかれるが︑同地方は今も教育に熱心なところである︒信州人は四方を山に囲ま
れ︑政治︑経済︑文化のあらゆる点から見て首都から隔絶されている︒新しい知識や情勢に関する情報に乏しい︒ それだけにそのような情報に箴え︑ついには家郷を後に都市に遊学することになる︒島崎藤村の﹃夜明け前﹄の中
の青年群像にはこのような種類の者が多い︒このような事情はやはり山間の僻地ともいうべき根雨の地方にもあっ
たのではないかと思う︒
しかし数字の上で現在の根雨地方がそのことを裏付けていないとしたら︑その理由は何であろうか︒志向の多様
化というか︑交通の発達による中央志向の漸減化現象ともいうべきものによるものであろうか︒さらに今後の考察
を要する問題である︒
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追録
ヘ ヘ へ 根雨近藤家の祖業であるたたら製鉄の火が消えてから七〇年になろうとしている︒その根雨の地に昨六〇年の
秋︑一つの碑が建立された︒高さ三メートル︑幅一八メートルの巨大な自然石の碑面には﹁早稲田人生劇場序幕の
碑﹂の文字が刻され︑その傍に﹁紺碧の空をつくった人びととともに﹂とも記されている︒文字は春秋会副会長土
倉尚之氏︵春秋会は早大応援部OBの会︶の筆になる︒このいわゆる﹁早稲田人生劇場序幕の碑﹂は勝瀬康三氏を