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発音を「聞く」から 発音を「見る」へ

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Academic year: 2021

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16 Field+ 2010 01 no.3

1 言語学的フィールドワーク

 私が行っているフィールドワーク はまだ詳しく知られていない言語の 言語学的資料を収集するためのも のだ。「知られていない言語」とは、

未知の言語であれば何でも良いと いうわけではない。調べた結果、理 論的に興味深い知見がもたらされな ければならない。調査結果から言え ることが、どれも世界の言語にあり ふれたものばかりだというのでは、

フィールドワークの価値は低くなる。

 フィールドワークで集める言語学 的資料とは、簡単にいうと、調査し ている言語の発音と辞書と文法を記 述するための資料である。私の主要 な専門分野は、このうち発音に関わ る事実を理解する音声学・音韻論と いう領域であり、単語や文を作ると きに使われる子音や母音やアクセン トや声調などの種類、それらの並び 方の法則、語形変化をするときの発 音の交替の規則を特に調べる。

 では、そういう事実を収集する目 的は何だろうか。次の3つがあげら れる。最初の目的は、それらの事実 を分析して、その言語の発音の仕組 みを正確に理解するための記述をす ることである。2つめの目的は、そ の言語と同系統の言語についても同 様の事実を調べて綿密に比較するこ とで、その言語グループの発音に起 きた歴史的変化を、つまり発音の歴 史を書くことである。そして3つめ の目的は、これまでに言語学が蓄積 してきた世界の言語の発音にかかわ る知識に照らし合わせることによっ て、自分が調べている言語の音声学 的構造・音韻論的構造が、どのよう な新しい知見を人類の知識体系に付 け加えることになるかを考えること である。個々の言語がどんな発音組 織をもっているかという点でも、ま た、個々の言語がどんな発音の歴史 的変化をしているかという点でも、

世界の言語の中での位置づけを考え ることは、その言語の資料の理論的 な意義を明らかにするために重要だ。

 私がフィールドワークをして調査 している言語は、南部アフリカのボ ツワナ共和国の乾燥帯であるカラハ リ地域で話されているコイサン諸語 のうちコエ語族に属するグイ語、ガ ナ語、ハバ語である。コイサン諸語

とは、いわゆる「ブッシュマン」や

「ホッテントット」と呼ばれて来た 狩猟採集民や牧畜民の話す言語群 で、ジュー(北コイサン)語族、ター

(南コイサン)語族、コエ(中部コ イサン)語族の3つからなる。これ ら3語族のうち、もっとも語族内の 多様性を示すのがコエ語族で、歴史 比較言語学的な考察の対象として意 義がある。なかでも私の調査してい る3言語は分類の定説の再考にとっ て興味深い。またコイサン諸語は、

世界の言語のなかできわめてユニー クな音体系をもっている(子音に数 十種類の舌打ち音が区別されたり、

単語内での音の現れ方に奇妙な制限 がある)ことで有名で、そのような 発音体系の調査は、歴史音韻論的研 究にとっても、また世界の言語音の 限界を理解するための理論にとって も資するところは多大である。

2 音声学的フィールドワークに おける「聞く」という行為

 未知の言語の発音を「聞く」とい うのは、いったいどんな仕方でする ものだろうか。聞いたことも無い発 音の観察は、最初は器械の助けを借 りて行うのか? という質問をうける ことがある。答えは否で、最初から 器械的手法を使うことは決してない。

では、どうするかというと、まず(1)

自分の耳で母語話者の発音を聞いて、

(2)即座にそれを自分の口で再生し て(真似して)、(3)それを母語話者 に聞かせて、正しい発音であること を確かめる。(4)つぎに今の自分の 発音がどのようなものだったかを内 省して、それを発音記号で記録する。

内省から発音記号にするまでの技能 は調査前に準備しておく。発音記号 は国際音声記号(IPA)として提案さ れているものを基礎にして、それで 足りない場合は、便宜的にその場で 自分で定義した補助記号を使う。

 これが、要するに、知らない言語 の発音についてのフィールドワーク における、最初の課題といえる。こ こで「聞いて真似して聞かせて正し く記録する」際に用いる言語単位 は、「単語」あるいはもっとも簡単 な句である。つまりなるべく文脈な しで発音できる、しかも意味をもっ ている単位を使う。文脈が豊富にあ 未知の言語の発音を「聞く」というのは、どんな仕方でするのか。

そうして聞き分け、発音し分けた言語学的資料を だれにでも見分けがつくように視覚化するとは? 

南部アフリカのカラハリ地域で話されている言語を対象とした フィールドワークを紹介する。

聞く 2

ボツワナ共和国

発音を「聞く」から 発音を「見る」へ

中川 裕

 なかがわ ひろし / 東京外国語大学大学院、AA 研共同研究員

写真1 ハバ語の 調査。協力者の小 屋の横にて。

写真2 グイ語の 資料録音。調査用 小屋の中で。

アフリカ

カラハリ地域

(2)

17 Field+ 2010 01 no.3 ると、発音というのはぞんざいで

も、つまり音声的な姿が完全でなく ても、もとの単語が同定できるから だ。そういうぞんざいで不完全な発 音は観察しない。音の情報だけで、

その単語を同定させるような条件で の発音を観察しなければいけない。

 上記の(1)〜(4)のうち、フィー ルドワーカーが「聞く」のは(1)

だけである。他は相手に「聞かせる」

行為と、自分の発音器官の運動を理 解する行為である。さらに、このあ との段階では、こうして記録した単 語がたまっていく過程で、単語を構 成する子音や母音の各々が現れる位 置(どんな順序で配列するか、語頭 か語中か語末か)、前後の音は何か などを分析するパズル解きのような 作業になり、「聞く」ことからは一旦 さらに離れる。この分析の結果、主 要な音韻体系(子音と母音の種類の 分類一覧、単語を構成する際の子音 や母音の配列規則、音の交替の規則)

が分かる。器械を用いた音声学的観 察を導入するのは、これらの一連の 調査分析が終わってからである。

3 発音を「見る」

 器械音声学的手法の導入の大切な 目的は、フィールドワーカーが自身 の耳と口で聞き分け発音し分けて、

主観的に内省して理解した言語音の 区別の発音メカニズムを、だれにで も見分けがつくように視覚化するこ とにある。「聞く」を「見る」に変換 することで、主観的観察の正しさを 客観的に判断する手がかりを与える ことである。これは未知の言語の調 査をしていて、これまでには知られ ていない(あるいはきわめて少数の

言語にしか知られていなかった)発 音の区別が発見された場合、その報 告や記述、それにもとづく理論的な 議論にとって、その信頼性を保証す るために決定的である。たとえば、

私が調査をしているコイサン諸語の ように、世にも稀な複雑な発音方法 で多数の音を区別している言語では、

たとえどれほど自分の聞き分けと発 音区別の正しさに確信があっても、

器械音声学的資料の提示がなければ、

信頼性の低い調査結果と見なされる。

 器械音声学的な観察・観測には、

音声学実験室で行うような高度に精 密な手法もある一方、私が行ってい るようなカラハリ砂漠で実施するこ とのできる比較的簡単な方法もある。

たとえば、録音資料の音響分析がそ のひとつである。ほとんどすべての 言語学的現地調査では、母語話者の 発音の録音をとるものだ。その録音 が充分に高音質であれば、音響分析 ソフトウェアで分析し、聞き分けの 手がかりになっているはずの様々な 音響特性を提示することができる。

 図1は、コイサン諸語ター語族コ ン語に発見されている非常に珍しい 発音の区別を、音響的な分析結果で 示した例である。詳細には立ち入ら ないが、ここに示した2つの単語の 頭 子 音([ts’] と[ds’]) は、「 放 出音」と呼ばれる特殊な気流機構で

発音され、この言語では、両者の区 別にさらに声帯振動の有無つまり有 声と無声の区別も関与している。こ のように「放出音」に声帯振動の有 無の区別がなされるのは、世界の言 語の中できわめて稀なことで、コイ サン諸語のごく一部にしか観察さ れない。図の2単語の開始部を見る と、右側の単語では[ds’]の前半 部分に模様が見られるが、左側の単 語の[ts’]の前半部分は空白になっ ていることが明らかだ。実はこの模 様の有無が声帯振動の有無を示して いる。このような特殊で稀な発音の 区別を報告する場合には、ここに掲 げたような器械音声学的な資料を用 いて、調査者が聞き分けた音を視覚 化して示すことが期待される。さも ないと「聞き違い」では? と疑わ れかねない。

 フィールドワークで比較的簡単に 用いることのできるもう一つの器械 音声学的手法として、静的パラトグ ラフィーという技術がある。これ は、炭の微粒子を食用油で溶いて、

これを母語話者の舌に塗り、ある発 音をしてもらった後に鏡を口にいれ て上あごを撮影するという観察方法 である。これによって、ある発音の 際に、舌と上あごの間のどの位置に 接触(狭め)ができているかという

「調音位置」が炭ペーストの跡とし

て観察されうる(図2参照)。写真3 は、グイ語の舌打ち音の際に用いら れている舌と上あごの接触を記録す る際に行ったパラトグラフィー調査 の一場面である。舌に塗った絵の具 のような炭ペーストが、発音のあと 上あごに接触の跡を残す。写真は、

それを撮影しようと特殊な歯科用カ メラの鏡部分を口に挿入するところ である。発音につかわれている調音 位置の区別が特殊で珍しい場合に は、パラトグラフィーをもちいるこ とによって、その記述の正確さを判 断するための視覚化された資料を提 示することができる。

 以上述べてきたように、発音の現 地調査、つまり音声学的フィールド ワークをあらためて眺めてみると、

発音自体を調査者が「聞く」行為は きわめて限定された、初めて単語を 発音してもらう段階に集中している。

そして、聞き分けた音が複雑で珍し い発音である場合には、「聞く」だけ ではなく発音を「見る」ことがフィー ルドワークにとって重要になる。そ れは、調査者に「聞こえた」聴覚的 な違いを、だれにでも「見える」視 覚的な違いにすることによって、主 観的な聞き分けの正確さを判断する 客観的な根拠を用意するためであ る。

写真3 パラトグラフィー調査。

図1 コン語の[ts’]と[ds’]の区別を示す例。

図2 パラトグラフィー調査(日本語の

「田(た)」の発音。舌と上あごの間の接 触が黒く炭の跡として記録される)。

写真4 カラハリ砂漠のコイサン集落。

参照

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