上野栄三郎の生涯 : 実業の世界に乗り出した同志 社寺町時代の学生
著者 大井 純一
雑誌名 新島研究
号 106
ページ 153‑173
発行年 2015‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014635
−実業の世界に乗り出した同志社寺町時代の学生−
大 井 純 一
はじめに
同志社草創期の記録を見ると、ごく初期の同志社英学校に入学した生徒の 1人に上野栄三郎の名が見られる。開校したばかりの同志社で校長の新島襄 から直接教えを受けた上野はその後、どのような人生を送ったのであろう か。
私が曾祖父の上野栄三郎の生涯を調べるきっかけとなったのは、親の家の 整理をしていた際、上野が書いた遺言書の草案を見つけたことによる。この 遺言書はペン書きで、1923(大正12)年7月1日の日付で、自らの経歴紹 介に始まり、人生を振り返っての思い、遺産の分配の内容、残された遺族に 対する遺言、からなっている。
上野の生涯をまとまった形で紹介した文献はいくつかあるが、今回、以下 の4つの論考を参考にしつつ、この遺言書に沿ってもう一度彼の人生を辿っ てみたいと思う。
津田英学塾編『津田英学塾四十年史』、1941、pp.425〜428。以下(塾40)
と略す1)
吉崎雅俊「Who is Mr. Eizaburou Ueno?」、『DACニュース』59号、同志社 アーモストクラブ、2003、pp.10〜12。以下(吉崎)と略す2)
津田道夫『津田仙の親族たち』、私家版、2012、pp.147〜156。以下(津 田)と略す3)
本井康博『徳富蘇峰の師友たち』、教文館、2013、pp.22〜25。以下(本 井)と略す4)
1.生い立ち
遺言書は、「死後之事を処する為遺言するに当 たり先ず余の経歴概略を記す。余 は 安 政4年
(1857年)9月29日(旧暦)京都に生まる。父は 重助(通称徳兵衛)母は国子(片山氏)。生家は 富裕ならざりしも、亦赤貧と云うこともあらざり しため、格別の苦労もなく父の生業なりし鼈甲職 を習い業務の手伝いを為し居たりしが……」と書 き出している。
(塾40、p.425)によれば、「上野家の祖先は平
家の落武者でその一族が伊賀の上野に住み、その 地名を姓としたと伝えられる。早くから京都に移住したと見え、上野家16 代の墓がある。氏の父徳兵衛氏までは代々珊瑚や鼈甲の大問屋を営んだ」と ある。
栄三郎は重助、国子の三男として生まれ、幼少の頃から数学を好み、関流 算学の私塾に通って専ら数学を学んだ(塾40、p.425)。
明治維新の変革の中、明治への改元の詔勅(1868(明治元)年)が出され たのは、栄三郎が満11歳(以後満年齢で記載)の時であった。その直後、
首都は京都から東京に移った。天皇や公家は京都を離れ、大名も屋敷を引き 払い、大商人も東京に移り住み、京都の経済は衰微した。装飾品を扱う上野 家の家業は多大な影響を受けたはずで、栄三郎はこの様な時代の変化を身に しみて感じながら成長したに違いない。
2.同志社入学
遺言書には「明治6、7年頃より、世の趨勢に誘はれ、学生(京都−同志 社)生活を歴て……」と書かれているが、上野は正確には1875(明治8)年 11月同志社英学校の開校に伴い初期の生徒として入学した。満18歳の時で
上野栄三郎(筆者蔵)
ある。開校時の生徒は8名いて、そのうちの1人が上野栄三郎と一般に言わ れているが、本井康博氏の最近の研究では8名は上野以外の人物で特定する ことが可能で、上野は最初の8名からは外れ、少し遅れて入学した可能性が 高いと指摘している(本井、p.15)。
8名のうち6名は神戸で活動していた宣教師のデイヴィスが同志社教員に なる際に従いてきた者達で、上野の場合は、事前に同志社に関係する者と接 触があった形跡はない。
開校時に入学した中島力造は同志社入学の動機について、以下のように回 想している。
私は京都で新島先生に御目に懸かったので、それから同志社に来るこ とになった。以前から、上野栄三郎君と2人で、好い学校があったら、
はじま
行きたいと思って居ったので、丁度、同志社が創ったので、直ぐに行く ことにした(本井、p.18)。
どこで上野と中島が知り合ったのかはわからない。そろばん塾か算学塾あた りであろうか。
開校時に入学したのは、他に杉田(結婚後は元良)勇次郎らがいるが、同 志社を去った後いずれも各界で活躍している。
元良勇次郎(1858−1912)
心理学者。旧姓杉田。結婚後元良となる。同志社英学校の最初の入学 者。津田仙の学農社農学校教師を経て、米国留学。帰国後、帝国大学 で心理学を講じた。
中島力造(1858−1918)
倫理学者。京都福知山の出身。同志社英学校開校時の入学者。津田仙 の学農社農学校教師を経て、米国、英国、ドイツに留学。帰国後、帝 国大学で倫理学講座を担当した(本井、pp.16−17)。
上野が同志社に入学する動機については、遺言書では単に「世の趨勢に誘 われ」と書いているが、(塾40、p.425)では、数学研究の目的で同志社に入 ったと述べている。その部分を引用すると、
当時日本の高等数学関流の算学は、いわば相伝の秘術で容易にその秘
奥を学ぶことが出来なかったので、氏は英書によってその蘊奥を究めよ うと志した。徳兵衛氏は耶蘇教嫌いで氏の同志社入学を喜ばず、学資は 家から出なかったので数学の原書などを翻訳して学資を補った。その頃 はまだ数学が普及せず、邦訳せられない術語が多かったので、氏はその 訳語に苦心した。当時氏の作った訳語が今日その儘術語として残ってい るとのことであるが、どの語であるか判然しないのは遺憾である。その 頃は同志社も生徒が少なく、氏は新島氏から代数を学び、同志社在学中 微積分まで研究した。
上野が作った訳語がどのようなものであったのか、私も知りたいと思う。
いずれにしても、同志社に対する当時の地元の反発や親の反対を考える と、上野は相当の覚悟と目的意識を持って入学したと思われる。
熊本バンドの面々が同志社に入学してくるのは、上野が入学した翌年であ る。後から来て我が物顔に振る舞うバンドの連中に嫌気が差し退学した生徒 もいる中で、上野がどのような思いで彼らと接していたのかはわからない。
上野や中島が3年弱で同志社を退学して学農社に移った理由として、熊本バ ンドに反発した、との見方もあるようだが、後に述べるように、上野の場合 は、むしろ在学中に自らの進路を見定め、新島の心遣いもあり、それに適し た道に進んだと前向きに捉えるべきと考える。
同志社英学校生徒(1878年
4
月) 中段左端(11)が上野栄三郎(同志社社史資料センター蔵)
いずれにしろ、上野は熊本バンドと折り合いをつけていったようで、新島 襄の亡き後、彼らが主導するようになった同志社との関係は退学した後も続 いていく。
1877(明治10)年12月2日、上野は中島力造らと共に西京第二公会(現
同志社教会)で洗礼を受けている5)。
後にクリスチャンとしての上野について新島襄は1879年4月13日付の書 簡で his Christian character since he made a profession of faith in Christ has been without reproach. 「非の打ち所のない」と評している6)。もっともこの 書簡は、上野が海外に出かけた際、その地のクリスチャンに仲間として援助 の手を差しのべてくれるよう、新島が上野に持たせた紹介状で、悪く書くは ずはなく、この通りであったかどうか定かではない。むしろ、退学後の上野 に対しても、この様な心遣いをする新島の弟子に対する思いやりの深さを偲 ばせる書簡である。
同志社は1880(明治13)年9月25日第1回目の学術講演会を開催してい る。そこで上野は弁士の一人として演説を行っている。このときの様子を生 徒であった原田助の日誌7)から見てみよう。
此日ハ同志社学術講演会(第一回)ノ開会ヲ前以テ新聞ニ広告シ此演 説会ハ政談ニモ宗教演説会ニモアラズ普通ノ学術講演ニテ四条浄教寺ニ テ開催スベシトナシタレバ来聴スル者多ク助モ定刻前ニ行キタルニ来聴 者五百有余満員ノ為門ヲ閉ジタルニ門ヲ叩ク者絶エズ思イノ外ノ大入リ ナリ、先ズ上原方立開会ノ趣旨ヲ述ベ宮川経輝(睡遊之説)上野栄三郎
(日本人チャンチャンニシテヤラルヽナ)山崎為徳(人生往生之説)山 本覚馬(弾道之説)各々演説ス。
このとき上野は学生として演説したという記述がいくつかの文献に見られ るが、上野はこの2年前に東京の学農社に奉職しており、いわばOBとし て加わったと思われる。
さらに上野と同志社の関係を見ていくと、『同志社校友会報』第1号(1897 年2月)に、新しい校友会員として上野の略歴が紹介されている。
京都のひとなり同志社創立の頃率先して入学す、時には元良勇次郎、
中島力造の諸氏と同窓たり、後東京に出て学農社に在り明治13年の頃 豪州に遊び、専ら商業の実況を視察し帰朝の後海外貿易に従事し屡々海 外に航す、関西貿易会社の起こるやこれに入社し、その支配人となり、
爾来絶えず日米間を往復し貿易通商に勤勉す、関西貿易会社の現今の隆 盛を致せるもの、氏の功大きに居るというも過言にあらざるべし(吉 崎、p.11)
この様に、上野が同志社を去った後も、断片的に同志社との関わりが見ら れるのであるが、晩年には、彼は同志社の理事として、また資産管理委員と して同志社の運営に関与することになる8)。
彼の事業家としての生涯において、京都人、とりわけ同志社と関わりを持 つ人物との関係が大きな影響を与えていく。
3.学農社時代
上野の遺言書には「学生(京都−同志社)生活を歴て、二十四才の時濠州 に航したるを始めとし爾来ニューヨーク市に往来殆んど二十回に及びたり」
とあり、学農社のことは一言も触れていない。しかし学農社の存在がその後 の彼の人生に大きな影響を与えたことは間違いない。
津田仙が東京麻布に学農社農学校を開校したのは1876(明治9)年1月で ある。最初は仙が一人で教師を務めていたが、生徒も増え、教師が不足した ため、同志社の新島襄に教師が出来る人材の派遣を依頼した。1878(明治 11)年7月これに応じて新島はまず中島力造と上野栄三郎を選抜して送り込 んだ。その後杉田(後の元良)勇次郎や岡田松生などが相次いで着任してい る。
上野は学農社で数学を教えたが、彼が上京した真の目的は別のところにあ ったようである。1878年6月29日付の津田仙から新島宛の書簡では、中島 力造を早速斡旋してくれたことに感謝を述べた後に「亦上野栄三郎子も同行 欣喜之至奉存候、同氏も商法学に志し候よし、幸い今度弊社ニ而商法学教師
ホイニー(ホイットニーW. C. Whitney)氏相雇う申候間、種々ご相談よろ しく奉存候」9)とあることから、このころ既に上野は貿易で身を立てたい、
そのために西洋の商法学を修めたいとの希望を持ち、新島が、それには津田 仙の下で学ばせるのが最良と考え、送り出したと思われる。すなわち上野に とっては学農社教師は実のところ従で、主は商法学を修め海外貿易に従事す る準備をすることにあった。これは商家の出身で、家業を手伝った経験のあ る上野にとってはごく自然な選択であった。
ホイットニーは1875(明治8)年に来日し、森有礼私設の商法講習所で教 鞭を執っていたが、1878(明治11)年商法講習所の経費節約のため契約期 間途中で解職されたため、津田仙は銀座簿記夜学校を開設し、彼を迎え入れ た。上野は早速彼にいろいろ教えを受けたに違いない。
しかしホイットニーは翌年、子息の医学校就学のため米国に一時帰国し、
その後、日本に戻る途中ロンドンで客死したため、上野がホイットニーから 教えを受けた期間は短い。
上野は銀座簿記夜学校で簿記を講じている。それに必要なテキストとして 上野は『簿記法初歩』を編集発行した。これは50頁ほどの小冊子(価格30 銭)であるが、一橋大学付属図書館の「西川孝治郎文庫」に保存されてい る。
上野栄三郎編集『簿記法初歩』中表紙および奥付
(一橋大学付属図書館蔵)
緒言には本格的な教授本を近々刊行すると書かれている。実際、翌年の10 月『小学簿記法教授本』を出版しているが、現在は残念ながら残っていな い。
上野は学農社に赴任した翌年、すなわち1879(明治12)年、オーストラ リアのシドニーで開催されたシドニー万国博覧会(1879.9−1880.4)の視察 に出かける。貿易を志すものとして、万国博覧会を見ておくことは必須であ り、かつてウィーン万博を視察した津田仙の勧めもあったであろう。そこで 出品した壁紙が受賞したとあるので(吉崎、p.11)、単なる物見遊山とは異 なり、その準備や主催者との折衝も必要なはずで、ここで貿易商としての第 一歩を踏み出したと言える。
1881(明治14)年4月上野は津田仙の長女琴子と結婚している。遺言書
でも「二十五才にして津田琴子を娶り」とある。この年の2月1日付けの書 簡で津田仙は新島襄に長女の琴子と上野栄三郎と婚約させる話がほぼまとま ったことを伝えている10)。夫妻は6人の子供を授かった。長女笑子、次女福 子、長男不二雄、三女道子、次男稀雄、三男重雄である。なお、重雄は早く に伊達家に養子に出ている。
4.群羊社
上野と中島力造が学農社に赴任して3ヶ月後の1878(明治11)年10月、
東京で群羊社という団体が結成された。メンバーは上野栄三郎、中島力造、
窪田義衛、桂時亮、丁野大八・仲夫妻、和田正幾、速水定二、林治定の9人 でいずれも関西の組合教会系の青年信徒であった。翌年には元良勇次郎らも 加わっている11)。当時東京にはプロテスタント系キリスト教諸教派がそれぞ れ教会を設立していたが、彼等にとって拠り所とする適当な教会がなかった ため、独自にグループを結成したと思われる。彼らは津田仙が設立した銀座 簿記夜学校を本拠に、祈祷会を催すなど、自前で宗教活動を行っている。
1878(明治11)年の暮れには上野は中島と連れだって群馬県の安中に伝道
に出かけている12)。
1879(明治12)年10月、群羊社の面々は、岩手県水沢に伝道に行こうと していた熊本バンドのリーダー的存在である小崎弘道が東京を通過する際、
彼をつかまえ、そのまま東京に留まらせ、結局小崎を牧師として12月13日 に新肴町教会を立ち上げた。設立式は簿記学校の一室で行われたという。
上野は結婚を契機に、1881(明治14)年5月正式に東京に移住し京都第 二公会から京橋南鍛冶町教会(新肴町から移転改名)に転会している。この ころ津田邸では日曜集会が行われ、小崎などと共に上野も参加している。そ の様な集会に出ている上野をホイットニーの娘のクララは「上野氏は歌うの がお上手で商法学校の有名な先生」と評している13)。彼らの間で歌と言えば 賛美歌なので、本井は上野の歌唱力は同志社で最初に「音楽」(Singing)を 教えたドーン(E. T. Doane)の授業の成果であると考えられると述べてい る14)。
1882(明治15)年旧新肴町教会は日本教会と合併し、東京第一基督教会
となった。その後、教会では自前の会堂を持ちたいという機運が盛り上が り、湯浅治郎の斡旋で麻布霊南坂町の土地を取得し、会堂の建設に着手し た。1886(明治19)年8月1日霊南坂教会新会堂が完成し献堂式が挙行さ れた。そこで上野は建設委員として、建築についての概要説明と会計報告を 行っている15)。1911(明治44)年に妻の琴子が逝去した際、葬儀は霊南坂 教会のこの会堂で行われた。
ちなみに辰野金吾が設計したとされるレンガ造りの会堂は1917(大正6)
年に完成しているので、1924(大正13)年上野栄三郎が亡くなった時、葬 儀は建て替えられた新会堂で行われたはずである(『霊南坂教会100年史』
p.234には、新会堂の建築委員であって工事途中で召された人の中に上野栄
三郎の名があるが、間違いか別人かであろう)。
5.貿易事業
上野の遺言書には「二十四才の時濠州に航したるを始めとし爾来ニューヨ ーク市に往来殆んど二十回に及びたり。齢四十才の頃迄は胸中只国家を念と するのみにて、其の富強に稗益ありと認めたる事には進んで創設又は経営に
努力したれ共、自己蓄財の如きは殆ど念頭にあらざりし。然るに此頃より始 めて子女の行末自己の老後をも慮り、四十三、四才の頃稍安心を得たる処に て、関西貿易会社の破綻に遇ひ非常に打撃を受けたり」とある。
(塾40、p.426)には1881(明治14)年貿易実情調査のため、北米、欧州
各国を巡歴したと書かれている。ただこの文献では、琴子との結婚を実際よ
り1年早い1880(明治13)年としたり、年次の記述に混乱が見られるので、
この海外渡航も実際は1882(明治15)年のことであるかも知れない。
また、1884(明治17)年にはその年創立された工商会社の支配人として 一旦渡米したが、同社は程なく解散したとある(塾40、p.426)。詳細はよく 解らない。
またこの年、上野栄三郎がセルロイドを持ち帰ったのを契機に鼈甲職人ら がセルロイド研究を始め、翌年には三井物産を通じて大量に輸入されるよう になったとセルロイドに関するWebサイト16)には記されている。
1885(明治18)年に開催されたニュ ー オ ル リ ン ズ 万 国 博 (1885.12 −
1886.6)には京都府出品者代表として出席した(塾40、p.426)。
1887(明治20)年には、京都の実業界で活躍していた浜岡光哲、中村栄
助らと関西貿易合資会社を設立した。同社は織物、陶磁器など京都の特産品 を輸出する目的で設立された。本店は京都で支店は大阪・東京・名古屋をは じめ、上海・ロンドン・マンチェスター・ニューヨークなど海外にも置かれ た。社長は浜岡で、上野は同社の米国支配人となった。
関西貿易は取引高を年々伸ばし、大貿易会社に成長していった。先に紹介 した『同志社校友会報』に掲載された上野の経歴はこの頃のものである。
浜岡光哲(1853−1936)
京都の実業家。日出新聞をはじめ、関西貿易会社等多くの企業を創設 し経営に当たった。京都商工会議所会長職等を務め京都実業界の重 鎮。また京都府議会議員、京都市議会議員、衆議院議員を歴任し京都 政界の中心的人物の一人。若くから山本覚馬に師事し、同志社大学設 立発起人の一人。上野より4歳年上。
同社の事業のなかで上野の業績として特筆されるのは、村井吉兵衛が経営 する村井煙草社とアメリカンタバコ社との合弁事業を取りまとめたことであ
る。当時米国の日本への投資としては最大規模のものであった。合弁会社の
「村井兄弟商会」が発足したのは1899(明治32)年で、上野が42歳の時で あった。上野はちょうど現在の総合商社のような仕事をしていたことにな る。
しかし1904(明治37)年日本政府は日露戦争の戦費調達のため外国から
借り入れた巨額の負債返済のためたばこ事業の専売化に踏み切り、この合弁 事業は終止符を打つことになった。なお Webサイト「たばこ総合研究セン ター…たばこの歴史」17)には、この専売化は政府が米国資本の日本進出を懸 念したことにもあると記されている。
上記の合弁事業の話がまとまったところで、関西貿易会社ニューヨーク支 店員は総辞職することになり、上野も職を辞している(塾40、p.426)。この 理由はよく解らないが、以下に述べる関西貿易会社の破綻の一因として、一 時に300万円以上の大量のアメリカ産葉たばこを思惑買いして、後日これが 焦げついたことが挙げられており18)この責任を取ったのかも知れない。いず れにしろ総辞職とはただならぬ事態で、この間の経緯は謎として残る。
注)当時の金額を現在の価値に換算するのは単純ではないが、大雑把には明治末期 の
1
万円は現在の1
億円、大正末期の1
万円は5
千万円に相当すると言われて いる。関西貿易会社は順調に事業を拡大してきたが、日清戦争による好景気の反
動と1900(明治33)年の清国の義和団事件で清国貿易が激減したことで1901
(明治34)年日本経済が大不況に突入したために、関西貿易会社も経営が悪
化し破綻に追い込まれた。これは京都の経済界に大きな打撃を与えることに
上野栄三郎一家(1901年頃)
左より、三女道子、
次女福子、妻琴子、
長女笑子、次男稀雄、
栄三郎、長男不二雄
(青山学院資料センター蔵)
なった。債権を有する多くの銀行が預金取付に遭遇し、鴨東銀行、川東貯金 銀行、京都農業銀行が休業に追い込まれた19)。
日本銀行京都支店のWebサイトにある沿革にも、「関西貿易会社の破綻 を契機に取り付け騒ぎが再発。大阪支店から現金回送をうけ、金融機関に緊 急貸出を実行」と記載されている20)。
上野はこのとき関西貿易会社においてどのような立場にあったのかわから ないが、ニューヨーク支店の支配人を辞職しただけで、もし経営陣に残って いれば、私財を負債の弁済に充てることになったであろうし、そうでなくと も主要出資者として大きな打撃を受けたと思われる。上野が満44歳の時で ある。
上野はその頃胃ガンを発症したが、その後幸いに治癒したとある(吉崎、
p.11)。当時相当のストレスがあったに違いない。
6.村井商会
上野の遺言書には、関西貿易会社の破綻の後のこととして、「然れども爾 来鋭意努力の結果五十二、三才に及んで稍安心を得る迄に達せり。六十才の 春旧知村井吉兵衛氏の聘に応じ同氏経営の事業を補佐することとなり大いに 同氏の殊遇受けたるは深く感謝する処なり」とある。この村井吉兵衛とはど のような人物であろうか。
村井吉兵衛は1864(元治元)年生まれであ るので、上野より7歳ほど年下である。京都で 煙草業を始め、米国産たばこ葉の導入等いろい ろ研究・工夫を加え、業績を伸ばし、遂には
「たばこ王」と呼ばれるほどの大富豪となった。
事業欲旺盛で、米国のたばこ会社と合弁事業を 営むほか、繊維事業や石鹸製造業にも進出し た。しかし1904(明治37)年時の政府がたば この専売化に踏み切ったため、たばこ事業から 手を引かざるを得なくなった。村井はその時得 村井吉兵衛(村井家所蔵)
た補償金で村井銀行を設立し、それを中心に多角的な事業を展開した。派手 なたばこの宣伝合戦等、積極的な事業展開は時に世の顰蹙をかうこともあっ た。
村井吉兵衛と上野は、村井がたばこの葉を関西貿易を通じ米国から輸入し ていたことから、そこで知り合ったか、あるいは村井はたばこ業を始める前 から中村栄助と親しく、新島襄の家庭集会にも出入りしていたという話もあ ることから21)、中村を通じてその前から顔見知りであった、とも考えられ る。
そして先に述べたように、米国のアメリカンタバコ社との合弁事業の発足 に上野が多大な貢献をしたことから、村井は上野に大きな信頼を置くように なった。
それにしても、禁煙を旨とするクリスチャンの上野がたばこ関連で大きな 仕事をしたというのは皮肉である。
1899(明治32)年上野は東洋印刷株式会社および日本石鹸株式会社の発
足に伴い両社の専務取締役に就任している。両社はいずれも村井吉兵衛の経 営する会社である。もちろん上野の経営者としての手腕を買ってのことであ ろうが、うがった見方をすれば、関西貿易破綻の一因となった大量の葉たば この思惑買いは村井の要請であったと見られており18)、責任を感じた村井が 上野に職を提供したのかも知れない。
東洋印刷は、村井がたばこのパッケージの印刷品質を向上させるため、自 ら印刷することをもくろみ発足させた。
日本石鹸は、ニューヨークにいた上野がアメリカの科学が進んでいて、合 理的に事業が行われているのをみて、アメリカの近代工業をどしどし日本に 取り入れ大いに日本の工業を発展せしめることを考えていたなかで、石鹸工 業に着目し、村井や中村栄助らに提案したものである22)。
両社ともその発足にあたっては、当時最新式の機械を導入しており、その 輸入にあたり、貿易商の上野が多いに活躍したはずである。
1904(明治37)年上野は日本出品協会理事として、セントルイス万国博
覧会(1904.4−12)へ出席のため渡米している。貿易商としての上野の活動 の記録は、判明している限りはこれが最後で、これ以降彼がどのように貿易
に関わったかは不明である。
遺言書では「六十才の春旧知村井吉兵衛氏の聘に応じ同氏経営の事業を補 佐することとなり」とある。妻琴子の妹、安孫子余奈子に宛てた1916(大 正5)年5月7日付けの手紙にも、「先々月、村井吉兵衛君より相談あり同 氏経営の本店総務を手伝い致す事と相成り、又々月給取り生活に入り居りに 付、長く旅行等には当分不便に相成り居り…」とあり、これら文書を見る限 り、その時から再び村井との関係が始まったと思われる。ただ、(塾40、
pp.426〜427)によれば「1912(明治45)年村井本店に入る」とあり、また
1914年上野が大丸と関係を持った際「上野氏は村井合名会社の重役であっ た」との大丸の記録もあり、それ以前から何らかの関わりがあったのかも知 れない。
村井吉兵衛は、派手な立ち回りで大富豪に上りつめ、毀誉褒貶のはげしい 人物であったにもかかわらず、堅実な人柄で知られる上野が、彼に深い感謝 の意を表しているのはおもしろい。どこかで相通ずるものがあったのであろ うか。
1903(明治36)年に上野は北海道製麻会社に入社している。これは採算
の悪い同社を整理するのが目的であって、1907
(明治40)年には整理を終え、日本製麻会社と合
併し帝国製麻会社を発足させた。上野は発足した
年から1910(明治43)年8月まで支配人(今の
執行役員のようなものか)を務め1918(大正7)
年1月からは監査役となり、終生その職にあっ た。そもそも彼が北海道製麻会社に行くことにな ったのは、1887(明治20)年この会社が創立さ れた時、設立発起人中に浜岡光哲の名前が見られ ることから、彼が上野に要請したと思われる。関 西貿易の破綻を身近で経験した上野は企業の整 理、再生のエキスパートと見なされるようになったのであろう。
上野栄三郎
(『帝国製麻三十年史』より)
7.大丸再建
大丸呉服店当主の下村正太郎は6歳の時、父親が急逝して11代目を継ぐ が、明治40年以降、経営が悪化、数度にわたり危機に見舞われた。その都 度経営陣の刷新や、不採算支店の閉鎖等で切り抜けてきたが、1914(大正 3)年最大の危機に直面する。以下、この間の事情を『大丸二百五十年史』
(1967年)に沿って見ていきたい23)。
1914(大正3)年第1次世界大戦が勃発し、経済界が動揺し景気の沈滞が
続くなかで大丸大阪店振り出しの手形が不渡りとなり、財政破綻が明るみに 出た。世間が、これまでの危機は何とか切り抜けたが、今回は大丸もいよい よ最後と見るなかで、下村は書画、骨董等全ての個人資産を売却して負債を 返済するが焼け石に水で、母校早稲田大学の大隈重信に援助を依頼した。大 隈は4月に第2次大隈内閣を組閣し2度目の内閣総理大臣に就任したばかり であったが、大丸救済の方針を下し、京都府知事大森鐘一に収拾を図るよう 要請した。大森が京都商工会議所会頭の浜岡光哲に相談し、浜岡が上野を推 挙した。
同年7月、上野は大丸最高顧問に就任し、再建に着手した。しかし整理案 の決着は難航し、上野と下村は連日のように債権者の間を回り、説明と説得 に奔走、結局京都店と大阪店を別会社として発足させる案で同意を得た。第 1次世界大戦に日本が参戦するようになり、景 気が回復すると大丸の営業成績もみるみる向上 していった。
1918(大正7)年頃から下村社長は10年間
に亘る苦闘から病床にあることが多くなり、上 野が社長代理として社務を見るようになった。
順調に回復してきた大丸であったが、試練は これだけでは済まなかった。1920(大正9)
年、21年と大阪店、京都店が相次いで火災で 焼失した。上野は大阪店を株式会社化する等の 下村正太郎(JFR社所蔵)
施策で何とかこの難局を切り抜けた。
1923(大正12)年頃から下村と上野は大丸の近代化のためには、人材を
そろえることが不可欠と考え、人材強化に乗り出した。1923年の末に、森 村組にいた平田保太郎が京都大丸に招聘され、同じ年、大阪大丸には里見純 吉が入社した。後年、1940(昭和15)年下村正太郎が回顧談を残している。
里見氏入店の問題に関連して常に私の思ふことは、私の経済蹉跌時代 に顧問であった上野栄三郎といふ故人の人物鑑識眼が如何に非凡であっ たかといふ事です。この上野氏が常に私に説くに「大丸はこの際外部か ら適材を迎へ入れなくてはいけない」という言葉を以てし、私も亦た、
つとに大丸の首脳部陣容強化の要を痛感してをりました。……中略……
或る人の紹介で私も上野氏も共に(里見氏と)面談の機会を得た。その 時は単純な会見で唯三越に居られた人だという点に興味を感じて会って みただけですが、お話の節々に実にいい考への持ち主であることを看取 した私は「これは惜しみても余りある人物」との好印象を上野氏に語っ てみたところ、上野氏も亦符節をあわせたように私と同印象を受けた。
「あれは、よいなア……」と申すような工合です24)。
これを読むと、上野と下村がお互いに信頼し合って、事の処理に当たって いたことがよくわかる。
上野は大丸最高顧問のままで、1924(大正13)年12月、永眠した。翌 年、大丸は京都高樹院にて、大丸大阪店、大丸京都店、下村家共催で追悼会 を催している。
8.親族への配慮
上野は親族に対しても細かい気遣いを見せている。妻琴子の妹である津田 梅子が、女子英学塾(現津田塾大学)を創立した際、各種の相談に与ると共 に、校舎の家賃として500円を用立てたのを始めとして、必要の都度数千 円、時には1万数千円の費用を用立てした。また、塾が1904(明治37)年
社団法人女子英学塾として認可されてからは、社員(=理事)として、募金 管理や塾の財産管理を引き受けた。津田梅子は後年「財政上では上野さんに 大変厄介になりました」と語っていたという。もっとも両人の間には姻戚関 係の故を以てみだりな貸借関係もなければ、梅子も上野に対して過当な寄付 を仰ぐこともなく、あくまでも節度を持った援助であったとある。(塾40、
p.428)
また、上野は自分自身が経済的打撃を経験したためか、経済的に困窮した 親族に対する援助も惜しまなかった。妻琴子の弟、津田次郎は父親である津 田仙の残した学農社の事業を引き継いだが、仙の借財も多く、経営は厳しか った。このため次郎は、学農社を後任に引き継ぎ、再起を期して米国に渡っ た。残された妻の益子と子供達は、滞りがちな仕送りの下で、苦しい生活を 余儀なくされた。その様なときのことについて次男の正道は日記に次のよう に記している。
上野氏を話される母さんは、いつも涙だ。学農社農学校の生徒であら れた頃(注:教師の間違い)校主たる祖父様がみこまれて娘をやられ た。一介の貧書生であられた氏はずんずん出世され村井銀行の重役まで なられた。それはそれは暖かい方、優しい方であり、津田家の事情、母 さんの立場のもっともよき理解者であられたそうだ。
穏田のあの小さな家に僕たちが引き下がり、父からの送金が絶え、而も 兄さんが病の床に倒れた窮乏のどん底の際、母さんが泣く泣く融通を求 めに行かれると、欣然として迎えられ、五十円といえば七十円、七十円 といえば百円と喜んで融通して下さった(津田、p.149)。
遺言書で上野は、親類中不幸の人の救助基金として5万円を割り当ててい る。さらに親族に対して形見分けをしている。自分の子供と孫達、上野家の 兄弟姉妹の縁者たち、また妻琴子の兄弟姉妹およびその子供達にも行きわた るよう、注意を払いながら1人1人宛に金額の指定を行っている。当時は家 督を相続した長男がほとんどの遺産を受け取るのが普通であったが、長男の 不二雄に対しては、墳墓の守護の義務を課しているので他の子たちより多め
に配分しているのみである。
遺言書では最後に5万円を寄付に充てるようにしている。この遺言書は草 案段階のため、この時点では寄付先は決まっていない。
実際の寄付先は、同志社に対し、遺族の上野不二雄、稀雄の名で「殖民事 業或いは海外貿易事業」に従事せんとする者に対する奨学資金2万円及び本 社資金としての1万円25)、女子英学塾に対し津田ハツホン記念基金として1
万円(塾40、pp.427〜428)、となっている。それ以外にもあるかも知れない
が判っていない。
この様な遺産分けは米国暮らしが長かった上野ならではのものであった。
9.人生の回顧
上野は遺言書の中で、自分の生涯を振り返り、以下のように記している。
「余の一生は世間に何ら著しき功労なく、また平々凡々なるは顧て自ら愧
(はじ)るところなると同時に直間接国家の為に努めたる事は聊(いささ)
か自ら満足する処なり。畢竟自己の性質が有力なる後援又は提携者を得るに 適せざりし為に事業の見るべきもの乏しといへども独立独歩国民の一人とし て又社会の一員として其義務を盡したりとの信念は心中聊(いささか)慰む る処あり」。
これを読むと、まず、明治人らしく、国家のために働いたという、強い意 識が感じられる。そして自らの業績について「見るべきもの乏し」としてい るが、その理由について解釈するに、自分は真に信頼できる人物としか提携 せず、リスクのある、あるいは良心にもとる事業には手を出さない。そのた め見るべきものは乏しくなるかも知れぬが、その原則を崩すことは自らの性 分として許せないため、あえて独立人として、自らの納得できる人生を歩ん できた。恐らくそういうことを言っているのであろう。直截にその様に言わ ず、自らの性質がそのようなことに適していなかったと表現しているところ は、いかにも上野らしい。彼は誰にも恥じることのない人生を送ったことに 満足して、この遺言書を認めている。まさに新島精神を実践した生涯と言え るのではなかろうか。
上野栄三郎はこの遺言書を書いた1年5ヶ月後の1924(大正13)年12月 3日永眠した。67歳であった。葬儀は上野が設立当初から関わってきた霊南 坂教会で執り行われた。
上野の墓は、東京豊島区の染井霊園にある。
時の同志社総長海老名弾正は「同志社大正十三年度報告」でこう記し た26)。
最後に特筆して吾々が哀悼の意を表はし度きは、理事上野栄三郎氏の 逝去である。同氏は同志社創立時代の学生であって、同志社とは深い縁 故を有し、永く資産管理委員として、同志社の為め努力し、近年に至り 文部省供託金の取扱い等に付きては、一方ならぬ労力を尽くされたる 等、同志社が感謝して忘るべからざる所である。
なお、上野が務めていた理事の後任には、浜岡光哲が推挙された(本井、
p.25)。
上野がこうして最後まで同志社との関係を保ったのは、自らの人生の端緒 を開いてくれた新島に対し深い恩義を感じていたためでないかと考える。
おわりに
今回、上野の遺言書を元に彼の一生を見てきた。上野は生涯を通じ表舞台 で主役を演じることはなかった。そのため彼を正面から取り上げて論ずる評 論は少ないが、調べていくにつれ上野の名前が思いがけないところからも 次々出てきた。それだけ多方面にわたり、脇役として多くの主役を盛りたて てきたことを改めて認識した。
上野のように節度ある事業家が存在したことを知ることは、思うままに利 益を追求するのを良しとする新自由主義の風潮が世を支配している今日、な おまた意義深いことのように思われる。
参考資料・出典注
1)津田英学塾編『津田英学塾四十年史』(津田英学塾、1941年).
2)吉崎雅俊「Who is Mr. Eizaburou Ueno?」、『DACニュース』59(同志社アーモス トクラブ、2003年).
3)津田道夫『津田仙の親族たち』(私家版、2012年).
4)本井康博『徳富蘇峰の師友たち』(教文館、2013年).
5)本井康博「同志社と学農社」、『キリスト教社会問題研究』49号(同志社大学人 文科学研究所、2000年)、p.106.
6)同志社新島遺品庫、目録番号下
2240.
7)原田健編『原田助遺集』(私家版、1971年)、p.7.
8)上野直蔵編『同志社百年史』資料編
1(同志社、1979
年)、p.1007.9)本井康博「同志社と学農社」、p.102.
10)本井康博「新島襄と津田仙」、『キリスト教社会問題研究』50号(同志社大学人 文科学研究所、2001年)、p.110.
11)本井康博「同志社と学農社」、p.118.
12)本井康博『徳富蘇峰の師友たち』、p.129.
13)クララ・ホイットニー著・一又民子訳『クララの明治日記』下(講談社、1976 年)、p.76.
14)本井康博「同志社と学農社」、p.105.
15)飯清、府上征三編著『霊南坂教会
100
年史』(日本キリスト教団霊南坂教会、1979 年)、p.110.16)松尾和彦「外国商館とセルロイド」
http : //www.celluloidhouse.com/salon4.htm/2014
年9
月29
日参照.17)「たばこの歴史」http : //www.t−webcity.com/˜thistory/thistory/t_history.html#TOP/
2014
年9
月29
日参照.18)大渓元千代『たばこ王村井吉兵衛−たばこ民営の実態』(世界文庫、1964年)、
p.65.
19)正木久司「明治・大正期の京都における銀行の動向」、『社会科学』19号(同志 社大学人文科学研究所、1975年)、pp.69−71.
20)日本銀行京都支店ホームページ「京都支店の沿革」http : //www3.boj.or.jp/kyoto/
enkaku1.html/2014
年9
月29
日参照.21)本井康博「堀俊造医学部を夢見たクリスチャンドクター」、『同志社時報』132号
(同志社、2011年)、p.74.
22)大渓元千代『たばこ王村井吉兵衛−たばこ民営の実態』、p.126.
23)大丸二百五十年史編集委員会『大丸二百五十年史』(大丸、1967年)、pp.285−
325.
24)『社史で見る日本経済史』60巻『大丸二十年史』(ゆまに書房、2013年復刻)、
p.9.
25)上野直蔵編『同志社百年史』資料編
1(同志社、1979
年)、p.1033.26)同前