<新出資料>徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について (2) : 教会合同問題をめぐって
著者 石倉 和佳
雑誌名 同志社談叢
号 34
ページ 143‑177
発行年 2014‑03‑01
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014158
一四三徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって―
〈新出資料〉 徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵ ―教会合同問題をめぐって―
石 倉 和 佳
徳富蘇峰記念館(神奈川県中郡二宮)に所蔵されている徳富猪一郎宛て新島襄書簡は、『新島襄全集』(以下、『全集』)に未収録のものが五通確認されているが、本稿で取り上げるのはそのうちの三通である(1)。左記には書簡の日付および書簡の封書の消印を判別できる箇所のみ記載しており、徳富の手によって折帖仕立として仕立てられた書簡の順番を、①から⑥の番号で示してある。⑥はすでに『全集』に収録されている。本稿では、徳富の折帖仕立て本の編集の順ではなく、新島の書簡執筆の年月日を優先する。すなわち、今回取り上げる③、④、⑤の書簡を書かれた年月順に並べ変え、年代の古い順に④を第三書簡、⑤を第四書簡、③を第五書簡とし、年代順に注解を記す。第五書簡の執筆年月日であるが、内容と事実関係を照合すると、明治二十二(一八八九)年七月十日から十四日頃に書かれたものと想定される。この詳細は後述するが、この第五書簡が最も長文であり、内容的にも検討を要するものとなっている。
一四四徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって―
①《第一書簡》
明治二十一(一八八八)年十一月一日 書簡 墨 消印 十一月一日(京都)、十一月四日(東京)
②《第二書簡》
明治二十二(一八八九)年一月十三日 書簡 墨 消印 一月十四日(神戸)、一月十六日(東京)
④《第三書簡》
明治二十二(一八八九)年六月十二日 書簡 墨 消印 六月十二日(京都)、六月十四日 封書表書は代筆
⑤《第四書簡》
明治二十二(一八八九)年六月十五日 書簡 墨 消印 六月十六日(京都)、十八日(東京)⑥明治二十二(一八八九)年六月、六月二十八日 書簡 墨
消印 六月三十日(京都)、七月二日(東京)
『全集』四 六七二号 明治二十二(一八八九)年六月二十八日 書簡 墨 『全集』四 六七三号
一四五徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって― ③《第五書簡》 明治二十二(一八八九)年 年月日未記載 書簡 墨 封書表に大久保真次[二]郎君ニ託スとある
《第三書簡》
明治二十二(一八八九)年六月十二日 書簡 墨 消印 六月十二日(京都)、六月十四日 封書表書は代筆
東京赤坂区榎坂五番地徳富猪一郎殿御親展
京都同志社
御一覧ノ上ハ御焼捨被下度候
一四六徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって―近頃合併ノ件ニ付生ハ黙止スル乃好都合故何レノ教会ニモ意見ハ吐露シ得ス此件ニ付テハ口アレトモ無キガ如し然し意思ノ存スル所ハ噴火ノ如キ到底何へカ発セサルベカラス発スルニ所ナシ故ニ生ヲ最モ識認信用呉レ賜フ貴兄ニ向ヒ発スルヨリ他ニ致シ方ハ無之候生ハ只貴兄ニ向ヒ意思ヲ吐露スル耳ナレハ貴兄モ亦自由ノ御身ナレハ貴兄ノ最信用シ賜フ所ノ友人ニ御吐キ下サルモ貴兄ノ意見トナシ賜フ上ハ差支無之候合併ノ事件ヲ熟考候ニ已ニ一教会と新聞ニ断言セシ通一歩モ譲ラス云々ノ訳モアレハ組合会ニモ一歩モ譲ラスノ語気アリ双方譲リ合ヒノ出来キモノガ此ノ三ケ月ノ後ニ於テ又々三十名ツヽノ委員ヲ出シ相談ニ及フハ実ニ
一四七徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって― 前途ノ経倫ナキモノヽ所為ト云ハサルベカラス 會合ハ恰モ川中島ノ現象ヲ呈スヘキハ疑フへキニアラス又合併スルトナラハ組合会ハ必ラス何分カノ譲合ヲ為シテ合併シ少数ノ不同意ヲ唱フル教会ハ振捨テヽモ合併スベシトハ神戸総会ニ於テ彼ノ老練連中ハ已ニ決意セシ由右義ニ付生ニモ之ニ同意セヨト勧メ来レル先生モ之レアリ之次第ナレハ必ラス数歩ヲ譲リ甲ヲ脱シカノ軍門ニ降ルハ必定ト存シ申候乍去右様ノ無精神ノ合併ハ生ハ賛成仕兼又不同意ヲ鳴ラスヘキ心得ニ候ハヽ我カ会中生等ニ同意スルモノアルヘシト信ス乍去如斯キ事ハ我カ組合会中非常ノ損毛又自由主義ノ力ヲソギ同志社ノ前途ニモ漸時ハ困難ヲ究ムヘク宣
一四八徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって―教師中ニモ多分ハ生ニ反対スベク随テ学校ノ敗裂ヲ生スヘク候間未タ最後ノ談判ニ及ハサル内ニ双方ヨリモ一歩モ譲ラヌ事ナレハ速ニ中止スルニ如カサルノ動議ヲ起シ多少ノ同意者ヲ得テ檄文ヲ組合会中ニ廻ハシ之ヲ断行(中止)スルヽカ却テ上策カト思ハレ候(我カ会中ノ分裂ヲ防クノ策)同志社中ニモ此ノ中止ヲ取リ近々中止ノ動議(来ル十六日ナランカ)ヲ起スノ計画モアルヨシ然し同志社ヨリ発スルハ甚不幸、甚不都合ト存シ申候間榎坂ニテ此周間中乃チ土曜日ノ午前迄榎坂 99ノ有志家 999
多数ダケニテモヨロシ中止説ヲ起シ土曜ノ夕刻迄ニ同志社 999ニ 9電報 99ヲ以テ 東京ニハ中止説起矣何ソ同志社ニモ之ニ同意セザルノ意ヲ以テ
一四九徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって― 同志社教会宛ニシテ御懸合アラハ 此ノ日曜日ノ午前ニ同志社ニハ此ノ電報ニヨリ動議ヲ起ス事ニナリ可申又此ノ日曜ノ午前ニ前途ノ方針ヲ決スルニ至ラハ甚好都合ナリト存候到底只今ノ侭ナラハ生等ト旧バイブルクラースニ分裂ヲ生シ非常ノ不幸ヲ来スベシト心配仕居候小生ハ只々貴兄ニ吐露スル耳之ヲ断行スル云々ハ貴兄ト○ [ママ]○君ノ掌握内ニアリ存矣六月十二日 自由信徒
徳富猪一郎兄
此書ヲ呈スル事ハ同志社教会ハ存知不申候
一五〇徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって―本書簡は、組合教会と一致教会とが合同する動きに対して、新島が徳富に東京赤坂にある組合派の霊南坂教会から合同中止の動議を出すように慫慂したものであり、実質的には徳富に合同中止のために行動するようにという指示書である。本書簡に先立つ五月二十二日に、組合教会の第四回総会が神戸で開催され、一致教会と協議しながら合同教会の憲法草案に修正を加えた上で三か月後に合併するというスケジュールが示された。新島はこの書簡でそのような事態を「前途ノ経倫ナキモノヽ所為」と強く批判している。また、総会の前には修正憲法草案の内容に聞き及んでおり、徳富に対して「修正憲法も矢張モデーファイドプレシテペリアニズムなり」、「而シテ憲法ヲ以テ之ヲ決行スルニ到レ ラハ、我カ教会ハ将来貴族的独断的政治ノ下ニ生息シ、百年ノ後ニ至ラハ吾人ノ当時甘受スル所ノ自由ハ何レへカ消滅シ去ントスルハ、本日ヨリ断言仕ルベシ」(『全集』四 六四四号)と、強い警戒心を示している。五月から六月にかけて、新島は徳富に対して教会合同への反対を繰り返し語っているが、海老名弾正、小崎弘道など組合派の有力者たちが揃って合同賛成の中、提案された憲法草案のまま合同へと雪崩をうって事態が収斂する危機感を、新島は以前にも増して感じていたと考えられる。文中、合同賛成派と反対派の争いを川中島に喩えているが、劣勢と考えられる中で互角の戦いを、と鼓舞するように語る新島の心中は、徳富を戦いの同志と見て共に活動することを期待しているのであろう。徳富に対して「貴兄モ亦自由ノ御身」「小生ハ只々貴兄ニ吐露スル耳」と、あくまでも徳富の意思を尊重する姿勢を見せながら、「甲ヲ脱シカノ軍門ニ降ル」といったことは何としても避けなければならないと説き伏せているのである。「小ヲ知ル者ハ天下只猪一郎君アルノミ、小生モ一方ニハ心細ク存候得共、君一人アルヲ以テ亦心大ク罷在候」(『全集』四 六五八号)と、この時期新島は徳富に対して信頼を寄せる言葉を続けて書き送っている。徳富は一年後に第一回衆議院選挙を控え、『國民新聞』発刊(明治二十三年)への準備に奔走していたが、繁忙の中新
一五一徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって― 島の懐刀として頻繁に連絡を取り合い助けていた。新島は、同志社の中にも教会合同賛成者が多い状況では、教会合同問題の紛糾は、学校の将来にも禍根を残しかねないものであると考えており、後半でこの事態を収束させるための具体的な策を述べ始める。同志社の中から合同中止説が噴出するのは都合が悪いので、東京榎坂より、つまり霊南坂教会のメンバーによって中止説を起こしそれを同志社に打電するようにというのである。新島が「土曜日ノ午前迄榎 ○ ○坂ノ有 ○○○志家多数ダケニテモヨロシ中止説ヲ起シ土曜ノ夕刻迄ニ同 ○○○志社ニ ○電 ○○報ヲ」と指示するところである。新島はこの手紙を六月十二日の水曜日に書いている。当時郵便は京都から東京まで二日で着いた。この手紙は十四日の金曜日に到着した。文中土曜日というのは、六月十五日であろうと考えられるが、その日に中止の動議が回ったかどうかは定かではない。記録されていることは、東京第一基督教会(霊南坂教会)で、六月二十三日に総会が開かれ、教会合併の中止が決議されたということである。「之ヲ断行スル云々ハ貴兄ト○ [ママ]○君ノ掌握内ニアリ存矣」と新島が書いている、「○ [ママ]○君」が誰であるかは特定できないが、徳富がこの中止の動議の根回しをするに際して、協力者がいたことは確かであろう。七月三日付で鶴田三郎から新島宛に、合併に不同意の旨を伝える書簡が別紙印刷物の意見書と共に送られてきた((『全集』九下 六四四号)。印刷された合併中止の意見書は組合派諸教会に送付したと鶴田は報告している。印刷物の冒頭を参考までに引用する。謹テ書ヲ我親愛ナル貴教会ノ許ニ呈ス、組合一致両教会合併ノ事タルソノ関係スル所重且ツ大ニシテ軽々ニ看過シ去ル可ラサルハ固ヨリ多弁ヲ要セス、我々信徒タルモノハ飽マテ勇気ヲ鼓シ力メテ天意ノ存スル所ヲ究メ
一五二徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって―サル可ラス、是レ神ニ対スル我々ノ義務ナリ、若シ夫レ合併ノ美名ニ眩惑セラレソノ利害得失ノ如キハ之ヲ顧ミルニ足ラストシテ之ヲ放棄スルガ如キハ決シテ天意ノ存スル所ヲ発見スル所以ノ道ニアラスト信ス、故ニ我ガ教会ノ如キ合併問題ニ関シテハ応分ノ力ヲ尽シテソノ利害得失ヲ講究シ以テ天意ノ存スル所ヲ知ラント欲スルノ念甚タ切ナリ、而シテ其結果(本年六月二十三日東京霊南坂第一基督教会ノ惣会ニテ之ヲ決ス)ハ遂ニ今日ニ於テハ寧ロ合併ヲ中止スルノ得策ナルヲ断定スルニ至レリ、今左ニ合併中止ノ得策ナル所以ヲ略陳シテ貴教会ノ教ヲ乞ハント欲ス (後略) (『全集』九下 六四四号)
小崎弘道は後年、教会合同に反対したのは「同志社の學生と東京靈南坂教會の青年信徒」であり、「孰れも彼[新島襄]より煽動せられて、この擧に出た形跡がある」と回想している(『日本基督教史』「日本帝國の教化」五八八頁)。小崎の回想には全体として見れば不正確な部分も含まれていると思われるが、大筋では本書簡の内容に沿うものである。第三書簡は、新島が合同阻止のために直接行動したことを裏付けるものといえるであろう。
《第四書簡》明治二十二(一八八九)年六月十五日 書簡 墨消印 六月十六日(京都)、十八日(東京)
東京赤坂区榎坂五番地
一五三徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって― 徳富猪一郎様 御親展 京都同志社
新島襄 他見無用近頃小崎君等カ頻ニ小生ニ迫マリ小生之合併ニ関スル意見カ甚不分明ニ有之一方ニハ小生ハ其身片ト思ヒ他ノ方ニモ小生ハ其賛成家ト思ヒ居リ甚不分明ニアレハ公明正大ニ小生ノ執ル所ヲ世間ニ明カニセヨト申来候 先日モ直ニ一寸コピーヲ御覧ニ呈し候通小生ニハ何レニモ党スト申ス事ハ断言セス双方ニ親シク交際致し居候ニ旧バイブルクラス連中ハ何ニカ近来ニ至リ著シク反対ノ模様ヲ示シ小生ハ
一五四徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって―反対ノ地ニ立ツモノト暗ニ裏ニ思込ミタル事カ何ニカ頻ニ小生ニ付彼是申居候由又小生一身ノ私徳上 999ニモ彼是申居候輩モ有之候由此レハ決シテ彼ノ輩ニハアルマジト小生ハ固ク信シ居候 ナント五月蝿之如き世ニアラズヤト 嘆息致し居申候乍然小生も自ラ信スル所アリ平素取之所ノ自由主義ノ為ニ如斯喋々ノ世評モ招キシ事ナレハ可成丈静ニ歩ミ御忠告ノ如ク中立シテ参ルベシト覚悟ハ仕居候得共兎角世間ノウルサキニハ閉口致し居候近来ノ現象ニヨリ真ノ自由ハ中々世ニ容レラレス之ヲ取ルモノハ矢張現世ニモ迫害ヲ蒙ルモノカナト嘆息致候
ニ付キ合併ノ件ハ小生ハ黙止致し成丈
一五五徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって― 関係セサル事ニ将来致し度候然し将中之立ノ覚悟ハ致し居候貴兄ノ御意見等ハ無御遠慮御聞カセ被下度奉仰候六月十五日 襄 猪一郎兄
本書簡は第三書簡に続いて書かれたものであり、新島の態度に釈然としないものを感じていた小崎弘道が、真意を質してきたことを受けてのものである。文頭の「近頃小崎君等カ頻ニ小生ニ迫マリ」というのは、六月六日、十三日付の小崎からの連続した書簡(『全集』九下 六二四、六二六号)等を指していると考えられる。この時期までの新島と小崎のやり取りを概略すると次のとおりである。神戸総会での合同派の決議のやり方に対して、新島は六月二日の小崎宛書簡で苦言を呈しており、これは本書簡文中にある「先日モ直ニ一寸コピーヲ御覧ニ呈し通」、とあるものである。新島は小崎に対して、反対する教会があればそれを捨てても合同するという方針は、「若手ヲシテ恐縮セシムルヨリモ寧ロ益激抗セシメタル甚浅薄ナル御所為」(『全集』四 六五九号)であると述べる。小崎はこれに対して、六月六日付の新島宛書簡で、自分の総会上での態度に激するところがあったとしても、多数が合同に賛成する結果となった旨を再度説明し、「先生の御位置は迂生には少しく判然せさる
一五六徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって―が、先生は合併には同意なれども、合併を実行する組合会の手段には御不同意との事なるか」(『全集』九下 六二四号)等々、新島にその考えを明確にするように促している。この小崎の書簡に対して書かれた六月八日付の新島の書簡(『全集』四 六六三号)は、前掲の第三書簡の内容と合わせて考えると興味深い。
貴書拝見仕候、貴書中小生之申上候過激之御所為に付、誤解被遊候様相心得申候間、之ヲ改正申上度候、過激之所為ト申タルハ総会議決ヲ差 指しタルニアラス、已ニ御面会之節モ右決議ニ付キ不同意トモ不申、小生ハ議決ニ付キ申シタルニアラス、懇談会 999ニ於而一二ノ教会デモグツ〻〻不同意ヲ申シ立ツルナラハ、之ヲフリ捨テ丶モ合併ス云々ト「或ル老練家カ」仰セラレタル事ナリ、此レは或ハ最後ノ止ムヲ得サル手段カハ存し不申候得共、何ニトナク激シオリタル若手ニ向ヒ右様ノリマークスヲ発言サレタレハ、漸々ト説明ヲ下セハ或ハ貴兄方ニ御同意モ申スへキモノモ、意気ハリヅグニモ合併ハセヌトノ気込ヲ起スモ計ラレス、一二ノ教会ヲ捨テ丶ヤルト断言セラレタレハ、捨テラレテモ合併ハセヌソト申ス輩モ起リハセヌカト杞憂致候ヨリ、小生ハチト称賛シ能ハサルナリト貴兄迄申上候次第ナレハ、総会ノ決議ニ不同意ト御取被下候テハ、全ク小生ノ意ニ無キ事ヲ御想像被下候事ナリ、書中総会ノ議決ニ不同意トノ言葉有之候也 ヤ、今一回御一読被下度候也、先貴兄之誤解ヲサシ正誤仕度、如此候也
(末尾略)
(『全集』四 六六三号)
この新島の小崎宛の書簡の主旨は、少数派を切り捨てることへの懸念とも取れるが、同時に合併に積極的に賛成であるとは読み取れない。小崎が何度も書簡を出したのは、このような新島の合併賛成を明確にしない態
一五七徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって― 度のためであったと考えられる。新島は、小崎に対しては、自分の主張を曖昧にしたままにおく、というある意味では極めて政治的な態度を貫きながら、「捨テラレテモ合併ハセヌソト申ス輩モ起リハセヌカト杞憂致候」などと書くあたり、少数派の教会が反対動議を起こすというシナリオを心の底に隠しているようにも読める。六月十五日、新島は小崎の十三日付の書簡への返信を書いた。ここでは新島はこの問題は「中々紙上ニ尽シ難キ次第ニ候ハヽ、貴兄近々御西遊ノ際御示談仕度候」(『全集』四 六六六号)と、手紙では中々上手く伝わらないので京都に来るときに会って話したい旨を書き添えている。徳富宛の第四書簡はおそらくこの小崎への手紙に続いて書かれたと考えられるが、六月十五日は第三書簡において動議を起こすようにと指示した日付でもあった。新島に反対動議がうまく進んでいる旨の連絡が徳富から届いていたかどうか定かでないが、第四書簡の後半で、「合併ノ件ハ小生ハ黙止致し成丈関係セサル事ニ将来致し度候」と、合併論議からは距離を置きたい旨を述べているのは、徳富へのそれとない口止めのようにも、また小崎とのやり取りに疲労したためとも受け取れる。この書簡が書かれた段階で、新島にとっての懸念材料は、続く第五書簡の内容も含めて考えると、文中「小生一身ノ私徳上 999ニモ彼是申居候輩モ有之」とあるように、個人的な事項についての誹謗中傷が広まっているということであろう。これは、組合派の多数が推進しようとしている教会合同に関して、新島に対する何がしかの悪感情が一種のネガティブキャンペーンを引き起こしたと考えることもできる。第四書簡の十三日後、六月二十八日に新島は徳富についてこの件についての詳細を次のように書いている。これは折帖仕立本の⑥にあたり、初出である森中章光編の『新島先生書簡集 続』(昭和三十五年)では省略された箇所である。
一五八徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって―近頃ハ小生一身上ニ関し、或ル者ハ其功ヲ貪 9999ホリ 9仕事ヲ若手(多分旧バイボルクラスナランカ)ニ譲ラス為メニ、或ル者ハ少しく不満ノ情モアル由云々小生ノ耳朶ニ達セリ、又愚妻一身上ノ事ニ付彼是無根ノ評ヲ為ス者モ有之ヤノ由、或ル者ノ婦女子ノ風説ナドニ信ヲ置キ、吾人ヲ疑ヒオラルヽハ矢張小生不徳ノ然ラシムル事カト思ヒ候得共、吾人教会ノ錚々タルモノト自信スル連中凡庸人ノ多キヲ占ムルニハ小生モ大ニ失望仕居候「此レモツマリ合併論ニ意見ノ異ナルヨリ遂ニ茲ニ及ヒ来ルカ」去ナカラ、同志社之計画ハ現情ヲ以テ満足スルニアラス、将来為スアルノ胸算ナレハ尚待ツベシト申居、且忍ヒ且望ミ居候 (以下略)
(『全集』四 六七三号)
この書面からは、妻の八重に対する悪評が流布されていることについて、新島は教会合同問題が背景にあると考えていることが分かる。この点については第五書簡の内容とも直接関連しているため以下で合わせて取り上げる。
《第五書簡》③ 大久保真次[二]郎君ニ托ス
先日一書拝呈当校より出京ニ可及山路一三(カゴ島人)
一五九徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって― と申す者に豫御紹介申上候間右書面ハ落掌之御事と奉存候同人事もタシカ昨日当地出発被致候よしに候ハヽ何卒御面接同氏前途之計画等ニ付宜しく御教示被下度奉仰候同氏事ハ当校之若手教員中ニハ尤有之生徒之人望を繋居御人に有之候間可成丈同志社ニ被働将来ノ為相計居候様御勧置被下又将来鹿児島ト連絡を付ルニハ同氏ハ必要之人物なりと存候間トニカク御優待被下候様奉願上候先日一寸渋沢氏ニ一万
一六〇徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって―九千円を以而公債証書買得之事ニ付申進し又同事件ニ付湯浅兄迄御依頼申上候件も有之候得共其後如何相運候也少々デレケートノ事柄故湯浅兄ニ如何渋沢氏ニ談判ニ被及候也御序ニ同兄ニ御尋被下度奉希候小生事も本年ハ尚在宅仕不日須磨辺ニ出懸可申積ニ候未タ大坂之方も大学事件は動キカヽリ候而未タ動カス是より一ト懸り相懸り可申心得ニ有之候只今奔走之専任は無之壱人相雇入候得共此レハ只刀筆之吏と
一六一徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって― 可申カ遊説等ニハ堪ヘサル人なりと存候公義氏カ一ト奔走致し度存候得共同氏ハ一切或人物中ニハ用ヒラレス又近来ハ同人之一身上ニ根墟もなき風評を附セラレ殊ニ伝道会社員よりは一切容レラレサルノ体ナレハ遠カラス伝道ハ打止メ何ソ他ニ方針ヲカヘ候方同人ノ為ニも相成可申カ同人ハ新聞ニも従事致し度申居又関東ニ於而大学之為一ト奔走致し度旨も申居候得共多分湯浅氏ナトニハ暗々裏ニ不同意タルベシト存候得共貴兄ハ如何御考可有候や近頃ハ何者カ小生之一身上ニゴテ〻〻申愚妻
一六二徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって― 密八重ヲ姦婦ノ如キモノニ申フラシ小生ノ米国留守中公義ト 相通セシ様ニコソ〻〻申居候事も小生之耳朶ニ相達申候若し事実ニ致セ彼等ニカク喋々スルハ甚不深切千万ノ事共ナリ又事実モナキモノヲ何人カノ噺ヲ採用シ之ヲ喋々スルモノアルハ餘り人ノ区別ヲナサス人之信任ヲオカサル小人輩之所為ナリト存候得共如何セン此之風説ハ彼等之内ニ事実ノ如クニ申フラシ居候由ニ而実ニ言語同断彼等ハ小生ヲ引タオシ小生ノ面上ニ墨ヲヌリツケ遂ニハ小生ヲシテ世上ニ立チ得サラシムルモノカナト迄独密ニ痛
一六三徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって― 嘆致し世ニ真実ノ信仰ナキヲ悲ナシミ居申候去ハトテ此一事ハ弁護モ出来カね只々忍テ黙々ニ附シ居申候如此キ事ヲ密告セシモノハ小生ノ留守宅ニ宿泊ニ被参候湯浅吉郎ナルヨシ又右ニ付喋々致し居候モノハ市原氏ナル由彼等ハ恩ヲ仇ニカヘスノ輩ナルカ小生ハ一切彼等ヲ許シオキ候得共彼等ノ心中少シク顧ミル所アリ度モノト存居候尤市原氏ニハ彼此心配し公義ニ忠告ナト致し呉候由ナレトモ 近頃神戸 事実ハ更ニ無根ナリ総会ニ而又々之ヲ喋々セシモノアリシ由ニテ公義ヲ奈良ヨリ日向地方ニ移スノ内議モアルヨシ
一六四徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって―彼等ハ大坂総会ニテ大失敗再ヒ神戸ニ而大失敗壮士中ニ 想新思像ノ発達セシ事ニハ更ニ眼ヲ開カレス只小生一人カ尻持ヲナシタルニヨリ壮士カ謀反ヲ起セシ事ト假想シテ近頃ハ大ニ含ミオルヤニ小崎氏ヨリ通シ呉候而同人も矢張同感ナリト被申候小生ノ日 [ママ]ニハ昨年総会ノ節ニハ小生ヨリ意見書ヲ兄等ニ呈出シタルニアラスヤ該意見書ニ対シ不平アラハ何故一言ノ申合セナキヤ何故ニ今日迄黙々ニ附セラレシヤ小生ハ自身之意見ヲ陳スルニ止マリ候而更ニ兄等ニ向ヒイルフィーリーグハ持チ不申若シ兄ニシテイルフィーリーグアルハ小生ノ関スル所ニアラス兄等自ラ之ヲ造リシ
一六五徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって― ナリト申セシカハ小崎氏等モ別ニ申訳ナク是迄ノ黙シオリシハ甚悪シカツタト被申候而止候次第彼等幽霊ヲ見テ驚キタレトモ幽霊ヲ握リツカム事ニハ参ラス候得共彼等ノ含ミオルハ生涯消滅セサルベシト存候小生今回小崎氏ニ向ヒ昨年来ノ挙動ハカクス所ナク如此ト申候一 昨年ノ憲法ニハ不同意ヲ 唱ヘタリ一 大坂総会ノ節ハ委員カ専
断ニモ合併ヲ法了セント計 カラルヽヤニ見受タルニヨリ我カ 自治体ノ組織ニ従ヒ銘々 僅々ノ手ヲ以テ為サス之レヨリハ 教会ニ教会政治如何ヲ知ラ
一六六徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって― シメ判断スヘキ材料ヲ与ヘ 然ル后意見ヲ吐露セシメ 之ヲ以テ合併ヲ判決スベシ 然ラサレハ合併ハ兄等ノ合併 ニシテ組合会ノ合併ニアラスト 申進シタルニアラスヤ一 延期論行ワ互修正ヲ加フ事ニ
決シタルニヨリ小生ハ満足シ其後 甚敷ニ過シ来レリト陳ス一 反対党ノ主領云々ハ彼等
ノ誤想ナリ小生ハ党派ヲ結ヲ 好マス只々意見ヲ陳シタルナリ 小生ヲ誤テ主領ト仰クモノハ 仰クモノヽ誤想ニシテ小生 自ラ主領タリシニアラス是レハ小生ノ 一切関シ知ルモノニアラスト申候一 先般小生ヲ引入レ二三ノ教会ヲ 捨テヽモ合併スト申ス議論ニ同
一六七徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって― 意セシメント計リシニ小生ヨリハねツケ ラレタルニヨリ小崎氏ハ大ニ激シタリ一 小生ハ何故ニ男ラシク公然ト
談判モ為シ得スシテ隠然 イルフィーリングヲ持チシヤト督責 致しヤリ候又将来イルフィーリングヲ抱ク勿レト誡ム一 只今往キモシキラス帰ルニ帰
ラレス恰モ犬カ其頭丈ケヲ 柵ノ間ニ入ヒテ行ナラス引キモ ナラサルカ如シ○ [ママ]尚合併ヲ法了スヘシト 申居候よし 其レテモ
御一覧ノ上ハ
直ニ御焼捨被下度候也
この長文の書簡には日付がなく、表書きには「大久保真次郎君ニ託ス」とのみ書かれている。大久保真次郎は徳富の姉音羽と結婚していたが、同年になって伝道したいという意欲を新島に伝えており(『書簡集』九下 三九七号)、秩父伝道に出ることになった。七月十四日、新島は大久保と妻音羽を招いて送別会を開いた。翌日、
一六八徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって―八重が大久保夫妻を駅まで見送りに来たことが知られている(2)。七月十六日、音羽の実家である東京の徳富家に夫妻で投宿、二日後には秩父へと出発している。「先日一書拝呈」以下、書簡の冒頭で新島は、同志社助教の山路一三についての紹介を書いて送った旨述べているが、この書簡は七月二日に書かれたもの(『書簡』四 六七九号)である。七月二日以降、大久保が徳富に会えたのは、秩父伝道の途上妻の実家に立ち寄った際と考えられ、それはこの時期であったかと推測できる。またこの書簡は、七月二十一日付、徳富宛の新島の書簡(『全集』四 六八六号)に、「先日大久保ニ託し申上件ハ同人よりも縷々御聞取有るへし」と述べられているものである。この言及からは、新島が大久保にこの書簡を渡すに当たって、書簡の内容について種々諭していることが伺える。この年の六月二十九日から七月十日まで第一回基督教夏季学校が同志社で開催され、全国から受講者四百六十七名が参加した。新島は七日の聖餐式には病気で欠席しているため、何日か体調不良であったことが伺える(『全集』八 五二七―九頁参照)。新島は夏季学校の期間に同志社卒業生の間に広まっている悪意のある噂を強く意識したと考えられるが、この書簡は、気持ちに任せて憤怒を書き連ねているようなところがあり、十分に推敲したものとは思われない。これらを総合して考えると、この書簡が書かれたのは大久保の出発に近い時期、すなわち七月十日前後から十四日までの間と考えられ、徳富宅にこの手紙が届いたのは十六日ということになる。以下、次の【1】から【5】の点について事実関係を述べていきたい。
【1】山路一三の件
一六九徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって― 【2】大学設立運動に関する話題【3】新島公義について【4】八重と公義についての風説および湯浅吉郎について【5】教会合同問題について【1】山路一三の件新島は七月二日に徳富に宛てて山路一三の紹介状を送っている。新島の山路評は高いもので、「同氏ハ我カ校ニ取リテハ将来見込アル青年ニ有之候間是非大切ニ致し度存居候」(『全集』四 六七九号)と述べ、東京に近々行くので面談をしてやってほしいと頼んでいる。この書簡においては、繰り返し山路とのつながりを作るように「将来鹿児島ト連絡を付ルニハ同氏ハ必要之人物なりと存候」など、薩摩出身のおそらく政治家との連絡係にもなるといった示唆まで書かれている。山路は七月二十三日には三河におり、二十四日には東京に到着、二十六日に初めて徳富に面会した。山路は新島に書簡を送り、徳富との面談の状況を次のように述べている。「兼而御招介被下候徳富君ト面会仕、一時間位談話ノ后、明ル日五時頃又々御面会ノ都合ニ約束シ其日ハ帰宿仕候、翌日罷出候処岸本、青木、保高等ノ諸君モ御裂会ニテ候故一向親密ナル御談話ニ不及、誠ニ残念之至ニ存候、迂生ハ未タ徳富君ヲ知ラズ、氏ハ已ニ先生ノ御書面ニテ三秋ノ交リヲ結ビシモノヽ如クニ御座候」(『全集』九下 六六七号)(3)。この書簡からは、山路は徳富に会ったが、将来について話し合ったわけでもなく、未だ徳富が何者であるか納得できないといった感想を持っていることが分かる。徳富もこの件については、七月二十七日の書簡で「山路氏ニハ昨日面会仕候、今夜ハ又た面会ノ都合致置候」(『全集』九下 六六六号)との
一七〇徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって―み簡単に述べるだけである。東京にいる徳富のところに新島に近い人間が訪ねることは、新島にとって徳富に関する情報を、本人から直接聞く以外の方法で知ることにもなった。この書簡を持参した大久保も、徳富に面談した山路も、それぞれの立場から新島に徳富の近況を知らせていた。当時徳富率いる民友社は、その機関誌『國民之友』の成功とともに、さまざまな人々の交錯する場となっていた。熊本の大江義塾からの人脈を中心とした民友社社員達、民友社の財務担当で大学設立の寄付金を取り扱っていた湯浅治郎と財界の人々、そして『國民之友』に記事を寄稿した文学者たちとのつながり―など、徳富を中心に当時の論壇や政財界との関係が出来ていたのである。また、同志社運動を支援する民友社は、政治的な文脈からみれば民党の政治色がある団体でもあった。民友社が一つの運動であり、同志社大学設立は勢力を拡大する一つの好機であったという解釈も成り立つように(4)、徳富の立場は同志社で教え、もしくは伝道に出ていた卒業生たちとは大きく異なっていた。徳富に対してある時は賛辞を惜しまず、或る時は距離を取った対応をする新島は、このような徳富の立場を良く知り、その上で自分の陣営に利するように監督しているようでもある。書簡から見る限り徳富と山路の面談は不首尾であったが、新島としては書簡により何がしかの情報を知ることが出来たといえるだろう。
【2】大学設立運動に関する話題次に話題となっているのは、渋沢栄一を通して公債を購入する話である。この件について徳富は七月二十七日の返書の中で「湯浅君ヨリ渋沢氏云々ノ儀ハ湯浅君上州留守ニて不果」(『全集』九下 六六六号)と、湯浅治郎は上州に帰郷していたので渋沢氏への面談が出来なかった旨を述べ、渋沢よりの書状は湯浅宛であったため徳富が見ることなく長く置いておくことになってしまったと弁解している。公債の件については、八月十二
一七一徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって― 日の渋沢から新島宛の手紙で、「同志社御預り金」については、湯浅と相談して公債と定期預金に振り分けた旨が報告されている(『全集』九下 六八四号)。
【3】新島公義について続く部分では、新島は同志社大学設立運動に人材が不足している点について言及し、新島公義が働きたいと言っているが、伝道会社の人々などには全く信頼されていないので、関東での大学設立の方に使おうかとも考えるが、その計画は湯浅治郎がおそらく賛成しないだろう、といったことを述べている。新島公義は明治四(一八七一)年、新島渡米中の新島の弟雙六の死去に伴い、安中士族の植栗家より新島家に養子として入った。その後新島が京都で同志社を開くのに伴い合流し同志社で学んだ。徳富とは共に学んだ仲間であり、自杖事件の際には共に退学すると言った人物である(5)。公義はこのとき奈良伝道に出ていたが、同志社の人々との軋轢はそれ以前より起こっていたことが、新島の書簡からもうかがえる(『書簡』四 五五二号参照)。新島は「関東ニ於而大学」と、関東での大学設立について言及しているが、徳富は『蘇峰自傳』の中で、「大學の一部分を東京に分設すると云ふ話」が、明治二十二年頃にはあったと述べている(二四九頁)。なお、新島はこの書簡に続いて、七月二十一日付の徳富宛書簡において、公義の将来について徳富にさらに具体的に相談している(『全集』四 六八六号)。徳富は公義に新聞記者か学校の教師の職であれば紹介できるだろうと返答している(『全集』九下 六六六号)。
【4】八重と公義についての風説および湯浅吉郎について本書簡で最も問題となる箇所は、八重と公義が不義密通をしているかのような噂が撒かれている、その噂の張本人は湯浅吉郎である、という箇所である。「八重ヲ姦婦ノ如キモノニ申フラシ」という部分から、新島の筆
一七二徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって―が明らかに興奮しているのが読み取れるが、いつの間にかこの噂が真実であるかのように広まっており、「彼等ハ小生ヲ引タオシ小生ノ面上ニ墨ヲヌリツケ遂ニハ小生ヲシテ世上ニ立チ得サラシムルモノカナト迄独密ニ痛嘆致し」と、新島の顔に泥を塗り世間に立てないようにしてやろうと思っているのか、とまで考えると述べている。家族を中傷された新島の悲嘆が深いということとともに、明治期には刑法により姦通罪があったことも念頭に置かねばならない。当時は夫のある身で他の男と通じた女は処罰され、その相手の男も同罪となった。ただし夫の訴えがなければ処罰されなかった。八重と公義に関する噂が流れていたとするならば、こうした法制下の社会であることを考えるときわめて悪質である。但し、事の全体を見た場合、合同反対の新島の態度が隠然と見えたことに対する怨みが、このような噂という形で噴出したと考えるのが妥当であり、遠因としては新島の健康が日に日に悪化していることに付随する、大学設立運動も含めた同志社の将来に懸念が生まれていることも背景にあると考えられる。尚、前年の明治二十一年四月に、新島が井上馨邸で倒れた際、新島の支援者で実業家であった富田鐡之助が親身になって看護の手配をしたが、新島はこの時以来自身の健康状態の悪さが巷間に広まることに注意深くなり、入院等の行動はとっていない。新島は、「如此キ事ヲ密告セシモノハ小生ノ留守宅ニ宿泊ニ参候湯浅吉郎ナルヨシ又右ニ付喋々致し居候モノハ市原氏ナル由」と述べている。「市原氏」とは市原盛宏のことである。続いて「小生ハ一切彼等ヲ許シオキ候」と述べており、新島のキリスト者としての心情が吐露されている。ここでは、湯浅吉郎と市原盛宏についてのこの書簡の内容と関連する事実関係を述べる。湯浅吉郎は湯浅治郎の実の弟であり、同志社に入学し十八年には神学科を卒業している。新島の米国留守中というのは、明治十七年から十八年までのことであり、湯浅吉郎が新島家に投宿したというのは、この時期のことかと考えられる。湯浅はその後オバーリン・カレッジ(Oberlin
一七三徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって― College)に留学、明治二十一(一八八八)年に卒業し、続けてイエール大学の哲学芸術学研究科(Yale University, Department of Philosophy and the Arts, Courses of Graduate Instruction)に入学した(6)。一八九一年にヘブライ語学の論文で博士号を得ている。市原盛宏は、同志社卒業後学校に残り教鞭をとっていたが、明治十九(一八八六)年、仙台において東華学校が設立されることになり、校長代理として赴任した。市原は、東華学校を援助した富田鐡之助の支援を受けて、イエール大学に留学となった。明治二十二(一八八九)年、七月十六日には仙台を発ち、十九日からは東京に滞在し、八月三日には出航の予定であると、三十日付の書簡で新島に連絡している(『書簡』九下 六六九号)。イエール大学には一年早く入学していた湯浅吉郎がいた。市原の入学した研究科は湯浅と同じである。一八九二年に日本の絹貿易についての論文で博士号を得ている。アメリカでの勉学へと進路を進める卒業生たちは、皆それぞれ将来を模索していた。新島の合同反対が会衆派の自由自治の精神に忠実であるところから来ているとはいえ、実利的な面からいえば、当時キリスト教の勢力を統一すれば社会的な影響力の増大を図ることも期待できたといえる。しかし合同推進派に見られたこのような風潮の高まりは、新島の死後明治二十三(一八九〇)年十月に発布された教育勅語に見られるような、教育現場における天皇制国家主義の伸長とともに潰えていくことになる。【5】教会合同問題について新島は書簡の後半で、教会合同問題について、かねてよりの主張を繰り返し記述している。この点については『全集』四に収録されている他の徳富宛新島書簡を参照されたい。本書簡で「小崎氏ニ向ヒ昨年来ノ挙動ハカクス所ナク如此ト」述べたという点であるが、これが書面で伝えたことなのか、実際に会ってのことなのか判然としない。ともあれ新島にとっては、徳富に再度小崎への意見をまとめて伝えておくことも必要と思われ
一七四徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって―たのかもしれない。箇条書きにしている冒頭部分の「昨年の大阪総会」とは、明治二十一(一八八八)年十一月二十三日から二十八日まで大阪教会新会堂にて行われた、組合教会臨時総会のことである(7)。
最後に、徳富蘇峰記念館所蔵の折帖仕立本新島書簡について、書簡群全体の配置について若干付言したい。徳富により折帖仕立にされた書簡①から⑥のうち、最も日付の新しい第五書簡は三番目に置かれている。順序としては、第二書簡にある『大坂毎日新聞』の柴四郎の記事に激昂する新島の姿の次に、第五書簡で八重と公義に関する風説と合同推進派の対処に悩む新島が来る恰好である。全体の流れをみると起承転結と置いている趣もある。漢詩をよくした徳富であれば、手元に残った新島書簡をそのような順序に置きたくなることは十分考えられるが、確実なことは分からない。ここでは、折帖に繋ぎあわされた書簡群を一つのまとまりとしても読むことが出来る点のみ指摘しておきたい。折帖仕立本を読み進むと最後に近づいたところで「小生之生死も偏ニ天父之手裏に在り存する事なれは、人間栄枯之如きハ喜ふニも足らす、又悲しむにも及ハす」(『全集』四六七二号)と、穏やかな諦観の気分が現れる。最後に来るのは六月二十八日の書簡の二番目である。この書簡の末尾近くに次のようにある。結語としても読める。
同志社は是非将来深山大沢 9999ニなし度候間、貴兄も充分此之為ニ御工風御尽力被下度奉仰候 (『全集』四 六七三号)
一七五徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって― 注(1)徳富蘇峰記念館所蔵の新島書簡については、拙稿「徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑴―二通の新島書簡 徳富猪一郎との往復書簡として―」『同志社談叢』三十三号 二〇一二年 八十三―一一八頁に別途詳細がある。(2)大久保真次郎「告別」『上毛教界月報』四十五号 明治三十五(一九〇二)年 五月十五日号を参照のこと。大久保の生涯については、『全集』三 注解 七八三頁および八六一頁に記述がある。(3)山路の書簡中にある「岸本、青木、保高」とは、それぞれ岸本能武太、青木要吉、保高正記を指すと考えられる。『同志社百年史』によると、三人とも同志社出身者で、『同志社文学』の編集や執筆に携わったことがある。新島による徳富宛の保高の紹介状として同年七月一日付のものが残っている(『全集』四 六七七号)。徳富は『國民之友』の発行とともに、前年から「文学会」を主宰しており、当時学芸や言論活動に興味のある人々に求心力を持っていたことが分かる。(4)『徳富蘇峰関係文書』第三巻の梶田明宏による解題では、書簡を通じて明確なのは「蘇峰が同志社に対し、募金運動に積極的に協力することなどで勢力を扶植しようという意図を持っていた」(八頁)ことである、としている。大江義塾出身で徳富の同志の一人であった阿部(神山)充家は「同志社大学の都合、同志社との御関係実に後来我党の運動上好結果を見候事と御苦心の程実に奉感佩候」(明治二十一年五月二十一日付 三十六頁)と述べ、新島については「先生は我党の元気なり、精神なり、生命なり」(三十七頁)と追伸に記している。 (5)公義はその後説得され同志社に留まった。徳富の最晩年の著作『三大人物史』では、新島襄の生涯が全体の三分の一以上を占めるほどに記述されているが、その中には明治十三年の新島公義の姿が印象深く描き出されている(五三六―五三八頁)。新島襄死後の新島公義の動向については不明な部分が多い。(6)当時同志社からイエール大学へは、多くの学生が留学している。本稿では、杉井六郎「イエールの日本人」を参考にして湯浅及び市原の留学状況を記述している。(7)この総会は紛糾し教会憲法案が提出されたものの、最終的な判断は翌年の総会に持ち越された。詳細については前掲の拙稿を参照。
一七六徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって―
解説中の新島書簡および徳富書簡からの引用は、以下による。『新島襄全集』三 書簡編1 新島襄全集編集委員会編 同朋舎出版 一九八七年 『新島襄全集』四 書簡編2 新島襄全集編集委員会編 同朋舎出版 一九八九年『新島襄全集』九上下 来簡編 新島襄全集編集委員会編同朋舎出版 一九九四年文中敬称は省略した。
(参考文献)小崎弘道
『日本基督教史』
警醒社 一九三八年杉井六郎
「イエールの日本人」
『同志社アメリカ研究』十三号
六十九―九十二頁 一九七七年『上毛教界月報』復刻版 不二出版 一九八五年『同志社百年史』通史編一、二 上野直蔵編 学校法人同志社 一九七九年徳富猪一郎
『蘇峰自傳』
中央公論社 一九三五年徳富蘇峰
『三代人物史』
読売新聞社 一九七一年『徳富蘇峰関係文書』 伊藤隆 酒田正敏他編 全三巻 一九八二―八七年 山川出版社『新島襄 教育宗教論集』同志社編 岩波文庫 二○一○年『新島襄全集』 全十巻 同志社 全集編集委員会編 同朋舎出版 一九八三―一九九六年『新島襄の手紙』同志社編 岩波文庫 二○○五年『新島先生書簡集』 森中章光編 同志社校友會 一九四二年『新島先生書簡集続』 森中章光編 学校法人同志社 一九六○年
一七七徳富蘇峰記念館所蔵新島襄書簡について⑵―教会合同問題をめぐって― (謝辞)本稿は多くの人々の協力により完成することが出来たものである。翻刻については、以下の方々のご教示とご指導を頂いた。姫路市城郭研究室の工藤茂博氏、広島大学大学院文学研究科歴史文化学講座教授中山富広氏、そして同志社大学文学部教授露口卓也氏である。露口氏には読みに関して貴重なご指摘をいただいた。これらの方々に対して、ここに重ねて感謝したい。同志社社史資料センターの布施智子氏には原稿に関してお世話いただいた。ここに御礼申し上げる。また、日本英学史学会会長北垣宗治氏はじめ英学史学会関西支部の諸先生方には、新島研究に関する発表の機会を与えていただき感謝している。徳富が最晩年に同志社で講演した際に学生として聴講された北垣氏から、多くの刺激的な逸話を聞くことが出来たのもこの研究の励みとなった。神奈川県二宮にある徳富蘇峰記念館の和田千枝氏、同記念館の塩崎信彦氏には記念館資料について大変お世話になった。この記念館の所蔵資料の価値が、今後さらに評価されていくことを願っている。最後に、私の新島書簡の研究について、元長崎外国語短期大学学長・長崎学院理事長の山本敏明氏から、心のこもった応援をいただいた。「課題を与えられていることほど幸いな祝福の人生はない」という山本氏からの言葉を、今後の研究と共にと思っている。