著者 表 章
出版者 法政大学能楽研究所
雑誌名 能楽研究
巻 39
ページ 21‑58
発行年 2015‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10114/11255
21
*表氏は、能楽セミナーの後、一一○○|年一一一月十日の写楽研究全国大会(徳島市「写楽の会」主催)、二○○四年二月十三日の芸能史研究会例会でも、斎藤十郎兵衛に関する発表を行っている。そのうち、芸能史研究会での発表が表氏の最新の研究成果を示しており、本稿の末尾に掲載した年表も、芸能史研究会での発表に際して配布されたものを用いた。*当日の講演題目は「写楽?斎藤十郎兵衛lその地位に見る幕末の能界I」というものであったが、本稿では、芸能史研究会での発表タイトルに従って題目を付した。*テープ起こし及び資料の再入力には、深澤希望氏(法政大学能楽研究所研究補助員)の協力を得た。(宮本圭造) *当日の講演では、高知県立両
あたって、所蔵を明記した。
*表氏は、能楽セミナーの後、 *以下は、一九九八年十一月十五日、第二回法政大学能楽セミナーにおける表章氏の講演の原稿化である。テープ起こしを元に、話が前後している部分等を整理し、なるべく表章氏の口調を残しつつ、読みやすい形に整えてある。*当日の配付資料は、B4の資料が七枚、年表が二枚であったが、本稿では、資料の引用記事は適宜本文に組み込み、年表は、芸能史研究会の折に配布されたものに基づいて再入力し、末尾に掲載した。*当日の講演では、高知県立図書館蔵の番組について、「某所蔵」として所蔵先を明かされていなかったが、今回の原稿化に
写楽斎藤十郎兵術の家系と活動記録
表
章
22
資料一枚目に、「能楽研究」二十号(平成八年三月)の岩崎雅彦君の書いた「研究展望」の一節をちょっと引用して
おきました。岩崎君というのは同僚でして、彼が平成四年の学界の研究状況について書いた中に、高橋克彦が中心と
なって展開しているNHK歴史発見の「写楽を探せ」という番組に言及して、この番組は内田千鶴子さんの『写楽・考』(一一二書房)という書物の、斎藤月岑「増補浮世絵類考』に見える、写楽というのは阿波藩の能役者斎藤十郎兵衛
なんだという説に従って構成されているようなのですが、その中で、どうも写楽については色々な説があるけれども、写楽が能役者斎藤十郎兵衛だという説に対して、能楽研究者の側からちっとも発言がないじゃないかということを岩崎君は言っている訳です。おしまいのほうに「写楽の正体をめぐる論争は、邪馬台国論争と並んで日本史上最も人気のある論題で、言わば国民的関心事である。いずれも研究者以外の人の発言が多いという特徴があり、それだけにプロの研究者がこの問題に首をつっ込むのを祷路する気持ちもわからないではない」と書いていますけど、別に祷踏している訳ではないんでしてね、特別新しく言うようなことは見つかっていないと、要するに写楽は阿波藩の能役者斎藤十郎兵衛であるという斎藤月岑の説を信じるか信じないかというだけの問題なのでして、文献的には正体不明の写楽について、はっきりした言及があるのは天保十五年(一八四四)奥書の斎藤月岑編「増補浮世絵類考』という本だけ まいります。 たくさん資料を作りまして、半分位で話が終わってしまうというのが私の恒例でございまして、本日は年表が二枚と資料が七枚お手元に行っているかと思います。なるべく全部に言及するつもりでおりますが、いつも途中で終わってしまうということが多いのです。年表はしょっちゅう使いますけれども、資料のほうは使わないものも中には出て はじめに
23写楽斎藤十郎兵衛の家系と活動記録
なのです。これには実は、もとになった『浮世絵類考』という本がありまして、それにいろんな人が手を加えてだん
だんと大きくなって来たのですけれども、斎藤月岑が初めて写楽が阿波藩の能役者斎藤十郎兵衛だと言った。写楽の時代から五十年は経っておりますけれども、江戸時代における唯一の文献資料なので、私どもがそれを信用するのは
問題ないと思うのですけれども、どうも信用したくない人も大勢いるんですね。やれ写楽というのは誰それだという
のは、一一十も三十も説があるそうですけれども、これといって根拠があるという説は一つもないのです。斎藤十郎兵
衛説に比べると、とても肩を並べられるような説ではないんですよ。みんな単なる推測ですから、大変有力な説が一つあって、後は有象無象と言っていいような泡のような説があるだけなんです。写楽が斎藤十郎兵衛であるということを明確に示す証拠が見つからない。見つかってないからあれこれと推測をしたくなるんですけれども、別に祷踏している訳ではないんです。特別新たに加えるものがないということなんです。ただ能役者斎藤十郎兵衛については、まあいくつかわかってきている資料がありますので、私の知っている範囲で写楽の研究者に提供してきたのです。
写楽の研究者は、みなさん能楽研究所にいらっしゃいます。そうですね、昭和四十五、六年頃から、まだ能楽研究
所が麻布にあった時代から、外国人をはじめ大勢お見えになっております。その方みなさんに我々が見つけた資料を
提供してきたのであります。内田千鶴子さんも、『写楽・考」という本を出す前の論文を書く段階で、能楽研究所に
は何回も来られました。関係資料を調査なさったんで、その時にもだいぶ我々の知っていることはお教えしたのです。
内田さんというのは、年配の方は昔映画監督で内田吐夢さんという方がいらしたということをご存知だと思いますけ
れども、内田吐夢さんの息子さんのお嫁さんなのです。内田吐夢さんが映画にしようというんで腹案に書いておかれ
た、そういう所から興味を持たれて調べられたようです。斉藤十郎兵衛というのは喜多座所属の地謡方であって、下掛宝生流のワキなんです。その関係はですね、今日の能
 ̄
24
界の形から一一一一口うとどうも理解しづらいと言いますか、内田さんも後のほうでは宝生座に所属して活動したというよう
なことも書いてらっしやる。下掛宝生流だから宝生座にくっついて活動したんだろうという具合に受け取られたんだと思います。けれども、そうじゃないんでしてね。今から言うとちょっと変な身分なんですけども、そのことはち
ょっと詳しくお話しておいたほうがいいと思いました。
それともう一つは、岩崎君が「写楽Ⅱ斎藤十郎兵衛というこの有力な説の検証は、能楽史研究者に課せられた義務
であろう」と書いているのですが、ほっとく手はないと思っていた頃に、今年になりましてから埼玉県のお寺で斎藤十郎兵衛を記載した過去帳が発見されたのが新聞に大きく報道された。資料には「毎日新聞』を挙げて置きましたが、この見出しに「斎藤十郎兵衛実在していた」と書いてある。それが今度の新しく出てきた過去帳で初めて分かったことのように書いてあるんですけれども、斎藤十郎兵衛が実在した人物であるということは、とっくの昔に分かってい
たことなのであって、今回の発見によって没年と享年とがはっきりしたということなんです。記事の中身を読んでみ
ますと、この過去帳を発見した研究者グループの人は、「斎藤十郎兵衛の実在が確認され」とか、「実在の人物かどうか確定していなかった」なんていう文章もありまして、どうも余程丁寧に研究した人でなければ、斎藤十郎兵衛は存
在しなかった人のように思われているようなのです。
次に引用いたしました斎藤月岑の『増補浮世絵類考』の記事は、内田さんの本から借用しました。内田さんの本は、
大変よく調べたもので、必要な資料はほとんど網羅して載せてあります。この記事は写楽に関して斎藤月岑が書いた
ものなんですけれども、実はこれは前からあった『浮世絵類考』という本に、さらに色々な人が次々書き加えていつ
、写楽Ⅱ斎藤十郎兵衛説に関する資料再検
25写楽斎藤十郎兵衛の家系と活動記録
「天明寛政年中の人」というのと「俗称斎藤十郎兵衛」という注記、下のほうの「阿波侯の能役者也」というのと、最後の「廻りに雲母を摺りたるもの多し」という記事だけが、月岑が増補したと考えられる部分なんです。後は「三
馬云、僅に半年余行るるのみ」なんていうのは式亭三馬が加えた部分でして、その他の記事は元からあったものです。その『浮世絵類考」のもともとの形は、これも内田さんの本からの引用ですけれども、次に挙げた達磨屋五一本
「浮世絵類考』(天理図書館蔵)が、それになります。 たものなんです。
(朱書)にて写楽ハ阿州侯の士にて俗称を斎藤十郎兵衛といふよし栄松斎長喜老人の話那り周一作洲 ○罵楽天明寛政年中の人俗称斎藤十郎兵衛居江戸八丁堀に住す阿波侯の能役者也号東洲斎歌舞伎役者の似顔を写せしがあまりに真を画んとてあらぬざまに書きなせしかぱ長く世に行れず一両年にして止む類考三馬云僅に半年余行るるのみ五代目白猿幸四郎(後京十郎と改)半四郎菊之丞助五郎鬼治仲蔵の類半身に画廻りに雲母を摺りたるもの多し
○篇楽是また歌舞伎役者の似顔を写せしがあ満りに真をかかんとて阿ら奴ざ満に書那世し可(長く世に行ワれず一両年にて止む一一一馬按写楽号東周斎江戸八丁堀に住す半年余行わるるのみ
26
右端の部分に「篇楽」とあって「是また歌舞伎役者の似顔を写せしがあ満りに真をかかんとて阿ら奴ざ満に書那世し可(長く世に行ワれず一両年にて止む」、そこまでが記事の本体で、それに「三馬按写楽語号東周斎江戸八丁堀に住す半年余行わるるのみ」と書かれています。斎藤月岑の『増補浮世絵類考』にはこの後に、「五代目白猿」云々とあり、これは同じ浮世絵の作者で溪斎英泉という人が増補した一文で、天保四年(一八一一一三)の『続浮世絵類考』に
入っています。このように、だんだんと記事が追加されてきたのです。月岑が新たに追加した記事は、「天明寛政年
中」という活躍期間を明記したのと、「俗称斎藤十郎兵衛」「阿波侯の能役者也」ということだけです。いったい斎藤月岑が何に基づいてこれを書いたか。斎藤月岑というのは有名な人でしてね、資料に西山松之助さんが「日本古典文学大辞典』に斎藤月岑のことを書かれた記事をそのまま引用しておきましたけれども、江戸町名主で、浮世絵につい
ても能楽についても非常に造詣が深い人だった。その後に『弘化勧進能絵巻』の斎藤月岑の奥書も載せておきました。『弘化勧進能絵巻』というのは大変有名なも
のでして、能に関心のある方ならばどこかで御覧になっていると思います。これ実はですね、元は斎藤月岑自身が描いたと思われていたんですけど、奥書を見ますと最後のほうに「今いささか厭図を蟇して」云々と書かれていますの
で、本人が書いたものではなく注文主のような感じが強いのです。この勧進能の時にも世話役として何通も会場に足を運んでいますし、こういう絵を注文して残したくらいの人物で、能のほうにも浮世絵のほうにも大変造詣の深い人
物なんです。そういう人が根拠もなくそういうことを書く訳がないので、まず信用していいだろうというのが普通の
判断だろうと思います。資料の二枚目に、昭和五十二年に中野三敏先生が紹介された『諸家人名江戸方角分』の一部を引用しておきました。この本が、斎藤月岑の説の傍証になるだろうと言われてきた資料です。その左側に『演劇百科大事典』(昭和弱年、
平凡社)の「瀬川富三郎」の項を挙げておきましたが、この『諸家人名江戸方角分』は、歌舞伎役者で一一一世の瀬川富三郎が編纂した、当時の江戸の文芸家の人名録です。方角別、住所別に分類して、記号でもって名前の横に四角が
あったり三角があったり九があったり山型があったりするのは、仕事の区別を示したものです。「清溪」に付けられ
ている■は学者の記号、それから「照義」に付けられている、菱形みたいなのが二つ重なったのは狂歌師であるとか、
いろんな記号でもって示してあるんです。その最後のほうに、地蔵橋の住として、鉤と×印があって、その下に「号篤楽齋」というのがあります。そのさらに下のほうに本当は名前が来るべきところなのですが、名前は書かれておりません。鉤印はすでに亡くなった方ですよという印で、×印は浮世絵師を示す記号です。浮世絵師で写楽斎という人が地蔵橋に住んでいたということが分かる。斎藤十郎兵衛の住所が八丁堀の地蔵橋だということは他の資料からも分かっておりました。「諸家人名江戸方角分』が編纂されたのは文化十四年(’八○六)です。年表の胡番のところに
蝋「※この年(または翌年)、歌舞伎役者三世瀬川富三郎が『諸家人名江戸方角分』を著し、その写本を蜀山人が翌年に
三口鋤入手〔国会図書館蔵同書〕。同書が浮世絵師「写楽斎」を八丁堀地蔵橋の住人で故人とする」と書いておきました。 孔浮世絵師で写楽斎という名前が書いてあり、文化十四年にもう死んでいるという記号を付けている。後でも言います
家のように、彼が死んだのはその後でして、まだこのころは健在だったのですけれども、この編者である瀬川富三郎は、衛限写楽が活動した寛政五年(’七九三)頃には江戸にいなかったんです。大坂で活動していて、その後、江戸へ出てきて
良船一二世を襲名しました。だから、写楽の名前は一応聞いていたけれども詳しいことは知らなかった。その最初に来るは 鱸ずなのは雅号で「豊国」とか「清溪」とか名前がくるはずなのですが、ここに「写楽」とあって、「写楽斎」とある
写ところには「東洲斎」とあるのが正しいはずなんです。一説には「写楽斎」ともいったとする書物もあるんですけれ72・ども、それはむしろ『諸家人名江戸方角分』の影響を受けていた可能性が高いので、参考にならない。本人は「東洲28
「午四十九」の「午」は、文化七年を指しています。午の年に四十九歳、父親が「与右衛門」とあり、斎藤十郎兵
衛が文化七年に喜多座の地謡であったということが分かります。この文化七年というのは、写楽が浮世絵を専ら書い
ていた寛政初年からいくらも経っておりませんから、たぶんこれが写楽にあたる斎藤十郎兵衛だろうということは推 斎」とか「東洲斎写楽」とか、ただ「写楽」と署名していますので、「写楽斎」というのは間違った言い方だと僕は思います。本来ならそこに名前として「写楽」とあって、「東洲斎」というのが注みたいに入り、下のほうに「斎藤十郎兵衛」と名前が書いてあれば完全なのですが、よく知らなかったのか、もうこのころ活動してないから故人だろう、亡くなっているんだろうというんで、もう死んでいる人の記号を付けてしまったんだと思います。とにかく写楽は八丁堀の地蔵橋に住んでいたんだということが、この「諸家人名江戸方角分」の段階では考えられていたということが分かります。それは斎藤月岑の説とも合いますので、これが出てきたために、「斎藤十郎兵衛Ⅱ写楽」である可能性はより強くなったんでないかという具合に、中野三敏さんもこの本の解説で大変詳しく書いていらっしゃいます。
もっとも、斎藤十郎兵衛が実在した人物であるということは、それ以前から色々な記録によってわかっていました。
資料の二枚目に挙げた文化七年(一八一○)の「猿楽分限帳』は、田安徳川家にあった資料で、四座の大夫の経歴やら、それから役者の名前などを全部載せてある大変いい資料です。その中の「喜多七大夫支配」の項から、「地謡」の斎
藤十郎兵衛に関する記事を引いておきました。
父与右衛門斎藤十郎兵衛午四十九
写楽斎藤十郎兵衛の家系と活動記録 29
側していましたけれども、いつ死んだかがわからなかったので、これが写楽にあたる、と確証をもって言えなかった
訳です。ひょっとしたら文化初年ぐらいに死んでいたかもしれない。そうすると次の代の人が襲名していると考えら
れる訳です。その点、今度新たに法光寺の過去帳が出現して、写楽が亡くなった年代がはっきり分かったということ
の収穫は、大変大きいものです。それで従来は写楽にあたる斎藤十郎兵衛のことなのかどうかはっきりしなかったこ
とが、よくわかるようになった。いくつかの資料は孫のものだということが分かった。例えば、文化七年の「猿楽分
限帳』のように、これは確実に写楽にあたる斎藤十郎兵衛のものだという判断ができるようになったわけです。父親
が「与右衛門」という形になっているので、どうもこの斎藤という家は「与右衛門」というのと「十郎兵衛」という
両方の名を歴代が名乗ったようです。天保十四年(一八四三)の『喜多座分限帳」も同じ田安徳川家の資料ですけれども、そのうち喜多座全員の分を資料に挙げておきました。
喜多座というのは、他の座に比べて非常に人数が少ないのです。まず大夫が書いてあって、次にツレ、その後に後
見が書いてあって、以下は地謡、狂言、物着と続きます。全部合わせても、他の座の半分位の人数です。これが天保
十四年段階の喜多座の全員ですけれど、その中に「斎藤与右衛門」というのがあって「父斎藤十郎兵衛」となってお
ります。それからさらに後ろの方に「斎藤十郎兵衛」と書かれていて、これは「父斎藤与右衛門」となっています。
ですから与右衛門の子供が十郎兵衛で、その子供がまた与右衛門です。こういう具合に交代で名前を名乗る形は色々
な家にありました。歴代が全部同じ名前のこともあります。なかには、名人であった父親と同じ名前を自分が名乗っ
ては父親を辱めるというので、あえて名乗らない人もいます。一代だけ違う名前で、その子供がまた祖父さんと同じ
名前を襲名しているというケースもあります。この十郎兵衛と与右衛門が同じ家であるということは、この天保あた
りの記録を見ても容易に察しのつくことだろうと思います。
30
もう一つですね、斎藤十郎兵衛というのが実在していたことを示す証拠となる資料が、当時の出演記録であります。
資料の三枚目に、文化十三年四月十五日の江戸城本丸能「御能明細書」(「徳川禮典録」中巻[昭和十七年。尾張徳川黎明会]所収)を挙げておきました。この「徳川禮典録」は上・中・下、三巻の大部な本です。なかなか手に入らな
い戦前の本でして、能楽研究所はやっと上中下の三冊を手に入れたのですけれども、大学紛争のときに盗まれてしま
いまして、しかも一冊だけ盗んでいったので、中・下しかないのですけれども、中のほうにこれが入っている。内田
さんの本に拠りますと、徳島大学教授の河野太郎氏が、昭和三十年代にはじめて斎藤十郎兵衛の出演番組として紹介され、写楽の研究者の間に知られるようになった資料だということです。「徳川禮典録」自体が活字になったのは
もっと早かったのですけれども、滅多に手に入る本ではなかったので、目に触れることがなかったのでしょう。
これを見ますと、おしまいから二番目に「鉢木」があります。シテは観世大夫。曲名の右に書いてあるのがシテ、
曲名の下に書いてあるのがワキで、その下に書いてあるのが聡子方だということは、能の方面の人は知っていること
ですけれども、能のことを知らない人は全然分からないのでね。こういうものを見ても判断がつかない面があるよう
なんです。ワキの「萬作」、これは「宝生萬作」のことですが、その左に「萬作弟子/斎藤十郎兵衛」と書いてある、これが写楽にあたる斎藤十郎兵衛です。斎藤十郎兵衛がいつ死んだかが分からない段階では、襲名したその子供かもしれないと考えられていたのですが、亡くなったのが文政であることが明らかになり、これは写楽にあたるというこ
とが確実になった訳です。こういう記録がいっぱいあればいいのですけれども、実はワキッレまで書いた番組という
のは江戸時代を通して極めて稀なのです。その右下に「名女川六右衛門筆能番組」(法政大学鴻山文庫蔵)から、右と
同じ催しの番組を挙げておきました。これが普通の番組の形なのですよ。この番組は曲名があって、途中に間狂言ま
で書いてありますけれども、間狂言なんか書かない番組の方が多いのです。シテ・ワキ・離子方は書くけれども、ワ
31写楽斎藤十郎兵衛の家系と活動記録
キッレとかシテッレなんて全然書かないということが普通だったんです。斎藤十郎兵衛は主としてワキッレとして活動したもんですから、滅多に番組には名前が出てこない。
ワキッレというのはご存知のように、旅僧などにくっついて舞台に出てくる。〈高砂〉ですとワキは神主友成、その後に二人ほど赤大臣といって赤い狩衣を着て出てまいります。セリフが一つある訳ではないのに、長いこと座ってな
くちゃいけない。辛い仕事なのですよ。今でもワキ方宗家の御曹司等はわりと若いうちからワキをやらせてもらえる
けれども、そうでない人は、なかなかワキを一役やらせてもらえない。長い間ワキッレとしてばっかり出るという人がいるんです。今ではシテ方とか聯子方とかは、かなり実力本位になってきましてね、まあそう家柄でなくても、晴
れの能に出たりするのですけれど、江戸時代はね、それは絶対なかったのですよ。江戸城の能に出られる家は決まっ
ているのです。だから、ワキッレやる人はワキッレとしては頻繁に出るけれども、ワキとしては全然出られない。ワキは常に同じ人、五六人の人が交代でやる。だから斎藤十郎兵衛はもっと頻繁に舞台に出ていたはずですけれども、
記録がない。これが以前に分かっていた斎藤十郎兵衛の唯一の活動記録だったんです。
この番組は将軍家斉の時代のもので、家斉が右大臣になりまして、跡継ぎの大納言家慶が近衛大将になり、その転任と兼任の祝賀能が四日間にわたって盛大に行われた、その四日目の記録なのです。四日目に〈鉢木〉のワキッレとして一回だけ斎藤十郎兵衛が出演している。もう一つ、徳島市森敬介氏蔵の斎藤十郎兵衛出演の能番組を挙げておきました。「武蔵野」昭和六年十二月号掲載の鳥居龍蔵氏稿からのものですが、鳥居龍蔵さんという人は人類学者で徳島の出身だった。それで徳島と縁のある斎
藤十郎兵衛の研究に非常に熱を入れられて、たまたまその友人の森敬介氏が手に入れた番組に斎藤十郎兵衛が出てきたので、それを紹介する論文を昭和六年代にいろんなところに発表して、斎藤十郎兵衛は実在していたというのを宣
ありませんけれども、これは阿波藩での催しのようなんです。この番組をもっていた人が阿波の蜂須賀家に奉公して うなのです。離子方はみんなしょっちゅう出る人ですから、全然姓の記載がありませんでしよ。はっきりとは書いて ぜかワキのほうには姓を書かないんですよ。ワキッレのほうは滅多に出ない人が多いもんだから姓まで書いてあるよ 郎」という人がワキで、その右に「斎藤十郎兵衛」と書いてある。〈巴〉のほうは大きく「十郎兵衛」とあります。な その番組によりますと、〈巴〉にワキとして、〈大蛇〉にはワキッレとして斎藤十郎兵衛が出ている。〈大蛇〉は「勝吉 32伝しておられた。『武蔵野』にわりとはっきりした写真が出ていたのでそれをコピーさせてもらったんですけれども、
いた女の方だということですし、喜多六平太なんて出ておりますから、江戸の阿波藩邸での催しに違いない。年代について、鳥居さんは喜多六平太が出ているから文政後半のものだろうと述べていらっしゃいます。つまり喜
多六平太というのは、江戸時代最後の喜多大夫で、家を継いだのがまだ若いころだったのですけれども、文政後半だったので、そういう解釈をしておられました。この頃まで写楽は生きていただろうと、彼は絵筆を捨てた後はもっぱら能役者として生活していたんだろうというのが、鳥居さんの見解でございました。ところがこれよく調べてみますと、もっともっと後の番組なんです。〈巴〉と〈大蛇〉の分に出演役者の姓を入れておきましたけれども、こういう人達の活動期を全部総合しますと、おそらく天保十四年か翌十五年の番組だと思われます。これはもう写楽十郎兵衛の孫にあたる十郎兵衛の頃なのです。さっきの『喜多座分限帳」に出てきた、天保十四年に二十四歳だった十郎兵衛の出演記録と考えるべきなんです。だからこれは写楽の出演の記録からは省かなければいけないということに、今度の
過去帳が出たおかげではっきりとわかった。
一一、写楽斎藤十郎兵衛に関する新資料二点
33写楽斎藤十郎兵衛の家系と活動記録
先ほどの『徳川禮典録』のものも「御能明細書」と書いていました。こんな書き方滅多にないんです。普通はせいぜい御能組とか能番組とかいう書き方な訳で、「御能明細書」なんて名前が付けてある記録は極めて稀なんです。た
ぶん同じ性質の資料だろうと思います。たしかに明細書でしてね、ワキッレから狂言なども大勢出てきます。その大勢の人物みんな書いてあって、役もみんな書いてある大変詳しい番組です。〈難波・八嶋・江口・紅葉狩・祝言〉と、これが能で、途中に狂言〈萩大名・いくゐ〉が入っている。こういう形でまず最初に〈翁〉があって、脇能があって修羅物があって謹物があって、その後に四番目物か五番目物があって、その後に祝言能があると、つまりこれ能四番の前後に〈翁〉と祝一一一一口を置くというのが正規のまさに式能の定型です。よく能を五番立てだなんて言いますけれどもあれは嘘なんですよ。江戸時代の能が五番立てだったというのは嘘なんです。四番立ての頭に〈翁〉、おしまいに祝言能、こ
れは脇能の後半だけをやるんです。狂言は二番が普通です。脇能の次と修羅能の次に狂一一一一口をやるんです。その通りの
番組になっています。これに斎藤十郎兵衛が出てきます。
次に「触流し御能組」(法政大学鴻山文庫蔵)。これは幕府の公的な記録です。享保六年以降の江戸城での公的な催
しの番組を全部書き連ねたものが『触流し御能組』という全五冊の本です。それに先と同じ日の番組を見ますと、〈八嶋〉なんてワキの万作を書いてあるだけで全然ワキッレなんて書いていない。これが番組の普通の形なんです。お あるんです。 いままで写楽だといわれていたのを駄目にしましたので、その責任上、ちょっと私は新しいものを見つけたんです。四枚目の資料です。これは前のよりも古い文化十年の記録で、文化十年十一月二十二日の江戸城若君様御誕生御祝儀能二日目の「御能明細書」(高知県立図書館蔵「公義御能組』)です。大納言家慶に子供が生まれまして、御祝いの能が四日間あって、その全体の番組を挙げておきました。これは非常に珍しいもので、初日の部分に「御能明細書」と
34
そらくこの外にも色々出ていたかもしれませんけれどもわからない。
もう一つついでに、観世文庫蔵『清尚扣』所収の安永五年(一七七六)九月二十三日の能番組のところに、どうも十郎兵衛じゃないかと思う人物が出ているんですよ。清尚という人は十七代目の観世大夫で、鎮之丞家の初代。兄が死んだために本家に戻って家元を継いだ人です。この人の詳細な手控え、メモがあって、その中に安永五年の分で尾張
徳川家の江戸藩邸で九月一一十三日に催しのあった記録です。これは日光御社参御祝儀能、つまり日光東照宮に将軍家治が参詣して無事に帰ってきたので、御参詣が無事済んだということで、江戸城で社参が終わったという祝賀能があって、それに合わせて紀州藩とか尾張藩とか大きな藩でもその御祝いをやるんです。〈翁・老松・東北〉、その後に
祝言〈金札〉がありまして、「御跡」というのは殿さまが帰って引っ込んだ後の追加番組です。これは内輪だけでやるもので、その中の〈鶴亀〉のワキが「新之丞」です。シテは「八左衛門」で金春八左衛門。ワキ「新之丞」の左に「斎
藤源太郎」というのが出てくる、新之丞というのは下掛宝生流の家元です。後で申し上げますように、斎藤家は下掛
宝生流の弟子筋なんで、この新之丞のワキッレとして出てくる斎藤姓の人間で考えられるのは、若い時代の写楽十郎兵衛以外に該当する人物がいないんですね。
第一に十郎兵衛なんて名前はかなり年寄臭い名前でして、元服していきなり十郎兵衛というケースは考えられないと思います。はじめは初名、若い頃の名前があって、ある年齢になって十郎兵衛を名乗るんだと思います。ところが
活動記録が多い大夫などは幼名からずっとわかりますけれども、そういう記録の無い人の場合には大半は分からない
んです。おそらくこれは若い頃には源太郎を名乗っていて、それが後に十郎兵衛に変ったんじゃないか。とするとこ
れはですね、写楽十郎兵衛のもっとも若い時分の出演記録ということになる。しかしこれは推測ですから断定はでき
ません。
35写楽斎藤十郎兵衛の家系と活動記録
さて、斎藤与右衛門と十郎兵衛とを交代で名乗っているようだということで、能でいう斎藤の家筋を辿ろうかと
思って、古い記録をいろいろ調べてみたところ、いろいろ資料が出てきました。
ちょっと年表のほうをご覧いただきたいのですけれども、年表の1番目に「「明暦三年能役者付』(最古の能役者
付)に斎藤与右衛門・斎藤清兵衛の名なし。以前の他の記録にも見えず。喜多十太夫座の斎藤姓は物着の斎藤長左衛門のみ」と書いておきました。実は、与右衛門の初代は当時三十八歳で、この時はまだ喜多座には入っていないよう
なんです。続いて挙げたのが、延宝九年(一六八二の『武鑑』。この『武鑑』というのは江戸初期から出版されてい
るんですけれども、はじめの頃の『武鑑』には能役者なんか載ってないんです。大名とか老中とか大目付とか若年寄とかいった偉い人は載っているけれども、下っ端の役人、ましてや医者や能役者は載つけていないんです。延宝九年
の『武鑑』が初めて能役者まで記載した本で、それにも斎藤与右衛門は出てくる。
年表の3番目『元禄十一年能役者分限帳』(国文学研究資料館蔵)の中にも斎藤与右衛門は出てきます。『元禄十一
年能役者分限帳」は非常に詳しい記録なんですよ。父親の名前と年齢とが両方書いてあって、同時に配当米の記載も
あり、斎藤与右衛門は無足。給与が無い、お足が無いのが無足なんで、喜多座は大半が無足なんです。なんにも給料
がないのに座に入って何がいいんだろうということになりますけれども、実はこれ固定給がなくても江戸城で晴れの
能があったりしますと、出れば何かいただける訳ですね。そういう余得がありますし、やはり権威付けにもなったのではないでしょうか。無足でもみんな結構なりたがったようです。「父清兵衛/斎藤与右衛門/寅年七十九」とかな
りの高齢なんです。この人が、はっきり喜多座に所属したことがわかる最初の人物なのですけれど、さっき言ったよ
三、斎藤与右衛門・十郎兵衛家のこと
36
その与右衛門の名前が、実は他の子孫らしい系図にも出てくる。資料に「寛政重修諸家譜』の斎藤両家の分を挙げ
ました。斎藤という家は意外に江戸幕府の武士には少ないんでして、そのうち二家がどうも関係がありそうなんです。
たかゆき最初に「●高行/與左衛門」というのが書いてある。これが「与右衛門」の誤植のようです。内閣文庫蔵『御家人分
もりよし限帳」のほうに、その}」とがはっきりわかる記録が出てきます。その子供の「●守喜/斎藤金一郎守美が祖。半九
たかなり郎」が、次の斎藤家の初代となっている。なぜか兄が別家しちゃったから弟が家を継いだ。「●高生/四郎次郎」の
最後のほうにですね、「築地本願寺の法光寺に葬る。のち葬地とす」と書いてあります。この築地本願寺の法光寺というお寺、これが今度過去帳が出てきたお寺なんです。現在、埼玉県に移っております。兄の斎藤守喜というのは半
九郎という名前で、そこを見ますと「斎藤與九郎高行が長男」と書いてあります。前のほうの「高行」というのは「與左衛門」と書いてあって「與九郎」とは書いてないのですよ。たぶんこれもはじめ「與九郎」で、後に「與右衛門」になったのだろうと思います。このように名前がどんどん変わるのです。ところが半九郎のほうと、前の高生四郎次郎と同じことが書いてあるのです。「寶永元年昭院殿にしたがいひたてまつり、御家人に列し、西城の土圭間番
となり、廊米百俵をたまふ。のち本城に勤仕し」云々というのは両人ともにまったく同文で、最後の死んだ年だけは うに延宝九年の「武鑑』にも載っていましたから、おそらく三代目の喜多七大夫宗能の頃には喜多座に加入していたのではないかと思われる。延宝九年というのは綱吉が将軍になったときで、家綱が死んだ年ですけれども、四代将軍家綱の時というのはわりと能界の整備に力が尽くされた時でしてね、観世座にしましても四代将軍の時代に新たに加わった人が多いのですよ。この斎藤与右衛門も前歴はわかりません。父親の情兵衛という人が能役者であったかどうか、まるでわかりませんけれど、かなり能をやっていたために、喜多座の地謡として加入ができたんじゃないかと思か、まづいます。
さすがに違います。「小普請となる」まではほとんど一緒で、死んだ年だけが異なる。どうもこの斎藤與九郎という
人が能役者として活動した人なんです。内閣文庫に『御家人分限帳」というのがあって、確かに彼は武士として召し抱えられて御家人となっています。二
人月に「斎藤半九郎」とあって「与右衛門子」と書いてありますよね。この「御家人分限帳」というのは正徳二年
(一七一二)の奥書なのですが、後の加筆がたくさんありまして、年表のn番に「戌(享保三年)に半九郎岨歳、四郎次郎別歳」と書いておきましたように、二人の年齢がわかるんです。この斎藤半九郎、確かに彼は御家人となっているんですけれど、江戸城内での能で専らワキをやっている。そのことを示す番組がいっぱい残っている。鷺流狂言伝書の『萬聞書』(槍書店蔵)に家宣時代の「土圭之間番衆交名」が載っておりまして、土圭之問番というのは、綱吉や家
宣が自分の能の相手をさせるために廊下番とか、土圭之間番という名目で、能役者をどんどん武士に取り立てて、江
畷戸城あるいはその関係の催しだけに出演させた。そこへ出ていた人の名簿なのです。これは大変詳しい名簿で、「斎
一一二口鋤藤半九郎」の上に小さな字で「十郎兵衛事/新之丞弟子ワキ」と書いてある。つまり斎藤半九郎は、武士になる前は 糺十郎兵衛という名前で宝生新之丞の弟子でワキ方なんだという、そういう注が付いているのです。 噸年表の7番、宝永三年(一七○六)のところに、「○家宣周辺の記録『御内証御能組』(伊達文庫蔵)が6月から始ま
衛兵り、斎藤半九郎が最初の能からワキに出演」と書きました。この「御内証御能組』というのは公的な能ではない、ま郎船さに内証の能、将軍の私的な能で、当時江戸城か、跡継ぎの家宣がいた二丸のどちらかで、一一一日もあけず能あるいは 嚇離子をやっている・その催しの詳細な記録が『御内証御能組』です。残念ながらこれ以前はないんでして、宝永に
写なって初めて書かれているのですけれども、半九郎は最初の頃からしばしばワキで出ているんです。半九郎が御家人73に取り立てられたのは宝永元年で、明らかに家宣が自分の能の相手をさせるために、ワキ役としてこの斎藤半九郎を38武士に召し出した。前名が十郎兵衛で、以前からワキとして活動していたからこそ召し出されたのだと思います。こ
れはまだ跡継ぎになる前の段階で御家人にしちゃったんですね。跡継ぎとして西丸に入ってから召し出した人は、みんな土圭之間番というような形で、御家人だったんだけれども仕事は土圭之間番。そんな時計を見るのに一人二人いれば十分なのに何十人もいるのですよ。名前だけ土圭之間番で実は能役者なんです。半九郎は与右衛門の子供で、前名が十郎兵衛です。与右衛門・十郎兵衛という形で名前を襲名していくというのは、
かなり早い段階でそうだったということがわかる。ただこの人は武士になってしまったために能役者からは籍を抜く
のです。他の人が家を継ぐのです。これはどこの家もそうで、喜多流もそうです。家元が武士に召し出されますと、だれか他の人が家元に成らざるを得ないので、急遼遠い親類から血筋のつながったのを呼んできて家元にする。それがまた廊下番に召し出されると跡継ぎがいなくて非常に喜多流は困るんです。そういうことを綱吉がやって、その影響が残っていた時代に斎藤半九郎というのがいた。
そのほか後代になっても結構いろんな記録があるんでして、資料の五枚目に「天明三年御役者分限帳』(観世新九郎家文庫蔵)を挙げておきました。これも大変詳しいもので、誰の弟子であるということが書いてあることが特色なのです。地謡の部分を全部挙げておきました。「山本七郎右衛門」からはじまって「小倉傳次郎」まで。これで当時の喜多座地謡の全部です。誰の弟子か御覧になってください。最初は「七太夫弟子」でしよ。次が「彦太郎弟子」と
書いてある「池田平三郎」。これは高安彦太郎の弟子なんです。高安流なのです。その次は二人続いて「七太夫弟子」、
その次は「六右衛門弟子/大曽根新右衛門」。春藤六右衛門の弟子で、これは春藤流です。その次にも「六右衛門弟子」がいまして、さらに「斎藤与右衛門」が「新之丞弟子」と宝生新之丞の弟子で、下掛宝生流。つまり喜多座の地
謡には、こういう具合にワキ方のいろんな流儀の人達が入り込んでいるのです。
39写楽斎藤十ⅢI兵術の家系と活動記録
;蕊
;
呵仏ハノ シへ狐/結麹癩
?③ 難騨
iiijlii
j膳i、
1垂二lIbIiB
,フ,フ’,刀ね珂旛
■i熟、DII
『天「リ]三年御役者分限帳」
だいたい座というのは、いろんな流儀の混合なのですよ。観世座に
したってね、大夫やツレは観世流ですけれど、ワキは福王流とか、進藤流とか。笛だって一噌流とか春日流、小鼓は観世流というのがあり
ますけどもね。大鼓は葛野流だとか、いろんな流儀が集まって座を構
成している。しかもその流儀は、高安流なら金剛にもいるし、それか
ら喜多のほうにもいるという形でして、ある流儀はある座という具合
に決まっている訳ではないんです。いろんな座にいろんな流儀の人が
くっつくんです。座というのは実はあまりまとまった行動をしないん
でしてね。名簿上の本籍に過ぎないんです。その座が揃ってなにか行
動するというのは江戸時代には一つもないんですよ。ただ籍が決まっ
ているだけ。だから観世座の人でね、将軍に気に入られて将軍の芸に
合わせて喜多流に転流した人がいるんです。深尾という人です。その
人はついに幕末まで観世座なんです。観世座に喜多流のシテ方が入っ
ていたということです。名目上の組織であって、実際に活動しないも
んですから、そういう風にできたという訳です。
この天明の分は喜多座の地謡で、だいぶシテ方が多くなっています。
なんでそういう具合にワキが地謡になるのかといいますと、本来地謡
はワキ方の担当だった。一座はシテ一人が棟梁としてがんばっていて、
40
あとは全部ワキの家だったんで、だからワキもツレも地謡もワキの人がやったんです。豊臣秀吉のあたりから、ワキ
を専門にする人が増えてきた。制度的に秀吉がそういう形にしてまったために、ワキはワキ専門になった。座にワキを割り当てるときにですね。福王とか進藤とか春藤とか、そういう人たちがみんな四座に配当されたんですけどね。
ワキは一人か二人でいいんで、あとは地謡として入り込んだ。江戸初期にはワキ方の人でも地謡として実際まだやれ
たようです。ところがだんだんとシテ方とワキ方とで、同じ下掛でも謡が変わってくるんですね。謡なども江戸時代
の謡と今日の謡とでは既にだいぶ距離があるようでして、三百年の間にはどんどん流儀の特色が出て来まして、もう
シテ方とワキ方とが一緒に地謡を謡うということはできなくなってしまった。だから名目は地謡ですけれども、実際
には地に出ることなんか元禄以降のワキには全然ない。江戸初期にはまだね、地謡方がワキに出たり地謡に出たりがあったようなんですけれども、江戸中期を過ぎますと、名目は地謡でも地謡に出ることは全然ない。自分の師匠と一
緒にワキのツレとして活躍す妬というのが普通になっていったんです。だから喜多座の地謡であって、下掛宝生流の
ワキであるというのも、ちっとも不思議ではなくて、昔は当たり前のことだったんです。高安流のワキ方であった喜多座の地謡や、春藤の弟子で春藤のワキッレに出ていながら、身分は喜多座の地謡という人もいた訳です。座という
のは実質的にはほとんど意味を持たない。それを示すのが、この『天明三年御役者分限帳』です。さて資料の六枚目に、明和八年(一七七一)須原屋茂兵衛刊の「明和武鑑」を挙げておきました。こういう本が毎年
のように出版されますのでね、大名などが代替りしますとすぐに変更するんですよ。前にあった版木をちょっと削っ
て直す訳です。ところが下っ端のほうになりますと、面倒くさいから変えないんですよ。もう二十年も同じ形で通し
ちまうんです。だから実際には世代が変わっていても、ちっとも反映しないんです。大夫が変わった分はちゃんと反
映しているんですが、地謡などは代が変わっても全然変えません。この喜多座の地謡の二行目に「斎藤与右衛門」と
41写楽斎藤十郎兵術の家系と活動記録
さて、その左に『写楽・老」から「寛政四年徳島藩扶持能役者名」を引用しておきました。斎藤月岑は阿波藩の能役者だと言っているけれども、これまで言及してきたのはいずれも、斎藤十郎兵衛が喜多座の役者であったことを示
す資料ばかりでした。先には、斎藤十郎兵衛が出演した阿波藩の能番組も挙げましたが、これも写楽十郎兵衛よりも、ずっと後代のものだと分かりました。それで、写楽十郎兵衛と阿波藩とは縁がないんじゃないかと思われるかも知れ
ませんが、実はそうではありません。阿波藩との縁が何でわかるかというと、ここに挙げました蜂須賀家関係の文書
がそれなんです。これ一応、寛政四年(一七九三の奥書がある資料らしいんですけれど、そこに「無足以下分限帳」
として、雇い的な存在の能役者の名前が載つかっている。はじめのほうに「大坂住」「京住」「南都住」とあるように、
いろんな所の人がいるんで、阿波住は一人もいません。阿波住の分は別に書いてあるんですかね。この資料に「斎藤与右衛門」と「斎藤十郎兵衛」とが出ている。二人とも「五人判金弐枚」とある。判金というのは大判です。十両二枚で、一一十両。五人扶持は一日につき米五合、一年間で一石八斗位になります。その五人扶持と、判金二枚と、二つ
貰っているんですね。でもこれちょっとおかしいんです。年表の別番をご覧ください。寛政三年の六月朔日に、斎藤与右衛門が死んでるんですよ。「当時八丁堀松平阿波守様内居住」と「法光寺過去帳」にもあります。だから、これ
がどうも写楽の父親にあたる。この資料には寛政四年の奥書があるけれども、実際には、寛政二年か三年あたりのこ いうのがあって「八丁堀地蔵橋」と書いてある。この明和八年の記録がね、斎藤与右衛門というのが八丁堀地蔵橋に移ったことを示す一番古い記録なんです。ところがこの後の、他の本屋が出した「武鑑」を見ると、ずっと昔の住所のまんまなんです。古い版のままで、変えずに再版してしまっているんですね。
四、斎藤家と阿波藩との関わり
 ̄
42
写楽の後の与右衛門は南部藩の能にも頻繁に出ておりまして、南部藩とも縁が深かったようです。年表の“番のところに、文政十二年(一八二九)「○(月日不明)南部藩邸の能に斎藤与右衛門・斎藤銭之助が出演。〔高知県立図書館蔵別番組〕鏡之助は与右衛門の弟か」と書いておきました。その同じ年の六月のところに「南部藩が藩士の寺本周八・円子東五郎に斎藤与右衛門への師事を命じる。〔「南部藩能楽史皀」ともあります。南部藩が家来に、斎藤与右術 とを記録していて、それを清書したのが寛政四年であったのだろうと思います。こういう記録によって、斎藤十郎兵衛が阿波藩の扶持を受けていた、阿波藩から給与をもらっていたことが分かります。しかも彼の住所はどうもその阿波藩の屋敷のあるすぐ近くで、過去帳にもはっきりと「阿波守様内」と書いていますので、阿波藩の下屋敷か中屋敷かを借りて住んでいたんだと思います。そういう縁から言っても、斎藤十郎兵衛が阿波藩の能役者であることは間違いない。幕府からは無足で給料が出ないんですからね、阿波藩からは一応年間二十両くらい貰えていた訳で、それは阿波藩のほうが大事だったでしょう。実際に活動する機会も、江戸城などでやるよりは阿波藩のほうが多かったろうと思います。後代の与右衛門を見ているとそれがはっきりとわかります。
後代の与右衛門はわりに記録があります。高知県立図書館蔵「諸家能組』(文政五年分)は、冒頭の日付に「閏正月十一一日」とあり、これは文政五年(一八一一一一)だから、写楽十郎兵衛が死んだ二年後の記録です。ここでは与右衛門が阿波藩邸での催しで〈寝覚〉という曲のワキッレに出ている。次に「巳四月三日」とあるのは、これはだいぶ経って天保四年(一八一一一三)の記録。〈田村〉のワキを与右衛門がやっている。その次は天保十四年の番組らしいんですが、日付が混乱しており断定はできません。たぶん天保十四年だと思います。やはり松平阿波守邸での催しで、こちらは〈氷室〉のワキッレを斎藤十郎兵衛、次の〈碇潜〉のワキが与右衛門なんで、父親がワキをやって子供の斎藤十郎兵衛はワ
キッレをやっている。
43写楽斎藤十郎兵衛の家系と活動記録
門のところへ行ってワキを習ってこいと命令している記録ですよ。つまり与右衛門は、弟子をとるくらいの役者で
あったらしいんです。南部藩というのは岩手県の十万石の大名ですけれども、あそこは水害がありますし飢鐘があり
ますし貧乏な藩なんですよ。それなのに十万石に相応しからぬ膨大なお金をかけて、装束や能面を集めたんです。明
治二年に全部それを売ったんですけれども、その目録を見たら、家元よりもたくさんの装束・面書かれています。斎
藤家はどうもその南部藩と縁が深かったみたいで、南部藩は下掛宝生流を非常に大事にしたんです。
次の妬番、天保三年のところに「◇正月、宝生新之丞の弟東条錠之助、南部藩に召し抱えられ、兄の許可で宝生姓に改める。(「南部藩能楽史」)」と書いておきました。先に言及した高知県立図書館蔵『諸家能組」(文政五年分)によ
ると、南部信濃守殿の能組で〈弓八幡〉のワキを錠之助がやっている。これが宝生錠之助です。与右衛門たちにとってみれば師匠筋に当たる人物で、これが新之丞の弟になるんです。この下掛宝生家は家元を継いだ人だけが宝生姓で、
それ以外の人たちは東条姓だったんです。錠之助もはじめは東条姓だったんだけれども南部藩に召し抱えられた際に、
ご祝儀で兄が宝生姓を許したんです。この宝生錠之助は結局南部藩の武士として居残りましてですね、これの曽孫にあたりますのが、かの東条英機大将です。だから東条さんが総理大臣になったとき、能役者の子孫が総理大臣になっ
たというんで、雑誌『宝生」にも記事が載つかっています。その後、弘化五年の弘化勧進能の頃にも十郎兵衛というのがいたはずですが、天保の末まで活動していたのが弘化
以降は活動していない。弘化勧進能というのは宝生大夫の勧進能で十五日間の詳細な番組があるのです。さっき言った斎藤月岑の「勧進能絵巻」をはじめとして、いっぱい記録があるのです。十郎兵衛と同じ下掛宝生流のワキが全国から集まっていて、そのうちの一人、「柳川金之助」というのは金沢の能役者です。全国から集まっているのに、江
戸にいたはずの斎藤十郎兵衛は出ていない。与右衛門は出ています。だから、十郎兵衛はすでに死んだかなんかして、
44
「篤楽ハ阿洲侯」、この「洲」こんな字使わないのですが、誤植でなければ「阿洲侯の士にて」、能役者とは書いて
いない。「士にて」です。「俗称を斎藤十郎兵衛といふよし栄松齋長喜老人の話那り周一作洲」とある。この発言は、
斎藤月岑などの発言よりもはるかに大きな意味を持っていると思います。というのはここに出てきた「栄松齋長喜 さて後代に活動している人はさておきまして、最初の阿波藩の能役者の斎藤十郎兵衛というのが実在した人物で、昔から続いた家であるということはお分かりいただけたかと思います。じゃあその斎藤十郎兵衛が果たして写楽であるのかという根本問題ですね。ところがこれに寄与するような資料は、残念ながら能関係からは出てこないのです。それ以外の分野から、その出現が期待されるのですけれども、私はこの内田さんの本を今回の発表のために丁寧に読み返してみてね、びっくりしたのです。こんなに良い材料を見付けていながら、なんでそれを写楽斎藤十郎兵衛説の根拠に使わないのかという、そういう感じを持った資料があります。冒頭に挙げておきました達磨屋五一本「浮世絵類考」(天理大学図書館蔵)がそれです。これは『浮世絵類考」の写本の一つですけれども、写楽の上に朱筆で書き込まれた注があります。そこに書いてある記事が非常に重要な記事なのです。 能役者としては活動しなくなっていたのだろうと思います。
(朱書)にて
篤楽ハ阿洲侯の士にて俗称を斎藤十郎兵衛といふよし栄松斎長喜老人の話那り周一作洲
五、斎藤十郎兵衛は写楽か
45写楽斎藤十郎兵衛の家系と活動記録
老」というのは、写楽と同じ時代に活躍した浮世絵師、同業者なのですよ。しかも、私これ知りませんでしたけれども内田さんの書いた記事によりますと、同じ蔦屋十兵衛からも浮世絵を出しているというじゃありませんか。そういう人物がね、写楽というのは阿波藩の斎藤十郎兵衛だと言っているのでしたら、これをそのまま信用すればいいのであって、斎藤月岑の「浮世絵類考』の書込みよりよっぽどこっちが重要なのです。
ところが、せっかくこれを紹介しておきながら、その後の内田さんの説を読んでみますと、「写楽が阿洲侯の抱えの斎藤十郎兵衛という士分であることを浮世絵師の長喜の話なりということは、写楽が作画をした寛政六年から七年にかけ、長喜もまた蔦屋から、美人大首絵を刊行していたこと、しかも長喜が描いた難波屋おきたの柱絵に写楽の大首絵を挿画として描き入れていること等から、長喜が写楽の素性を知っていたと十分考えられる。しかし、長喜が写楽の素性を知っていたことを裏づける写本がなく、周一作洲の意味も不明である。このため、五一本の写楽の項が未消化であることは否めない」という形で評価して、あんまり使っておられない。実にもったいない。同時代の同業者で、しかも同じ蔦屋に出入りしていた人の発言であるならば、写楽の素姓を知っていたことを裏づける資料を求めるまでもないのは当たり前のことで、そこまで求めるのはいらない詮索だと思います。「周一作洲」の意味も不明だというのは、その注の下に「三馬按」というところの「東周斎」の「周」に周囲の周という字が書いてあるけれども、
一本には「洲」になっていますよ、ということなんであって、なにもおかしいことはない。ただし、いったいこの朱書が達磨屋五一本にいつ頃書き加えられたかという問題がある。それを確認しなくちゃい
けないのです。もしこれが斎藤月岑の「浮世絵類考』のことを知っている人が、斎藤月岑の説をより有力なものにするために同時代の浮世絵師である人物にこじつけて書いたのだということがあれば信用できなくなりますよ。けれど、そんな可能性はまずないと思うのです。達磨屋五一というのは幕末から明治にかけての有名な蔵書家で、古本屋でも
46
あった人なのです。この本についていったいどういう注記があるのかということを、全体を通して調べてみて、殊に朱で入っている注はどういう性質なのかということをよくよく調ぺて、全体的にその注の性質を判断した上でなけれ
ば明確なことは一一一一口えませんけれども、この注が実際に、同時代の人物である「栄松斎長喜老」の発言であったとすれ
ば、これは大変信用できる記事なのです。しかも、どうも斎藤月岑の記事がこれに基づいているような感じがするのですよ。「俗称を斎藤十郎兵衛」なんて全く同じ言い方なのです。「俗称」という言い方は、それはたしかに世間一般
で使う言葉だけれども、「斎藤十郎兵衛」という姓と名をくっつけた形を俗称というのは、なんかちょっと特殊な言
い方だと思います。それが全く共通しているんですよ。阿波藩の士というのを能役者に変えるというのは、事情を知っていれば変えられますよ。能役者とあるのを士とすることは、事情を知っていてもできないと思う。つまり能役
者というのは、武士であるようなないような非常に暖昧な存在なのですよ。徳川綱吉の時代に帯刀を禁止されているので、本当の武士ではない。医者とかなんかと同じ扱いなのです。くさぞうしこじつけねんだいきこの「栄松斎長喜老」について、享和二年(一八○一一)刊の式亭三馬著『稗史憶説年代記』という資料を挙げておきました。江戸時代の書物と言うのはね、不思議な読み方をするもんで困るんですよ。「稗史」というのが「くさぞう
し」、「憶説」というのが「こじつけ」にあたるんで、こういう振り仮名がついている。この中に、大和絵師の名尽く
しという、地図みたいなのがある。当時の有名な浮世絵師がみんな書いてある。写楽なんて右の離れ島になっている。
これはつまり、他のグループの人たちと全然画風が違うということを、離れ小島で表したのだと思います。その写楽
の左の方に「春町」があって「三蝶」があってその下に「長喜」もあります。栄松斎長喜もこれに描かれる程度の浮世絵師であったということでこれを挙げておきます。
47写楽斎藤十郎兵衛の家系と活動記録
さて最後に、斎藤家が幕末にどうなったかということについて、慶応元年(一八六五)の『猿楽分限短冊』(内閣文庫蔵)というのを挙げておきました。分限帳というのは、いちいちの役者が、自分の身分やら親の名前やら年齢やらを書いた短冊を提出するのです。それを整理して分限帳を作っていく。そのもとにした短冊が内閣文庫に残っていて、そのうちの斎藤与右衛門の分がこれです。そこに「丑二七十歳」とあって、これは慶応元年の年齢にあたります。ところがこの丑に七十歳だとしますと、さっきの写楽らしい斎藤十郎兵衛の子供の与右衛門は、この年八十四歳になるはずなのです。四つも違うんです。年が一つ違うというのはよくあるケースで、過去帳で判明した写楽斎藤十郎兵衛の年齢と、文化の分限帳に書いてあった年齢とは一歳違うのです。それから『御家人分限帳』に書いてあった斎藤半九郎の年と『重修寛政諸家譜』に書いてあった年も一歳違う。これはおそらくある年齢から出演できるという際に、
本当は十四なのだけれども十五にしておけってことでね、一つプラスして舞台に出てるんだと思うのです。そういう
関係で、実際よりも歳を多くすることがあるのです。金春大夫などは先代が早く死んでしまって、跡継ぎがまだ六つか七つだったのですが、その時に、あと一一一一一年すれば一人前になりますってなことで、歳を三つくらいプラスして幕府に報告している。そういうケースはよくあることなのですけれども、それにしてもこの短冊で四歳も違うのは違い
すぎますのでね。大変薄くて見にくいのですけれども「父斎藤十郎兵衛」と右側にはっきり書いてあるのですよ。しかもこの年七十歳ということは、どうも写楽十郎兵衛の長男であった与右衛門にさらに弟がいて、その与右衛門の子供の十郎兵衛というのは、さっき言ったように天保の末まで活躍していたけれども、それ以降の活動記録がないんですよ。早世したか、あるいは他に商売替えしたとか。跡継ぎがいないときに、弟を養子にするケースは、よくあるこ
六、斎藤与右衛門・十郎兵衛家の系図
48
二世の高行というのは、半九郎家の由緒書に出てきた人です。問題はその後で、半九郎が長男だろうと思うのです
が、四郎次郎というのはこれも御家人に召し抱えられた人ですけれども、この二人の間の年齢が十七も違うんですよ。僕はたぶんその間にもう一人子供がいて、それが能役者の家を継いだのではないかと思っています。初代が死んだあ
と、二世三世と同じ与右衛門だったろうと思います。父親が健在なうちは十郎兵衛で、父親が死んだ後に与右衛門を名乗っている可能性が高いと思うのですけども、残念ながらワキッレの家なもんですからね、ほとんど記録がないためにまったく分かりません。他の能の家の形を考えますと、はじめ十郎兵術のち与右衛門を名乗ったのだろうと思わ
れますが、風変りなのがいて、生涯を十郎兵衛で通してしまった。本家筋にあたる春藤という家がそうなのですよ、普通、六右衛門を名乗る。元禄頃の人がね、六右衛門を名乗らないで終わってしまう。源七で終わってしまう。三代目が問題なのです。本当に一一世の養子なのかどうか、こういう人物が存在したかどうか。でも年代的に考える
と、ここに三世を想定しないと、ちょっと無理があると思います。四世以降はほとんど確実なのです。四世五世と来て、六世が写楽にあたる斎藤十郎兵衛、七世の後、子供の十郎兵衛が八世を継ぐはずだったのだけれども、それが早世したか他の仕事に就いたか、あるいは与右衛門の子供で、村田春路という国学者がいるのです。八丁堀の隣の家に とです。四歳違う弟を養子にして、それに与右衛門を継がせたのではないかと、私は想像しているのです。そういうことを色々と勘案しまして、最後に【斎藤与右衛門・十郎兵衛家の想定系図]というのを載せておきました。名前に波線を引いたのは法光寺過去帳に名前が出てくるものです。法光寺過去帳の出現というのは大変に有難いのでしてね。残念ながら写楽にあたる人より後は全然記載されていないようなのですけれども、随分と役に立ちます。初代の与右衛門に父親の名前もちゃんと書いてありましたけれど、能役者かどうか分かりませんので、ここには載せておりません。
49写楽斎藤十郎兵衛の家系と活動記録
斎藤与右衛門・十郎兵衛家の話に終始してしまいまして、幕末の能界の現状は何も話しませんでした。まあ幕末というには、斎藤十郎兵衛は早すぎるのですよ。寛政ですからね。寛政・文化・文政というのはちょっとまだ幕末とは
言いかねるのです。要するに、綱吉は宝生流を晶眉したのです。宝生流の全盛期です。十五代目の観世元章の時代に観世の全盛期に変りますけれども、江戸時代を通して、観世に一番勢力があったというのは十五代元章の頃だけでしょう。その後、家斉の時代に一橋家から将軍が入ったのですが、家斉の出身である一橋家というのは昔から宝生晶眉
だった。本来は観世だったようなのですけれど、明和改正謡本があまりに文句を変えたものだから、もう新しい文句を覚えるのが嫌で宝生流に転流してしまった。家斉の時代はふたたび宝生の全盛期です。弘化勧進能なんてのもそうです。しかし弘化勧進能がまさに江戸時代の能の最後の花で、あれは嘉永元年ですから間もなくペリーがやってきま
すけれど、もう能どころではないという状態になってしまいます。江戸時代というのは、今日考える以上に色々な制約というのが強かったようです。さっき言いましたように、ワキ 住んでいた国学者の村田春海に養女がいて、結婚しなかったために子供がいない。その養女が隣の斎藤与右衛門の子供を養子にした。春海と同じく国学者なのですけれども、それが与右衛門の子供だという。ひょっとしたら、十郎兵衛はもう能が嫌になっちゃて、隣の家に養子に行った可能性がないとも一一一一口えないのですが、まあ弟か何かがいたと考えるほうが自然だと思います。ここまで一応辿りましたように、斎藤与右衛門・十郎兵衛家というのは、ずっと延宝頃から幕末まで、少なくとも二百年にわたって、地味な能のワキ方として活動していたということになるのだと思います。
おわりに