記紀に埋もれた甲斐酒折王朝
著者 犬飼 和雄
出版者 法政大学社会学部学会
雑誌名 社会労働研究
巻 37
号 2
ページ 27‑70
発行年 1990‑09
URL http://doi.org/10.15002/00006617
記紀に埋もれた111斐洞折王朝
甲斐酒折宮の古代史ほど不遇な歴史はないだろう。今日古代史が新たな視点から様々に論議され、新たな古代史が姿を現わしつつあるのに、依然として甲斐の古代史を象徴する酒折宮は無視され、歴史の中に埋没してその姿を現わそうとしない。深い霧の中に剛されたままである。古事記、日本書紀にその記録が問答歌の形で明確にしるされているのにである。もっともこの記録は、歴史がその中に埋没して、そのままではその歴史を垣間見ることもできない。その馴川は、記録がいかにも歴史と遊離して、一児たあいのない伝説のⅢ界としか兇えないからである。少なくともそう見えるように意図的に灘かれていると思われるからである。記紀の酒折宮についての記述は微妙にくいちがっているが(あとで述べるように、このくいちがいが酒折宮歴史の謎を解く一つの重要な鍵と考えられる)、その中心となる問答歌は、記と紀では漢字の表記が異なるものの全く同じに読まれている。古事記によると、倭建命(日本誓紀では日本武尊)が東国遠征の折甲斐の酒折宮へ立ちよって、そみひたきのおさな》」で御火焼老人と呼ばれる老人に歌で
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甲斐酒折宮の謎
犬 飼 和雄
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珂比厩利菟玖波場須擬氏異玖用伽禰菟流伽餓奈倍氏用珂波虚々能用比田波苔鳩伽鳩両者の表記の違いを見ていると、日本書紀の作成者が古耶記の漢字の表記に意図的に手を加えているのがわかる。n本瞥紀の作成者は、酒折寓についての古事記の記述を懲図的に改蹴しているがこの表記もその一つである。しかしそれは言いかえれば、この酒折宮の記述に日本書紀の作成者が細心の注意を払っていたということで、それだけ大和朝廷にとって酒折宮の記述は無視できない事実だったと言うことができる。しかし表面的には記紀ともその記述は単純で、歌の内容も全くたあいなく、歴史として問題にされたことがないのも当然と言えば当然である。その上、倭建命の存在が伝説化されているからなおさらである。したがって酒折宮、それは現在の酒折神社がそうだと言われているが、そこが日本における連歌発祥の地だと長いこと全く見当述いな不当な扱いしか受けていないのも頷けるのである。だが、記紀の作成者が連歌発祥の地を残すために、あのような記述を 6カ日日並べて夜には九夜と答えたことになっている。 新治筑波を過ぎと尋ねると、老人が 迦邇賀比
那婆倍nM Ei 都 川波久 邇糞波須 許疑々畳 能111伊 比川久 邇力Ⅱ波泥 登都糞流 加貢
古事
罰-1m【-J
日本書紀 筑波を過ぎて幾夜か寝つる
日には十日を記紀とも同じ歌に読まれているが、漢字の表記は次のように異なっている
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記紀はさりげなく酒折寓と言う言葉を使っており、それ以上何の説明も加えていない。また何を調べても、酒折宮とは現在の甲府巾酒折をその地と伝えると書いてあるだけで、酒折宮に関する説明は一切なされていない。一般に酒折宮は甲府市の酒折町にある現在の酒折神社がそうだと言われている。この酒折神社は甲府盆地の北東に連なっている丘陵地帯のほぼ中央から盆地に突きだしている岩尾根があるが、その麓に位置している小規模な神社である。国鉄酒折駅のすぐ北側で、背後に小高い山をひかえている。酒折神社についての記録は倭建命の伝承以外一切残っていないが、神社にはその背後の山についての興味深い二つの伝承が残っている。 わざわざ残すはずがないのである。殊に日本書紀のあの作為的な改蹴はそうはとうてい考えられない。当時の文化の中心から全く離れた甲斐の国に、連歌の発祥の地などを求めるはずがないのである。記紀ともにその記述があると言うことは、もっと重大な古代史の謎を、特に大和朝廷にとって重大な意味を含んでいるはずである。ただこの記述だけを考えていては、私達は記紀の作成者の作為にはまってしまう。霧のむこうの歴史を見るためには、新たな視点から迫っていかなければならないと思う。大和朝廷が記紀で無視できなかった甲斐の古代史、記紀の作成者が無視できなかったが、そのまま記録に残すことができなかった甲斐の古代史とは何だったのだろうか。その手がかりは、勿論その一つは記紀の酒折宮の記述そのものの中にあるのは当然である。しかしこの記述を解く鍵は、酒折宮を中心とした甲斐の盆地にあるのも、また当然である。この二つの視点から酒折宮の記述の向うにあるものをさぐっていきたい。
二酒折神社の御室山
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う畑に開発されており、シ在したことは確実である。 この説明文は不備が多いが、おそらくこの塚を出発点として大鼓をたたいて登ったので、ポンポコ塚と呼ばれるようになったのであろう。なお冒頭に述べられている北原扇状地というのは、甲府盆地の東北に連なる丘陵地帯の麓にひろがる平地のことである。そこに現在二十あまりの古墳が存在していると述べているが、このあたりは宅地やぶどう畑に開発されており、その往時の姿は残念ながら想像するしかないが、いずれにしても、この地に多くの古墳が存 これを裏づけるような、この山の性格を伝えるもう一つの伝承がある。この山は酒折神社の背後の岩尾根を登ったところにあるが、その尾根の西側の山純に、通称ポンポコ塚と呼ばれている円形古城がある。今はぶどう畑の中に埋もれるように存在しており、その上なかば枯れかかった杉の木が一本はえているだけの荒れはてた土盛にすぎない。この古城については具体的に何もわかっていないが、ポンポコ塚という奇妙な名称については、興味深い説明が現在まで伝わっている。そのポンポコ塚由来記は次のように書かれている。北原扇状地一帯には古噴が二十基ほど点存していますがポンポコ塚はかなり保存が良い方です。形や大きさ、副葬品などくわしいことは不明ですが、横穴式の石室などから六’七世紀頃のものと考えられます。背後の御室山山頂付近にも石祠があり……早魅のときは近郷の人々が大鼓をボンボン打鳴らしながら御室山に登り雨乞いの祈願をし その一つは、酒折神社はかって背後の山頂にあったと言うのである。この山頂に平地があるわけではないので、神社が山頂にあったという伝承は、山が神の山だった、つまり、神名備山だということ以外には考えられないのである。しかもこの山は完全な岩山である。山頂に磐座に相当する岩室があり、それが古代信仰の中心をなしていたと考えられるのである。
ました。
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さてここで述べられている中で、もっとも注目されるのは、御室山に雨乞いをしたという記述である。ポンポコ塚背後の山といえば、酒折神社背後の山しか考えられない。この山がこの記述でも古くから神の山として信仰されていたのがわかるし、頂上に石祠があったことも明記されている。おそらく、この石祠は自然の岩室だったと考えられる。同時に御室山という名であることもわかる。酒折の御室山、本当に名前のとおりなのだろうか、この記録以外酒折神社背後の山を御室山と呼んでいる記録はないが、その真疑を確認する以前に御室山とは何か説明しなければならない。御室山というのは元来奈良盆地にある三輪山のことである。三輪山は大和朝廷に征服された先住民の神の山であり、その伝承が記紀にさまざまな形で記録されている。くわしいことは後で述べるが、後にこの三輪山と同じ性格を持った各地の山を、別名神名備山、御室山と呼ぶようになった。したがってもし酒折御室山が名前のとおりだとすれば、三輪山と同じ性格を持っているはずだし、そうだとすれば、三輪山周辺の古代史と同じように酒折御室山の古代史を考えていいことになる。少し飛躍して述べれば、三輪山を中心とした奈良盆地の古代史に匹敵する甲府盆地の酒折御室山の古代史が存在するはずである。その一つが先のポンポコ塚についての説明にある扇状地一粥には古墳が二十基ほどあるという事実である。視点をひろげて甲府盆地の東北に連なる丘陵地帯の山麓の平地に向けると、おびただしい土臓り古斌があったと伝えられている。そのいくつかは現存しており、例えば酒折御室山の東側に横根山田古城と呼ばれる円形古斌がその而形をとどめている。その大きさは、径二十三メートルから一一一十メートル、石室は幅二メートル’一一十センチ、奥行七メートル四十五センチあったとしるされているし、この周辺には土盛りの古城群が存在していたと伝えられている。また酒折の西にある湯村山山麓の平地にある加牟那塚古墳も四十メートルの墳丘に全長十六メートル七十五センチ、幅三メートル三十センチの石室をもった大きな古噴である。この近くには首長塚とも万寿森古墳とも呼ばれている巨大古墳があ
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さらにこうした事実をもっと雌突に証明する古斌群が、酒折御室山の背後の北側の斜面から、丘陵地帯の東側に位置する大蔵経寺山と呼ばれる山にかけて存在する。それはその地域の名をとって横根、桜井微石塚古墳群と呼ばれているものである。山中にあったために発見されたのは比較的近年になってであるが、その一つ一つは石を秋み上げた塚で、形も大きさも一定していないが、穣石の下には横穴式石室が存在している。この手の古坑はこの丘陵地帯のいたるところに見られるが、この横根、桜井戟石古境群はわかっているだけで、一四二基と報告されているし、さらに新しく発見されたという報告もある。残念ながら実物は存在していないが、この地域に二基の前方後円墳が存在していたとも言われている。こう見ていくと、酒折御室山を中心とした甲斐の古代史が次第にその姿を現わしてくるのが
わかる。 るし、先のポンポコ塚もその一つである。つまり酒折御室山を中心とした丘陵の山施の平地にはおびただしい古城が存在していた、それもかなり大規桃なものであったことがわかる。残念ながら奈良盆地とちがって甲斐盆地の古斌は多くが消滅しており、残っているものも保存が悪く、それだけでは史料的な価値がほとんどなくなっており、副葬品などから古代史を解明する手がかりはほとんどなくなっている。
さらに酒折御室山に目を向けると、この古墳が平地だけにとどまっていないのがわかる。現在の酒折神社を尾根伝いに登っていくと、すぐ上の尾根は不老園という梅林になっているが、この梅林の中に不老園古城と呼ばれる古城があるし、横穴式の人工的な石室もある。また酒折古墳と呼ばれる古境があり、現在では石棺がむきだしになっている。いずれにしても酒折宮を取りまく地域が伝説の地でも、単なる連歌発祥の地でもなく、そこに甲斐の古代史が存在し
ていたのがわかるのである。
酒折御室山自身も、こうした背景からさぐっていくと、特異な性格を持っているのがわかる。岩根尾の中収、現在
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では不老園梅林になっているが、その中にかなりの規模の岩室が存在していた。今では残念ながら埋められてしまって見ることができないが、これが磐座だったことはまちがいない。これが酒折御室山の第一の磐座だとすれば、第二の磐座が中腹の東側にぽっこり口をあけている。更に第三の磐座が、ポンポコ塚由来記による山頂の石祠である。しかしこの石祠を現在は見ることができない。酒折御室山の岩の頂上は、何者が何の目的でしたのかわからないが、見
るも無惨に粉砕されてしまっており、岩片の山と化している。しかしその岩片の山を見れば、そこに石祠があったのは想像できる。それはともかく、酒折御室山という小さな山に三か所も磐座が存在しており、これが古代人の信仰の山として選ばれたというのも当然だし、たしかにこれが甲斐の御室山、三輪山だったはずである。というのも、奈良おきつなかつへつの三輪山も三か所の磐座を持っているからである。一二輪山の磐座は、奥津磐腿、中津磐座、辺津磐座と一一一か所の磐座から構成されており、まさに三輪山と酒折御室山とは双子のように類似している。これは単なる偶然だとはいえないであろう。この両山を地形的に眺めると、そこにも驚くほどの類似があるのに気がつく。酒折御室山を中心とした丘陵地帯は甲府盆地の東北に連なっており、丘陵地帯にもその山麓にもおびただしい古墳群が存在し、その山麓に古道北山野道が沿っている。これに対し三輪山に連なる丘陵地帯は奈良盆地の東北に伸び、やはりおびただしい古城群が見られるし、その山麓沿いには有名な古道山辺道が走っている。もちろん甲府盆地の遺跡は奈良盆地とちがってその遺跡の多くが破壊されたり荒廃したりして見るも無惨な状態におちいっているし、遺跡の規模そのものもちがっているが、本質的には両者は双子のような存在であることに変わりない。酒折御室山の山麓に酒折神社が三輪山の山麓におおみわ大神神社が存在するのも同じである。さらに三口えば作為的ではあるが、記紀にその記録が残されている点でも共通している。記録の量はちがうとはいえ、記紀の成作者がどちらも無視できなかった点では変わりないと思われる。
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のである。にぎばやひのみことう丑し没で物部十明社といい、物部氏の御先祖である饒速日命その子可美真手〈叩より十神をお祀りする神社です。饒速日命おぉむらUは神武天皇が大机国平定の折勲功を立てそれ以来代々朝廷にお仕えし垂仁天皇の御代に物部の姓を賜抓ソ大連として国政に参与し、一家一門はこの地を中心に繁栄し隆昌をきわめた。又物部柳社は廷喜式神名帳、三代実録等の古典に記録されており……往古は山梨郷御室山に鎮座せしが後世此の地に遷し祀る。現在御室山に旧践があり今 三甲斐物部神社と物部氏
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ここで一つ明碓なことは、物部氏というのは神武天皇に征服された先住民の支配者が祖であるということである。これは記紀ともに本質的には同じである。さらにこの社史では「神がきのみむろの山のさかきばは……」という歌をつづけているが、この歌はたしかに
、、、、、古今集に存在する。しかし、》」の社史のように甲斐の山をみなろの山と述べているとはかぎらないのである。いやむしろ、この神のみむろの山は、叩斐ではなく奈良と解した力が自然である。というのも、古今染には甲斐の歌という なんとも興味深い説明である。この一文は明らかに日本書紀と古今集をたくみに接合して、この神社の正統性を、大和朝廷の学者達が記紀の中でやったと同じようにもっともらしくつくりあげたものである。紀によると、神武天皇
ながすわひごが長髄彦と戦った時、長髄彦は、主君の饒速日命に殺され、饒速日命が神武天皇に降服した。この饒速日へ叩が物部氏と〃つぉやの遠祖であると記されている。この饒速日命は天孫族だとしるされているが、これは、天孫族に付会した造作だと一三吋みかし8やUのうfしまでのみこと槌ざはやひのわれている。この焼連日命と長髄彦の妹一一一炊屋媛との間に生まれた子が先の可美真手へ叩である。古事記では邇芸速日
〃こととみひことみやひぬうましfUのみこと命が神武天皇FL降服し、紀の長髄彦にあたる盗美毘古の妹登美夜腿売との間に宇麻志麻遅命をもうけたとしるされて〃やいる。この宇麻志麻運命が物部連の祖と説明されている。この物部神社の社史を作った人物は、日本書紀の饒速日命が天孫族、つまり神武天皇と同系列の人物だと強調されているのと、大和朝廷の最大の敵長髄彦を殺した英雄でもあるので、古事記ではなく日本書紀の記述を選んだのであろう。神社の権威付けには烙恰だからである。古事記では長髄彦に州当する登美児古を、院速Ⅱ命が殺したという記ろう。神社の権威付哩述は存在していない。 古巣にも「神がきのみなブ土器類もそこで発掘された。 みなろの山のざかきばは神のみまえにしげりあいにけり」と詠じてある。古代の石器
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項目がつくられており、そこに甲斐を読んだ歌が二首並んでいるが、その中にこの歌が入っていないからである。し
たがってこの社史は都合のいい記録を集めて造作したものと言えるが、しかし見方を変えれば、まず先に物部神社があり、その権威付けのために後世の人間がこうした社史を作ったもので、この社史は皮肉なことに古くから物部神社が甲斐の大蔵経寺山あるいは他の山の山麓に存在していた証拠でもある。当然これが甲斐の国から消滅してしまった物部氏の氏神だったことはまちがないであろう。それなら甲斐の物部氏とは一体何だったのだろうか。これを解明するためには物部氏というものを解明しなければならない。
う1し1Uのみこと先の記紀の説明にもあるように、物部氏の柵先は紀によれば院速日命であり、記では眺速Ⅱ命の子宇麻志麻週へ叩になっている。共通しているのは、大和朝廷によって征服された先住民の支配者が物部氏を名のっているという点である。先の社史では「垂仁天皇の御代に物部の姓を賜り大連として国政に参与し、一家一門はこの地を中心に繁栄し隆昌をきわめた」と書いてあったが、この説明はまた矛盾だらけである。記紀ともに饒速日命またはその子が物部氏の柧先であるとしるしているので、十一代躯仁天皇の時、眺速日命の子孫が再度物部の姓を賜るということはあり得ないし、まして、それが甲斐物部氏だということはとうてい考えられないからである。社史の.Ⅲ一家がこの地……」というこの地とは勿論甲斐の国をさしている。ところが、日本書紀には物部氏が甲斐にいたという記述は全く存在していない。紀に垂仁天皇の時、物部屯連の遠祖物部十千根なる人物が確かに活蝋しているが、それはあくまでも奈良の大和朝廷に仕えての話であって、十千根が甲斐にいては大和朝廷で活鏥などできるはずがないのである。この甲斐物部氏の説明は、殊更甲斐物部神社を正統化し権威付けるための後世の造作としか言いようがないが、しかし考えてみれば、甲斐物部神社が存在していたからこそこのような造作がなされたのであり、甲斐物部神社が古くから存在していた証拠である。このことは、社史の説明とは別に、この物部神社を中心に甲斐の物部氏の存在を明ら
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かにする一つの手がかりである。そして、記紀の記述をそのまま甲斐にあてはめると、奈良の饒速Ⅱ命と同じように甲斐の支配者が大和朝廷と戦って征服され、物部氏になったにちがいない。その後の迦命も、大和の物部氏と同じ遮命をたどったのであろう。大和の物部氏は大和朝廷に仕え、蘇我氏と勢力を二分するほど強大になっていったが、崇峻天皇の時、六世紀頃と考えられるが、物部守屋大連が蘇我馬子大臣と争い、今の大阪の渋河で蘇我氏によって亡ぼされている。しかし物部氏の名はその後もいたるところに見られる。例えばその支族が石上を名のり、石上神社を中心に生きつづけたなどである。それは奈良だけにとどまらずいたるところにその名前がうかがえる。九州にも存在していたと言われるし、八十物部と呼ばれた呼び方も、各地に物部氏が散在していた証拠である。このことは物部神社
を例にとってみるとよくわかる。物部神社として有名なのは、新潟県の西山町にあったり、島根県大川市川合川にあったりする。いずれも物部氏の神社であることに変わりはない。島根県の物部神社は次のように伝えられている。「祭神は宇麻志麻遅命、継体天皇八年、勅によって創建。物部氏の始祖であるこの地方を平定した命を奉斉。物部神
いばゐ社の宗社であると伝えられる」この伝承は古事記をもとにしているのはわかるが、記の継体天皇の時、「筑紫の石井、
§わゐやなあらかい天皇の〈叩に従はずして、多く礼元かりき・故、物部荒甲の大連、大伴の金村の連一一人を道はして、石井を殺したまひき」という記述はあっても、島根物部神社のような伝承はどこにも背かれていない。これも甲斐物部神社と同じで、神社がそこにあって説明が後から付加えられたものだと考えられる、が、いずれにしても、甲斐や信濃や島根に物部神社があるということは、物部氏が広く散在していたことを示すものである。この時代に、全国的な統一組織を持った氏族の存在は大和朝廷以外考えられないから、各地の物部氏は、大和朝廷に征服された古代王朝なり豪族が大和朝廷に隷属して物部氏になった、つまり、饒速日命と同じ運命をたどったとしか考えられないのである。直接こうした関係を示す記録はないが、物部について次のような説明がなされている。「律令制で、刑部省所管の囚獄司、術門府、
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いちのつかさ東西の市司に置かれた職員。雑任の一種で、地位は低く、刑罰の執行に当たった」この説明の中には、物部という意
味が大和朝廷に隷属した一族だということを読みとることができるように思われる。甲斐物部氏についての記録は全く存在していないが、物部氏の存在をうかがわせるような記録が一つだけ存在している。それは「正倉院宝物銘文集成」の中で、次のようにしるされている。「巨摩郡青沼郷物部高嶋調維壹匹」この記録は天平勝宝四年、七五二年だと推定されているが、ここにはっきりと物部高嶋なる人物が登場している。調として繩一匹では、この高嶋なる人物が、‐斐の支配者とかそれに準ずる人物とはとうてい言いえないが、少くとも甲斐に物部氏の存在を証明する有力な手がかりであることはまちがいない。また青沼郷は現在の物部神社とそれほど離れておらず、青沼郷の物部高嶋が甲斐物部神社を巾‐心とした物部氏の一員であったことは容易に想像できるし、この頃、甲斐物部氏が力を失って単なる部民になっていたということも、この記録から知られるのである。ここでもう一度物部神社の社史「往古は山梨郷御室山に鎮座せしが……」という説明に注目してみよう。この御室山が現在の神社の背後の大蔵経寺山をさしているのか、これより東の山梨市にある春日居御室山と呼ばれる御室山をさしているのかもう一つ明白ではない。春日居御室山の山麓には山梨岡神社があって同じ伝承が残っているからであ
る。多分物部神社は往古は背後の大蔵経寺山にあったと考える方が妥当であるが、それはともかく、物部神社がかっては山にあったという伝承は、酒折神社と酒折御室山、三輪山と大神神社の関係と同じであり、甲斐が大和朝廷に征服されて大和朝廷系の神、例えば日本武尊や可美真手命を祀る以前からここに先住民の神を祀った神社があり、当然神社を中心に甲斐を支配していた古代王朝があったと推察できるのである。
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甲府盆地の東北に連なる丘陵地帯の山麓には、山麓沿いの古道北山野道に沿って、酒折神社や物部神社以外にも多くの神社がある。新しい神社も多いが、中には酒折神社や物部神社のように古代甲斐の国を知る手がかりになるものがいくつかある。これは奈良盆地の東北に連なる山麓の神社群と全く同じである。すでに述べたように酒折神社は奈良三輪山の大神神社、甲斐物部神社は奈良の石上神社に相当している。奈良の神社と甲斐の神社との具体的な関係はつかみようもないが、こうした関係を一層強調できそうな神社の一つに山梨岡神社がある。山梨岡神社は山梨市の春日居の山麓にある神社で、酒折、物部神社と同じように背後に一見しただけで神名備山だとわかる山を背負っている。境内に社史が書かれているが、この社史も物部神社の社史に勝るとも劣らないほど虚実とりまぜたものになっている。次のように書かれている。人皇十代崇神天皇のとき、国内に疫病が流行し災害も多い故、勅命により御室山頂に創祀され、その後成務天皇
の御代に麓の梨樹を伐り拓いて神戸を遷し……この説明を読むと、まるで甲斐の国に疫病が流行し、それを崇神天皇がしずめるために御室山に、通例山梨岡神社背後の神名備山を春日居御室山と称しているのでこの社史を読んだものは、この春日居の御室山だと思いこんでしまうが、その御室山に山梨岡神社が創祀されたことになっている。これではまるで崇神天皇が甲斐の国にいて甲斐の国を治めていたことになる。もちろんそんな事実は記紀とも全く存在していない。古事記の崇神天皇記には次のように述べられている。疫病が流行して国民が死にたえそうになった時、崇神天皇の夢の中に大物主大神が現われて「是は我が御心ぞ。故、意富多多泥古を以ちて、我が御前を祭らしめたまはぱ、神の気起らず、国安らかに平らぎなむ」崇 四山麓神社と山上古墳
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この説明は示唆に富んでおり、しかも他の神社では見られなかった事実を伝えている。境内には巨石がたくさんあり、と書かれているが、粗末で荒廃した神社に比べてその巨石が強く目を引く神社である。平地の石森山の山梨岡神社と同じ磐座信仰の神社であることが一目でわかる。更に、山頂には石積塚古墳があり、当社の御神体とされていますという説明は、明らかに甲斐の古代神の実態を示すものである。この古墳は現存しており、その古墳が神の座とし 湯泉街の北側にやはり神名備山と思われる湯村山があり、その山麓に湯村神社がある。しかしこの神社は温泉の神を祭ってあるというだけで古代の甲斐の神を知る手がかりは全くない。しかし同じ山麓にある塩沢寺では仏像が岩室に安置されており、磐座信仰の跡が見られるし、湯村山そのものにも数基の古墳が存在している。しかも湯村山山麓の平地に目をやると、先にも述べたように首長塚と呼ばれる巨大な横穴式古墳が存在しているし、その近くにはやはり巨大な円形古墳加牟那塚古墳がある。古代甲斐の支配者の古墳だと言われているが、それはまちがいであろう。またこうした巨大古墳は三輪山山麓の平地にある巨大な箸墓、祭神天皇陵といった巨大古墳を連想させるものがある。その他この湯村の周辺には千塚と呼ばれる地があり、そこにはかって多くの土盛り古噛があったと伝えられている。残念ながら今はほとんどが消滅してしまい、実際に見ることはできない。
この湯村山をしばらく北へ行くと大宮神社があり、その背後に羽黒白山がある。その神社の社史は次のように説明されている。
この神社は旧羽黒村の産土神で、大宮七社大神と称し……いわくら境内には巨石がたくさんあり、神の降臨する磐座ではないかと考えられています。また、神社の裏手にあるなだらかな三角形の山は、羽黒山あるいは天狗山といわれ、山頂には穂石塚古墳があり、当社の御神体とされていま
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推察するに磐座信仰、つま恥在するのはいうまでもない。 て考えられていたのはまちがいない。この大宮神社と羽黒白山の関係は、春日居御室山と山梨岡神社と、石森山の山梨岡神社が合体した姿を伝えているし、両者を比較した場合、羽黒白山と大宮神社の形態が二つの山梨岡神社誕生のもとになっていたとも考えられる。ただ酒折御室山の山頂が無惨に破壊されて岩片の山になっていることでもわかるようにこの丘陵地帯の古代遺跡は破壊されたり荒廃したりしているので、今まで述べてきた他の神名備山の山頂に神の座としての古墳がかってはあったのかなかったのか、現状で推論することは無理のように思われる。ところで、山頂古墳というとすぐ思い出されるのは奈良盆地の西側葛城山系の一つ二上山の雄岳山頂にある古墳である。現在では大津皇子の墓とされているが、大津皇子の古墳であれば七世紀末になってからのことである。どう見てもこの古墳はそれ以前のものだと考えられる。それに謀反の罪で処刑された皇子の墓を奈良の都を見下すような山みかばれかつらぎは仏頂に造ったとは考えにくい。万葉集には「大津皇子の屍を葛城の一一上山に移し葬りし時」とあるが大津皇子の墓は一一上山の中腹にある鳥谷口古墳ではないかと考えられる。いずれにしても羽黒白山と山頂古墳は二上山とその山頂古墳と対比することができる。ここにも古代奈良の分身を垣間見ることができるのである。おおみわここで一二輪山から北へ連なる奈良の丘陵地帯の山瀧神社に目を向けてみよう。大神神社、狭丼神社、桧原神社、穴いそのかみ師坐兵神社、石上神社といずれも山を背冥界に存在している。大神神社、石上神社についてはもう説明の要はないであなしにいますひょうあろう。その他一つだけ説明すると、巻向山の中腹に穴師坐兵神社がある。》」の神社の由来は奈良のこの周辺の神社としては珍らしく全くわかっていない。おそらく巻向山がもともとは神社だったにちがいない。この神社の名から推察するに磐座信仰、つまり奈良先住民の神の山であったと思われる。もちろんこの周辺におびただしい古斌群が存
こう見てくると、酒折神社を中心とした甲斐の古代遺跡は三輪山を中心とした奈良の古代遺跡と双生児だというこ
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記紀に埋もれた甲斐酒折王朝
とができる。したがって三輪山を中心とした奈良の古代史が解明できれば酒折御室山を中心とした甲斐の古代史が解
明できるはずである。が、と言っても両者が同一の支配者によって支配されていたとは考えられない。大和朝廷が統一国家を形成する以前に統一国家があったとは考えられないからである。これは物部氏考に紗ても同様に考えたが、これを証明するものとして銅鐸が考えられる。銅鐸が奈良盆地を中心に、多く出土するのは有名である。九州の銅剣、
銅矛、銅戈が九州文化を代表するとすれば、銅鐸文化は奈良を中心とした古代文化で、その奈良の先住民は、銅剣、銅矛、銅戈を持った大和朝廷によって征服されたと言われている。古田武彦はそれを次のように述べている。「天皇家という古代権力の主導した社会は、この『銅鐸を宝器とする社会』とは全く異質の、相容れざる祭祀圏であった。それゆえ、旧来の『銅鐸をめぐる神話、説話群』は、新しい権力(天皇家)によって根絶されてしまったのだ」と。この銅鐸祭祀圏が三輪山あるいは葛城山を中心とした奈良の先住民の王朝だと考えられる。それに対して甲斐から全く銅鐸が出土していない。つまり、銅鐸祭祀圏とは全く別の祭祀圏が、強いて言えば巨石祭祀圏が独立して存在していたと考えられる。これは記紀の大和征服識にもその証拠が見られる。奈良の先住民の王朝を征服しても、東国は、甲斐王朝は連鎖的に征服されていなかったのである。
大和朝廷が記紀を作成した主要な目的は、大和朝廷を正統化し、権威づけるためだったにちがいない。しかも征服した先住民の歴史や神まで取り込んで、例えば天皇の系譜まで先住民の支配者を利用して大和朝廷のものにしたと思われるが、それにしてもその造作は稚拙で矛盾だらけで、明らかにこれは大和朝廷の歴史とはいえないものが随所に 五記紀に埋もれた古代王朝
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すぐなぴこな古事記でいちばん最初に一二輪山の名が見えるのは、出雲の大国主命が一緒に国造りをした少名砒古那に去られて一
や士といつ人で途刀にくれていると、新しい神がやってきて、「五口をぱ倭の青垣の東の山の上に拝き奉れ」そうすれば国造りに
〃しる協力すると答えさせている記述においてである。その後、「こは御諸山の上に坐す神なり」としるされている。出雲の支配者が、倭の三輪山に神を拝き奉れるわけがないのである。出雲の大国主命と三輪山の神が特殊な関係にあったことがこれでわかる。日本書紀では三輪山の神大物主命と大国主命が同一人物だとしており、その裏に大和朝廷の意 存在を多く記録している。 顔をのぞかせている。しかし、七、八世紀の当時最高の学者達がこうした欠点に気がつかなかったはずはない。それなりに論理的な大和朝廷の歴史を造ろうと思えば、もっと巧妙に破碇のない大和朝廷の歴史を残すことはできたはずである。常識的に考えて、先住民と大和朝廷の歴史が木と竹をついだような、一見して不自然さがそれとわかる記紀の記述は、記紀作成のもう一つの目的だったとしか考えようがない。つまり、先住民の歴史や神をそれとわかる形で残すことによって、もっと具体的に言えば、先住民の歴史や神を尊重している様子を見せながら大和朝廷の歴史や神の中に取りこむことによって、征服した先住民を慰撫懐柔して大和朝廷に梢神的に隷属させようとしたにちがいない
図的な造作が隠されている。 このように先住民の歴史や神を大和朝廷の中に巧みに取りこんでいった過程が、三輪山を中心とした先住民の歴史や神との間にもっともよく見られる。記紀は間接的にではあるが、歴史と神話の面から三輪山を中心とした先住民の のである。
次に神武天皇の妻問い説話の中に、大和朝廷がいかに三輪山の神との融合を求めていたか、三輪山が大和朝廷にとみつかしまみぞくいぜやたたらひめっていかに無視できない存在であったかが語られている。それによると、一一一一一一鴫樫咋の娘に勢夜多多良比売という美
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記紀に埋もれた甲斐酒折王靭
さらに三輪山伝説がしるされている。古事記と日本書紀ではだいぶ内容が異なっているが、ここでは日本書紀の記やょとととぴもしそひめの述を取りあげてみることにする。それによると倭迦迩日百襲姫へ叩が大物主神の妻となると明記されている。明らかに大和朝廷が三輪山の神と婚姻関係を結んで三輪山の神を懐柔しようとしている姿勢がうかがえる。しかし倭迩迩日姫命は大物主神を夜しか見られないので昼間見せて欲しいと言い、大物主神が小蛇だということを見て驚いて叫び声をぱとあげる。大物主は怒って二一輪山に帰り、倭逃迩日姫命は箸で陰を撞いて死んだことになっている。古事記では陰を撞 しい娘がいたが、三輪の大物主神が一目惚れをして赤い矢に化けて娘のところに行き、その勢夜多多良比売との間にひぬたたらいすけ上りひめできた娘比売多多良伊須気余理比売が神武天皇の妻の一人になったと語られている。明らかにこの説話は、大和朝廷が三輪山を中心とする勢力、三輪王朝との融合を計ったものであり、そこに大和朝廷の記紀作成の意図の一つが読みとれるのである。次の崇神天皇の説話は、三輪山の神を大和朝廷がいかに取りこんでいったかという苦心談のもっともいい例だと思われる。勿論神を取りこむというのは、その神を信仰する人々を取りこんでいくことである。これは、前にも述べたが、次のようにしるされている。犬やみさわだ〃かむどここの天皇の御世に、役病多に起りて、人民死にて尽きむとす。ここに天皇愁ひ欺きて神林に坐しし夜、大物主大邪鰍だたれこ神、御夢に顕はれて曰りたまひしく、「こは我が御心ぞ。故、意篇多多泥古をもちて、我が御前を祭らしめたまはぱ、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」そこで崇神天皇は意富多多泥古という人物を探して言われたとおりにすると、役病がおさまって平和になったとしるされている。これは、大和朝廷が三輪山の神によって救われたという説明で、征服者である大和朝廷が三輪山対策にいかに頭を痛めていたかがわかる。どれほど、三輪山の存在が大利朝廷にとって厄介だったかということがわかるのである。
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いて死んだとは書いてないし名前もちがうが、三輪山の神が蛇だと語っている点では同じである。紀はその後、倭迦迩日姫命を大巾にほうむり、箸墓のつくられた様子を「この墓は、日は人作り、夜は神作る」と述べている。このように三輪山の神に関する記紀の記録は、大和朝廷にとって三輪山の神がいかに無視できない存在であるか語ると同時に、この神をいかに大和朝廷の中に取りこんで懐柔していくかという苦心が語られている。この神を懐柔するというのは、その神を信仰する、その神を中心に生きている人々を懐柔慰撫する政治的目的であることはいうまでもない。それならこの大和朝廷に征服された三輪山を中心とした人々は何者だったのだろうか。それをさぐる手段とながすわびこしては、神武天皇が一二輪山周辺で戦った記録が記紀ともにしるされている。特に記には登美の那賀須泥毘古(紀では長髄彦)との激しい戦いがしるされているが、この那賀須泥毘古は三輪山山麓の平地に居をかまえていた先住民の支配者だと考えられる。また同じように神武天皇と戦った宇陀の兄宇迦斯、弟宇迦斯も同地力の支配者だったと考えられる。こうした戦いの歴史と先の三輪山説話とを三輪山周辺の遺跡と合せると、そこに大和朝廷が無視できなかった強大な勢力が存在していたことがわかるのである。また崇神、崇仁、景行といった三人の天皇が三輪山周辺に都を置いたのは、先住民の王朝、三輪王朝の存在を示すものだとも言われている。梅原猛は『神々の流鼠」の中で出雲における大国主命の国譲りは実際には三輪山で起ったことを出雲に移した大和朝廷の造作だと述べているが、この一一一輪山の神を出雲に移さなければならなかったのは、大和朝廷に征服された後も、三輪山を中心とした勢力が依然として存在していたことを物語るものである。同時ににこの王朝の滅亡に関しても、記紀は露骨な造作を行っている。奈良盆地で先住民を征服した時、紀によれば突然饒速日命なる大和朝廷に属すると見られる人物が登場し、神武天皇の最大あまつしるしの敵長髄彦を殺し、天津瑞を献上して降服している。大和朝廷の奈良征服を正当化しているのである。しかもこの饒速日命を物部氏の遠祖にしており、後に物部氏が大和朝廷に仕えてさまざまな活動をしているのを見れば、大和朝廷
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がいかに巧妙に先住民を取りこんで利用していったかがわかるのである。先住民の神や支配者をどのように扱ったか示す興味深い例としては、雄略天皇記に次のような説話がしるされていもしつかさたちろ。雄略天皇が百官の人等をひきいて葛城山に登った時、天皇の一行と人数も服装も同じ行列が反対側から登ってきた。雄略天皇は自分以外に天皇はいないはずなのに自分の真似をするとはけしからんと、家来に命じて弓に矢をっがえさせると相手側も同じことをした。そこで天皇が相手の名前をたずねると相手が次のように答えた。まがよかしこ「吾は悪事も一言、、善事も一言、一一旨ひ雛っ神、葛城の一一一一一回主大神ぞ」とまをしき。天皇ここに樫畏みて白したまかしこみたち・ひしぐ、「恐し、我が大神、現しおみあらむとは覚らざりき」と白して、大御刀また弓矢を始めて、百宮の人等〃ろがの服せる衣服を脱がして、桴みて献りたまひき。この一言主命は明らかに先住民の神であり、それに天皇が敬意を払っているというのは、先住民の神を敬うことで先住民を懐柔し、隷属させようとした意図以外は考えられない。記紀の先住民の神の記録は、このような政治的な配慮がはっきり認められる。倭延命の熊瞥建平定諏や紀による景行天皇九州遠征識も同じ意図のもとに造られたものだ〃うすと考えられる。兄を殺し、逃げる弟の熊曽建を追って剣を尻より刺して殺そうとした時、熊曽建は小碓〈叩に対して次
打肪や1とのくに血「西の方に吾一一人を除きて、連く撒き人無し。然るに大倭国に、吾一一人に益りて建き男は坐しけり。ここをも
や友とたりらのみこただほぞbちて五口御名を献らむ。今より後は、倭建御子と称ふくし」とまをしき。この事白し誌へつれば、すなわち熟茄たの如振り折ちて殺したまひき。この記録は戦いに敗けて殺されかけた者が、勝者に倭建命という尊称を送っており、普通では考えられないことである。古田武彦は一・盗まれた神話」でこの問題を取りあげ、尊称は上位者が下位者に与えるものであり、この時点で と考えられる。兄をmのように述べている。
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倭建命の遠征識は古事記と日本書紀で大きく異なる部分がある。それは、記では倭建命が出雲の国で出雲連を平定する話があるのに対し、紀では出雲連平定に代わって景行天皇九州征服諏をいれている点である。出雲連を倭建命が平定する話は、川雲建が水浴びをしている側に、出雲処の剣をイチイの木の刀とすりかえておいてから戦いを挑み、出雲建が刀を抜けないでまごまごしているうちに、出雲連を殺してしまったという単純な話である。ここには熊曽建を殺した時のような政治的目的は全く見られない。日本書紀の作成者がこの出雲建平定の話のかわりに、景行天皇九州遠征認を入れたのもうなずけるのである。古事記より日本書紀の方がはるかに意図的に造作しているのが随所に認められるが、景行天皇九州遠征謙もその一つである。この遠征諏に関しては古川武彦が「塩まれた神話」の中で、これは九州王朝による九州征伐を大和朝廷が紀の中で、大和朝廷遠征誠に巧みにすりかえたものだと綿密な論証をされ
慰和廷こ)Ⅱ世人拠は 撫朝にと王紀間で暗 懐廷とで朝に}こあ殺 柔とつあがな称ると
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よ)'1も゜流てをだう うとまこだ、与か手 とのだれとどえら段 し融安もいうるこで た合心先うしこそ倭 lこをでのユ!;てと熊建 ちはき大笑こは曽命 がかな物をのあ連が いりい主八よりが九 な、状命世う得倭州 い九態や紀なな連の
。州で一に記い御支 征のあ言な録か子配 服人つ主つをらな者 し々た命て記、るを たを力〕と残紀古称殺 ネ''1,ら大すのH1号し や古に和必作武をた 人}11ち朝要成彦与が 々武が廷と者のら、
を彦いといが説れ依 そのなのうわはた然 の説い関のざそのと よを。{系はわのだし う階おと、ざ通とて なりそ同八残り説九 形れらじ世しだ[リ)州 でばくで紀たとし王 大、熊八のか恩て朝 和大曽世九とういが
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は延存な大こか雁で巧に在つ和としか大 み征をてとでこに和 に服尊ものあこ征朝 服さ重、関るで服廷 従れす九係。問さが ざたる州で大題れ傍 せ九このし和にた流 吸州と存か朝し人だ 収王に在考廷た間つ し朝よ’よえがいがた てのつ、ら傍の征と い人て大れ流は服い つ々、和なで、しう たを大朝い九八た証
のである。
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ている。それが何時の時代になされたのか決定するのはむずかしいが、少くとも八世紀、紀が作られた時点では九州王朝は消滅していたのは事実である。したがって八世紀になって何故九州遠征識を入れる必要があったのだろう。考えられる理由の一つは、すでに九州王朝は大和朝廷に吸収されていたとはいえ、過去の九州王朝に匹敵するような一つの勢力が依然として九州に存在していたからにちがいない。しかも東国とちがって九州がいかに重要だったかは、
七、八世紀の朝鮮半島と大和朝廷の緊迫した関係を考えれば一目瞭然である。日本書紀の作成者が出雲に代えて九州の話を挿入したのも当然である。これは大和朝廷と九州王朝の一体感を狙った造作だったと思われる。当時の北九州の人達はこの景行天皇九州征伐がn分達の王、九州王朝の馴件として認めることができたはずだからである。澱行と
いう名が、九州王朝の突在の王の名であったらこの遠征訓は想像以上に効果があったと思われるが、もちろんそれを
たしかめられる九州王朝の記録は存在していない。以上述べてきたように、記紀の記述には矛盾していたり、容易に底がわれてしまうような造作が多い。出雲の大国主命が三輪山の大物主命だったり、長髄彦を殺した饒速日命が大和朝廷の一員だったり、雄略天皇が自分の行列とそっくり同じ行列にⅢ合ったり、しかしそれは大和朝廷が論理的に一貫した雁史を造ったという後世の見力に立った場合であって、七、ハ世紀の大和朝廷はそうは考えていなかった。当然記紀を造った学者達は、客観的な事実をふまえた形では記紀を造ろうとしなかった。大和朝廷を正統化し、権威付けるために、まず征服した先住民族をいろいろな点から取り込むことが必要だったのである。だれもが納得できる歴史、寄木細工の歴史を作ることが、各先住民を取りこむ手段だったにちがいない。記紀の記述はそれを如実に物語っている。当然記紀の記述もこの視点に立って考える必要がある。七、八世紀の大和朝廷にとって、政治的にどんな歴史が必要だったかとである。景行天皇の九州遠征諏、倭建命が熊曽建から称号をもらった事件にしてもそうである。だとすれば、東国遠征における甲斐酒折宮におけ
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倭建命(紀では日本武尊)の遠征讃は記と紀ではその内容が大きく異なっているが、両書に共通のものは熊曽建平定とこの御火焼の老人問答歌だけである。これを見ても御火焼の老人が大和朝廷成立にあたっていかに無視できない事件であったかがわかる。東国における古代史を塗りかえるような事件だったのである。御火焼の老人だけにしぼって見ると、その重要性が一層明確になってくる。倭建命が西国遠征で対等に言葉をかわした人物といえば、記によれば熊曽建と出雲建である。両者ともそれぞれの地の支配者だったことはいうまでもない。しかも紀では出雲建の存在は抹殺され、代りに景行天皇の九州遠征が挿入されている。この景行天皇の遠征をどうとらえようと、これは八世紀 六酒折宮は誰の宮か
やまとたけるのみことみひたきおきな甲斐酒折宮における倭建命と御火焼の老人との問答歌が歴史的にとりあげられたという話は全く聞いたことがない。一見内容が単純明解で問題にする余地がないように見えるのと、東国の事件だからである。東国における古代
史は資料がとぼしいせいもあってやむえないのかもしれない。しかし倭建命と御火焼の老人の背景となった酒折とその周辺に多くの古代遺跡や磐座が現存しているのを見れば、この事件が単なる説話ではなくて大和朝廷にとって無視できない歴史であったことが容易に想像できるのである。だからこそ、この事件が記紀両書にしるされているのであ る倭建命と御火焼の老人との問答歌も同じ視点から見ていかなければならない。あの記述は七、八世紀の大和朝廷にとっても、甲斐の人々にとっても、共存していくために必要な記述だったにちがいないからである。そういう意味で、酒折宮の記述は大和朝廷にとって東国におけるもっとも重要な事件として残されたにちがいない。
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記紀に埋もれた甲斐酒折王朝
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相模国である。 げてみよう。酒古事記 の大和朝廷が九州を重要視していた証拠であることはたしかである。これに対して東国で倭建命と対等に言菜をかわしたのは御火焼の老人だけである。ただし紀ではこの老人の存在を殊更ぼかそうとする造作がなされているが、その造作がかえって老人の存在の重要性を逆に浮きあがらせている。また天皇と征服された人物、つまり神との対等の会話をしるしたものに雄略天皇と一言主命の事件があるし、崇神天皇の夢に現われた三輪山の大物主命の説話がある。このいずれもが、大和朝廷にとって無視できない存在であったからこそ、天皇と対等の関係でしるされたはずである。このように見ていくと、御火焼の老人の実像がおぼろげに浮んでくるが、もちろんもう一歩つっこんでその実像をさぐるには、甲斐酒折宮における倭建命と御火焼の老人の記述を解明する以外に方法はない。この記述の中で真先に目につくのは、「酒折宮」という表記である。この表記を吟味するまえに、記紀の記述をあげてみよう。酒折宮に関しては両謝共通である。
すなはちその国より越えて、甲斐に出でまして、酒折宮に坐しし時、歌ひたまひしく、臆ひばりつく肱新治筑波を過ぎて幾夜か笈つる
。〃Uk8〃3なとうたひたまひき。こ》」にその御火焼の老人、御歌に続ぎて歌ひしぐ、かがなくて夜には九夜日には十日をくにのみやつことうたひき。ここをもちてその老人を誉めて、すなはち束の国造を給ひき。ちろん「その国より越えて」の主語は倭建命であり、「酒折寓に坐しし」の主語も倭建命である。「その国」とは
日本書紀
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ひだらへjひともみ〃しみうたSぷらうひとのhf常陸を雁て、、叩斐国に至りて、澗折宮に川します。時に拳燗して進食す。足の夜、歌を以て侍者に向いて曰はく新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる
もろもろさぷらうひともうひともせるものみこみうたうたよみもう諸の侍者、え答え一一二口さず。時に乗燭者有り。・王の歌の末に続けて、歌して曰さく、ががな日、Ⅱ並べて夜には九夜日には十口Ⅱを
ひともしさとりほあつた上いしの良ゆぃひのとものをおuとしのむらじとⅢつ〃やたけひ即ち乗燭人の聡を美めたまひて、教く資す。則ち是の樹に屑しまして、紋部を以て大伴連の遠祖武、川に腸ふ。ここでも「酒折宮に届します」の主語は日本武尊である。見てわかるように記紀ともに倭建命が酒折嵐に勝たと記してあるが、実はこの記述が記紀、特に記においては特異な例外的な用法なのである。どうして倭建命が酒折宮に居る時とさりげなく特殊な記述をしたのであろうか。これが誤記でないのは、紀においても同じ表記が用いられていることでわかる。それに記紀、殊に古事記における「宮」の
川法は厳密であり、この語の厳密な使用を見ていると、記の作成者の学識が、中国古代の、例えば三国志などにおける漢字の厳密な用法にのっとっているのがわかるのである。それだけに記におけるこの酒折宮の「宮」の川法は、記の作成者がある意味を伝えようとしていたことがわかるのである。紀は記の内容をだいぶ変えているが、この部分だけは同じである。ここだけは特異な川法なので変えられなかったのかもしれない。それなら記においては「樹」という字がどのように使われているか例をあげてみよう。「宮」の用法は小さくは三柧類、大きくは二秘に別けられる。記の作成者は次のように「宮」を使っている。一つは神代記における「宮」の用法であり、次のようになっている。
とこよのおしひかれのたぢからをの一、この大国主神、胸形の奥津宮に坐す抑この二住の神は。(常世、心金神、手力男神)さくくしろ、五十鈴
この、宮 れ拝:そに 綿き津祭 見る48000
それ綿津見神の宮ぞ。
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いばおまりやそとせま-二、日子穂穂手見命は、高千穂の宮に五百八十歳坐しき。以上が神代記における「宮」の用法で、共通していることは、いずれもが神の住居であることと、かならず主語が明記してあることである。この神と宮の関係は、天皇記になると次のようになっている。いそのかみのかみのおさまつ一、これを石上神宮に納め奉肺ソ。
みあらか一一、我が宮を天皇の御舎の。(我がというのは出雲の大神である)
いばくまあしはらしこその一二、出雲の石舸の曽宮に坐す葦原色許男大神神の宮を造らしめたまいき(この神は大国主神である)。四、石上神宮に坐しましき。
いずれも神の住居であることは神代記と同じである。しかし天皇記における宮の川法は、圧倒的に天皇をさす場合が多く、それもほとんどが一つの形式をもってしるされている。次のようにである。
かんや上とい肱hぴこのいろせいつせの一、神倭伊波礼毘古く叩、その同母兄五瀬命と一一柱、高千穂の宮に坐して。
うさつじこうsつひめあしひとあがりの〃おみあえ一一、宇沙都比古、宇沙部比売の一一人、足一騰宮を作りて、大御饗蹴りき。
たけ一一一、竺紫の岡川宮に一年……阿岐国の多祁理宮に七年坐しき。….:吉備の高島宮に八年坐しき。(この主語はいずれも神倭伊波礼毘古命、つまり神武天皇である)
うねぴかしばらの四、畝火の白梼原宮に坐しまして。(主語は神倭伊波礼毘古く叩)かむいなかわみみのかつらざしきつひごたまでみのうぎあなの五、神沼河耳命、葛城の高岡宮に坐しまして。師木津日子玉手見命、片塩の浮穴宮に坐しまして。
お瞳やまとUこすきともの一ハ、大倭日子蛆友〈叩、軽の境岡宮に坐しまして。
みまつひこかえしねのわきがみ七、御真津日子訶恵志泥〈叩、葛城の披上宮に坐しまして。 かみのお俶五、神宮を孫士ふむとす。
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おばや土とたらしひこぐにおしぴとの八、大倭滞日子国押入〈叩、葛城の室の秋津島宮に坐しまして。打打やまとねっ』ひこふとに⑨九、大倭根子日子賦斗邇〈叩、黒田の旗戸宮に坐しまして。おおやまとねワ】ひこぐにくるのかろきがいばらの十、大倭根子日子国玖琉命、軽の堺原宮に坐し士ふしてわかや良とねや』ひこ〃ばびびのいざかばの十一、滞倭根子口川子大腿毘命、春日の伊邪河宮に坐しまして
みよきいりひこ、にえの十二、御真木入日子印恵〈叩、師木の水垣宮に坐しまして恥くめいりびこいざbの十一一一、伊久米伊理毘古伊佐知命、師木の王炳一宮に坐しましておばん、わしおしろわけのまきむく十四、大帯日子搬斯、ロ和気命、纏向の日代宮に坐しまして古事記ではこのように天皇の名をあげて次にその宮殿の場所と宮殿名をしるしている。それは最後の推古天皇まで全くかわっていない。完全に形式化して一見すると、そこには何の矛盾も見られないようになっている。推古天皇については次のように記されている。いもとよみけかしぎやひめのおわりだの妹、豊御食炊屋比売へ叩、小治四宮に坐して。
ここにおける宮の主人はすべて天皇しかもその形式から同一王朝の支配者であるかのように列記されている。つまり、天皇記においては、天皇の住居に「宮」を使い、同時に「宮」の主人を明記している。これは神代記の神と天皇が入れ換っただけで、その川法、つまり、「宮」を使う時はその主人を明記することと、「宮」の主人が最高権力者であるという点は全く変わらないのである。しかも天皇記では前記のように表記が統一され、すべて大和朝廷の天皇として柵かれているが、現代では、すべてが大和朝廷の天皇、つまり、最高権力者だったとは考えられないというのが定説である。実在しなかったという意見もあれば、神倭伊波礼毘古命(神武天皇)から若倭根子日子大腿毘命(開化天皇)までの宮が葛城山麓に集中しているので、これは大和の先住民の葛城王朝の系譜を大和朝廷が取りこんだもの
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だといわれている。同じく御真木入日子印恵命(崇神天皇)から大帯日子泌斯呂和気天皇(景行天皇)までの宮が三輪山山麓に集中しているので、これは三輪王朝を取りこんだものと一一一一口われている。また天皇の名から、先住民のイリ王朝、ワケ王朝というものがあって、大和朝廷がそういったものをすべて利用して大和朝廷の天皇系譜を造作したのだとも言われている。大和朝廷が天皇系譜について造作したことはまちがいないが、それは、大和朝廷の歴史を作成するにあたってその造作が政治的に必要だったからにちがいない。それとわかる形で、先住民の支配者をとりこんで先住民を精神的に納得させ、そうすることにより先住民を慰撫懐柔していく、七、八世紀の大和朝廷にとっては、それが政策の根本であり、それを記紀に反映する必要があったにちがいない。記紀の造作の意味は、七、八世紀の政策、対先住民対策という視点なしでは理解できないと思われる。
さてここで本題に戻って、記の「宮」に関する用法はもう一つある。それは天皇が本来の住居である「宮」を離れて旅に出た時に使われるものである。次のような記述がなされている。
かしひの一、天皇筑紫の訶志比宮に坐しまして。(この天皇は星皐行天皇で、九州遠征の時である)の一一、その山口に留まりて、すなはち假宮を造りて。(履中天皇)
おしはあびゐめい一二、この時市辺の忍歯王を相率て、淡海に幸行でまして、その野に到りませぱ、各異に假宮を作りて宿りまし。おばはつせの(この文の主毒叩は大長谷王l雄略天皇lである)
の四、大長谷王の假宮の傍に到り立たして。
おみ⑪らじみこかく五、臣連の王の宮に隠る一」と聞けど。はゆまづかいたてまつおばのよるこ}ハ、人民を集えて假宮を作り、その假宮に坐せまつり置きて、駅使を貢りき。ここにその摸飯豊王、聞き歓ばのつのさしのして、宮に上らしめたまひき。(ここの宮は飯輿皇王の角刺宮である。次参照)
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