Planctusと中世黙想詩における劇的効果
著者 坂本 完春
雑誌名 主流
号 40
ページ 1‑16
発行年 1979‑03‑25
権利 同志社大学英文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014925
P l a n c t u s と中世黙想詩における劇的効果
坂 本 完 春
1
イギリス中世の叙情詩は叙情詩と言っても,現代の感覚からすれば,叙 情詩とは言いがたい類のものである.なぜ、なら,現代では,叙情詩は心の 中の営みを自己に忠実に吐露するものであっても,信仰とは無関係である と錯覚する傾向があるためであろう. ところが,中世では,叙情詩と言え ども信仰を表白するものが多く,教会とは無関係に存在しえなかった.
中世人は自己よりも神あるいは霊に忠実であろうとした. したがって,中 世人は人間の罪を
q
買ったキリストやその母であるマリアを叙情詩の中に題 材として多く取りあげた.これは愛こそ神の思召しとする強い信何心に裏 打ちされていたことによる. 中世叙情詩のなかで黙想詩が数的に他のも の1を圧倒している事実が,この事情をよく物語っていると言えよう。さて,上述の中世人の信仰心が現場を想設することにより表白されるの が中世黙想詩である.中世黙想詩を一読すると,その劇的効果が際立って いるのに驚く.叙情詩が劇的である,という一見矛盾した命題に出会うが,
この稿では黙想詩に頻出する
ρ
lanctus,すなわち 'complaint'(哀訴〉をとりあげて,黙想詩に劇的効果が生みだされている相を明らかにしてみ 7こL
、 .
2
中世ρlanctusの起源は,旧約聖書の諸処,例えば,京歌:12,イザ ヤ書 v:4, ミカ書 vi: 3などに散見されるキリストの「哀訴」に始ま
2 Planctusと中世黙想詩における劇的効果
る, と指摘されている 14世紀の作品でグライムストンのジョンの説教 集に収録されている Yethat pasen by the weiye3 " という僅か8行
のplanctusは
Ye that pasen by the weiye, Abidet a little stounde. Beholdet, all my felawes, Yef any me lik is founde. To the Tre with nailes thre Wol fast 1 hange bounde;
可Nith a spere all thor・umy side To mine herte is mad a wounde.
とあるが, これは哀歌 12の
o
vos omnes qui transitis per viam, attendite et videte si est dolor sicut meus. "に基づいていて, 受難日の礼拝の日課の一部であった. このことは当時の詩が教会と密接に結び ついていたことを物語る証左である.
上の ρ,zanctusに描かれた場景には,無駄な描写がない.非常に簡潔に 描出されている。キリストが十字架にかけられ,傷を受けて死に至る諜刑 図である.キリストは道行く罪深い人間に自分の受けた傷を見るように哀 訴する.その言葉は日常語である.道行く人々からの応答は返ってこない.
しかし,これだけで十分に劇の一場になりうる.
ここで特に注目したいことは
r
哀訴する」という行為である.言うま でもなく,劇を構成する要素の中で,ダイアローグの重要性をどれほど強 調しても強調しすぎることはない.上述の planctusでは,残念ながら,夕、イアローグにはなっていない.キリストのモノローグにすぎない.この 事実は,それほど驚くにあたらない.中世の 1うlanctusでは,ダイアロー グの例は数的にはそれほど多くない.むしろ,モノローグの方が圧倒的に 多いと言ってよかろう.当面のところ,夕、イアローグとモノローグのどち
らが数的に多いかは論外である.要するに,ダイアローグであろうと,モ ノローグであろうと, ρlanctusにおいては, 語り手は勿論のこと,聴き 手が予想されるという点が劇的要素を作り出す条件の一部であることを指 摘しておきたい。
つづいて, ダイアローグとモノローグを論ずる前に,
ρ
lanctusについ てもう少し述べておく.中世の planctusでは,哀訴する人,すなわち,語り手は,モノローグである場合,聖母マリアかキリストのいずれかであ る.黙想者が哀訴する例はあまり見あたらない仁 そして, 哀訴する者が 単数である例が多いのに比べて,聴き手は複数であるのが極く普通である.
例えば,ユダヤ人であったり,イスラエル人で、あったり,母親たちであっ たり,罪深い人間たちであったりする.
つぎに,ダイアローグの場合,舞台に,いや,場面と言いなおしでおい て,そこに登場するのは, もの言わぬ群衆が登場することがあっても,ほ とんどの場合,聖母マリアとキリストの間のダイアローグとなっている.
As 1 lay upon a nightjI lokede upon a stronde5" の聖ヨゼ、フと黙 想者との聞のダイアローグのような例は極〈稀と言っていいであろう.と くに,聖母マリアと聖人との聞のダイアローグでも皆無に等しいのにもか かわらず,黙想者が舞台に登場するのは実に珍しい. もっとも,主題は,
通常,受難のキリストか,受難の息子6に対する母親の苦悩であるのに対 して, As 1 lay upon a night j 1 lokede upon a stronde"の主題は 処女懐胎であるため,黙想者の登場の必然性は説明されうるであろう.
つぎに,中世の planctusで描かれる場面はほぼ共通している.場面の 中心に十字架があり,受難のキリストがクローズアヅプされる.キリスト が十字架の上,人聞の群衆が十字架の下に配される.十字架の上と下との 対照がそのまま慈悲深いキリストと罪深い人間との対照をより際立たせ,
劇的効果を高めるのである.なかには, Ofall wemen that ever were borne7 " のように Pietaの場面が再現されたり, Men rent me on
4 Planctusと中世黙想、誇における劇的効果
Rode8 "のように十字架にかけられたキリストを馬上の騎士として登場さ せる例もある. さらに, In a tabernacle of a toure9" では聖母マリ アは幼な児のキリストを抱いて atabernacle of a toure"に立ってい る.その下に修道僧がひざまづいて祈っている場面である.このplanctus は chansond'仰 enture10風の枠組が与えられているが,祈る修道{曽とは もちろん黙想者のことである.
以上の例は,場面がどちらかと言えば,静的であるが,なかには動的な 例も見られる.例えば, Jesusdoth him bimenell "においては,十字 架の上にキリストを配し,その下に踊っている俗人たちを配するという場 面構成である.傷と血ばかりで,身にほとんどなにもまとっていない状態 のキリストと,派手で賛美をつくした衣服を着けて踊っている人間との対 照は,登場人物の科白以上に,貧困と高貴とを裕福と下賎とに対照させて 劇的効果を高めるのに役立っている。
さて,以上の例から劇を構成するのにもっとも基本的な問う者と答える 者とのかかわり方はどのように行なわれているのだろうかを考えてみる。
場面の中でダイアローグが成立している場合は比較的容易に劇的効果を 感じとることができる. 例えば, Stond we l1, moder, under Rode12"
を取りあげてみよう.この詩は官頭の3行 'Stond well, moder, under Rode. Behold thy sone with glade mode‑
Blithe moder might thou be. '
がヨハネ書 19:26‑7を脚色したものだ,という指摘13を知らなくても,
受難のキリストが十字架の上から,下にたたずんで泣き悲しむ聖母マリア ヘ語る言葉であることは理解できる.また,黙想する者に哀れみを催させ ないではおかないものであることもあわせて理解できる.想設される現場 においての劇的状況は十字架が垂直に此立していて,上にキリスト,下に 聖母マリアを配するところから生まれる.死に瀕している息子がこの世に
遣される母親を勇気づける.上と下,死と生,息子と母親との対照の絶妙 さは,死に瀕している者が生き遺る者を支配するという暗示によって一層 強められている.さらに,用語について言えば,抽象的な言葉は一切避け られ,日常の話し言葉で展開される.また,古代ギリシア劇のように風景 の描写はない.十字架,キリスト,泣いて哀訴する聖母マリアだけ.キリ ストの手と足が十字架に釘づけられ,心臓に槍が突きささっていて,血が 流れている.それでいながら,キリストの相貌も聖母マリアの相貌もその 細部は描かれず,黙想者の想像力を刺激することに期待がかけられている.
一切の無駄な描写は抑えられている.その上,抽象的な神としてのキリス トでなく,人間の身体をつけた人の息子としてのキリストが,人間の罪を 蹟うために受難しながら,母親のマリアと語るのも劇的効果をつくる必然
の要請であろう.
このキリストと聖母マリアの哀訴は,詩形の上でも工夫が凝らされてい る.すなわち 6行1連で, 11連続けられるが,冒頭からの9連では 1 連の前半3行がキリストの京訴で,後半3行が聖母マリアの哀訴となって いる.したがって,この場面で劇に必要な条件の一つであるダイアローグ が与えられていると言ってよいだろう. ところが, 11連のうち,最後の2 連はキリストの哀訴でなく,聖母マリアの哀訴でもない.劇のト書きとも,
観客の言葉ともとれる.実のところ,エピローグの体裁と考えるべきなの であろう.このエピローグの冒頭の描写にも対照の方法が用いられていて,
When he ros tho fell hire sorewe に始まって2連続く.
ところで,エピローグとは,普通,役者が作者に代って観客に語る言葉 を指す.ところが,この黙想詩では,エピローグを語る者が,キリストと 聖母マリアとのダイアローグに登場していない.エピローグを語るために 作者自身が登場しているのであろうか.この詩の作者は中世時代のことだ から不詳である.いや,無名氏と言うべきであろう.この無名氏はここで は黙想者であって,舞台に登場していなかったような印象を受ける. とこ
6 Pl仰 ctusと中世黙想詩における劇的効果
ろカ2
1 se thine fet, 1 se thine honde, Nailed to the harde Tre. (11. 5‑6) とか,
1 se the blody stremes erne
From thine herte to my fet. (11. 17‑8) とか,
Sone, 1 se thy body beswungen,
Fet and honden thourhout stongen一 (11.22‑3)
のように,キリストの礎刑像は,キリスト自らが自らの言葉によって語ら れているのでなく,聖母マリアの言葉を通して現場が想設されている.ま た,聖母マリアについてはキリストの言葉を用いて想設されている.した がって,黙想者はキリストと聖母マリアを交互に観ている.キリストが聖 母マリアに哀訴する姿の中に黙想者は自分の罪と悔いの姿を重ねる.その 一方で,聖母マリアがキリストの受難を哀訴する姿の中に黙想者の姿が重 ねられている. ところが,どちらかと言えば,黙想者の視点は聖母マリア の視点、に一致している.聖母マリアはキリストと黙想者の間に入る.聖母 マリアの目はキリストに向けられ,黙想者の目は聖母マリアに向けられて いると考えられる. というのは,最終連における
Blessed be thou, ful1 of blisse, Let us never Hevene misse,
Thourh thy swete sones might. (11. 61‑3)
という黙想者の言葉は,キリストの受難を黙想すると同時に,聖母マリア にキリストへのとりなしを哀訴しているのである.とすれば,舞台上には,
キリストと聖母マリアだけが登場していて,黙想者が登場していなくても,
キリストと聖母マリアに黙想者の姿を重ね合わせていけば,黙想、者は舞台 に影法師のように登場していると言える.その理由の一部として考えられ
ることは,聖書の受難の記述には聖母マリアが登場しえても,黙想、者は登 場しえないことである.黙想者が参加しうるのは,聖母マリアを通しての み可能である.
さらに,この黙想詩が作られた当時,脚韻にどれほど重要な意味を与え ていたかは計り知れない.しかし,黙想者とキリストと聖母マリアの重な りが脚韻で説明できはしないだろうかe 受難節の liturgyの名残りをと どめると言われるように,詩形の上でも問答形式が取り入れられているこ とはすでに指摘した.詩形における技巧と同じく脚韻にも意識的な技巧が 読みとれる.キリストの言葉と聖母マリアの言葉が aab,ccbと対照さぜ られている.ところが,このダイアローグは最初の9連だけで,最後の2 連はエピローグと考えられるから,最後の2連の脚韻を aabccbとは続け がたいにもかかわらず,詩全体にわたってこの脚韻が守られている.エピ ローグの2連が前出の諸連と分離していないことを明確に物語っている.
視点を変えれば,エピローグの語り手である黙想者は,脚韻上では,舞台 に登場していたと考えるべきである.控え目に主張するとしても,エピロ ーグの語り役として黙想者が登場していることを否定することはできまい.
また,この ρlanctusが Amen"という祈轄の終りを示す語で終ってい ることは,ダイアローグが終る第9連で黙想詩が終っているのでなし第 11連で終わっていて,この黙想そのものが祈りでしめくくられていること
を物語っている.
以上, この planctusの構造が非常に劇的であることが理解できる.
したがって,かりに中世黙想詩の構造に劇的要素があるとしても,中世で は ρlanctusの構造の劇的要素が黙想の構造14の劇的要素を凌いでしまっ ていると言えよう.
つぎに,ダイアローグを数的にはるかに凌ぐモノロ}グの例を取りあげ てみる. Whyhave ye no reuthe on my child15? " で は
Why have ye no reuthe on my child?
8 Planctusと中世黙想詩における劇的効果
Have reuthe on me, full of murning.
Taket down on Rode my derworthy child, Or prek me on Rode with my derling. More pine ne may me ben don
Than laten me liven in sorwe and shame. Als love me bindet to my sone,
50 lat us deiyen bothen isame.
と,聖母マリアは十字架のそばに立っている.息子であるキリストの受難 の苦しみを見て母親の苦しみを語る.また,キリストとー諸に死なせてく れるようにユダヤ人たちに哀訴する.この聖母の悲痛な哀訴は,聖母自身 が意識を失うほど激しく,その上,死別するより死を望むところなど,劇 的に場面が展開される.聖母マリアの京訴はユダヤ人たちに向けられてい る.ユダヤ人たちはそれに言葉で答えない.マリアのモノローグなのであ る. とは言え,これが単なるそノローグに終っていない.ユダヤ人たちは 黙して語らずとも,母親の悲痛な哀訴を十分に感じ取っているはずである.
そして,ユダヤ人たちが黙して語らない姿は,とりもなおさず黙想者が黙 ってこの場景を想像の目で見ているのと同質である.キリストを十字架に 送った罪はユダヤ人たちに帰されている.ユダ、ヤ人たちは罪深い人聞を代 表している.したがって,黙想者もユダ、ヤ人たちの中のひとりに入れるこ とができる.すなわち,ユダヤ人たちが無言で反応していたとしたならば,
黙想者も無言で反応していることになる.それは,このモノローグがドラ マティック・モノローグであるから可能となる.聖母マリアの哀訴は黙想 者への哀訴でも;bる.それゆえに,黙想者はキリストへの哀れみをかきた てられ,悔いを痛切に感じさせられるのである.
さらに, Of al1 wemen that ever were borne"でも, 世の母親た ちに対する聖母マリアのそノロ}グが聞かれ.t,. それは Pietaの場面で
ある.
Thou pikest his heere
,
beholdest his ble,
に対して
1 prike out thornes by oon and oon, とし,また,
に対して
• . . when that ye play
,
And have youre childer on kne daunsand, Ye fele ther fete
,
so fete ar thay,
But the most五ngerof mine hand Thorow my sonis fete 1 may put here, And pulle it out sore bledand, • • .
と対照の効果を用いて劇的に高めていく.もちろん,この場面でも世の母 親たちの言葉は聞かれない.だからと言って,聖母マリアのモノローグは 空ろに消えていくのではない.世の母親の哀れみをかきたて,さらには黙 想者の哀れみをひき出す性質のものであって, ドラマティ γク・モノロー グと言えるものである. しかし,黙想者は Piet五の歴史的な状況の中に 登場していることを想像しているのでない.Woolfが指摘16するように礼 拝堂で Pietaの彫像を見ながらその現場を想設しているのである. Pieta 像からのそノローグは現代では奇異に映っても,当時では極く普通のこと で,黙想者は彫像とか,図像とかを用いて黙想することはよくあったらし い.視覚に訴えるものから黙想の現場を想設していくのであった.
また,語り口から言って輿味のある planctusは Jesus doth him bimene17 "であろう. 受難のキリストが十字架の上から, 踊り狂う俗人
に向かつてその虚栄心を語る.冒頭から日常の話し言葉で,キリストは自 分のまとっているものと酒落者の服装とを
Jesus doth him bimene,
10 Planctusと中世黙想、詩における劇的効果 And speketh to sinful mon:
Thy garland is of grene, Of floures many on;
11ine of sharpe thornes‑‑
11ine hewe i t maketh won.
Thine hondes streite gloved, White and cIene kept;
11ine with nai1es thorled
,
On Rode, and eke my feet.
'Across thou berest thine armes, Whan thou dauncest narewe.
To me hastou non awe, But to worldes glorye. 11ine for thee on Rode With the Jewes wode With grete ropes todraw.
Opene thou hast thy side, Spayers longe and wide
,
For veinglorye and pride, And thy longe knif astrout‑
Thou ert of the gay route: 11ine with spere sharpe Istongen to the herte;
11y body with scourges smerte Beswongen all aboute. (11.1‑26)
と対照させているが,諜刑図に出てくる side"という伝統的なイメー ジが,当時流行していた Spayerslonge and wide "というスリットに なぞらえられているところは,この黙想詩が15世紀頃の{乍であるとしても,
17世紀の形而上詩の驚きを想起させるものがある18 そして,幣衣をまと っているに等しいキリストが人聞の罪を購って気高く,着飾っている酒落 者が救い主を十字架に送る罪を犯して賎しし流行の服装が虚栄の極みで あることを認識しないところにドラマテイゲグ・アイ戸ニーがあると言っ てよいだろう.その上,そのアイロニーが人間に向けられているのは当然 のことである.
さて,このキリストのモノローグに反応しているのはp キリストが語り かけている人間ではなくて,黙想者であることに注目したい. というのは,
中世黙想詩では読者が黙想者になることを想起しなければならなし、からで ある.すると,訴えかけられる人間とは読者であり,さらに,黙想者であ ることは論理的帰結である.このモノローグに想設された現場には黙想者 は登場していない.そして,キリストの planctusであるゆえに,キリス トが語りかけているように考えられる.しかし キリストが語っているの ではない.黙想者が
Jesus doth hirn birnene,
And speketh to sInful mon: (11. 1 ‑2)
という枠組を与えた後に犯行に及ぶキリストの planctusが始まる.した がって,キリストのそノローグを黙想者が黙想の中でロうっしに語ってい ると考えることができょう. ところが,語っていると言えば,この黙想詩 は説話風になってしまうが,黙想詩の構造は, Woolfも指摘するように全 く説話風になることはない19 ましてや, この黙想詩のように planctus の構造が用いられているときには,説話風になることはないと主張できる.
ζの黙想詩でもキロストと罪深い人間との係わりは,キリストと読者,す なわち,黙想者との係わりであ{,.その係わりをキリストのモノローグと
12 Planctusと中世署長想詩における劇的効果
いう plαnctusの構造に凝縮されているのである.その planctusを黙想 詩の語り手である黙想、者が想、設しているところに劇的効果を感じとること ができる.つまり,キリストの哀訴は黙想者の哀訴に等しい.同時に,訴 えかけられる罪深い人聞の中にも黙想者は自分の姿を見ている.ここでも
ドラマティ yク・モノローグが効果をあげている.
3
planctusにかかわるもっとも本質的な点は「京訴」というところにあ る.このことから導きだされることは,第一に,哀訴のためには,当然の ことながら,語りかける行為が必要である.第二に,語りかけるためには,
抽象的な内容であろうと,日常の平易な言葉で語られねばならない.第三 に,なんらかの形で聴き手の存在を予測するのは必然である.第四に,状 況を具体的に説かねばならない.時には,視覚に訴えることも必要であろ
フ.
中世の planctusは以上の諸条件を全て満たしていることは指摘じてき た通りである. そして, これらの諸条件こそが, 対照の方法と合わぜて planctusの劇的要素を構成するものであった.
一方,中世の黙想詩も,第一に,日常の平易な言葉を用いること,第二 に,視覚的に訴えること,この二点で中世 planctusと共通点をもってい る.さらに,中世黙想詩は,なにをおいても,現場を想設することを特徴 としている.黙想する状況を想像力によって心の日に作りだすのである.
しかし planctusの特徴である第二点と第四点を利用して, 視覚的に現 場想設しても,かならずしも劇的効果を作りだすことにはならないことに 注目する必要がある.例えば, Ofall wemen that ever 司¥rereborne"
のように礼拝堂の Pieta像を心の目で見ていようと, Wofullyaraide"
のように黙想詩が書かれている紙面の上部にある a smal1 drawing of Christ crucified, with blood issuing from his wounds20 "を見ていよ
うと, それだけで劇的効果を高めることにはならない. これらの例では
「受難」のキリストが劇的効果を作ることに作用していることには異論が ないだろう.それゆえに, Woolfが A few lyrics are dramatic : . . .21 "
と指摘しているのは正しい.なぜなら,黙想詩では現場想設をしなければ ならないのであるから,現場想設が劇的効果を作りだすというのならば,
黙想詩はすべて劇的効果を生みだすものでなければならないことになるか らである. ところが, Woolfの指摘によれば,黙想詩の中でも劇的なも のは若干数である.つまり,この言葉は,現場想設が劇的効果を生みだす
ものでないことの間接的証言となる.
言葉を換えれば,黙想詩の特徴である「現場想設」が劇的効果を作るの に決定的な役割を果しているのではない.ちなみに,中世黙想詩の延長親 上にある17世紀黙想詩を考えてみよう.17世紀黙想詩の構造は,聖イグナ チオの「霊操」の構造に基づいている.中世黙想詩のように視覚だけに依 存するのでなく,五官すべてを用いて霊魂の三能力,すなわち,記憶,悟 性,意志による霊操の構造を黙想詩にもちこんでいる.例えば,罪を痛悔 して,その罪を償うために,キリストが受けたように唾を吐きかけられて 恥かしめられ,横腹に槍を突きさしてくれるように,とユダヤ人たちに哀 訴するダンの Spitin my face you Jews, and pierce my side"とい うHolySonnet XIでは, 最初の4行で記
f
意が, 次の4行では悟性が,最後の6行では神への愛へと動く意志の力が発揮される「霊操」の構造が 用いられている.この「霊操」の構造が黙想詩の構造になっているところ が中世黙想詩と異なる点である.
しかし,この17世紀黙想詩でも「霊操」の構造が劇的効果を作りだして いるのではない.また
r
霊操」による現場想設が劇的効果を生みだすと いうことにもならない.想設される現場の内容が問題であろう.上述のダ ンの HolySonnetでは,黙想の現場に登場する人物は,罪深い自分を悔 い,神の愛におもむこうとする詩人自身である.そして,詩人自身が黙想14 Pl仰 ctusと中世黙想詩における劇的効果
者で,その上, 語り手でもある. Woolf は Theseventeenth司century author, far from effacing himself, is, as it were, conscious of being watched: . . .22 " と言って, ダンが観客の存在を期待して, 黙想者を演
じている,と主張する. もちろん,これがこの詩の劇的効果を作りだして いるという主張にもなろう.一方,中世黙想詩では,黙想詩の作者は確認 されないままで,無名氏によるものであるために,黙想詩を読む者が黙想 者であって,この黙想者は観客を予想していない.むしろ,黙想者を演ず るのでなく,想設された現場の中でキリストや聖母マリアを劇的に代理体 験していると言えないだろうか.
以上論じてきたように,黙想詩における現場想設や, 17世紀の「霊操」
の構造が劇的効果を生みだすものでないとするならば,中世の黙想詩で劇 的効果を発見できるのは,対照の効果を強調することもさることながら,
planctusの構造が活用されていることによる. したがって Woolfが A few lyrics are dramatic: Christ and Mary speak to one another, or the Body argues with the Soul. But more often they are, as it were, one‑haH of a dialogue, in which the meditator addresses Christ or Christ addresses the meditator.23" と言うように,ダイアローグの 存在がドラマを作るとし,ダイアローグでなくても, one包halfof a dia‑ logue" でもドラマを作りだすのである. ところで, one‑half of a dialogue"と言っているのはモノローグを指すのだが,それが単なるモノ
ローグでなく, ドラマティック・モノローグであるがゆえに one司halfof a dialogue"という微妙な表現となる.なぜなら,モノローグと言っても,
聴き手が予測されているからである.したがって,ぺ.. Christ addresses the meditator. "とはキリストが黙想者を聴き手として予測しているわけ である.
さて,中世黙想詩の劇的効果は planctusの構造に負うところ大である
ζとが明らかになった. しかし,それは planctusだけに限定できない.
本稿で論じなかった chanson d' aventureのダイアローグとか, debate なども劇的効果を作るのに役立つ,と推論できる.それ以上に重要なこと は,黙想する詩人が観客を予測するところにドラマを求める Woolf説 を 完全に否定することはできないが, ユダヤ人に訴えかけるダンの Holy Sonnet XIに見られるように「死J,
r
罪J,r
受難」などを主題とする17 世紀の黙想詩であろうと,主に「受難」を主題とする中世黙想詩であろうと,黙想詩では
ρ
lanctusの構造が活用されているところに劇的効果を発 見できると言えることである.時代を間わず,黙想詩における劇的効果を 生みだすのは plαnctusの構造がその一因である.注
1 世俗詩を指す.
2 Cf. Rosemary
、
Voolf,The English Religious Lyric in the Middle Ages (Oxford; At the Clarendon Press, 1968), p. 36.3 R. T. Davies (edふ 1YledievalEnglish Lyrics: A Critical Anthology (Lon酬 don; Northwestern University Press, 1964), p. 125.以後, とくに指摘しな いかぎり詩の引用はこの版による.しかし,筆者が利用した詩集には次の4冊が 含まれる.J. Burro¥V (ed.) , English Verse 1300"‑'1500 (London and New York: Longman, 1977); D. Gray (edふA Selection 0/ Religious Lyrics (Ox・
ford University Press, 1975); R. L. Greene (edふTheEarly English Ca‑ rols (Oxford: Oxford University Press, 1935); M. S. Luria and R. L. Hoffman (edsふ Middle English Lyrics (New Y ork: W. W. Norton and Company, Inc., 1974).
4黙想、者が登場人物に仮託して哀訴していると考えることができる例はある.
5 M. S. Luria and R. L. Ho釘Oman(edsふMiddleEnglish Lyrics, op. cit., p. 140. 6 中世黙想詩では抽象的な神は登場しないで,人間となったキリストが登場する
のが普通である.これは劇の登場人物としては当然の配慮であろう.初期キリス ト教会は抽象的な神性の栄光に関心を示していて,キリストの人間的かつ神的な 性質を同等に強調しaていた.キワストの人間的な体験に注目したのはシトー会に 女合まる.
7 R. T. Davies (ed.), op. cit., p. 210. 8 Ibid., p. 116.
9 Ibid., pp. 148‑51.
16 Planctusと中世黙想詩における劇的効果
10説話風である. しかし, ダイアローグも利用されることがある. 女性にめぐ り合って語り合ったり, 恋を語ったりする. また, 誰かの, 主として女性の,
ρlanctusを立開きして報告するものもある.
11 R. T. Davies (edふop.cit., pp. 152‑3. 12 Ibid., pp. 86‑8.
13 A dramatic adaption of John 19: 26‑7. " Cf. D. Gray (ed.), A Selection 0/ Religious Lyrics, op. cit, p. 111.
14 Rosemary WooIfは The English Religious Lyric in the Middle Ages (op. cit., p. 4の〉において
consisting of the relationship between two people巴 と 言 つ てLい、るが3 これ だけではドラマを構成するのに卜分ではない.
15 R.T. Davies (edふop.cit., p. 119.
16 Cf. R. Woo ,f!op. cit., p. 257. . • . the meditator is not to imagine him岨 seIf in the historical scene, but in a chapel where there is a Pi巴tastatue. "
17 R. T. Davies (edふop.cit., pp. 152‑3.
18 Rosemary Woolfは TheEnglish Religious Lyric in the Middle Ages (op. cit., p. 53)において,
ι. • • the elements of shock and surprise do not, as in seventeenth.cen‑ tury poetry, derive from the invention of a startling and hitherto un‑
thought‑of term of comparison, but from the choosing of some ancient and weU‑established similitude, and then pressing every possible detail of it into the comparison. と述べて horse=body,spurs=fear and loveのよう なコンシートに見られる驚きは17世紀のコンシートの驚きと同質ではないことの 証拠にしているが, spayers と side"のコンシートに見られる驚きは,
Woolf説を反駁する根拠たりうる.
19 . . • the lyrics are never purely narrative; though in the later lyrics there is often a sequ巴nceof action, there is always a single and static situation, consisting of the relationship between two people." (R. Woo ,fI oρ. cit., p. 4.)と言っている. static"である限り,たとえその状況が二人の 人物の間の係わりを物語るものであってもドラマにはなりえない.しかし,
にρlanctusの構造が用いられているとドラマが生まれる.
20 Cf. D. Gray (ed.), A Selection 0/ Religious Lyrics, op. cit., p. 113. 21 R. Woolf, The English Religious Lyric 初 theMiddle Ages,
。
ρ.cit., p. 4. 21 Ibid., p. 7.23 Ibid., p. 4.