冀察政務委員会の設置と日本の対華北政策の展開
内 田 尚 孝
はじめに
1934年後半期から水面下で動き始め、1935年5月に可視化した日本軍によ る華北分離工作は、国民政府と現地日本軍(支那駐屯軍・関東軍)・陸軍中央・
外務省、現地中国軍(第29軍(軍長宋哲元))、これら三者間の複雑な駆け引 きを経て、冀察政務委員会の発足をみることで一段落した。しかし、その後 も現地日本軍は、依然華北分離を志向しつつ軍事力を背景に同委員会をター ゲットにした「親日化」工作を展開していった。この冀察政務委員会が日中 全面戦争の発端となった盧溝橋事件の中国側現地当事者となる。
こうした経緯もあって、冀察政務委員会をめぐっては、とくに支那駐屯軍 の増強問題や豊台事件をはじめとする日中両軍の摩擦問題、第29軍と中国共 産党、抗日民族統一戦線との関係など軍事的側面からの研究が先行して進め られてきた(1)。しかし、全面戦争の当事者ということを考えると、軍事 面のみならず政治、経済、外交など諸側面から冀察政務委員会の実態や同委 員会と日本との関係などについての解明を進めていかなければならないだろ う(2)。これらは、とりわけ冀察政務委員会の性格や近代日中関係史上の 位置づけを考えるうえで必要不可欠の作業であるといえる。
本稿では、冀察政務委員会成立前後の時期の政治、外交面に焦点を当てて 考察したい。具体的には、冀察政務委員会発足前後に展開された日中間交渉 のうち、冀察政務委員会の設置法令に当たる「冀察政務委員会暫行組織大綱」
の策定過程と国民政府が華北の現地責任者に付与する権限をめぐる交渉につ いて検討し、国民政府が日本側に譲歩しつつも、かなりの主導性を維持しな がら冀察政務委員会を発足させるに至ったプロセスを明らかにする。とくに
『言語文化』15-1:73−96ページ 2012.
同志社大学言語文化学会 ©内田尚孝
後者は、その後も一貫して現地日中間交渉の焦点であり続けた点で重要なイ シューである。さらに、発足当初の冀察政務委員会の委員構成を確認したう えで、同委員会に日本の現地主要アクターであった支那駐屯軍がどのように コミットしようとしていたのか、従来ほとんど触れられることのなかった日 本人顧問による内面指導体制の構築過程について明らかにする。そして最後 に、発足当初と盧溝橋事件勃発前夜の委員構成の比較を通して、1年半余の 間に冀察政務委員会内で如何なる事態が進行していたのか、それを日本軍側 はどのように評価していたのか確認し、日中全面戦争勃発に至る背景の一つ を探ってみることにしたい。
1.冀察政務委員会暫行組織大綱の策定過程
1935年12月5日に冀察政務委員会設置による事態収拾方針を固めた何応欽
(軍政部長)は、「(一)冀察政務委員会を設置する、(二)委員および組織は 中央が決定し、人選は適宜北方の環境を標準とし、明軒(宋哲元)を委員長 に任命する、(三)一切の軍事、外交、政治、経済は正常な状態を維持する、
(四)自治の名目や独立状態を絶対に避ける(日本人が圧迫してきた場合には、
中央と地方が一致行動する)」(3)という4項目の「処理原則」に則って、
宋哲元、蕭振瀛(察哈爾省政府主席)、秦徳純(北平市長)らと協議を重ね、
12月7日、「冀察政務委員会暫行組織大綱」(以下「暫行組織大綱」)原案を 起草し、蔣介石に報告した。全文は次の通りである(4)。
第1条 国民政府は、河北省、察哈爾省、北平市、天津市の政務を処理す る便宜上、冀察政務委員会を特設し、当該各省市の一切の政務を 綜理させる。
第2条 本会は、委員19名から27名を設け、そのうち1名を指定して委員 長とし、3名から5名を指定して常務委員とする。その人選は、
国民政府がこれを特派する。
第3条 委員長は本会の会務を総覧する。
第4条 常務委員は委員長を補佐し、本会の会務を処理する。
第5条 本会の会議規則は別にこれを定める。
第6条 本会は、左記の三処を暫設する。
一、秘書処 二、政務処 三、財務処
第7条 本会は、秘書長1名を設け、秘書処の事務を掌理する。政務処長 1名を設け、政務処の事務を掌理する。財務処長1名を設け、財 務処の事務を掌理する。必要の時は各処に副処長1名を設けるこ とができる。その組織および事務細則は別にこれを定める。
第8条 本会は、顧問、参議、諮議、専員を若干名設けることができる。
第9条 本会は、中央の法令に抵触しない範囲内で単行法規を立案し、国 民政府に備案の上申請することができる。
第10条 本会の場所は北平に設ける。
第11条 本暫行組織大綱は必要の時、随時これを修正することができる。
第12条 本暫行組織大綱は公布の日より施行する。
本原案のうちとくに第8条と第9条が問題となった。いずれも「処理原則」
の(三)、(四)に関わる規定である。
翌8日に蕭振瀛、秦徳純は、何応欽に対し、第8条前段に「本会は必要の時、
各項の特種委員会を設置することができる。その人選は本会よりこれを招聘 する」(5)という文言を追加するよう求めた。後に日本側は、この特種委 員会に多数の日本人顧問を配して冀察政務委員会に対する内面指導を実施し ていったことから、この追加修正要求の背後に日本側の強い意向が働いてい たことは間違いないだろう。
当然、国民政府側はこれに箍をはめようとした。まず、蔣介石は、「暫行 組織大綱」条文に各特種委員会の名称を具体的に列挙するよう求めたが(6)、
蕭振瀛と秦徳純は「経済、建設、外交等の事項を指し、決して防共、自治の 類には及ばない」(7)、つまり軍事や行政そのもののあり方に変更を迫るも のは含まないことを理由にこれを退けようとした。他方、南京と北平のやり 取りをみていた蔣の側近楊永泰(軍事委員会委員長四川行営秘書長)は、何 応欽に対して、蔣介石が求める「列挙」に固執することなく、「必要な時は、
国民政府、行政院に申請し、許可を得て、各項特種委員会を設置することが できる」(8)という妥協案を提案した。楊の狙いは、国民政府・行政院へ
の申請、許可を明記することで、特種委員会の種類を限定することなく、し かも中央の制御を効かせることにあった。何応欽は、ただちにこれを秦徳純 に示したが、秦は「宋哲元が頤和園から戻って来ておらず、あれこれ協議す るのは都合がよくない」(9)と述べ、事実上拒否した。
1936年1月17日に正式公布された「暫行組織大綱」では、「本会は、必要 の時、各項の特種委員会を設置し、各項の問題を研討することができる。そ の人選は本会よりこれを招聘任命する。本会は、顧問、参議、諮議、専員を 若干名設けることができる」(10)という表現がとられた。楊永泰の提案は 採用されることなく、基本的には1935年12月8日の蕭振瀛らの意見が通った といえよう。ただ、「各項の問題を研討することができる」という新たな文 言が加えられている点に注目しておきたい。ここに、国民政府側が「処理原 則」を十分踏まえた規定となるようぎりぎりの推敲を重ねた跡がうかがわれ る。「研討」とは、あくまでも「研究、検討」という意味であり、審議・決 定権のある組織ではないことを明示したのである。
次の第9条については、規定内に「行政院」の3文字を加えるか否かが問 題となった。そもそも国民政府は、何応欽を長官とする行政院駐北平弁事長 官公署設置によって、行政院系統からの華北事態の収拾を目指していた。し かも、国民政府の華北における主権維持という点から、8月29日に廃止され た行政院駐北平政務整理委員会(政整会)の枠組みを継承する組織であるこ とを内外に示す必要性もあった。ゆえに、新組織も行政院の下部機構という 位置づけでなければならないという議論が出てくるのは当然であった。
蔣介石は、「行政院駐北平弁事長官公署が設置できないなら、冀察政務委 員会の上に行政院の字句を加えることが、とくに必要である」(11)と、何 応欽に強く求めた。また、孔祥熙(財政部長)は、蔣介石に対して次のよう に意見具申していた。「名称について、行政院の3文字を上に加えて系統を 明示すべきである。欧米の世論は、すこぶる誤解が多く、中央は自ら主権を 放棄するべきではないと言ったり、当会は東亜協会の変相であると言ったり している。各国は軍政、財政、外交の三権のいずれも中央が主宰しており、
将来当会の職権を規定する際、慎重を期し、(下部機構が)制御し得なくなり、
漸次独立の趨勢に向かうことを防止しなければならない(12)。」さらに、当
初は何応欽も、「こうすることでその範囲をかなり縮小できる」(13)と、「行 政院」の3文字を加えることに賛意を示していた。
ところがその後、北平で第29軍幹部と協議を重ねていた何応欽らは考えを 大きく改める。「行政事項が行政院の処理を受けるべきことは当然のことで あり、機関の名称に行政院の字句を冠する必要はない。例えば中央各部およ び各省政府はいずれも行政院の字句を冠していない。冀察政務委員会の名称 はすでに決定を経て、宋側から某方に通知されており、もし行政院の字句を 加えた場合、中央は別に何か考えがあると日本側は捉え、また面倒なことが 起こることであろう。ゆえに職らは、原義に照らして、この3文字を加えな いのが妥当であると考えている(14)。」
何応欽らは「行政院」の3文字を加えることによって、日本側が他意あり と見なし、最終段階に入りつつあった華北事態の収拾が、また振り出しにも どってしまうことを強く懸念していたのである。結局、「行政院」の3文字 は追加されることなく「暫行組織大綱」の公布に至ったが、これとは別の第 11条「随時これを修正することができる」という箇所は、蔣介石の指示通り、
「国民政府」の4文字が新たに加筆され、「国民政府に申請の上、これを修正 できる」という表現に改められた。
その他、第2条に規定する委員定数について、12月11日に17名から成る委 員名簿が固まったことを受け、楊永泰は、「27名」の削除を提案したが(15)、
何応欽は、「当地の情勢は特殊で、委員の人数については、いくらか柔軟性 を持たせるべき」(16)ことを提言し、最終的に「17名から20名」への修正 で妥結した。必要最小限の柔軟性に止めることで、日本側が自らの意向に副 う委員の補充を通して委員会を変質させてしまうことを、未然に防止しよう としていたことがうかがわれる。
なお、冀察政務委員会発足当初、第2条の「3名から5名を指定して常務 委員とする」という規定にもとづき、劉哲、王揖唐、秦徳純が常務委員に就 き、常務委員制による委員会運営が行われた。しかし、1936年2月28日に開 催された冀察政務委員会第6次例会において、同文言を削除する件が可決さ れ、全委員が委員長の指導を受け、共同で責任を負う委員長制に改められた
(『中央日報』、2月29日)。これを受け第4条は削除されることとなった(17)。
2.6項目権限をめぐる日中の攻防
時間は前後するが、1935年11月30日に南京で唐有壬(外交部常務次長)と 会談した須磨弥吉郎(南京総領事)は、同日南京を離れる何応欽には、以下 のような6項目にわたる権限が付与されていることを唐から聞き出し、外務 省に報告した(18)。
(一) 剿共事業ハ漸次進捗シタルモ共匪ハ甘粛方面ニ逃竄シ軈テ内蒙方面 ニモ及フヘキ危険無シトセサルニ付北支ニ於ケル赤化防衛ハ共同ニ 之ヲ行フコト
(二) 新幣制ハ北支ニ不適当ナル点モアルニ付之ニハ適宜ノ修正ヲ加フル コト
(三)関内外ニ於ケル人民間ノ経済関係ヲ円満ナラシムルコト
(四) 特殊事態ニ適応セシムル為北支財政ニ対シ相当ナル支配権ヲ行フノ 権限ヲ与フルコト
(五)対外諸懸案ニ対シ合理的ナル現地解決ヲ為スヘキコト (六)右ニ基キテ人材ヲ登用シ理想的政治ヲ行フコト
報告を受けた外務省は、12月3日に陸海軍側と打ち合わせ、「未タ不徹底 ノ誹ヲ免レ」ないが、「蔣介石従来ノ態度ニ対比スレハ不満足乍ラモ一段ノ 進歩タルコトハ之ヲ認メ得ヘク我方ニ於テハ之ヲ利用シ南京側カ益々我方ノ 目的ニ添ヒ来ル様」今後も工作することが肝要であるとしつつ、「差当リ最 モ問題トナルハ同電前文及(六)」であると指摘した(19)。前文とは、須磨 が上記6項目権限を列挙する前段に付した部分を指しており、そこには「日 本側各方面ノ趣旨ヲ容レ先ツ河北省ニ対シ実質上自治ト異ラサル施政ヲ実現 スヘク結局大体西南ニ於ケル政治分会様ノモノヲ設クルコトトナル又之ヲ他 ノ地域ニ及ホスヘキヤ否ヤハ実情ヲ見タル上ノコトトスヘシ」(20)という、
唐有壬の発言が付されていた。
これに対して東京サイドは、国民政府は「実質上自治ト異ラサル施政ヲ実 現ストカ政治分会様ノモノヲ設クトカ北支ニ於ケル人物本位ノ政治ヲ実現ス
トカ云ヒ」ながら、「其ノ実矢張リ従来ノ政整会ノ如キモノヲ作ラムトスル 策略ニ出テ居ル」と分析し、このような「機構ヲ設クルコトハ……北支ノ現 状ニ適応セス却テ事態ノ紛糾ヲ増ス虞アル」ため、「北支ノ実権者ニ或程度 委スコト可然」という態度でこれに臨むよう、また、(一)、(三)、(五)に ついては「北支実権者ヲシテ実施セシメ」、(二)、(四)についても「該実権 者ニ対シ実行スル……コトトナル様誘導スル」(21)よう、有吉明(駐中国 大使)に訓電した。また、同日、古荘幹郎(陸軍次官)も、「北支ニ関スル 申出条項……ヲ捉ヘテ之ニ同意ヲ表シ現北支実力者ヲシテ右条項内容ヲ実行 セシメ南京側ヲシテ之ヲ承認セシムル」(22)よう、出先軍に指示した。こ うして、何応欽に付与されたとする6項目権限を日本軍の意中の現地有力者 にも認めさせるのか否かが、日中交渉の焦点となっていった。
12月6日午後、須磨は、求めに応じて唐有壬を往訪し、「宋ニハ対策六項 ニ依ル施政権限ヲ与フル訳ナルヘシ」と念を押したが、唐は「右対策ハ何応 欽宛ニ与ヘタルモノナレハ今直ニ之ヲ宋ニハ移シ難」い旨返答(23)、翌7日、
今度は来訪した唐に対して有吉が、「何ニ与ヘントセル六項ノ権限ヲ宋哲元 ニ与フルコトニ決定シタル次第」なのかと質したのに対して、唐は「其ノ点 ハ未タ決定シ居ラス」と回答、これを聞いた有吉は、外務省からの訓令を踏 まえ、「六項ニ対シテモ其ノ儘満足ヲ表シ得サル点アルモ兎ニ角何ニ対シ予 定セルト同様右六項ノ権限ヲ宋ニ与ヘタル上何ノ引揚ヲ実施スル」(24)よ う強く求めた。
6項目権限をめぐって日本側が圧力をかけ始めてきたことを受け、何応欽 は、「明軒の今後の権限如何に至っては、日本側は必ず追求してくるであろ う」、「職(何応欽)が北上する際、鈞座(蔣介石)が指示した六項目の権限 を明軒に付与してもよいか否か」蔣介石に指示を求めた(25)。これに対し て蔣介石は、「もし一定範囲を示さなければ、あらゆることへの対応ができず、
難関を越えることもできないであろう。授権の範囲は広範囲には及ばず、明 軒兄の立場に適合し、相手方と渡り合うのに適当で、脅迫を受けないことを 主としなければならない。六項目の権限について現地の目下の必要性を再度 斟酌してその限度と範囲を決定すべきである」(26)と慎重に言葉を選びな がら、限定的柔軟性が必要との見方を示した。蔣は、広範囲に及んではなら
ないが、日本軍に対処、対応するために一定程度の権限付与は必要であると 考えていた。ただ、中央の冀察における税収については、「如何なることがあっ ても系統の変更や留め置き[截留]があってはならず、冀察の軍政費が増大 する場合は、中央が特別支出で増大分を補助すべきで、われわれは統一を維 持して国家に報いるのみである」(27)とか、あるいは「兄に付与した六項 目の職権について、兄が長官職に就かない場合は、範囲を縮小すべきであり、
第二項の幣制問題については、決して提起してはならず、やむを得ない場合 を除き、中央が自らその制度を損ね、他人に口実を与えるようなことを決し てしてはならない」(28)とか、といったように、強く注意を促した。蔣介 石は、先に見た6項目権限のうち、経済主権に関わる(二)や(四)に相当 する税制、財政、金融面での権限付与は絶対に認めない方針であった。11月 4日、幣制改革を断行し、経済・金融面における近代的統合の劇的前進を内 外に示したばかりであり、これを自ら後退、あるいは破壊するようなことは 決してあってはならないと判断していたのである。しかも、日本側は公式外 交の場においても、「つまりは財政問題で、金が無ければ何もできない」(29)、
と迫ってきていた。
12月11日、国民政府は、冀察政務委員会を設置し、宋哲元以下17名を委員 として「特派」、宋を委員長に任命することを決定した。翌12日に北平での 事態収拾に目途をつけた何応欽、陳儀(福建省政府主席)らが帰京の途につ いた。
これを受け、東京は、「此際機ヲ失セス有吉大使ヲ赴寧セシメ南京政府ヲ シテ北方ニ於ケル交渉ノ結果ヲ承認セシムル如ク警告的ニ帝国政府ノ強硬ナ ル態度ヲ伝達セシムル」ことを決定し(30)、南京におけるハイレベル交渉 で国民政府の承認を取り付ける方針を固めた。ただ、12月17日に須磨が南京 に戻った何応欽と面談した際、何から「所謂六項目ハ……自分ノ受ケタル内 訓ニテ政府カ果シテ之ヲ今後モ基準トスヘキヤハ明カナラス」(31)との回 答しか得られず、今後の交渉が容易でないことをうかがわせた。実際、有吉 は、12月19日に蔣介石と、翌20日には新任の外交部長張群と会談したが、蔣 からは「自分モ充分承知シ居レリ」との反応しか引き出せず(32)、また、
張群からも、有吉が「先般来問題トナレル北支収拾策トシテ支那側ヨリ話ア
リタル六項ノ権限付与問題ヲ予定ノ如ク速ニ実施スルコトハ右三原則協議促 進ノ為ニモ必要ナリ」と詰め寄ったものの、「実ハ右六項ハ権限ニアラス何 応欽ニ与ヘタル北支問題収拾ニ対スル処理上ノ方針ニシテ且ツ中央ヨリノ派 遣員ヲシテ遣ラセル積リノモノナリシ処何カ北上シタルモ日本側トノ協議モ 出来サリシニ付改メテ当地ニ於テ続イテ相談スルモ差支無シ」(33)、つまり 日本側が言うところの6項目権限は、単なる「方針」であって権限でさえな いという、さらに後退した回答しか得られなかった。
支那駐屯軍は、交渉の膠着を見越して、東京に「該委員会ニ対シテハ速ニ 先ツ新政権樹立宣言ヲ発表セシメ之ヲ以テ表面上時局ノ一段落トナシ爾後実 質的ニ漸次其目的ヲ達成スル如ク指導セントスル」ことを具申した(34)。
これに対して陸軍中央は、「南京政府ハ北支政務委員会ニ何等権限ヲ与フル コトナク財政、外交等ノ実権ハ依然中央ニ於テ掌握セント企図シアル」よう であり、「之カ対策トシテ」「適当」との判断を下し(35)、これを承認した。
南京での国民政府との交渉を進めつつ、とにかく冀察政務委員会を発足させ、
権限については発足後、事実上の実体化を図っていけばよいとの方針に切り 替えたのである。実際、「北支処理要綱」(第1次)は、この段階の方針であ る「適時南京政権ニ対シ北支自治ノ必要性ヲ理解セシムルト共ニ自治権限六 項目ノ承認ヲ強要シ、少クモ自治ヲ妨害スルカ如キ策動ヲ禁遏セシムル」(36)
ことを求めていたが、現地では、支那駐屯軍が、「防共協定ノ実行」、「幣制 独立」、「現銀南送停止」、「関税ノ接収」、「覚書交換」、「産業開発ノ障碍撤去」、
「人事ノ独立」、「防共自治実行ニ妨トナル要人ノ整理」など(37)、6項目権 限に示される内容よりはるかに具体的で広範な独自政策の実施を冀察政務委 員会側に迫っていくようになる。
なお、何応欽は、北平を離れる前に権限について秦徳純らと協議し、第1 に「中央が小範囲を規定して、この範囲内で明軒に適宜対応の権限を与える」、
第2に「範囲を予め示さず、事柄毎に明軒が密かに請訓して処理する」(38)
という二つの方法を案出していた。両案に対して、蔣介石をはじめとする国 民政府首脳がどのように判断したのか詳らかではないが、後に何応欽が、張 群に6項目権限について説明、報告をした際、
「一、行政系統を破壊する組織は認めない。
二、財政、金融系統を破壊してはならない。
以上2原則の下、華北問題についての打開策を模索する。
中央もまた地方にいささかの権限を与え、華北問題を現地解決する便宜 を図る(39)。」
と、とくにメモ書を付している点などから、当初はほぼ第1の方向性での対 応を目指していたと考えてよいだろう。その後、冀察政務委員会に対する日 本軍の影響が大きくなるにつれ、次第に第2の方向に傾斜していったといえ る。なぜなら、以後も国民政府によって権限が具体的に示されることはなかっ たからである。華北における対日関係を念頭に置きつつ、権限を明確化せず、
案件ごとに中央政府との間で協議、決定することを求めていくことで、主権 維持をはかる方針に切り替えていったと考えられる。
3.冀察政務委員会の発足
1935年12月18日、北平外交部街、東単一帯に厳重な警備体制が敷かれる中、
外交大楼で冀察政務委員会の発足記念式典が挙行された。一二・一六運動に よる2日遅れの発足で、何応欽、馮玉祥(軍事委員会副委員長)、韓復榘(山 東省政府主席)の代表を含め数百名余の来賓が参列したが、式典は40分足ら ずで終わった。
この日、宋哲元は書面談話を発表し、政治改革、財政再建への決意表明に 続いて、「善隣の原則にもとづいて、国交の親善に尽力し、凡そ平等・互恵 の精神で対応する者は、みなわが友である。まして塘沽停戦協定(締結)以 来、冀察両省は、日本と特殊な関係を有するようになり、両国の利益のため、
東亜の平和のため、相互維持・相互協力して、真正の親善を実行すべきであ り、哲元は最大の誠意を以って最後の努力を行うことを希望する」(『大公報
(天津)』、12月19日)と述べ、対日関係が極めて重要な課題であることを強 調した。談話にちりばめられた「善隣」、「親善」、「平等」、「互恵」といった 言葉からは、対日交渉の原則を、「最後の努力」という言葉からは、決意と 切迫感を読み取ることができよう。
委員会の構成は、委員長に宋哲元*が就任したほか、
委員: 萬福麟、王揖唐*、劉哲*、李廷玉、賈徳耀、胡毓坤、高凌霨、王克
敏*、蕭振瀛、秦徳純、張自忠、程克、門致中、周作民*、石敬亭、
冷家驥 (*印は行政院駐北平政務整理委員会の委員)
秘書長:戈定遠、政務処長:潘毓桂、財務処長:過之澣
という顔ぶれで、「暫行組織大綱」第2条にもとづき委員は11日に国民政府 が「特派」するという形で任命された。
李雲漢は、宋哲元、蕭振瀛、秦徳純、張自忠、門致中、石敬亭を第29軍系、
萬福麟、劉哲、胡毓坤、程克を東北軍系、王揖唐、李廷玉、賈徳耀、高凌霨、 王克敏、周作民、冷家驥を親日派と分類しているが(40)、「親日派」につい ては異論もある(41)。
いずれにせよ、冀察両省、平津両市を中心とした華北地域における勢力バ ランスを慎重に考慮した委員構成であったことは間違いない。これは、冀察 政務委員会が国民政府と日本軍に第29軍(宋哲元)を加えた三者間の微妙な 力関係の上に組成されたものであることを意味している。行政院駐北平政務 整理委員会の委員経験者が5名と少なく、第29軍関係者が多く新任されたこ と、その一方で宋哲元、萬福麟、胡毓坤、蕭振瀛、秦徳純、門致中は軍事委 員会北平分会の委員経験者であり、出先機関とはいえ中央の軍事機関での職 務経験者が複数任命されたこと、日本軍が強く影響力を行使した中で組織さ れた割には日本留学経験者(王揖唐、賈徳耀、王克敏、程克、周作民)が比 較的少なかったことなどを、特徴として指摘することができる。
4.支那駐屯軍と関東軍
こうして発足した冀察政務委員会は、日本のどの機関と直接関わることと なったのであろうか。当時の現地日本軍側主要アクターの推移とともに確認 しておきたい。
少し時間は遡るが、1933年2月の熱河侵攻後、関東軍は、引き続き長城線 を越えて南下し、中国軍と交戦しながら華北・冀東地域に進駐、これと並行 して進められた日中間交渉で塘沽停戦協定がまとまり、柳条湖事件以来の「満 洲事変」が一段落する。この停戦協定締結交渉過程の中で、日本軍側は、「停 戦は純然たる作戦行動の一部たるに鑑み其交渉は関東軍自ら之に当り軍部外 第三者の容喙を許さず」(42)との方針を立てて停戦協定締結交渉を独自に
推進し、協定成立後も関東軍が停戦協定関連事項を主管し続けた。このよう にして関東軍が華北問題に深くコミットしていったのである。
それから2年後の1935年5月に天津日本租界事件が発生し、外務省と陸軍 中央は、「北支交渉問題処理に方りては北支停戦協定に基き専ら関東軍及其 の友軍たる支那駐屯軍をして北支政権を対象として地方的に交渉を促進せし め」ることをあらためて確認した(6月7日)(43)。支那駐屯軍が関東軍と 併記され、新たなアクターとして登場している点が注目されるが、基本的に はこの段階においても日本の対華北政策は従来通り先に言及されている関東 軍を主体として推進していくことが合意されていた。
これに大きな変更が加えられるのは、「冀東防共自治委員会」発足(11月 25日)後のことである。翌26日、古荘幹郎は、出先軍に対して、「現地ニ於 ケル北支処理ノ主宰者ハ実質的ニモ支那駐屯軍トス軍ハ密ニ中央ト連絡シ常 ニ情勢ノ推移ヲ明ニシ適時軍ノ企図ヲ請訓若ハ通報シ以テ中央並出先ノ対策 ヲシテ錯誤ナカラシムルヲ要ス」、同時に「北支処理ノ為関東軍及上海南京 其他ノ各武官ハ密ニ支那駐屯軍ト連絡協力ス」(44)との新方針を訓令した。
華北5省を国民政府統治下から分離することを目標に掲げた軍事工作が、「冀 東防共自治委員会」の樹立程度で行き詰まったことを受け、関東軍に替って 支那駐屯軍が、今後の対華北政策を担うよう求めるものであった。そしてこ の方針は、陸軍中央の「支那駐屯軍司令官ニ対スル指示」、いわゆる「北支 処理要綱」(第1次)に盛り込まれることとなった。その第5項に「北支処 理ハ支那駐屯軍司令官ノ任スル所ニシテ直接冀察冀東両当局ヲ対象トシテ実 施スルヲ本則」とすることが明記され、併せて「関東軍及北支各機関ハ右工 作ニ協力スル」ことも付言された(45)。同時に、この時水面下では支那駐 屯軍の増強計画が具体化しつつあったことに注意しておかなければならな い。
ただ、長城線以南の華北地域に関わろうとする関東軍の動きは以後も継続 され、これに陸軍中央がブレーキをかけるという事態が起こっている。例え ば、関東軍が、独自に進めていた「満洲国・冀東政府間ノ友好親善取極」の 動きに対して、陸軍中央は、次のような理由から不同意の意向を伝えた。
「冀東政府ニ対スル政治軍事指導ハ支那駐屯軍ノ任スル所ナルカ本取極ノ
結果自然関東軍ノ冀東進出ヲ誘致シ両軍任務ノ分界ヲ紛ルニ至ルヘク軍ノ 統制上適当ナラス(46)。」
陸軍中央は、「満洲国」と長城線の南側に位置する「冀東防共自治政府」
が「友好親善取極」を締結した場合、再び「冀東防共自治政府」を介する形 で関東軍が華北問題に関わることを強く警戒していたのである。
このような関東軍に対する陸軍中央の牽制により、田尻愛義(天津総領事 代理)が、「綏遠ハ総テ関東軍ニテ負担スル様改訂方中央ニ稟請中ナル由」(47)
と報告しているように、関東軍は、その軍事工作の軸足を、内モンゴル地域、
つまり長城線以北に位置する察哈爾、綏遠方面へと移していった。
5.日本人顧問問題
それでは支那駐屯軍はどのような形で冀察政務委員会にコミットしていっ たのであろうか。
冀察政務委員会発足後間もない1935年12月27日、西尾寿造(関東軍参謀長)
は、杉山元(参謀次長)に対して、「冀察政務委員会ニ対シ内面的指導ノ為 土肥原少将ヲ当分ノ内平津地方ニ出張セシメ置クコトヲ必要トスルハ当軍及 支那駐屯軍一致ノ意見ノミナラス宋哲元側ノ深ク切望シアル次第」であるた め、関東軍は再度土肥原賢二(奉天特務機関長)を北平・天津地域に派遣す る用意があり、土肥原の「身柄任務ヲ公明ナラシムル為中央ヨリ当軍ニ対シ 同少将ヲ北支ニ派遣シテ支那駐屯軍司令官ト緊密ナル連繋ノ下ニ冀察側ノ内 面指導ヲ為サシムヘキ旨」(48)訓令を発するよう要請した。ここでも関東 軍の南下志向をうかがうことができる。
他方、支那駐屯軍は、土肥原による冀察政務委員会の指導は、あくまでも
「過渡期ニ置ケル変則的一便法」であるとし、「成ルヘク速ニ新任少将又ハ大 佐級ノ適任者ヲ当軍司令部附ノ位置ニ於テ北平特務機関長ト為シ直接新政権 ノ指導ニ任スル外顧問系ノ統制指導ニモ当」たるべきであるとの考えを陸軍 中央に伝えていた(49)。顧問とは、先に見た「暫行組織大綱」第8条に規 定されたポストである。併せて「最近宋哲元ヨリ申出アリ」とする「最高名 誉顧問」職設置については、「其裏面ニ各種ノ事情モ介在スル」として退け、
「軍幕僚タル機関長ニ依ル顧問系統制」が最も効果的(50)との判断を示した。
支那駐屯軍は、北平に特務機関を設置し、同機関長が要所に配された顧問を 統制することによって、冀察政務委員会を独自にかつ直接コントロールする 構想を練っていた。
冀察政務委員会設置という国民政府主導の収拾策が具体化したのを受け、
1月13日、陸軍中央は、「北支処理要綱」(第1次)を通達した。その第3項 に日本人顧問配属に関する規定を見ることができる。まず「我方ニ依ル指導 ハ財政経済特ニ金融、軍事及一般民衆指導ニ重点ヲ指向シ且大局ヲ把握シ細 部ハ努メテ之ヲ支那側ニ委シ自ラ実行ノ責ニ任セシム」と、指導の重点を金 融、軍事、民衆政策に置き、大所高所からのアプローチを求めた。さらに、「今 次指導ニ当リテハ満洲国ト同様ノ独立国家ヲ育成シ、或ハ満洲国ノ延長ヲ顕 現スルモノト認メラルルカノ如キ施策ハ実施セサル」よう注意を促し、その ため「日本人顧問ハ(冀察)政務委員会内及第二十九軍内ニ限リ少数限度ニ 止メ之等顧問其他公共事業産業開発等ニ要スル人的財的融通ハ已ムヲ得サル モノノ外ナルヘク日本内地ニ之ヲ求ム」るよう指示した(51)。華北分離工 作が思惑通りに進展しなかったことを踏まえつつ、「満洲国」からの移籍、
転用を排することによって、華北における関東軍の影響を排しようとの強い 意図を読み取ることができる。先に見た支那駐屯軍の特務機関設置構想は、
第5項に「当分ノ間冀察政務委員会指導ノ為一機関ヲ北平ニ置キ支那駐屯軍 司令官ノ区処(自治機構ノ指導並ニ顧問ノ統制等)ヲ受ケシム」(52)とい う形で盛り込まれた。
陸軍中央の方針が固まったことを受け、古荘幹郎は、顧問について「貴地 ニ於テ已ニ準備シアルモノ及東京ニテ準備スヘキモノニ区分シ特ニ担当業 務、官等俸給等ヲ明示シ至急具申」するよう指示し(53)、出先との間で具 体的な調整に入っていった。2月19日、永見俊徳(支那駐屯軍参謀長)は、
古荘に対して、まず冀察政務委員会に配する顧問として、(一)外交に勅奏 任級2名、秘書兼通訳2名、(二)財政に勅奏任級2名、秘書兼通訳2名、(三)
実業に勅奏任級3名、秘書兼通訳3名、(四)交通に勅奏任級4名、秘書兼通 訳4名、(五)軍事顧問に現役3名、雇員3名、(六)公安隊に勅奏任級2名、
秘書兼通訳2名(54)、合わせて32名を稟請した。冒頭「冀察政権ニ入ラシ ムヘキ顧問ニ関シ中央部ノ御意見ハ池田(純久)参謀ヨリ十分承知シ其方針
ハ当部ト全ク同一ナレトモ当部トシテハ左ノ如キ人員ヲ最小限ト認ムルヲ以 テ更メテ御詮議……」(55)と断っている点から、「北支処理要綱」にある「少 数限度」をめぐって、陸軍中央と支那駐屯軍の間に想定数の相違が存在して いたことがうかがわれる。支那駐屯軍は、当初予定の規模より顧問の総数を かなり圧縮したものと推察されるが、それでも勅奏任級のみで13名に達して おり、広範囲にわたる内面指導の実施を企図していたと考えて間違いないだ ろう。
これと併せて、永見は、4月初めの始動を予定する「調査部」の要員も稟 請した。具体的には、「北支ニ於テ必要ナル財政産業交通等ノ調査研究ヲ行 フ為参謀部ニ所要ノ部附ヲ附シ別ニ勅奏任級ノ嘱託及之ニ必要ナル書記(通 訳)ヲ軍司令部附ト為ス」ため、「部附」として鉄道、通信、航空関係者各 1名(少佐(大尉)級)、経済関係者1名(三等主計正(一等主計)級)、ま た「嘱託」として財政金融関係者1名(勅奏任級)、産業関係者3名(勅奏 任官とし農業1名、商工業1名、鉱業1名)などを柱とする人件要請を行っ た(56)。「北支処理要綱」第5項には、「経済進出ニ対シテハ軍ハ主動ノ地 位ニ立ツコトナク側面的ニ之ヲ指導スルモノトス」(57)とあったが、支那 駐屯軍が冀察政務委員会発足間もない頃から華北の経済、産業分野の調査を 本格化させようとしていたことがうかがわれ注目される。
「北支処理要綱」にもとづき、支那駐屯軍が要求した北平特務機関が新設 された。3月28日に承徳特務機関長を務めた松室孝良が初代機関長として天 津に到着(『大公報(天津)』、3月29日)、4月1日には支那駐屯軍司令部で 華北の経済問題を検討した後(同4月2日)、宋哲元、蕭振瀛、陳中孚らと 協議を重ね、6日、北平に入った。10日、北平特務機関は正式に業務を開始 し、この日、雷寿栄(外交委員会委員)が祝賀に訪れている(同4月11日)。
日本側は、これを「支那駐屯軍代表事務所」であると説明していたが(同4 月7日)、これはまぎれもない特務機関であり、松室の最大の任務は、3月4 日に帰朝のため天津を去った土肥原賢二の業務を引き継ぐことであった。こ うして支那駐屯軍は、冀察政務委員会を直接コントロールし、平津で独自の 軍事工作を実施するための体制を整えていった。
さて、この北平特務機関の下に配属される日本人顧問について、4月17日
時点で確認できる顔ぶれは次の通りである(58)。
外交委員会―矢野征記(陸軍省嘱託、支那駐屯軍司令部附)
経済委員会 金融―青木 実( 元満洲国企画処参事官、支那駐屯軍嘱託)
検討中
財政―永井四郎(元黒龍江省総務庁長)
交通委員会 逓信―佐谷台二(元東京逓信局長)
鉄道―山嶺貞二(元鉄路総局副局長)
交通委員会の電政、建設委員会の農政、鉱山の各担当顧問、軍事顧問3名 は、この時点ではまだ固まっていない。また、未設の文化委員会の顧問も未 定であった。
ここではとくに重要な位置づけにあった外交顧問と軍事顧問について見て おきたい。
外交委員会の矢野は、「五月当方推薦ノ正式外交顧問ト交代迄ノ臨時顧問」
という条件付きであった。当初、支那駐屯軍は、矢野(満洲国亜細亜課長)
とともに財政顧問には星野直樹(満洲国財政司長)を推薦していたが、両名 とも陸軍中央が難色を示し、前者は期限付きで、後者は永井に差し替えるこ とで調整されていた。理由は先に確認した「北支処理要綱」第3項の規定に 違う人選だったからである(59)。
また、陸軍中央は、外交委員会に対する内面指導は「帝国ノ対北支外交ト 不可分ノ関係アルノミナラス冀察側ノ外交振リハ帝国ノ外交政策ニ重大ナル 影響」を与えるため、「貴地外務官憲ノ要望ヲ尊重スル等在北支外交官憲ト 特ニ緊密ナル連絡ヲ保持スル」(60)よう支那駐屯軍に注意を促していた。
ただ、顧問の指揮系統をめぐっては、「外務省側ハ外交上ノ内面指導ハ軍司 令官ニ依ラス総領事ヲ主体トシ度キ希望」を有していた(61)ように、陸軍 中央と外務省の間で意見の相違が存在していた。外務省側の記録によれば、
本来内面指導は「外務官憲ニ於テ行フヘキモノ」であるが、「四月十七日附 両大臣間諒解事項ノ趣旨ニ依リ当分ノ間軍側ニ委託スル」(62)こととなっ たという。外務省は、外務省―天津総領事―外交委員会顧問という公式外交 チャンネルを確保することで、対中国外交の一元化を維持し得る仕組みを残 しておきたかったのであろう。
こうして7月28日、予定より2カ月遅れで天津入りした西田畊一(前済南 総領事)は、「軍司令官ノ外交指導幕僚」(63)に位置づけられることとなり、
華北における公式外交の場はいっそう縮小することとなった。この間、対華 北政策推進主体の関東軍から支那駐屯軍への変更はあったが、華北問題の軍 事化の流れはまったく変わらなかった。
軍事顧問は、5月22日付けで中島弟四郎(中佐)と櫻井徳太郎(少佐)の 2名が、田代皖一郎(支那駐屯軍司令官)によって任命された。「訓令」に よれば、中島らは北平に滞在し、松室の「区処」を受けるものとされ、「方針」
では、「究極ノ目的トシテハ北支(五省ヲ云フ)ニ軍閥及多クノ支那軍隊ヲ 存在セシメサルコト」、「在北支支那軍隊ハ……親日的態度ヲ堅持スル如ク指 導スル」ことが掲げられ、とくに後者については、「帝国軍対蘇開戦ノ暁ニ 於テハ我ト提携シ又帝国軍対支開戦ノ暁ニハ我ト協同シテ支那中央軍ニ対向ママ シ已ムヲ得サルモ好意的中立ノ態度ヲ採ルノ域ニ達セシム」こと、「北支那 軍隊ニシテ万一ノ場合抗日行動採ルコトアルヲ顧慮シ同軍隊覆滅ノ手段切崩 シノ方法武装解除ノ要領ニ関シ平素充分ナル監察ヲ遂クル」ことが求められ た。「細部ノ指示」にも「北支那軍隊ニ対スル南京側ノ切崩シ懐柔策及赤化 思想ノ浸潤ニ対シテハ細心ノ注意ヲ以テ監察シ未然ニ之カ防止ヲ期スルコト 肝要ナリ」(64)とあるように、第29軍を内面指導を通して国民政府の指揮 系統から外し、日本軍の影響下に置くことを主要任務として課せられていた のである。
おわりに
ここに、盧溝橋事件前夜の1937年6月に作成された「冀察政務委員会職員 録」(65)がある。これと冀察政務委員会発足当時の顔ぶれをつき比べると 興味深い事実が浮かび上がってくる。
1936年3月28日に死去した程克に加え、李廷玉、王克敏、蕭振瀛、冷家驥 らの名が消えた一方で、齊燮元、湯爾和、曹汝霖、戈定遠、劉汝明、李思浩、
章士釗、馮治安、鄧哲熙、陳覚生、鈕伝善、石友三、合わせて12名もの名が 新たに加えられている。まず、1937年6月段階の委員のうち半数が発足当初 の委員ではなく、わずか1年半余の間に委員会の構成メンバーが大きく変化
していたことが確認できる。しかも合算すると委員の総数は24名で、「暫行 組織大綱」第2条の「17名から20名」を大きくオーバーしている。とくに注 目される顔ぶれは齊燮元、湯爾和、陳覚生、石友三らで、いずれも日本軍と の距離がきわめて近く、謀略工作関係の史料にしばしば登場する名である。
例えば1936年9月頃には、「某方は宋哲元を謀殺し、石(友三)を政務委員 会主マ席マのポストに就けさせようとしている」(66)などという情報も流れて いた。また、齊燮元、李思浩、馮治安、石友三の4名を除き、他の8名は全 員日本留学を経験している。
要するに、この間、日本軍の目に適った、あるいは日本により近い人物が 委員会に送り込まれていったのである。しかも齊燮元、陳覚生、鈕伝善、石 友三の4名には、「本会による招聘任命」という注書が付されており、国民 政府の「特派」ではない、つまり「暫行組織大綱」の規定にはない委員であっ たことがわかる。ここに、国民政府のチェックや「暫行組織大綱」の規定を 掻い潜りながら、人事面から冀察政務委員会の「親日化」工作を進めていっ た日本軍の姿が浮かび上がってくる。実際、日本側は、「およそ科長以上の 者は、日本側の同意が無ければ、勝手に変更できない」(67)と言い放つよ うになっていた。
それでは、日本の対華北政策は想定通りに進展していたのであろうか。
時間は少し遡るが、1936年8月22日から24日にかけて天津総領事公邸で「北 支主要公館長会議」が開かれ、影佐禎昭(軍事課員)が陸軍省側代表として 出席していた。席上、影佐は、「何故北支工作カ進マヌカト云ヘハ畢竟関東 軍ノ退去ニ基因スル所大ナリト考ヘル……関東軍ノ北支進出ノ気勢ヲ示ス必 要アリト考フルモノテ関東軍司令官ニモ之ノ点ヲ述ヘテ置イタ」(68)と、
きわめて注目すべき発言をしている。日本の対華北政策が進んでいないとい う現状認識を示したうえで、これを前進させるためには関東軍の再関与が必 要との考えを披瀝したのである。陸軍中央内に華北における軍事的圧力の いっそうの強化を求める声があったことを示唆した発言といえよう。
また、1936年12月13日、橋本群(支那駐屯軍参謀長)は、松室孝良の後任 として発令を受けた松井太久郎(大佐)に対して、「冀察政権ノ中央化ヲ阻 止スル為常ニ其ノ政治的動向ヲ監視スル」よう命じ(69)、国民政府による
冀察地域のこれ以上の統合進展は認めない考えを示した。これは、冀察政務 委員会内外から絶えず「中央化」の力学が働いていたことを意図せず認める ものでもあった。
日本人顧問による内面指導や冀察政務委員会委員の入れ替えなどにもかか わらず、日本の対華北政策は思い通りには進んでいなかったことがうかがわ れよう。
これに先立つ9月、支那駐屯軍司令部は、「冀察並山東省及山西省政府ノ 如キモ成ルヘク我意図ニ従フ如ク工作スルモ成功セサル場合ニ於テハ之ヲ打 倒シテ新政権ヲ擁立スル」(70)方針を立てていた。冀察政務委員会の「親 日化」が進展していないと判断した場合には、軍事力の発動によって新政権 を樹立する考えを明確化させていたことがわかる。1936年後半期、盧溝橋事 件への道筋が次第に鮮明化し始めていたのである。
注
(1) このような視点から、冀察政務委員会の実態解明に挑んだ研究として、安井 三吉『盧溝橋事件』、研文出版、1993年。
(2) 冀察政務委員会と現地日本軍の関係を「華北防共協定」締結交渉と「冀東防 共自治政府」解消問題に焦点を当てて解明した研究に、拙稿「冀察政務委員会 の対日交渉と現地日本軍―「防共協定」締結問題と「冀東防共自治政府」解 消問題を中心に」、『近きに在りて』第51号、2007年。
(3) 「蔣介石発閻錫山宛電報(佳酉機京電)」(12月9日)、『特交檔案分類資料―中 日戦争・華北局勢』第23巻、(台湾)国史館所蔵。(以下、『特交檔案』第23巻 と略す。)
(4)「何応欽発蔣介石宛電報(虞午行秘電)」(12月7日)、同上。
(5)「何応欽発蔣介石宛電報(庚申行秘電)」(12月8日)、同上。
(6)「蔣介石発何応欽宛電報(斉亥機京電)」(12月8日)、同上。
(7)「何応欽発蔣介石宛電報(佳未行秘電)」(12月9日)、同上。
(8)「楊永泰発何応欽宛電報(青戌電)」(12月9日)、同上。
(9)「何応欽発蔣介石宛電報(蒸申行秘電)」(12月10日)、同上。
(10)李雲漢編『抗戦前華北政局史料』、正中書局、1982年、167-168頁。
(11)「蔣介石発何応欽宛電報(佳亥機京電)」(12月9日)、『特交檔案』第23巻。
(12)「孔祥熙発蔣介石宛電報(蒸酉電)」(12月10日)、同上。
(13)「何応欽発蔣介石宛電報(陽亥行秘電)」(12月8日)、同上。
(14)「何応欽・熊式輝・陳儀発蔣介石宛電報(蒸午行秘電)」(12月10日)、同上。
(15)「楊永泰発何応欽宛電報(文丑電)」(12月11日)、同上。
(16)「何応欽発楊永泰宛電報(文巳行秘電)」(12月12日)、同上。
(17) 東亜局第一課『最近支那関係諸問題摘要(第六十九特別議会用)完(対支政策・
北支自治・内蒙・排日・財政)』(1936年4月)、43頁、外務省外交史料館所蔵。
委員長制への変更により、宋哲元が北平不在の際は、劉哲が委員長職を代 行することとなった。ところが、10月16日に開催された冀察政務委員会第15 次例会で、齊燮元、賈徳耀、秦徳純が「暫行組織大綱」の規定にはない「駐 会弁事委員」に就任することが決定され(『大公報(天津)』、10月17日)、事 実上の「常務委員制」に再変更されている。
(18) 「須磨弥吉郎南京総領事発広田弘毅外務大臣宛第1338号電報」(12月1日発)、
外務省編『日本外交文書』昭和期Ⅱ第1部第4巻上、外務省、2006年、421頁。
(以下、『日本外交文書』Ⅱ―1―4上と略す。)
(19) 「広田弘毅外務大臣発有吉明中国大使宛第319号電報」(12月3日発)、同上、
427頁。
(20) 「須磨弥吉郎南京総領事発広田弘毅外務大臣宛第1338号電報」(12月1日発)、
同上、420-421頁。
(21) 「広田弘毅外務大臣発有吉明中国大使宛第319号電報」(12月3日発)、同上、
427-428頁。
(22) 「古荘幹郎陸軍次官発西尾寿造関東軍参謀長ほか宛陸満第700号電報」(12月3 日)、島田俊彦・稲葉正夫編『現代史資料8日中戦争1』、みすず書房、1964年、
149頁。(以下、『現代史資料8日中戦争1』と略す。)
(23) 「須磨弥吉郎南京総領事発広田弘毅外務大臣宛第1364号電報」(12月6日発)、『日 本外交文書』Ⅱ―1―4上、436頁。
(24) 「有吉明中国大使発広田弘毅外務大臣宛第1077号電報」(12月7日発)、同上、
437-438頁。
(25) 「何応欽・陳儀・熊式輝発楊永泰宛電報(庚戌行秘電)」(12月8日)、『特交檔案』
第23巻、および「何応欽発蔣介石宛電報(庚戌行秘電)」(12月8日)、秦孝儀 主編『中華民国重要史料初編―対日抗戦時期・緒編』(一)、中国国民党中央 委員会党史委員会、1981年、734-735頁。(以下、『重要史料初編』(一)と略す。)
(26)「蔣介石発何応欽宛電報(青酉機京電)」(12月9日)、『特交檔案』第23巻。
(27)「蔣介石発何応欽宛電報」、『重要史料初編』(一)、735頁。
(28)「蔣介石発何応欽宛電報(青戌機京電)」(12月9日)、同上。
(29) 「唐次長会晤須磨総領事談話紀録其一」(12月12日)、外交部『冀察政務委員会 組織』、(台湾)国史館所蔵。
(30) 「古荘幹郎陸軍次官発西尾寿造関東軍参謀長ほか宛陸満第719号電報」(12月13 日)、昭和11年『陸満密綴』第九号、防衛省防衛研究所図書館所蔵。
(31) 「須磨弥吉郎南京総領事発広田弘毅外務大臣宛第1419号電報」(12月17日発)、『日 本外交文書』Ⅱ―1―4上、448頁。
(32) 「須磨弥吉郎南京総領事発広田弘毅外務大臣宛第1426号電報」(12月19日発)、
同上、112頁。
(33) 「有吉明中国大使発広田弘毅外務大臣宛第1140号電報」(12月21日発)、同上、
115-116頁。
(34) 「古荘幹郎陸軍次官発西尾寿造関東軍参謀長ほか宛陸満第733号電報」(12月18 日)、昭和11年『陸満密綴』第七号。
(35)同上。
(36) 「北支処理要綱」(1月13日)、外務省編『日本外交年表並主要文書1840-1945』下、
原書房、1966年、323頁。(以下、『日本外交年表並主要文書』と略す。)
(37) 「武藤義雄大使館一等書記官発有田八郎外務大臣宛第248号電報」(5月27日着)、
外務省編『日本外交文書』昭和期Ⅱ第1部第5巻上、外務省、2008年、703-
705頁。(以下、『日本外交文書』Ⅱ―1―5上と略す。)
(38)「何応欽発蔣介石宛電報(蒸未行秘電)」(12月10日)、『特交檔案』第23巻。
(39) 「何応欽発張群宛書簡」(4月11日)、外交部『華北一般情勢案』、(台湾)国史 館所蔵。
なお、「二」の後に、「三」として「冀東政府を解消する」が加筆されている。
(40)李雲漢『宋哲元与七七抗戦』、伝記文学出版社、1978年、124-125頁。
(41)安井三吉、前掲書、62頁。
(42) 「長城南方地区第二次作戦に伴ふ停戦に関する善後処理方案」(1933年5月17 日)、関東軍司令部「北支に於ける停戦交渉経過概要」、小林龍夫・島田俊彦 編『現代史資料7』、みすず書房、1964年、516頁。
(43)「北支交渉問題処理要綱」(1935年6月7日)、『現代史資料8日中戦争1』、66頁。
(44) 「古荘幹郎陸軍次官発西尾寿造関東軍参謀長ほか宛陸満第684号電報」(11月26 日)、同上、148頁。
(45)「北支処理要綱」(1月13日)、『日本外交年表並主要文書』、323頁。
(46) 「梅津美治郎陸軍次官発板垣征四郎関東軍参謀長ほか宛陸満第209号電報」(5 月8日)、昭和11年『陸満密綴』第五号。
(47) 「田尻愛義天津総領事代理発有田八郎外務大臣宛第277号電報」(7月6日発)、『日 本外交文書』Ⅱ―1―5上、737頁。
(48) 「西尾寿造関東軍参謀長発杉山元参謀次長宛関第546号電報」(12月27日発)、
昭和11年『陸満密綴』第二号。
(49) 「永見俊徳支那駐屯軍参謀長発古荘幹郎陸軍次官宛天電第11号電報」(1月4日 発)、昭和11年『陸満密綴』第一号。
(50)同上。
(51)「北支処理要綱」(1月13日)、『日本外交年表並主要文書』、323頁。
(52)同上。
(53) 「古荘幹郎陸軍次官発永見俊徳支那駐屯軍参謀長宛陸満第23号電報」(1月20 日)、昭和11年『陸満密綴』第九号。
(54) 「永見俊徳支那駐屯軍参謀長発古荘幹郎陸軍次官宛天電第400号電報」(2月19 日)、昭和11年『陸満密綴』第七号。
(55)同上。
(56)同上。
(57)「北支処理要綱」(1月13日)、『日本外交年表並主要文書』、323頁。
(58) 前掲、『最近支那関係諸問題摘要(第六十九特別議会用)完(対支政策・北支 自治・内蒙・排日・財政)』、88-89頁。
(59)同上、86-87頁。
(60) 「梅津美治郎陸軍次官発永見俊徳支那駐屯軍参謀長宛陸満第216号電報」(5月 10日)、昭和11年『陸満密綴』第七号。
(61)同上。
(62) 「時局委員会設立ニ関スル件」(6月22日)、『日本外交文書』Ⅱ―1―5上、
731頁。
当時、外務省では「対北支政策並ニ経済、財政、交通等ニ関シ我方ヨリ北 支諸政権ニ対シ為スヘキ施策ニ付研究審議ヲナサシムル為」、省内に「時局委 員会」を設置して、外交の一元化を図ろうとする動きが起こっていた(同上、
729頁)。
(63) 「梅津美治郎陸軍次官発永見俊徳支那駐屯軍参謀長宛陸満第216号電報」(5月 10日)。
(64) 「永見俊徳支那駐屯軍参謀長発梅津美治郎陸軍次官宛天参調第53号「軍事顧問 任命ノ件報告」」(5月26日)、昭和11年『陸満密綴』第七号。
(65) 冀察政務委員会秘書処第一組『冀察政務委員会職員録』(1937年6月)、中国 第二歴史檔案館所蔵。
(66) 「賀衷寒発陳布雷・蔣介石宛電報(支電)」(9月4日)、『特交文電―日寇侵略 之部・迭肇事端』第四巻、(台湾)国史館所蔵。
(67)「鉄(天津)発外交部宛電報」(1937年1月19日)、外交部『冀察政務委員会組織』。
(68) 「影佐中佐説明概要」、「北支主要公館長会議記録送付ノ件」(9月12日)、『日 本外交文書』Ⅱ―1―5上、756頁。
(69) 「橋本群支那駐屯軍参謀長発梅津美治郎陸軍次官宛支参密第110号「松井大佐 ニ対スル命令及指示写送付ノ件」」(12月15日)、昭和12年『満受大日記(密)』
第一号、防衛省防衛研究所図書館所蔵。
(70) 支那駐屯軍司令部「昭和十一年度北支占領地統治計画書」(9月15日)、昭和
13年『陸満機密大日記』第二冊、防衛省防衛研究所図書館所蔵。
冀察政务委员会的成立与日本的华北政策
内 田 尚 孝
本文对冀察政务委员会成立前后,日本对华北的政策及国民政府针对其政策 的对策进行了考察,分析了围绕该会的中日关系。
冀察政务委员会于华北事变爆发后的1935年12月18日在北平正式成立。国民 政府在日本政府和日本陆军(日本关东军与华北驻屯军)的施压下,取消了军 事委员会北平分会和行政院驻北平政务整理委员会,设立了冀察政务委员会。
该会管辖河北、察哈尔两省和北平、天津两市,任命第29军军长宋哲元为委员 长。
目前,针对该会的研究主要是从军事方面(例如军事纠纷问题或者抗日民族 统一战线问题等)进行的。因为该会在卢沟桥事变时是当地中方负责机关,所 以不仅要从军事方面,而且要从政治、经济、外交等各各方面对该会的实际情 况进行研究,才能理解当时围绕华北地区的整个中日关系。
本文首先通过调查以蒋中正档案为主的资料,对冀察政务委员会暂行组织大 纲的制定过程与国民政府对华北负责人赋予的权限问题进行了考察,指出国民 政府当时在对日本有些让步的同时,也在该会成立过程中一直保持着主导地位。
其次,通过调查日本陆军方面的档案,阐明了华北驻屯军对该会的“内面指导 体制”建设的过程。迄今为止的研究都沒有涉及到该方面的问题,但是我们认 为该问题对了解该会与华北驻屯军的关系是必不可少的。最后,本文对成立当 初的委员名单与卢沟桥事变前夕的委员名单进行了对比,详细分析了该会内部 发生的情况,更明确地解析了中日战争全面爆发的背景。
The Hebei-Chahar Political Council
and the Development of Japan’s Policy in North China Naotaka U
CHIDAKeywords: Sino-Japanese War, North China, Song Zheyuan