成果 と課題
本調査 によって興福 寺 中金堂院の一様相があ きらかになった。 ここでは、ひ とまず検 出遺構 ・出土遺 物についての とりまとめ をおこない、そのあ とに若千の考察 を付 した。
(1)本
調 査 で得 られ た成果回廊の形態 を解明
中金堂院回廊 は、部分的な改修があるものの、ほぼ創建 当初 の形態 をとどめている ことが判明 した。 とくに、礎石の大部分 は創建 当初か ら使 われてお り、 また基垣外装や雨落溝について も、ほぼ当初位置 を守 って改修 されて きている。 これ までの研究で も、興福寺 におけ る焼失後の復興 に あたっては、ほぼ創建 当初の規模 を踏襲 して堂塔 を再建 して きたことが指摘 されてお り、本調査 で もこ のことを確認 したこ とになる。 なお、回廊全体 の創建形態については後述す る。
中金堂前庭部の様相 を解明
前庭部分 では再建工事 に ともな う儀式用の仮設建物 を発見 した。文献や絵 画資料 な どによって、建物の存在 は推定 された ものの、発掘調査 で確認 したのはおそ らく寺院跡ではは じめてだろう。 また、中金堂の南に石敷 きの舗装 を発見 した。参道部分 ではな く、中金堂前面 を石敷 き とす る例 は珍 しく、前庭部分 の使用方法や空間構成 などについて、新 たな資料 を提供 した といえる。 こ の2つの発見は、伽藍建築 だけの部分的な発掘調査 では望めないことであ り、寺 院が生 きていた証 を解 明 しようとす るならば、十三常的な建物のない部分 の発掘 もおこな うべ きであろう。
東僧房の一部 を検 出
部分 的 なが ら、東僧房 の礎石 と基垣地覆石 を検 出 した。 この うち基壇地覆石 は、
二上 山産凝灰岩 (本文 中では凝灰岩Aと した
)で
つ くられてお り、 回廊部分 ではみ られなか った創建 当初の基壇外装 をよ く残 している。 また、本調査 によって東僧房付近の遺構 も良好な遺存状況にあることが判明 し、今後の調査 に も期待 をもて るこ とがあ きらかになった。
金箔瓦の出土
本調査 では瓦 をは じめ とす る鬱種 夕量の遺物が出土 した。 それ らは観在整理 中のため本 書では簡単 な紹介 に とどめたが、奈良時代以来の法灯 を保つ興福寺 な らではの遺物 も夕い。 そのなかで も注 目すべ きものは、大和国では初例、寺院跡か らの出土で も全国2例 目となった桃 山時代 の金箔付 き 軒九瓦であろ う。文様か ら豊 臣家 との関係 は疑 いな く、一方で同 じ頃には興福寺の築地が大風で壊れて いる (『多聞院 日記』
)こ
となどか ら、修造のために秀吉が寄進 した瓦 とす る見解 もある。 しか し、それ を論証す るためには、近年め ざましい進展 をみせ る金箔瓦研究のなかで、本調査 で出土 した金箔付 き軒 九瓦の位置づ け を明確 にす ることが先決であ り、その作業は別の機会 に譲 りたい。回廊造営以前の溝 を発見
回廊造首以前の平行す る
2条
の東西溝 を発見 した。詳細 な検討は後述す るが、結論 を先取 りす ると、 これは平城京三条条間南小路の南北両側溝に相 当す る可能性がある。条坊側溝 と すれば、外京の条坊復原だけでな く興福寺の創建年代 にかかわる大 きな問題 となる。興福寺の創建 には 藤原不比等が関与 し、諸記録 では平城京遷都 当初 とす るものの、他寺の例か らみて和銅末 〜養老頃 と理 解 されて い る。 ところで、この溝 の心心 間距離
594mは
小尺20尺 とみて よ く、和銅6年 (713)2月
の度量衡改正 によって、条坊計画寸法が大尺か ら小尺に変更 された後で造 られた と考 えられ る。す ると、回廊 の造営 ひ いて は興福寺 の創建 が それ以 降 で あ る と理解せ ざるを得 ない。 この ため、養 老
4年
(720)8月 の藤 原不 比等 没後、10月におかれ た「造興福寺仏殿 司」 が興福寺 造営 の端 緒 とも考 え られ るが、今度 は、不比等が どの程度興福寺造営 に関与 したのかが問題 となって くる。元興寺・薬師寺 。大 安寺 は遷都か らやや遅れて造首が始 まるものの、 これ まで寺域 内で条坊側溝は確認 されてお らず、 さまざまな研究分野で議論の対象 となるべ き重要 な溝 を本調査 では発見 したことになるだろう。
つ々
(動
回廊 の創建 形 態 につ いて
本調査 によって北面および東面 回廊北半の柱間寸法が判明 した。 しか し、 この桁行 寸法で東面 回廊が 調査 区南外へ続いていた と考 えると、『興福寺流記』 に載せ る東面 回廊 の全長 (22丈
2尺 )と
合 わな く なるばか りか、昨年度発掘 した中門の柱筋 ともそろわな くなる。4ペ
ー ジで述べ た ように、大 岡責は 地上 に露 出 していた回廊礎石 の浪1量成果か ら同様 な疑間 を抱 き、東面 回廊 の柱 間は後世 に変更 された と推測 した。 そ して全長222尺 をもとに、東面 回廊南端付近 に12尺の小 門をお き、残 る柱 間12間を13.5 尺等間に復原 したのである。 しか し、 その推定 は本調査 によって全面的に見直 さなければな らな くなった。 なお北面お よび南面回廊 については、大 岡 も昨年度か らの発掘成果 とまった く同 じ復原 をしている。
ところで、 中金堂院 回廊 の四面 には中門のほかに門が2つずつ開 くこ とが 『興福寺流記』や 『興福 寺縁起』、 その他 の古捨 図 な どに よって わか って い る。 これ は違 子窓部分 を扉 とした穴 門 と考 え ら れ るが、今 回の発掘調査 ではその痕跡 を検 出で きなか った。 これは、おそ ら く遺構 として残 りに くい構 造の問だったため と考 えられ る。
ここで興福寺蔵 『肝要絵図類衆抄』(15世紀 ;『奈 良六大寺大観 興福寺I』 1969よ り ;第25図
)と
東 京国立博物館蔵 『興福寺建築諸図』所収の回廊平面図 (17世紀頃 ;第26図)と
い う2枚
の図面 をみてみ たい。享保2年
(1717)に焼 けた回廊 は、嘉暦2年
(1327)の焼失後に再建 された回廊 であるか ら、そ の間に改修 された可能性があるとはいえ、 この2つの図面は同 じ時に建 て られた回廊 を描 いたもの とい える。 そこでこれ らを見比べ てみ ると、発掘調査か らはわか らなか った小F]の位置な どはよ く一致 して お り、少 な くとも嘉暦焼失後 に建 て られた回廊 とそこに開 く小 門の位置は確定す るといって よい。また、『興福寺建築諸図』所収 の回廊平面図には柱 間寸法の書 き込みが ある。本調査 と関連す る部分 を記せ ば、北面 回廊 が「壱 丈四尺」、 回廊 北東I島部分 が「壱丈壱尺五寸J、 東面回廊北半が「壱丈弐尺
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門アハイ十六丈五尺金騨柾六本南大門柱十八本中門柱十八本廻廊柱百五十本
第25図 『肝要絵 図類 乗紗』 中金堂院図の一 部
五寸五分」 と書かれ てい る。 これは乳尺
(1尺 =303mm)で
あろ うか ら、奈良尺(1尺
=295mmほ ど)に換算すれば、本調査の成果 とおお よそ一致す る。 さらにこの絵図か ら、東面回廊 中央付近には小 門が あ り、その柱 間寸法は「壱丈四尺」、その小 門よ り南側 の回廊 は「壱丈三尺五寸□分」、東面回廊全長が
「弐拾壱丈四尺七寸」であることが読み とれ る。その うち、全長 (214.7親尺=220.5奈良尺
)に
ついて イよ『興福寺流記』ほかの諸記録 とほぼ一致 し、昨年度の中門・南面 回廊跡の発掘調査 で得 られた座標値 か ら検討 (全長約65,2m■
221奈良尺)し
て も触船 はない。 さらに絵図の南面 回廊 の柱 間寸法について も、昨年度の調査成果 とよ く合 うのである。つ ま り、発掘調査 で得 られた数値的デー タは『興福寺建築 諸図』所収の平面図 とよ く符合す るといえる。2ヶ
年にわたる南面お よび北面 。東面回廊の発掘調査 に よって、回廊 はほぼ創建期 の規模 を踏襲 していると考 えられ るか ら、 この平面図が創建 当初の柱間寸法 や門の位置 を反映 している可能性は きわめて大 きい。 したが って、微妙 な寸法の誤差は ともか く、中金 堂院回廊の創建形態はこの平面図によって察す ることがで きるといって間違 いあるまい。以上か ら、東西対称 と仮定 して中金堂院 回廊 の創建形態 を復原す ると以下の ようになる (第
3表
)。梁行寸法がすべ て12尺等間 (奈良尺、以下同
)の
複廊 で、北面回廊 は隅 と中金堂 とりつ き部 を除 き桁行 3間×14尺、 中金堂か らとりつ き部 を除 き2間
目に小F弓が開 く。隅部分 はすべ て12尺等間で、第3表
の ように小 門が開 く。東西面回廊 は隅 を除 き桁行13間で、北か ら8間
目に小 問が あ り、柱 間寸法は小F弓部 分が14尺、小 門よ り北側が7間×12.7尺 (≒89尺)、 南側 が5間
×13.8尺 (三69尺)と
小 門の南側 と北 側 での総長はほぼ完数値 を示す①南面回廊 は隅 と中門 とりつ き部 を除 き5間
で、柱 間寸法 は14尺等間で ある。すなわち、東西面 回廊の小 門の位置 と規模 を決定 し、その南北 を等間割 りす るとい う柱間計画の ようだ。なお、昨年度の調査 で中門 とりつ き部 の回廊柱 間は9尺
と判明 してお り、 ここか ら算定で きる 回廊の東西長 を参考 にす ると、中金堂 とりつ き部 は14尺と考 えられ る。 (箱崎和久)第3表
回廊の創建形態
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第26図
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『 興福寺建築諸図』所収 の回廊平面 図
23
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2条
の東 西溝 の解 釈本調査 では、北面 回廊 の基壇上 で回廊造営以前の平行す る素掘 りの東西溝
2条 (SD7600'7610)を
確認 した。溝の心心間距離 (5。94m)は
ほぼ20小尺にあた り、位置的にみて も平城京三条条間南小路の 両側溝に近 いことか ら、興福寺造営に先行す る平城京の条坊遺構 ではないか と推測す るに至 った。興福 寺造営に先行す る条坊は、 これ までの発掘調査 では未確認であ り、 また、興福寺の寺地は平城京造営当 初 に定め られ、寺域 内に条坊は造 られなかった とい う認識 を覆す もの となる。 これは興福寺の造営開始 時期 とも関連す る大 きな問題 に発展す るため、慎重な検討が必要 となった。検討の前提 と条件
2条
の溝は平城京内の検 出事例か らみて も、小路側溝 としての規模 と形態 を有 して いるので、条坊遺構 であるか否かは、その位 置が条坊に合 うか どうか を見 きわめなければならない。そ のためには、本調査地にで きるだけ近 い位置で確認 された条坊遺構 との関係か ら、復原 され る条坊のお、れ と距離 を検討すべ きである。 ところが、外京域 におけ る条坊遺構 の検 出事例 は3例のみであ り、その うち東 四坊大路に関す る座標 (市168次 ;1988、 第
4表
の④)は
、東西方向の条坊 を検討す る材料には な らない。 したが って残 りの2フ点と、平城京における条坊設定の基フミのひ とつ として扱われた可能性が 高い、朱雀大路 と二条大路条坊計画線 との交′点の座標 (奈文研2239次
;1991、 第4表
の⑤)の
、合計3点
か ら検 討 したい。 なお、計算 にあた っては と くに断わ らない限 り1小
尺=0。2955m、1大
尺=
0.2955×
1.2=03546mと
して作業 を進め る。まず、今 回検 出 した道路心の座標 を① とした (第27図 。第
4表
)。② は転害 門前 におけ る東七坊大路心の座標値 である。この値 の算 出には、東大寺西面大垣 の調査成果 (奈文研
17410次 ,1986)を
根拠 として用 いた。 この調査 では東大寺西面大垣 と東七坊大路の東側溝西 肩 を検 出 してお り、西側溝が未検 出な ものの、平城京におけ る一般の大路の幅員は60大尺 と考 えられ る こと、断面観察か ら推定 され る東側溝の幅は8尺
程度であることな どか ら、西側溝 も同規模 と想定 して 当該位 置におけ る東七坊大路心 を求めた (X=145,591.60、Y=14,87200)①
これ を用いると、東七 坊大路心か ら西面大垣心 までの距離23.758mを得 る。次にこの付近におけ る東西方向の条坊位置は、奈 良時代以来の原位置 を保持 し、一条南大路に心 を合 わせているとい う前提 に もとづ いて、現存す る東大 寺西面北門 (転害 門)か
ら求め られ る。すなわち、転害門の心座標 を1/1000現況図か ら計測 し、 これ と 東七坊大路心 までの距離(23758m)か
ら、転害門前におけ る東七坊大路心② を得 たのである。次に③ は平城京左京三条五坊四坪 (市84次
:1985)の
調査 で検 出 した、三条条間南小路の南側溝心か ら求めた小路心である。 これは小路の幅員 を20大尺 と仮定 して算出 した。まず、② (転害門前東七坊大路心座標
)と
⑤ (朱雀大路 と二条大路 との交ッくの座標)を
使 い、国土座 標系に対す る外京の条坊のふれ を求めた。 これは一条南大路 と二条大路 との関係 であるか ら、条坊方向 の南北距離は1条ぶん=1,800尺 ×0.2955m三531.9mと して算出 した。その結果、ふれは0°06'43"と
な り、 これ まで に知 られ て い る平 城 京 の条 坊 のふ れ (15'〜20'程
度 が 多い)に
比 してや や小 さい が、 この値 を用 いて本調査 で検 出 した道路心の位置 を検討 してみたい*ち検討結果
②転害 門前か ら①興福寺の条坊方向南北距離 (第27図、
A)は 935265mで
ある。 これ を②―① 間距離3,150尺
(7坪
ぶん)で
割 ると単位尺長(1尺 )=0.2967mを
得 た。同様 に して⑤朱雀門前 か ら①興福寺 の条坊方 向南北距離 (第27図 、B)403.358mを
1,350尺(3坪
ぶん)で
割 る と1尺 =
0.2988mと なった。 これ らはいずれ も奈 良時代初期 の単位尺長 と考 えられ る1尺三
0.295m前
後 とい う―条 南大路
東 大 寺
二条 大路
三条条間南小路 三条 大路
国 円
朱 雀 大 路
囲 印
国 印
︱
︱ 五条 大路
検討地点の模 式図
数値に比 してやや大 きい。ちなみに1尺
=0.2955mと
して②転害門前か ら本調査地における三条条間南 小路心を求めるとX=146,411.61と
な り、①の北4.44mの 位置 と算出される。次に、 もう一つ既往の条坊デー タとして左京三条二坊三・四坪間の小路南側溝心 (⑥
=三
条条間南小 路の南側溝心)を
用い、③地点におけ る南側溝心 (③')、 ①今 回調査地の南側溝心 (①')の 3者
の ふれ をみてみ る。③ ―③'間
は東で北へ0°09'11"の
ふれであるのに対 して、③'〜①'間 は逆に東 で南に0°08'22"の
ふれ となる。ちなみに⑥―③'間 の振れ0°09'11"を
そのまま東へ延ば し、今回 調査地における小路南側溝心 を求めると、X=146,409.92と
な り①'の 北6.13mの 位置 となる。以上のように、条坊が規則正 しく施工 されたと考えると、今回の遺構は本来の三条条間南小路 よりも
444〜 6.13m南
に寄った位置で検出されたことになる。 しか し、このことは必ず しも先行条坊である可 能性 を否定するものではない。外京における検出事例 が少な く、本報告でも前提 となる材料に推測が力Hわっているのであるか ら、況時点ではむ しろ、三条条間南小路に近い位置にあ り、溝心心間距離20小 尺が小路にふさわしい規模であるという事実に注 目すべ きと考 える。そして、興福寺境内地における今 後の発掘調査 では、先行す る条坊遺構の存在 を考慮す る必要が大いにあるだろう。 (高瀬要―)
*)平城 京 におけ る条坊のふれに関 しては、 これ までに数 多 くの数値 が算 出 されてい る。主 た るもの に、『平城 京 朱雀大路発掘調査報告書』(奈良市1974)、 武 田和哉 「平城 京外 京条坊制考 J(『 奈良古代 史論集』 3 1997)、
井上和 人「平城 京羅城 門再考 」(『条里制古代都 市研 究』14 1998)な どが あ る。
O
第4表
検討地 点の座標値
心 (市168次 :1
と の 交 点 (奈文 研2239次 i1991
25