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(1)

早稲田大学図書館における

ロシヤ語蔵書の構築(‑)

本 間 暁

1. はじめに

島田謹二氏は、その著『ロシアにおける広瀬武夫』を次のような書き出し で始めている。「一九五九年秋の一日、東大図書館の書庫で雑書をあさって いると、なにげなくひらいた一冊のフライリーフの上の捺印が異常に心に 泌みた。『武夫』という二字をあざやかにうきださせた朱肉が、均等な力を もって捺されている。はっと胸をつかれるように心がさわいで、その下をよ くみると、『広瀬武夫蔵書』の六文字が策書という奇異な字体ではっきりうつ されていた。戦前、神田須田町の広場にそびえたって、少年の目からみなれ ていたあの銅像の主人公がこんな書物をもっていたのかと思うと、何とも エタイのわからぬ感動だった。」(1)氏はこれをきっかけに、広瀬武夫が「武

勇一途の軍人という通念だけでは律しきれない…外国事情に精通する文化 的エリートだったのでは」ないかと考え、労作をものにされたわけである。

氏の労作のきっかけになったこのエピソードは、図書館に働くものにと っては大変興味深いものである。図書館の蔵書は積み重ねの結果であり、

蔵書構築はなによりも持続性の成果である。とくに歴史を経た図書館にあ ってはそのことが言えるであろう。図書館には様々なルートを通じて固書 が集まってくる。現在の蔵書が構築、形成される過程で多くの関係者の努 力があったであろうことは言うまでもない。資料を選択し、購入した教員 や図書館員、自己の蔵書を寄贈し蔵書の形成に寄与した数々の人々、そし

(2)

て、資料の保存・保管に腐心した図書館員など、様々な人々の関わりによ って現在の蔵書が形成されてきたのである。我々も、ときに書庫の中で蔵 書にふれるとき、図書に添付されたブック・プレート、印された蔵書印等 によって、旧蔵者を思い、その図書が図書館へ受け入れられた過程などに 思いを馳せることも多い。また、蔵書形成に関わる数々のエピソードも伝 えられており、それらのエピソードを聞くとき、先人の図書への愛着、収 集のための努力に敬意を感ずることもしばしばである。

早稲田大学図書館には、現在約4万冊に及ぶロシヤ語を中心としたキリ ル文字図書(以下ロシャ語図書という)が所蔵されている。これは、図書館 外国語図書(中国語およびハングルを除く)約40万冊の 1割に相当する冊数 である。図書館ではこれらロシヤ語図書をカード目録及び冊子体目録とし て明らかにし、利用に供している。(『早稲田大学図書館洋苫目録臨文図書篇』

第一篇:明治15‑昭和40年、第二篇:昭和40‑昭和55年、第三篇は平成4年3 月発行予定で、収録は昭和55年から平成3年まで)

日本とロシヤは隣国であり、ロシャ文学が日本文学に与えた影響は非常 に大きく、また外交の面でも多くの課題を抱えているにもかかわらず、ロシ ヤ語図書をまとめて所蔵している図書館は多くはない。早稲田大学固書館 が所蔵しているロシヤ語固書は、単に量的に多いだけでなく、その中に多く の貴重な図書を含んでいる。また、明治以降、長い期間に渡って収集されて きたことにもその特徴がある。時に、図書館を訪問したロシヤ人が量、質に ついて驚きの声をあげることもある。特にロシャ文学関係の図書について は、世紀末から革命の前後、もっとも活発な文学・芸術運動が展開された 期間に出版された固書も多い。文学関係の図書は部数、冊数とも非常に多 く、ロシヤ語図書全体の約半分、 2万冊あまりにのぽると思われる。このよ うな特色のあるロシヤ語図書のコレクション・蔵書構成がどのようにして 成り立ってきたのかは、興味のあるところである。そして、蔵書が構築さ れてくる過程において、どの様なエピソードがあったのかも大変興味深い。

(3)

早稲田大学図i'i館におけるロシヤ語蔵i'iの構築(一)

2 • 初期におけるロシヤ語図書の取扱い

早稲田大学図書館は、 1991年4月の新固書館開館を機に配架分類切り換 えを行った。 この分類の切り換えは、 これまでの分類により整理された固 書を91年3月で凍結し、91年4月以降受入れ図書をNDC(日本十進分類法)

で整理、配架することになった。 これにより、図書館の図書は、 二つの分 類体系の下に配架されている。因みにこれまでの分類は早稲田独自の分類

ということから早稲田分類と呼ばれている。

1882年(明治15)10月、東京専門学校開設と同時に固書室が設けられて以

表1 A B C D E F G H I

JK 

L M  N o p Q R S T U Y Z  

History & biography  Law 

Philosophy  Politics 

Economics & public finance  Literature 

Philology 

Geography & travels  Education 

Psychology & ethics  Natural science 

Sociology and social science  Arts : fine and useful  Religions 

(Textbooks) 

Dictionary & reference books  Statistics, calendars, reports, etc.  Russian books 

Newspapers & magazines  Commerce, transportation, banking  Army & navy 

Gordon Collection  Library,  bibliography 

来、今回の分類切り換えまでの llO年の歴史のなかで、小規模な 改定や展開のほかに概ね4回の 大規模な分類改定が行われてい る。そのうち、ロシヤ語図書の受 入れに深い関係をもつのは3回 目の改定である。 この改定によ る分類表は、『早稲田大学図書館 史ー資料と写真で見る百年ー』 に大正6年4月現在洋書分類表

「(改定時期不明)(大正6年4月分 類改定計画の際の資料による)」と

して載せられている。(2)(表1) これ以前の分類表は明治36年 6月現在というものであるが、

その分類との違いは、幾つか新 たな類が増えており、 そのひと つに R Russian booksがある。

この分類改定の時期がロシヤ語 図書がいつごろから図書館に受

(4)

け入れられたかのヒントになるわけである。しかし改定時期を明らかにし た資料は見当たらない。後に述べるようにロシヤ語図書の受入れの最初は 1909年(明治42)であると思われるので、それ以降の改定であろう。

この分類でのロシヤ語図書はその他の洋書(英語、フランス語、ドイツ語 他)とは区別され、独立した一群として取り扱われている。その後1925年

2 分類 番号 R A  1 ‑ 65  R B  1‑ 5  RC 1‑ 4  R D  1 ‑ 22  R E   1‑ 2  R F   1 ‑704  R G  1 ‑ 52※

63‑ 73  R H   1 ‑ 13  R I  1‑ 3  RJ  1‑ 7  R K  1~20 R L   1 ‑ 11  R M  1‑ 2  RP 1 ‑ 33  R Q  1 ‑ 3  R T  1  R U   1‑ 3  RZ 1‑ 4  計

53‑62は欠番

2 : 悔軍省は寄贈

3 : 片上は購入

海軍省以外の寄贈

5 : 片上以外の購入

部 数 1海軍省※2 片上磁3 寄贈※4購入※5不明※6

65 

31  19  13 

4  2  1  1 

22 

2  2  1  12  5 

1  1 

704 

312  128  24  197  43  63 

13  6  2  8  34 

13 

6  1  1 

20 

15 

11  1  7  3 

1  1 

33 

11  10  11 

1  1 

965 

406  141  30  258  130  I 

受入先不明 なかにはつけもれであると思われるものもあるが、図書番号簿に 記載のないものについては全て不明とした

(5)

早稲田大学図,'I館におけるロシヤ語蔵古の構築(‑)

(大正14)には、 91年3月まで使われた早稲田分類の原型が作られ、大幅 な分類改定が行われた。この分類改定では、例えばそれまでF文学であ ったものをFA文学総記、 FBギリシャ ・ラテン文学、 FDフランス文学、

FE英文学、 FHロシャ文学というように展開させた。この際、ロシヤ語 図書については、それまでの独立した取扱を止め、各分類に混配すること となり、 R(ロシヤ語固書)という分類は廃止されたのである。このロシヤ 語固書が独立の分類であった間の図書原簿(図書番号簿)によれば、この 時期に整理されたロシャ語医書は965部である。分類はRをRA,RBの ように展開させ、それぞれの主題は表1の分類に対応させている。そして、

それぞれの中はRA1,RA2というように追番になっている。表2は それぞれの分類の部数及び受入先別部数である。

このR分類における特徴は

1.  主題として圧倒的に文学 (RF)が多いこと(これはそののちのロシャ 語図書の収集に一貫している)

2. 海軍省寄贈医書が全体の4割2分を占めていること

3. その後ロシヤ語蔵書構築の核になる片上伸収集の固書が購入されてい ること

4. 書店よりの購入固書が2割7分にのぽること(この時期のロシヤ語図 書の輸入がどうだったのか)

などを挙げることができる。

R分類の固書番号簿への記帳(整理)は、 1918年(大正7)9月から1925(大 正14)6月までの間である。収集の核となった①海軍省寄贈、②片上伸収 集図書、③書店購入固書の整理の順番は③①②の順である。番号付けもそ のようになっている。しかし、図書館への受入れの順番は①③②の順であ る。大学では1919年(大正8)に文学科学科課程の大改革が行われ、露西 亜文学専攻科が設置された。実質的には翌年から同専攻科が始まるわけで あるが、当然学科設置にあたって固書の充実は急務のことであったであろ う。そのような状況を背景としてロシヤ語図書の収集 ・整理が行われたの

(6)

である。そして、それまでに受け入れられたロシヤ語図書もこの時点で整 理されたものである。

海軍省寄贈図書

1908年(明治41)10月12日付け図書館事務日誌に「海軍省経理局より魯 書寄贈の旨電話」があったとの記述がある。明治42年5月号の 『早稲田学 報』には「露文図書の寄贈 海軍省にては今回その戦利品なる露文書八百 余冊を本館に寄贈されたり、文学歴史の二種類大部分を占めつ、 何れも露 国研究者には好資料たらざるはなし」(3)と記され、同年11月号には更に500 余冊が寄贈されたと書かれている。総計1300冊におよぶロシヤ語図書が寄 贈されたわけである。日露戦争は1904‑5年(明治37、38)のことで、日本 の勝利に終わったが、この戦争の戦利品としての図書が固書館へ寄贈され たのである。これらの図書が戦闘の最中に捕獲したものであるのか、ある いは賠償の一部として手に入れたものか、また海軍省がどのような理由で 早稲田大学に寄贈したのかは不明である。また、早稲田のみに寄贈された ものなのかなど今となってはわからないことも多い。後に早稲田大学は露 西亜文学科を日本で最初に設けることになるが、その設立の中心になった

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海軍省寄贈固書にある「ウクライナ連隊第47歩兵文庫」のプック プレート。図書はレールモントフの全集 (FH620,旧RF496)

(7)

早稲田大学図柑館におけるロシヤ賭蔵店の構築(一)

片上伸もこの時期予科講師となっていたが、ロシャ文学に傾倒していくの

は、大正にはいってからである。

この海軍省から寄贈されたロシヤ語図書が記録として残っているロシャ 語図書の最初の図書館への受入れであると思われるが、前述のR分類の 図書番号簿に記載されている番号は、例えばRF文学では205から始まっ て途中他の受入先のものも入るが、 553までである。番号は追番であるか ら204以前の図書が先に受け入れられたとも理解できる。しかし、 RF分 類自体の番号簿への記帳、つまり整理が1918年(大正7)9月であること から海軍省寄贈書が受入後、未整理あるいは仮整理のかたちで置かれてい たのではないかと思われる。そのため、この番号づけに狂いを生じること になったのであろう。未整理あるいは仮整理でここまで置かれたのがなぜ かと言えば、図書館や大学にまだロシヤ語に精通している者がいないか、

少なかったのではないかと思われる。

『早稲田学報』には図書館新加月報という欄が設けられていたが、その 大正11年2月号に寄贈として大正11年1月整理分364部647冊、2月整理分 49部64冊の計415部711冊のロシヤ語図書寄贈の記載がある。海軍省寄贈図 書がRFの場合、図書番号簿に記帳されているのが1921年(大正10)11月 からであるから、この寄贈415部711冊の大部分が海軍省寄贈であろう。と ころがこれ以降海軍省寄贈のものの記載がない。寄贈は1300余冊であるか ら、 600冊程度行方不明ということになる。現在本庄分館に保管している 図書のなかに出所不明とされていたロシヤ語図書が176冊ある。これには Rの記号と番号が記されている。ごく一部を除いて蔵書印等はない。内容 は法令全書、海軍猿報等法律及び海軍関係のものであり、出版年は1890年 代から1900年のごく初期(1904年の日露戦争以前)のものなので、これが海 軍省寄贈の一部ではないかと推測される。とするなら海軍省寄贈図書はR の記号で仮整理がなされていたとの推測も成り立つ。

海軍省寄贈図書は大部分が1890年代にペテルブルグとモスクワで出版さ れた図書である。多くを占める文学についてみるとプーシキン、ゴーゴリ、

(8)

ツ)レゲーネフ、 トルストイ、ドストエーフスキイ、チェーホフなどをはじ めとするロシャ文学で馴染みの深い作家作品が網羅されている。また、中 にはディケンズ、ユーゴー、ゾラ、ドーデ、フローベルなどの翻訳作品も 入っている。明治から大正にかけては、後にも述べるがロシヤ本国で出版 された医書が直接輸入されることがなかったことから、この海軍省寄贈図 書がこれだけまとまって図書館に寄贈されたことは大きな意味を持ってい る。また、厳密に言えば、この寄贈以前に東京で出版 さ れ た ロ シ ヤ 語 の 辞 書 な ど が何点か受け入れられてはいるが、ロシヤ語図書の図書館への受入 れの最初と言っても良いだろう。そして、この寄贈が初期の蔵書の核とな ったのである。

※  早稲田分類による請求番号は分類と固書番号によって成り立っている。固 書番号は原則として受入れ順の追い番号である。大体において、出版年次の 古いものから並ぶことになる。しかし、ロシヤ語図書のように受け入れてか ら整理までに時間の経過があったり、分類改定による取扱の変更があると、

必ずしも図書番号と受入れの順番が一致しなくなることもある。ロシャ語固 書については特にそのことが指摘できる。受入れ時期からみると早稲田分類 におけるロシヤ文学 (FH)の番号づけは大変複雑である。 FH分類はロシャ 語固書が多くを占めるが、他の言語(英語、仏語、独語等)に翻訳されたロ シャ文学関係図書、他の言語で書かれた研究書が入っている。 FH分類は91 年の分類凍結時の最終番号は13716である。しかし13716部の固書があるわけ ではなく、飛び番号の部分があり、実際には7605部がFH分類における部数 である。

受入れ時期からみる番号は次のようになる。

258‑800  旧RFで、 1909年(明治42)から1925年(大正14)に受け入れら れたロシャ語固書。但し、FHへの分類切り換え時にすでに除 籍されている図書が除かれたり、他の分類に再整理されたりし

た図書もあるので、 RFの部数とは一致しない。

(9)

早稲田大学図古館におけるロシヤ語蔵;!.'の構築(一)

1235‑8240  旧F(ロシャ語固書を含む文学に分類された洋書)を展開し たもので、そのうちのロシャ文学関係であり、展開の結果、

飛び番号である。 300部あまりのロシヤ語以外の図書があり、

6500番台からロシャ語図書が多数入っている。ロシャ語以外 の図書は明治30年代からの収集。

ロシヤ語固書は1925年から26年(大正14、昭和元年)ころの 受入れ固書で片上収集圏書が多い。

ロシヤ語、それ以外を合わせて約900部。

8241‑9999  1927 (昭和2)から1930(昭和5)の受入れ図書。 片上、ロシ ヤ大使館対外文化協会寄贈本等。

1 ‑257、801‑1230 1930年(昭和5)くらいから1962年(昭和37)までの 受入れ図書。但し、なかにある20部ほど(ロシヤ語以外の言 語)は1898(明治31)から1920(大正9)にかけて受け入れた 図書で、初期のロシャ文学の移入史にとって重要である。

10000‑13716  1962年(昭和37)以降の受入れ図書。

書店からの購入一日本におけるロシヤ語図書の輸入

日本におけるロシヤ語固書輸入の専門書店であるナウカが創設されたの は1931年(昭和6)である。それ以前のロシヤ語図書の日本への流入につ いて雨宮潔は「ナウカがはじまる前には、上海やウラジヴァストークあた りから、また駐露の軍人や商社マン、漁業関係の人なんかを通じて流れて きた書籍が、個人的に売り買いされていたのではないかと思います。丸善 などにもロシア語の本が来ていたそうですが、ロンドンあたり経由でしょ うか ・・・、 いずれにしてもロシア語を原書で読む人は要注意人物になる 時代でしたから需要はそれほどなかったでしょうね」(4)と述べている。

Rの図書番号簿における購入先書店は大部分が丸善と Geiser& Gilbert  という書店である。丸善は1889年(明治22)にドストエーフスキイの 『罪 と罰』英訳本3冊を輸入、内田魯庵、坪内逍造、森田思軒が購入、 1892年

(10)

(明治25)に内田魯庵が翻訳出版したことでも知られるように、ロシャ文 学の日本への移入に大きな役割を果たした。しかし、ロシヤ語図書の輸入 についてはこれまであまり知られていない。丸善によるロシヤ語図書の輸 入について木村毅は「『学の燈』は後につづめて『学燈』となり、さらに今 日は変わって 『学鐙』とかわっているが、その百号記念号誌上で、あるロ

シャ文学専攻家から、丸善はロシヤ語ないしロシャ文学にたいしては、ほ とんど無関心だったと云っているのは、恐らく古いことを知らないからで、

ほとんど毎号ロシヤ語書物が全一頁広告されているのは、他の独仏に劣る ものでなく、スペイン語やイタリア語にまさる。主として語学や文法書な のは、このころ他の英独仏語の書も、語学文法書が多く、文学書の輸入は きわめて少ないという時勢だった。まだ日本の海外文化消化力がそういう 段階であった。丸善では高須治輔の『露和袖珍字彙』まで発行している」(5)

と書いている。たしかに『学鐙』を見ると、例えば7巻4号(1903年4月) の 巻 末 に は PycCKHeKHHrlィ と し て 、 辞 書10点 、 会 話 、 文 法17点 、 地 理 、 旅 行 3点 、 文 学5点が新着あるいは近着として案内されている。

Geiser & Gilbertは図書に添付された書店シールに"Geiser& Gilbert 

K .  

K. Deut.  Buchhandlung. Surugadaishita,  Kanda,  Tokio. . . Leip‑ zig"とあるので、多分ライプツィヒが本店で、東京・神田駿河台下に店を 構えてドイツから図書を輸入・販売していた書店であることがわかる。

図書館が丸善と Geiser& Gilbertの二つの書店から購入した図書は片 上伸からの購入を除く258部のうち210部である。内訳は丸善50部、 Geiser

& Gilbertl60部となっている。この二つの書店よりの購入図書に顕著な特 徴は出版地に関してである。 210部のうち、 166部を占める RF文学の分類 をみると、ロシヤ本国で出版された固書は僅か1部のみであり、ベルリン をはじめとしてオックスフォード、ロンドン、シュトゥッ トガルト、ニュ ーヨーク等で出版された図書である。とくにベルリンは多く、 116部に及 んでいる。ベルリンで出版されたものがこのように多く購入されているこ とは、 Geiser& Gilbertの存在が大きいと思われる。同時に多くのロシャ

(11)

早稲田大学函困館におけるロシヤ語蔵苔の構築(一)

語図書がベルリンで出版されていたことも表している。これらの図書の出 版年は1900年代初頭から1920年くらいまでであるが、「ベルリンには、当時 亡命者のコロニーもあった。ロシアからの亡命者が五万人以上もおり、国 外におけるロシア人の政治・文化上の一大センターとなっていた」(6)ので あり、イリヤ・エレンブルグは『わが回想』第3部でベルリンでは日刊紙 が3部、週刊誌が5種もでており、「一年間にロシアものの出版社が十七社 もできた。フォンヴィ ージンやピリニャークの作品、料理書、宗教書、技 術関係の参考書、回想録、風剌物、なんでも出していた」(7)と回想してい

る。

このR部類における書店からの購入図書の意義は、露西亜文学科設立 前後の図書の充実・整備にあって最初に整理され、利用に供されたこと、

ロシヤ本国からの輸入が困難な時期に、ロシヤ本国以外の出版図書を受け 入れることによってロシャ文学研究等に大きな役割を果たしたことにある。

なお、後(1930年代)に図書館は丸善から若干のロシヤ語圏書を購入し ているが、それらはモスクワなどで出版された圏書である。

片上伸とロシヤ語図書の収集

図書館のロシヤ語蔵書を語るとき、片 上伸による固書の収集を語らないわけに はいかない。 R分類の段階でも片上収集 図書が整理されているが、 R分類が独立 した取扱から一般洋書分類に混配された 後に整理されたものを含めると多くのロ シヤ語図書が片上から購入あるいは寄贈 されている。ロシャ文学の分類である FHにあっては1700部余りにのぽり、そ れは1956年(昭和31)までに受け入れら

れた3610部の実に4割7分強にあたる。 片 上 伸

(12)

FH分類はロシヤ語だけでなく、ロシャ文学に関する他の言語の図書も多 数あるわけであるから、 FHにおけるロシヤ語図書のみを考えるとその割 合はもう少し高い。片上伸は露西亜文学科設立のため、研究と文献収集の ため大学からロシヤヘ1915年(大正4)派遣された。革命にも遭遇、 1918 年(大正7)に帰国し、翌年創設された露西亜文学科の主任教授となった。

文学部長も歴任したが、 1924年(大正13)大学を辞職、再びロシヤヘわた り文献の収集に力を注いだ。片上の収集した図書のなかには革命の高揚の なかで高まったロシヤ・アヴァンギャルド芸術運動の文献など優れて同時 代のものも多い。また、先にも述べたようにロシヤで出版された図書の輸 入が困難な時代に、直接ロシヤで図書を収集したことも大きな意味をもっ ていると言えるであろう。片上の生涯とロシヤ語図書の収集について概観

してみたい。

ロシヤ留学まで

片上伸(のぶる)号天弦は1884年(明治17)愛媛縣越智郡波止濱村に生ま れた。松山中学の前身愛媛縣尋常中学に入学、当時同校では夏目漱石が教 鞭を取っており、 1年後輩には安倍能成がいた。 1900年(明治33)上京し、

東京専門学校豫科に入学するが、脚気のため帰郷。 1902年(明治35)改め て東京専門学校文科豫科に入学し、 1906年(明治39)英文科を卒業した。

因みに当時の文科は哲学科、国文科、英文科、史学科に分かれていた。谷 崎精二は当時の英文科について「彼等は英文学を専攻するために英文科に 集まったのかと云うと必ずしもさうではなく、要するに英語を通じて世界 の文化と文学を知りたいと云うのがおもな望みだった。我々は英訳によっ てツ)レゲーネフやイプセンを学んだ。即ち当時の英文科は一種の外国文学 科であった。」(8)と書いている。このような英文科の雰囲気のなかで学んだ 片上は卒業後、 1907年(明治40)予科講師、 1910年(明治43)27歳で文学科 本科教授となって、イギリス十九世紀初頭のロマンティシズム詩を講義し た。この時期の片上は文芸評論にその活動の重点をおいている。

(13)

早稲田大学図書館におけるロシヤ語蔵芭の構築(一)

片上の思想については、多彩な遍歴がよく言われる。大宅壮ーは片上を

「文壇測候所長」と評したが、教室で片上から直接習った広津和郎の次の

文はその当時の状況をよく伝えていると思うので、少し長いが引用する。

「私が早稲田大学にいた僅か四年三カ月の間に、片上さんは自然主義から

享楽主義、享楽主義から生命主義へと、三i縛したのである。そして私が卒 業して間もなく、片上さんの書くものには左翼的傾向が現れて来た。つま り四縛したのである。これは何も豹の目のように嬰わっていった片上さん の思想遍歴を非難する意味で、このようなことを述べるのではない。先生 といっても三十そこそこであり、時代思潮嬰縛の著しくめまぐるしい年代 であって見れば、先生自身も自己形成に暗中模索の駆足をしていたものと して、この思想遍歴は理解すべきであろう。しかしこういう例を引いて話 さないと、私たちのいた頃の早稲田の文科というものがどういうものであ ったかということは、一寸人々に解って貰えないような気がするので、そ

んな話をして見たのである。甚だ卑俗な云い方をして見ると、若い教授と 学生との間では、一日早く丸善へ行って、新着の本を早く手に入れた方が 新知識になれた程、それ程駆足の啓蒙時代と云ったような年代であったわ

けである。」(9)

そのような状況のなかで、片上はしだいにロシャ文学に傾倒していく。

片上は大学卒業前から第二次『早稲田文学』に関わったが、柳富子教授の 論文『『早稲田文学』とロシヤ文学ーロシャ文学移入研究ノートー』で指摘 されているように、この第二次『早稲田文学』ではロシヤ文学が非常に盛 んに紹介された。(JO)この様な中で「時代の状況からみても、片上を取り まく身辺の状況からみても、その赴くところ、片上のロシヤ文学への傾倒 は、きわめて自然に思える」(11) と同教授は『片上伸のロシア体験ー第1 次留学を中心に』で述べている。ロシャ文学に傾倒しはじめた片上は1913 年(大正2)には「魯庵氏繹の『罪と罰』」を『学燈』に、また「『死人の家』

に就いて」を『文章世界』に発表している。 1914年(大正3)には博文館 から『近代文藝叢書』の一冊としてドストエーフキイの『死人の家』を翻

(14)

訳刊行している。この頃には、東京外語のロシヤ語科に通い、ロシヤ語を 学び始めている。講義では、英文科が1912年(大正元年)に甲と乙に二分さ れ、乙においては「ドストイエフキー研究」、「ゴルキー研究」が講義されて いる。前者は片上と相馬昌治が担当し、後者を吉江喬松が担当した。 1914 年(大正3)から15年にかけて片上は露文学研究(ドストイエフスキー、ザ・

ブラザース・カラマゾフ)を担当している。英文科の講義の一部としてこ れらの講座が設けられたことは、英文科が一種の外国文学科の性格をもっ ていたことを示しているとともに、露西亜文学科設立の前史としての意義 をもっている。講義の内容は片上がドストエーフスキイに深く傾倒してい たことも示している。

大学は1919年(大正8)4月に文学科の改変を行い、文学科を哲学専攻 科、文学専攻科と史学専攻科の三専攻科に分け、文学専攻科には国文学、

支那文学、英文学、仏文学、独文学、露文学の各専攻科を設けた。この改 変の準備のため、大学ではロシヤヘ片上、フランスヘ吉江喬松を研究と文 献収集のために派遣した。

ロシヤ留学

片上の留学期間は1915年(大正4)10月から1918年(大正7)3月までの 2年5カ月である。留学中および帰国後書いた文をまとめた『ロシヤの現 賓』には、次のように書かれている。「私は一九一五年十月四日東京を立っ て、同じ月の十六日ペトログラードに着き、更に十一月三日モスクワに往 った。モスクワを根城に三冬二た夏を送って、一九一八年三月二日、モス クワ居留民の引き上げを機として蹄国の途に就き、同じ月の二十九日東京 へ帰った。」(12)片上の留学で特徴的なことは、首都であったペトログラー ド(旧ペテルブルグ)ではなくモスクワをその拠点としたこと、 1917年の 二月および十月革命に遭遇したことである。

革命当時ペトログラードには約百人程度の日本人が居住していたようで ある。それらの人々は大使館関係者、留学生、商社関係者であった。モス

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早稲田大学~,~,館におけるロシヤ語蔵内の構築(一)

クワはどうかといえば、革命勃発時モスクワにいた特派員は『大阪毎日』

の黒田乙吉ひとりであったことからも、多くはなかったと思われる。留学 先としてモスクワを選んだことについて片上は「その時分よく様子を知ら ないくせに頑固にもモスクワヘ行かうとばかり思ひ込んでゐた」(13)と書い ているが、ヨーロッパ型の近代的なペトログラードよりも、よりロシヤを感 じることのできるモスクワを選んだと思われる。『ロシヤの現質』には、ロシ ヤの風土や民衆についての片上の関心の深さを窺わせる文章も大変多い。

「ペテログラードに於ける革命初痰の頃の様子は、随分険呑であったや うに想はれます。しかしモスクワでは、殆ど全くさういふ不安危険を知ら ずに過ぎました。革命がこんなに平穏に成し就げられるといふことは、非 常に意外でありました。」(14)「アルバートの本通りは人通にも車道にもい っぱいの人出で、大部分は労働者らしい風儒の人たちが、 重い外套を着て ぞろぞろ歩いています。 ・・・電車が通らないので何だか町の様子がのん びりして、祭りの日のやうな気持ちです。」(15)これはモスクワで革命を体 験したときの記述であるが、どちらかといえば政治的過程が重視される革 命期に民衆の反応を描いており大変興味深いものである。

片上は留学中、ロシヤにおける文学教育に興味を持ち、第1回全ロシャ 中等学校ロシヤ語及びロシャ文学教師大会に出席したりしている。この時 のレボート『ロシャの学校に於ける文学』には、「帰国後の露文科の学科配 当を考慮しているせいかかなり具体的な点が目立つ」(16)と柳教授は指摘し ている。また、多くの文学者との交流を通じて、新しい文学の潮流に触れ たりした。帰国後、秋田雨雀などが出席した片上を囲む会での片上の発言を、

秋田は「彼はロシヤから持ち帰った馬糞のような黒パンの一片を示して、

当時のロシヤの食糧欠乏の状態について語り、『しかし、ロシアはこの困難 な時代にも決して文学を失っていない。今ロシアでは、マヤコーフスキー ー派の未来派の詩の運動がとても盛んだ。』とつぎ足した」(17)と書いている。

さて、文献の収集については革命の混乱期ということもあって、大分苦 労したようである。『ロシヤの現質』に「ゴンチャローフの記念日にゴンチ

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ャローフの全集を買い揃へようと思って、グラズノーフ出版のものを方々 探したがどこも品切れです。書物の品切れもだんだん多くなりました。大 抵の書物は定償の二割位を上げました。殊に全集などの品切れが多く、バ リモントのも戦争後でなくては重版は出まいといふことです。豫約出版の ものでも、たとへばミール書店の『二十世紀ロシャ文學史』(ヴェンゲロフ 監輯)などもこの春第五冊が出て、つひ昨日第六冊が出ました。クネーベ リ出版の 『ロシヤ美術史』などは先づ豫定通りに出てゐる方ですが、用紙 なども皆多少粗悪になりました。しかしともかくも紙が高いとか不足だと かは言ひながらも、ブロックガウズ・エフロン出版の百科大辟典の新版も、

二十八巻(ニュー トンまで)を出し、グラナート出版の百科僻典も相嘗に 捗取り、その他ミールやクネーベリ出版の豫約のものも先づ組いて出版さ れてゐます。その他出版月報のたぐひや新聞雑誌の新刊批評乃至紹介の記 事を見ても、可なり各方面とも出版は盛んで、これが平生よりずっと少な いとして見ると、平時の出版の盛んなことも想ひやられるわけです。しか し今日もアルバート通りのスィティンの支店で、老番頭がいろいろの本を 見せて、この通り最近の重版ものは紙が悪くなりました。日本から紙をよ こして貰ふわけに行きませんかなァ、オムスク(であったかトムスクであっ たか)では紙を日本より仕入れたといふことですが、何分織道では運賃が 大愛ですから、フィンランドの方から来るには来ますが、吾々の商賣は全 く困りますなどといってゐました。」(18)と書いており、当時の出版事情と 図書収集の困難さがよくわかる。片上は文献収集や研究にあたって革命後 モスクワ大学教授となったペー・エヌ・サクーリン教授の手助けを受けた。

コジェープニコワは「サクーリンは、早稲田大学のために片上が書物を収 集するのを手伝った。彼の助言によって片上はロシヤ古典の全集もの、ベ ンゲローフ編集の5巻のロシャ文学史やロシヤ美術史、ずっと以前に出版 されたシチェゴリョーフのプーシキン研究やイズマイロフのチェーホフ研 究、大量のロシヤ語・文学の研究や教授のための文献、同時代の戯曲集や 詩集、逐次刊行物、多巻のブロックハウス・エフロンの百科事典、あるい

(17)

早稲田大学図古館におけるロシヤ語蔵fりの構築(

はグラナート百科事典などを入手した。 3~4 千冊にのぼる片上がロシャ で収集した図書はいままで早稲田大学図書館のロシヤ語蔵書の核であり、

これらの図書によって、何世代もの学生たちが学び、また学んでいる。〔片 上が集めた〕これらの図書をすぐに見分けることができるのは、タイトル・

ページにたくみなロシヤ語の筆跡で カタカミ と書かれているからであ る。図書のうち何冊かには、彼の手による書きこみが目につく。固書館に は寄贈の銘のあるサクーリンの固書が保存されている。〔銘は〕 モスクワの 思い出に片上伸教授へ 心からの挨拶をもって片上伸教授へ 友情のしる

しをもって片上伸教授へ である。」(19)と書いている。

再留学まで

1918年(大正7)3月に片上ば帰国、 1919年(大正8)新 設 さ れ た 露 西 亜 文学科の主任教授となる。 1923年(大正12)12月に文学部長となるが、 192 

4年(大正13年) 6月に突如早稲田大学を辞職する。辞職の経緯ははなは だスキャンダラスなものであり、教え子との男色事件によって辞職に追い 込まれたものであったとされている。(20)辞 職 の 際 図 書 館 で は 片 上 か ら ロ シヤで収集した図書962冊を購入している。図書館蔵書のなかに『自大正 十三年至昭和十三年 赤と黒、嵐の足跡』と題されたスクラップブックが ある(特別図書卜10 2028)。これは学内にバラ蒔かれたビラ等を収集した ものであるが、その中に大正13年10月の日付の秋水會同人の名で出された 活版刷りのビラ『朝憲棄乱、風俗壊乱、大逆罪の早稲田大学』がある。内 容は講師であった佐野学、猪俣津南雄が検挙の対象となった1923年(大正12)

の第一次共産党事件等を例に取り、「大学は学問の蓋奥を究めるどころか、

売国奴と破廉恥漢とを排出せしめて、我が国を亡国に導きつつある」と大 学当局を非難しているものである。このビラはこのあと片上の事件を述べ、

「然るに此の怪事の慎相曝露せらるると共に(中略)秘かに片上私有の圏 書買上げの名義にて三千園を提供し、かれを露西亜へ高飛びせしめた」と 書かれている。勿論この種のビラに正確な情報を求めることはできないが、

(18)

当時学内にそのようなウワサが流れたことは考えられる。図書番号簿その 他では購入金額を知ることはできないが、因みに当時の三千円が現在なら ばどのくらいかといえば、大正から昭和初期にかけてコーヒーが十銭であ ったことからすれば、一千万円程度であろうか。

6月に大学を辞職した片上は翌 7月再びロシヤヘ赴いた。

再留学

二度目のロシヤ滞在は1924年(大正13)7月から翌年4月までである。

片上はこの滞在でも図書の収集に力を注いだようである。滞在中に岡澤秀 虎(後に早稲田大学教授)に宛てた手紙の一節に「ロシヤに於ける書物の 蒐集はこの前にも経験したが容易ではない。殊に今では革命前の出版物は 非常に手に入れるのがむづかしい。第一、一般には外國輸出を禁じてある。 革命後のものなら、千九百十八、九、二十年頃のは勿論、二十一、二年頃 迄のものでも小さな詩集とか短編集とか、評論とか、一冊にならないであ ちこちの雑誌に出たきりの論文とかをシステマチックにあつめるのは至難 の事業で、私も目録だけ出来てゐて、貿物のいくらさがしても手に入らぬ ものが頗る多く、疲れぎみです。」「第一金が殆どない。菖蔵書でも貧しい 留学費を割いて集めたのだが、今度は尚更本は高く、金は乏しく、相営そ のために苦心しました。一寸こんな愚痴も云って見たくなるくらいなので す。」(21)と述べている。

図書館では片上の二度目のロシヤ滞在においても、図書の収集を依頼し たのではないかと思われる。『早稲田大学図書館史』には、 1926年(大正15)

5月「留学中の片上伸教授より送付され、汐留駅に到着した露語固書につ いて、『館員立ち会いのうえ検閲の要あり』との連絡があり、武島洋書主任 が警視庁へ赴いた。」(22)との記述がある。これには冊数等は記されていな ぃ。当時の洋書整理の状況をみると、図書が受け入れられてから整理を行 い、閲覧に供されるまでそれほど時間はかかっていない。片上収集の図書 についてみると、線めて集中的に整理がおこなわれたのは3回である。勿

(19)

早稲田大学図術館におけるロシヤ語蔵也の構築(一)

論、全てが纏めて整理されたわけではないので、きちんと線をひくことは できないが、 1度目は、 1924年(大正13)11月頃から1926年(大正15)2月ま でである。この間に分類の切り換えなども行われたわけであるが、文学に 限ると800冊余りが整理されている。この800冊が前に述べた辞職の際の購 入図書962冊のうちのものであろう。 2度目は1926年(大正15)7月頃から 始まり、 9月、 10月に集中している。部数で160部程、冊数で230冊余りで ある。これが2度目のロシヤ滞在中に収集し、図書館へ直接送ったもので あると推測される。 3度目は1928年(昭和3)3月から12月頃までで、 120 

0冊余りが整理されている。これは片上が1928年(昭和3)3月5日に死 去したが、『早稲田大学図書館史』に記載されているように、死後すぐに蔵 書の購入(568冊)寄贈(1299冊)が行われ1867冊が図書館へ入った。それが 整理されたものであろう。このように受入れから整理までが順調に処理さ れている状態を考えるならば、 2度目の整理の対象になった図書が2度目 のロシヤ滞在中に、図書館のために収集したものであると思われる。これ まで片上からの図書は辞職の際と、死去の際の購入、寄贈であると考えら れてきたが、その中間にロシヤで図書館のために収集し、図書館が購入し た図書の一群があることになる。このことは片上が辞職しても固書館との 関係を持っていたことを示しており、図書収集、固書館蔵書の充実に並々 ならぬ情熱をもっていたと考えてよいだろう。

二度目のロシヤ滞在から帰国した片上は、文芸評論家として活躍するが、

1928年(昭和3)3月、脳溢血で死去する。享年45歳であった。その蔵書 は先にも述べたように図書館に寄贈あるいは購入された。(但し、図書番号 簿には寄贈の記載はなく、すべて購入となっている)また、ロシヤ大使館対 外文化連絡協会より、片上伸教授記念としてロシヤ語圏書1700冊が図書館 へ寄贈されている。

これまで片上収集のロシャ語図書については、文学を中心に述べてきた が、文学以外の分類にも当然あるわけで、演劇、歴史、経済、百科事典等 の分類にも片上が収集した図書が所蔵されている。片上の収集した図書は

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全 部 で3000冊を上回るであろう。これらの図書が図書館のロシヤ語蔵書の 核になったことは言うまでもない。

ロシヤ語図書の収集を中心に簡単に片上伸の生涯を見てきたが、片上の

生涯はなにか駆け抜けた生涯との印象を持つ。しかし、この駆け抜けたよ うな片上にあって、残した遺産、即ち収集した図書は後の日本におけるロシ ャ文学研究に大きな意義を持った。早稲田大学図書館にあって片上伸の名 は蔵書構築に貢献した多くの人々の一人として語り継がれるべきであろう。

(1)  島田謹二『ロシヤにおける広瀬武夫』上、朝日新聞社、 1976、P.9.  (2)  『早稲田大学固書館史』早稲田大学図書館、 1990、P.228.  (3)  『早稲田学報』明治42年5月号、 P.4. 

(4)  雨宮潔「ロシア語図書輸入の半世紀」『露西亜学事始』所収、日本エディ タースクール出版部、昭和57年、 P.257. 

(5)  木村毅「学鐙(燈)の誕生」『丸善百年史 下』所収、丸善、 1980、P.390.  (6)  平井正『ベルリン 悲劇と幻影の時代 1918‑1922』せりか書房、 1980、

P. 297 

(7)  エレンブルグ、イリヤ.木村浩訳 『 わ が 回 想 第3部』朝日新聞社、

昭和38年、 P.21. 

(8)  谷崎精二「片上伸一英文学との関連において」(『英文学 研究と鑑賞』 4、 早稲田大学英文学会、昭和27年、 P.92) 

(9)  広津和郎 『年月のあしおと』講談社、昭和38年、 P.117‑8. 

(10)  柳富子「『早稲田文学』とロシャ文学、ーロシャ文学移入研究ノート」(『比 較文学年誌』 6、早稲田大学比較文学研究室、 1970)

(11)  同「片上伸のロシア体験 ー第一次留学を中心に」(『比較文学年誌』21、 1985、P.27) 

(12)  片上伸 『ロシヤの現賓』至文堂、大正8年、P.1.  (13) 同、 P.271. 

(14) 同、 P.219.  (15) 同、 P.222.  (16)  (ll)P.37. 

(21)

早稲田大学図因館におけるロシヤ語蔵書の構築(一)

(17)  秋田雨雀『あかつきえの旅』潮流社、昭和25年、 P.86. (18)  (12) P. 169. 

(19)  Ko BHHKOBa,vin. Y111rneprnTeT BaeaH pyccK JI匝 図 証 ."100 JJ pyccKOH l<YJJbTYPbl  BOH皿 "Moc1ma, 1989. 所収, p.43.

〔コジェーブニコワ、イー.ペー.「早稲田大学とロシャ文学」『日本に於 けるロシャ文学の百年』所収、モスクワ、ナウカ、 1989〕訳は筆者 (20)  当時学生であった浅見淵は、「片上伸の男色の犠牲者が僕達の周囲のあち

こちから出だし、一時期、なんとなく陰惨な空気さえただようにいたっ た。」(『昭和文壇側面史』講談社、昭和44年、 P.71)と書いている。また、

この事件が表面化し、片上の辞職を求めた陳清書が出された際、それが 露文科乗っ取り策動とされ、それに対して馬場哲哉、原久一郎など6名 の露文関係者の連名で「片上伸氏事件顛末公開状」なる文書が文学部内 にばらまかれたと、述べている。

(21)  片上伸『片上伸全集 2』砂子屋書房、昭和14年、 P.375‑6.  (22)  (2)P.40. 

(ほんま さとる 外国固書担当課長)

参照

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