法 隆 寺 五 重 塔 心 柱 伐 採 年 の 意 義
16
0
0
全文
(2) 九〇. 跡は︑法隆寺西院の五重塔付近では見つかっておらず︑火災が起き. た若草伽藍から燃え残った材を転用した可能性がある︒また︑六七. て来た転用材だったとも考えられる﹂と︑転胴説を述べる︒さらに上. ︑心柱転用説と原木保存説. まずはじめに法隆寺五重塔の心柱が伐採からおよそ百年後に使用. 原真人氏も﹁かわらの年代などの研究から︑五重塔の建立は七世紀. ^6−. 〇年以降︑斑鳩地方の大寺が再整備された際に︑それらの寺から持っ. された理由について︑専門家諦氏の見解︑すなわち心柱転用説と原. 末−八世紀初めで動かない︒柱には象徴的な意味があり︑古いもの ^7︺. 木保存説を紹介しておきたい︒. して︑飛鳥寺の五重塔の心柱を使ったのではないでしょうか︒飛鳥. 七一一年に法隆寺を再建します︒そのときに建てた五重塔の心柱と. した心柱を用いたのかもしれない﹂という︒また梅原猛氏は﹁彼らは. 蘇我氏の豊淋寺など︑没落した豪族の氏寺を朝廷が引き取り︑そう. 具体的な寺名は挙げていないが︑別の紙面では﹁大化改新で滅びた. か﹂と︑ここでは七世紀初めごろ建てられた寺の心柱というだけで︑. になるなどして︑その心柱を転用したと考えるしかないのではない. せておいたとは考えにくい︒七世紀初めごろに建てられた寺が廃寺. く考える説でも︑七世紀中ごろ︒だとしても︑半世紀も原木を寝か. 日本書紀に書かれている︒このとき︑ヒノキが大量に伐採されて︑. 九四年は﹃仏法興隆の詔﹄が出て︑豪族たちが競って寺を造ったと. に伐採したものであった可能性を述べている︒また高田良信氏は﹁五. 切っておいたかもしれない﹂と︑間魎の心柱はもともと法隆寺のため. 則氏は﹁飛鳥寺の創建期よりは少し後なので︑法隆寺のために材を. で考えが変わることはない﹂とし︑さらに﹁資料として活用するに 一品一 は他の部材の伐採年も明らかにする必要がある﹂と指摘した︒菅谷文. ん古いが︑伐採から建立まで木を寝かしてきたのだろう︒この資料. つぎに貯木説を述べているのは鈴木嘉吉氏で︑﹁伐採年代はずいぶ. を転用したのでは﹂と︑転用の可能性をいう︒. 寺は︑蘇我氏の象微であり︑仏教の発祥地としての象徴でもありま. 一部を保存していたのだろう︒六七〇年の火災後︑法隆寺は財政的 ^10︺ に困窮していたので︑この保存ヒノキを使ったのではないか﹂という︒. 転用説を述べているのは直木孝次郎氏で︑﹁今の五重塔を︑最も古. した︒その塔の心柱で聖徳太子の霊を鎮魂しようとしたに違いあり. 私も産経新聞祉の石井奈緒美記者の電話取材に対して︑﹁五九四年. ^3︺. ません︒心柱が伐採されたのが五九四年で︑飛鳥寺完成は五九六年. は︑まさに国家を挙げて飛鳥寺の建立に力を注いでいたころで︑法. 一9︺. と︑時期もぴったりです﹂と︑飛鳥寺心柱の転用を主張する︒森郁夫. 隆寺建立も同時に行われていたとはとても考えられない﹂とし︑﹁飛. 一4︺. 氏も﹁五九四年の伐採とすると︑六七〇年以降の再建まで寝かすと. 鳥寺のために伐採され︑余っていた木が百年近く保存され︑活用さ. ^5︺. は考えられず︑別の寺などからの転用材と考えるしかない︒大火の.
(3) ^11−. れたのでは﹂と述べた︒. を読みとり︑太陽の黒点活動の周期を見つけようとしたが︑やがて. 年輪の照合が可能であることを発見した︒すなわち年輸年代法の成. 同年代に形成された年輪は同じ変動変化をしていることに気づき︑. 原和氏は﹁中国敦煙の壁画や︑統一新羅初期︵七世紀後半一の韓国・. 立である︒そこで年代を割り出すための基準パターンづくりを試み︑. もっとも︑転用説・貯木説どちらにも与しない考えもあって︑上. 松林寺の塔との類似性など︑広い視野で見る限り︑法隆寺金堂が天. 功した︒その後︑この年輪年代法はアメリカからヨーロッパに広が. 一九二九年にアメリカ南西部のインディアンの遺蹟の年代決定に成. ようがない︒だから︑転用とか寝かせていたという説が出るだろう. 文化の本家ともいえるわが国では年輪年代法に対する関心は低いよ. 武勒半ば一七世紀後半一で︑塔はさらにその後ということは動かし. が︑私にはどちらも考えにくい︒年代が正しいとすれば︑なぜそん 一 一 な柱が使われたのか不思譲としか言いようがない﹂と︑上原氏のコメ. うだ︒その理由はアリゾナ州のような乾燥地帯とちがって︑わが国. り︑歴史学における年代法として応用されてきた︒ところが︑木の. ントには年代判定にやや疑問をもつニュアンスが感じとれる︒. のような温暖多湿で微気象に富み︑複雑な地形をもつ地域で生育す. る樹木の年輪は微細な気候要素の影響を受け︑大きな気候変化を反. たちに大きな衝撃を与えた︒もちろん私も衝撃をうけた一人で︑新. 氏の研究発表は建築史・美術史・考古学さらには文献史学の研究者. 法隆寺五重塔心柱の伐採年は西暦五九四年であるという光谷拓実. し︑今も数百年の樹齢をもつ現生木が豊富なことから︑わが国にお. 古い木造建築物が多く存在し︑全国の遺蹟からは大量の木材が出土. のわが国では活用されていなかったのである︒光谷氏はわが国には. このように欧米では七十年の歴史をもつ年輸年代法も︑木の文化. 二︑年輪年代法について. 聞ニアレピによる報道から半年を経た二〇〇一年八月二十七日に︑. ける年輸年代法の可能性を求めて一九八O年度から研究を開始し︑. 映しにくいと考えられてきたからである︒. 奈良文化財研究所で直接光谷氏の研究内容︑すなわち年輸年代法に. その結果わが国でもすくなくともヒノキ・スギ・コウヤマキ・ヒバ. ところで︑スギやヒノキなどの針葉樹の木口面には何層にもなっ. では年輪年代法が充分適用できることが判明したというのである︒. ついて詳しく聞くことができた︒以下︑年輪年代法について紹介し 一旧一. そもそも年輪年代法はアメリカアリゾナ大学の天文学者A・E・. た年輪が見えるが︑中心部に髄があり︑その外側に心材部が︑さら. たい︒. ダグラス博士が一九一〇年代から研究をはじめたもので︑当初イェ. に辺材部と樹皮がある︒心材部は赤味とも称され︑色調は濃厚であ. 九一. ローパインを用いて樹木の年輸幅の変動変化から気候変化の周期性 法隆寺五璽塔心柱伐採年の意義.
(4) るが︑辺材部は色調が薄く白っぽく見えることから白太ともいわれ. る︒樹木は樹皮直下の形成層の活動によって成長し︑毎年新しい年. 九一一. ン︑つまり暦年標準パターンを作成することができるのである︒. さて︑年輪年代法ではまずはじめに︑年代を割り出すために基準. となる暦年標準パターンを作成しておかなければならない︒作成作. つぎつぎと連鎖的に湖っていくと︑長期間の暦年標準パターンを作. 輸が外周に形成される︒したがって︑木口面に白太があってさらに. 一般に針葉樹の場合︑年輪一屑のなかの木材組織は大型で細胞壁. 成できる︒こうしてできあがった暦年標準パターンの年輪データは︑. 業の第一は伐採年代の明らかな現生木の年輸幅の計測からはじまっ. の薄い仮導管からなる早材部と︑これにつづく小型で細胞壁の厚い. 伐採年の明らかな現生木から順次湖っているから︑当然ながら暦年. 樹皮がのこっていれば︑年輸年代法によって樹木の伐採年を正確か. 仮導管からなる晩材部とからなっている︒早材部は春から夏にかけ. 代が確定するのである︒つぎに︑年代不明の木材の年輸幅を計測し︑. て︑順次古い建築部材や遺賊出土木材などを求めながら︑大量の年. て︑また晩材部は夏から秋口にかけて形成されるから︑両者の成長. 試料パターンを作成する︒この試料パターンとすでに作成していた. つ確実に求めることが可能になる︒今回の法隆寺五重塔の心柱がま. 量を足したものが一年間の成長量︑つまり年輪幅となる︒このよう. 暦年標準パターンを照合し︑両者の合致する年代部分に注目すれば︑. 輸幅の計測値を収集・照合して同じ年輸パターンをもつ年代部分を. な樹木の年輸は年ごとの気象条件である気温と降水量に影響をうけ. 暦年標準パターンの暦年から試料パターン︑すなわち試料木材の年. さし く こ れ に 該 当 す る の で あ る ︒. ながら︑前年の年輪の外側に一層ずつ形成される︒当然ながら気象. 輸の年代を確定することができるのである︒. 暦年標準パターンは適用可能な樹種のすべてについて︑また地域. 条件が良い年には広い年輪を︑逆に悪い年には狭い年輸を形成する︒. こうした年輸幅を計測し︑その変化を経年的に連続して調べてみる. ごとについて作成することが望ましいが︑樹齢が長く︑植生分布が. ヒノキとスギに隈られる︒ヒノキの暦年標準パターンは現在から紀. と︑生育環境が似かよった一定の地域範囲のなかでは樹種ごとに固. この原理を応用したものが年輸年代法である︒つまり︑共通の年. 元前九二一年まで︑またスギは現在から紀元二二二二年まで湖るも. 広く︑その上古代から現代までよく利用されている樹種となると︑. 輸特性をもつ樹種であれば年輸変動パターンは一致することになり︑. のが作成されているが︑ドイツでは一万年前まで湖る暦年標準パ. 有の共通した変動パターンを描くことが判明している︒. 年輪年代法が適用できる樹種かどうかは︑この年輸変動パターンの. ターンができているという︒. 今回の法隆寺五重塔心柱の伐採年はまさしく光谷氏が作成したヒ. 照合の成立にかかっている︒このような照合作業をクリアした樹種 だけが年代年輪法の基本となる暦年の確定した標準年輸変動パター.
(5) 大学の木質科学研究所に保管されている︒この標本はヒノキ材で︑. た︒この折︑厚さ約一〇センチの円盤標本が切りとられ︑現在京郁. いた掘立柱の心柱は腐朽していた基部を切断し︑新材が根継ぎされ. までの長期にわたり解体修理がおこなわれた︒地中深く埋められて. 恵施僧正が聖徳太子の遺願を成就すべく仏塔を建てることになり︑. う︒法起寺三重塔はその露盤銘によると︑天武十四年︵六八五一に. 寺三重塔の心柱は現状の﹇板外年輪は五七二年に形成されたものとい. 興寺禅室に使われていた巻斗は五八二年に伐採されたもので︑法起. なお︑光谷氏の研究によると法隆寺の心柱の伐採年のほかに︑元. 国で受容されなかったことは︑木の文化の国であることを思えばま. 直径約八ニセンチの八角形を呈し︑樹心をもつ︒光谷氏は今回この. 二十一年後の慶雲三年︵七〇六︶に完成したというから︑心柱の原. ノキの暦年標準パターンを使って年代判定をしたものである︒法隆. 標本をソフトX線で搬影したところ︑以前肉眼では確認できなかっ. 木が建立時に伐採されたものなら︑原木の周囲から約百年分の百層. ことに残念といえる︒. た辺材部︑つまり白太部分が三・六センチも残存していることを確. ほどの年輪部分を除去して心柱に加工したことになる︒今回の法隆. 寺の五重塔は昭和十六年︵一九四こから昭和二十七年︵一九五二一. 認した︒一般に樹齢二〇〇⊥二〇〇年くらいのヒノキの平均辺材幅. 寺の心柱以上に問魎となろう︒. 一H︺. そ百年の時代差がある︒これに関する諦氏の見解は他寺の心柱を再. 法隆寺の心柱の伐採年代と再建法隆寺の造営時代との間にはおよ. 三︑転用説・貯木説の検討. は三センチであるから︑法隆寺心柱は樹皮直下の年輪までのこって いると判断した︒すなわちここがポイントで︑法隆寺五重塔の心柱. は先述のごとく年輪年代法によって伐採年を正確に求めることがで きる条件をそなえていたのである︒そこで暦年標準パターンを使っ. て年代測定をした結果︑何度も記してきたように法隆寺心柱の伐採 年は五九四年と確定したのである︒. 利用したとする転用説と︑伐採から百年ほど貯木されていた原木を. まず転用説から検討してみたいが︑一般論として他寺の心柱を再. もとより門外漢の私が光谷氏の年輪年代学の研究を批判できる立. 輸年代学に収りくんだ研究者はいないようだ︒光谷氏も欧米の文献. 利用するためには︑他寺の仏塔を解体して心柱を取り出さなければ. 用いたとする保存説に分れることはすでに紹介したところである︒. の翻訳から研究を開始し︑試行錯誤の結果︑わが国初のヒノキやス. ならない︒つまり︑再建法隆寺の五重塔の造営工事の計画がはじまっ. 場にないことはいうまでもないが︑わが国では光谷氏以外︑誰も年. ギの二〇〇〇年以上にも湖る暦年標準パターンをつくりあげたので. た時点で︑心柱を法隆寺に提供できる寺院があったかどうかという. 九三. ある︒アメリカで開発されヨーロッパで広がった年輪年代学がわが 法隆寺五重塔心柱伐採年の意義.
(6) はたしかに大化改新で滅びた蘇我氏発願の寺院であるから︑まさし. 氏寺と考え︑その候補として蘇我氏の豊浦寺をあげている︒豊浦寺. ことになる︒心柱を提供できる寺院を︑直木孝次郎氏は没落豪族の. おこなわれたのは︑このときまでに薬師寺では金堂と本尊薬師如来. 三箇月後の持統二年︵六八八︶正月八日に一人薬師寺で無遮大会が. の時点でまだ堂塔は一つも完成していなかったからで︑これより十. ここに天武九年十一月発願の薬師寺の名が見えないのは百箇日法要. 九四. く没落豪族の氏寺といえよう︒檀越たる豪族が没落するとその氏寺. さて︑天武朝末年における豊浦寺は官寺に次ぐ寺格を誇り︑先帝. が完成していたからである︒. て豊浦寺が靭廷に引き収られ︑その上仏塔は解体されて心柱が再建. の百箇日法要を官寺以外では坂田寺とともに開催するほどの寺院で. は経済的に困窮することはまちがいあるまい︒しかし︑だからといっ. 法隆寺の心柱に転用されたと解するのはいささか性急ではあるまい. かも最近の破綻した銀行が一時国有化されて政府の管理銀行となる. あった︒したがって︑氏寺は檀越が滅びると衰退すると考え︑あた. 豊浦寺と同じく蘇我氏発願の飛鳥寺は蘇我氏没落以降︑大寺すな. ように︑朝廷が衰退した氏寺を引き取り︑その後解体して心柱を再. か︒. わち勅願寺の扱いをうけ︑天武九年一六八〇一四月には大官大寺・. 利用したと解することはすくなくとも豊浦寺においてはあり得ない. 一旧一. 川原寺・薬師寺とともに当時整備しつつあった律令体制の中に組み. のである︒. ^ 肺︺. 込まれ官寺となった︒蘇我氏の私寺たる飛鳥寺がこのような特別な. 田﹂の五寺に設けたというのである︒このとき豊浦寺は天武九年四. ち︑天武天皇の百箇日法要を﹁大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂. り百箇日法要をおこなった寺院の一つとして記されている︒すなわ. 八六一十二月十九日条によると︑天武天皇崩御後の無遮大会一つま. いたからにほかならない︒一方の豊浦寺は﹃日本書紀﹄朱烏元年一六. 大化のクーデターと壬申の乱のとき天武天皇は飛鳥寺に助けら九て. それ故に仏教興隆の拠点として仏教界に君臨してきたこと︑さらに. にする語で︑スクラップアンドビルドが思い浮かぶが︑森氏は七世. え残り云云とは別の見解も述べている︒再開発というと昨今よく耳. のを転用しようとしたことは十分考えられる﹂と︑創建法隆寺の燃. 法隆寺再建はその象徴のはず︒法起寺や中宮寺など太子ゆかりの寺. 紀後半に斑鳩の再開発があったらしいことが発掘調査でうかがえる︒. 測に推測を重ねたものゆえ論評しようがない︒さらに森氏は﹁七世. 法隆寺の心柱は燃え残っていて︑それを転用したといわれても︑推. 転用した可能性もあるというが︑﹃日本書紀﹄が全焼したと記す創建. つぎに︑森郁夫氏は先述のように創建法隆寺から燃え残った材を. 月の勅によって官寺となった大官・飛鳥・川原の三寺につづく寺格. 紀後半に斑鳩地方の再開発によって法起寺や中宮寺の仏塔が解体さ. 待遇を得たのは︑わが国第一号の本格伽藍の寺院であったことと︑. を有していればこそ︑天武天皇の百ヶ日法要が催されたのであろう︒.
(7) れ︑その心柱が再建法隆寺の五重塔の心柱として.再利用されたと本. 二種の条里制が存在したようである︒もっとも七世紀前半・後半と. が報告されているから︑斑鳩地方では七世紀前半と後半では異なる. 大雑把に記したが︑新しい条里制がいつから登場したのかについて. 気で考えているのだろうか︒. というのも︑私見によると中宮寺は聖徳太子の礎去後法隆寺僧た. さらに造営も長期化し結局は講堂と回廊は建てられることもなかっ. た︒そのことが堂塔の規模を小さくし︑本尊も木彫の等身像となり︑. 願造営したものであるから︑自ずからその経済的基盤は脆弱であっ. る法隆寺がその近くに斑鳩の僧寺一法隆寺一に対する尼寺として発. 我馬子のごとき有力な仏教信奉者による発願造営ではなく︑寺家た. は未完の大寺であった可能性が強いという︒中宮寺は聖徳太子や蘇. よると講堂や回廊は甦立されなかったようで︑藤井利章氏は中宮寺. おそらく三重塔は七世紀後半に建立されたのであろう︒発掘調査に. 代のものまであって︑造営期間が長期に及んだことが偲ばれるが︑. した︒また中宮寺趾から発掘された瓦は飛鳥時代のものから白鳳時. の孝徳斉明靭ごろの制作で︑それを安置する金堂もそのころ完成. 寺院を敢えて解体する必要はなく︑法隆寺のごとく後に焼失した時︑. のような条里制の更改を指すものなら︑旧条里に則って建つ斑鳩の. ことになったのである︒森氏の主張する斑鳩の再開発なるものがこ. 台を造成し︑回廊内が南北より束西に長い伽藍配置の寺院をつくる. 結果的に再建法隆寺は創建地から西北のやや離れた斜面を崩して高. れとも新しい条里制を採用するかという紛糾であったと解している︒. に建てるか︑塑言すれば再建法隆寺は古い条里制を踏襲するか︑そ. 条里に則った伽藍として建てるか︑また新しい条里に則って別の地. に書かれている︒私はこの寺地問魎について︑創建地に従来通りの. 後再建を前に寺地問題で紛糾したことが﹃上宮聖徳太子伝補閥記﹄. 隆寺一現西院伽藍一は三度西偏して建立されたが︑法隆寺では焼失. たとえば創建法隆寺︵若草伽藍︶は二十度西偏して︑また再建法. は確認できない︒. たのである︒森氏がいわれる七世紀後半の斑鳩の再閉発なるものが. 新しい条里制に則って建立すればよいのである︒なお︑発掘調査に. ちによって発願造営されたが︑本尊の半痂思帷像は七世紀半ば過ぎ. 具体的に如何なるものか︑私には理解しかねるが︑やっとの思いで. よると中宮寺の金堂・三重塔・西面築地の方位は二度六分東へ振れ. ^H︺. 建ち上げたばかりの中宮寺三重塔を仮りに解体させたのであれば︑. ていたというから︑中宮寺の条里は斑鳩の二十度あるいは三度西偏. 一. 九五. してみると︑森氏が主張する斑鳩の再閉発によって中宮寺の三重. 一刎一. よほど強大な権力が行使されたのであろう︒こうした強制的な力が. する条坐とはさらに異なる条里があった可能性を示している︒斑鳩. 一㎎一. 働いた痕跡を文献史料の上で確認することは不可能である︒しかし. 地方の条坐については今後の発掘調査に期待したい︒. ^. 斑鳩地方では方位の異なる二種の遺構︑すなわち西偏二十度の七世. 紀前半の推古靭ころの遺構と︑七世紀後半の西偏三度の遺構の存在 法隆寺五重塔心柱伐採年の意義.
(8) を調達して今=厘建立したのであろうか︒私にはあり得ないことと. を取り出し︑法隆寺の五重塔のために提供し︑その後あらたに心柱. この三重塔は創建期のものではなく︑七世紀末に一度解体して心柱. のである︒中宮寺の三重塔はその後平安時代の中期には秦致真に ^引︺ よって聖徳太子絵伝の中に描かれ︑鎌倉時代には確実に建っていた︒. 塔を解体してその心柱を再利用することなどほとんど考えられない. 初めごろ︑完成は慶雲三年ということであろう︒すると天智九年. 銘には三重塔は天武十四年﹁構立﹂︑慶雲三年露盤を﹁営作﹂とある 一 ご が︑﹁構立﹂は三重塔の起工式で︑工事着工は持統朝末から文武朝の. 和十九年焼失一と比較すると︑建築様式は大分遅れるという︒露盤. 今も斑鳩の地に建つ三重塔は法隆寺の五重塔や法輸寺三重塔︵昭. あった︒. た福亮や︑三重塔を建てた恵施は法起寺にとってまさに救世主で. 九六. 思われるのだが︒. 弥勒像と金堂は十六年後の箭明十年︵六三八一に福亮僧正によって. の聖徳太子の遺願によって岡本宮を寺とすることになったが︑本尊. なら︑法起寺塔露盤銘によると法起寺の草創は推古三〇年︵六二二︶.. 重塔︑もっとも新しいのが法起寺三重塔というから︑再建法隆寺の. 斑鳩の三塔の中では法隆寺五重塔がもっとも古く︑つぎに法輸時三. まり存在しなかったのである︒さらにいえば︑建築様式からすると. 武朝の前半には︑法起寺の三重塔は未だ建立されていなかった︑つ. ︵六七〇一に焼失した法隆寺が金堂から再建工事に取りかかった天. つくられることになった︒さらに四十七年後の天武十四年︵六八五︶. 五重塔の心柱に法起寺三重塔の心柱を再利用することなど到底でき. 中宮寺だけではなく︑法起寺の場合はさらに可能性はない︒なぜ. には恵施僧正が太子の遺願を成就すべく仏塔一三重塔︶を建てるこ. ないのである︒. 以上のように︑森氏が現法隆寺の心柱は他寺院・すなわち創建法. とになり︑二十一年後の慶雲三年︵七〇六︶に完成した︒このよう に法起寺は発願から伽藍の完成まで八十四年も要しているが︑平均. が︑それでも造営工事は遅遅として進まなかったようで︑そのよう. は︑法隆寺は藤原一族が七一一年に再建するが︑蘇我氏の象徴であ. つぎに梅原猛氏の飛烏寺仏塔の心柱転用説を検討したい︒梅原氏. 隆寺も含めて中宮寺や法起寺の心柱を転用したと主張する見解はい. な状況にあって太子の遺願を成就させようとしたのが福亮であり︑. り︑仏教の発祥地としての象徴であった飛鳥寺の塔の心柱で聖徳太. 二・三十年は要した上代寺院の造営期間の中でもずばぬけて長い︒. また恵施であった︒この露盤銘はたとえ聖徳太子のような有力な仏. 子の霊を鎮魂しようとしたに違いないとし︑心柱が伐採されたのが. ずれの場合も成立し得ないことになろう︒. 教信奉者が寺院の建立を遺願したとしても︑亡くなれば如何ともし. 五九四年で︑飛鳥寺完成は五九六年だから時期もぴったりだと主張. 露盤銘には太子の遺願によって大和と近江の田地を施入したとある. 難いことを如実に伝えているのである︒金堂と本尊弥勒像をつくっ.
(9) る︒飛鳥寺の仏塔は鎌倉時代の建久七年︵二九六︶六月十七日に. ありません﹂といささか情緒的にいわれてもすれちがうばかりであ. の説明がほしい︒飛鳥寺の﹁心柱で聖徳太子の霊を鎮魂したに違い. て心柱を取り出し法隆寺のために転用したと主張するなら︑何らか. の年からあまり隔たらない時点で︑官寺たる飛鳥寺の仏塔を解体し. として登場した官寺に列する旨が勅されているのである︒ならばそ. として扱われてきたことを理由に律令体制に組込まれ最高位の寺院. 四月に飛鳥寺はもともと勅願寺でなかったにもかかわらず︑勅願寺. しかしながら︑すでに述べたようにこの間の天武九年︵六八○︶の. 心柱を収り出して再建法隆寺の五重塔の心柱に転用したことになる︒. うなら六七〇年から七一一年の間に飛鳥寺の仏塔は解体され︑その. あって七一一年に再建法隆寺は完成したのである︒梅原説にしたが. は六七〇年に創建法隆寺が焼失しているから︑その後再建工事が. 題がある︒梅原氏は七一一年に法隆寺は再建するというが︑正確に. はひとまず置くとしても︑飛鳥寺の仏塔心柱転用説にはいささか問. 隆寺怨霊説は梅原氏の三十年来の解釈:王張であるから︑このこと. ために心柱を提供できるような寺院の仏塔が︑しかもその心柱は五. が明白になった︒心柱転用説なるものは七世紀の末に再建法隆寺の. 梅原三氏の見解について検討してきたが︑いずれも成立し難いこと. 以上︑法隆寺五重塔の心柱を他寺の心柱の転用とする直木・森・. 隆寺の心柱に転用したと主張することはそもそもできないのである︒. などあるはずもあるまい︒それ故︑梅原氏が飛鳥寺仏塔の心柱を法. 年に伐採の法隆寺の現心柱が飛鳥寺仏塔の心柱として使われること. すでに建っていたのであり︑さすれば翌推古二年つまり西暦五九四. 推古元年以前に原木を伐採し︑乾燥・加工をすませ︑推古元年には. わち心柱を建てたと記している︒換言すれば飛鳥寺の仏塔の心柱は. 正月十五日に心礎の中に舎利を安置し︑翌正月十六日に刹柱︑すな. 造営工事は仏塔からはじまった︒﹃日本書紀﹄は推古元年︵五九三︶. それも一塔三金堂の大伽藍を建立すべく蘇我馬子によって発願され︑. 仏塔であった︒飛鳥寺は用明二年︵五八七一にわが国初の本格伽藍︑. とこれは﹃日本書紀﹄の誤解で︑推古四年に完成したのは飛鳥寺の. 批判にしたがったもので︑これについては後述するが︑私見による. は﹃日本書紀﹄が飛鳥寺の完成を推古四年︵五九六︶と記すのに無. さらにいうと︑梅原氏は飛鳥寺の完成を五九六年とするが︑これ. 諸火によって焼亡しているから︑鎌倉時代まで建っていたことはま. 九四年に伐採された原木を使っていなければならず︑そのような仏. するのである︒再建法隆寺は藤原一族によって建立されたという法. ちがいない︒仮りに梅原氏のいう遡りなら︑七世紀の末の天武勒か. 塔がまさにタイミングよく存在することが最大の条件で︑つぎには. 一別一. ら持統靭にかけて一度解体され心柱を取り出された飛鳥寺の仏塔は. その仏塔を解体して心柱を取り出さなければならないのである︒こ. 一邪︸. その後あらたに心柱を調達して復原されたことになるが︑これにつ. うしたことを考慮すると︑心柱転用説は机上で考えることはできて. 九七. いて梅原氏はどのように考えているのであろうか︒ 法隆寺五重塔心柱伐採年の意義.
(10) 一. 一. もきわめて非現実的な見解なのである︒つまり︑法隆寺の心柱は他. 九八. 貯木説の菅谷文則氏は﹁飛鳥寺の創建時期よりは少し後なので︑. 体修理の報告書によると︑心柱に他寺のものを再利用した痕跡はな. なお︑昭和十六年︵一九四一︶から実施された法隆寺五重塔の解. 失して再建されることを予測して材を切っていたわけではなかろう. 氏が﹁法隆寺のために材を切っておいた﹂という法隆寺は︑将来焼. はあるが︑五九四年伐採の原木は法隆寺のためのものという︒菅谷. 法隆寺のために材を切っておいたかもしれない﹂と︑やや消極的で. かったようである︒もしも心柱が再利用したものであれば︑同一規. から︑五九四年伐採の原木は当然ながら創建法隆寺のために伐採さ. 寺の心柱を転用したものではないということになろう︒. 格でないかぎり最初の仏塔の造作の跡がかならずやのこるからであ. れたものということになろう︒私見によると︑創建法隆寺︵若草伽. 一蝸一. る︒このことからも心柱転用説は成立し得ないのである︒. 面が干洞びていてもひと皮むくと新鮮な木の香りのした経験をもつ. 快に述べているのが印象的であった︒たしかに檜は何十年も経て表. が︑伐採から建立まで木を寝かしてきたのだろう﹂と︑平明かつ明. 氏は五九四年伐採の原木を法隆寺のためのものと主張したいのなら︑. 隆寺ではなく再建法隆寺の心柱に使用されたのである︒つまり菅谷. 寺の仏塔のために五九四年に伐採したはずの原木は︑なぜか創建法. 藍一は推古十五年︵六〇七一に聖徳太子によって発願された飛鳥寺 一η一 につづくわが国本格伽藍第二号の寺院であった︒こうした創建法隆. つぎに︑心柱貯木説では鈴木嘉吉氏が﹁伐採年代はずいぶん古い. 人は多いと思われる︒つまり伐採から百年経た原木を建築部材とし. この原木が創建法隆寺ではなく再建法隆寺のために使用された理由. 四年伐採の原木が法隆寺のためのものであったと主張することはで. て用いることは可能で︑何よりも乾燥がすすみ好都合といえる︒だ. ただし︑百年もの長期間寝かせた原木を用いた実例を挙げること. きないのである︒それに何よりも菅谷氏はこの心柱が当初から法隆. を説明しなければなるまい︒このことが説明されないかぎり︑五九. ができないし︑そうした例を記す文献資料もないため︑先の直木氏. 寺のものと主張するのなら︑五九四年の時点で︑将来︑私は推古十. からこそ他寺の心柱の転用説も唱えられたのである︒. は﹁半世紀も原木を寝かせておいたとは考えにくい﹂と︑主張され. 五年を想定しているが︑法隆寺が建立されることが決まっていたこ. つぎに高田良信氏は先述のように︑心柱伐採の五九四年は聖徳太. たのである︒しかしながら︑現に建っている仏塔を解体して心柱を. えよう︒私は︑原木を長期間保存した後建築部材として用いた実例. 子の仏法興隆の詔が出て︑豪族たちが競って寺をつくったというか. とを立証しなくてはならないのである︒. を知ることができなくとも︑その原木が利用可能であれば長期の貯. ら︑このとき大量のヒノキが伐採されて一部を保存していた︒これ. 取り出す転用説を想定するより︑原木貯木説ははるかに現実的とい. 木は大いにあり得る︑いやあったと考えている︒.
(11) を再建時に財政的に困窮していた法隆寺が使ったという︒また別の. 紙面では﹁五九四年は︑聖徳太子が三宝︵仏法興隆一の詔を発した 年で︑寺を作る雰囲気が出ていた時期︒この年に伐採し︑乾燥のた. 住居や住居の屋根に瓦を葺いた程度のものだった可能性が強い︒. けっして豪族たちは競いて本格伽藍の寺をつくったのではないので. ある︒五九四年当時︑わが国では本格伽藍第一号の飛鳥寺の建立が. はじまっていて︑先述のごとく前年の推古元年︵五九三︶に仏塔の. 心柱を建てていた︒まさにわが国本格伽藍建立の到来であった︒ひ. め保存させていた木材を再建時に提供を受けたとの仮説が成り立 つ﹂ともいっている︒. るがえって問魎の心柱に注口すると︑現に本格伽藍たる法隆寺の心. 九九. 法隆寺五重塔の心柱が伐採されたという西暦五九四年は推古天皇. 四︑心柱材伐採時のわが国の造寺事情. 如何にも俗っぽい︒正確にいうと︑予備材というべきであろう︒. のということになろう︒先に私は﹁余っていた木﹂と発言したが︑. 藍第一号の飛鳥寺の心柱の予備材として伐採され保存されていたも. 九四年伐採のものなら︑それは五九四年当時造営中のわが国本格伽. ントしたのであった︒塑言すれば︑再建法隆寺の五重塔の心柱が五. れ︑余っていた木が百年近く保存され︑活用されたのでは﹂とコメ. 鳥寺だけとなる︒そこで私は前掲のごとく﹁飛鳥寺のために伐採さ. こうしてみると︑五九四年当時造営中の本格伽藍の寺院は唯一飛. 伐採したものではないのである︒. の原木は高田氏がいうような豪族たちが競いてつくった寺のために. ために巨大檜を伐採したはずであった︒したがって︑五九四年伐採. 柱として使用されているから︑その原木も本格迦監の仏塔の心柱の. ﹃日本菩紀﹄によると︑推古二年︵五九四︶春二月一日に聖徳太子. が仏法興隆の詔を発し︑臣連たちは君親のために仏舎を競いてつ くったが︑これを寺といったというから︑たしかに五九四年に寺を つくる雰囲気が出ていたと主張することは可能だ︒しかし私は豪族. たちが競ってつくった仏舎が本格的な伽藍を擁した︑たとえば飛鳥. 寺や今見る法隆寺のような版築によって強固な基檀を築き︑その上 に礎石を掘え︑直径五・六〇センチの大きな柱を建てて︑何百トン. もある瓦屋根を支えるような大陸伝来の巨大木造建築であったとは 思っていない︒法隆寺の心柱が伐採された五九四年当時のわが国の 造寺事情については次章で詳述したいが︑私見によれば五九四年ご ろは本格伽藍の寺を豪族たちが競ってつくるような時代ではなかっ たのである︒豪族たちの住唐に小さくとも仏像を安置しさえすれば︑. それは仏舎であろうし︑寺と称してもよいのである︒またわが国古 来の掘立柱の建物に大陸伝来の瓦を葺いただけでもその建物はすで に仏舎で︑仏像を安置すると立派な寺であった︒. それ故︑高田氏のいう﹃日本菩紀﹄推古二年条の記述はたとえ寺 と称していても︑本格伽藍を擁した寺ではなく︑当時の豪族たちの 法隆寺五重塔し柱支采年の意義.
(12) 心柱を建てたことが﹃日本書紀﹄推古元年正月条に書かれている︒. 月十五日に心礎の中に舎利を安置し︑翌正月十六日に刹柱︑つまり. 鳥の地で造営工事をすすめており︑前年の推古元年︵五九三︶の正. の二年にあたる︒当時わが国では初の本格伽藍を擁した飛烏寺が飛. 工のもとで養成されていたわが見習工人たちが︑やっと一人前の造. り飛鳥寺は十年の歳月をかけて外国人教師たる百済の造仏工と造寺. の口的であった︒百済の工人の来日からちょうど十年目の用明二年 一四一 ︵五八七一︑わが国初の本格伽藍を擁した飛鳥寺が発願された︒つま. 格伽藍の仏教寺院を建立するための日本人工人を養成することがそ. 一〇〇. したがって︑法隆寺の心柱が伐採されたという推古二年は︑飛鳥寺. 仏工と造寺工に成長したため発願されたのである︒. 格伽藍の飛鳥寺の造営を成功させるべく全力を傾けていたのであっ. で他の本格伽藍の寺院を造営する能力はまだなく︑ひたすら初の本. れた寺院であった︒さらにいえば当時のわが国に飛鳥寺と同時進行. そもそも飛鳥寺はわが国における本格的迦監第一号として建立さ. が国で工人が養成されていても︑それでもまだ造寺工は足りなかっ. そ︑わが国第一号の本格伽藍の飛鳥寺発願を決意したのである︒わ. さらにその上本格伽藍を造立可能の日本人工人が成長していればこ. 我馬子はこの用明二年に政敵物部守屋を討って排仏派を一掃したが︑. 飛鳥寺発願の用明二年について今少し述べると︑飛鳥寺檀越の蘇. 一蝸一. の仏塔の建築工事がはじまって二年目という時期であった︒. た︒これについて は 以 下 私 見 を 述 べ て お き た い ︒. あつた︒わが国に仏教を伝えた百済は︑﹃日本書紀﹄によると敏達六. る指導者︑つまり明治のお雇い外国人教師のような人物が必要で. 第一に当時の束アジアにおける最新の文化文明をわが国に教示でき. ことはもともと不可能なことであった︒これを可能とするにはまず. が︑見たこともない最新の文化文明をわが古代人だけでつくり出す. のような仏教寺院は高度な技術を駆使した中国文明の結品であった. 中で金色燦然と輝く丈六の金銅仏を誰一人見たことがなかった︒こ. なく︑ましてや彩色鮮やかな巨大木造建築からなる大伽藍や︑その. のために招聰された百済の工人︑すなわち寺工︵造寺工︶の太良未. までもあるまい︒﹃日本書紀﹄崇峻元年︵五八八︶条には飛鳥寺建立. 造堂塔グループの方が工人数も多く︑組織も大きかったことはいう. ループからなっていた︒二つのグループでは巨大木造建築を建てる. 塔グループと︑本尊の丈六金銅仏の制作を担当する造仏工の造仏グ. 飛鳥寺造営チームは堂塔の建立を担当する造寺工を中心とした造堂. 飛鳥寺造営チームとでもいうべき組織がつくられたのである︒この. した百済人工人とからなる飛鳥寺造立のための工人集団︑たとえば. こうしてわが国で養成された日本人工人とあらたに百済から来日. たようで︑発願と同時に造寺工の招聰を百済に要請している︒. 年︵五七七︶四人の僧尼とともに造仏工︵仏師︶と造寺工︵寺師︶. 大・文買古子︑鍍盤博士の将徳白昧淳︑瓦博士の麻奈文奴・陽貴文・. すなわち︑欽明靭の仏教公伝までわが古代人は仏教を知ることも. を献ってきた︒この造仏工と造寺工の来日は︑わが国においても本.
(13) 造営チームの長で︑おそらくは造堂塔グループの長が兼ねていたの. 考えられる︒造堂塔グループと造仏グループを統括するのが飛鳥寺. 鋳造部門に分かれ︑さらに多くの手元が控えるという職制だったと. に鞍作鳥が浮上し︑そのほかの日本人造仏工はその下の造形部門と. 造形部門と鋳造部門に分業化され︑両者を束ねるリーダー的造仏工. の百済の造仏工のもとで養成されていた日本人見習工たちがやがて. 支援したのであろう︒また造仏グループについては︑敏達六年来日. えるものだが︑百済の工人たちはこの造堂塔グループ全体を指導・. 人たちがいたようである︒これが造堂塔グループの工人組織ともい. 羅爾・山西首都鬼が︑さらにその下に多くの手元︑つまり補助的工. 督と思える四人の工人意奴彌首辰星・阿沙都麻首未沙乃・鞍部首加. 任者が山束漢大費麻高垢鬼と惹等加斯費直の二人︑その下に現場監. 名が書かれている︒それによるとまず建塔工事の総監督のごとき責. 縁起﹄所収の露盤銘には飛鳥寺の建塔工事に従事した日本人の工人. 稜貰文・昔麻帝彌︑聾工の白加の名が記されている︒また﹃元興寺. といえなくもない︒. ける一堂塔四年はけっして長くはなく︑逆に短期間で建立していた. な巨大木造建築の建立には三年・四年とかけているから︑古代にお. 次建立していったからである︒もっとも現代でも金堂や仏塔のよう. るが︑これは堂塔を一つづつ︑それも一つに平均四年ほど要して順. 回廊内の仏塔と三つの金堂を完成させるのに二十年以上を要してい. 堂・束金堂・西金堂が建てられた︒用明二年︵五八七︶の発願から. による丈六の金銅釈迦三尊の本尊が完成するまでに︑回廊内の金. 四年の十一月に完成する︒その後︑推古十七年一六〇九︶の鞍作烏. はじまったのである︒飛鳥寺の仏塔はその後三年の工事を経て推古. ように舎利を心礎の中に安置し︑翌十六日に心柱を立て建築工事が. 礎工事のあと︑つまり発願後六年の推古元年正月十五日︑先述した. 立てはできないし︑梁も桁も架けることができない︒このような基. 基檀上の所定の地点に掘える︒ここまでの工程が終っていないと柱. 採石場からは礎石にする石を切り出し︑柱をうけるように加工して︑. 山面まで掘り下げて版築工法によって強固な基檀を造成する︒また. われる︒伽藍に立つ堂塔に応じて杣収︑つまり原木の伐採がおこな. 営チームが組織され︑まず寺地の決定︑伽藍の設計がなされたと思. ては最大規模の寺院であった︒用閉二年の発願後まもなく飛鳥寺造. さて︑飛鳥寺は一塔三金堂の伽藍配置をもち飛烏時代の寺院とし. ことは不可能であった︒先述のごとく私見によれば法隆寺は聖徳太. 造営工事が峠を越さないかぎり︑次なる本格伽藍の造営に従事する. 日指して造営工事に専念していたはずであるから︑彼等は飛鳥寺の. めて養成された造寺工と造仏工は︑飛鳥寺の発願後︑伽藍の完成を. ところで︑わが国における本格的な仏教伽藍を建てるためにはじ. 一㎝一. ではあるまいか︒. われ︑つづいて原木の乾燥︑さらに加工︵木造り︑現在いうところ. 子によって推古十五年一六〇七︶に発願されているから︑推古十七. 一〇一. ^31︺. のきざみ一︑一方では寺地の整地・地割を施し︑堂塔の建つ位置を地 法隆寺五重塔し主茎米年の意義.
(14) 法隆寺が発願された推古十五年にはほぽ造営工事は峠を越していた. 年に回廊内の堂塔と丈六金銅仏の本尊が完成を迎える飛鳥寺では︑. や飛鳥寺の工事はこのあとまだ二〇年もつづくのであるから︑他の. で︑飛鳥寺のほかに本格伽藍を建立することはできないし︑まして. 造営チームにしかいなかったのである︒したがって五九四年の時点. 一〇二. のであろう︒私は本格伽藍第一号は用明二年発願の飛烏寺︑第二号. 寺院の建立計画もなかったことになろう︒それ故︑私は法隆寺五重. 先述のように光谷氏は元興寺の禅室に使われていた巻斗が敏達十. 測定値はおそらく正確であったことが証明されると思われる︒. て光谷氏の研究成果を検証する時が到来すれば︑光谷氏が提示した. 四年の伐採と確認されたが︑将来年輪年代学を志す研究者が現われ. 法隆寺五重塔の心柱は光谷拓実氏の年輸年代学の研究により五九. むす. と結論したい︒. 塔の心柱材は飛鳥寺の堂塔の部材に使用すべくために伐採したもの. は推古十五年発願の法隆寺︵若草伽藍一︑さらに第三号は推古二十 一響. 八・九年︵六二〇・こごろ発願の四天王寺と想定しているが︑三 番目の本格伽藍の造営のころともなると︑敏達六年来日の百済の工 人に養成された第一世代の工人に加えて︑飛鳥寺や法隆寺の建立を. 通して養成されたであろう第二世代︑さらに第三世代の工人が登場 していた可能性があり︑工人数は相当増えていたと思われる︒おそ らくこのころになると︑同時進行で二つ三つの本格伽藍の造営が可 能になっていたのではあるまいか︒. 以上︑私はわが国における本格的な仏教伽藍建立の黎明期に伽藍 の造営に従事する工人たちが百済の工人によって養成されると︑ま. ず飛鳥寺造営チームを組織して飛鳥寺を建立し︑つぎに法隆寺造営. たちはわが国初の仏教建築の造営工事をいよいよ本格化させたとこ. 鳥寺仏塔の心柱を建てた翌年であるから︑飛鳥寺造営チームの工人. 問題の法隆寺五重塔の心柱の伐採年五九四年は最初の本格伽藍の飛. 複数の本格伽藍を建立できるようになった経緯について述べてきた︒. 工人たちが推出したため工人たちの数は増加し︑やがて同時進行で. の部材をつくらせることで︑見たこともなかった仏教建築の技法を. えたであろうと述べた︒つまり︑百済の造寺工は見習工たちに各種. 材︵一分の一の模型一を手本に各種の部材をつくらせることから教. はわが同の見習工たちに︑百済から持参した仏教建築の実物大の部. 発表している︒かつて私は敏達六年︵五七七︶来日の百済の造寺工. 柱の最外年輸が敏達元年︵五七二︶に形成されたものであることを. 一年︵五八二︶に伐採されたものであることや︑法起寺三重塔の心. ろであった︒さらにっけ加えるなら︑心柱材支采の五九四年ごろの. 習得させたのである︒百済の造寺工の指導がはじまる敏達六年以降. 一㏄一. わが国には巨大木造建築の仏教建築を建立できる工人はこの飛烏寺. チームに再編成して法隆寺を建立したが︑この間第二・第三世代の. び.
(15) 多くの檜が伐採され︑それを仏教建築の部材に加工することでわが. 見習工人たちは仏教建築の技法を学んだのである︒いわば見習造寺 工たちの習作時代であった︒. 前掲の巻斗はまさしく飛鳥寺の発願前の︑私のいう見習造寺工た ちの習作時代に伐採された檜を造作したものであろう︒また法起寺 三重塔の心柱は最外年輪が敏達元年に形成されたものというから︑. 百済の造寺工の来日より五年はやい︒もしも辺材部の白太部分の年 輸五年分ほどが除去されていたのなら︑百済の造寺工の来日後の伐 採と い う こ と に な ろう︒. 寺・︒一屋無︒鹸︒大雨箏鴛﹂とある︒. 一2一合塔本堆㎜^我^.糾㍑∵以舳粁. 凧川. 右和銅四年歳次辛亥︑箏造祈︑. 介金剛力十形武艇. 右和銅四年歳次辛亥︑寺迷者︑. ﹃剃口新閉﹂二月二十一u酬刊︒. 共同迦偏記小愉蛾・二. ﹃朝□新閉﹂二川二十一□靭刊︒. 一4一共M迦信記堆仙搬・二月二十口︒. 一3一. 一5一. 一8一. 一7一. ﹃軌口新閉﹂二月二十一□軌刊︒. ︐東京新閉﹄二〃二十一□靭刊︒. ﹃昧経新㎜﹄二月二十一口刺刊︒. ﹃読売新閉﹂二月二十一口靭刊︒. 二十口︒. 一6一. 一10一. 共阿迦信記箏怖糀・二月二十u︒. 一9一. 一12一. 一u一. 私の推測が許されるなら︑敏達六年に百済の造寺工が来日し︑わ が国の見習工の養成がはじまると教材となる檜がつぎつぎに伐採さ. 光谷拓実︐年輪年代法と文化財﹄一﹃口木の美術﹄四二一.至文堂.二〇. この判断は心椛の標木写玖に樹皮が写っていることと︑かつて標本を訓. 州稿﹁大寺考﹂一﹃早柵⁝山大学大学院文学研究科紀要﹄第四一輯第三分. ﹃口本排紀﹂天武九年四月︑是月条には︑﹁勅︑凡諦寺者︑白・今以後︑除ト爲・・. 一〇一一一. 拙椛﹁巾宮寺の創立について﹂一﹃V稲m山大学大学院文学研究科紀要﹄第. 四六輯第三分冊・二〇〇〇年二月一︒. 一17一. は拙柵一註15︶を参照されたい︒. 治︒復嘗有功︒是以︑猶入・・官治之例・︒﹂と︑記されており︑これについて. 滴︒什則除之︒H以鴛︑飛篶寺不︒可︒闘■・子司治・︒然元鴛■・大寺・︑而官司伍. 圃大寺・二三ト︑以外官司莫レ治︒唯其布・食封・者︑先後限■・冊年・︒若激︒年. 一16一. 冊・一九九六年二川︺︒. 一15一. 企した西閉秀雄氏がたしかに樹皮があったことを記憶していたことによる︒. ︵14一. 〇一年六月︶︒. ︐陸縦新閉﹄二月二十一口柳刊︒. れた︒見習工たちは仏教建築の実物大の部材をつくることから仏教. 一13一. 建築の技法を習得していったが︑そのとき使用されずに保存されて いた檜の原木もあった︒これが法隆寺心柱の場合と同じく百年以上. も経た天武勒の末に日の目を見て︑法起寺三重塔の心柱として使用 されたのである︒法隆寺法起寺両者に共通することは仏塔の建立が ^糾︺. またれていたころ︑きわめて経済的に厳しかったことである︒それ. 一 35一. 故に両寺とも心柱材の伐採をあきらめ︑飛鳥寺に保存されていた予. 法隆寺五重塔し主支采年の意義. ﹃口本苫紀﹄ 天智九年条には︑﹁夏四川癸卯朔壬叩︑ 夜半之後︑災■■法隆. 備材をさがし出し︑ 提 供 さ せ た の で は な か ろ う か ︒. 一1︶. 註.
(16) 一18一. る. 條炸利巾﹁巾宮寺跡﹂一奈良叫立榊原考十n学研究所附属〃物飾﹃大和を掘 一九八二年峻狢棚洲企速榊展二二二 一九八∵一年︶︒一牒作利巾﹁斑鴫. 一九八二乍吹﹄一九八三年一︒族ル利巾﹁斑鳩町. 巾・︷^小寸跡. 発掘. の火災とその後の. ⁝〃川次狢⁝州珊⁝介概⁝⁝﹄斑. 一九八一∴年. 小官寺跡. 町火H寺跡先棚洲介概榊﹂秦良壮V州原考★学研究所﹃奈良u小逝肺洲 査概服. 一胆﹂ 一■几八岬作・︶︒ 西一雌甘⁝房﹃班鳩町. 朋企概榊﹂^余良県立慨収考^γ研究所﹃余皿県遺脳洲介概糀. 膝ル利巾氏前掲泄㍗〃一甘18参蝋一︒. 鳩町教育委〃会・一九八八年︒. ﹃十一︷H快倣太∫伝納閉・卍﹂には班棚寺︑すなわち法峰. 寺地閉迦の紛糾についてつぎのように記している︒すなわち︑﹁斑鳩寺被災 之後︑衆人.不︒得︒定寺地︑故〃済人帥牢衆人■︑介並犯蜥蛛⁝㌻■︑介 逃川内^ルホ・︑∬沽⁝帥・川川帥∴ト氷れ雑物箏一∵人︑合造∴∴休㌻﹂. ﹃法峰寺別川次第﹂には定火大榊郁が法陸寺別川であった康和一∴年二一. とある︒ 一21一. 〇二から人永元午一.一一〇一の閉に巾宮寺の塔を修迩したこと︑また. 巾の仏像に彩色を施したことが篶かれている︒その後︑法陸. の綱封蔵か. 覚︑長法橋の別︑吋代の長寛∴年一一一六川一には小^寺の堺を修逃し︑塔. 御塔にこもりて八. ら火寿川納帳が従児された父永十︑年二二七川一に仰かれた﹁巾宮寺尼 信如祈洲箏巾﹄には﹁士年のはる二 一︑κHより小沽. こ っ て い た こ と は㎜逸いなかろう︒. 仙夜の八.心仏を修す﹂とあるから︑文永十年二∵七.二一にこの㌻に塔がの. 飛篶寺の塔の焼失については排晩の注進文に作かれている︒一﹃飛篶寺. 州持﹃斑棚の†﹂一H木の廿災術15・保育竹・一九八九一︒. 発拙洲介.縦㍗﹄所収・文化財保護委㍑会・一九五八年三川一︒ 一〇七・一九七六一︒. 上原典人氏は﹁代に象微的な意昧があり︑市いものを松川したのでは﹂. 州椛﹁飛篶寺の制立に閑する閉迦﹂一﹃伽教一簑術﹄. ^証7一と述べているが︑これは論瑚.が辿であろう︒七肚紀水の法峰寺岬逃. のころ惟に象微的廿昧があったことを突砒できれば︑卜■原氏のヤ張は可能. 一〇四. 五暇.塔修理⊥堆搬㍗﹄. であろうし︑また転川脱が成立していれぱ︑枕には象倣的なな昧があった. ︒. ﹃法峰寺閑宝保作丁箏榊㍗杵岬︸十三冊凶孜法昧^. と木張することもできるのである︒ 一26一. 法帷寺閑宵保作委以会・一九一κ五午一二. 一︒. 拙稿﹁茱舳鋭の成一叱とω雌法陸寺﹂一﹃束洋美術史仏⁝必﹄★け怜博十★稀 記人︐心会・一九九九年∵. 一27一. の先︑蜘については州棚一泌刎︺と杣劣一証28︶を参⁝盲﹂れたいo. 一九九四午∴〃一︒拙符﹃飛篶の文閉閉化﹄★. 州梢﹁鞍作篶の並仏技法の洲〃について﹂一﹃口木古代史災考﹄高篶止人 先小.廿稀祝鉗倫文災刊行会. 一28一. 飛乃. 川仏文舳・一九几七乍川川︒. 雌﹂とあり︑内辰午は推^川年二κ九六一にあたる︒﹃□本. 仏塔の完成午については﹁凡㎜ハ 緑起﹄所概の飛篶寺仏塔の露盤銘に ﹁内辰午十一. 〇化−一∴. ︶︒. 杣棚﹁.ル逃法峰寺と秋迦一二帷. 鮒掲州併一詐28参㎜一︒. 池⁝延設薬帥寺γ箏班栃所長の石川柳光氏の御教示によると︑伽鮮の復. きるのである︒. 一二〇〇一年十. 十口稿一. 材は心竹であろうから︑心付川の予備材があれば如何なる部材にも利川で. トルの︑い大なムー1湾楡の原木を腋入し寺内に保存しているという︒肚大の部. 丁備材を確保する去つにとの病小で︑心従一・七メートル︑︑長さ十四メー. ㎜一がすすむ楽帥寺にも故西⁝常一似災のもっとも大きな部材に利川できる. 一35一. 四・一九九六年一川一︒前掲州著一沽21参岬一︒. −太子信仰の成立−﹂一﹃佛教簗術﹄二二. 州棚﹁㎜火干寺の猪蜘と造付について﹂一﹃風土と文化﹂第■ヶ・二〇〇. 舳禍杣棚一糾27参雌一︒. か九年で完成することはあり得ないのである︒. そのまま︷け人れたのである︒一塔一二金作の大伽藍の一−二箏が狢撤からわず. ㎜ハ寺述克﹂と・記し︑先の侮岨氏はテキスト・クリティークをすることなく. 篶紀﹂はこの仏塔の完成を飛篶寺乍体の完成と娯解して推市岬年条に﹁法. 30 29 31. 32 33 34. 20 19 23 22 24. 25.
(17)
関連したドキュメント
人口 10 万人あたりの寺院数がもっとも多いのが北陸 (161.8 ヶ寺) で、以下、甲信越 (112.9 ヶ寺) ・ 中国 (87.8 ヶ寺) ・東海 (82.3 ヶ寺) ・近畿 (80.0
推計方法や対象の違いはあるが、日本銀行 の各支店が調査する NHK の大河ドラマの舞 台となった地域での経済効果が軒並み数百億
つの表が報告されているが︑その表題を示すと次のとおりである︒ 森秀雄 ︵北海道大学 ・当時︶によって発表されている ︒そこでは ︑五
東京スカイツリーも五重塔と同じように制震システムとして「心柱制震」が 採用された。 「心柱」 は内部に二つの避難階段をもつ直径 8m の円筒状で,
キャンパスの軸線とな るよう設計した。時計台 は永きにわたり図書館 として使 用され、学 生 の勉学の場となってい たが、9 7 年の新 大
層の積年の思いがここに表出しているようにも思われる︒日本の東アジア大国コンサート構想は︑
彼らの九十パーセントが日本で生まれ育った二世三世であるということである︒このように長期間にわたって外国に
に至ったことである︒