(東女医大誌 第35巻 第3号頁252−256昭和40年3月)
急性乳腺炎治療の統計的観察
助教授 井
イノ
東京女子医科大学第2病院外科
坪 井 重 雄・梶 原
ツボ イ シゲ オ カジ ワラ
上 久 司・阿 部 泰 ウエキユウジ アペタイ
哲郎
ロカアツ
恒
コウ
(受付 昭和40年1月25日)
1.緒 言
急性乳腺炎は外科外来においてしばしば見られ るものである.最近の化学療法,なかんずく抗生 物質の進歩により,急性乳腺炎の治療効果は著し
く向上したとの報告もあるが,その反面,耐性菌 の出現により治療日数の遅延,手術的療法の増加 の傾向も見られる.われわれは過去3年間(昭和 37年1月より39年8月まで)の症例237例を基に 統計的観察を試みた結果,存外に手術的療法の症 例が多く,また治療日数の遅延を認め,更に乳癌 の誘因とも言える乳腺硬変を訴える症例が多い事 が剣明した.ここに急性乳腺炎の治療現状につき 報告する.
II.急性乳腺炎の病理
治療するに当り,その基礎となるべき乳腺の解 剖を熟知する必要がある.成人の婦人の乳腺は,
乳頭に開口する乳管を有する約20個の葉を形成 し,各葉は,小葉に分れ,各小葉は小輸出管とこ れから分枝している終末腺房より成り立ってい る.これら小輸出管と終末腺房間は線維性間質に よって形成されている.
妊娠期乳腺は小葉・輸出管の薯明な増殖,間質 は浮腫状となり萎縮する.授乳期乳腺はこれらの 増殖小葉の各腺房が拡大し,内腔に乳汁が分泌さ れる.そして間質は極めて僅少となる.ゆえに細 菌感染にかかり易い素地を形成しているので,治
療方法は物理的療法と化学療法との併用である.
III・当科における治療成績 a)膿瘍形成の頻度
当科を受診した急性乳腺炎および乳腺膿瘍息者 は総数237例であり,それらの発生時期は表1の 如く,93.8%は授乳期(産褥期は小数)に好発し ている.慢性特殊乳腺炎の症例は皆無であるの で,急性乳腺炎は以下乳腺炎と略称する.発生部 位は図1の如く右側(48.8%)に多く,特に右上 外ユ/4(20.2%)に発生しており,乳癌,乳腺症の 好発部位に一致している点は従来の報告と同様で
ある.膿瘍形成の頻度は237例中60例(25.3%)
表1 乳腺炎の種類 214例(昭37・1一昭39・8)
幼児学童 思春期
・囲
2.70/.産 褥 授乳期
93.80/o
更年期
1.90/.
特殊乳腺炎
(結核性)
oo/o
右48.8%
20.20/a
8.5 13.20/o
両 側
1.9%)
Z70/o 左39.5%
3・tO/o 7.3
18−80/o
50/o 5・30/a 7.tO/o
図1乳腺炎の好発部位(昭37.1〜昭39.8)
Shigeo TSUBOI, [1}etsuro KAJIWARA, Kyuji INOUE, Taik6 ABE (Department of Surgery, 2nd Hospital of Tokyo Women s Medical College): Statistical observation on the treatment for acute・
mastitis.
一 252 一
表2 治療法,治療日数(237例)
(目召37.1〜目召39.8)
(62例)第1群
(71例)第2群
( 104{列)第3群
保存的療法
42例(67.8%)
61例(86%)
74例(59.7%)
膿瘍形成
穿刺法・切開法
20傷唖 (32.2%)
10傷旺 (14.0%)
30{列 (28.8%)
平均治療日数 保存 手術
5. 331 12. 20
5. 05
6. 25 16. 40
7.9
で,ことごとく穿刺,切開を行なう手術的療法を 実施した。この25.3%の頻度は従来の報告よりも 高率である.
近年問題になっている耐性菌の推移と膿瘍形成 との関係を観察するために,便宜的に全症例を3 群に区分した.表2の如く,第1群は昭和37年1 月より37年9月間での9ヵ月間の62例であり,第 2群71例は37年10月より38年9月までの12カ月間 の症例である.第3群104例は昭和38年10月〜39 年9月までの症例である.第1群と第2群との区 分は37年10月に厚生省の抗生物質使用基準が改正 された時期で便宜的に分けた.過去3力年間に発 生した乳腺炎を観察するに,表2の如く症例は年 々増加の傾向にあり,3群の各々における膿瘍形 成の割合は,第1群20例(32,2%),第2群10例(
14%),第3群30例(28.8%)である.第2群は初 診時より広範囲スペクFルを有する抗生物質を使 用した時期であり,第1群より山添形成は14%,
約半数以上に減少した.しかし,第3群に至って は起:炎菌が耐性を獲得しつつあるためか,膿瘍形 成が28.8%に増加している事が到明した.初診時 にこれらの患老の問診を通じて調査すると,翫に 投薬を受けている症例が多く,増悪した型で当科
を訪れる老が大部分である.膿瘍形成60例中,表 3の如く41例は初診時に翫に膿瘍を形成し,直ち に穿刺・切開等により排膿を計った・60例中19例 は保存的療法を実施中に膿瘍を形成した.膿瘍形 成は耐性菌に大きく関連するので,耐性菌,薬
起炎菌の決定は膿汁を血液寒天培地に培養して
検査している.表4に示す如く108例の起炎菌
は,黄色・白色ブドウ球菌が86%,双球菌8%等 である.これら起炎菌に対する薬齊憾受性検査は 日本栄養研究所のディスク6種類〜9種類を用い た.昭和38年9月までの検査対象50例をA群とし
て,薬剤6種類(PC, SM, Su1, TC, EM, CM)
に実施した結果,表5に示す如く,無効率の高い
順に列挙すると,Sul g4%, PC 42%, TC 36%,
CM 12%, EM 8%である.このA.群の成績と表 6の使用薬剤および表2の治療日数等との関連を 検討した.すなわち,表6によれば,第1群62例
における各種薬剤による治癒率はSM十PC合剤
では50%,EM 11.6%, TC 10%等の如く,71.6
%は薬剤を変更させずに治癒せしめた.しかし,
耐性菌の性状,および臨床症状により表6の如く
薬剤を変更した.その割合はPC十SM→EM(5
%),EM→PC十SM(3%),その他である。第 1群の治療日数は表2の如く手術的療法(膿瘍形 成)では12.20日間,保存的療法では5.33日間で ある.これらの数値を短縮あるいは低下せしめる ため,第2群では主としてTC系の薬剤を投与し た.その結果,単一の薬謝での治癒率は表6の如
く,TC(60.6%), EM(8.4%),合計69%で,
第1群より僅かに低下している.治療日数では表 2の如く,保存的療法では5.05日間に短縮した が,手術的療法を実施した症例は16.4 El間でかえ って著しく遅延した.膿瘍形成した症例は前述し
表3 治療法(237例)(昭37.!〜昭39.8)
燥存
切 開
177{列 (74.7%)
60fij[1 (25.30/.) 保存一切開
初診時に切開 19例 41例
剤,平均治療日数等と共に後述する.
日数は以下治療日数と略する.)
b)耐性菌の問題
(平均治療
表4 起炎菌の種類 (108例)
(昭和37年1月〜昭和39年8月)
起 炎 菌 黄色ブドウ球菌 白色ブドウ球菌 双 球 菌 そ の 他
700/o 160/.
80/.
6%
表5 薬 剤 感 受 性 検:査 A群(症例50例)昭37・1〜昭38・ 8
漣 pc SM
EM CM
TC
SuL16 35 43 38 28
1 13
8 3 6 4 2
十 12 7 3 1 1 2
1無効率i (Lii:1 ;)
9 0 1 5 17 45
420/o 140/0 80/o
120/o 360/o 940/.
B群(症例58例)昭38.9〜昭39.8
譜 pc SM
EM CM
TC
SuL OX.TCKM LM
20 31 54 51 7 1 9 49 50
10 13
2
2 1 o 11 3 7
十 10
ユ9
o 2 o 1 5 4 1
18・
5 2 5 10 5 15 2 o
無効率
(十, 一)
480/o 250/o 30/o
120/o
60%
980/o 380/o loo/o 20/o
注=PC漏Penicillin, SM =・ Streptomycin, SuL=Sulfamin, EM=Erythromycin,
LM=Leucomycin, NB==Novobiocin. CM=Chloramphenicol,
T.C=Tetracycline, OX. TC=Oxytetracycline.
Ole=Oleandmycin
KM=Kanamycin,
表6 使用薬剤による治癒率(237例)
(昭37.1〜昭39.8)
第 1 君羊 (62修福)
SM十PC
50.00/oEM
11.60/.TC
10.00/oSM十PC一 EM 5.oo/.
EM−PC十SM
3.30/oPC−TC
ユ.7%PC−TC−EM
1.70/.その他(sub.CM,OX.TC.)16.7%
第2群(71例)
TC
60.60/oEM
8.40/eTC−CM
4.20/.TC−EM
4.20/.PC−SM
2.80/oPC十SM−TC
Z.80/o TC.CM一 EM 1.40/oEMeTC.CM
1.40/oその他(CM, Ole,OX。TC。)14.2%
第3群(104傷旺)
CM
20.50/oTC
16e/.Ole十〇X. TC 41.50/o Cl. TC十NB 30/o
LM
70/oTC−CM
50/bTC一一一.PC 10/o
TC−LM
10/oTC−CM−LM
le/oCM一一TC le/o
CM一一,一LM le/o
表7 乳汁内の起炎菌 起炎菌の種類
黄色ブドウ球菌 白色ブドウ球菌 双 球 菌
そ の 他
800/o 100/e
10%
oo/o
た如く,初診時に大部分が手術的療法を加えてい るので,これらの症例には耐性菌を老高して薬剤 を投与すべきであった.
なお第2群71例のうち,未だ膿瘍を形成せず,
しかも翫往歴に投薬のない症例10例の乳汁を無菌 的に採取した.この乳汁を培養して起炎菌を決定
表8 薬剤感受性検査
(乳汁内の起炎菌に対して)
状 pc
SM EM CM
TC
SuL7 5 9 8 6 o
1 4
o o 1 1
十
。・
1 1 11 o 1
2 o o 1 3 8
無効率
(十, 一)
200/.
100/o loo/o 200/o 300/e 90e/o
し表7,更に起炎菌に対する薬齊憾受性検査を行 なった(表8).この表7を膿汁による検査,表4 と此較すると大差なく,臨床に応用できる結果を
一 254t
得た.
第3群104例は薬剤および耐性菌を特に老思し て治療を行なった.使用薬剤は表6に示す如く.
第1群,第2群において余り使用しなかった薬剤 を投与した.薬齊1による治癒率は表6の如く,薬 剤を変更せずに臨床効果をあげ,治癒せしめた割 合はOle十〇x. TC(41.5%), CM(20.5%), TC
(ユ6%),NB(3%),LM(8%),合計88%であ る.ただし,小数例は表6の如く薬剤を変更した.
表5の:B群58例の薬日憾受性検査は,同一患者 より治療期間中に2−3回膿汁を採取したものも 含んでいる.この検査成績を検討すると,無効率
の低い有効な薬劃はLM, EM等である.薬剤の 無効率をA群と:B群とを比較すると,1力唱聞で
あるが,相互に高低がある.TCは36%(A群)
より60%(:B群)に上昇し,EMは8%(A.群)
より3%(:B群)に低下した.CMの無効率12%
には両者群に変動はない.
以上の成績から耐性菌の性状は比較的短期間に 変動すると推定する.すべての乳腺炎症例から耐 性菌を検出する事は不可能であるが,乳汁による 起炎菌および薬齊二二性検査の結果を参老にし て,耐性の少ない薬剤を投与する事が有効であ
る.
c)後遺症
乳腺炎の後遺症として乳腺硬変,乳痩がある.
われわれが治療した症例からどのくらい後遺症を 有するかをアンケートおよび来院させて調査し た結果,114例(治療終了後生1力年以上経過)
中,乳腺硬変を有する者が37.7%あり,乳痩はな い.患者は乳腺硬変が将来乳癌になり得るかを訴
えている.
IV.考 按
急性乳腺炎の治療上の特殊性に関しては,古く より次の如く言われている.授乳期乳腺に細菌感 染が上皮欠損部より直接,又はリンパ系を経て行
なわれると,拡大した腺房より腺房へ,更に各小 葉に炎症が波及する.極めて容易に短時聞に広範 に炎症が進行する,しかも,授乳期乳腺は血管,
リンパ管も増殖発達している.かかる状態で発生 した急性乳腺炎は最初から限局した膿瘍を形成せ
ず,蜂案織炎性に拡大して訴訟ばかりでなく,広 く西明を同時に冒して激烈な炎症凶状を呈する.
その原因には次の如き因子がある.@授乳に際 し,細菌感染の入ロになるべき外傷が加わり易 い.⑮乳汁が細菌増殖の培地になり得る.⑨舌痛
と乳汁建滞の悪循環が容易に形成される事などで ある.このような急性乳腺炎の特殊性より化学療 法を強力に行なうと共に,乳汁の欝滞を防ぐため に物理的処置を併用して保存的に炎症を早く消退 さすべきである.もし,膿瘍を形成した症例では 木本,榊原,駿河ら1)〜5)の報告にある穿刺療法 は,表在性膿瘍には極めて心因を認める.しか し,著者らの症例では広範な乳腺実質内膿瘍が多 いので切開を加えて排膿を計っている.著者らの 症例では膿瘍形成が多く,手術的療法を実施した 揚合,乳腺の変形,癩痕を残し,更に乳腺硬変と いわれる後遺症を有するようになる.乳腺硬変7)
が乳癌発生の母地ともいわれている.著者らの 症例の調査では37.4%の乳腺硬変の存在を認め ている.Gebele, H6ring, Sprengelら6)は乳癌 症例中には以前に乳腺炎を経過した症例が16.4〜
34.9%あると報告している。急性乳腺炎の好発部 位7)は乳腺症,乳癌の好発部位に一致している.
乳腺炎と乳腺症との年令の図りは約10年,乳癌と の年令の痴りは約20年であると,久留,綾部らが 述べている.授乳期乳腺炎に手術的侵襲を加える 完訳,術後に授乳を一時中止せざるを得ない場合 が多くある.藤森ら8)によると,分娩後,短期間 授乳し,乳腺が極度に発達し,分泌旺盛な時期に 突然授乳を中止する事が乳癌になり得る率が高い と述べている.急性乳腺炎と乳腺症,乳癌との因 果関係について未だ詳かではないが,少なくとも 授乳中止を招来する手術的処置を避けるべきと考 える.しかし,急性乳腺炎の起:炎菌はブドウ球菌 が圧倒的に多く,また耐性菌の出現により薬剤の 選揮に苦慮する.耐性菌に関しては多くの報告が あり,表9は著者らの外科で治療した一般炎症 疾患の起炎菌および薬剤感受性検:査の成績表であ
るが,乳腺炎における耐性菌の傾向とほぼ一致す る.起炎菌に対する薬剤の効果は,生体内と試験 管内とには効力に差のある事は論をまたないが,
一 255 一
表9 化膿性疾患419例の起炎菌に対する 薬剤感受性検査
(昭37.1〜日召39.8)
渓 pc
SM EM CM TC
OX.TC Sul
KM LM
冊 140
26 308 324
!68
42 11 184 165
86 78 20 40 22 61 17 42 34
十 58 46
145 45
10 80
18 47
16 29 7 21 11
74 41 394 15 52
無効率
(十, 一)
47.30/.
21.30/.
21.70/.
15.40/o 20.90A
40.40/.
93.40/.
13.70/.
23.80/e
乳腺炎の治療は前述した特異性から一般炎症疾患 よりも臨床症状を詳細に観察し,耐性菌を考慮し て物理的,化学的療法を強力に行なうと共に,患 者は乳房の保健衛生に留意すべきである.
V.総括ならびに結語
当科で治療した急性乳腺炎237例(昭和37年1 月より39年8月)の治療につき,年代別の統計的 観察を試みた.その結果,
1)膿瘍形成率は第1群(37年度)32.2%,第 2群(38年度)14.0%,第3群(39年度)28.8%
である.
2) 起炎菌はブドウ球菌がe6%であり,薬剤感 受性検査の結果から,薬剤の無効率は比較的短期 間に変動を認めた.
3)平均治療日数は最近1力年の症例では,他 の年代に比較して保存的療法で16.4日聞に遅延
し,手術的療法では7.9日間に短縮した.
4)後遺症としての乳腺硬変は,治療終了後満 1力年以」二経過した患者の37.7%存在した.
5)i授乳期乳腺炎の発生頻度は93.5%を占め,
授乳期乳腺の特殊的な病理解剖所見から耐性菌を 老慮に入れて物理的,化学的療法を併用し,後遺 症を残さぬように保存的に治療する.
以上の如く急性乳腺炎の治療につき述べ,更に 乳癌との関連性につき老察を行なった.
(本論文の要旨は第30回東京女子医大学会総会に発 表した.)
文 献
1)駿河敬次郎=胸部外科7(3)187(昭29)
2) Cohen: JAMA 137 1531 (1948)
3)木本清二=臨床外科5(5)268(昭25)
4)木本清二:治療32(3)251(昭25)
5)榊原 任:臨床外科3(10)397(昭23)
6) Gebele, H6ring, Sprengel; Die Chirurgie 5 41 (1941)
7)綾部正大:日本外科全書X rv 238(昭32)
8)梶谷 鍛: 〃 313(昭32)
一 256 一