正 当 な 国 家 の 可 能 性
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(2) 1. 序. 論. 早稲田法学会誌第四十巻︵一九九〇︶. はじめに. 一五六. 道徳的に正当な国家があるならば︑それを証明せよ︒!この問いに対する完全な解答は︑おそらくフェルマーの 大定理と同じく︑まだ与えられていないと言うべきだろうか︒. 近代社会契約説は最も包括的で根本的な答案であったが︑最も少なく見積っても︑全員一致の擬制という一点にお ︵1︶ いて致命的な難点を抱えている︒尺ハート・ノージックが一九七四年に公刊した﹃アナーキー・国家・ユートピア﹄. は︑この問題に本格的に取り組み︑社会契約説の難点を回避しながら論題の証明を試みた注目すべき業績である︒本. 稿の課題は︑このノ!ジックの国家論とそれに対する批判論を検討することにより︑正当な国家の理論的可能性の有. 最小国家論の概 要. 無に光を当てることにある︒. 2. ﹃アナーキー・国家・ユートピア﹄は︑三部から成っている︒第一部では︑あらゆる国家は不当だというアナキス ︵2︶. トの主張に反駁しながら︑道徳的に正当な国家として︑﹁暴力・盗み・詐欺からの保護︑契約の執行などに機能を限. 定した最小国家︵昆鉱目巳︒︒翼①︶﹂の存在が弁護される︒第二部では︑逆に最小国家の機能を越える国家︑端的に言. えぽ所得の再分配を行う国家は不当であることが示される︒そしてやや短い第三部では︑最小国家こそがユートピア. ヘの途を保障する魅力的な枠組みであると締めくくっている︒第二部も︑偉ールズの正義論などとの関係で重要な部. 分であるが︑ここでは第一部を中心に検討することにしたい︒第一部が︑第二部の前提になっており︑第一部で国家.
(3) が正当化されないとすれば︑第二部の議論はある意味で基盤を失うと考えられるからである︒第三部については︑第 一部の議論の成否を考える中で参照することになろう︒. 議論の出発点は︑ジョン・冒ックの﹃市民政府論﹄に描かれたような自然状態である︒そこでは各人. 検討に入る前に︑ノージックが最小国家を導き出す過程をごく簡単にまとめておくのが便宜かと思われる︒. ①自然状態. は︑大まかに言えばロック的な︑生命・自由・財産に対する権利を持っている︒自然状態は概ね平和な状態である. が︑しかし紛争が起こった場合に︑それを権威的に裁定し結着させる方法がないために果てしない報復合戦が起こり. このような不都合を解消するために︑人々は共同して保護協会︵鷺o器&ぎ器89畳○口︶. うる︒また個人が自分の権利を実行する力を欠いている場合もある︒. ② 複数の保護協会の 設 立. を作るであろう︒協会は︑メンバーの権利を防衛し︑それが侵害された時には侵害者を処罰したり賠償を取り立てた. 始めは同一地域内に複数の保護協会が共存するが︑弱い保護協会は次第に淘汰され︑しま. りする︒協会は次第に専門化︑組織化していくであろう︒. ③支配的保護協会の台頭. いには一つの協会が支配的な地位を占めるにいたる︒支配的保護協会︵3鼠醤三冥○富&お9自ω8︒蛋ごp︶はしかし. まだ国家ではない︒国家と呼べるためには︑@権利保護のための実力の行使を独占的に手中に収める︵明示の許可を. 受けない実力行使を許さない︶︑⑥地域内の全員︵会費を払っていない︑つまり協会員でない者を含む︶に保護を提. 支配的協会に加入していない独立人にも︑自己が正しいと思う手続に従って自己の権利を保護. 供する︑の二点を充足しなければならない︒. ④超最小国家の出現. するために実力行使をする権利はある︒言い換えれば︑信頼性のない手続を自分に対して適用して来る者を処罰する. 一五七. 権利は誰もが持っている︒しかし支配的協会が︑信頼性がない︵と協会が判定する︶手続を協会員に対して適用する 正当な国家の可 能 性 ︵ 若 林 威 郎 ︶.
(4) 早稲田法学会誌第四十巻︵一九九〇︶. 一五八. 者を禁止・処罰する力は︑独立人のそれよりもはるかに強大であるために︑事実上︑実力行使の独占は支配的協会に. 一般に︑権利侵害行為そのものではないが︑他人の権利を侵害する危険性があり︑ある人がこの. 帰属する︒ここに︑@の要件が満たされ︑﹁超最小国家︵三侍冨昌鉱ヨ巴の§o︶﹂が誰の権利をも侵害することなく出 現する︒. ⑤最小国家の成立. 行為をする時には特にその危険度が高いという理由でその人に対してその行為を禁止する場合には︑自分の安全性を. 高めるためにこの禁止を行う者たちは︑禁止を受けた人に対して与える差別的不利益につき賠償しなければならな. い︒独立人の権利の自力救済が支配的協会員にとって危険だからという理由でこれを禁止する場合にもこの原則が適. 用され︑独立人が受ける不利益に支配的協会が賠償することが道徳的に要請される︒この場合最も安価な賠償の方法. は︑独立人に協会員との間の紛争をカバーする保護サービスを提供することである︒この結果︑⑥の要件も満足さ れ︑﹁最小国家﹂が道徳的に正当に成立する︒. ⑥以上の過程はノージックによれば︑誰が意図したのでもない﹁見えざる手﹂によって進行する︒すなわち︑人々の. 念頭に最小国家という全体構想が存在しないにもかかわらず︑各人の︑自分の利益を最大化しようとする行為が︑見. 最小国家への途. えざる手に導かれてそれを形成︑維持するようになるのである︒. 二. ﹃アナーキー・国家・ユートピア﹄は︑型破りな哲学書である︒﹁非現実的な反証例を持ち出しての主張の反駁︑面 ︵3︶. くらわせるようなテーゼ︑パズル︑架空の構造的条件﹂が︑あたかも読者を眩惑するかのようにそこここに配され. る︒そして現代の通念を覆す大胆な結論は︑大きな反響を起こさずにはいなかった︒もちろん︑各雑誌上に相次いで.
(5) ?︶. 掲載された論評は︑さまざまな角度からノージヅクの議論の不備を衝く︑という批判的なスタンスで書かれており︑. あたかも﹃アナーキー・国家・ユートピア﹄は四方八方から批判の剣を刺し込まれたかのようである︒果たしてノ!. ジックは︑奇術師よろしく刃の刺さった箱の中から首尾よく脱出することができるであろうか︒以下では︑これら批. ノージックはどこから出発するのか︒言いかえれば︑最小国家の理論的正当化としてはすでにロヅクの﹃市. 出発点. 判論の要点をできるだけ広範に紹介しながら︑彼の最小国家論を掘り下げてみることにしょう︒. ー. 1・ー. 民政府論﹄があるのに︑なぜもうひとつの国家論を書くのか︒ノ!ジックは明示的には述べていないが︑おそらくこ. う考えることができるだろう︒ロックの理論構成の中で素人目にも疑わしく思われる箇所のひとつは︑﹁全員の同. 意﹂によって政治社会が設立されるくだりである︒これだと︑国家への帰属を拒むアナキストの存在がネックにな ︵5︶ り︑国家を設立することができない︒巨ックは﹁暗黙の同意﹂という概念を持ち出してこれを切り抜けるが︑これは いかにも苦しい︒少なくとも説明としてスマートでない︒. さらに言えぽ︑同意による国家の正当化はひとつの矛盾を含む︒というのはこういうことである︒ロックの社会契. 約説は同意理論と自然権論の結合︑つまり①個人は自然権を持ち︑それを保護するために政府が設立される︑②政府. は一致の同意によって正当に樹立される︑③政府が正当な機能を越えた場合は人民に抵抗権がある︑という構造にな. っている︒ところがこれは内的に整合していない︒もし同意が正当性の媒体であるなら︑諸個人が自発的に自然権を. 組織的に侵害する政府に同意することだって考えられるからである︒つまり①と②は両立しない︒要するに︑律ック. 一五九. の理論では﹁政府Xは一致によって設立されたから正当であり/政府Xは自然権を侵害しているから正当でない﹂と 正当な国家の 可 能 性 ︵ 若 林 威 郎 ︶.
(6) 早稲田法学会誌第四十巻︵一九九〇︶. いう矛盾が越こりうるのである︵甲男℃帥巳樽ミ一じ︒. 一六〇. ノージックの﹁見えざる手﹂説明は︑少なくともこうしたアポリアを回避するのには有効な方法である︒個人の同. 意如何にかかわらず国家は生じてしまうのだ︑ということになれば︑アナキストをも国家に取り込む可能性が出てく. る︒まずはこの点で︑﹃アナーキー・国家・ユートピア﹄第一部が書き起こされる意味はあると考えることもできる のではないだろうか0. 1・2 なお︑ノージックの基本的な社会観をあらかじめつかんでおくことは後論の理解に資するであろう︒K.ジ. ョンソンの論評によって整理すれば︑ノージックは次の諸点を所与として議論を組み立てている︵ざぎ8P嵩o︒︶︒. 第一に︑個人の権利の不可侵性である︒第二に︑目標よりもプロセスが︑社会の構築と評価への適正な基準を提供す. るという命題であり︑これに関連して︑人々の意図よりも﹁見えざる手﹂説明に重きを置くことである︒第三に︑集. 団は個々人の総和以上のものではないと見る︑社会的アトミズムである︒第四に︑国家の本質は﹁強制﹂にあるとい う認識である︒. これらを見れば︑ノ!ジックの立論にははじめから一定のパイアスがかかっている︑と批判することもできよう︒. 事実そうした観点からの論評も数多く見られるのであり︑以下ではそれも紹介するつもりだが︑検討の本線はできる. ︵6︶. だけノージック自身の前提にそくして︑内在的にすすめてみたいと思う︒内在的批判は︑もしそれが成功すれば︑外. 権利. ﹁個人は権利を持っており︑ いかなる人又は集団も個人に対してやってはならないことがある﹂︒﹃アナーキ. 在的批判より強力なはずだからである︒. 2 2・1.
(7) 1・国家・ユートピア﹄はこの一文から始まるが︑まさに個人の権利はこの本ではアルファにしてオメガとなってい. る︒その意味でまず注目すべきは︑ノ1ジックが個人の自然権という厳格な基礎ないし基準のみから国家︵のような. もの︶に到達していることだと言えよう︵U帥艮o一8P一ωc︒︶Qではノージックの権利観はどのようなものか︒. ノージックは権利のカタログを必ずしも体系立って挙げていないが︑多くの論評が整理しているように︵肉号ぎ9 ︵7︶. 且ド8いU蒔鵯・Oo︒脚9一一︵一︶℃お9U黛こξo霧︸NOO︶︑戸ックが定式化した﹁自然権﹂をほぼ踏襲していると考. えてよい︒すなわち︑生命・自由・財産に対する権利が︑その内容である︒これについて特に詳しく述べる必要はな. いと思うが︑後論との関係で二︑三補足説明をしておく︒まず︑この権利の性格は言うまでもなく︑不当に強制や侵. 害をされないという意味での︑消極的自由である︒とりわけ力点が置かれるのは︑誰も他人の利益のために犠牲にさ. れてはならないという︑いわぽ人格的自由の観点である︒各人はおのおの自らの人生の設計・選択に責任を持ってお. り︑それゆえ目的として遇されるべきだとされる︒もうひとつ留意しておくべきなのは︑権利を侵害した老を処罰し. たり損害賠償を取り立てたりする﹁権利﹂︵二次的権利︶︵鑑U黛箆ピ巻霧︶が︑以下の立論に重要な役割を演じて ︵8︶ いることである︒もっともロヅクは︑それを自然権には含めておらず︑自然的﹁力︵宕≦醇︶﹂であると考えている が︑この点ノージヅクの立場は必ずしも明らかでない︒. ところで︑人はいかなる根拠でこれらの権利を持つのか︒人が持つことのできる権利はなぜいわゆる自由権に限ら ︵9︶. れるのか︒こういった当然の疑問に答えるべき﹁権利の道徳的基礎についての厳密な理論﹂の提出は本書ではなされ. ず︑将来の課題として先送りされている︒﹁ノージヅクがわれわれに示すものは︑いくらか権威の落ちる・ックの言. 葉のみである﹂︵U零箆ピ巻霧埴舘ω︶︒このことについての批判は多く︵Φ中聾8厨ε莞鳩G︒お旧勾oαヨ餌P8一︶︑. 一六一. ﹁あたかもビルが建つかどうかの構造的問題を解決せずして︑屋上に回転式レストランのついた高層ビルを建てよう 正当な国家の可能性︵若林威郎︶.
(8) 早稲田法学会誌第四十巻︵一九九〇︶. ︵10︶. 一六二. とするようなものだ﹂︵ωぎ鴨ンお一︶という酷評まである︒ただ︑H・L・A・ハートの言うように︑﹁悲しいほど. 不十分であるとはいえ︑一種の議論は存在する﹂︒ハートによればノージックの議論はある一つの主張から成り立っ ︵11︶. ている︒それは︑﹁もし政府の機能が厳密な基本権の保護に限定されなかったら︑人々の個別性を無視するという根 本的な罪が犯されてしまうことになる﹂というものである・ ︵12︶. ノージヅクは︑個人の人格が不可侵であること︑そして人は皆すべて目的として遇されるべきで手段として扱われ. てはならない︑というカント的原理を基礎にして︑ぎわめて強い形で権利を定式化する︒その権利論への投影が︑権. 利を﹁横からの制約︵獣号8霧#9︒ぎ冨︶﹂として捉える立場である︒﹁横からの制約﹂としての権利とは︑権利が個. 人や国家の行動に対する制約基準として機能するという意味であり︑この基準によれば︑人が行為するときには︑他 人の権利を侵害しないことがあらゆる目標の追求に優先する︵ω︒ぽ窪︒び嶺Oじ︒. ︵13︶. 権利は﹁横からの制約﹂に尽きるのであり︑いかなる場合にも目標となることはない︑というノージックの権利論. は︑功利主義的な国家論︑権利論に対する鋭い反措定である︒この対比を明らかにするためにドゥオーキンの分類を. 参照してみよう︒ドゥオーキンによれば︑政治理論は︑﹁目標に基礎を置く︵αQ8一廿欝巴︶﹂理論︑﹁権利に基礎を置. く︵ユσQぎぴ塁a︶﹂理論︑﹁義務に基礎を置く︵α葺イぴ舘巴︶﹂理論の三種に分類できる︒第一の﹁目標﹂理論では︑. ある政治的行為により特定の事態︵つまり目標︶が促進ないし維持されることが一定の政治理論において当該行為を. 支持する理由とされ︑逆にその行為により特定の事態が遅滞し阻止されることが当該行為を拒否する理由とされる︒. 第二の﹁権利﹂理論では︑ある個人が一定の政治的行為を要求するとき︑この行為が政治理論で認められた目標を阻. 害することが比較衡量の結果明らかな場合でも行為の履行を許さないことが不正とされる︒この場合個人はその政治. 的行為に対し権利を有するとされる︒第三の﹁義務﹂理論では︑ある政治的決定が︑特定の仕方で行為すべく個人を.
(9) 強制する場合︑この決定がいかなる目標にも奉仕しないことが明白であるにもかかわらず正当化されるQここでは個 人はそのような行為を履行するように義務づけられる︒. たとえぽ一般的福祉の増進のような目標を掲げる功利主義は︑﹁目標﹂理論の典型例である︒一方モーゼの十戒へ. の服従やカントの定言命法は︑﹁義務﹂理論の一要素とされる︒ノ!ジックがとりわけ反対するのは︑前者の﹁目標﹂. 理論である︒なるほど人は︑健康や美容のために好きな食事をダイエットしたり︑老後の生活に備えて今の生活を切. り詰めて貯金をすることがある︒同じように社会全体の善のために何らかのコストを負担することはないのか︒ノー 4 ︵ 1︶. ●. ●. ︒. ●. ・. ・. ジックはこう自問したのち断固これを否定する︒そもそも各個人の利益を超えた﹁社会全体の善﹂などはありえな. い︒これはノージックの堅い信念であるかのようだ︒のみならず︑ノージックの﹁目標﹂への嫌悪は︑権利の目標化. にも及ぶ︒すなわち︑﹁権利﹂すら目標であってはならず︑たとえその社会で侵害されている権利の総量を減らすこ. このような﹁横からの制約としての権利﹂という考え方は︑最も権利保護に手厚い立場のように思われ︑そ. とになるとしても︑個人の権利への侵害はやはり道徳的には許されないのである︵魯oo︒ぽ態角︶︒ 2・2. れ自身では大きな魅力をもっている︒しかし反面︑あまりにも硬直した理論にはどうしても無視できない弱点がつい てまわる︒何人かの論者の指摘を参考にこのあたりを少し考えてみよう︒. 第一に︑このアプ・ーチは︑多辺的な関係における権利相互の優劣の問題に有効に対処できない︒A・センの指摘. によれば︑ある人の重要な権利への他者からの侵害を阻止する唯一の方法が︑第三者が︑第四者の重要性の劣る権利. を侵害することだという状況がありうる︒例えぽ︑AがBに暴行されているのを救うための唯一の方策が︑Aの友人. であるCにとっては︑この件に無関係なDの自動車を盗んで現場に急行することだとしたらどうなるか︒この場合︑. 一六三. Cが車を盗んだ行為を正当化するためには︑Dへの権利侵害の不当性と︑暴行をなすがままにしておくことの不当性 正当な国家の可能性︵若林威郎︶.
(10) 早稲田法学会誌第四十巻︵一九九〇︶. ︵15︶. ニハ四. を比較する結果論的分析が必要だが︑ノージヅクのアプβーチでは社会的順位づけを決定するための権利侵害ないし. 権利実現を許さないのだから︑このようなケースには対応できない︒というよりも︑﹁横からの制約﹂理論の対応は. はっぎりしていて︑この場合Aがどうなろうと︑CがDの車の所有権を侵害したことは︑それ自体として非難される. べぎであり︑それ以上でも以下でもない︑ということになるのであろう︒しかしこれは妥当な結論と言えるだろう か︒言い換えれば︑われわれの正義感情と齪齢をきたさないだろうか︒. 次に︑横からの制約の問題とはややずれるが︑センの批判をもうひとつ紹介しておこう︒センはノージックの権利. 論を﹁コント冒ール﹂という言葉で特徴づける︒つまりノージックの考えでは︑個人が直接に一定の決定をコント旨. エドが交通事故で負傷した︒エドには完全に意識がある︒医師は彼に︑A︑B二つの治療法があることを. ールでぎることが︑権利︵自由︶を持つこととイコールとされる︵とセンは考える︶︒たとえば︑こういうケースで ある︒. ︹例1︺. 告げるが︑医師の考えによれば二つとも効果的であるものの︑Aの方が副作用が少ないので︑相対的には優. れている︒エドは︑Aの方が優れていることを理解したが︑Aの治療法に何らかの道徳的異論︵その開発が 動物虐待を伴ったものであったとか︶から︑Bを選好した︒. このケースでは︑医師がBを選択すればエドの直接的自由を保護したことになる︒しかし次の例はどうか︒. ︹例2︺ エドが交通事故で負傷し︑意識不明になった︒しかし彼の妻が︑エドの道徳的信念とその確信の強さを知. っているため︑医師にBを選択させるべくこう言った︒﹁Aの方が効果的でも︑エドならBを選ぶだろう︒﹂. この場合エドは直接にコント・ールを行使してはいないが︑エドの自由は保護されている︒センによれば︑社会には. これと同じ構造の事例が頻出するのであり︑従って自由を排他的に誰がコントロールしているかの観点からのみ見る.
(11) ︵16︶. のは不十分なのである︒. 権利侵害の基準についても批判が寄せられている︒人がRへの権利を持つという場合︑R権の侵害を構成するのは. 何だろうか︒一つの方法はべースラインに着目するものであり︑AがBに何らかの行為をした結果︑BのRに関する. べースラインより悪い状態に置かれれぽ権利侵害があったといえる︒この場合︑べースラインについて二つの考え方. がありうる︒第一は︑自分の状況を改善する機会を失ったならば権利侵害があったと認定する︒第二は︑現に持って. ︵17︶. いたものが取り去られたならば権利侵害があったと認定する︒そしてノージックは︑第二のベースラインを選択す. ジョーンズが成人のスミスを襲い︑手足を斧で切断した︒. る︒そこで次のような状況を考えてみよう︒ ︹状況1︺. ︹状況2︺ ジョーンズが幼児のスミスに︑それ以上手足が伸びなくなる薬を投与した︒. この場合︑状況1は︑いずれの基準でも明らかにスミスの権利を侵害しているが︑状況2は︑ノージックの採る第二. のべースラインでは権利侵害とはならない︒スミスは薬の投与の時点では現に何も奪われていないからだ︵=&8ダ 曽o︒︷●︶︒. このような特異な事例が反証になるのかについては︑一抹の疑問がないでもないが︑実は批判者がこの例を出した. のには伏線がある︒つまり︑現在の状況を改善する﹁可能性﹂を含むようなべ1スラインを選択することによって︑ いわゆる社会権的な権利保障の必要性が示唆されるのである︒. ノージックが︑権利を自由権に限定し︑いわゆる社会権を道徳的に正当な権利として認めない︵なぜならそれは他. 人の自由権を侵害するから︶ことには︑最も多くの批判が集中する︒たとえばこういう論評がある︒ノージックは︑. 一六五. 権利の道徳的基礎が意味のある人生を送る能力と関係があると考えているが︑もし意味ある人生を送る者が権利を持 正当な国家の可能性︵若林威郎︶.
(12) 早稲田法学会誌第四十巻︵一九九〇︶. 一六六. つのだとすれば︑その権利の機能は︑その者がそれを発展させる能力を保護することであるはずだ︒従って満足でぎ. る生活のために一定の財を再配分することは︑意味ある人生のために必要だと考える方が合理的ではないか︒つまり. ノージック自身が前提する権利の道徳的基礎に立てば︑社会権も正当化される︵ω︒箒窪︒さ一㎝o︒じ︑と︒また別の論. 者は︑ノージックは選択の幅と質には無関心だ︵O良︵一︶口ま二些︵b︒︶噛ω8︶︑あるいは︑ノージックの関心は財産を. 持った人間がそれを奪われない自由で︑貧者が空腹から逃れる自由はない︵江Φ髭︵一︶﹂お︶︑と批判し︑安全とか福. 祉・平等・博愛など多くの人達が合意する理想・目標があるではないか︵田8訂8莞﹄障︶︑と迫る︒. なるほどノージック的権利観に立てば︑私が不慮の災難によって貧困に陥っても︑私の権利は何ら侵害されたわけ. ではない︵鑑ζq壱ξ︸器㎝︶︒また心身にハンディキャップを負ってこの世に生まれてきた人も︑それだけでは権. 利侵害とはされない︒逆にこの人達に相対的に多くの利益を与えるべく︑それ以外の人々にコストを負担させること. の方が︑許され難い権利侵害になるであろう︒たしかにこれはこれで一貫した議論である︒しかしハートの指摘によ. れば︑その結果ノージックの議論がそれの反対物であるはずの功利主義と同一の結論の一つを共有するという逆説が. 起こる︒すなわち︑ある条件さえ満たされれば︑ごく少数の者だけが著しい幸福を享受して大多数の者はほとんど幸 ︵18︶ 福を享受していない社会と︑幸福がもっと平等に広められている社会との問には有意味な相違がなくなるのである︒. もちろんノージックに言わせれば︑このような帰結は一切関知するところではないということになろうが︑ハートは. さらに問う︒なぜ社会についての批評者はこのように︑道徳的不正には個人権の侵害という一つの種類しかないと仮. 定すべきなのか︒なぜ彼はそのような権利のシステムの働きが生み出す人間の幸福と悲惨という点での帰結から目を. そらすべきなのか︒権利はなぜ︑ノージックがするように消極的サービスに限定されなければならないのか︒大きな. 窮乏や苦しみからの救出や基礎的教育や技術の提供という積極的サービスヘの基本権は︑なぜ含められてはならない.
(13) ︵19︶. のか︒. 2・3. ノージヅクの権利論が一面的であることは︑どうやら否定できない︒﹁横からの制約﹂理論は︑単純明快な. 構造と︑一切の権利侵害を許さない点で捨て難い魅力を持つが︑同時に上に見た倒錯的な帰結は︑われわれを戸惑わ. せる︒このゆえにノージックの議論は︑もはや権利の保護や実現に意味を認める﹁権利に基礎を置く﹂理論というよ ︵20︶. りは︑他人の権利を侵害するべからずという至上命令の遵守を絶対化する﹁義務に基礎を置く﹂理論ではないかとい う指摘もある︒. この文脈で注目されてよいのか︑かつて特異なβック解釈で話題になったW・ケンダルの指摘である︒ケンダル. は︑人に権利を賦与する自然法が同時に義務を課するものでもあることを理解しなければ︑βックの意味を見失う︑. としたうえで︑ロックの権利論の含意をこう解釈する︒βックにあっては︑自然状態では人は任意に自らの財産と一. 身を処置することがでぎるが︑その権利の行使は自然法の侵害を含んではならない︒しかして自然法は︑人の上にた. ち︑人に権利を賦与し︑他者にその権利を尊重することを義務づける︒自然法はとりわけ平等︵従属していないこ. と︶︑従って従属状態に置かれない権利を命じるが︑しかしBックがこれを論じる箇所では︑この権利は︑他者に従 ︵21︶ 属しない﹁義務﹂の相関物︵8畦︒蛋o︶にすぎないものになっている︑というわけである︒もちろんケンダルのロッ. ク解釈には多くの異論がありうる︒しかし逆説的な言い方をすれば︑もしβックの権利論にこういう要素が潜在して. いたとすれぽ︑それを摘出したケンダルとともに︑それを継承したノージックもまた慧眼であったと言えるかもしれ ない︒. やや話がずれたが︑いずれにせよ妥当な権利論とはどのようなものかの探究はここでのテーマではない︒社会権の. ニハ七. 議論は別にして︑強い自由権の主張が国家と整合的であるかという問いはそれ自身で究明される資格を失わない︒し 正当な国家の可能性︵若林威郎︶.
(14) 早稲田法学会誌第四十巻︵一九九〇︶. 自然状態と保護協会. ばらくの間︑ノージヅクの権利論をそのまま前提にして︑ 最小国家への道程を進むことにしよう︒. 3. 一六八. 3・1 なぜ自然状態から始めるのか︒ひとつの理由はこの章の最後に回しておくが︑もうひとつの︑ここで述べた. い理由は︑アナキストの主張を真剣に採り上げるためである︒ノージックは︑人々が概ね道徳的ルールに従って行動. している一応平和な状態︑すなわち合理的に考えられるかぎり最善の自然状態を設定して︑言うなればあえてアナキ. ストの土俵に乗った上で︑国家が不道徳だとするアナキストの主張を反駁する方法をとったわけである︒. なおこれに関して︑人があまねく道徳的ルールに従っているのなら︑国家は不要であり︑保護協会のサービスさえ. 必要でないという意見︵留ヨ甥OPOO︶があるが︑これは批判にならないと思われる︒ここで想定する道徳はなにも. ﹁右の頗を打たれたら左の頗を差し出せ﹂などという﹁高尚﹂なものではない︒それを個人的レベルの道徳と呼べ ︵22︶. ︵23︶. ば︑ここで想定するのはおそらくもっと社会的な︑たとえば他者への物理的な攻撃の禁止とか︑約束の遵守などを命. ずるルールであろう︒さらにそれを全員が厳格に守っている状態も想定されていない︒全員が聖人君子の集まりなら. ば国家はいらないに違いないけれども︑そう考えるのはあまり合理的でないし︑まったく生産的でない︒ここではも っとゆるやかな想定で必要かつ十分なのである︒. 3・2さて自然状態では︑紛争が生じた場合それぞれの当事者は︑疑わしきは常に自分に有利に解釈し︑自分の方. が正しいのだと想定するであろう︒人は自分が蒙った被害を過大に見積り︑憤激のあまり相手を応分以上に罰し︑過. 剰な賠賞を取り立てようとするであろう︒お互いにそういう態度をとれば︑報復合戦がエスカレートしよう︒ところ. が自然状態には︑紛争に決着をつけ︑それを終らせ︑なおかつ両当事者にそれが終ったことを知らせる確実な方法が.
(15) ︵別︶. ない︒またここでは︑個人が自分の諸権利を実行する力を欠いているかもしれない︒つまり︑自分より強い相手が権 ︵25︶ 利を侵害した場合は︑これを罰したり賠償を取り立てたりすることができないこともありうる︒ ︵26︶. これらの不便に対処するために人々は保護協会を組織するだろう︑というのがノ!ジックの予測だが︑彼はゲーム. 理論を使ってこの予測を補強している︒任意の個人二人が︑それぞれ保護協会に加入する場合と加入しない場合の効. 用が表1のとおりだとしよう︵数字が大きけれぽ効用が大きい︶︒これは有名な﹁囚人のディレンマ﹂と同じ︒ハター. 一六九. ようと試みるーを行うとしよう︒しかしそれは個人的には彼にとって最適の選. 状態にある者が︑この点に気付き︑行動Cl他の者たちがAを行うのを禁止し. うことである︒ノージックはこの質間を予定してこう書いている︒もし誰か自然. り︑客観的にみれば保護協会に加入しない方がより望ましいのではないか︑とい. 言すればパレート最適であることを示しているのではないか︵ω8搾謡O︶Qつま. ないようにしようとする︶の帰結︹B︑B︺の方が︑全体的な効用が大きい︑換. 団的合理性︵お互いに黙秘しようとする︑あるいはお互いに保護協会には加入し. いは自分だけ保護協会に加入して得しようとする︶の帰結︹A︑A︺よりも︑集. ゴイスティックな個人的合理性︵自分だけ自白して刑を軽くしようとする︑ある. ここでひとつの疑間が湧くかもしれない︒﹁囚人のディレンマ﹂モデルは︑エ. をもつかぎり皆どこかの保護協会に加入することになろう︑というわけだ︒. する︒この結果組合せ︹A︑A︺が導かれる︒従って︑人々は自分の利益に関心. ンである︒この場合個人1は︑自分の利益を最大化しようとAを選択するだろう︒個人Hも全く同じ動機でAを選択. 0、10 7、7 が、相手が協会に加入す ることは許容する. B A 保護協会に加入しない B I. べく試みる 人. 正当な国家の可能性︵若林威郎︶. 個. H. 個. 10、0 会に加入するのを禁止す. 5、5 ある保護協会に加入する とともに、相手が別の協 A. 人ー. 表1.
(16) 早稲田法学会誌第四十巻︵一九九〇︶. 一七〇. 択肢ではないし︑そのことを別にしても︑保護協会に結集する個人たちを相手にして彼がそれに成功する見込みはほ. とんどない◎なぜなら彼がその人たちより強力ではありそうもないからである︒成功する現実的チャンスを手にする ︵27︶. ためには︑かれは他の人たちと共同して行動︵つまり行動A︶せねばならず︑それゆえ彼は︑彼自身を含むすべての. 一応︑ノージックの言うとおり︑各個人がそれぞれ自分の利益を最大化するために︑保護協会に加入するも. 人に対して︑優位な行動Aをしないよう強いることには成功しえないのである︒. 3・3. のとしよう︒では保護協会とは︑一体いかなる団体なのか︒もちろん私立探偵もどきの個人商店から広範なサーピス. を提供する大組織までいろいろな形態があるだろうが︑標準的なものは概ね︑顧客の求めに応じて犯罪︵権利侵害︶. を捜査し︑犯人︵侵害者︶を逮捕し︑侵害の有無・制裁の可否を決定し︑賠償を取り立てたり︑処罰を行ったりする. 機能を持つだろう︒そのなかでそれぞれの協会は︑原告被告いずれの主張が正しいかを決定するための司法的手続を ︵28︶. 確立するであろう︒分業化の進展により︑すぐにこれらの役割をビジネスとして専ら請け負う人達が出てくることに. なり︑保護協会は企業組織をとることになろう︒自然状態を現代の国際政治に置き換えて考えるユニークな論文があ ︵29︶. ︒鐸斥︶︑その流儀でいけば︑国際連合のうち安全保障理事会や国際司法裁判所といった部分が︑保護 るが︵︾図ぎP︒ 協会のイメージであろうか︒. 保護協会の性格をめぐって若干の疑義を検討しておこう︒第一に︑保護協会不要論がある︒自然状態では個々のケ. ースで何が正当なのかについての不確実性が︑より差し迫った不便である︒従って全員がその決定を受け入れられる. ような何らかの機関ないし手続が救済になる︒とすれば︑たとえば強制力のない仲裁委員会のようなものがあれば十. 分ではないか︒ゆえに強制機関としての国家は発展しようがない︵ざゲ蕊oP嵩O︶︒しかしノージックの議論を前提. にすれぽ︑個人が自分の権利を実行する力を欠いている場合に︑それを代行させるために協会に頼ることもあるのだ.
(17) から︑協会が賠償取立や処罰などに強制力を持つことへの二ーズは︑やはりあるのではないだろうか︒たとえば︑仲 裁委員会の決定に承服せず賠償を自ら支払おうとしない者がいるかもしれないのである︒. 第二に︑もしそうなら︑つまり協会が立法︑判決︑処罰の権限を持っているなら︑それは支配的協会であると否と. を問わず︑私企業ではなくすでに国家ではないか︑という疑問がある︵雰8霧oPホO︶︒しかしこの批判もやや性. 急である︒ノージックの前提に立つならぽ︑国家の要件は地域内における強制の独占と不払者を含めた全員の保護︑ ︵30︶ の二点なのだから︑少なくとも非支配的保護協会はこの要件を満たしておらず︑国家ではない︒. 第三に︑ノージックは︑保護協会の活動を︑犯罪者が容易に特定できるような小さな地域のみで想定しているが︑. そのような落ち着いた秩序ある社会では︑保護協会など必要に思わないだろう︒また大都市の街頭で起こる犯罰には. ノージックのモデルは全く無力である︒さらに保護協会が官僚制化することに伴う問題点を無視している︒要する. に︑社会的現実や経験則を考慮していない︑という批判がある︵名o一ヌ8隼︶︒こういった批判はまさにそのとおり. なのだが︑気になるのはこの種の﹁細部のリアリズム﹂がノージヅクの議論のスタイルに対してどこまで嘘み合うの. か︑ということである︒あとで詳しく論じるが︑ノ!ジヅクが展開する﹁仮想的﹂な議論というのはどこか﹁ぬえ﹂. 的でとりとめのないところがあって︑一応現実にありそうなことが述べられていながら︑実はあくまで仮想の世界で ︵31︶. ・・. の話を出ることがないのである︒たとえば自然状態を歴史上の原始時代と考えようとしてもそれは無理で︑そこでは. 人がヘリコプターを持っていたりする︒そもそも︑国家がノージックのシナリオどおりに現出することからして全く. 主張されていないのだから︑ここでは︑﹁非現実的だから無意味だ﹂という議論はとりあえず差し控えておこう︒. 第四に︑保護協会は︑自分の顧客にはひいきをし︑潜在的な顧客にはねこかぶりをし︑強固な非顧客にはこわもて. 一七一. に出るであろう︑というコメントがある︵譲⁝ぴヨωる撃︶︒おそらくそのとおりであろう︒この批判者は︑個人は時 正当な国家の 可 能 性 ︵ 若 林 威 郎 ︶.
(18) 早稲田法堂入 冨 誌 第 四 十 巻 ︵ 一 九 九 〇 ︶. 一七二. として間違ったことをするが団体は間違いをしないというのならば︑このモデルは恣意的だ︑と︵いくぶん留保つき. ︒ω︶︑少なくともこの点に関するかぎりノージックは必ずしも恣意的な主張をしては ながら︶書いているが︵遠匙9︸o ︵32︶. いないと思われる︒むしろノージックは︑異なる保護協会の顧客間の争いについて︑おのおのが自分の顧客に有利な. 裁定を下す場面を想定している︒そしてそのような協会間の争いの中から︑まさに﹁見えざる手﹂の働きで一つの支. 配的協会が台頭してくる︑と論じるのである︒次にその段階について検討することにしよう︒. 3・4 ノージックによれば︑二つの保護協会が一つの事件に異なった裁定を下し︑一方は自分の依頼人を保護しよ ︵33︶ うと試み他方がその人物を処罰したり賠償を払わせたりしようとする場合︑考慮に値する結末は三つしかない︒. ①二つの機関が武力で闘う︒この闘いで︑常に一方が勝利する︒敗れた機関の顧客は︑勝つた機関の顧客たちと. の紛争では十全の保護を受けられないので︑自分たちの機関から脱退して勝者と取引関係を結ぶことになる︒. ②一つの機関は︑一つの地理的区域に集中した勢力を持ち︑別の機関は別の区域に勢力を持つ︒各々は勢力の中 心に近いところでの闘いには勝つという形で︑勢力の勾配が形成される︒. ③二つの機関が対等かつ頻繁に闘う︒両者は︑ほぼ同じ割合で勝ったり負けたりする︒それとも闘わないで︑又. は数度の小ぜりあいをしただけで︑防止措置を講じないかぎり︑この種の闘争が継続して発生することを両機. 関が悟ることもある︒いずれの場合にも︑この二つの機関は︑瀕発する犠牲の大きい無駄な闘いを回避するた. めに︑相異なる裁定に達した事件を平和裏に解決することに︑たぶん互いの役員を通して同意する︒両者は︑. それぞれの裁定が食い違った時に頼ることができるような︑第三の判定者又は裁判所を設置し︑その決定に従. う︒かくして︑控訴審制度︑管轄と法の競合に関する合意されたルールが出現する︒異なった機関が複数活動. しているとはいえ︑そこには︑これらの機関をすべてその構成要素とするような︑一つの統一された連邦司法.
(19) 制度がある︒. 結局︑すべてのケースで︑一つの地域内では一つの支配的保護協会が生き残ることになる︒. 支配的保護協会は︑将来国家に発展しうべき重要な種子であり︑それがいかなる状況下でも予定調和的に出現する. かどうかは︑ノージックの議論の成否に直接関わる論点である︒従ってこれについては︑いくつかの有力な批判が提 出さ れ て い る ︒. 第一に︑ノージックは︑一対の協会が対立する場合のみを想定しているが︑次の可能性は考えられないだろうか︒. ④協会A・B・Cが常に争っている︒それぞれは同数の顧客を持っている︒Aは常にBに勝ち︑Bは常にCに勝 ち︑Cは常にAに勝つ︒. この状況では︑支配的協会はできないであろう︵留巳巽90 ︒o︒︶︒. 第二に︑もし暴力的な争いが起これば︑経済学の教えるところによれば︑争っている当事者は︑暴力的行動に出る. よりも争いを仲裁する手段を発展させることに利益を見出すであろう︒結局のところ保護サービスだけを畏れ多くみ. なす理由はなくなる︒つまり︑限りなく多様な制度が発展するであろう︒ある団体は近隣をパトロールするだろう. し︑ある団体は著作権を︑別の団体は契約違反を監視するだろうし︑またある団体は︵その社会の消費者が︑応報や. 処罰を正当だとも価値があるとも思っていない場合は︶犯人を逮捕するよりも単に犯罪にそなえて保険を掛けるだけ. かもしれない︒要するに単一の機関が支配する根拠はないのだ︵O呂島﹃ン謡じ︒ ︵34︶. 第三に︑@もし③が帰結したとして︑諸協会の連邦は︑独占と言えるのだろうか︒諸協会は依然として顧客を求め. て競争し合うであろう︒その状況は電話会社の競争に似ている︒料金︑サ1ビス︑技術の面で競争している複数の会. 一七三. 社があるとして︑単にそれらの会社同士で︑一つの会社の顧客が別の会社の顧客と通話できるように回線を接続する 正当な国家の可能性︵若林威郎︶.
(20) 早稲田法学会誌第四十巻︵一九九〇︶. 一七四. ことに合意しただけのことが︑どういう意味で独占なのか︒⑥また協会のサービスエリアは完全には一致しないと予. 見される︒それぞれの協会は︑顧客を拡張しようと別々にニリアを拡大するだろう︒@さらに支配的協会のサービス. エリアがどこまでか明確でない︒最小国家は世界国家と考えなければならないのか︒﹁見えざる手﹂はこのメカニズ. ムを示していない︒④そもそも何の基準もないところで︑どれが保護協会だと見分けられるのか︒鍵や防護フェンス を売る店か︒それともカラテの学校か︵U薯巳8Pω蕊ご︒. 第四に︑③の可能性について別の角度からの批判もある︒それによれば︑﹁法体系﹂には二つの種類がある︒一つ. は﹁市場的法体系﹂で︑市場経済のプロセスから生じる自生的なルールと執行手続の体系︒もう一つは﹁国家法体. 系﹂で︑政治過程を通じて国家装置によって企画され社会に強制されるルールと執行手続の体系である︒これを③の. 状況に適用すれば︑まだ国家はでぎてないから当然そこにできるのは﹁市場法体系﹂でなければならない︒しかしこ. 園o岳富同ρ. れは︑複数機関の合意︑決定到達︑先例設定︑取引等が&ぎらに︑無限に行われるもので︑恒久的な訴訟システム. はそこには必要とされない︒したがってそれは伝統的意味での﹁連邦制﹂ではない︵O臣牙蜜こ謡 ミ︶︒. このように疑問は多岐にわたるが︑私見によれば最も疑問に思われるのは︑③で協会は︑第三者を調停人に選任し. その決定に従うことに合意するだろうか︑という点である︒再び国際政治を念頭に置きながら考えてみよう︒かり. に︑﹁北大西洋保護協会﹂と﹁ワルシャワ保護協会﹂という二つの協会があって︑両協会の加盟国同士が紛争を起こ. したとする︒両協会は︑第三者︑例えば﹁国連安保理事会﹂という名の調停機関に判定を委託するだろうか︵そもそ. も﹁第三者﹂とは一体誰なのか︒有力な保護協会の役員ともパト冒ンとも全く関係がなく︑しかも両協会から信頼を. 得られる中立の第三者は存在しえるのだろうか︶︒たとえ委託したとしても︑敗訴を宣告された側の協会は︑その決.
(21) 定に従ってすごすごと引きさがるであろうか︒どうもそうとは思えないのである︒. 結論的に言えば︑少なくともノージックが列挙する三つの可能性が︑考慮に値するすべてだとは必ずしも言いきれ. ないと考えられる︒ということは︑場合によっては︑ここで﹁見えざる手﹂の進行が終ってしまい︑国家が生じない. こともありうるのである︒これは決して見すごしてよい論点ではない︒ただ︑すべては予測の世界の話なので︑結局. のところ水掛け論の域を出るものではないことも確かである︒また︑﹁国家が生じないことがある﹂としても︑逆に. ﹁国家が生じることもある﹂可能性が残されているかぎり︑必ずしもノージックに対して決定的なダメージを与えた. わけでもない︵鑑留巳Rgo ︒︒ o ︶︒従ってここでは以上の点についてさしあたり疑問を表明しておいて︑話を先に進. 独立人と賠償原理. めることにしよう︒. 4. 4・1 若干の留保つきながら︑支配的保護協会が一定の地域内で地位を固めたとしよう︒しかし︑支配的協会はそ ︵35︶. のままではまだ最小国家には達していない︒それは第一に︑ある人々に自分の権利の実行︵自力救済︶を許している. し︑第二に︑当該地域内のすべての人を保護してはいない︒いずれの要件についても︑地域内に居住しておりながら. ︵36︶. どんな保護協会にも参加することを拒み︑自分の権利が侵害されたかどうかを自分で判定し︑もし侵害されたと判定. した場合には侵犯者を処罰したり賠償を取り立てたりする権利を個人的に執行しようとする人々︵独立人︶の存在が ネックになっているQ. ノージックは︑この状態から次の結末を予告する︒. 一七五. ①支配的保護協会は︑︵独立人を含め︶誰の権利をも侵害しない︑道徳的に許容できる形で︑見えざる手過程に 正当な国家の可能性︵若林威郎︶.
(22) 早稲田法学会誌第四十巻︵一九九〇︶. 一七六. よって︑︵緊急の自己防衛に必要なものを除いて︶すべての実力行使を独占するに至る︒言い換えれば︑不正 ︵37︶ に対する報復や賠償の取り立てを私人︵またはその代理機関︶が行うことを排除するに至る︒︵第一要件のク リアー︒超最小国家の成立︒︶. ②超最小国家では︑権利保護と執行のサービスを︑それの保護・執行証券を購入した者のみに提供しているが︑. 超最小国家の運用者たちには︑その保護を︑独立人を含めた地域内全員に提供すべき道徳的義務がある︒︵第. この二つの作業を首尾よく成し遂げるためにノージックは︑行為の禁止︑損害賠償︑手続的権利などについ. 二要件のクリ ア ー ︒ 最 小 国 家 の 成 立 ︒ ︶. 4・2. て周到を布石を打っている︒この部分が﹃アナーキー・国家・ユートピア﹄第一部の最大のヤマ場であることは衆目. 禁止される行為と禁止されない行為︒ところで﹁横からの. の一致するところであるから︑まずは︑その論旨を詳しく跡づけておく必要があるだろう︒. 人間のあらゆる行為は︑次の二つのいずれかである ︵38︶. 制約﹂理論によれば︑道徳空間において︑個人を取り囲んで一本の線がぐるりと円環を描いている︒そしてこの線の. 位置と輪郭を決定するのが権利である︒従ってこの円内が個人の領域であり︑円内を侵犯する行為が︑禁止される行. 為だと︑とりあえずは言える︒しかしながら︑必ずしもすべての侵犯行為が禁止されるわけではない︒第一に︑その. 人の同意があれば︑侵犯は許される︒ノージックの考えでは︑同意による侵犯禁止の解除は無制限であり︑同意があ. ればその人を殺すことすら許される︒これは︑人が︵第三者に対してそれをしない義務を負担したのでない限りは︶ ︵39︶ 自分自身に対していかなることもやってよいという︑個人領域の絶対性のコ・ラリ!である︒第二に︑その人に侵犯 によって生じる損害を賠償すれば︑侵犯が許されることがある︒. いまノージックの議論をもとに﹁同意﹂と﹁賠償﹂という二つの解除条件を組み合わせて︑どの場合に侵犯が許さ.
(23) れるかを整理したのが表2である︒この中で︑同意は今言ったようにオールマイティであるから︑賠償のあるなしに. かかわらず侵犯は許容される︵@⑥の場合︒もっとも︑同意があればわざわざ賠償する必要はないから@はあまり意. 味がない︶︒一方︑④のように同意もなく賠償もしないで行った侵犯は︑端的に権利侵害であり︑いかなる場合も禁. 止される︵このケースで許される侵犯−例えば全体の福祉のためのーは﹁横からの制約﹂の枠組み内では考えら. れない︶︒問題になるのは︑@のケースである︒ノージックによれば︑この範疇の行為のうちある種のものは禁止さ. 償. (b). 意. 容. 禁. 止臼) なし. 許容/禁止. 同. 許. (c). 許 容(a). あり. な り. あ. まず︑賠償を支払ってもなお禁止される侵犯行為︵cのー︶とは︑﹁恐怖を喚起す. る行為﹂である︒ノージックはこういう例を出す︒Yが誰かの家の前で滑って腕を折. り︑受傷の賠償を訴求して二〇〇〇ドルを得たとする・これを知ったXは︑﹁そんな. 目に合ったとはYは何と運がいいんだろう︒二〇〇〇ドルを得るためなら腕を折るだ. けのことはある︒その金はその受傷を充分に償っている﹂と考えるかもしれない︒し. かし︑もし誰かがXのところへ来て﹁来月私は君の腕を折るかもしれない︒それをす. る場合は︑私は君に賠償として二〇〇〇ドルあげよう︒しかしもし私が君の腕を折ら. ないと決めれぽ︑君には何もあげない﹂と言ったとすれば︑Xは自分の幸運に安住し. ていられるだろうか︒逆に彼は︑不安げに歩き回り︑背後の物音に飛上がり︑突然苦. 痛が自分を襲うことを予期していらいらするのではないだろうか︒このように︑たと. えそれが自分の身に降りかかれば完全に賠償されるとわかっていても︑われわれが恐. 一七七. 怖を感じるような行為は︑その一般的不安と恐怖を回避するために︑禁止され︑処罰 正当な国家の可能性︵若林威郎︶. 賠. し. れ︵cのー︶︑ある種のものは許容される︵cの2︶︒. 表2.
(24) ︵如︶. 早稲田法学会誌第四十巻︵一九九〇︶. 可能とされなければならない︒. 一七入. 一方︑賠償を支払えば侵犯を許される行為︵cの2︶は︑これより危険度の低いタイプの行為とされる︒つまり︑. ある種の危険な行為は︑単独ではどんな特定人にも心配や恐怖を与えるには低すぎる危害の確率しか持たないが︑こ. のような行為が多数合わさったとぎに︑恐怖を感じさせる︒例えば︑てんかん症の人のうち誰を取り出しても︑その. 人は一生車を運転しても誰にも危害を与えないかもしれない︒しかし少なからぬ数のてんかん症の人達が車を運転し. ているという事態は︑人に恐怖を感じさせる︒﹁cのー﹂基準によれぽ︑この種の行為は︑総体としては禁止に値す ︵41︶. る︒しかし他方その要素たる個々の行為は具体的な恐怖を生まないのだから︑これを禁止することは不必要に厳格に. なってしまうであろう︒例えば運転を禁止された人は︑自動車依存型の社会では深刻な差別的不利益を蒙る︒専用の. 運転手を雇ったリタクシーを利用するなりしてこの不利益を補うには金銭的コストがかかる︒そのため︑このカテゴ. リーの行為は︑﹁賠償を支払って禁止する﹂のが妥当とされるのである︒ただし︑そうかといって︑例えば胃シア. ン・ルーレットをして遊ぶ行為の禁止にまで賠償を要するわけではない︒賠償すべきかどうかの境界線は︑﹁通常の ︵覗︶ 状態︵昌9ヨ巴ωぎ呂8︶﹂と比較して差別的不利益を受けるかどうか︑のところに引かれる︒ちなみに﹁通常の状. 態﹂は︑﹁禁止がなければそうであったはずの状態﹂とは異なる︒いわぽ前者は後者より低い位置にある︒自動車運. 転の禁止は﹁通常の状態﹂のラインを割ってしまうが︑ロシアン・ルーレットの禁止は﹁禁止がなければそうであっ ︵43︶ たはずの状態﹂を下回っていても︑﹁通常の状態﹂まで下回ってはいないということになる︒. 以上が︑禁止と賠償についての一般理論である︒そこで︑場面は支配的保護協会の活動に戻る︒ある目︑ジョー. は︑自宅の高価なロッキソグチェアが盗まれているのを発見した︒彼が独立人だとしよう︒彼は︑自分では完全に信. 頼できる犯人発見の手続を持っている1茶葉占いという手続だ︒近くには支配的保護協会である﹁律バート.ノー.
(25) ジック代理店﹂があり︑そこでは別の手続︵あらゆる労を惜しまない捜査︑時問をかけた審理︑﹁疑わしきは被告人. の利益に﹂という原則⁝︶を持っているが︑ジョーはこれを馬鹿にしている︒支配的協会にとってジョーの手続は脅 威である︒支配的協会はどうすることができるか︵ooき号議︸紹︶︒. 自然状態で人は︑手続的権利ー罪を確定するについて最も危険の少ない既知の手続で自分の罪を判定してもらう ︵廻︶. 権利ーを持っているのか︒ノ1ジックは一応この権利があるものとしているが︑ない場合もあわせて考慮してい. る︒手続的権利を持つ場合は︑話は簡単である︒人は︑他人がある手続を自分に適用してきた場合︑それを良心的に ︵45︶. 検討しつくした結果不公正又は信頼性がないと判断したものには︑抵抗することができる︒個人はこの権利を支配的. 協会に授権する︒この結果支配的協会は︑独立人の手続行使に対抗することがでぎるのである︒. 手続的権利がない場合でも︑そもそも信頼性のない手続を使う者は︑具体的な事例でそれが不発に終ったとして. も︑他の人々に危険を及ぼしている︵あたかも他人に向けてβシアン・ルーレットをして遊ぶ者が︑引金を引いたが. たまたま銃弾が出なかったとぎのように︶︒また仮にその手続で有罪と判定した者が︵偶然︶真犯人だったとしても︑. なるほど判定者は犯人を処罰する権利を持つかもしれないが︑彼は︵不確実な手続のゆえに︶その者が真犯人である. ことを本当に知りえないのだから︑その処罰は不正なのである︒この説明はわかりにくいが︑次の例を読めば少しは. 理解できるかもしれない︒泥棒が盗んだ物を取り上げる権利は誰にもあると仮定すると︑盗品と知らずに泥棒からそ ︵46︶. れを取った者は︑自分にこの権利があることを知らなかったのだから︑この物を彼が取ったことは不正であり許され. ないとされる︒要するに真実を知らないという一点のゆえに彼は単なる泥棒の一人と見倣されるのであり︑不法な侵 害者になってしまうのである︒. 一七九. この辺でほぼ結論が見えてくる︒信頼性のない手続を使用することは﹁危険な行為﹂であり︑人はこれを禁止する 正当な国家の可能性︵若林威郎︶.
(26) 早稲田法学会誌第四十巻︵一九九〇︶. 一八○. ことができる︒そして何が﹁信頼性のない手続﹂かについては︑彼我の力関係によって︑支配的協会の判定が優越す. ︵47︶. る︒支配的協会はその実力を背景として︑独立人が使用する手続を﹁信頼性がない﹂と断定し︑これを禁止すること. ができるのである︵ここで﹁できる﹂というのは︑魯鼠ミ恥ではなく愁S§きの意味である︶︒これで第一要件が 充足される︒. 一方独立人は︑権利の自力救済を禁止されたことによって危害から自分を守ることがでぎなくなり︑日常生活に深. 刻な差別的不利益を蒙ることになる︒しかも︑独立人の活動が誰の権利も侵すことなしに行われたということも︑十. 分ありうる︵あたかも︑てんかん症のドライバーが無事故でありうるように︶︒要するに︑独立人の行為は﹁cの2﹂. のカテゴリーに属すると考えられる︒従って︑支配的協会は当該禁止に対して賠償をしなけれぽならない︒この場合 ︵娼︶. 最も安価な賠償の方法は︑独立人に支配的協会の顧客との間の紛争状態をカバーする保護サービスを提供することで. ある︒かくして支配的協会は独立人にも保護を提供する結果となり︑ここに第二要件も満足され︑最小国家が道徳的. ノージックの議論は非常に巧妙であり︑人をうならせる︒と同時に︵こういう言い方は﹁学問的﹂でない. に正当に成立する︒. 4・3. が︶あまりにも話がうますぎて︑どこかうさん臭い気がしないでもない︒ここでも︑もろもろの論評を紹介しなが ら︑検討していこう︒. 4・3・1 まずはじめに﹁危険な行為﹂の位置について考えてみる︒権利侵害行為とそうでない行為との間に﹁危. 険な行為﹂という中間領域を設ける合理的な理由があるのだろうか︒例えばこういう疑問である︒﹁危険な行為は権. 利侵害を構成するかしないかのいずれかである︒もし前者なら︑それを禁止するのは正当であり︑賠償する必要は全. くない︒もし後者なら︑その禁止は不当であり︑それ自身が権利侵害として処罰に値する︑と言うべきではないか﹂.
(27) ︵ト評三︵一︶﹄O︶︒ノージックは答える︒﹁このような二者択一ではあまりに不十分である︒ある行為を禁止する権 ︵萄︶. 利はあるが︑それはその行為を禁止される者に賠償が行われることを条件にしてのみ成立するということがありうる. からである﹂︒しかし本当にそうだろうか︒権利功利主義の立場から︑人々が享受する権利の総量を最大化するため. に危険な行為を禁止するというのなら︑まだ話はわかる︒しかし﹁横からの制約﹂の枠組みに︑そのようなカテゴリ. ーは整合的であろうか︒﹁現に誰の権利も侵害していない危険な行為者の権利を禁止するときの権利侵害度﹂と﹁危. 険な行為によって将来生じるかもしれない大きな損害の権利侵害度﹂を秤にかけて︑後者が重ければ前者を許容する. のが権利功利主義である︒しかし﹁横からの制約﹂論では︑このような比較衡量自体ナンセンスのはずではなかった. か︒現に誰の権利も侵害していない人の行為を禁止することは﹁いかなる人又は集団もやってはならないこと﹂では なかったかoこうした疑間が残らざるをえない︒. かりに危険な行為があるとしても具体的にどういう基準でそれを選別するのだろうか︒例えばこういう論法があ. る︒いまアメリカで最も犯罪の多い階層は︑十代の黒人男子である︒だとすれば︑十代の黒人男子全員を成人するま. で監禁することは許されるのか︒もちろん︑衣食︑教育の供与を賠償として︵男○讐訂置︸お︶︒あるいはエイズの潜. 在的保有者の性行為は禁止されるのか︒彼︵彼女︶は見返りに賠償︵どんな賠償?︶を受けることができるか︵魯 Uき芭8P一&︶︒この基準は必ずしも明らかでない︒. また︑﹁賠償﹂の性格についても疑問がある︒ノージックは︑同意と賠償が権利侵犯を免責すると言う︒同意が権. 利侵犯の禁止を解除するというのはわかる︒同意さえあれば殺人を含めいかなることも許容するという結論も︑﹁横. からの制約﹂理論を前提にすれば︑賛成できる︒しかし賠償はどうか︒それは同意と同等の資格︑効力を持つのだろ. 一入一. うか︒もともと賠贋とは︑事後的に損害を回復するための﹁手段﹂にすぎないのであって︑決して侵犯そのものに道 正当な国家の可能性︵若林威郎︶.
(28) 早稲田法学会誌第四十巻︵一九九〇︶. 一八二. 徳的是認を与えるものではないはずである︵国o浮訂巳℃9︶︒例えぽ私があなたに賠償を支払うことを条件にしてあ. なたの自由な言論を奪うことができるだろうか︵ω帥彗︒F8︶︒繰り返しになるが︑﹁横からの制約﹂理論によれば︑ ︵50︶. あらゆる権利侵害はー個人の同意がある場合を唯一の例外としてー禁止されるべきではないのか︒さらに言え. ば︑賠償理論はノージックの志に反し︑被害者が目的であることをやめ︑侵入者の手段になることを要求してはいな いだろうか︵U碧箆8Pω瞳︶︒. 賠償の要不要を分ける基準に﹁通常の状態﹂を持ち出すのも︑ノージックにしては意外な感を抱かせる︒コ定の. 生活水準を享受する権利﹂を粉砕するのが﹃アナーキー・国家・ユートピア﹄第二部のテーマであり︑現にノージッ ︵51︶. ク自ら︑﹁権利の空問は︑事物への具体的な諸権利で満ちており︑一定の物質的水準で生活する権利など入る余地が. ない﹂と言っているのである︵Uき邑︒︒OP一倉︶︒例えばアメリカのような車社会では運転の禁止が賠償に値し︑別. の地域では賠償しなくてよい︑というのは道徳的に一貫した主張だろうか︒どちらも車を運転する権利が侵害されて いることでは全く変わりがないのに︒. 以上︑一般理論の部分にそくしていくつかの疑問点を指摘した︒ここで中間的に総括しておけば︑危険な行為の禁. 止と賠償の理論を﹁横からの制約﹂的権利論の枠内に納めるのはかなり苦しいと思われる︒ノ;ジックは相当無理を. している︒もちろんそうする理由はわかっている︒厄介な独立人を何とか丸め込みたいのだ︒とすれば︑それを不動. の軸としてそこから逆算して︑賠償理論を経て危険な行為の一般理論が出てくる︑という倒錯した方法がどうしても. 透けて見えてしまうのである︒では独立人の何が厄介なのか︒次に後半としてそれを検討しよう︒. 4・3・2独立人はなぜ危険なのか︒彼︵彼女︶が信頼性のない︑不公正な手続を用いるからである︒なぜ独立人. の手続は信頼性がないのか︒それはなにも独立人が︑茶葉占いとか星座占いとかコックリさんとか︑現代のわれわれ.
(29) から見て一般に信頼性に乏しいと考えられる特定の手続を採用しているからではない︒ノージックの立場では︑手続. の信頼性︑公正性を実体的に判断する客観的な基準があるわけではない︒独立人の手続は︑彼︵彼女︶が他ならぬ独. 立人であるという外的な理由のみによって︑不公正で信頼性がないとされる︒逆に支配的保護協会の採用する手続. は︑それが支配的協会であるというだけのことで︑信頼でき公正なのである︒こういう例を考えてみよう︒現代人で. ある私が古代日本ヘタイムスリップしたとする︒そこでの支配的協会である﹁大和朝廷保護協会﹂が用いているの. は︑熱湯に手を入れてやけどした者が有罪になる﹁盟神探湯︵くがたち︶﹂という手続である︒一方独立人である私. は︑証拠裁判主義という手続を持っている︒この場合︑危険で信頼性がないとして禁止されるのは︑やはり独立人で. ある私の手続の方である︵おまけに私はその見返りとして﹁盟神探湯﹂によって私の権利を保護してもらえるのだ︶︒. しかしここでは︑この不合理︵?︶な帰結そのものを批判したいのではない︒また︑客観的な基準をノージックが. 提示していないことを論難するつもりもない︒ここで語られているのは︑﹁力が正義をつくる︵ヨ一αQ浮ヨ接窃ユαQ年︶﹂. 原理であり︵︒いKき釧o︒お脚=oぼ09爵ご︑強者の決めたことが通用力を持つのは︑古今東西を問わず普遍的に. 見られる事実であるだろう︒問題にしたいのは︑それが常に少数者の権利ー少数者にも権利があるとしてーを抑. 圧したうえに成り立ってきた︑といういわば背面の事実であり︑それをしてノージックが︑﹁権利の抑圧などないの だ﹂と強弁する根拠 の 方 で あ る ︒ ︵52︶. この立論を支持するための鍵となるのが︑﹁手続的権利﹂の概念である︒ノージックは︑自然状態でも手続的権利. がないわけではない︑と書いている︒ノージックの言い回しはここでは珍しく歯切れがわるいが︑もし手続的権利. ︵53︶. が︑いわゆる自然権の内容に含まれるということであれぽ︑その主張は奇異に聞こえる︒適正手続の保障は︑﹁刑罰. 一八三. 権は国家が独占することを前提に︑その刑罰権の行使の濫用を防止し︑国民の自由の保全をはかる﹂ための制度だと 正当な国家の可能性︵若林威郎︶.
(30) 早稲田法学会誌第四十巻︵一九九〇︶. 一入四. 通常理解されているからである︒もちろんノージックが教科書どおりの答案を書いていないのが悪いというわけでは. ない︒しかし︑コ階﹂の︵実体的︶権利を保障するための﹁二階﹂の︵手続的︶権利ーいわば﹁メタ権利﹂⁝. を一階に降ろせばどういうことになるか︒もし手続的権利が自然権だとすれば︑それは無限退行に陥ってしまうので. ある︒つまり︑もし自然権侵害の有無について信頼でぎる手続で判定を受ける自然権を持つとしたら︑手続的権利そ. のものが侵害されている場合はどうなるのか︒この違反はより信頼できる第二段階の手続のセットによって判定され ︵54︶. るべきか︒第二段階の手続はさらにそれの侵害を判定すべく第三段階の手続のセットを必要とする︒以下同様︑無限 に続くQ●勺窪一︵一γ認ご答︵鱒γω8︶︒. 手続的権利を自然権に同一化することについてのもうひとつの︑別角度からの疑間は︑手続の信頼性の問題が権利. とどういうかかわりがあるのか︑ということである︒例えばあなたがテレビを盗んだとしよう︒そのテレビの正当な. 所有者は︑あなたのところにやってきてそれを取り戻してよい︒あなたがそれに正当に対抗できるのは︑あなたが無. 実であるか︑又は何か他に正当な理由があるときだけである︒手続的権利は? それは︑中立の第三者にはあなたが. 無実かどうかがわからないから︑事実を確定しどちらの権利が尊重されるべぎかを決定するための︑実践的問題にか. かわるにすぎない︒言いかえれば︑手続的権利は︑何が客観的事実かを発見するという認識論上の問題にかかわるの. であって︑道徳上の間題ではない︒権利は実体的に︑すなわち客観的状況の中に定位されている以上︑個人が犯す過. ちは︑信頼できる手続があろうとなかろうと︑他人の権利を侵害しているのである︒もしあなたが無実なら︑あなた. はあらゆる手続に対してあなた自身を守る権利を持っており︑もし有罪なら︑いかなる手続に対してもそれを持たな. い︒手続の信頼性は道徳的権利とは無関係であり︑事実を発見するための手続は権利そのものと混同されてはならな い︵切貰器夢嵩︶︒.
(31) このように︑手続的権利が︑他の自然権つまり生命︑自由︑財産に対する権利とは異質であることが明らかになれ. ば︑人は自然状態では手続的権利を持たないことになり︑従ってこの権利を支配的協会に委譲することもできず︑国. 家は成立しないことになる︒しかしノージックは︑手続的権利がない場合もあわせて考慮に入れて所論を補強してい る︒ここから先はそれも視野に含めて考察を進めてみよう︒. 手続的権利がない場合でも︑独立人の使用する手続が信頼性に欠け危険であるという論点は︑この権利がある場合. と同じである︒この際︑独立人の側にも同じように︑支配的協会の手続が不公正であると抗弁する権利はあるはずだ. が︑これはすでに触れたように﹁力が正義を生む﹂原則によって斥けられてしまう︵Kき斜額ω︶︒このこと自体︑. 独立人の権利を不当に侵害しているのではないかという強い疑いがあるが︵=oぎ①︒︒︸①貸留巳99合︶︑ここでは. もっと論点を絞って︑支配的協会の顧客が現に独立人の権利を侵害した場合でも︑独立人は顧客を処罰できない︑と. いう主張のみを検討する︒この主張さえ崩れれぽ︑支配的協会の正当な実力独占は達成されないからである︒. ノージヅグが挙げる理由は︑独立人の手続は不確実だから真犯人を知ることがでぎない︑それゆえたとえ真犯人で. あっても独立人が処罰するのは許されない︑というものだが︑第一の疑間は︑現行犯のように︑犯人発見の手続を使. うまでもなく真犯人が自明であるときでも︑独立人は犯人を逮捕し処罰することができないのか︑ということであ. る︒例えば︑支配的協会の顧客が独立人に殴りかかって怪我を負わせた場合でも︑独立人は直ちにそれを処罰するこ. とができず︑支配的協会に訴え出て︑協会の判決が出るまで待たなけれぽならないのだろうか︒独立人に処罰を任せ. たら何をするかわからない︵例えば軽傷を負っただけで顧客を死刑にするかもしれない︶から禁止するというのな. ら︑わからないでもないが︑それは﹁犯人を知りえない﹂という論点とは別次元の問題である︒ノージックは︑この. 一八五. 論点を一般化して﹁もし人が︑条件Cが成立しない限り行為Aを行うことはQの権利を害すると知っていれば︑彼 正当な国家の可能性︵若林威郎︶.
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