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77 沖縄地方紙と沖縄の 地方益 1.はじめに 沖縄地方紙の位置づけ 2.インタビュー要旨3.結び1.はじめに 沖縄地方紙の位置づけ (1)主権回復 国際社会復帰を記念する式典沖縄には 沖縄タイムスと琉球新報(いずれも日刊 朝刊のみ)という二つの新聞(地方紙)がある 発行部数は両紙とも十五万部をこえ

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Title

沖縄地方紙と沖縄の「地方益」

Sub Title

Local paper and 'local interest' in Okinawa

Author

大石, 裕(Oishi, Yutaka)

Publisher

慶應義塾大学法学研究会

Publication year

2017

Jtitle

法學研究 : 法律・政治・社会 (Journal of law, politics, and

sociology). Vol.90, No.7 (2017. 7) ,p.77- 116

Abstract

Notes

研究ノート

Genre

Journal Article

URL

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00224504-20170728

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1.はじめに ── 沖縄地方紙の位置づけ ── 2.インタビュー要旨 3.結び

1.はじめに

──

沖縄地方紙の位置づけ

──

(1)   主権回復・国際社会復帰を記念する式典   沖縄には、沖縄タイムスと琉球新報(いずれも日刊、朝 刊のみ)という二つの新聞(地方紙)がある。発行部数は 両紙とも十五万部をこえる程度でほぼ同じである。日本経 済新聞以外の全国紙が沖縄県内に印刷所をもっていないこ ともあり、発行部数に関しては、両紙は特に沖縄本島では 圧倒的なシェアを誇っている。   また沖縄タイムスと琉球新報は、日本の地方紙のなかで も独特の役割を担っていることで知られている。その役割 は、言うまでもなく沖縄の地域性と深く関連している。す でに数多く論じられてきたことではあるが、ここでは以下 の点を再確認しておく。   それは、言うまでもなく沖縄(あるいは琉球)の歴史で ある。歴史をめぐる沖縄と「本土」人々との認識の差異は 非常に大きい。そうした差異を際立たせる「沖縄の人びと の心に深く沈殿している年」として、以下の出来事が指摘

沖縄地方紙と沖縄の

地方益

 

 

 

   

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法学研究 90 巻 7 号(2017:7) さ れ た こ と が あ る( 鹿 野 正 直   「 周 辺 か ら、 沖 縄 」 歴 史 学 研 究会編『国民国家を問う』青木書店、一九九四年、一八四 頁) 。 ①   一六〇九年 ─ 薩 摩軍の侵攻と同藩による支配開始 の年。 ②   一八七二 〜 一八七九年─廃藩置県に伴う琉球「処 分」 。 ③   一九四五年─十五年戦争最終段階での地上戦、日 本からの分離、及び米軍統治開始の年。 ④   一九七二年─日本復帰の年。   こ の 中 で も、 「 十 五 年 戦 争 最 終 段 階 で の 地 上 戦 」 は、 現 代 の 沖 縄 県 民 の 多 く に 大 き な 影 を 落 と し て い る と 言 え る。 ちなみに沖縄の高等学校などで広く使用されている、 新城 俊 昭・ 沖 縄 歴 史 教 育 委 員 会 編 著 『 新 訂 版   琉 球・ 沖 縄 の 歴 史 と 文 化 』( 編 集 工 房 東 洋 企 画、 二 〇 一 六 年 ) で は「 沖 縄 戦の特徴」は以下の七点にまとめられている(一二四頁) 。 ①   勝 ち 目 の な い 捨 石 作 戦 で あ り、 「 本 土 」 防 衛・ 国 体( 天 皇 制 ) 護 持 の た め の 時 間 か せ ぎ の 戦 争 で あった。 ②   米 英 軍 の 無 差 別 攻 撃 で、 多 く の 住 民( 非 戦 闘 員 ) が犠牲となった。 ③   住民をまきこんだ激しい地上戦が展開された。 ④   疎開等の住民保護対策が不十分なうえ、現地総動 員作戦のもとに住民が根こそぎ戦場に動員された。 ⑤   軍人よりも、住民の犠牲の方が多かった。 ⑥   朝鮮半島出身の女性や地元遊郭の女性などが日本 軍「慰安婦」にされたり、米兵による性暴力など で女性の人権が蹂躙された。 ⑦   日本兵による住民殺害事件(住民虐殺)が多発し た。   ・直接手を下した例・・・スパイ容疑による虐殺、 乳幼児虐殺。   ・死に追いやった例・・・日本軍命令・指導による 「強制集団死」 。 食糧強奪、濠追い出し等 が原因となった死亡。   沖 縄 が か か え る 米 軍 基 地 問 題 は、 こ う し た「 本 土 」・ 日 本国による支配の歴史と、アジア太平洋戦争をめぐる記憶

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と密接に結びついている。この点に、米軍基地問題と歴史 認 識 を め ぐ る「 本 土 」 と 沖 縄 の 差 異、 あ る い は「 温 度 差 」 を見出すことは容易である。   歴史認識については、このような重大な差異があるにも かかわらず、二〇一三年四月二八日、安倍晋三内閣は「主 権回復・国際社会復帰を記念する式典」を挙行した。当然 のことながら、この式典に関しては、計画段階から沖縄県 民の多くから強い反対の声があがった。こうした県民感情 に配慮して、安倍晋三首相は式辞の中で以下のように述べ た。 「とりわけ銘記すべきは、残酷な地上戦を経験し、おびただ しい犠牲を出した沖縄の施政権が、最も長く、日本から離れ た ま ま だ っ た 事 実 で あ り ま す。 『 沖 縄 の 祖 国 復 帰 が 実 現 し な い 限 り、 わ が 国 の 戦 後 は 終 わ ら な い 』。 佐 藤 栄 作 首 相 の 言 葉 で す。 沖 縄 の、 『 本 土 』 復 帰 は、 昭 和 四 七 年、 五 月 一 五 日 で す。日本全体の戦後が、初めて本当に終わるまで、主権回復 か ら、 な お 二 〇 年 と い う 長 い 月 日 を 要 し た の で あ り ま し た。 沖縄の人々が耐え、忍ばざるを得なかった、戦中、戦後のご 苦労に対し、通り一遍の言葉は、意味をなしません。わたく しは、若い世代の人々に特に呼びかけつつ、沖縄が経てきた 辛苦に、ただ深く、思いを寄せる努力をなすべきだというこ とを、訴えようと思います。 」   朝 日 新 聞 は 翌 二 九 日 に、 「 主 権 回 復 の 日   四 七 分 の 一 の 重い『ノー』 」と題した以下のような社説を掲載した。 「政府式典と同じ時刻、沖縄県宜野湾市ではこれに抗議する 集会があった。集会の最後、一万人の参加者が『がってぃん な ら ん 』( 合 点 が い か な い = 許 せ な い ) と、 五 度 ス ロ ー ガ ン の声を合わせた。地元紙などの事前の世論調査では、約七割 の県民が政府式典を『評価しない』と答えている。県民感情 に配慮して仲井真弘多知事は式典を欠席し、副知事が代理出 席した 。」   この社説ではまた、次のような主張も展開されている。 「安倍首相は、政府式典で『沖縄が経てきた辛苦に思いを寄 せ る 努 力 を 』 と 語 っ た。 そ の 言 葉 が 本 当 な ら、 政 府 は ま ず、 辺野古案にこだわるべきではない。地位協定の改正も急がな くてはならない。やはり四・二八に発効した日米安保条約の 下、沖縄の犠牲の上に日本の平和は保たれてきた。四七分の 一の『ノー』が持つ意味の重さを、私たち一人ひとりがかみ しめなければならない。 」

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法学研究 90 巻 7 号(2017:7)   式 典 当 日、 沖 縄 タ イ ム ス は「 四・ 二 八   抗 議 の 拳   『 屈 辱 の 日 』  沖 縄 大 会   『 が っ て ぃ ん な ら ん 』 と 結 集 」 と い う 見 出 し で「 速 報 」 を 出 し た。 琉 球 新 報 も「 政 府 式 典 に 抗 議   『 屈 辱 の 日 』 大 会   市 民 結 集 」 と い う「 号 外 」 を 出 し て い る。   両紙とも「屈辱の日」という強い言葉を用いてこの式典に 対してきわめて強い批判を行った。   二 〇 一 七 年 四 月 二 八 日、 沖 縄 タ イ ム ス は 社 説 で「 『 四・ 二八』のその日、政府は沖縄県民の強い反発を押し切って 『 主 権 回 復・ 国 際 社 会 復 帰 を 記 念 す る 式 典 』 を 強 行 し た。 県外からも批判が相次いだため、その後、政府主催の記念 式典は開かれていないが、沖縄への無理解がここにも表れ ている」と述べ、批判の手を緩めていない。   琉球新報も同様である。以下の見解は、そのことを象徴 している。   「一九五二年四月二八日に発効したサンフランシスコ講和条 約によって日本は独立し、沖縄は奄美、小笠原と共に日本か ら切り離された。講和条約第三条によって、米国は日本の同 意の下で、他国に介入されることなく軍事基地を自由に使用 す る こ と が で き た。 米 軍 は 沖 縄 住 民 の 基 本 的 人 権 を 無 視 し 『 銃 剣 と ブ ル ド ー ザ ー』 に よ っ て 農 地 を 奪 い、 東 ア ジ ア 最 大 の軍事基地を建設した。まさに沖縄にとって 『 屈辱の日 』 で ある。沖縄は四・二八を『屈辱の日』と記憶し、自己決定権 の回復を求めてきた。現在、安倍政権は選挙で示された民意 に反して名護市辺野古の新基地建設を強行している。今ほど 露骨に沖縄の自己決定権がないがしろにされている時期はな いだろう。過去に学び、未来のために、露骨な強権にひるま ず毅然としてはね返そう。 」(二〇一七年四月二八日) (2)   沖縄地方紙に対する批判と反論   こうした主張を積極的に行う沖縄地方紙に対しては、近 年特に強い批判が浴びせられるようになった。もっとも注 目されたのは、自民党の若手議員による勉強会「文化芸術 懇話会」における出席議員と作家の百田尚樹の発言であっ た。この問題について、朝日新聞は「百田氏『沖縄二紙つ ぶせ』自民勉強会で発言」と題して次のように報じている (二〇一五年六月二六日、夕刊) 。 「会合では、出席議員が米軍普天間飛行場の移設問題で政権 に 批 判 的 な 沖 縄 タ イ ム ス と 琉 球 新 報 を 挙 げ、 『 沖 縄 の 特 殊 な メディア構造を作ったのは戦後保守の堕落だ。左翼勢力に完 全に乗っ取られている。沖縄の世論のゆがみ方を正しい方向 に持っていく』と主張した。これに対し、百田氏は『沖縄の 二つの新聞社は絶対つぶさなあかん。沖縄県人がどう目を覚 ますか。あってはいけないことだが、どこかの島でも中国に

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とられてしまえば、目を覚ますはず』と語った。 」   これらの発言に対して、多くのメディアは厳しい批判の 声をあげた。当然のことながら、沖縄二紙は特に強く反発 し、批判した(これら一連の流れについては、沖縄タイム ス社編『報道圧力─時代を読む/沖縄の声届ける』沖縄タ イ ム ス 社、 二 〇 一 五 年、 を 参 照 )。 二 〇 一 五 年 六 月 二 六 日 には、沖縄タイムス編集局長・武富和彦、琉球新報編集局 長・潮平芳和(いずれも当時)の連名で以下のような「共 同抗議声明」を出している。 「 百 田 尚 樹 氏 の『 沖 縄 の 二 つ の 新 聞 は つ ぶ さ な い と い け な い』という発言は、政権の意に沿わない報道は許さないとい う〝言論弾圧〟の発想そのものであり、民主主義の根幹であ る表現の自由、報道の自由を否定する暴論にほかならない。   百田氏の発言は自由だが、政権与党である自民党の国会議 員が党本部で開いた会合の席上であり、むしろ出席した議員 側が沖縄の地元紙への批判を展開し、百田氏の発言を引き出 している。その経緯も含め、看過できるものではない。   さ ら に『 ( 米 軍 普 天 間 飛 行 場 は ) も と も と 田 ん ぼ の 中 に あった。基地の周りに行けば商売になるということで人が住 みだした』とも述べた。戦前の宜野湾村役場は現在の滑走路 近くにあり、琉球王国以来、地域の中心地だった。沖縄の基 地問題をめぐる最たる誤解が自民党内で振りまかれたことは 重大だ。その訂正も求めたい。   戦後、沖縄の新聞は戦争に加担した新聞人の反省から出発 した。戦争につながるような報道は二度としないという考え が、報道姿勢のベースにある。   政府に批判的な報道は、権力監視の役割を担うメディアに とって当然であり、批判的な報道ができる社会こそが健全だ と考える。にもかかわらず、批判的だからつぶすべきだ─と いう短絡的な発想は極めて危険であり、沖縄の二つの新聞に 限らず、いずれ全国のマスコミに向けられる恐れのある危険 きわまりないものだと思う。沖縄タイムス・琉球新報は、今 後も言論の自由、表現の自由を弾圧するかのような動きには 断固として反対する。 」     沖縄県議会も、二〇一五年七月二日に安倍晋三自民党総 裁(首相)あての「自民党勉強会での報道機関への言論圧 力及び沖縄県民侮辱発言への抗議決議」を賛成多数で可決 し た( 賛 成 三 一、 反 対 一 三、 離 席 二 )。 そ の 内 容 を 抜 粋 し て以下掲げておく。 「百田氏の発言は、政府の意に沿わない言論機関は存在その ものを許さないという態度であり、沖縄だけでなく日本全国

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法学研究 90 巻 7 号(2017:7) の報道機関への圧力とも言える。これに呼応した自民党議員 らの『沖縄の特殊なメディア構造をつくってしまったのは戦 後保守の堕落だ。 』、 『左翼勢力に乗っ取られている。 』などの 発言は、報道機関だけでなく、読者である沖縄県民をも侮辱 するもので到底、看過できない。   現在の米軍普天間飛行場は、戦前には多くの集落が存在し、 役場や郵便局、小学校などの公共施設があり、県民が平和に 暮らす場所であった。七〇年前の地上戦によって米軍が住民 を収容所で囲い込んでいる間に、強奪した上につくった基地 である。百田氏の発言は、先祖伝来の土地を強制的に接収さ れた地主の苦悩を顧みず、歴史的事実を意図的にゆがめて県 民を愚弄するものであり、断じて許すわけにはいかない。 」   全 国 紙 も「 異 常 な『 異 論 封 じ 』 自 民 の 傲 慢 は 度 し 難 い 」 (二〇一五年六月二七日、朝日新聞「社説」 )、 「自民若手勉 強 会、 看 過 で き な い『 報 道 規 制 』 発 言 」( 同、 読 売 新 聞 「 社 説 」) 、「 自 民 党 勉 強 会   言 論 統 制 の 危 険 な 風 潮 」( 同、 毎 日 新 聞 )、 「 懲 ら し め ら れ る の は 誰 だ ろ う 」( 同、 日 本 経 済 新 聞 )、 「 自 民 勉 強 会 発 言   与 党 議 員 の 自 覚 に 欠 け る 」 (二〇一五年六月三〇日、産経新聞「主張」 )という具合に 強い調子で批判した。   また、次のような批判を展開した地方紙も存在した(琉 球新報   二〇一五年六月三〇日、参照) 。   ・   山形新聞─寒河江浩二主筆・社長「緊急声明、言論封殺 の暴挙許すな」 (二〇一五年六月二八日) 。 ・   長 崎 新 聞 ─ 今 福 雅 彦 編 集 局 長「 言 論 封 殺 の 策 動 許 す な 」 (二〇一五年六月三〇日) 。 ・   神 奈 川 新 聞 ─ 社 説「 報 道 批 判   加 速 す る 為 政 者 の 暴 走 」 (二〇一五年六月二七日) 。   百田発言などは、このように各メディアから厳しく糾弾 された。ここでは、読売新聞の社説の一部を掲げておく。 「安全保障関連法案に批判的な報道機関を念頭に、出席議員 から『マスコミを懲らしめるには、広告収入がなくなるのが 一番だ。経団連に働きかけていただきたい』といった声が上 がった。自らの主張と相いれない新聞やテレビ局に広告を出 させない形で圧力をかけようとしている、と受け取られても 仕方あるまい。……辺野古移設は、市街地の中心部にある普 天間飛行場の固定化を避けるための実現可能な唯一の選択肢 だ。 『 移 設 反 対 』 を 掲 げ る 沖 縄 二 紙 の 論 調 に は 疑 問 も 多 い。 しかし、地元紙に対する今回の百田氏の批判は、やや行き過 ぎと言えるのではないか。 」   この社説も百田らの発言に関しては、概して批判的であ

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る。ただし、その中で注目すべきは、 「『移設反対』を掲げ る沖縄二紙の論調には疑問も多い」という見解も同時に示 さ れ て い る 点 で あ る。 産 経 新 聞 も「 『 慰 霊 の 日 』 報 道   沖 縄主要2紙、圧倒的シェア   反基地・反政権一色」と題し た記事の中で、沖縄地方紙に対して次のような批判を加え ている(二〇一五年七月六日) 。 「辺野古移設反対ばかりを強調し、安倍政権との対立の構図 を 際 立 た せ よ う と す る 報 道 ぶ り に は、 『 一 方 の 民 意 し か 紙 面 に 反 映 し て い な い 』( 元 県 幹 部 ) な ど の 声 が 上 が っ て い る。 実際、普天間移設計画をめぐり、移設先の名護市辺野古の住 民が移設計画を容認していることや、移設反対派による路上 での抗議に周辺住民が迷惑を受けている実態などは掲載され ていない。沖縄経済界の幹部も『反基地の主義主張に寄り添 うことに重きを置き、安倍政権との対立をあおっている』と 指摘する。沖縄での二紙の占有率は九八%ともいわれ、その 影響力は大きい。 」   この種の批判は、やはり二〇一五年六月二三日の「慰霊 の日」に関する報道、特に沖縄の各メディアが「安保法案 = 辺 野 古 移 設 = 戦 争 」 と い う「 一 面 的 な 主 張 」( 仲 新 城 誠 『翁長知事と沖縄メディア─「反日・親中」タッグの暴走』   産 経 新 聞 出 版、 二 〇 一 五 年、   六 二 頁 ) を 行 っ た こ と に 関 す る以下の論評にも見られる。 「異なった意見が存在することを紹介し、その選択を読者や 視聴者に委ねるのがメディアの役割ではないか。しかし私が 見た限り、そのように配慮された報道は 皆 無だった。改めて 沖縄の言論空間がいかに窮屈か実感される。県民は新聞を広 げても、テレビのスイッチをつけても、常に辺野古反対、安 保法制反対の洪水のような論調にさらされている。 」(同、六 二─六三頁)   同時に忘れてはならないのは、多くのメディア批判がさ か ん に 行 わ れ て い る イ ン タ ー ネ ッ ト 上 で、 沖 縄 メ デ ィ ア、 なかでも沖縄地方紙に対する感情的な批判が数多く行われ てきた点である。そうした批判は、さらには沖縄県民や沖 縄県にも向けられるようになってきた。以下の記事はその 状況を明らかにしている。 「 ネ ッ ト 上 で は 嫌 中 や 嫌 韓 に な ぞ ら え た、 『 嫌 沖 』 と い う ワードも散見される。 『反日沖縄人』 『振興費たくさんもらっ てるくせに』と、沖縄県民自体を非難するような投稿ととも に、多くは、国と県の対立が鮮明になる中で書き込まれたも

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法学研究 90 巻 7 号(2017:7) の で あ る。 …… 沖 縄 県 民 に 対 す る 偏 見 が あ る 』 と 話 す の は、 東京に一〇年在住した後、五年前に沖縄に帰郷したという男 性(五六歳)だ。……排他意識が、根拠のない非難や憎悪に 結びつくのは、嫌韓・嫌中の例を見ても明らかである。 」(日 刊 サ イ ゾ ー、 二 〇 一 六 年 五 月 一 六 日 、 Infoseek  news よ り 転 載)   こ の よ う な「 嫌 沖 」 あ る い は「 嫌 沖 縄 」 と い う 風 潮 は、 沖縄地方紙に対する批判へとつながっている。米軍基地反 対という沖縄地方紙の一貫した「偏った」主張、近年では 先にあげたように「安保法案=辺野古移設=戦争」という 「一面的」な主張が、沖縄の世論を歪め、 「国益」に反する 運 動 を 盛 り 上 げ て い る と 見 な さ れ て し ま う か ら で あ る。 「 国 の す る こ と に 逆 ら う な ─ ─ 新 基 地 建 設 に 反 対 す る 沖 縄 県民を『売国奴』と罵るような世論が、作家や政治家、一 部 メ デ ィ ア に よ っ て 煽 ら れ て い る 」( 安 田 浩 一『 沖 縄 の 新 聞は本当に「偏向」しているのか』朝日新聞出版、二〇一 六年、三七 ─ 三八頁)というわけである。   (3)   ジャーナリズム論から見た、沖縄の「地方益」   もちろん、いわゆる客観報道、中立・公平・公正な報道、 という長年にわたって積み上げてきたジャーナリズムに関 する規範的な観点からすれば、沖縄地方紙の報道に対する 批判は相応の説得力をもつかもしれない。しかしその一方 で、この種の批判に関しては、以下の観点からの反論が十 分に可能だと考える。   第一は、ニュース論の観点である。ニュースの制作過程 を単純化して示せば、それは「社会で生じた出来事の選択 →取材によるニュースの素材の収集→ニュースの素材の編 集と整理→ニュース」となる。こうし た一 連の過程の中で、 出来事は取捨選択され、選ばれた複数の出来事の重要度が 比較され、優先順位がつけられることになる。この作業に ついては、広い意味での「編集」という言葉で置き換える こともできる。要するに、出来事からニュースにいたる過 程の中で 、 編集とい うジ ャーナリズムの価値観に関わる作 業がつねに行われているのである。   第二は、シビック・ジャーナリズムの観点である。この 考 え 方 は、 ジ ャ ー ナ リ ズ ム と は 一 般 市 民 に 対 し て た ん に ニュースを流すだけではなく、政治参加や公的な議論の活 性 化 を 促 す こ と の 重 要 性 を 説 く も の で あ る。 そ れ こ そ が ジャーナリズムの本来の使命だというのである。   第 三 は、 地 方 ジ ャ ー ナ リ ズ ム と 国 益 と い う 問 題 で あ る。 すなわち、国益という概念、そしていずれの政策をとるこ

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とが国益に適うかという問題からいったん離れ、沖縄の基 地問題のように国益と地方益が対立していると捉えられる 場合、はたして地方ジャーナリズムはどのような報道を行 うべきかという問題が生じてくるのである。例えば、以下 の指摘はその点を巧みに浮かび上がらせている。   「沖縄にとって米軍基地は抑圧装置として機能してきた。安 全保障の観点だけでは語り切ることのできない暴力と不平等 と分断を与えてきた。……沖縄紙の〝特殊性〟というものが あるとすれば、まさにそうした切実な人権感覚を挙げること が で き る か も し れ な い。 そ れ が、 『 本 土 』 か ら は と き に『 偏 向 』 だ と 指 摘 さ れ る。 つ ま り〝 特 殊 〟 な の は 新 聞 で は な く、 沖縄の置かれた状況なのだ。 」(安田 、 前掲書、九〇頁)   そ こ で 以 下 で は、 こ う し た 沖 縄 県 や 沖 縄 地 方 紙 の 現 状、 そしてジャーナリズム論の研究成果を踏まえながら試みた、 六名の新聞記者に対するインタビューをまとめることにす る。インタビューは以下の日程と場所で実施された(肩書 はインタビュー実施時のもの) 。なお、インタビューには、 慶應義塾大学大学院生・高木智章氏(① 〜 ⑥)と佐藤信吾 氏(③ 〜 ⑥)も同席し、いくつかの質問を行った。 ①   澤田和樹氏(共同通信社那覇支局記者)二〇一六 年一一月七日、ANAクラウンプラザホテル沖縄 ラウンジ。 ②   佐藤敬一氏(毎日新聞那覇支局長)二〇一六年一 一月八日、ANAクラウンプラザホテル沖縄ラウ ンジ。 ③   石川達也氏(沖縄タイムス編集局長)二〇一七年 一月二六日、沖縄タイムス本社。 ④   崎濱秀光氏(沖縄タイムス論説委員長)二〇一七 年一月二六日、沖縄タイムス本社。 ⑤   福元大輔氏(沖縄タイムス編集局特別報道チーム 記者)二〇一七年一月二六日、沖縄タイムス本社。 ⑥   普久原均氏(琉球新報編集局長)二〇一七年二月 九日、琉球新報本社。   以下の記述は、これらのインタビューをもとにしたもの である。なお執筆にあたっては、私たちの質問を回答 の 中 に織り込むようにし、また発言内容の主旨を損なわない程 度に加筆と修正を行っている(以下、敬称略) 。

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法学研究 90 巻 7 号(2017:7)

2.インタビュー要旨

  ニュースの制作過程というのは、前述したような一連の 流れとして描くことができる。これら一連の作業は、新聞 社や放送局といったマス・メディアの場合、各々の組織に 属する記者や編集者によって行われている。ニュースとい うのは、記者や編集者の共同作業によって作られるのであ る。   ただし、ここで忘れてならないのは通信社の存在である。 通信社とは、国内外で生じた出来事を取材し、ニュースの 素材(文字、写真、映像)を主に報道機関に提供している。 日本には、共同通信と時事通信という二つの通信社がある。 日 本 の 場 合 に は、 こ れ ら の 通 信 社 は 特 に 地 方 紙 に 対 し て ニュースの素材を 数多く 提供している。 (1)   組織編成とニュース制作過程[石川]   沖縄タイムスの組織編成は以下の通りである。 1.編集局─政経部、社会部、運動部、学芸部、写真 部、編成本部、整理部、 (編集委員 ) 2.論説委員室 3.総合メディア企画 局 4.文化事業 局 5.広告 局 6.総務局 7.読者 局 8.デジタル 局 9.浦添印刷センタ ー 10.南部総局、中部支社、北部支社、宮古支局、八重 山支局、東京支社、関西支社、福岡営業 所   各記者からあがってくる記事は、編集局長が中心になる 「 調 整 会 議 」 に よ っ て、 掲 載 す る か 否 か、 掲 載 す る 際 の 紙 面やスペースなどが決定される。この会議は、原則午後五 時に開始され、紙面の骨格が決められる。   それ以降に大きなニュースが入ってきた場合、午後九時 過ぎに再度「調整会議」が開催されることもある。この会 議では、主に整理本部長、編集局次長、出稿デスクが中心 となって協議し、ニュースの扱いについて決定する。午前 二 時 ま で に は、 紙 面 は ほ ぼ 完 成 す る。 そ れ を 過 ぎ る と、 「 版 」 を 変 え て 対 応 す る。 そ れ に よ っ て、 離 島 向 け の 新 聞 と都市部の新聞の紙面が異なることもある。二〇一五年一 月一五日に起こった「辺野古新基地」への資材搬入は、午

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前二時半ごろに生じたため、紙面は「版」によって異なる ことになった。   テレビについては、琉球放送と琉球朝日放送と提携して いる。紙面づくりにおける地元テレビとの関係については、 お互いにヒントをえることはある。ただ、取材する記者の 数は圧倒的に新聞のほうが多い。テレビのローカルニュー スでは、取り上げる話題には限りがある。その点、沖縄二 紙とも日々三〇ページ程度の紙面があり、政治とか事件だ けでなく、スポーツや文化系のニュースも多くある。沖縄 は芸能とか歌や踊りが非常に盛んな地域なので、そういう 話題も積極的に毎日発信している。 ② [普久原]   琉球新報の組織編成は以下の通りである。 1. 編 集 局( 報 道 本 部 ) ─ 政 治 部、 経 済 部、 社 会 部、 文化部、運動部、写真映像 部 2.編集局(ニュース編成センター)─整理グループ (旧制作グループも含む) 、校閲グループ、デザイ ングルー プ 3.論説委員 室 4.経営戦略局(デジタル戦略担当を含む ) 5.印刷 局 6.読者事業 局 7.総務 局 8.営業 局 9.北部支社、中部支社、宮古支局、八重山支局、東 京支社、大阪支社、福岡支 社   ニ ュ ー ス は、 毎 朝 開 催 さ れ る「 紙 面 会 議 」 に よ っ て、 ウェブサイト上で速報を掲載するか否かが決定される。夕 方五時からも毎日、 「紙面会議」が開催される。   「 紙 面 会 議 」 に は、 編 集 局 長 と 二 人 の 編 集 局 次 長、 そ し て整理グループの当番デスクが参加している。夕方五時か らの会議では、どのニュースを一面にするか(おおよそ三 ─四本)が決定される。その後、夜八時にもう一回会議を 開く。その会議は通常は次長のうち一人が残り、出席する。 各部のデスクが参加し、新たなニュースがその場で報告さ れ、紙面の変更が行われることもある。それ以降の、例え ば一〇─一一時にもっと大きなニュースが飛び込んできた 時には、だいたい整理グループの判断に委ねているが、編 集局長が直接判断する場合もある 。   ネット掲載の場合、朝の「紙面会議」でいくつかの出来 事を取り上げ、各部署の部長やデスクが現場の記者に「取 材したら速やかに出稿」という指示を出している。突発的 な事件が生じた場合には、ニュース編成センター長が部長

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法学研究 90 巻 7 号(2017:7) や記者に直接連絡し、記事を書いてもらいネットに掲載し ている。   近年、昼にネットにアップするニュースの本数は増加傾 向にある。ネット・ニュースと新聞紙面にそれほど大きな 差はない。字数に違いはあるものの(例えば、ネットは五 〇 ─ 一 〇 〇 字、 紙 面 は 三 〇 〇 ─ 五 〇 〇 字 と い う 具 合 )、 記 事の核心部分は大きく変わらない。   テレビのニュースに関しては参考にはしている。例えば 沖縄テレビとは友好関係にあるが、そのニュースをほぼそ のまま書くことはない。もし相手に抜かれた場合には、後 追い取材をすることもある。でも、事実関係のチェックを テレビに委ねる形で報道するということはない。こちらで 必ず確認作業を行う。 [コメント]   沖縄二紙の組織編成とニュースの制作過程は ほぼ同じであり、また日本の他の地方紙と比べても大きな 差 は な い。 「 調 整 会 議 」( 沖 縄 タ イ ム ス )、 「 紙 面 会 議 」( 琉 球新報)と呼び方は異なるが、編集局長を中心とした編集 会議が数回開催され、この場で紙面の構成や記事の見出し と内容などが決められている。   また、両紙とも電子版でニュースを提供しているが、や はりその比重は次第に高まってきたようである。 (2)   共同通信社との関係 ]  沖 縄 タ イ ム ス の 場 合、 毎 日 夕 方 に 朝 刊 用 の メ ニ ュ ー が 共 同 通 信 か ら 配 信 さ れ て く る。 そ れ と「 地 ダ ネ (自社取材記事) 」 を 比較して紙面を編集する。共同配信の 記事の中でも、やはりこれは絶対必要な重大な出来事、例 え ば ト ラ ン プ 大 統 領 の 就 任 式 な ど は、 そ れ を 優 先 さ せ る。 そう した 判断を毎回、毎日やっている。   他 の 地 方 紙 と 比 べ、 共 同 配 信 記 事 の 使 用 率 は( 正 確 に 測 っ た わ け で は な い が )、 沖 縄 二 紙 の 場 合 か な り 低 く、 逆 に地ダネの占有率が高くなっている。両者(共同配信記事 と地ダネ)でニュースがほぼ同じという時には、原則地ダ ネを優先的に使っている。また、配信記事の優先順位に関 しても、独自の判断で変更することもある。例えば、安全 保障関連、基地問題の記事は、大きく扱う可能性が高くな る。それを決めるのも、やはり「調整会議」である。   東京発の記事については、当社の人員は限られているの で、共同配信の記事を使うことが多い。沖縄タイムスの場 合、東京支社に三人配置している(部長一人、記者二人) 。 記 者 は 防 衛 省 と 内 閣 府 な ど 主 に 沖 縄 関 係 の 問 題 を 担 当 し、 基本的には部長はそれ以外のニュース、ソフトなニュース

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も含めカバーしている。   た だ し、 防 衛 省 な ど 安 全 保 障 関 連 の 出 来 事 に 関 し て は、 自社が取材している時には、共同通信から同じような原稿 が 配 信 さ れ て も、 基 本 的 に は 自 社 の も の を 使 う。 や は り、 書きぶりや深みに違いが出るというのが主な理由である。   沖縄タイムスと共同配信の記事が食い違う か 、あるいは 違和感をおぼえることもある。その際には、整理本部長が 共同通信の窓口と連絡をとってやり取りしている。その結 果、共同の記事が修正されることもあるが、そのまま配信 される場合もある。   沖縄発の記事についても、やはり沖縄タイムスは共同通 信那覇支局長と緊密な関係を保っている。両者の記事内容 が異なる場合には、意見交換を行うこともある。ただ、情 報源が違ったり、共同通信が独自取材をしている 時 もある ので、その場合には共同の記事は変更されずに配信される。 ② ]  琉 球 新 報 の 場 合、 東 京 支 社 は 三 人 の 記 者、 すなわち報道部長と二人の記者がいる。一人の記者は、基 本的には内閣府沖縄担当部局という旧沖縄開発庁の部署を 担当している。もう一人の記者は外務省・防衛省を担当し ている。この記者は、外務省の霞記者クラブと防衛記者会 の両方に入っている。報道部長がその他の取材を行うとい う分担になっている。紙面では三人の部長・記者が送って くる独自取材のニュースを掲載している。   常駐する記者クラブ以外の場(例えば首相官邸)での記 者会見の時には、当社の記者は後ろの席に座ることになる。 が、記者には積極的に質問するようにと言っている。それ で結構質問できることは多い。テレビを見ていても、当社 の記者が厳しい質問 を している。記者会見では、当社の記 者がいつも指されるとは限らないが、意図的に避けられて いる印象はもっていない。   沖縄発のニュースに関しては、共同通信那覇支局の方が 書く記事は、基本的には琉球新報の政治部、経済部、社会 部などが取材しているのとほぼ重なる。したがって、共同 の記事をあえて使う必要性はない。ただ、共同通信の「核 心評論」などの解説・論評記事の場合には掲載する時もあ る。読者に伝えるべき情報や視点を盛り込んでいる場合も あるし、全国の論調を紹介する機会になるからでもある。 ③ ]  共 同 配 信 の 記 事 の 場 合、 沖 縄 県 外 の ブ ロ ッ ク 紙・地方紙が沖縄のニュースを求めていて、共同のニュー スが使用されることはよくある。地方紙からの要求はかな り強い。沖縄二紙が書いて、我々がまだ取材し切れていな いような場合、そうした要求は強くなる。

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法学研究 90 巻 7 号(2017:7)   「 本 土 」 の 人 々 が 知 ら な い ニ ュ ー ス が 地 元 紙 で は 毎 日 の ように報じられている。そういう話題の場合、共同の記者 は必ずしも現場にいるわけではないので、確認できずに書 け な か っ た り、 フ ォ ロ ー で き な い こ と も あ る。 そ の 場 合、 「 本 土 」 の 地 方 紙 の 記 者 が 琉 球 新 報 と か 沖 縄 タ イ ム ス を 読 んで、事実関係を含めて確認や問い合わせを行ってくるこ ともある。そうした時には、取材を行い、記事を出すとい うこともある。 [コメント]   共同通信社は、日本国内では那覇市をはじめ、 都道府県庁所在地・主要都市四五か所、海外には主要四一 都市に支社を置いている。共同通信社から記事の配信を受 ける「加盟新聞社・ 放送局 」は五六社ある。また、一部の 記 事( 外 信。 ス ポ ー ツ 記 事 ) の 配 信 を 受 け る「 契 約 新 聞 社 」 は 一 〇 社、 「 契 約 民 間 放 送 局 」 は 一 〇 九 社 に 達 し て い る。   沖縄二紙とも共同通信社の加盟社であり、記事が配信さ れてくる。ただ両紙とも、自社取材の 比 率が高いようであ る。東京発の記事にしても、沖縄米軍基地問題をはじめ安 全保障関連の問題に関しては、自社取材の記事を掲載する 傾向が高くなっている。両紙とも東京支局の記者を防衛 省 と内閣府の記者クラブに常駐させ、積極的な取材を行って いる。   沖縄発の記事に関しては、共同通信社と連携している様 子 が う か が え る。 そ れ は「 意 見 交 換 」( 沖 縄 タ イ ム ス ) と いう言葉に、そして「 『核心評論』の掲載」 (琉球新報)に も 表 れ て い る。 「 核 心 評 論 」 は 沖 縄 タ イ ム ス も 掲 載 す る こ とがある。両紙が掲載する解説・論評は、沖縄関連だけで なく、きわめて多様である。   ちなみに、インタビューに応じてくれた澤田記者は、以 下 に 紹 介 す る よ う な 連 載 記 事「 【 リ ポ ー ト 】 辺 野 古 か ら 」 の中で「沖縄復帰四五年、抵抗と容認の歴史」という、記 事を書いているが、その一部を紹介しておく(二〇一五年 五月一七日、配信) 。 「一九九八年に発刊された『辺野古誌』には、シュワブ受け 入れの経緯が記されている。辺野古の『区長』や名護市議会 議 長 を 務 め た 島 しま 袋 ぶくろ 権 けん 勇 ゆう さ ん( 六 八 ) が 長 老 の 話 を 聞 き、 新 聞や古文書で裏付けを取りながら約一〇年をかけてまとめた。   辺野古誌によると、米軍は五五年に山林地帯などの接収を 予告。山で林産物を取って生活する住民は反対し、沖縄戦で 肉親を亡くし『先祖の土地を米軍には貸せない』と声を上げ る人もいた。だが米軍は、抗議が続けば強制接収し補償もし ないと強硬姿勢を取るようになった。

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  地元有志は強引に土地を奪われた旧宜野湾村(現在の普天 間 飛 行 場 ) を 視 察 し、 抵 抗 し て も 止 め ら れ な い と 判 断。 「 地 元に有益になる条件を付して折衝に臨むのが得策」と結論付 け、翌五六年に損害補償などを条件に受け入れた。   『 島 ぐ る み 闘 争 』 が 全 島 的 に 拡 大 す る 中、 逆 行 す る よ う な 辺野古の動きは『辺野古における歴史的転換期も島民の非難 を浴びせられたことはいうまでもない』と記されている。   島袋さんは現在、辺野古の意思決定機関の行政委員会で委 員長を務める。辺野古移設を巡る政府との協議に出席し『政 府の本気度は分かっている。米国との関係上、移設をやめる ことはない』と考えるに至った。移設を前提に『政府が国益 の た め と 言 う な ら、 わ れ わ れ は 住 民 の 安 全 と 生 活 環 境 を 守 る』との姿勢だ。   県内移設反対の声が大きい中で、辺野古が容認する構図は 戦 後 の 米 軍 基 地 受 け 入 れ と 重 な る。 『 辺 野 古 と 基 地 は 切 っ て も切れない歴史がある。優先すべきは住民の利益。移設反対 の人にも、基地と共に暮らしを築いた歴史を理解してもらい たい』と話した。 」(共同通信=那覇支局・沢田和樹)   この記事は、米軍普天間基地の辺野古移転問題をめぐる 地元住民の苦悩を報じたものである。この中では、辺野古 地域の歴史的経緯を踏まえながら、基地建設を容認するし かない代表的な地元住民の思いが描かれている。 (3)   社説について ]  沖 縄 タ イ ム ス の 場 合、 共 同 通 信 が 配 信 す る 論 説資料、あるいは時評(コラム)を使うことはなく、必ず 自社のものを使用している。自社は長めの社説一本を掲載 している。テーマの選び方については、沖縄に関する地ダ ネ、地元で起きた出来事に関わるものを優先している。   社説を担当するのは論説委員会で、そこに所属している のは三名、それ以外に編集局の二人に兼任論説委員として 担当してもらっているので、計五名がメンバーである。二 人の兼任論説委員には、週一回書いてもらう。人数も限ら れているので、社説の担当に関しては専門を考慮しながら もかなり柔軟に対応している。   毎週月曜日に兼任論説委員を含め会議を行い、担当も含 め、少なくとも向こう一週間の論説の予定を立てる。選挙 のように、あらかじめ日程が決まっている場合には、討論 し、意見を出し合いながら社説の方向性を決めることもあ る。テーマに関しては、最終判断は委員長が行う時もある が、基本的には合議で行う。   編 集 局 は 当 然「 生 記 事 」 が 中 心 で、 そ れ に 解 説 も あ る。 社説はそうした記事や解説を踏まえ、論説委員も担当の記 者に話を聞いたり、可能な限り現場に足を運ぶようにして

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法学研究 90 巻 7 号(2017:7) いる。   私たち、沖縄タイムスの出発点には、沖縄戦、地上戦を 体 験 し た こ と が あ る。 創 始 者 の 中 に、 大 本 営 発 表 を 流 し、 戦争に加担した者がいたという原罪に似た痛切な反省があ り、そこから二度と戦争のためにはペンを執らないという のが基本にある。   基地があるところが攻撃の対象になるというのが、沖縄 戦から得た最大の教訓である。沖縄は七〇数年前に沖縄戦 を体験して非戦闘員だった住民も、たくさんの人が友軍と いわれた日本軍に殺害され、 「強制集団死」 (集団自決)と いう悲惨 の 極みを経てきた。そうした視点を社説のベース に置いて考えるようにしている。   今 は ホ ー ム ペ ー ジ を 通 し て 紙 面 は 誰 で も 読 め る よ う に な っ て い る。 じ つ は 社 説 の 閲 読 率 と い う の は か な り 高 く なっている。その割合が高いからといって、みんな私たち の主張に賛同してくれるというわけではなく、私たちはど ういう主張をしているのか、一番わかりやすいのが社説と いうことのようだ。 ② ]  琉 球 新 報 に は 論 説 委 員 会 が あ り、 八 人 の 論 説委員がいる。専従は委員長と副委員長の二名である。そ れ以外は編集局次長二人、政治部長、社会部長、経済部長、 文化部長が論説委員を兼任している。編集局長は論説委員 からはずれている。   社 説 の 最 終 的 な 責 任 は 委 員 長 に あ る。 毎 朝 会 議 を 行 い、 明日付の朝刊の社説はどういうテーマにするかを話し合っ て決めている。社説の担当は、その日に出勤している全論 説委員で議論して決めている。   琉球新報の場合は毎日二本、一週間に一四本の社説があ る。生のニュースに応じて社説のテーマを決めるが、それ を 執 筆 す る 論 説 委 員 は 基 本 的 に は 曜 日 ご と に 決 め て い る。 必ずしも基地問題担当の委員がいるわけではない。我々は 地方紙で所帯がそれほど大きいわけではないので、全国紙 のように社説の専門分野が決まっているわけではない。     ただ、記者はほぼ三年ごとのローテーションで動くので、 わりとみんないろいろな部署を経験している。特に沖縄の 場合だと、どの部署にいても基地問題を取材することが多 いので、この問題についてはどの論説委員でもだいたい書 ける。ただ得意、不得意はどうしてもあるので、大事件が あると社説を一本にして大型の社説にするが、その時はや はりその分野が得意な委員に頼むことになる。結果的には 、 委 員長や副委員長が社説を書く機会が多くなる。   社説をまとめるにあたっては、論説委員の中で意見を出

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し合って議論する。一定の方向性というのはその議論の結 果 出 て く る。 ( 論 説 副 委 員 長 当 時 に は ) 私 個 人 と し て は そ の視点を持っていなくても、他の委員から言われて必要だ なと思った時には、執筆する時にその視点も織り込むよう にしていた。社説のテーマは、だいたい全員で決め、それ から書いている。   論説委員に政治部長や社会部長が加わっているが、基本 的に社説と記事の中の解説は違うという認識はもっている。 社 説 は 新 聞 社 と し て の 主 張 で あ り、 解 説 は「〜 す べ き だ 」 という書き方はやってはいけないと言っている。社説とは 違って、記事の場合には、我々とは違うスタンスの意見を 持 っ て い る 人 の 意 見 も 載 せ て い る。 基 地 問 題 に 関 し て も、 例えば政党談話を載せる時には自民党県連の談話ももちろ ん入れている。   最近では、沖縄の基地問題を含めて、いろいろな政策を 「 自 己 決 定 権 」 と い う 言 葉 で、 そ れ を キ ー ワ ー ド に し て 社 説では論じている。世界的に見てどんな形で自己決定権を 確立してきたか、歴史的にどのような根拠があるのか、と いう視点からも論じた。そういう方面の連載・企画等を私 どもがかなり重点的にやってきた。基地問題に関連して社 説で「自己決定権」という言葉を使って書いたのは、たぶ ん琉球新報が初めてだと思う。 [コメント]   社説では、言うまでもなく新聞各社の主張が 比較的明確な形で提示される。ただし、全国的あるいは国 際 的 な 問 題 に 関 し て は、 共 同 通 信 が 配 信 す る「 資 料 版 論 説」を社説として掲載する地方紙がある。   沖縄二紙の場合、論説委員室に属する論説委員などが社 説を執筆している(沖縄タイムスは一日一本、琉球新報は 一 日 二 本 )。 イ ン タ ビ ュ ー で 印 象 的 だ っ た の は、 や は り 「 沖 縄 戦、 地 上 戦 の 体 験 」 が 社 説 の 基 本 に あ る と い う こ と ( 崎 濱) 、そして社説とは異なり、解説(あるいは記事)を 書く場合には自社の主張とは異なる意見にも配慮している (普久原) 、という発言であった。   琉球新報は「自己決定権」という言葉で基地問題につい て 論 じ て き た が( 普 久 原 )、 実 際、 「 四・ 二 八『 屈 辱 の 日 』  ひるまず自己決定権行使を」と題した社説を二〇一七年四 月二八日に掲載している。その一部を以下に掲げておく。 「琉球新報が五年に一度実施する県民意識調査結果(今年一 月 一 日 発 表 ) を み る と、 『 日 本 に お け る 沖 縄 の 立 場 』 を 問 う 質問に対し、独立を含め、内政、外交面で沖縄の権限を現状 より強化すべきだと考える人が約三五%に上った。一方『現

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法学研究 90 巻 7 号(2017:7) 行 通 り、 一 地 域( 県 ) の ま ま 』 と す る 回 答 は 前 回 か ら 一 七・ 七ポイント減って過半数を割る四六・一%となった。   安倍政権が、沖縄を他府県と同じように公平に扱わないの で、 県 民 は 自 治 権 の 強 化 を 求 め て い る の で は な い だ ろ う か。 沖縄を犠牲にし屈辱を与えることで成立する日米同盟は永続 しない。安倍晋三首相には米国一辺倒を改め、沖縄を他地域 と同様に公平に扱い、沖縄の 自己決定権 0 0 0 0 0 を認めるよう求める。 それでこそ真の独立国と言えるだろう。 」(傍点引用者) (4)   記者教育・OJT(オン・ザ・ジョブ・トレー ニング) ]  沖 縄 タ イ ム ス の 記 者 教 育 に つ い て は、 全 国 紙 と 比べると人材的な余裕はないので、必ずしも決まったシ ステムはない。ただ、警察担当からスタートさせるという ことは原則としている。タイミングやめぐり合わせがある ので、そういかないこともある。その時には記者の気質な どを勘案しながら人事配置をする。記者教育という意味で は、本来なら社会部が一番いいとは思っているが、そうい かない時もある。   現場で鍛えるというのがやはり基本である。なるべく現 場を見てもらって、その時には若い記者と先輩の記者が一 緒に行ってもらう。現場で経験を積み、覚えてもらう、こ れが一番だと思っている。講座や研修を行いたいという気 持ちはあるが、その余裕はあまりない。 ② ]  記 者 教 育 に 関 し て は、 琉 球 新 報 は 正 直 手 探 りで行っている。現実には記者としての研修が少ないまま、 現場に出している。だから記事は、最初のころデスクが相 当直している。最近は入社前に記者としての実践研修を入 れたり、一線への配置後に丸一日の研修を行ったりしてい るが、まだまだ足りないと思う。記者教育の本質的部分は 結局はOJTで行うしかない。   若手の記者の中から、基地問題に紙面を多く割きすぎで は、という意見が出ることもある。なるほどと思うときも あるが、沖縄紙としてはきちんと報道しないと、問題がな かったことにされてしまうという場合も多い。その兼ね合 いが難しいのは事実である。工夫はしているが、この問題 に関しては、世代間の違いというより、記者個人の世界観 の違いみたい な のがある。ただ基地問題に関しては、意識 の高い記者が入社してくることもあり、この種の問題への 関心の強さはかなり持続されている。地方紙の中では、そ の点では恵まれているのかもしれない。   記者職の採用は毎年三 〜 四人採用だが、多いときは八人、 一〇人くらい採用の時もある。今、編集局には一三〇数人

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いるが、そのうち三〇数人は県外出身である。県外から来 る記者は、かえって基地問題に対する意識が高かったりす る。   採用にあたっては、時事問題、国語、英語、小論文など を課しており、基地問題に対す る スタンスを直接問うよう な こ と は し て い な い。 実 際、 保 守 的 な 発 想 を も つ 記 者 が 入ってくることもある。でも、例えば地位協定の問題を取 材していると、これは酷いということに気づき、学生時代 の時の考えと大きく変わることもある。ただ採用段階では、 思想信条を問うことはしていない。実際、試験だけではそ うしたことはわからない。 ③ ]  大 学 を 出 て か ら、 二 〇 〇 一 年 の 四 月 に 宮 古 毎 日新聞に入社し、そこで二年半、宮古島の本社と那覇支局 で 働 い た。 二 〇 〇 三 年 の 七 月 に 沖 縄 タ イ ム ス に 入 社 し た。 社会部の教育担当を七月から二〇〇四年三月まで、それで 三 月 か ら 社 会 部 の い わ ゆ る「 遊 軍 」( 沖 縄 で は「 フ リ ー」 と 呼 ば れ る )。 そ の 後 は 二 〇 〇 四 年 夏 か ら 二 〇 〇 七 年 三 月 まで沖縄県警記者クラブで事件・事故を担当する記者。二 〇〇七年から二〇〇九年まで八重山支局長。二〇一〇年か ら二〇一二年まで北部支社に勤務した。   当時は辺野古移設反対の稲嶺進名護市長が誕生し(二〇 一 〇 年 )、 鳩 山 由 紀 夫 首 相 が ど の よ う な 選 択 を し て、 ど っ ちに転ぶかというような時期だった。名護市に総理大臣が 何回も入るという変わった経験をさせてもらった。その後 本社に戻り、社会部を一年経験、基地担当を二年、二〇一 六年四月からは特別報道チームでやっている。   仲井真前知事が辺野古移設を承認したときは、社会部の 環境担当という、まさに環境の影響評価のど真ん中の担当 だった。移設を承認した後、翌二〇一四年に 名護市長 選挙 があり、稲嶺さんが二期目の当選をした。二〇一四年一一 月に翁長さんが 県知事に 当選した選挙の際には、私は基地 担当だった。翁長さんがアメリカに行った時とか、スイス の国連人権理事会で演説した時には随行した。   企画・連載記事に関しては、編集局次長、あるいは政経 部のデスクと相談して作ることが多い。基本的には、現場 が主導権をもち、重要なのは現場のやる気だと思う。現在 進行形の、生で動いている出来事に関しての連載を行う場 合 に は、 「 今 日 か ら 連 載 し た い 」 と 申 し 出 て 行 う。 も ち ろ ん、多くの準備が必要であったり、予算がかかる出張を行 う場合には、許諾をえることもある。しかし、今、目の前 で動いていることをやることに関しては現場の意向が採用 されることが多い。

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法学研究 90 巻 7 号(2017:7) [コメント]   記者教育に関しては、日本の大多数の新聞社 と同様、沖縄二紙においてもOJTが中心である。福元氏 の 回 答 に も あ る よ う に、 多 く の 記 者 は 二 ─ 三 年 で 異 動 し、 様々な部署で経験を積むことになる。そうした現場の経験 を通して、基地問題に対する見方も形成されるようである。   (5)   普天間基地の辺野古移設問題 ]  普 天 間 飛 行 場 が な く な る こ と に 反 対 す る 沖 縄 県民は、おそらくいない。ただ普天間飛行場が沖縄からな くなれば、沖縄の基地負担が相当減るかというと、嘉手納 に 相 当 大 き な 飛 行 場 が あ る の で、 そ う で も な い。 他 に も、 米海軍はホワイトビーチを使用しているし、那覇軍港 や陸 軍の施設 など もある。   普天間が返還されるだけでは、沖縄の基地負担はあまり 変わらない。この点については、私たちは日々紙面で伝え る 努 力 を し て い る が、 「 本 土 」 の 人 々 に は な か な か 理 解 さ れない。 ② ]  保 守 系 と 呼 ば れ る 全 国 紙 は、 例 え ば 二 〇 一 四 年 の 名 護 市 長 選 挙 で、 辺 野 古 反 対 を 公 約 に 掲 げ る 現 職 が 勝ったにもかかわらず、安倍政権と同じように選挙結果に とらわれずに、移設を着実に進めるべきだと主張していた。 これは民主主義・地方自治の否定であり、これでいいのか という思いがある。   最高裁で「辺野古違法確認訴訟」に関して県側敗訴が確 定 し た 時( 二 〇 一 六 年 一 二 月 二 〇 日 )、 こ の 判 決 は 長 い ス パンで見ても大き な 節目になると考えた。そこで翌日の紙 面 で は 社 説 だ け で 一 頁 つ く っ た( 「 辺 野 古 訴 訟   最 高 裁 判 決 を 受 け て 」) 。 そ の 際、 四 つ の テ ー マ( ①[ 県 敗 訴 の 構 図]地方自治の精神ないがしろ、②[民意の軌跡]差別的 処遇への不満広がる、③[環境と埋め立て]貴重生物の悲 鳴が聞こえる、④[新基地建設の行方]私たちの反対は変 わらない)を掲げた。 ③ ]  仲 井 真 前 知 事 が 県 外 移 設 と い う 主 張 を 堅 持 し て い た の は 二 〇 一 三 年 の 一 〇 月 く ら い ま で だ っ た。 「 な ぜ 県外移設という言葉を言わなくなったんですか?」という 質問をしたこともあった。仲井真さんが政策転換したのは、 マスコミが甘かったからではないかという批判の方が今は 大 き い。 県 外 移 設 を 堅 持 し て い る 当 時、 「 が ん ば れ、 が ん ばれ」と言いすぎてしまったのでは、という批判があるの は承知している。   翁長知事の置かれた状況をどうとらえるかも問われてい ると思う。翁長知事は就任以降、辺野古新基地建設の反対

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を貫いているが、新基地を造られれば、結局、公約違反に な る。 ず る ず る と 建 設 が 進 む こ と に、 消 極 的 で は あ る が、 加 担しているところはないか。県民の間ではそういった疑 問もあり、しっかりと検証し、必要であれば紙面で取り上 げるべきだと思っている。   本土の自民党と、自民党沖縄県連で、じつはねじれがあ る。本土の自民党は軍事的な抑止力だとか、地理的優位性 のもとで、沖縄に基地が必要と言っている。県連は、普天 間 飛 行 場 を 辺 野 古 へ 移 設 す る と い う 内 容 を 含 む「 S A C O」 ( Special  Action  Committee  on  Okinawa :沖縄に関す る特別行動委員会)の考え方として、人口が多く、経済的 な利益の多い中部の基地を段階的に返還する、と考えてい る。苦渋の決断だが、中部の基地機能の一部を北部へ移し、 沖縄経済を発展させ、北部の基地も段階的に減らしていこ うというものである。   自民党県連出身の翁長さんはその考え方をある程度理解 している。一方で、普天間飛行場は沖縄戦で軍事占領され た土地で、その土地を返すのに新たに辺野古の土地や海を よこせ、というのはあまりにも理不尽だと言って、辺野古 新基地建設に反対している。経済か、基地か、と言われて きた沖縄で、その間に立って自分の政策をどう実現してい くかという難しさが翁長さんにはあると思う。 ④ ]  政 党 の 取 材 を す る 時 は、 自 民 党 県 連 が こ う 主張しているということは当然記事の中に出している。節 目では辺野古新基地を容認している人の声、もちろん反対 している人の声、両方載せている。ただ、賛成・反対意見 を同じ分量で紙面に載せているというわけではない。   同じ分量で載せることは、かえって民意を歪めて伝える こ と に な る と 思 っ て い る。 昨 年( 二 〇 一 六 年 六 月 )、 沖 縄 テレビと共同で世論調査を実施した。その結果、やはり辺 野 古 新 基 地 に 反 対 の 意 見 は 八 割 を 超 え て い た( 「 国 外 移 設 す べ き だ 」 三 一・ 五 %、 「 す ぐ に 閉 鎖・ 撤 去 す べ き だ 」 二 九・三%、 「県外移設すべきだ」二三・〇%) 。世論調査で 八割を こ えるというのはあまり例がない数字である。他方、 新 基 地 容 認 の 声 は 一 け た に と ど ま っ て い た( 「 辺 野 古 移 設 計画を進めるべきだ」九・二%) 。   要するに賛否は八〇%と九%なわけである。もし、これ らの声を紙面で五分五分に扱うと、それはむしろ賛成・容 認の意見を拡大して世の中に伝えることになってしまうの ではないか。 ⑤ [佐藤]   普天間については返還合意し、辺野古の場合、 海を埋め立て、新しい基地を作るとそこは国有地になって

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法学研究 90 巻 7 号(2017:7) しまうので、反対運動 が できなくなってしまうという住民 の 思 い が あ る。 辺 野 古 に 対 し て「 ノ ー」 と 言 っ た と き、 「 本 土 」 か ら そ れ は 沖 縄 の わ が ま ま だ と 言 わ れ る と、 い や 沖縄の基地は普天間だけはないという反発は非常にある。   二〇一六年一月の宜野湾市長選の時、翁長知事が推して いた基地反対派の候補が敗れ、保守系が勝った。政府はこ の結果を見て「宜野湾市民が辺野古を認めた」ということ を言い立てる。でも実際の選挙を見ると、辺野古は大きな 争 点 に は な っ て は い な か っ た。 「 本 土 」 か ら す る と、 あ れ だけ辺野古に反対しているのだったら、反対派が勝つはず ではないかと。   で も、 宜 野 湾 市 民 の 多 く は、 「 普 天 間 は な く な っ て ほ し い、 だ け ど 自 分 た ち の 痛 み を 同 じ 県 民 に う つ す の は 嫌 だ 」 と 思 っ て い る の で は な い か。 政 府 な り、 「 本 土 」 メ デ ィ ア が宜野湾市長選の争点は辺野古であったという言い方をし たとき、宜野湾市民の側にはすごく嫌悪感はあると思う。   宜 野 湾 市 長 選 の 一 番 の 争 点 は や は り 経 済、 街 の 活 性 化 だ っ た。 そ れ に は や は り 現 職 の 強 み と い う も の が あ っ た。 宜 野 湾 市 民 の 間 に は、 「 辺 野 古 に 賛 成 か 反 対 か み た い な こ とを、なぜ突きつけるのか」という違和感がものすごく強 かった。自分たちは普天間基地を移転させてほしいだけな のに、移設先の反対・賛成の問題がなんで持ち込まれなけ ればならないのか、それは国の問題だ、というのが多くの 市民の気持ちだったと思う。   毎日新聞や朝日新聞では、社説の最後の結びに「沖縄の 声に耳を傾けなければいけない」とよく言っている。でも、 耳を傾けたら何かが変わるのかという思いもある。高江で も辺野古でも全国から反対する人たちが来ている。マイク を 持って「連帯します」と言って帰っていく。地元に戻っ て声をあげて欲しいというのが、住民の気持ちではないか。 来てくれるのはもちろんありがたいが、自己満足で終わっ たなら意味がない。こういう声はよく聞く。 ⑥ ]    翁 長 知 事 を 中 心 と し た 人 た ち の 不 満 は、 日 米 安保によって日本がこれまで平和であったことを認めつつ、 基地をこれほど沖縄に押しつけてきたことにある。沖縄は 日本の平和に貢献してきたのに、普天間が危険で老朽化し て、それでまた基地を辺野古に押しつけるというのはおか し い、 と い う も の だ と 思 う。 そ れ だ け 日 米 安 保 が 重 要 で、 平和に貢献するものであるならば、日本全体で負担しろと。 沖縄だけに基地を押しつけるなという声はよく聞く。 ]  朝 日 新 聞 は、 「 辺 野 古 埋 め 立 て 強 行『 対 話 な き 強 権 』 の 果 て に 」 と 題 し た 社 説( 二 〇 一 七 年 四 月 二 六

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日)の中で次のように主張している。 「移設計画が浮上して二一年。改めて原点を思い起こしたい。 太平洋戦争末期、沖縄は本土防衛の『捨て石』とされ、悲惨 な 地 上 戦 を 経 験 し た。 戦 後 も 本 土 の 米 軍 基 地 は 減 っ た の に、 沖縄では米軍の強権的な支配のなかで基地が広がっていく。   念願の本土復帰後も、基地があるがゆえの米軍による事故 や犯罪は続く。積み重なった怒りのうえに一九九五年の米兵 三人による女児暴行事件が起き、県民の憤りは頂点に達した。   この事件を契機に、沖縄に偏した基地負担を少しでも軽減 しようと日米両政府が合意したのが、普天間返還である。   紆 余 曲 折 を 重 ね る な か で 政 府 と 県 は『 使 用 期 限 は 一 五 年 』 『 軍 民 共 用 』 と い う 条 件 で 合 意 し た は ず だ っ た。 だ が こ れ も 県の意向を十分に踏まえぬまま、米国との関係を最優先する 政府の手で覆されてしまう。 」   翁長知事は、ここで言う辺野古新設基地の「使用期限は 一五年」 、「軍民共用」という条件は、小泉政権時の閣議決 定で一方的に白紙にされたと主張してきた。こうした不信 感 は、 む ろ ん 沖 縄 県 民 の「 積 み 重 な っ た 怒 り 」、 つ ま り 「 普 天 間 飛 行 場 は 沖 縄 戦 で 軍 事 占 領 さ れ た 土 地 で、 そ の 土 地を返すのに新たに辺野古の土地や海をよこせ、というの は あ ま り に も 理 不 尽 」( 福 元 ) と い う 住 民 の 思 い の 上 に 存 在している。   ま た、 「 賛 成・ 反 対 意 見 を 同 じ 分 量 で 紙 面 に 載 せ て い る というわけではない。同じ分量で載せることは、かえって 民 意 を 歪 め て 伝 え る こ と に な る と 思 っ て い る 」( 普 久 原 ) という見解も印象的である。これは、ジャーナリズムの公 平・公正な報道という主張に対し重い一石を投じるもので あるし、同時に後述する沖縄の「地方益」の問題にも通じ ている。   さ ら に 重 要 な の は、 「 普 天 間 が 返 還 さ れ る だ け で は、 沖 縄 の 基 地 負 担 は あ ま り 変 わ ら な い 」( 石 川 ) と い う 指 摘 で ある。辺野古移設は基地反対の象徴ではあるが、言うまで もなく、基地問題は決してそれだけではないのである。 (6)   翁長県政と「オール沖縄」 ]  最 近、 高 江 の ヘ リ パ ッ ド が 結 局 で き て し ま っ た。この問題に関する翁長知事の姿勢は明確ではない。北 部訓練場のヘリパッドを使用するオスプレイに反対しなが ら、半分の返還を歓迎するという矛盾がある。   翁長知事誕生にとって重要な出来事は、二〇一三年一月、 沖縄がまさに 一 つになって四十一市町村あるいは関係する 議会、県議会の各会派も全部参加して、 「(オスプレイ配備

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法学研究 90 巻 7 号(2017:7) 撤 回 や 普 天 間 飛 行 場 の 閉 鎖・ 撤 去、 県 内 移 設 断 念 を 求 め る)建白書」が提出されたことだった。それを安倍首相に 届 け た の が、 当 時 の 翁 長 那 覇 市 長 ら で あ っ た。 そ の 時 が、 沖縄が一つにまとまったピークだったように思える。 ② ]  い ま 翁 長 さ ん で 一 つ に ま と ま っ て い る の は、 辺野古移設反対という一点である。それ以外の基地問題に 関しては、県内はそれほどまとまってはいない。沖縄の一 一市のうち、いわゆる翁長派の市長は二人だけである。こ の人たちにしても、もともとは保守だと自分でも言ってい る。やはり保守政治は存在している。   翁 長 さ ん は 非 常 に 上 手 な 訴 え 方 を し た。 「 ア イ デ ン テ ィ ティー」という言葉を使った。目の前の経済がいかに必要 かということももちろん考えなければならないが、アイデ ン テ ィ テ ィ ー と い う 言 葉 を 前 面 に 掲 げ て、 「 奪 わ れ た 土 地 を返す時、国や米軍はもう別の土地をくれって言っている。 それは、いいことですか?   悪いことですか?」という言 い方をした。これが、県民に非常にうけたと思う。   た だ こ の 表 現 だ と、 小 さ な 市 の レ ベ ル で は 通 じ な い。 「うちは関係ない」となるわけで。全県の選挙だと、 「俺た ち沖縄県民は馬鹿にされている」となって、辺野古の海を 埋め立てる計画には反対、翁長さんの言うとおりだという ことになる。知事選の時はそうなる。ただ、やはり一つ一 つの市だと、選挙のテーマが まった く違ってくる。   「 右 / 左 」 と い う 言 い 方 を す れ ば、 例 え ば 県 民 の 中 に い つも変わらず右、いつも変わらず左という人が四割ずつい るとする。実際の数字は違うかもしれないが、その中間の 二割の人が右に行ったり、左に行ったりすることで、県全 体の基地問題の意思が表示されることがある。   そうすると、常に左にいる四割の人たちは、自民党だっ た 翁 長 さ ん と は こ れ ま で ま っ た く あ わ な か っ た 人 た ち だ。 な か に は「 日 米 安 保 破 棄 」「 自 衛 隊 は 憲 法 違 反 」 と 言 う 人 もいるだろう。この四割の人たちは、辺野古新基地建設以 外 の 基 地 問 題 で は、 東 村 高 江 周 辺 の ヘ リ パ ッ ド 建 設 に も、 那覇軍港の浦添移設にも反対が多い。その中で翁長さんは 難しいかじ取りをしている。   そ れ で 言 う と、 い ま は 真 ん 中 の 二 割 の 人 た ち が 左 側 に よってきた状態。翁長さんが言っている辺野古新基地建設 とオスプレイ配備だけ反対というのは、その中で少数派と 言える。翁長さんは言葉を駆使して、求心力を保っている。 でも、それが難しくなってきたのは、高江周辺のヘリパッ ド建設を容認するかのような発言だった。   高江とか辺野古に座り込んでいる人たちは、翁長さんが

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