岡山大学大学 院社会文化科学研 究科紀要第33号(2012.3)
近世の城郭立地 に関す る風水思想か らの考察 ASt udyo fFe ngShuiTho ug hta ndt heLo c a t i ono fJ a pa ne s e
c a s t l ei nt heEa r l yMode r nAge
曽我 と も子
SOGA, To mo k o
第 Ⅰ章 は じめに
古代の人々にとって天候の安定は生活の保障を意味するところか ら、暴風や洪水 は畏敬の対象 とな り、それを避けて安定 した生活 を確立す るためには風や水 を制御することが基本であると考え られた。
その ような考 えの根底 にある自然現象の崇拝が風水 という呼称 のお こ りのひとつ といわれる (黄、
1 9 9 9 )
i).
推古朝10年
( 6 0 2 )
に、百済僧観勘 によ り暦、天文 ・地理、遁 甲方術 などの昏物が 日本 にもた らさ れたが、ここにいう天文 ・地理が、天 を観察 し、方位 を測 り、土地を選定する風水思想の中の風水地 理 といわれるものである2 。風水思想における選地には、四神相応 とい う考 え方が もっとも重視 される。四神 とは天の四方 (東 西南北) を守護する四獣 (青龍 ・白虎 ・玄武 ・朱雀)のことをいうが、 これを地上 に反映させ、この 四神に叶った地形に都城、城郭、神社な どの重要な建造物 を造営すると、その後の繁栄につながると 考えられた。それは、東 (青龍)西 (白虎)北 (玄武)を山で囲まれた盆地状の地形環境の中に立地 することがよいとされてお り、さらに、青龍 には後方の玄武か ら流れて くる水 (川)があ り、前方朱 雀 (南)には、それを受け止める池 ・湖 ・海がある。そして、水で運ばれた気が、分散 しないように、
その先に葉山 ・朝山と呼ばれる山があると良い としている。それは、すなわち周囲の山々によって強 風 を防 ぎ、人間の生活に係わる水 の得やすい環境 を意味 している。 この四神相応の考えは古代中国に 由来する。たとえば、中国の古典番 r史記
J
「秦始皇本紀第六」には、「秦の地 (関中)は後ろに山を かむ り、前に河 をめ ぐらして四方が塞が り、 自然の要害を為 している。
」 3)とあ り、秦の都の成陽城 や長安城が後述する山河襟帯の地にあ り、四神相応 に叶っていることが沓かれている。 また、その考 えは日本にも導入 され、r続 日本記J には 「方に今、平城の地、四禽図に叶 ひ、三 山鏡 を作 し、亀生 並 に従ふ」4)とあ り、平城京が四神 (四禽)に叶った地に造営 されたことが示 されているCきんがきJ..1=い はい.̲<んりんすい ぞうふうとくすい
き
んせんどうたく 書地を選地する場合、上記の四神相応 に関連 して山河襟帯、菅山臨水 、蔵風得水、山
川道樺 といっ た語を用いる例 もある。山河襟帯 とは山が襟のように囲み、
河が帯の ように巡 って流れ、自然の要害 をなしている地勢のことを言い、 1例 をあげると、平安京造営において r日本後記J には 「この国は、山河襟帯、 自然に城 を作す。」 とあ り、平安京の地が 「山河襟帯」の書地に造営 されたことを示 して
近世の城郭立地に関する風水思想からの考察Conslderabonbmfengshuithought.atx)utl∝ationhcastJehJapanattheearlymodemage 曽我 とも子
いる。背山臨水 とは、背後 に山があ り、前方 に海や湖沼などの水があることをい う。蔵風得水 とは、
風 を溜め、水 を得 る、いわゆる風水でい うところの 「気」は鳳 や水 によって遊ばれるため、風 を溜め こめる盆地状の地形 に、川などが流れ水 を確保で きる地をい う。山川追啓 とは、北に山、東 に川、西 に道、南 に揮 (水)がある状態 をい う。 これ らの言葉は、選地する場所が書地であることを表す表現 として使われているが、その内容か ら判断 して、四神相応 と同意 に使用 されていることがわかる。 し たがって、筆者はこれ らの語について も四神相応 と同株 として取 り扱 うことにした。
第Ⅱ章 分類方法 と分類の意義
「この地は四神相応に叶 う地である」 と史料や文献 に記述 されている城郭 を
7
つ選んだ。 この7
つ の城郭は 「四神相応である」 と記述 してあるにも関わらず、それぞれが少 しずつ違 う形態 を持 ってい る。これは、四神相応 という言葉が、 1つの形態だけ指 しているのではないことを意味する。そ して、文献や史料 には、「四神相応 に叶 う地」 と記述 されていないのに、四神相応の地形 を有 している城郭 1つを加 えた。 これ らの
8
つの城郭が、 どのように違 う形態 を有 しているのか分類 ・分析 し、四神相 応の形態 を明らかにすることに した。古代の都城 に見 られるような四神相応の形、いわゆる四方 を山 に囲まれた盆地状の地形 に、近隣には豊富な水があ り、下流ではそれを受けとめる湾 ・湖などがある 城郭を 「基本に即 した四神相応立地の城郭」 として1に定義 し、そ して四神相応 に叶 うとの記述が文 献か ら得 られて も、方位 と地形あるいは方位 と建物 との関係が基本型 と異 なる城郭 を 「変化 した四神 相応立地の城郭」 として2に定義 した。古代 において書地の選定 に重要な役割 を果たした四神相応の考 えは,中世 に時代が移 って も重視 さ れた と思われる。鎌倉末期の作 とされる r塩基内伝
J
5)には、「東に流水がある地は青龍の地、南 に 沢畔がある地は朱雀の地、酉に大道があるのは白虎の地、北に高山があるのは玄武の地、 この四つ と もが備わった地のことを、凶神相応の地 と云い、最良の書地であるo」 とあ り、室町期の作 とされる r太 子倦玉林抄1 (文安5年、1448)には 「陰陽書 に云 く、左 に青龍あ り、東 に流れる水 は、南へ流れるちこう
な り。前に朱雀あるは商 に地溝在 るな り。右 に白虎 とあるのは、西 に大道在 るな り。後 ろに玄武 とは、
後ろに山岳が在るな り
。
」 6)と記 されている。 また、 これ らの文献では、平城京や平安京遷都時の正 史には、四神相応、山河襟帯 としか記 されていなかった ものが、玄武 ‑山、青龍 ‑川、白虎 ‑大道、朱雀 ‑池 と 「山川道滞」 を具体的に表 しているCそのことか ら鎌倉末期頃にはすでに四神相応の考 え の中に玄武に山、青龍に水 (川)、白虎に大道 (山陽道 ・山陰道)、朱雀 には滞 (池 ・湖 ・湾)の認識 があった と思われる。
さらに、風水地理 における選地には、気が吹 き出る穴を探す ことが重要 とされているOそれを 「点 穴法」 とい うが、黄 (1999)7)は、「点穴法」のなかの 「天心十道走穴法」が都城の造営に応用 され ていると述べている。天心十道走穴法 とは、龍穴風水上の もっともよい造営場所の前後左右 に、対称 的に位置する山を基点 とし、それぞれを結んでで きた十字軸の交差点 を宇宙の中心 とみな し、ここが
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大地では龍穴を指 し、その龍穴の位置するところに最 も重要 とされる建造物、いわゆる都城では大極 殿や大内基、城郭では天守や御殿、神社では本殿 を置 くと、その後の繁栄に繋がるとする考 えである。
黄 (1999)は、平安京 において、「天心十遁走穴法」の中心点に太極殿 が位置 していることを指摘 し ている。
これまで、日本における都城計画等への風水思想の影響については、平城京や平安京等の古代の都 城 に関 して、喜田 (1979)、岸 (1987)、足利 (1998)、山田 (2001)、千田 (2008)など比較的多数の 研究があ り、聾者 も平清盛が築いた福原京 に関 して研究 を行い (曽我、2010、2011)、その立地 と風 水思想 との関連を考察 した8)。 これ らの先行研究において、平城京や平安京な どの古代の都城 には、
四神相応の考えがあったことが、示 されている。 しか し、福原京以後東京 までの間の遷都 はな くな り、
四祁相応の考えに基づ く都城の選地の必要性 は薄れた。中世 に入ると、奥州平泉の町や鎌倉の都市が 四神相応の地である とい う記述が 『中尊寺建立供養原文A (1126)や r吾妻
鏡
l (1225)9)に残 され ているが、その後、都市計画 と風水思想の関係 を示す文献 も研究例 も少な くなる。 さらに戦国期では、自然災害を考慮する選地 より、敵 を意識 した敢闘中心の地方大名による城郭が多 く登場する。 しか し、
日本の古代の都城建築に重大な影響 を与 えた四神相応の考えは、その後の近世 に完全 に消滅 した とは 言い難い。実際、近世の城郭建築 に関する文献の中には、風水思想 との関連 を記 しているもの も散見 される。 とはいうものの、戦国末期か ら近世初頭において各地に建造 された城郭については、その立 地 と風水思想 との関連を学術的に分析 した研究例は、筆者の知る限 りではほとんどない と思われる。
このことは、古代 に導入 された風水思想が近世にも連続 していたことを示す 1例 となる点で意義あ るもの と考える。
1
.基本に即 した四神相応立地の城郭①
岡山城岡山城 は、「天正元 (1573)年 に字喜多直家が、戦国初期の在地領主金光宗高の石 山の城 を攻め落 とし、城 を修築 して移 ったのが始 ま りとされる。羽柴秀吉の養子 となった秀家が石山の城の拡張計画 を秀吉 に相談 したさいに、r石 山の東の平地に本丸 を移 して平城 につ くり、東南 を大手 にせ よJ と秀 書が指示 したが、それでは東山が近 くな り防御に欠陥が生 じるため、東 山のふ もとを流れていた旭川 の川筋 を本丸下にかえ、城地を少 し高 くして築 くことに した とい う」10)。
岡山城 に関 しては、風水思想 における書地に適地 したとい う記述の文献 は見つけだす ことはで きな いが、岡山城を地形図で見てみると、東西北 を山で囲 まれ、城のす ぐ東には旭川が流れてお り、南 に 児島湾、さらにその南 には案山 ・朝山の条件に合 う日向山、天狗 山がある。図 1において もその様子 がみて とれる。これは、城郭が三 山で囲まれ、青龍 (莱)には川、南方朱雀 には水 (拷)があ り、 さ らにその先 には湾で溜め込 まれた"気 '■を逃が さないための山があることか ら、基本的な四神相応 に 叶った地 といえる。そ して、東の笠井 山、酉の大安寺山、北の笠井山 ・金井山、南の児島湾 ・日向山・
近世の城枇 也に関する鰍 思想からの考察ConsiderationfromfengshulthoughLaboutlocatIOnincastleinJapanat止leearlymodemage 曽我 とも子
天狗山の東西南北の交差点 (中心地点)に岡山城が位置 していることか ら、黄 (1999)のいうところ の天心十道にかなった城郭配置がなされたとも考えられる (図 1)。
図1 左 岡山城地形斑 国土地理院2万5千分の1地図にて作成 右上 岡山城絵図 「国立国会図書館デジタル化資料」 より転載
岡山大学大学院社会文化科学研 究科紀要 第33号(2012.3)
②
姫路城姫路城の築城年については、貞和
2
年( 1 3 4 6)に赤松貞範が城郭 を構 えたのが始 まりとされている
が、異論 もあ り走かではない川。時代 を経て羽柴秀吉が天正8
年( 1 5 8 0)
に入城 したが、天正10年( 1 5 8 2 )
の本能寺の変、11年( 1 5 83 )の購ケ旗の戦いを経て大阪城 を本拠 と定めて後、天正11
年( 1 5 8 3)〜1 3
年( 1 5 8 5 )には羽柴秀長、1 3
年以降は木下家定 と城主が変わった。慶長5
年( 1 6 0 0) 9
月の関ケ原の 戟いで東軍の勝利に終わった1ケ月後の1 0
月には、池田輝政が播磨一国五十二万石の大名 として姫路 に入封 した。本項では、現在の姫路城 を築 くに至った池田輝政の時代( 1 6 0 0‑1 61 3)に焦点 をあてた。
ひめこ
姫路城は姫路平野にある姫 山とい う標高5
0 mに満たない丘陵に立地 している。古代 に蚕子が落ちた
ひ め じ ひ′)じ
ことか ら日女道丘 と呼ばれ、中世 には、古 くこの丘に示巳られていた神が姫神であったことか ら姫道山 となった。姫道は姫路 とも番いたことか ら、この山が姫路の名の起源 となった とされる12)。
姫路城の北方には、犀風の ように連なった広峰の美 しい山並みを望むことがで きるO広峰山には、r峰 相記」 に 「熊野ノ御雄二モ ヲ トラズ、万人道ヲアラソイテ参詣ス」 と記 された広峰神社が鎮座 し、姫 路は もとより、現在で も播磨地方一円に同神社の信仰 圏が広がっている13)0
姫路城の築城を考える際に基本 となる山か ら海に向かうラインは、この神聖な山とされた広峰山よ り導かれてお り、姫路城前の南西に沿って延びる大手通 りが この広峰か らのラインと一致 し、天守の 正面は大手方向に準拠するか ぎり南西であったと思われる。梶田
( 2 0 0 0)は、江戸時代の城下絵図を
検討 したうえで、築城のための基準線 (土地の座標)が3
つあるとし、 1
築城 ライン (約N14
度E)、2
条里 ライン (約N21度E)、 3
稔社 ライン (約N5度E)をあげてお り、
1の築城 ラインが姫路城の 北郊に位置する広峰山との 「山アテ」によって求め られたラインであると指摘 している14㌧適地 された土地に城郭の範囲や配置を決めることを縄張 りとい う。文字通 り、縄 を張 り、その位置 を決めることからきた言葉であるが、縄張 りを行 う場合、必ずそれを基準 とする近 くの山が選ばれた はずである。橋本
( 1 9 5 2 )は、姫路城の立地を 「
姫山の北方 にそびえる広峰山を玄武、その北東か ら 南西 に流れる市川 を青龍、その流域 を介 して南方の瀬戸内海 を朱雀、西方 に通ず る山陽道 (西国街道)を白虎 とした四神相応の地相 を典型的に示 していて、四神相応の地相である」 15)としている。 しか し、
縄張 りの基準 となった特定の山のことまでは触れていない。姫路城は、東西北の周囲一帯 を山地で囲 まれていることか ら、縄張 りに指定 されたと思われる山は特定 しやすい。そこで、地図上か ら対象 と なる山を推定 した。東方に桶居 山
( 2 4 7 . 6 m)
、高山( 2 9 8 m)
、北方に増位 山( 2 5 9 m)
、広峰山( 2 41 m)
、 暫写 山( 3 71 m)
、西方 に城 山( 2 5 0 m)
・京見 山( 21 6m)
・青 山( 21 3 . 4m)
と、標高20 0m以上の山々
により三方を囲まれてお り、これ らの山が縄張 りに使用 されたと思われる。 さらに西には夢前川、東 には市川が弧 を措 くように流れ播磨灘‑注いでいる.山陽道は現在の2
号線 に姿 を変 えている(図2)
0 このなかで、姫路城 を貫 き南北軸 (広峰山一播磨港)に平行な青山と桶居 山が 「天心十道」に叶 って いる。近世の城軒立勧こ関する且水思想からの考察Considerabonb・omEengshuJthoughtabutl∝alionlnCaStleinJapanaHheeaTJym(denage 但夜 とも子
杜 /
暮 A
劫,I.I,一堅 斉 p1一 jL5A▲ AJL
1▲
* .! ■ → 3
図2 姫路城 (国土地理院20万分の1地勢図 r姫路」 より
③ 広島城
広島が中国地方最大の都市 となる契機をつ くったのは、戦国大名毛利輝元 とされる。毛利氏は、青 田郡山城 という山間の小盆地 を本拠地 としていたが、青田郡山城があ まりに山中に片寄 り、連輸面で も適切な場所ではな く、領国内の家臣の集住 を意図 して城下町を整備するにも不十分で、領国支配の 拠点にふさわ しくなかったため、本拠地を移 した としている (酉 ケ谷
、1 9 8 8 )
16)0「芸備国郡志」 (寛 文3
年、1 6 6 3 )
17)には、「今 の府治 に して安南郡 に属す.斯の地元五箇村の‑村 に して海 に連 なる.潮汐盈虚 し、船舶往来す。曽て毛利輝元、地の利 を見て、海を埋めて以て城 を築 く‑」 とあ り、また、
「天正
1 7( 1 5 9 3 )
年 に、輝元 は、この地の事情 に明るい北庄 (現 広島市佐東町 ・高陽町)の旧豪族 福島元長の案内で、明星院山 (二葉 山)、比治山、割己斐松 山に登 って地勢 を観察 し、領 Blの中心、瀬戸内海の制海にもにらみのきく太田川河口の箱島 (白鳥)の南のデルタに築城することに決め、まっ た くの平地に土固めか ら始 まる 「島普請」を経て、文禄
2
年( 1 5 9 3 )
には、その原型が整 った」 (村上、岡山大学大学 院社 会文化科学研究科紀要 第33号(2012.3)
1 9 8 4 )
18)とされ,輝元は風水思想 に基づ く選地法 を意識 していたと思われる。広島の地形は、山地が北東か ら南西方向に連なっている。そのため、広 島城は正北の山からの基軸 をのばさず、北東の阿武山を玄武 としてそこか ら南西方向に未雀大路が とられている。広島城 を取 り 因む地形は、瀬戸内海に面 した姫路城 と似ているO よって広島城 は、三方を山で囲まれ、玄武を阿武 山とし、東の青龍が茶 臼山、酉の白虎 も同名の茶臼山、朱雀 は広 島湾 となる。そ して東の京橋川 と西 の元安川が城 を取 り囲むように流れ、下流で合流 しているO さらに、輝元が山上か ら地を観察 したと する山々 (三滝山 (北西)、比冶山 ・黄金山 (東南)、二葉 山 (北東)、己斐松 山 (西南)の交差地点 に広島城は位置 している。 これ らのことか ら、広島城 も四神相応の地 といえるが、広 島城の南方は瀬 戸内海であるため、先の岡山城にみえるような南方の山はない (図 3)0
図 3 広 島城 国土 地 理 院20万 分 の 1地 勢 図 「広 島」 よ り
近世の城東立地に関する魚水思想からの考察Consjderation丘omfengshuithought.atx)utl∝ationhcastlehJapanattheearlymdemage や孜 とも子
④ 福山城
福 山市 史篇碁会
( 1 9 7 8 )
19によると、元和5
年( 1 61 9
年)の関ケ原の戦 いの後、福 島正則が備後 国と安芸国を治めていたが、武家諸法度違反により改易 され徳川家に備後 ・安芸5 0
万石 を没収 された。その後、元和
5
年( 1 61 9)7
月に、水野勝成が 「西国の鎮衛」 として備後‑の転封 を命 じられた。福 島正則が治めていた頃の福 山地方は、現在の福 山市の中心部に当る地域 に して も、いまだ空々たる蔑 原であったとい う。勝成は、入国早々領内を くまな く巡視 し、城地の候補地 を探 した。その結果、晶 冶郡桜 山 (現 新市町)、沼隈郡渡島 (現 箕島町)、凍津郡野上村常輿寺 山 (現 丸の内)の3
カ所 が選び出され、そのなかで、年貢米の大坂回送のことか らも瀬戸内海航路は重要性 を持っていたため、城地は海陸 ともに交通の要衝 であった野上村常輿寺 山に決 まったとされる。
野上村常興寺山は、北は丘陵を背にして神辺の平野が広がってお り、山陽道に近接 し、南は瀬戸内 ひうr>{̲Ill
港 (健灘)に近 く、西に流れる芦田川は城下域 に入っているOそのため敵の侵入 を防 ぐことがで きる 川口を押 さえた要害の地 となっていた。城は南面 してお り、東 ・西 ・南は二重の濠をめ ぐらし、捕手 (袈)は小丸 山、天神 山が天然の防塁 をな して書津川 に臨み、さらに東西両八幡 (現福 山八幡宮)の ある永徳寺山が北方の備 えとなっていた。
図
4
の絵図か ら免えるのは,東西北 を山で評まれ、城郭の周囲に河川があ り、す ぐ南 に瀬戸内海が 位置 していることである。西に流れる芦田川が西北で分岐 し、北には書津川が流れている。このよう に河川が、城郭 を取 り囲むように左右に分かれ佳港 (内海)へ続いている.内海に少 し近す ぎる懸念 はあるが、福 山城は二重 に固め られた自然の要害の地に立地 した四神相応の理 に叶った城郭 といえる。図 4 安永 3年 (1774)頃の福山城絵図
「国立国会図書館デジタル化資料」 より転載 し一部追記
岡山大学大学 院社会文化科学研究科紀要第33号(2012.3)
2.変化 した四神相応立地の城郭
① 犬山城
犬山城は天文
6
年( 1 5 3 7)
に織 田信長の叔父 ・織 田倍康が美濃 (岐阜) と尾張 (愛知)の国境の木 曽川の畔に立つ天然の丘に注 目して築城 した城である。酉ケ谷( 1 9 8 8)
は、「犬 山城は、 日本 ライン 木曽川の絶壁上に位置 してお り、犬山城の縄張 りをみると、本丸 を最北 に置 き、眼下に木曽川が流れ る r後堅固の城Jの典型である」2
0)と述べている。また、r雑話犬山密事記
J ( 1 7 7
1) 21)には、「犬山御城四神相応之地ニシテ平安城二相同ス、(中略) 平家物語評判十巻二北二山ヲ安、南ハ打開キ東二樹木有、西二山水 ヲ形取 りタル地 ヲ聖都之地 卜云、犬山ハ右ニ ケ粂能応ス、北ハ岩山有、南ハ田圃打 開キ東ニハ樹林瑞泉寺天王坂、西ハ山水木曾之大河 廻 り伊木山有、往昔 ヨリ名城 卜云、誠二為勝地絶景也」 とあ り、犬山城が、平安京のように四神相応 に叶っている地に立地 していることが、記述 されている20)。 しか し、犬山城は背後に木曽川 という巨 大な河川にのぞむ絶壁上 に立地 してお り、一見す ると平安京の地に似 ているとは思 えない。そこで、
犬山城 を地図上でみ ると、木曽川の北方には愛宕 山
( 26 8. 5m)
、北 山( 2 8 9m)
、城 山( 2 65m)
、御坊 山( 2 6 2m)などの 20 0m以上の山地が連な り、
東には丸山( 1 41 m)
、音光寺 山( 1 3 6m)
、継鹿尾山( 1 2 7m)
か ら南東の尾張富士( 2 75m)
に至 るまで100m‑20 0m以上の山が連なっている。 しか し、酉 には伊
木山( 1 73m)があるが、他 に 目立 った高い山はな く、東に比べ ると全体的に低 く標高20‑40m弱の
低地が広がっている。犬山城の東 (青龍)には郷瀬川が流れ、東南には入鹿池があるが、入鹿池史編 纂委員会( 1 9 9 4)によれば、入鹿池は寛永1
0年( 1 6 33)にできたため池である 2 2 )
.そのことか ら犬 山 城築城時には、朱雀 と思える湾や池などはなかった。r雑和犬山密事記1 (1 771 )にも 「
南ハ田圃打開 キ」 とあ り、朱雀 に水 (沢 ・湾など)のことは記 されていない。 このことか ら 「平安京に相同する四 神相応」 とは、平安京築城時における四方を山に囲まれた四基の地を指 して言 ったと思われる。そ し て基準 とされた犬山城か ら地図上で判断できる東西軸は、酉は伊木山、東は継鹿尾 山を結んだ もので、その軸はち ょうど本丸 を通過する。南北軸は、西北の愛宕 山か ら南西の尾張富士 を結んだもので、こ れ らの東西 と南北の軸の交点に犬 山城が位置 していることか ら、「天心十道走穴法」 にも叶っている といえる (図 5)。 さらに犬山城は、木曽川 という自然の要害 を巨大な堀 として利用 している。犬山 城の場合、立地に際 して、木曽川の絶壁に面 した丘陵状の地形が優先 されてお り、四神 に相応する山々 は地形の流れに沿って方位が若干東南に傾いているが、基準 とした山のラインが交わる位置に城郭を 置いたと考えられる。その理由は、戦乱が続 く戦国の世にあって城郭は戦いを最優先 に考え、防御に 最適な地を選定 したか らであろう。
近世の境木立地に関する風水思想からの考察ConsideradonfromLengshuithoughtaboutlocationlnCastle帆Japanattheearlymdemage 曽我 とも子
図
5
犬山城の位置 国土地理院5万分の 1地形図
「岐阜」 より
②
名古屋城西野
( 2 0 0 9 )
によれば、「名古屋城 は大阪の陣に備 え、豊臣秀頼 に軍事 的圧力 をかける目的で、慶 長1 5
年( 1 61 0 )
正月、徳川家康 の命 によって天下普請で名古屋台地の北端 に築城が開始 された」 23)という。
名古屋城が築かれることになった地点は那吉野台地の西北端で、北側 と西側が高 さ
1 0 m
ほどの崖に なってお り、西国に対する備え上、好適な地 と考えられた。城の南側 と東側 はゆるやかに低 くなって いて、町人地や武家地を設けるには絶好の地形条件であった。城下町は全体が低い台地上にあるため、水害か らは免れるが、水運の便がなかったため、台地の西縁に沿 って堀川 を開削 して伊勢湾 と城下町 を結ぶ ことになった24)O城の北側 は低湿地で天然の要害を形成 していたので、北側の防備は充分であっ た。広大 な低湿地は軍事的には貴 も有効であ り、重装備の敵の大軍 を寄せ付けず、一方で城内か ら城 外への脱出や連絡 も可能であった。
名古屋城の詳細 を記 した江戸時代末期 の書物 磁 憲 違主義j25,には、「東 は山、南 は海、西北 は 木曽川 あ り、(中略)東 は人事 山興正寺 の砦柵、西 は佐屋、清州の陣屋、南 は横須賀 ・熱 田 ・飛島、
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北は味鏡の砦柵、小牧山な り。犬山は遠要峻地の護 りなるべ し。四神相応の要地の城 とは、 これを申 奉 なるべ し。」 としている。地図上で見てみ ると、名古屋城 を中心 に、範囲を
2 0
km 圏内に広 げると 北には愛宕山( 2 6 8 m)
をは じめ2 0 0 m
級の山があ り、東には猿投 山( 6 2 9 m)
、西 には養老 山脈があ り、名古屋台地 をすっぽ りと取 り囲んでいる。そ して、北西か ら西にかけては木曽川が流れ、南 に伊勢湾 があ り、一見すると、四神相応の地 と見 える。 しか し、これは縄張 りの基準 とするには距離が遠す ぎ る。そこで乾田を視覚ではっきりと確認で きる
1 0
km圏内に絞 ると、北 には小牧山( 8 6 m)
があるが、東西 には山は見当たらず、自然地形 における四神相応 に叶った地 とは言い難い。そこで l金城温古録J をみると、「北に犬山城、小牧城、北西 に清洲城、東南 に人事山輿正寺、南 に熱田神宮があ り、 これ をもって四神相応の要地の城である」 としている (図 6)。
風水地理では、自然地形のなかで四神相応の形状が不足 している場合、不足 している場所に植林 を した り、風水塔 として寺社 などを置 くとした例が r中尊寺建立供養原文Jや r作庭記Jの記述に見 ら れる26)。 このことか ら名古屋城は、 自然の防護が弱い代わ りに、人工的な建造物 を置 くことにより名 古屋城守護の役 目を担っていると考 えられる。これは敵方か らも守 りやす く、また監視塔 にもなるこ
とか ら、実際面で も理にかなっているといえる。
さらに r金城温舌鋒」 には、名古屋城が、陰陽五行の考えに基づいて配置 されていることが記 され ている。名古屋城の立地 している地勢が南 に低 く北が高い 「赤龍の地」であ り、水性であることか ら、
本丸大手門は巳午の間に置 き、その向 きは、西方位が五行の金で、「金 は水 を生 む」 とい う相生の関 係で書であるので西向 きであるとしている。城が方形で郭が丸いのは、城 は陰で 「地」 を表 し、郭は
「陽」で天 を表 しているか らで、それが 自然の形であるとしている27)O また、城の配置は城主の性 を 考えるべ きとし、代 々子孫の性 は変わるが、開基の主人の性 を本 とし、名古屋城開基の城主である徳 川義直の生誕が慶長
5
年( 1 6 0 0 )
の庚子で、五行の性 は 「土性」であることか ら、「土 は水 を克す」の相克関係にあ り土地 との相性が よくない。そこで天守に土徳の神 を祭 り、金の鮪 を置 くことにより
「土は金 を生む」の相生の関係を人為的に作 りだ している。 また r金城温盲録
j
「武教全書諺解二十四巻五性地の註」には、「城主の性 に合 わせて書 を用いる。追手の虎 口を走 る事
、水性 な らば酉書 と
云々。
」 28)とある。正門が西にある所以 と思われる。r金城温古録Jの記述 は、r塩基内伝l の内容 と同様の意味が読み取れるo r塩基内伝Jでは、適地 する土地を地勢の形状から五行 (木 ・火 ・土 ・金 ・水)による
5
つの性 に分 けてお り、それを五龍 と 呼んでいる (表 1)。龍 としたのは、山脈や山の連な りを架空の神獣である龍 にみたてているためで ある。そ して r塩基内伝J には、屋敷 を造る際、そこに住 む人 と土地 との組み合 わせの吉凶について 記 されている。土地や人は、それぞれ五行の性 を持 ってお り、その性 に合 わせた相性があるとい う。表2は、その土地 と人の性の相性 を占ったものである。たとえば、東が低 く西の高い青龍の地は金性 であ り、そこに住むのは、火性人 と水性人な ら書地であ り、 また人の立場か らい うと、火性人は青龍
と黄龍の地に住むのが良い とい うことになる。
近世の城木立掛こ朋する鰍 思想からの考察Considerationfromfengshuithoughtatx)utJocatlOn incastlenJapanattheearlymdernage C)鼓 とも子
d
∫'10・8hn小 牧妓
、‑35.2km
. ・‑ ム 廿 ‑
1ll.9km l
I
ー ̲ ̲ 朋 馳 ̲ 一 一 一 一 一 一 ‑2 亘.
‑5
㌫ 一一 観 山汁W .krd
「 ■ コ
: 一一7.6km 6.6をm 人も 山界正 専 熊 田神官
名古屋城 一猿投山一24,518.124m 名古屋城 一清州城3,051.849m 名古屋城 一小牧城11,927.270m 小牧城 一犬山城10,844.851∩
名古屋城 一熱田神宮6,624.783m 名古屋城 一八事山興正寺7,669.607m 名古屋城 一着竜 山35.281.605m
図
6
名古屋城「日本列島大地図能」(愛知 県 ・静 岡県 ・ 山梨県)45万分の1地 図 よ り作成
表1 五龍の性
五龍 地勢 性
青龍の地 東が低 く西が高い 金性 赤龍の地 南が低 く北が高い 水性 白龍の地 西が低 く東が高い 木性 異能の地 北が低 く南が高い 火性
r塩基 内伝
1
「‑、地判形事 」 を もとに作成 表2
五龍 と人の五性 との相性青龍 の地 書木性人 は貧 、火性人 は富、土性 人は病、金性人 は災 、水性 人は栄o 赤龍 の地 木性 人は栄、火性 人は貧、土性人 は富、金性 人は亡 、水 性 人は息o 白龍 の地 木性 人は没 、火性 人は患、土性 人は栄,金性 人 は貧 、水性 人 は富o 黒龍の地 木性 人は楽、火性 人は没、土性人 は患、金性 人 は栄、水性人 は貧o 黄龍の地 木性人 は半、火性人 は楽、土怪人 は貧 、金性 人 は書、水性 人は病o 辛 (焚 :貧臥 二導 く地、宙 :財をもたらす地、病 生気が衰え病気がちになる地、
災 :災いの多い地、栄 :子孫兼栄の地、亡 :家が亡びる地、息 責息の増える地、
没 :没落の地、楽 ●喜 び楽 しみが多 く幸運を得る地、半 :書凶が半々の地)
岡山大学大学 院社 会文化科学研 究科紀 要第33号(2012.3)
以上のように、名古屋城の建物の門の配置、それ らの向 く方角、城主 と土地 との関係等に陰陽和合 して繁栄するような設計がなされていたのである。
この理由は、いまだ戦乱の可能性 もあった時代において、犬山城 と同様 に防御 を考慮 した城郭の立 地点の選定 とともに、徳川氏支配による平和 な時代の先駆 けとなった時期 で もあった1
6
10年時点にお いては、風水思想に基づいて、城主の家門の隆盛 と城下町の繁栄 を願 うことも重要な意義 を有するよ うになったと思われる。名古屋城の事例については、戦乱か ら徳川安泰の時代への推移 に合 わせて、この時代の城造 りの風水思想 に変化がみ られたとも解釈で きるか もしれない。すなわち、それは地形 条件か らみた城郭等の吉相の地の選択 とともに、現代の風水思想 にみ られる、いわゆる家宅風水 と言 われる、屋敷内の部屋の配置等に重 きを置 くようになってい く変化 ともとらえられる。
③
浜田城島根県浜田市にあった浜田城 は、西 ケ谷
( 1 9 88)によれば、「
標高70mの亀 山にあ り別名亀山城 と いい、毛利氏領国時代 に吉川元晴の築城に始 まり、元和5
年( 1 61 9)に茶人 として名高い古 田重油、
その弟重忠が入部 し、今 に残 る浜田城の石垣 と縄張 りが築かれた平山城であった。現在は石垣 を残す のみで城虻は城山公園 となっているが、北は丘陵 と松浦湾、東は浅井川、北か ら西にかけて浜田川が 流れる」29という。
図
7
に見る限 り、本丸は北西 を座 (管) とし、南東に向いていたと思われる。亀山の北東 と西 には、旗竿山
( 1 1 6m)
と高尾山( 76. 5 m)があ り、北西の丘陵 と城 を結ぶ南北線 と旗竿山 ・高尾山の東西線
の交差地点に本丸跡地があ り、城郭を取 り囲むように寺社 も置かれている (図8)
。 さらに地図上で 詳 しく見てみると、亀山の背後には万年 ケ鼻( 7 5m)の丘陵があ り、東の旗竿 山、東南の鏡山、西の
高尾 山の三方で囲まれ、北東の松原湾へ流れこむ浜田川が南か ら西へ弧 を描 くように流れ、浜田川の 南方 には40‑7 0 mほどの丘陵が東西 に延びている。r
浜田城記J には 「浜田二帰 り再議 アル二、土地 狭シ ト云ヘ トモ、左右 二湊 アリ万端便利ナ リ、然ルニ山三 ツアリ、何 レカ可宜、海辺二大山ア リ、東か・つ
こ松 山アリ、其中ナル山ヲ亀 山 卜云、嘗テ吾川元氏在番 ノ節ハ、此処二陣屋 ヲ構ヘ リ、麓二河ア リテ 小船通行 シ、北二沼 アリ、是要害 ノ地也 トテ、此地二決定セ ラ
ル
」30)とあることか ら、水 陸の利便 の地 と、要害の地 という2つの観点か ら、城地が決定 された. 打浜田城記J によれば、四方 を山で囲 まれ南 に川があ り、土地的には狭いが浜EEl城 も四神相応の適地を選定 して築城 されたとい うことにな る。浜EEl城に関 して、東山姉妹
( 2 00 8)
31‑が次のような興味ある指摘 を しているC「古田重治は、築城 に際 し寺社 を、その守 りとして移動 させているが、鬼門 (良)の方角には松原町の妙知寺、南 (朱雀) には清水町の真光寺、東 (青龍)にはB]町の龍泉寺 を置いた」。 さらに 「玄武には鴨山を亀 山 と名称 を変更 している」 という指摘である。 しか し、ここで城郭図を見 ると、本丸は北西 を座 とし南東に向 いているため、東山姉妹 による寺の配置は城の左軸 と合致 しな くなる。 また姉妹は当初、本丸にある近世の城郭立地に関する風水思想からの考察Considerat]onhmfengshulthoughLatx)utlocatjonincasL]einJapanaHheearlymdeTnage 曽我 とも子
天守閣を 「風水」の中心 としてみていたが、その後、天守閣の南西 に御殿があることに着 目し、南御 殿 を基準にすれば、寺 と亀 山の位置が、東西南北の正位 に当てはまることを述べている (図 7)。す なわち、これらの寺社が守護の 目的 としているものは、天守のある本丸ではな く古 田重治が住居 とす る御殿 とい うことになる。
これまで、都城では太極殿、城郭では本丸 を建物の中で も最 も重要 なもの として、東西南北の山を 連ねる2つの線の中心点 に くるように配置 した り、周囲に寺社 を置いた りしていた。 しか し、時代の 変化 とともに、そこに住 む城主 にとって、最重要視する建物が変化 して くるのであろう。 ここにも名 古屋城 と同様に本丸 を重視する思想 か ら実際の城主の生活の場 を重視す る考 えが見 られる。
I ・ ヽ
ヽ ・
忙 JF 井\ \ヽ hEl ′ノ
ノ 方
/了
// 祈 り /
事Jf ー\
図
8 r
城郭 と城下町』 より図
7
浜田城縄張図 r城郭 と城下町j より④ 首里城
西 ケ谷
( 1 9 8 8 )
は、「琉球諸島は本土の文化圏とは違った独 自の琉球文化 を形成 している。首里城は、1 4
世紀中頃から1 5
世紀の初頭に造営 された とするが、王城 として成立するのは17
世紀の尚巴志王 と伝 える」 32)としている。 これまでに述べてきた城郭 (Ⅱ章、Ⅲ章①②③) は、 日本の歴史 のなかで変 化 してきた風水思想に基づいて選地や縄張 りが されて きた といえる。 これに対 して首里城 は、17
世紀 に確立 された中国か らの風水思想 と、琉球王国独 自の伝統的な思想 を取 り入れて建造 された もので、他の日本の城郭には見 られない特徴 を持っている。 このことか ら、最後に首里城 をとりあげてみた。
首里城は、東が玄武、西が朱雀、南が青龍、北が白虎 となっていて、 日本で古代か ら取 り入れ られて きた四神相応の方位関係 とは異なる。
ま
かU
標高1 2 0 ‑1 3
0mの丘陵に建て られた首里城 は、玄武 となる弁 ヶ岳 を水源 とする水脈が、真裏比
川 とか1̲・ぐす(
金 城 川に分かれ、城の左右 を囲むように流れて酉で合流 してお り 「蔵風得水」の書地 となっている。
岡山大学大学 院社会文化科学研究科紀要解33号(2012 3)
蒼龍は豊見城連峰、白虎は読谷村 ・北谷山の諸峰 とみ られている。琉球王朝の都である首里 と、その 宮殿首里城が風水思想 に基づいて選地 ・建造 されたか どうかは、造営当初の史料 は残 されていないが、
首里が風水に叶った地であるかを検地 したとされる記述が以下の r球陽 巻之十J尚敬王元年 (1713)
「正譲大夫毛文哲、都通事葵温等、禁城並二国廟及 ヒ王陵 ヲ相ル」にみ られる33)Oそれには、「その場
ムつ王 れ んt'))
所 は龍脈の鍾る所であ り、大変書地であ り、また国殿の向 きや国殿の前の輩道の走 り方 も良い。門も 曲折 していて生気の散乱 を防 ぎ、風水法に叶っている。首里城の前方海上すなわち西方には馬歯山(慶
>んLr上う
良問列島)が海中よりつ き出てお り、生気の洩れることを防 ぐ召錦 界 となっている (図10
)
。城の左ころく とみぐナく 上み(.:ん ぎん
方 (南)の小禄や豊見城の山々は連絡 して青龍 とな り、また右方 (北)の北谷や読谷 山の山々 も伏起
あ じぐ
して白虎 とな り、これ ら脊髄 ・白虎が城都 を鎮護 している。脊髄 ・白虎 にはさまれて那覇、泊、安謝 の三港があ り、いずれ も良港で朝廷 に恭敬の意 を表 した様 をとっている。 さらに城の後方 (東)の山々 は西原地方から島尻 に至 るまで
、
城 を鎮護するようにめ ぐってお り、良 く盛気の発現するのを助けて いる。気脈が集中 し、山川が集 まって風水上、大変素晴 らしい書地 となっているのは首里以外 にない か ら、決 して万世 にわたって改建 しないように」 とある34).中国の影響 を直接的に受けているとされる首里城であるが、西向きに建っている理由は何であろう か。これについては
、2
つの説があ り、 1つは、宮殿が地形 に合わせた造 りになっていることである。首里城の北から東にかけては丘陵地帯、南は金城川が境界線 を措 き、西が大 きく開けていた。そのた め、自然の地形に応 じて西向 きに遣 られたという説である。
もう 1つは、中国ではな く、琉球独 自の思想のもとで造 られた とする ものであるOその昔、琉球王 国を治める王は 「てだ (太陽
)
」 として崇め られていた。そのため、太陽が昇 る東 は神聖 な方位 とみ なされ、太陽が昇 る同 じ束の方位 に国王が座 ることで、臣下たちは太陽に向かって謁見す る形 となっ た.こうい う思想か ら、首里城 はあえて西向 きに造 られた という35)O首里古地馴 こおいて も、首里城 が西向 きであることがわかる (図10) 。
「沖縄県立図書館 資料班」 によると、「首里古地図の作成年代 は明 らかではな く、東恩納寛博の1 7 0 2
年〜1 71 4
年、嘉手納宗徳の1 7 0 3
年〜1 7 0 7
年、異境名安輿の1 71
5午‑1 7 3 2
年などの説があるとしているが、この古地図には小 さな路地や庶民住居 に至るまで丹念 に畜き込まれてお り、いずれにして も首里城の築城は
、1 7 0 0
年代初頭であることか ら、首里古地図は3 0 0
年前の首里 を知る重要 な手掛か りであることは言 うまで もな く、文番資料か らは得 られない視覚情報を含む点 も貴重である」 としている (図
11 )3
6)
。なお、補足 として葵温が首里城 に関 し、西の慶良問諸島が風水説でい うところの気 を分散 させない ための防護山となる葉山 ・朝山とみなしている。 もし、この考えを当てはめるなら、姫路城の案山 ・ 朝山は、播磨灘に浮かぶ家島、西島、坊勢島などの小島であ り、広島城の場合 は、広島湾 に浮かぶ江 田島、西能美島、厳島とい うことになる。
海を挟んで大陸の前方 に小 島等がある場合、強風の穀束の時など防波堤 とな り潮の流れを分散 し、
大陸への直接の打撃 を防 ぐ役 目を担 う。そうい う意味では、現実面で も利 にかなっているといえる。
近世の城弥立軌二抑する触 思想からの考察Considerationfromfengshuithought.akltl∝ationincastlehJapanaHheearlymdernage 僧衣 とも子
覇
I 仁慶 良問諸 島
†図
9
首里城の位置図10 首里古地図 「東恩納覚悟文庫蔵
」
「沖縄県立 図書館貴重資料 デジタル膏庫」 より転載Jr=̲ 一 一 ■を妻ヒ 岩よ'‑■i:亡 ,./..丁
‑図11 首里城拡大図
(図10の○ で囲み をいれた首里城部分のみ を拡大)
岡山大学大学院社会文化科学研 究科紀要第33号 (2012,3)
第Ⅲ章 あわりに
風水思想の うち風水 地理 と呼ばれる選地方法 は古代 の都市計画 に きわめて重要 な役割 を果た して き た。中で も四神相応 は書地 を選定す る重要 な考 えである。
四神相応 とは、天空の四神 (四獣) になぞ らえ、地上では山 (山脈) を四神 に見立て、首都 の周囲 を山で開み、北極星の天帝 にちなんで、地上の中心地 (宮や大極殿 な ど)は北 にす るのが基本的な形 である。藤原京 をは じめ平城京、平安京では中心 となる宮 が北 に位置 していた。 しか し、近世城郭 ・ 城 においては、地形の流れに合 わせて南北の方位線 を傾かせ た城郭 (姫路城、広 島城)や、敵の襲来
を防御することを優先 して河川の絶壁 に立地 したため、四神 の配置の方位が傾 いている城郭 (犬 山城)、 本丸の位置ではな く、城主の御殿 の位置 を四神相応 の中心点 に置いた城郭 (浜 田城)、城内の配置 を 城主の五行の性 に基づいて定めた城郭 (名古屋城)、太陽信仰 によ り、神聖 な太陽の上 る方位である 東に座 を置 き、酉 を向 く城 (首里城)な ど、近世 の城郭は、古代 の都城 とは異 なった立地形態 を持 っ ていることがわか った。
上記のように近世の城郭においては、古代の都城 とは立地形態が違 うものがある。その理由は、そ の時代の社会情勢や実際の地形に合わせ た四神相応の地に立地 している と解釈 で きる。要す るに、四 神相応 の地 とは、本来、季節の変化す る日本 において、強風 にさらされない周 囲 を防蕃 した土地 に、
生死 に関わる重要 な水
(
川)があ り、その水 は上か ら下へ流れ来て下の湾 (池 ・湖 ・海)で しば らく 溜め置いたのち、その後流 されるとい う循環の樺能 を持つ ことによ り、常 に新鮮 な水が得 られるという、その ような、人間が生活す る上での環境 に良い場所 とい うこ とであ った。時代 が近世 に入 ると、
城主はより現実的なその城 をとりま く環境 に応 じた四神相応の形態 を選択す るようになった といえる。
r藍基内伝Jの現代語訳 を行 った藤巻
( 2 0 0 0 )
は、「中国式の風水 における匹神相応 の地は、北方 に 生気 を送って くれる山 (主 山)があ り、南に 「穴」 と呼ばれる気 の噴出点があることが、第一の要件 となる。 こうした地形 で、東西 に気 の拡散 を防 ぐ山があ り (これ を砂 とい う)、南 には山か川や池 な どの水場があれば、四神相応の地 となるのである。」 と説明 してお り、 さらに 「風水 の本来の意味は、主山か ら受けた生気 を風 な どによって散 らさず (そのために東西の砂 と呼ばれるガー ドの山が尊重 さ れる)、南方の水 にためて活用す ることにある。 山か らの生気 の流入が第一の要件であ り、次に気 を とどめる働 きをもつ水 を活用す るのが第二の要件なので、杓子定規 に東の流水 、西の大道‑、などと いっていると、肝心かなめの気の道 (龍脈)のことが忘れ られ、風水本来の意味が見失われて しまう
O 」
と付け加 えている。 この記述 に関 しては、歴代 の都城 を見て も、近世の城郭 をみて も、その時代の情 勢や土地に合わせた選地が な され、場合 によっては人工的な建造物 を置 くことによ り、四神相応 とし ている都市 もあることか ら,全 くその通 りだ と感 じる。
注 ・文献
ふ▲んよんろん
1
) r風水都市 歴史都市の空間構成]黄永融、学芸出版社、1 9 9 9、2 8 p
近世の城郭立地に関する風水思想からの考案ConsideTabon丘omfengshutLhoughLaboutlocatIOnlnCastlelnJapanattheearlymodemage 曽我 とも子
2) r
日本書紀 巻二十二J推古天皇10 ( 6 0 2 )年1
0月の粂「百済僧観勘采之O仰貢暦本及天文 ・地理番.井遁 甲 ・方術之審也。是時速書生三四人。以件学 習於観軌条。陽胡史祖玉陳習暦法。大友村主高聡学天文 ・遁 甲。山背臣 日並立学方術。皆学以 成業。」
3)
「素地被山背河、以為固.四塞之図也O 日経公以来、至於秦王二十僚君、常為諸侯雄O豊せせ 賢哉。其勢居然也
。
」 (T史記j秦始皇本紀第六)4) r
続 E]本記]和銅元( 7 0 8)年 2
月戊寅の詔「方今、平城之地。四禽叶図。三山作鎖。亀生並従。宜建都邑。」
5)正式名称 を 「
三国相伝陰陽轄轄塩基内伝金烏玉兎集」 とい うO村 山( 2 0 01 )は本番の成立 を 1 4
世 紀鎌倉末 としているO村 山修一 r日本陰陽道史話j平凡社、20 0
1、2 4 0 p
中村
( 2 0 0 0 )は、「
塩基内伝 の成立や撰者については諸説があ り、内容 に も数々の問題点がある としている。 (中村八埠 丁日本陰陽道書 の研究増補版1 第玉章 「豊盗内伝 について」汲古雷院、1 9 8 5、2 2 4 p)
6)「陰陽智云、左育龍者、従東水商流也。前朱雀者、南地溝在也。右白虎者、西大道在也。後玄武者、
後山岳在也。」
7)前掲 1 )8 6‑9 3 p
8)精巧
城の研究』
「喜田貞書著作集5
」喜田貞書、平凡社、19 7 9
帽β城の生別 (日本の古代9)
、岸俊男、中央公論社、19 8 7
r景観か ら歴史を読む :地図を解 く楽 しみ]足利健亮、 日本放送出版協会、1
9 9 8
r古代の方位信仰 と地域計画J 山田安彦、古今書院、19 8 6
r平城京遷都 :女帝 ・皇后 と 「ヤマ トの時代」』千田稔、中央公論新社、2
0 0 8
「神戸福原における安徳天皇新内装の位置についての考察 一陰陽五行思想か らの分析
‑
」曽我 とも子、岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第29
号、20
10、9 5‑1 0 9 p
「神戸福原における雪見御所 (平清盛本邸推定地) についての考察 一風水思想か らの分析 ‑」
曽我 とも子、岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第31号、2
0
11、4 7‑5 9 p
上9)『中尊寺建立供蕃願文
」‑
「経蔵 ・鐘楼 ・大 門 ・大垣、高 きに依 りては築 山 し、窪に就いては池 かIFを穿つ。龍虎 は宜 しきに協い、即ちこれ四神具足の地な り
。
」 (経蔵、鐘楼、大門、大垣などを建 て、高い所 には築山を施 し、窪地には池を掘ったO このようにして、龍虎は宜 しきに叶 うとい う 四神具足の地 となった。)(》 『中尊寺建立供養願文j
(
『平安 藤原朝隆 中尊寺建立供養願文 (模本) ・南北朝 北畠顕 家 中尊寺建立供養願文 (模本)』藤原朝隆 ・北 畠顕家著、名兄耶明解説、 日本名跡叢刊2 5
、 二玄社、19 7 8
(天治3
年( 1 1 2 6)「中尊寺供養願文」冷泉中納言朝隆筆の写本)
)② 『吾妻鏡
1‑
「柳 十に 武州等拳骨令め給ふo御所の地の事、重ねて御沙汰有 り。 卜笠で決す可岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第33号 (2012.3)
き之由 と云云。‑ (中略)一 若宮大路者、四神相麿の勝地 と謂ひっ可 き也。西者大道が南行 し、
東に河有 り。北に鶴岳有 り、南 に海水 を湛える。池沼に准ず可 きと云云。之に依て此の地を用い 被る可 き之旨、治定 し華。」
r吾妻鏡 第三』新訂増補 国史大系、吉川弘文館
1 9 8 5 、3
4p、3 4‑3 5 p 1 0 ) r
城郭 と城下町7
.山陽』
「岡山」亀井千歩子、小学館、1 9 8 3
八田篤則 町岡山私考』正徳元年
( 1 7 1 1 )〜5
年、塚本青彦写、1 9 0 3
天正
1 0( 1 5 8 2 )
年正月直家死去 ノ後、子息秀家大身ノ家臣ヲ城下二集メ、所 ノ繁栄 ヲ好ム ト維モ、城地狭キヲ変改、其節秀舌公へ随身ナレバ、播州二秀吉公在城 ノ節、城築ノ事 ヲ談ズ、秀吉公 ノ 日、本城西二在テ地高ナ リ、是府中ノ城地二不宜、東ノ方 ノ平地二本城 ヲ引キ、平城二取立、東 ノ方二郭 ヲ取出シテ東南 ヲ大手二当テ可然由ナリ。依之本城 ヲ今 ノ本丸 ノ地二築 ク。」
l l )
r姫路城 .世界 に誇る白亜の天守j
「中世の姫 山の城」八木曹浩、歴史群像名城 シリーズ、2 0 0 0
、5 8‑6 0 p
1 2 ) r
姫路市史 第十四巻 別編 姫路城j姫路市史粛集専門委員会、姫路市、1 9 8 8 、5 3 p 1 3 )
前掲1
1) 、2 2 0 p
1 4 ) r
姫路城j「姫路城の構成 と基準線」堀 田浩之、歴史群像名城 シリーズ、学習研究社、2 0 0 0 、1 1 2
‑1 1 3 p
1 5 ) r
姫路城史j橋本政次、姫路城史刊行会、1 9 5 2 、3 1 p 1 6 )
FEl本史小百科 城郭j西 ケ谷恭弘、近藤 出版社1 9 8 8 、2 7 0 p
17)r概観庫島市史
J
「芸備国郡志」広島市史編集委月会、1 9 5 5 、2 4‑2 5 p 1 8 ) r
広島県史 近世 IJ村上正名、広島県、1 9 8 4 、5 0‑5 1 p
1 9 ) r
福 山市史 近世轟別 福 山市史編碁会、福 山市、1 9 7 8 、3 4‑3 9 p 2 0 )
前掲1 6 )2 8 2‑2 8 3 p
2 1 ) r
雑話犬山香草記Jは明和8
年( 1 7 7 1 )
に尾張藩士で同心、2 5 0
石、横井弥三石衛門時成 によって 審かれた春物である。難詰 とあるのは、口碑、文書 を問わず犬山に関することを雑多 に拾い集 め番 きあげた ものだか らとしている。 (r犬山市史 史料繍四』近世上、犬 山市教育委月会犬 山 市史編 さん委員会1 9 8 7 、1 2 p 、3 2 9‑5 0 8 p )
に収録。2 2 ) r
入鹿池史 (入鹿用水誌) j入鹿池史編纂委貞会、1 9 9 4 、2 2 712 3 2 p 2 3 )
柑 本の城郭 ・築城者の野望j西野博通、柏書房、2 0 0 9 、1 2 6 p
2 4 )
馬場俊介 [歴史群像]名城 シリーズ r名古屋城』
「碁盤割の名古屋城下」2 0 0 0 、1 3 8 p 2 5 )
江戸時代後期の名古屋城 を詳細に記録 した除中間頭本役奥村得義によって書かれた書物。2 6 )
①前掲9)
の r中尊寺建立供養願文j に同 じO② r作庭記』 (成立年代平安中期推定) ‑ 「家 より東 に流水 あるを青竜 とすO もしその流水 なけ れバ、柳九本 をうゑて青竜の代 とす。西 に大道あるを白虎 とす。若其大道なけれバ、轍七本 をう
近世の妓罪立掛二関する農水思想からの考繋ConslderabonbmfengshuitLoughLabutl∝ationincasdeLnJapanattheearlymdemage 曽我 とも子
ゑて白虎の代 とす。南前 に池あるを朱雀 とす。若其池なけれパ、桂九本 をうゑて朱雀の代 とす。
北後にをかあるを玄武 とす。 もしその岳なけれバ、櫓三本 をうゑて玄武の代 とす。か くのごとき して、四神相応 の地 とな してゐぬれバ、官位福禄そなは りて、無病長寿 な りといへ り。」
r古代中世薮術論 日本思想大系2
3 j
「作庭記」林屋辰三郎校注、岩波昏店、19 7 3、2 3 3‑2 3 4 p 2 7 ) r
名古屋叢書続剰 「金城温古録第二之冊 凡例席之二 御建国部」39‑4 4 p
2 8)
前掲2 6)4 0 p 2 9)
前掲1 6)2 8 6 p
3 0) r
新修島根県史 通史編目
「浜田城記」島根県19 6 8、5 8 0 p
3
1)論文 「古田氏は、なぜ浜田に城 を築いたか ?:風水の視点か ら、その理由に迫るり
奈良大学 「全 国高校生歴史フォーラム2 0 0 8
」優秀Ti'、東山変、東 山未莱3 2 )
前掲1 6)2 5 8 p
3 3 ) ( r
球陽」は琉球王国の正史 として編暮 された審物で寛保3
年( 1 7 4 3)か ら延享 2
年( 1 7 4 5)の編
纂で、その後は後人の追記 とされるo r日本歴史大辞典3 」
河出昏房、19
72、4 9 8 p)
3 4)鄭兼官 〔
等〕原編/桑江克英訳註 r球陽 :全j.球陽刊行会、19 6 9、1 4 0‑1 41 p
3 5 )日本博学倶楽部 r
図解)「
日本の七不思議」ミステ リ‑:全国各地に今 もなお残 る驚情の ミステ リー スポッ トに迫るり P HP
研究所、20 0 8
3 6)沖縄県立図書館
貴重資料デジタル書庫ht t p:/ / a r c h i ve . L i br a r y. pr e f . o k i na wa . j p/
「沖縄県立図 書館資料班」