Author(s)
島尻, 勝太郎
Citation
沖縄大学紀要 = OKINAWA DAIGAKU KIYO(3): 1-9
Issue Date
1983-03-31
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/5668
研究ノート
沖縄の風水』思想
島尻勝太郎 (風水説)風水とは、墳墓、都城、村落、住居等を建設するに当って、災禍 をさけ、幸福を招くために地相をみることで、その専問家は堪輿家、地理師、 風水師等とよばれる。これは中国古代の陰陽五行説、識維説等が、道教の成立 に伴って体系化されていき、中国人の生活に根ざして大きく影響したものと云 われている。それによれば、大地に生気がありこれは、山脈、丘陵を伝わって 流れ、これが龍肺といわれる。生気が最も強く表れる所を穴といい、このよう な処に住宅、村落、特に墓地を造るのが最もよく、現在、将来に福をもたらす という。 この風水思想が沖縄に伝わったのは、琉球国由来記によれば、康煕6年(1667) に、周国俊国吉通事が、接貢存留通事として渡間し、福建で学んで帰ったのが 始であるという。けれども、球陽では、尚質王3年(1650)の条に、唐栄地 理記が戴せられていて、唐栄人が古くから、風水思想を学んでいたことを示し ている。その58年後には、察温が、間で地理を学び、その秘書と大羅経を得 て帰国し、尚敬王元年(1713)には、正議大夫毛文哲と共に、禁域、国廟、 玉陵の風水について書いたことは球陽に記されている。風水説は、江西学派と 福建学派の二大分派があり、福建学派は特に方位を重視するといわれる。大羅 経は方位鑑定の羅針であるので、琉球人は、この福建学派の風水を学んだので あろう。 (首里城の風水)察温と毛文英の首里城を相する文の初めに次のように言う。 -1-「夫れ地理の大、建都立国より先なるはなし。是の故に、古の聖王、特に都邑 を営まんとするや、其の居るべきの地を度りて、以てその吉凶を審にせざるな し。嘗て歴代建都の地を槽うろに正竜の鐘ろ所を得て、天星の垣局に合する者 は則ち代老伝うろこと多く、年を経ること久し・その正龍に非ずして、星垣に 合せざる者は、則ち皆随いて建つれぱ随いて減す。'慎まざるべけ人や」として 風水を相して建都することの重要性を説いている。首里城は地は窄狭、勢は恂 隣、低昂があって辺坐しているようで寛潤平夷でない。けれども「竜の来歴」 「気l永の鐘まる所」としてはみるべきものがあるという。 首里城は、沖縄島の背稜をなす丘陵の南端に東西にのびる高台につくられた 都城で、その高台は東に起り西に低い。この上に西面して建てられた城である。 これを「竜の来歴」「気豚鍾まる所」と見たのであろうか。城内の建物の配置、 蕾道については、「夫の国殿、立向甚だ好く、殿前の葦道、その向、殿と同じ からずして最も妙なるおや。且つ広福、漏刻、瑞泉、歓会等の門、左廻右転し、 曲折して直からざるは、皆能<其の法を得たり」という。首里城正殿は西面し て丘陵の走向と一致し、北殿、南殿は夫々南北向し、正殿から歓会門迄の篭道 は一直線の道でなく、左廻右転しているのは法にかなっているという。 これは鐘まった気脈が、正殿から門まで一直線に延びていると流出するとい う、所謂、「諸漏洩の気を遮る」ということであろう。これによって考えると、 民間の家や墓にヒンプンが作られるのも、同様な考え方に基づくものであろう。 歓会門から那覇へ下る途中、中山門あたりには、古くはチンマーサーがあった というが、これもヒンプンの役を果したものではなかろうか。 城外を見ると、馬歯山(慶良間)が城前に海中から起って城の錦屏となり、 諸漏洩の気老遮ぎっているという。風水では建造物からの遠近によらず、その ように考えるのであろう。城の左方には小禄、豊見城地方の諸峰が連なってい るのは青龍であり、右方は北谷、読谷山の諸峰が起伏して、白虎となり、両両 相まって城都を守っているという。 2
首里城は西面しているので、城の左は南、右は北である。東西南北の守護神 はそれぞれ、青龍、白虎、朱雀、玄武とされる。けれども風水説上の左青龍右 白虎とされる考によっているのであろう。那覇港、泊港、安謝港は皆吉方から -進んで王城に朝拱していて良佐であるとする。明堂が広澗であるので吉とする わけであろう。次に首里城風水の留意点として、第一に、以上の三江は国の血 肺であるので、三江及びこれに注ぐ支流小川は、破塞改決することなく、これ を愛保補鑿して活力を加えることが必要である。第二に、尾嶽、虎瀬、崎山嶽 は、松林森々として域を鏡り、よく其の盛気を扶けるものであるから、時に随 いて栽植し傷疲せしめてはならない。第三に、城間地方から泊地方に至るまで は、穴欠凹陥して峰嶽雌雄の良佐がないので、多く松樹をうえて漏洩の気を遮 ぎるべきである。第四に、明堂は広大ではないが、地積平坦で大いによろしい、 その平坦の地に樹老樹えてはならない。この明堂は所謂内明堂で、首里城の前 庭をいうのであろうか。 ●0.巳、8 (村落の風水)村落の風水については、球陽尚質三年の条の「唐栄地理紀」と 遣老説伝中の記事がある。 「唐栄邑の前に一江あり。潮汐来朝して以て明堂となす。南これを望めば則 ち峰嶽績抱して以て錦憧となす。奥山聟秀して以て文案となす。後と左右とは 則ち林樹密囲して以て玉屏となす。且つ中島の西に一塊の大石あり。(この石 は泉崎の西に在りて唐栄の風水に係る。是によりて、康煕癸丑(1673)紫金大 夫金正春、経歴すること久遠にして、人の破る所とならんことある壱恐れ、題 請し、幸に愈允老蒙り、始めて唐栄に属す。)南門に対時して以て龍珠となる。 南門は以て龍首となし、双樹は角となし、双石は眼となす。中街は挺蟠して以 て龍身となす。西門は尾となす。而して邑中一条の小港あり。潮水往来して以 て其の威をたすく。且つ泉崎橋の西において二大石あり。江中より起りて能< 急流の気を鎖す。而して大いに情有り。此の数者のごときは、固より夫の風水 3
の理に係るなり、軽きに非ず゜」 久米村は那覇の港に近く、1日は久米と天妃が合していて、1日那覇のほぎ中央 部である。南方に向う門は大門とよばれ、ここから一条の道が通じ、その北口 がニシジョウとよばれ、一帯をニシンジョウといった。大門の前は、もと海で あったという。この海の中に半円形の突出部があり、松が二本植えられ、この 突出部を久米村毛小とよんで、龍頭と考えられ=本の木は角とし、その左右に 双石をおいてこれを龍眼とした。大門の前の海が風水上の明堂であり、南北の 大道が龍身とされた。龍頭である大門の突出部から少し隔って、仲島の沿岸に 大岩が卓立しており、これを龍珠とした。久米村はこれを久米村の風水上重要 なものと考え、1673年には、わざわざ王に願い出て、久米村の所属とした程で ある。現在でも那覇の文化財として保護されている。南北の大道は龍身とされ ているので、その上を不浄は通さないと伝えられていた。遣老説伝によると、 順治7年(1650)薩摩の新納刑部が死んだが、薩摩人はこの伝えを知らず、 その葬列を大門から入れたので、やがて脆風が起ったこと、康煕48年(17 09)には、愚人がひそかに死屍をこの門から通したので、同年に大風が7回 も起り、後、大飢瞳になったことを記していろ。 奥山は、那覇港内の-小島であるが、久米村の風水ではこれを文案と考えた。 久米村人が進貢の文書や文教にたずさわる事からの附会であろう。以上によっ てみろと、久米村は、その全体を龍に見立て、大道は龍身、北門は龍尾、大門 前に龍頭あり、龍眼、龍角を備え中島の大石を龍珠とみることが主眼であり、 これに、前には明堂あり、後、左右には青龍、白虎の山が考えられ、久米村を 擁護しているとするのである。従ってこれらの要素をけがし、或は破壊するこ とは、久米村の盛衰に係るとして、仲島の大石のように他村に属するものでも 王府に願って久米村に帰属せしめている。 このことは自然愛護の思想とも通じ、王府時代に自然破壊の大工事のなかっ たこととも関係するものではなかろうか。例えば、運天港と名護湾との間の丘 -4-
陵を掘鑿して運送船を通じ、難航することの多発を救う議のあることに対し、 察温カヌかの有名な三府龍肺碑記を書き、これは琉球の重要な龍脈を断つことで 不可とし、名護に碑を立てたことでも伺われる。以上の都城と村落は、琉球に 風水説の受容される前に建設されたものに対して、風水説による解説を加え、 その欠陥を補う為に人工を加えるべき点を述べ、又実際に行っていることがわ かる。首里城の風水で、城間地方から泊にかけて低平、穴欠凹陥して峰嶽雌雄 の良佐がないので松樹をうえて漏洩の気を遮るべきであるとし、久米村を龍に 比して、双石、双樹を植えて龍眼、龍角とした点等である。尚貞王21年(1 689)に、東風平の冨盛村に、屡々火災の起る原因を、風水師の察応瑞が、八 重瀬嶽がその南方にあり、火の牲がある為という診断により、これを鎮める為獅 子像をつくり、八重瀬に向って建てたので、火災の難を免れることが出来たこ とを球陽は記している。18世紀(高穆王代)になると風水思想は地方にも浸 透し村籍移動が頻繁に行われている。 (1)具志川郡の宇堅、江洲、宮里の三村は、夫々天願川原外、城原、石大那原に ったが、その後、後川原、多路喜原、当原に移ったが、もとの地が善に転じ、 里水が田圃に潅注するようになったので、1760年12月には、又もとの地 に移った。 (2)読谷山の瀬名波は、士地は肥えているが、地面が低く、大雨に遇う毎に水が たまり播種しても被水して枯れ、貯糞する所もなく、井戸も遠く不便である ので、風水も善く、土地は曉清であるが井戸が近くにあるという理由で、1 766年に高志原地方に移動した。 (3)美里の渡口村は、人口が増さず、人家が強風に吹き損ぜられ、村の周囲の樹 木も繁茂せず、井戸も遠いという理由で、井戸が近く、村水が田地に流入し、 耕種に便利な加那波川原が風水も甚だ善いとして、1767年にここに移動し た。 (4)1767年に、浦添の仲西村が外間原に遷った゜ 5
(5)1768年に、知念の安座間村が汀敷原に遷された。 (6)今年、南風原の山川村を川田原に移した。 (7)1770年、佐敷の小谷村を山久比利原に移した。 (8)今年、真壁の糸洲村を前田原に遷した。 (9)1775年、大里の当間村を真壁原に遷す。 001781年大里の西原村を阿多伊原に遷した。 ⑪今年、久志の大鞁村を兼久原に遷した。 ⑫1786年。豊見城の田頭村を志茂田原に、 (131788年、摩文仁の波平村を旧籍に遷す。 この村は1753年に移動したのであるが患病の人が多く、次第に疲弊して、 人民も年々少<なり、用水も不便であるので、地理師宮城通事親雲上に地理 を見せると、1日籍のようにその方位を改め作ると村を構えるに宜しい。且つ 1日籍は石原薄地で、今の村は肥沃であるので、改めて農場にしたら益々利益 であると言ったので、村中の百姓が地理師、酋長、検者、両惣地頭、田地奉 行の印結を加具して、1日籍に移る老願い出て許された。以上は高穆代43年 間の村の移動の記録である。 村に不祥事が頻発したり、疲弊し、人口減少を来たしたりすると、風水師に 依頼して、その指導により適地に移動したりしているのがわかる。その時、村 立に適当と考えられる条件は、井戸に近く、里水が田地に流入する所、その点 では村が耕地より高い所がよい。その上風水の善い所であり、士地の肥清は問 題にしない、かえって村籍は清地で、近くの耕地が肥沃であった方がよい。風 水については方位を正すということが記されているだけである。 (墳墓の風水)先づ察温と毛文哲の、玉陵を相したことが球陽に記されている。 「国都の高処に発祖し最も好し。城中に龍泉あり。味美にして且つ清し。即ち 玉陵の地性亦知るべし。虎瀬より末吉に至る一帯の山林、隠々として穴を護 り、且穴前平坦なり、及び其の外を望めば則ち万家の地、広大潤寛にして万 6
馬を容るるに足り、最も好し・但だ其の龍身乙より辛に走り、硬直して挺蟠 する無く、平坦にして高低なし。而も釦砂穴を護る者なし・下よりこれを観 れば則ち風吹き、露打ちて、風を蔵し気を納ろること能わざるが如し。予想 うに、穴後並びに左右、深く樹木を栽し、堅固密衛し穴をして気を池らさぎ らしひるとと最要なり。 乙は風水上東南東、辛は西北西で、玉陵のある丘陵の走向、穴に建造された 玉陵の後、左右が平坦で、これを護るべき森林や高所がないことを言うのであ ろう。玉陵は北向してその前面は民家が多く、明堂としてよいが、後は急阪で 金城町であり、後衛とされるものがないことも指摘されている。 この玉陵の地理が書かれる前、康煕23年(1684)に、八重山で墓の風水 について書かれた碑文がある。「石底ハンナー大主碑文」とよばれるものであ る。これによれば、長多大父古見首里大屋子七代の孫、前石垣親雲上宗延56 才の時、数百人の力で数月かかって墓を造営した。偶々唐人七宮が琉球に来て 大夫の宮に任ぜられ古波蔵親雲上といっていた者が八重山に来ていた。(長栄 氏支流)五代の前石垣親雲上保古理が墓の風水を見せると、「神龍炮妙星玉の
象があり、墓上の山木欣々として以て栄茂に向うは無し暇玉となすJとし、た
だ墓前に田作りする者があったら不可であると言った。その後、墓前に堀田す る企をなす者があり、遂にその家との間に、墓前辰の方から戌の方迄田を作ら ないことを契約し、子孫の代まで運乱することが無いよう石に彫って建てたと。 水流が墓側を右曲し、或は左折して流れるのは生気ある水で、陰陽調和するの で吉であり、直流するのは独陰で陰陽調和せず、これを忌む。墓前に田を作ら せないというのは、水が停滞するからであろう。墓前に湧水流出しているのは 吉地で富貴繁殖するが、陰水勝れ、女子が多く、屡々姦淫者を出すという。 17世紀に、士族の家系図を作ることが始まり、祖先を尊ぶ風が益々強くな ったが、亀甲型、破風型の墓が建造されたのもこの頃とされる。祖先崇拝の風 は、墳墓を壮大にすることになった。墳墓は、子孫の幸、不幸に係るという風 7水思想は、これを助長した。墳墓には碑の建立されることが多く、これには墳 墓の由来、祖先の来歴、墓に葬ひるべき人の指定等種々であるが、子子孫々ま でその風水を穀損することがないよう、その要点を記したものが多いことは特 色であろう。 「久米島、具志)||間切小港松原墓の碑」は、久米島具志川西銘の新田原にあ る中村家の墓地に建てられている。この墓は、同家三代、山城親雲上昌敷の代、 察温が正議大夫として中国に渡る途中、久米島に滞在し、請に応じて風水を見、 良山坤向の墓を作らせたということで著名である。「願わくば、予の子孫、祖 墓の地畑する勿れ、敗る勿れ、祖墓の木伐る勿れ、折る勿れ…」と結んでいろ。 康煕59年(1720)8月である。 「夏氏大宗墓碑」は美里村知花城の中腹に立てられた。同氏の墓はもと知花 にあったが、康煕55年(1716)に地理を選んで宮里に移した。けれども知 花にも厨子が残っていて、清明には両所で祭が行われた。宮里の墓は前面地形 下り、その上寄地であるので、永代保ち難いのを恐れ、もとの墓へ移そうとの 義がおこった。風水師をして見分させると、宮里の墓は一体の山形はよいが、 遠山に嫌忌の山があり、殊に墓の天井に湿気多く、遺骨の為にもならない。知 花の墓は山体堅固、猪木盛生、前後左右遠近の抱護、気11氷貫き、前の川筋など、 風水にかなっている。というので、再びここに移すことにした。後筒のf係等、 この子細を篤と解別し、抱護の山休川筋流水の'|頂逆等よくよく気を付、祖宗の 旧墳万世最通り、子々孫々蕃術、家道平康ならんこと壱と記している。威豊3 年(1853)11月である。 (風水師と風水書)沖縄の風水師は、すべて久米村人であり、彼らの中編建で 風水を学んだ者が、民間の求めに応じて地蝿をみた。久米人はE府の役職につ き、進貢の諸務又は、文教の事にたづさわる者であるので、中国に於けるよう に風水師を以て門戸をはることはなかったと考えられる。編建で始めて風水を 学んで帰国したとされる周国俊をはじめ、察温や毛文哲も皆王府の役人である。 8
その外に宮城通事親雲上(18世紀終頃)古波蔵親雲上(七宮、17世紀終頃、 楊明州)鄭良佐等の名が球陽や墓碑にみえる。 彼等がどんな風水害を使用したか明らかでない。夏氏大宗墓碑には、「青鳥 経」に曰くとか程氏の言によればということが書かれているのをみると、「青 烏経」や「程明道、程伊川踏山歌」等が読まれていたと考えられろ。又錦嚢経 の中からとったと考えられる墳墓についての禁忌もみえる。沖縄人は福建で風 水を学んでいるので、福建で用いられる風水害が多く伝えられ使用されたので あろう。墓の風水は民間でも重要視され学ぶ者もあったと考えられる。八重山 の民間に伝わっていた風水害に「風水抜」「象吉大通書」がある。「風水抜」 は、墓の類型について図入りで説明している。「象吉大通書」は大正7年8月 の写になっていて墓類型24山についての説明、建造月の吉凶、安葬月の吉凶、 符の例等が記されている。 9