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企業権力と社会的責任

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Title

企業権力と社会的責任

Author(s)

桜井, 克彦

Citation

経営と経済, 52(2), pp.37-76; 1972

Issue Date

1972-07-30

URL

http://hdl.handle.net/10069/27871

Right

http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp

(2)

企業権力と社会的責任

桜井克彦

1 序 2 企業権力の源泉とイムパクト 3 権力と社会的責任 4 社会的責任と積極的責任 5 現代企業と責任体制 1  序 現代の巨大株式会社企業における基本的な特質の「つに,巨大な権力の存 在を挙げることができる。巨大企業をめぐって今日,社会的にも問題となっ ているところの社会的責任は,そのような企業権力に対する理解なくしては その本質を適切に把握しえないといっても過言ではない。本稿では,企業権 力と責任の問の関係に焦点を当てながら,企業の社会的責任の本質的性格に ついて検討を加えることにしたい。 2  企業柿力の源泉とイムパクト 現代の大企業が強大なパワーないし権力を保持するに至っており,権力の 乱用に対する社会の非難にしばしば直面するに至っていることは,改めて指 摘することを要しない。多くの論者が,企業のもつかかる権力に着目して, (1) 企業をば一種の政治的制度として論ずるに至っている程である。現代の大企 業の権力に関心を寄せ,そこから株式会社制度の改革を主張する論者として (2) 注目すべきものに,リーガンを挙げうる。 リーガンは,現代のアメリカ経済について論じており大企業の権力 (power)と影響力(influence)について論じている。本節では,そのよう

(3)

な権力と影響力が依って生ずる根源,および,権jJと影響力のイムパクトを めぐるかれの所説を取り上げることにしたい。まず,権力と影響が依って生 ずる源についてのかれの見解をみていこう口 リーガンは権力を,

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コミュニティのかなりな部分に対して影響をもつよ うな,もしくは,より小規校のパブリックに対して相当なイムパクトを及ぼ (3) すような諸決定をなしうる能力」として定義する。また,かれにあっては影 響力は,権力の仲間であるが,より弱いものを,すなわち

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他のものたち (4) によってなされる社会的決定になんらかの方法で影響を与える能力」を意味 する。そして,かれは,権力および影響力という概念は社会分析の概念であ り,正確な測定が不可能な概念であるが,それにも拘らず,そのような概念 が現実の説明にとり有用であるとみるのである。 さて,かくの如き権力を今日の大企業は有するに至っているのであるが, そのような権力が依って生ずるととろの基盤,すなわち,企業権力の源泉 は, リーガンによると多様であるO かれは,企業権力の基盤についてさまざ まのものに言及しているが,それらは結局のところ,つぎの八鹿のものに要 約しうるであろう。すなわち,宮と資産との支配,企業への諸関係者の依 存,コングロマリット的な企業合併と超寡占 (super-oligopoly) ,規模の 巨大さそれ自体,資金の自力調達可能性,社会の工業化,社会による事業家 の発言の重視,および政府と企業との関係が,それらであるO かかる諸要因 に関してのリーガンの説明は,以下の如くであるo まず, リーガンは

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富と資産とのコントローノレ」を企業権力の源泉の第 一に挙げる。つまり,かれは,少数の企業への資産の集中が経済的ならびに 非経済的な権力を企業にもたらすとみる。

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生産的な宮の集中の問題につい ては,基本的な事実は,価格競争が少なければ少ない程,企業の経済的権力 が大であるという乙とであるo ・H ・..現在の程度の寡占(二・三の企業によ る支配)は既に,かなりに大きな,市場権力,すなわち,いかなる程類と量 の製品がいかなる価格で利用可能たらしめられるかを決定する権力の存在を (5) 意味するo

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市場権力の保持は,甚だ広い限界の中で企業がその価格を,した がってその利潤をもまた管理しうることを意味するO 大会社において近年出

(4)

現しつつある,利潤"目標

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なる現象をみよ。……アメリカの産業 の標準的な巨人達は,価格で競争しない。価格競争を回避することによって 諸会社は,比較的に安定をしたかなりの剰余利潤を享受しうるのであり,そ してかかる剰余利潤はかれらをして,限界に近い企業がなしえないさまざま な支出を通じて威信,影響力,および権力を購入することを可能ならしめ (6) るo

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源泉の第二のものとしての,企業への依存性については,リーガンは,大 企業に対する取引先の依存性の増大を挙げる

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伝統的な意味における,生 産的資の集中のほかに……幾つかの会社の権力と影響力を更に強めるところ の付加的な形の集中が存在するD ……それらの一つは,本質的に依存的な性 質の関係の存在である口それは,その製造家に対するデ、ィーラーの依存であ るかもしれぬ。……もしくはそれは,大規模な買手に対する売り手,とりわけ (7) 小規模なそれの依存であるかもしれない。」 ある程の合併と寡占も,企業に権力をもたらす。

I

経済的権力の集中はま た,コングロマリット的な合併,ならびに超寡占によって強化されるO コン グロマリット的な合併は,別の製品ラインを加えことでその活動を多様化し ている企業の観点からは,単に,良き事業であろう。……恐らくは,競争者 を絶滅させるようその製品を一時的に値下げすることで,ある部門が損失を 出しつつある一方,他の部門の利潤が,会社の営業の継続を可能にするo …かくて,多様化は,経済全体の競争的健全性にとって悪である一方,企業 にとって菩であろう。超寡占とは,モ一トン・

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-tz)によって,多数の潜在的に競合的な産業において同時に市場権力の地位 (8) にあるような企業として定義されるo ……」 第四lこ, リーガンは企業規模の巨大性それ自体も,権力の源泉であるとみ るo

I

もっともしばしば市場権力と結びついている巨大さがある製品市場の 大きなシェアーから成り立っている一方,企業の絶対的な規模もまた,権力の 重要な源泉であろうD ……巨人は,一般に小人に優っているo独占問題の綿 密な研究者たるコーウィン・エドワーズ

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の論ずるところ によれば,市場支配が 1~ い場合でさえ大企業は,それが資源・用地・発明に

(5)

関する競争に対してより大きなかねを支出しうるがため,また,部品を自家 製造しうることで,小規模の製造家にみられない,潜在的仕入先との交渉に おける主導権を有するがため,更には,デ、ィーラーと仕入先にリスクを転稼 (9) しうるがため,小企業に対して権力を有するのである口」 第五に,大企業が内部的に資金を賄いうるという事態,および大企業が有 能な人材を集めうるという事態のうちにも,企業権力の源泉が存在するO そ して,このような諸源泉は結局は,企業という機関の特殊的性格に起因する のであるD リーガンはいうD 「非政府的な諸機関の中で企業のみが,自身の宮を創造するO ……企業 は,財と用役の製造と配給なるその第一次的機能を遂行するという過程にお

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O) いて,外部者から資金を獲得する口

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iそのことは,企業が,他の程類の椴 (11) 関のそれに優る,資金的基盤の保障を有することを意味する。」 「かかる堅固な資金的基盤と,大会社に利用可能である資金の規模とが, 権力の他の諸源泉を提供するo市場権力の地位にある企業にとっては,その 希望する利益率を設定する能力は……経営者に内部資金による拡張を可能な (12) らしめるo

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すなわち,経営者は資本市場のテストを受ける必要はない。 「より大きな資金をもっ企業は,かかるテストを回避しうるO つまり,経営 者はそれ自身の可能性を"判定"し,消費者から受領した資金をその結果に U3) 従って投資する。

J i

企業全般にとり,優れた資金的地位は,他の機関より も,才能ある人材に高く値を付けるという能力を意味する。………熟練した サービスを購入する優れた能力は,企業権力のもう一つの源泉とみなさねば

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引 ならぬoJ 第六に,工業化もまた,企業権力の源泉であって,それは従業員および全 体経済に対する企業権力の一因となるのであるo i工業化それ自体もまた, 企業権力の源泉である口工業化がより少数にしてより大規模な生産単位をも たらすがために,生産の指揮運営はより少数のものの手中に在るようになっ たのであり,かれらの各々はより大きな権限範囲を有しているO ……組合も しくは他の職務保障機構がない場合,俸給生活者階級のメンバーは稀れにの ( 1日 みその雇用機関の行為もしくは思考パターンに敢えて挑戦するに過ぎない。」

(6)

「工業化した国民経済においてはその個々の部分は,農業的,地方組織的な システムの場合よりも,全体に対してずっと依存じている。乙のことは,よ り大きな企業単位の決定が生ぜせしめるイムパクトの範囲を拡大するという 結果を有するo……相互依存性と,それに加えての個々の製造家の規模とは かれらに国家全体の経済活動,すなわち雇用・生産物価に対する権力を与え 日 目 る。

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ところで,経済に対する事業家の権力のかかる出現が,かれの発言の社会 的比重を増大せしめているが,発言の比重のそのような増大もまた,企業権 力の源泉を構成するo

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事業家が述べることに対してわれわれが与えるとこ ろのこの比重は,無形ではあるが基本的な,企業権力の源泉であるoそれが 意味することは,企業行動と社会の必要とを評価せんとする際にわれわれパ ブリックが,企業が提示する基準を受け入れる傾向にあるという乙とであ ( 1司 るo

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……われわれは,企業にとっての善を全てにとっての善と同一視す ( 18) るような……問題に対する定義を受け入れる傾向にある。

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要するにリーガ ンは,大企業に好意的な社会的風潮が企業権力を助長することを指摘し,か かる風潮をもって権力の源泉の第七のものとみるのであるo 最後に,政府と企業との聞の関係ないし構造も企業権力の,つまり政府に対 する企業権力の源泉であるoすなわち,一つには国防問題に対する,企業ぺの 政府依存性が,二つには,企業による政治工作を可能ならしめているような政 (19) 治構造が,政府への企業の影響力を出現せしめているのである。 以上が,大企業が権力を有するに至っている所以についてのリーガンの見 解であるoかれの見解は必ずしも体系的ではないが,しかしながらそれは,現 代の大企業がなに故に大きな権力を保持しているかを知る上で有益であると いわねばならない。ところで,企業におけるかかる権力という.ものがなんで あるのか,ひいてはそのような権力の存在によって特徴づけられる現代の大 企業というものがなんであるのかを適切に理解するためには,企業が保持す る権力について更に具体的に知る必要があることはいうまでもない。乙の点 に関してリーガンは,アメリカの大企業の権力と影響力が国民経済に対し て,また社会に対してどのようなイムパクトを与えているかを具体的に述べ

(7)

ているo かれはまず,企業の決定の経済的イムパクトについて説明するのであり, それによれば大企業はつぎのようなイムパクトを与ええ,そしてしばしば与 えているのであるO その第ーは,投資政策を通じての景気動向への影響であるO 企業の投資決 定が経済全体の動向に大きな影響を及ぼしうることは明らかであって,との ことは企業が大きな権力を有することを芯味するO 「賃金,価格,配当,および投資に関する会社の決定は,国民経済の目摂 たる経済成長・完全雇用・物価安定に直接に影響する。しかしながら,これ らの決定は,全体経済のそれによりも企業の福祉の基準に基づいてなされ

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投資が増大するとき,全ての経済活動は刺激される。投資が減返す 白1) るとき,雇用と製造率とは減退するo

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・パラツによれば, 1953年には民間総投資の1296が, 12の企業,すなわち,鉄鋼・自動車・化学 ・石油という四つの基幹産業中のそれぞれ最大三社によるものであった。そ の存在もしくは欠如がインフレーション,景気後退,もしくは“バランスあ る成長"へと向わせうるという単純な意味で,これは投資の怠義深い割合で あるo……これらの企業は, 対応する責任なき巨大な権力を有するのであ 四) るo

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企業の経済的イムパクトの第二は,その価格政策を経済的の物価への影響 であるD エクスタイン

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は,鉄鋼価格の H異 常 " な 動 き が なかったならば卸売物価指数は1953年から59年の期間に,実際よりも52%上 昇が少なかったであろうと見積っているo市場に関連した経営者の権力は強 いのであり,需要洗滞の時期においてさえ,重工業の企業では,価格減少へ (231 の圧力が存在.しないのであるD 第三の経済的イムパクトは,その所得分配政策を通じての,従業員,仕入 先,経営者,および株主への影響であるO リーガンはいう。

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パブリックに 意義深いイムパクトを有するところの,別の会社;意志決定の領域は,所得配 分のそれであるO ……経営者自身に,ならびに生産プロセスの他の参加者に 向う報酬をば,経営者の価値が一方的に決定するところの,所得配分権力の

(8)

。 占 領域が残っているのであるo

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そして,リーガンはかかる領域として,経営 者のストック・オプション・プラン,仕入先に対する価格の設定,および配 ( 羽 当政策を挙げるO 大企業の経済的イムパクトの第四のものは,その消費パターンへの影響を 通じての消費者および、パフ、リックへのイムパクトであるo まず,企業は,消費者晴好の操作,新製品導入の抑制,および原料提供の 独占を通じて消費者の利益に影響を及ぼす。

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……われわれの経済が,食物 ・基礎衣類・基礎的住居という tt自然的"財貨から,テレヴィのセット・ス キー用具・動力芝刈機という発明された財貨の時代へと移行するにつれ,消 費者の選好それ自体が会社による計算の中の要素となるO ……ひとびとが気 付かないような,もしくは広告によって欲望の存在を告げられるまではひと びとが欲望を意識しないような財貨と用役の割合が大となればなる程 ( 26) 大会社の操作的権力は大となるo

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逆に,既存の工程に大きな投資を行な っている多くの大企業は,……かれらの既存の投資を損うような新製品もし (訂) くは工程の導入を必ずしも常に迅速には行なってこなかった。 J

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基礎原料 は,大規模な寡占的企業の手中に…あるD ……こ乙に含まれる権力は,どの 製造業者が供給を受けどの製造業者が受けないかを決定することで,どの財 閥 が生産されどの財が生産されないかを決定するという権力であるo

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また,企業は公共的セクターの支出lこ対して,しばしば望ましからざる影 響を及ぼす。すなわち,不必要に大型かっ哀しゃな自動車を製造する企業が 道路設備その他に対する公共的支出に影響を与えるというような形での社会 的費用を発生せしめることによって,公共的セクターの支出に影響を及ぼす のであり,また,その広告活動によって個人的財と公共的財との聞のパラン (29) スに影響を与え

r

社会的アンバランス」の出現を促すのであるo リーガンによる大企業の経済的イムパクトの内容は,以上の如くであるo 更に,かれによると企業は,かかる経済的イムパクトに加えて,社会へのイ ムパクトを有するD かかるイムパクトとは要するに,非企業機関に対する影 響であって,そのような影響の存在は,企業中心の単元社会の出現可能性を もはらんでいるのである。

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より微妙なタイプの企業の影響のうちには,非

(9)

企業的諸機関がとる方向の形成に関して企業と事業家が演ずる役割が存在す るD 学校,教会,および怒善・文化・市民の諸組織は,われわれの社会に特 定の気風を与えている複雑な価値の中の程々の要素をいずれも表明してい る。自由な社会においては,多様な価値形成機関の独立的な存在は,単一の 機関による生活の全領域の挑戦されざる支配として定義されるような全体主 義に対する不可欠なとりでであるO そして,政府のみが,唯一の可能な全体 主義者なのではない。米国における情況は全体主義ではないが,他の機関と 一般的な社会価値とを自身のイメージの鋳型に入れようという企業の試み を,また,その侵入を支える資金的利点を眺めるとき,ひとはその可能性に (30) 関心を抱くようになっているo

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乙の場合, リーガンは,かかる影響が三種の形でみられるという。その一 つは,教育機関への影響であって,企業は寄付・その他を通じて,例えば大 (31) 学では,教官の見解,教科目,研究内容に影響を与えているoそのこは,地 域社会に対する影響である。

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……会社はしばしば……地域社会の文化的・ 慈善的・市民的な諸活動に関して騒々しく温情的であるo...・H ・..会社(しば しば,その本社は他所にあるような全国的企業)が地域社会に少年会館を与 えるとき,それは地域社会に対する権力を行使しつつあり,他の機会に対し (32) て影響を及ぼすための基盤を確立しつつある。」その三は,コミュニケーシ ョン・メディアに対する影響であって,企業はかかる影響を通じて世論の動 向に対して作用しているo そのような影響は,メディアの事業家と企業経営 者との聞の見解の一致という形で,また,企業批判を直接・間接に和らげる のに寄与するような,広告や放送番組の存在という形で知られうるのであ (33) るO リーガンは,大企業が有するところの経済的ならびに社会的イムパクトに 関して,このように説明するO かれは,企業をめぐる諸クツレープとりわけ一 般大衆ないし社会全体に対して企業が潜在的ならびに顕在的に有していると ころのイムパクトを中心に論じているが,大企業の権力の具体的な内容の概 要は,かれの所論のうちにかなりに明らかであると思われるo

(10)

註(1)大企業における権力については筆者は既に,拙稿「現代企業と支配力J,経済 科学, 17巻2号,においても論じている。

(2) Michael D. Regan, The Managed Economy, 1963. (3) Ibid., p.74. (4) Ibid., p.74. (5) Ibid., p.76. (6) Ibid., pp. 76'""-'77. (7) Ibid., p.77. (8) Ibid., pp.77'""-'78. (9) lbid., pp.78'""-'79. (10) Ibid., p.79.

1) Ibid., p.79. (12) Ibid., p.81. (13) Ibid., p.81 (14) Ibid., p.81. (15) Ibid., p.82. (16) Ibid., pp. 82'""-'83. (17) Ibid., p.83. (18) Ibid., p.84. (19) Ibid., p.86 ff.. 凶1) Ibid., p.99. (21) Ibid., p.99. (22) Ibid., p.l02. (23) Ibid., p.I02. 凶) Ibid., p.I03. ( 笥)j Ibid., p.I05. (26) Ibid., PP.105"-'106. (27) Ibid., p.I06.

Ibid.,p.I06. ( 29) Ibid., pp. 107'""-'108. (30) Ibid., p.109.

(11)

。1)'Ibid., pp.109"-'1l1. (32) Ibid., p.1l2. (33) Ibid., p.1l2 ff.

3

権力と社会的支任

前節で眺めたところによって,現代の大企業が有するところの権力とい うものがかなりに明らかになったと考えられるが,企業ないし経営者の社会 的責任なる概念は,そのような企業権力に目を向けることによって,初めて 適確に理解されうるとみて差し支えない。社会的責任について論ずる論者は むろん,程度の差はあれ,一般に企業権力との関述において責任をとり上げ (1) ているが,そのような論者を代表するものの一人にデヴ、イスらを挙げうる。 よく知られているようにかれらは,社会的責任と企業権力との相関性を強 調しており,本節では,社会的責任をめぐるかれらの所説を逐時追うととに よって,社会的責任についての概念的基礎をうるための手掛りとしたい。 デ、ヴィスらは,はじめに企業の思考ならびに行動が企業と社会の相互的作 用の中で乙の百年間に大きく変化しており,今日の企業はその活動範囲を全 体社会lこまで拡げ,経済成長・社会安定・社会改善・教育・等の如きパブリ ックの必要に対する権力をともにするに至っていること,そして,企業はか かる権力を法律的権利ないし所有権によっでなく,責任あり有能な遂行によ って保有しており,ここから社会的権力の代償として社会的責任の概念が発 (2) 展しつつあることを指摘するD そして,デヴィスらはまず,かくの如き社会 的責任とはなんであるかを尋ねるo かれらは,社会的責任の概念がすべてのひとならびに制度に対して妥当す るとみるとともに,意志決定の主体者としてのひとの責任を重視するO かれ らによると社会的責任とは,意志決定に際して社会の利益を考えるという,ひ との義務であり,それはひとの目を全体的な社会システムに向けさせるもの である。

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社会的責任の概念は,芯志決定に先立ってひとが,公益に対する その決定の最も広範にして,可能な影響を考えるであろうということを志味

(12)

するo したがって社会的責任は,全体的な社会システムに対する,その個人 的,制度的な決定と行為との影響を意志決定のプロセスにおいて評価すると (3) いう,ひとの義務を指す。J

r

されば社会的責任は,ひとの視野をばトータル な社会的システムへと拡げる。……もしかれが全体的なシステムの見地から 考えるならば,かれはその行為がある組織のためになされる場合においてさ え,その行為に社会の価値を組み込み始める。乙れが社会的責任の精髄であ (4) るo

J

かかる社会的責任の概念にあっては,社会的システムとひとの関連性 の存在が強調されている。

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社会的責任の概念は,各人が,自分も部分的に は依存しているところの広い社会的システムに結び、ついており, したがっ て,ある義務もしくは社会的責任が乙の結びつきから生ずるという乙とを認 識するO 同じ論理が,グループおよび制度に対して妥当する。事業家は,企 業の行為によって影響を受けるかもしれない他のひとびとの必要と利益を配 (5) 慮するとき,社会的責任を実践しているのであるo

J

要するにデヴィスらは,企業の社会的責任を,その経営的決定の対社会的 影響・を考慮するという経営者の責任として理解するのであるO なお,デヴィ スらは,あるグループによる社会的責任の無視は,より大きな社会的システ ムの見地からは特定グノレープによる全般社会の利益の二次最適化 (subopti -mization)に他ならず,かかることの結果は柘端な場合,すべてのグループ (6) に対する損失となりうる乙とを指摘するD デヴィスらによると,社会的責任 は,技術的,経済的,等の諸価値と並んで事業家の決定に影響・を与える文化 的価値であるとされるが,つぎにかれらは,社会的に責任当うる決定を以下の 如く説明する。 第ーに社会的に責任ある決定とは意識的な決定である決定が厳密に技 術的な理由でなされてたまたま公益にもかなうことがありうるが,かかる偶 然的結びつきは通常,社会的責任の証拠と考-えられない。社会的責任の真の テストは, (/.~益の諸問題が意志決定の時点で考慮されてし、るかどうかであ (7) る。」 第二に,それは,全体として公共のためになる決定である

r

実際には, 多くの企業決定はー述の諸展開を生ずるのでありF そのあるものは公益に奉

(13)

仕し,そのあるものは,それ自体として考えれば,公益l乙反するO ……唯一 の現実主義的な接近は,プラスの効果とマイナスのそれを加えながら,決定 (8) 全体から期待される,公益への効果を考えることであるo

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第三に,多元主義社会ではそれは,特定の組織のための決定と両立しうるの であり,ひとに無私たることを要求しない。1"組織の利益のための行為は依 然として,社会的に責任あるものたりうる。制度の行為が公益のためにのみあ るべきことを要求する乙とは,社会の多元性を否定することである口-(9) 多元主義においては,私的な自由と公共的責任とが同時に存在するo JI"自分 の利益のためにひとが行なう行為は,もしそれが他者をも利さんと努めてい るならば,社会的に責任あるものたりうる。……社会的責任は,人間を改造 せんと試みはしない。それは,より広い社会的システムを考えるべきことを および,自己のみならず他者をも利する方法で行動するよう努むべきこと (10) を,ひとに要求するに過ぎない。

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社会的に責任ある決定とはデヴィスらにあっては,以上のように解される が,それに関述してかれらは,公益の正確な決定の不可能性を指摘する。 「公益は責任ある意志決定のための有用なガイドであるのだが, “公益"が なんであるのか,どのようにしてそれを測定するのか,もしくはどのように してそれに奉仕するのかを決定するための正確な方法は存在しない。これら の理由で,社会的に責任ある決定は常に不完全と不確実の状態でなされるで (11) あろう。

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そして,かれらは,公益を形成する基本的価値に関して対立がみら ( 12) れる場合,真の公益の限定は最も困難である乙と,および,イーノレズのいう ように,社会的責任はパブリックの期待の全てへの消極的な順応の観点から (13) は定義しえないことを挙げているO ところで,デヴRイスらは更に,社会による社会的責任の強調の増大の理由 について述べている口かれらによれば,その理由として六種のものが数えら れるのであり,それらはつぎのようである。 第一の理由は,今日の社会が,より大きな複雑さで結び合わされており, その部分のそれぞれが他の部分により依存していることであるO 人口増大, 経済成長,および特殊化が,社会の相互依存性を増大せしめており,企栄,

(14)

労働,政府,諸コミュニティ,少数派諸集団,農民,専門家,教育家,等が (14) 密接に織りなして社会的相互依存の複雑な織物を形成しているのである。 第二の理由は,社会がその保存を願うと乙ろの富と文化の増大であるD 社 会は,無責任な行為から生ずる瓦解の危険を冒すことを,より望まなくなり つつあるのであって,世論の傾向はますます,すべての制度とひとびとの責 (15) 任ある行為を主張しているO 社会的責任への関心の第三の理由は,社会システムに対する企業の影響の ( 1 同 様子についての新しい知識を社会科学が提供しつつあることであるO 第四は,隙あらば規制を企業に加えんとする政府権力の増大であるD され ば,企業にとっての慎重なコースとは,その権力の限界の十分な理解と椛力 (17) の責任ある行使とによって,政府に干渉の理由を与えない乙とであるo第五 は,現代の倫理的諸概念が,より責任ある行為を支持するようひとびとを条 件づ、けつつあることである。事業家は社会の態度と価値をともにするのであ り,かれはより責任ある行為に関する現代の態度をその行動に反映させてい ( 1)8 るo 第六の,そして恐らく最も重要なものは,所有と支配の分離であるD 専門 経営者は組織に対する要求者の間では,時聞に関するより長期の視野と,よ り広い視野とをとるのであるD しかしながら,かかる分離はまた,責任の所 在を混乱させている。経営者がどれだけの責任を有するのか,また,どのよ うな経路によって経営者はコントロールされており,されるべきなのかは, 明確でないのであって,会社は,自らその株式をもち自らを所有しているか の如き様相を呈している。もっとも,経営者による株式所有はかなり大であ (19) り,かれは所有者のように行動をするのであるO デヴィスらは,社会による社会的責任強調の原因についてこのように述べ るoかれらの挙げる六程の原因のうちの最後の三程のものは,より厳密には むしろ企業側における責任強調の原因を怠味するであろう。それはともかく デヴィスらはまた,社会的責任は理念であり,それに支えられて責任の実践 がもたらされることを強調する口かれらは,社会的責任は,行為のための基 礎であるという。1"社会的責任の概念は,単に企業の社会的有効性への予侃

(15)

的段階である。それは,事業家に社会的行動のための健全な基盤を提供する ところの基礎的価値である口それは,その社会共同体への企業の係わり合い を正当化するところの理念であるが,それは,それ自体としては不完全な理 側 念である。それは,有効な社会的行動をその後に伴わねばならない。

J

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究 極的に必要とされることは,より有効な社会の望ましい目的への進歩を提供 するように企業が応えることであるO ……望ましい目的は,一連の理念,過 程,および機能を通じて達成される。企業と社会なる領域では,理念は社会 的責任であり,過程は企業による創造的な怠志決定であるO 創造的な決定は 企業による社会的行為なる機能へと導くのであり,かかる行為は,よりよい 社会なる望ましい目的を生み出す。社会的責任は,辿続的過程の始まりに過 仰 ぎないo

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理 念 ー → 過 程 機能 目的(目椋) 社会的 責任 企業による創造的な社 会的決定 為の 仔 リ へ 的 会 ) 会社応 社(反 より効以的 な社会 ( 羽 デヴィスらのいうそのような関係は上のように示されるQ そして,かれら は,企業は単にそれが現代社会の中心に位置するがため,社会的責任を実施 していかざるを得ないことを指摘するo

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一つの事実は確かである口すなわ ち,事業家は,弧立へと引込んで社会的責任と社会的応答の問題を回避する ことはできないO ……単純な事実は,企業が主要な社会的制度で、あり,その ことによってそれが社会の諸価値と重大に係わり合っているということであ る。…・・・企業は生活の主流の中に,そしてここから価値の主流の中にあるの (23) であるo

J

デヴィスらは社会的責任の基本的な概念をめぐって以上の如く述べるが, かれらは更に権力と責任に関する方程式を挙げ,それについて論ずるO すな わち,かれは,企業は社会的権力をもっており,ここから社会的責任が社会 的権力に釣り合わされるべきであること,京任ある具合lこ権力を行伎しない ものは長期的にはそれを喪失すること,および権力はとりわけ立憲制によっ て制御されることをつぎのように指摘する。 まず,かれらは社会的権力に関して,第一l乙,事業家の発言と行動がその

(16)

コミュニティに影響を及ぼしており,この程の影響が社会的権力であるこ と,第二に,物的資産が経済的な資源であると同様に,権力も社会的な資源で あり,それは善のためにも悪のためにも,そして社会の利得となるようにも社 会に損失をもたらすようにも使用されうること,第三に,企業が行使する権 力の大部分は機能的な権力である乙と,つまり,社会が企業に与える権力は 社会が企業に期待する機能をば企業が遂行するに充分なそれであるととを指 凶) 摘するO 第三点について更に説明するならば,それは「支配する権力

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I

事業家および他のク勺レーフ。が社会的権力をもつほど,歴史の教訓は 社会的責任がそれと等しくさるべきことを示唆する。一般的関係の形で述べ るならば,事業家の社会的責任はかれらがもっ社会的責任の量から生ずるの ( 2日 である。」責任と権力は相たずさうべきであるという概念は文明と同じ程度に 古くから存在しており,ひとびとはかかるバランスを正義のための必要な前 提として追求してきたのであって,そのようなバランスが存在するときに法 的秩序が存在するのであるo権力と責任の均衡という概念は,プロテスタン ト,カトリック,およびユダヤの信条で之持される価値であるが,それはま

ω

た,例えば権限と責任の原則の形で経営原理の一部となっているD そしてデヴィスらは,企業の社会的立任を否定する論者も,企業は社会の 必要を須らく充すべきであるとする H全体責任"論者も,権力と責任の均衡 なるこの論理を無視するが故に,等しくぷりであるとみる。 責任否定論に対するかれらの批判は,つぎの如くである

I

これらの反対 の誤びゅうは,それらが通常, f似~~競争の経済モデノレ一一そこにおいては ï!I

(17)

場の諸力が,理論上は企業になんらの社会的権力も,そしてこ乙からなんら の責任も存在させないでおく(権力と責任の方程式はゼロで均衡する〉ーー に基いていることであるD 権力と責任とはいずれもゼロであるという乙の方 程式は,純粋競争のための適切な理論的モデルであるが,しかしそれは理論 に過ぎず,近代的諸組織の権力の実態とは両立しない。それらは大きな,イ ニシァティブ,経済的資産,および権力を有するので,その行為は社会的影 響を有しているO したがって,現実には日責任非存在"教義は企業が,その 社会的権力の幾ばくかを保有するも社会的責任の心配はしないことを怠味す (28) るo

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他方,全体責任論に対する批判は,つぎの如くである。

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他 の 桓 で は,あるひとびとは,……一和の社会的神父としての責任を企業にとらせる であろうO この立場は,企業が……多元主義的社会の中で活動しているとい う事実を看過しているO 企業は社会システム内の多くの,イニシァティブの 中心点の一つであり,乙乙から,それをば……一枚岩的な福祉施与者たらし める必要は存在しないo 全体責任"教義はまた,社会に対する企業のサー ビス機能を社会への奴隷たることと取り違えているo労働者,投資家,およ び他のものは自由人として企業に参加しているのであり,社会の奴隷として ではない。かれらは自分自身の人生を有するのであって,企業は,他のもの (公共の必要)に奉仕する一方で自分自身の必要(私的な必要)を充足する (291 ための,かれらの協同事業

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なのである。」要するに, m責任非存在"教義と日全体"責任教義は等しく誤りであるとされる。

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第 一の教義によれば,企業はその権力を保持するも責任を受け入れず,従って 権力と責任の方程式を不均衡ならしめるO 第二の教義によれば,責任は粧力 (3印 をはるかに越え,同j践に方程式を不均衡ならしめるのであるo

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ところで,デウ、、イスらによると,権力と責任は均衡すべきであるという前 述の命題は規範的な命題ではないのであり,それは歴史的・経験的な必然的 命題であるとされるO 乙の点に関してかれらは,権力と責任の均衡の不可避性を怠味する責任鉄 則

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もし責任が権 力から生ずるならば,その場合に二つの条件は,長期には均衡へと落着く傾

(18)

向にあり,そして,責任の回避は,社会的権力の漸次的な腐食へと導く。乙 れが,社会が責任あると考えるやり方で権力を行使しないものは,長期的に はそれを失うであろうという責任鉄則である口人間の諸制度への法則の妥当 ( 31) は,歴史によって確認されているo

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1"それが企業に当てはまるとき,責任 鉄則は,事業家が社会的責任の義務をそれが生ずる際に受け入れないなら ば,他のグループがこれらの責任をとりに踏み込むであろうと主張するD 社 会的権力の希薄化についてのかかる予言は,生起すべきであるとわれわれ が考えると乙ろのことに関する規範的な表明ではない。むしろそれは,もし 事業家がその社会的責任をその社会的権力にほぼ等しくさせていないときに 問 はいつでも,生じがちであるところのことについての予言であるo

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そし て,デヴィスらは,企業における,権力と責任の相関の具体的な例として, 安全な作業条件および失業の諸問題を挙げている。前者の問題領域では企業 は,責任ある具合に行動したがために,権力に対する拘束は殆んど課されて きていないが,他方,後者の領域では企業は,失業に冷淡であったがため (33) に,政府および労働組合にその権力の幾らかを渡してしまったのであるo デヴィスらは責任鉄則をめぐり以上のように述べたあと,権力と責任の均 衡の,実践への適用をめぐり,事業家によるその社会的権力の移譲も社会に よるかかる移譲の認可もありそうにないのであって,より可能な結果とは, 権力と責任の方程式の均衡のために社会的責任をより受け入れるよう社会が 事業家を説得するととである乙と,そして1"説得」は場合によると政策問 題に対する法的強制の形を一一但し独立的な企業単位に活動のイニシァティ プは残すという形で一ーとるかもしれないこと,更には,事業家と一般大衆 による権力・責任均衡の概念の受け入れの傾向が存在するが,その際l乙事業 家はかかる概念の論理の怠志決定への適用のための手引きを必要とするこ と,しかしながら,権力と責任の均衡に関する方程式は,大ざっぱではある (34) が現実的な手引きとして役立ちうることを指摘するO 最後の点についていう ならば,例えば,事業家がその産業工学上の決定によって,仕事に対する労 働者の達成感と自己充実感に影響する権力をもっているならば,社会的責任 によって均衡を実現する必要が存在することになるのであるo なお,デヴィ

(19)

スらは権力を惹起せしめる条件は,企業が,たまたまコミュニティでの唯一 の雇用者でありその移転がコミュニティに大きな影響をもたらしうるという 場合にみられるように,企業にとり外部的であることもあれば,また,そう (35) でなくて内部的であることもみられることを指摘する。 最後にデヴ、ィスらは,権力はとりわけ立憲制によって制御されるのであ り,それは組織権力の自由裁量的かっ非合理的な行使から社会を保護する基 準を提供するというo すなわち,かれらは立志制の概念についてつぎのように述べるo

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組織の 権力に対する責任を公式化する第一次的方法は,立志制であるO それは,社 会をば組織権力の白由裁量的にして非合理的な行使から保設するところの, および,すべての関係者に対して正当な手続きを確立するところの諸基準が 発展したものであるD ……いずれの組織も,その目的の達成のためには権力 をもたねばならない。立志制は権力を破壊しないのであって,むしろそれ は,権力の責任ある行伎のための条件を定めるoその二重の目的は,支持さ れる方向へと組織権力を方向づけること,および非合理的な組織権力から私 益を保護することであるo立志制は,権力と責任の方程式を均衡させるため に用いられる。その強調は,方程式の責任の側に,すなわち,第ーに,存在 する権力がなんであれその制限に置かれる。権力とのかかる関係は,より多 くの権力を組織が獲得すればするほど,より多くの注意がかかる権力の立憲 (お) 的方向づけに与えられねばならないことを示唆するo

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そ し て デ ヴ ィ ス ら は,立憲制の理念が,権力の正当な行伎の実現への社会的圧力の結果として 政府以外の大組織にも適用されつつあること,および,立宮、的基準は,倫理 的実践に関するコードや会社の司法的手続きの場合における如く,内部的に 生ずるかもしれないし,または,労働協約の如く外部の圧力集団との公式的

7 ) もしくは非公式的な協定を通じて生ずることを指摘する。なお,デ、ずィスら は,立憲、制の一部として正当な手続きを挙げる。それは,立憲制の重要な系 であり,権力の行伎に際しての条件と,その過度な行伎に関するアッピール のための条件とを定めるのであって,かくて立憲制は,権力に対するチェツ ( 38) クス・アンド・パランシズの手段を提供するのであるo

(20)

以上が,権力と責任に関する方程式をめぐるデヴィスらの所説であるo本

節では,社会的責任をめぐるかれらの見解を追ってきたが,その結果,社会 的責任なるものについてその意志性,理念性,権力相関性,および非規範性 ないし理論性がかなりに明らかになったといいうるO

註(1) Keith Davis and Robert L. Blomstrom, Business, Society and En vironment, 1971.なお,その初版(K.Davis & R. L.Blomstrom Business and Its Environment, 1966) におけるかれらの所説についての検討が高 田教授によってなされている(高田警「経営の目的と責任

J

,昭和45年)口 (2)K. Davis

&

R. L. Blomstrom, Business, Society and Environment,

1971, p.85. (3) Ibid., p.85. (4) Ibid., p.86. (5) Ibid., p.86. (6) Ibid., p.86. (7) Ibid., p.87. (8) Ibid., p.87. (9) Ibid., pp. 87'"'-'88. ( 1日 Ibid.,p.88. (11) Ibid., p.88.

(12) Richard Eells, The Corporation and the Arts, 1967, p.175. (13) K. Davis & R.L. Blomstrom, op.cit., pp.88'"'-'89.

( 1羽 Ibid.,pp. 89'"'-'90. ( 15) Ibid., p.90. (16) Ibid., p.90. ( 1百 Ibid.,p.90. ( 18) Ibid., p.90. ( 19) Ibid., pp.90~91. (20) Ibid., p.91. (21) Ibid., p. 91 (22) Ibid., p. 91.

(21)

(23; Ibid., p. 91. 凶) Ibid., p.92. ( 羽 Ibid.,p.92. (26) Ibid., p.93. 白7) Ibid., p.93. (制 Ibid.,p.94. (2日Ibid.,p.94. ( 30) Ibid., p.94. (31) Ibid., p.95. (32) Ibid., p.95. (33) Ibid., p.95. (34) Ibid., p.96. 旧 日 Ibid., pp.96""97. (36) Ibid., p. 97.

7) Ibid., PP.97"'-'98. (38) Ibid., p. 98.

4

社会的責任と積極的責任 これまでのととろでは,まず二官庁において,現代の大企業が有するところ の権力的特質をリーガンに従いつつ眺めてきた。そして三節においては,そ のような権力を基礎として展開されているところの社会的責任というものに ついて,デヴィスらの所説に依りながらその本質を把握せんとしてきた。本 部では,乙れまでの考察結果を基礎に,社会的責任の本質について若干の検 討を試みることにしたい。 さて,企業ないし経営者の社会的責任についてその本質を把握するに際し ては,まず,社会的責任なる語における「社会的」の意味に関して考察する ことが適切であると,思われるC そこで,初めにこの点について簡単に触れる ことにする。 社会的責任なる語は,ときには,経済的責任に対比される語として用いら

(22)

れるが,それは一般に,公共的責任と同様の意味に,つまり社会もしくは公 共に対する責任の意味に用いられるo この場合,社会もしくは公共とは通 常,漠然とした社会一般を指すよりも,むしろ企業の内外をめぐるさまざま なク勺レープを指しており,具体的にはかかるグループとして,株主,経営 者,従業員,消費者,取引先,地域社会,競争企業,政府,更には一般大 衆,等が挙げられるといえようo社会もしくは公共なる概念は本来は,企業 者或は出資者を意味する私なる概念に対比されるものとして用いられてきた とみて差し支えないが,企業支配からの株主の後退,および株主以外の諸グ ループと企業との聞の相互関連性の高度化に伴って,所有者を私として把え 他のグノレーフ。を社会として把えるという理解の仕方に変化がみられつつある といわねばならないのであるo なお,企業をめぐる諸クツレーフ。の一つにしば しば社会一般ないし一般大衆なる特定クツレープが挙げられるが,乙の場合の 一般大衆とは,それに対して企業の政策決定が間接的に影響を及ぼすところ のク勺レープを指していると解しうるD 例えば,企業の価格政策はその製品の 顧客たる他企業に影響を及ぼすが,かかる影響はしばしば顧客企業で必ずし もすべて吸収されることなく,顧客企業の価格政策にも波及するO こ の 場 合,顧客企業の製品の消費者は当初の企業にとって,一つの利害関係集団と しての一般大衆の一部を形成していると考えられないこともないのであり, 一般大衆なる概念についてのそのような見方がかなりにとられるのであるo つまり,企業の活動に対して直接的な機能的係わり合いをもたないクツレープ が,しばしば一般大衆の名で呼ばれているといえよう, 現代の大企業をめぐっての,公共もしくは社会の概念が,私の概念との聞 に明確な線を引きえなくなりつつあることは,これらの概念についての上述 の如き一般的動向が示唆するように,明瞭である口制度化し,社会的な存在 となっている現代の企業にあっては,公共もしくは社会と明確に対比される ところの私というような観点から企業の本質,目的,或いは指導原理を適切 に論ずることが必ずしも出来えなくなりあるのであって,社会的責任に関し てもそれを私的利益の対立概念として単純には論じえなくなりつつあるので あるD

(23)

しかしながら,デヴィスらも指摘するように,社会的責任もしくは公共的 責任の概念は私なる概念を企業に対して全面的に否定するものではない。現 代の資本主義社会がかつての資本主義社会に比して大幅な変貌を遂げている ことは明らかであるが,しかしながら,それは依然として多元的な社会であ るO 企業は社会における経済的機能を第一次的に担当しており,しかもかか る機能もまた幾つかの企業によって分担されているo企業はその第一次的な 関心をば環境内の比較的に狭い領域に限定しており,また限定せざるをえな いo企業はさまざまなグループと係わり合っており,これらのグループはそ の利益の促進を企業に要求するのであって,この意味では企業は多様なグル ープから構成されるシステムであるが,かかるシステムは,その環境を形成 するところのより大きなシステムとは区別されるo企業システムを椅成する グループの一つに一般大衆なるグループが存在することは明らかではある が,かかるグノレーフ。は,同時に他の企業システムに対しても参加するのであ り,特定の企業のみと結びつくのではない。企業はそれが指向する責任領域 および活動領域に関して限定性を有するのであって,この意味でそれは私的 な側面を有することになるといえようO ただ,現代の大企業にあっても当然 に存在するところのこのような私的な側面は,企業の社会的もしくは公共的 な側面と回然と区別されるものではないことに注意せねばならない。私的利 益と公共的責任との聞の関係について既に触れたところから明らかなよう に,現代の企業における私なる概念は大幅に拡大されており,それは公共或 いは社会の概念とかなりに共通するのであるO 以上のような考察によって,社会的責任における「社会的」の意味は,あ る程度明らかになったといえよう。要するに,社会的責任とは社会に対する責 任,企業システムを構成する諸グループに対する責任であり,それは,伝統 的な意味における私に対する責任とは必ずしも明確に対比しえない責任であ って,私なる概念をもその中に合むところの概念である。かかる責任の本質 的性格は,デヴィスらの所説において明らかなように,企業権力との関連に おいて責任を把握するとき,かなりに解明されうるのであり,つぎに,この 点に関して更に検討を進めようO

(24)

ところで,権力というものの概念についてはリーガンの所説の考察のうち にある程度明らかになったと思われるが,はじめに権力の概念に関して多少 検討を加えておきたい。 権力の概念は論者によってさまざまであり,一般に,権力とは自己の意図 を実現せしめる能力を,また権限とは承認された正当な権力を意味すると解 (1) しうるO 更に権力はその行使の対象がひとであるか,ものであるかに従っ て,ひとに対する権力とものに対する権力とに分けうるO ここでは,企業の 権力に関しては,ひとに対する企業の権力を問題にするとともに, リーガン の所説にみられる如く権力の概念を拡げて,社会のひとびとの生活と利害に 対して特定企業の存在と行動が及ぼす直接的・間接的な影響を問題にするこ とにする。企業がその内外をめぐる諸クツレーフ。に対して,意図的・非意図的 になんらかの影響を及ぼしうるとき,それは権力を有するといいうるのであ って,諸クVレープに対するかくの如き影響力が権力である。 かかる意味の椛力ないし影響力は,ときには,ひとびとの利益を促進し助 長するという形で,また,ときにはひとびとの利益を抑制し侵害するという 形で企業によって行使されるであろう。例えば,従業員に対する企業権力の 行使は,賃金の増大という結果をもたらすかもしれず,また賃金に対する従 業員の要求の抑圧をもたらすかもしれない。企業権力はその作用に関して は,ひとびとの利益を促進するという側面と,利益を抑圧し侵害するという 側面を有するのであって,権力の作用におけるこれら二つの側面,すなわ ち,権力の促進的側面と抑圧的側面を区別することが,企業責任の問題を論 ずるに際して重要であるO 企業と利害関係者との結びつきが密接になってい る現代の大企業をめぐっては,企業による抑圧的な権力ないし影響力の行使 にのみならず,促進的ないしイニシァティブ的な権力の行使に対する社会的 関心が増大しているのであるD かくの如き企業権力に伴って社会的責任が生ずる乙とになるo権力と責任 の聞の関連に関しては既に,デヴィスらの見解を眺めることでかなりの理解 をうることができた。権力と社会的責任とは相関関係にあり,両者における かかる関係は,権力と責任についての方程式と責任鉄則とを通じて大いに明

(25)

らかとなる。しかしながら,責任の本質的性格を把握するためには,権力l乙 対する社会的コントローノレの観点から更に考察を進めねばならないと,思われ るD そこで,企業の社会的責任,企業の権力,およびかかる権力のコントロ ーノレという三者についてその聞の関係を考察するととにより,社会的責任の 本質を検討してみようo まず,企業の権力と社会的責任との聞の関係についていうならば,デヴィ スらの主張にも明らかな如く,権力ないし影響力と社会的責任とは対応関係 にある。権力の存在に伴って社会的責任が出現することになる。この場合,企 業の権力には前述の如き二つの側面が存在することに留意せねばならない。 すなわち,企業システムを桔成する諸クゃルーフ。の利益に対して企業権力がも ちうるところのこつの範Z主の効果,つまり諸クゃルーフ。の利益に対する,権力 の抑圧的側面と促進的・イニシァティブ的側面であるo例えば,企業は従業 員の個人的権利の侵害という形でしばしばその影響力を行使しうる。それは また,従業員の雇用と賃金に関してはそれらの増大に決定的な役割を演じう るのであり,とこからそれは,雇用と賃金との増大に関連する適切な経営政 策の策定を期待されるに至っているO そして企業権力におけるこれら二つの 側面に対応して,企業の社会的責任にも二つの範時が存在することになるの であるD 一つは,企業権力の利益侵害的側面に照応するところの企業責任で あって,これはいわば消極的ないし禁止的な程類の社会的責任である。乙の 消極的な責任は企業はひとびとの正当な利益或いは権利の尊守のために は……をすべきでない"という禁止命令的な文体で表明されるO 消極的な責 任の多くは,しばしば,法によって明文化されているD 責任の他の範時は, 企業権力の利益促進的側面に,もしくは企業に対する諸クツレープの依存性に 照応するところの企業責任であり,これは前者の責任と異って積極的・促進 的な種類の責任であるoこ の 積 極 的 な 責 任 は 企 業 は ひ と び と の 正 当 な 期 待に応えるためには,……をすべきである"という行為奨励的な文体で表現 される。現代の大企業が直面する社会的責任の多くは,乙の程の積極的な種 類の責任を意味するようになってきているO 積極的な責任は一般に,法にお いては必ずしも明文化はされていないといえようO

(26)

乙のように,二つの範鴎の企業権力に照応して二つの範需の企業責任が存 在する乙とになるが,権力と責任の照応に関するデヴィスらの所説に従うと き,これらの権力と責任の聞には量的な対応が存在せねばならない。その権 力ないし影響力が増大している現代の企業にあっては,権力の増大に相応し てその社会的責任の大きさも増大するO 大企業の解体を社会が望むという傾 向は現在のと乙ろは存在せず,企業の影響力は縮少化よりも増大化の方向を 辿るのであって,企業の社会的責任の大きさも企業権力の大きさに比例して 増大するのであるD そして,企業は,社会的に責任ある決定によって権力と 責任の聞の均衡を実現することが不可欠となるのであるO 企業は,その抑圧 的権力の程度に従って消極的責任を理念および実践において受容せねばなら ず,それはまた,その促進的権力の程度に従って積極的責任を認識し実践せ ねばならない。 企業の権力と社会的責任の間の関係については,ひとまず以上の如く述べ るととができるo しかしながら,権力と責任の閣の関係はこれが全てではな い。企業権力のコントローノレおよび正当化の問題が存在するのであって,つ ぎにこの点から権力と責任の問題を考察する必要があるO 企業ないし経営者の社会的責任なる概念に対してしばしば批判がなされて (2) いる乙とは,よく知られると乙ろであるO 乙れらの批判の多くは権力と責任 の聞の照応的関係の存在に対する認識を欠いており,この意味でそのような 批判はデヴィスらも強調するように,誤りを犯しているといわねばならな い。他方,批判のあるものは,かなりの正当性を有するO 例えば,権力のコ ントローノレと正当化の問題の観点からなされる責任概念批判には,かなりの 意義が存在するのであるD 企業権力の正当性とコントロールの問題に対する 考察の欠如が,社会的責任の概念の提唱者のうちにしばしみられるが,立宮、 制の概念に根ざしている現代社会の中で社会的責任の理論が生命を有しうる ためには,それは権力のコントローノレに対する考察を不可避的に伴うのであ る。 さて,既に眺めたように,企業はその二程の権力に伴って二租の社会的責 任を課されることになるo これら二程の責任は,責任ある決定を通じて実践

(27)

に移される必要がある。そして,企業による責任の実践は,企業に権力を付 与せしめることになるであろうD しかしながら,事態は乙乙で止まる乙とに はならないと思われるO 企業に付与されている権力は,それが企業による責 任の実践を伴うとしても,そのままでは必ずしも正当性を有しなし1かもしれ ない。それはまた,それに対する有効な社会的コントロールを欠いているか もしれない。権力と責任の照応の存在は,企業による慈悲深い独裁政治と両 立しうるのであるO かくて,民主主義の理念が普遍的であるところの現代社 会にあっては,企業をめぐる諸ク勺レープの圧力は,企業権力に対する社会的 正当化と社会的コントローノレとの実現を不可避的たらしめるといいうるO 企 業の権力の増大に照応して,権力に対する社会的正当化とコントローノレは必 然的に増大するに至るであろうといいうるのであるO かくて,企業の抑圧的 権力は,企業に対する諸ク,")//ープの対抗的圧力の増大に伴って生ずるところ のさまざまな協定や法の下でコントローJレされるに至るであろうし,企業権 力の促進的側面もまた,代表制支配をはじめとするなんらかの形の立志的方 策を通じてコントローノレと正当化への道を辿る乙とになるであろうO 一つの 結果は,抑

F

的権力の大幅な法的規制と,それに対応しての,消極的程類の 社会的責任における倫理的側面のかなりの減少であるかもしれないD もう一 つの結果は,企業権力の促進的側面に関しての責任体制の確立,とりわけ, そのような権力の正当化つまり促進的な権力の権限化であるかもしれないO 要するに,企業は権力と責任の均衡にのみならず,権力のコントロールと正 当化の側面にも配慮せざるをえないのであり,社会的責任の問題に対して企 業立憲、制の問題が不可分に関連してくるのであるO 企業立憲制については次 節で更に論ずることにするO と乙ろで,権力の増大は権力に対するコントロールの増大を招来し,その 結果は,企業責任に影響を及ぼすのである。企業権力の抑圧的側面は,法や 判例,協定の結果としてかなりに制度的コントローノレに従う乙とになるO む ろん,この場合においても,企業権力はたとえそれがむき出しのままではな いとしても,依然存在するO 伝統的な経済理論における企業は,そのような 権力を保持しないのであるO コントローノレの増大に即応しての抑制的権力の

(28)

制度化は,消極的な種類の社会的責任の倫理的側面をかなりに減少せしめるD つまり,消極的種類の義務に関するところの法律的もしくは制度的責任は, 増大することになり,かなりに明確な形で経営者に提示されることになるの であるO 他方,企業権力の促進的側面は,なんらかの形でのその正当化とコントロー jレに直面するにしても,必ずしも制度化されないような形で存在する。企業 に関係する諸グループの利益の積極的な促進は,企業もしくは経営者の手に まかされるほかはなく,かくて,積極的な程類の社会的責任は,権力に対す るコントローノレの増大にも拘らず,実質的にはその遂行が経営者の裁量に委 ねられるという形で存在することになるO 経営者はかかる責任分野では依然 としてイニシァティブ的な権力を保持するのであり,それに照応して責任の 主体的な履行の義務を課されるのである。そして,ここに社会的責任の主要 な領域が必然的に出現することになる。 権力に対するコントロールの問題をも念頭に置いて権力と社会的責任の関 係を考察するならば,以上のように論じうるであろうO 要するに,企業の社 会的責任は企業権力に関連する概念であるとともに,その実質的領域は企業 の促進的権力と結びつくのであるO 企業の社会的責任は,広義には法律的な 責任を含み,法律的な責任は,消械的な種類の企業責任に主として関述す る。しかしながら,社会的責任の本質は,むしろ,イニシァティブ的な企業 権力と企業責任の相関関係の問題の角度から迎切に把握しうるのであり,こ の限りでは現代の大企業における社会的責任の本質は,イ合理的な栢:類の責任 と主として係わり合うのであって,かかる責任とは,積極的な程類の企業責 任であるo企業権力の積極的側而はたとえそれが正当化され権限化されるに しても,企業の主体者としての経営者の主休的立志に基いて行使されざるを えないのであって,企業システムをめぐる諸グループの利益の促進は経営者 の芯志決定に基本的には依存せざるをえないのであるO 以上,本釘jで考察してきたところによって,社会的責任の基本的な性格が かなりに理解されえたと考えられるO 最後に,そのような責任と企業目的と の関述について触れておくことにする口

(29)

既に触れた如く,企業の社会的責任は企業の権力ないし影響力に関連して 生ずるのであり,社会的責任の程度もしくは大きさは権力の大きさによって 規定されるのであるが,かかる社会的責任はデヴィスらもいう如く,企業行 動の理念として作用するo それは社会的に責任ある決定を通じて実践へと移 されるのであり,そのような決定によって企業権力と社会的責任との対応が 実現される乙とになる。 企業は社会的に責任ある決定によって社会的責任を実践するが,かかる実 践の結果として,企業をめぐる諸グループの要求,もしくは社会の目的が実 現されることになる。乙の場合,社会的目的の実現は,企業が第一次的には 社会の経済的機能の担当機関であることから,経済的な程類の目的を中心と してなされるであろうD 社会的責任は企業行動の理念として経済的ならびに 非経済的な諸分野における企業行動を支えるのであり,かかる行動の結果と してこれらの諸分野における社会の要求が充足されるのであるが,そのよう な充足ほ,多元的な社会の中で企業が担う機能の遂行の過程において実現さ れざるを得ず,こ乙に社会的目的と関連するところの社会的責任と,企業目 的との聞に内容的な相違を認めうるといえよう。社会的責任の理念に支えら れ,もしくは制約されて企業はその目的を追求し,企業目的の達成に支えら れて社会的目的は実現されることになるが,企業目的と社会的目的もしくは 社会的責任とは内容的にはイコーノレの関係にあるとはいえず,後者は前者に 比して広い内容を有するのである。企業目的は主として,諸グループの要求 のうちの経済的ないし貨幣的側面に係わり合う一方,社会的責任は諸クツレー (3) プの要求の経済的側面のみならず非経済的側面をも包含するといえようO 註(1) 権力の概念については,前掲拙稿を参照のこと。 (2) 社会的責任の概念に対する批判については,拙杭「社会的立任と責任否定論

J

, 経営と経済, 125号,を参照のこと。 (3) 目的と責任の内容的関連については,拙稿「企業目的と社会的責任一一両者の 関連についての一考察一一

J

,ビジネス・レビュー, 19巻2号,を参照のとと。

参照

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