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本文/日下部 有希(P1‐32)

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カンボジアにおける教育政策 1

1―2

6年

――政治権力と政策の安定化に関する考察――

日下部

有希

(山本研究会4年) はじめに ! 先行研究と本稿の分析枠組み " 国際支援・政治状況・教育開発―1991―1993年 "―1 UNTAC 統治下のカンボジアの政治状況 "―2 政権移行期の教育政策の状況 # 連立政権と教育政策の不安定性―1993―1997年 #―1 カンボジア人民党とフンシンペックの連立 #―2 「教育投資計画 1995―2000」 #―3 連立政権と教育をめぐる政治 $ 政治権力の変化と教育政策の安定化―1997―2006年 $―1 1997年政変・第2回総選挙・連立政権 $―2 1999年 SWAp に基づく教育改革 $―3 教育政策 ESP と ESSP の策定 $―4 人民党の優位と教育政策の安定化 むすび

はじめに

1999年は、カンボジアの教育政策にとって新たな一歩を踏み出した年であった。

カンボジア教育省(Ministry of Education,Youth and Sports:以下 Moeys)による教 育改革がセクター・ワイド・アプローチ1)(Sector Wide Approach:以下 SWAp)

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ている。 カンボジア政府が教育改革を実施した背景には、1990年代の教育分野に対する 多大な国際援助や、国家の開発フレームワークに沿うような教育政策が策定され たのにもかかわらず、成果が芳しくなかったことへの反省があった。特に、1970 年代のポル・ポト政権下で大きな打撃を受けた教育分野は、カンボジア政府・教 育省による教育政策および計画の策定・実施面での能力不足が原因となり国際援 助機関に依存する傾向があった。先行研究においても、カンボジアの教育政策が ドナー主導の形で作成されているとの指摘がある(加藤1998;清水1999)。また、 カ ン ボ ジ ア 開 発 評 議 会(Council of the Development for Cambodia:以 下 CDC)2)

2004年に提出した1990年代の教育分野の状況を表した報告書3)(GDPWG24) は、プログラム実行段階における乏しい成果(プログラムの重複などの非効率性な ど)に教育改革の至った背景をみている。同報告書においても、1991年からの10 年間、教育分野にドナーによって多大な援助が注入されたことが述べられている。 こうした1990年代の教訓を背景として、ドナー依存傾向からの脱却を図り、教育 政策の計画、実施をカンボジア政府・教育省のオーナーシップのもとに確立する ことが教育改革の目的のひとつであった。 1999年の教育改革の結果、教育省は二つの教育政策枠組みを策定した。一つは

教育戦略計画(Education Strategic Plan:以下 ESP)であり、カンボジアにおける 包括的かつ唯一の教育政策の枠組みとした。もう一つは、ESP の計画を実現す るための具体的内容としての教育セクター支援プログラム(Education Sector Sup-port Program:以下 ESSP)であった。ESP、ESSP という土台を中心に、カンボジ ア政府は国際支援の調整を本格的に開始することとなった。2年間の準備期間を 経た2001年以降、教育省は4年計画として ESP を策定し、これまで ESP2001―2005、 ESP2004―2008、ESP2006―2010の三次にわたり実施してきた。CDC、UNICEF(United Nations Children’s Fund:以下 UNICEF)、アジア開発銀行(Asian Development Bank: 以下 ADB)4)は、その報告書において、20年以降の教育政策の継続性を高く評価 し、カンボジアにおける教育改革を成功例として認識している(GDPWG2004; UNICEF2006;ADB2004)。各機関の意味する成功の内容はそれぞれの機関が力を 入れている教育の分野によって少しずつ異なるものの、評価点は三点にまとめる ことができる。すなわち、教育省の主体性の向上、教育援助に関わる主体(教育 省や援助機関)の調整機能の改善、そして教育政策と実施の持続性の三点である。 たしかに、2000年代に入りカンボジアにおいて教育改革を実施する要因は揃っ 政治学研究40号(2009)

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ていたということができる。先行研究および援助機関による報告書が指摘してい るように、カンボジアの教育分野におけるドナー主導の構造が1990年代の教育分 野の成果の低さをもたらした。ドナー間にとっては協調システムの確立を、カン ボジア側は政策作成における主体性の発揮を目指した。双方の大義の組み合わせ によって援助の効率性の向上を図った帰結が教育改革であった。 成功例といわれる一方で、教育改革後の教育政策に関連する研究を踏まえると、 1990年代と比べて教育省側の教育策定段階における関与は大きくなったものの、 実際にドナー主導の構造に変化はみられない(清水2006;Dy2003;羽谷2006)。 1999年の教育改革は現に教育省のイニシアチブに基づいていたが、当初 SWAp

推進の旗振り役は ADB であり、UNICEF も SWAp 導入に向けた国内セミナーを

行うなどドナー主導の構造は維持されていた。たとえば、1999年改革の目玉であ

る ESP、ESSP の策定も ADB の支援を受けて作成された。また、基礎教育に重 点をおいた EFA2003―2015(Education For All 2003―2015)はスウェーデン国際開 発 庁(Sweden International Development Agency、SIDA)が 主 体 と な っ て い る が、 その背景には UNICEF が主導性を発揮している。 しかし、先行研究からは教育改革が行われた1999年というタイミングを説明す ることができない。先行研究の多くは、教育分野に SWAp による改革が遂行さ れたことを受けた改革後との比較のため、主に改革前の問題点ばかりに目を向け ており、1999年のタイミングを説明し切れていない。ドナー主導という構造が変 化していない中で、カンボジアの教育分野において1999年に教育改革が遂行され たのはなぜだろうか。同時に、教育改革後に教育政策が安定するという変化はな ぜ可能となったのかという疑問が生じる。先行研究の多くは、ドナー間協調によ る援助効率向上の必要性やカンボジア政府の教育政策に対する主体性の欠如のみ に求めてしまっており、それでは教育改革がなぜ1999年に行われえたのかという 必然性は説明できないのである。 教育改革が実施されたタイミングを理解するためには、カンボジアの教育政策 が1990年代にたどってきた道筋を再考する必要がある。本稿では、ドナー主導構 造以外に教育政策の変化についての説明要因を探ることで、1999年教育改革を分 析する。先行研究はドナーの要素をもってカンボジアが外部から受ける影響に注 目しており、カンボジア国内の状況が教育に与えうる影響を軽視している。教育 政策をめぐる1990年代と2000年代の国内要因の違いは、1997年の政変に端を発し ている。すなわち、1997年政変によって、1990年代のカンボジア人民党5)とフン

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シンペック6)の力関係の対等な連立政権は、限りなく一党優位制に近い人民党優 位の連立政権へと変化したのである。 そもそも教育政策は国内政治権力構造が教育政策の幅を規定していた。1990年 代に、教育が政党指導者の政治的目的に利用され、教育に対する個人的な行動を みることができる。1993年の第1回総選挙で権力基盤を確立することのできな かった人民党が教育の政治化を図ったと考えると、政権が不安定な状態で、教育 政策もまた不安定であった。1998年の第2回総選挙を経て、人民党優位の政権が 現在まで安定して継続している中では、教育政策も ESP が継続的に安定してい る。つまり、政権の不安定・安定性は教育政策の不安定・安定性をもたらす基本 要素なのである。 そこで本稿では、教育改革のタイミングおよび教育政策の安定化を国内政治権 力の変化の観点から分析をする。本稿の構成は以下の通りである。第1節で、先 行研究との比較を行い本稿の独自性を示すとともに、本稿の分析枠組みを提示す る。第2節では、1991年のパリ和平協定以降から1993年の第1回総選挙による連 立政権の発足までの間のカンボジアにおける政治状況と教育事情について述べる。 第3節では、総選挙後に発足した人民党とフンシンペックによる連立政権の特徴 を整理しつつ、不安定な政治状況の下、教育分野が政治化していった過程を明ら かにする。第4節では、教育改革の前年1998年に行われた第2回総選挙前後にお ける権力構造の変化、すなわちカンボジア人民党とフンシンペックの対等な二党 によって構成される連立政権から、人民党優位の連立政権の成立への変容を経て の教育改革に至るまでを追う。最後に1999年に始まる教育改革、その後の3年弱 にわたっての新たな体制作り、そして2002年以降の ESP、ESSP の諸教育政策の 実施にいたるまでの教育政策の安定化を扱う。同時に、カンボジアの政治状況の 安定化、そしてそれに呼応する形での国際援助機関の動向について論じる。以上 を踏まえた上で、1999年の教育改革の必然性、そして国内政治と教育政策との関 係性を明らかにしたい。

! 先行研究と本稿の分析枠組み

1999年の教育政策改革のタイミングを理解するためには、ドナー主導の政策過 程に注目してきた先行研究では不十分である。成果が乏しいとの批判を受けた 1990年代の教育政策だけではなく、一定の評価を得ている1999年の改革以降の教 政治学研究40号(2009)

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育においても、ドナーは一貫して援助という形で影響を与え続けている。1990年 代および2000年代の教育政策の背景をドナー主導の構図に依存してきた先行研究 は、何を見逃してきたのだろうか。本節では、ドナー主導の教育政策を過大評価 してきた先行研究を批判的に整理することで、本稿全体の分析枠組みを提示する。 教育政策にかぎらず、カンボジアの再建には二つの背景があるために、ドナー 主導の国際援助体制が成立した。第一に、長く続いた内戦で疲弊したカンボジア が開発資金を自国ではまかなうことができないため、財政的に外部に依存してい た。第二に、開発を推し進めるための計画・実施能力をカンボジア政府が持ち合 わせていなかった。このような財源不足と政策立案・実施能力の欠如の結果、カ ンボジア再建がドナー主導で行われることになった。 なかでも教育政策はドナーの主導性が顕著な領域である。復興期におけるカン ボジアに関する研究でも教育政策に対する関心は高い。特に政策策定過程に着目 するものが多く、ドナーの主導性が強調される傾向が強かった。そこには二つの 特徴を指摘することができる。第一に、教育改革以前の教育プロジェクトは、各 ドナーの援助政策が前提となっていた。そのために、優先分野および援助対象領 域は各ドナーが独自に選択するという構図になっていた(加藤1998:231―232)。 こうしたドナー主導の政策には弊害がともなっていた。ドナー同士によるプロ ジェクト調整の場がなかったことから、内容の重複するプロジェクトが実施され るなど政策の非効率性が散見されたのである。第二に、官僚の政策立案能力の不 足から、教育省レベルでの政策立案はドナーから派遣されるアドバイザーおよび コンサルタントが請け負うことになった。この体制は教育改革後も存続し、カン ボジアの主体性を阻害する要因となっている。以上を要するに、先行研究の問題 は、良くも悪くもドナーの意向を反映する教育政策を過大評価する結果となって いる点にある。 しかしながら、先行研究には教育政策の策定過程に着目することが多いものの、 政策の実施過程を軽視してきた事実は否めない。それゆえに1999年教育改革の意 義を過小評価している。実際には、政策作成におけるドナー主導の構図に変化が ない一方、1990年代と2000年代では政策の実施主体には変化がみられる。実施主 体の変化とは、二大政党である人民党とフンシンペックの関係の変化を指す。実 施段階におけるプロジェクト間の協調性の低さを指摘してきた先行研究は、ド ナー主導の構造を批判することに集中するあまり、カンボジア国内の実施主体の 多様性および力関係の変化を軽視してきた。現実には、1998年以降カンボジアの

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政策実施主体は多様になり、それらのあいだで新しく構築された力関係は政策の 実現に影響をあたえるようになった。 本稿では、1999年の教育改革にみられる教育政策の内容および政策に関わるカ ンボジア国内における主体間の関係の変化に注目する。その上で、ドナー主導と いう構造には変化がないにもかかわらず、なぜ1990年代には政策が不安定であり、 2000年代には安定化に向かったのかという問いに答えるために、人民党の権力基 盤の確立がもたらした政権の安定化と教育政策の安定化との関係に注目する。ま た、こうした教育政策の変化の過程を示すために、本稿では1991年のパリ和平協 定から2006年にかけての時期を扱う。 本稿は、教育政策の変化を政策策定過程ではなく、カンボジアが主体性を発揮 する政策実施過程にあると考える。つまり、教育政策の安定を政策の継続性だけ ではなく、政策の実施過程における安定性に求めるのである。これらに加えて、 本稿は、政権の安定性と方向性を規定する政党政治のダイナミズムも射程にいれ る。 本稿の視点は従来の研究とは異なる強調点を有する。第一に、本稿はカンボジ アの教育政策の安定化要因を国内政治に求める。先行研究において、カンボジア の教育政策のドナー主導性が強調されてきた。たとえば、清水(2006)は、教育 改革の成功によってもたらされた近年の教育政策について論じるとともに、改革 においてドナーの支援が不可欠であったとする。教育改革の背景にドナー依存で あるカンボジア側の能力不足があり、改革は教育省に主体性をもたらしたとする が、改革を挟んでも依然として政策策定に関してはてドナー主導であるとしてい る。同時に、改革における教育省の主体性向上を指し、当時劣勢であったフンシ ンペックの勢力拡大の思惑の結果であった、と議論している。しかし、清水の議 論では、ドナー主導という政策をめぐる構造に変化がないにもかかわらず、教育 政策改革が可能となった事実を説明することはできない。改革をフンシンペック の勢力拡大の機会と位置づけることは、人民党優位の連立政権の背景を軽視する と共に、1990年代の連立政権下の教育状況を考慮していない結果である。本稿で は、改革の前後で一貫して存在するドナーの主導性ではなく、カンボジア国内に おける二大政党である、人民党とフンシンペックの政治的対立による国内の権力 構造の変化と教育改革の関係に注目する。 第二に、本稿は教育政策をめぐる主体の多様性に着目する。従来の研究では、 ドナー対カンボジア政府という従来の二項対立的な枠組みに囚われていた。これ 政治学研究40号(2009)

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に対して、本稿では、教育に関わるドナー間の競合関係のみならず、カンボジア 内でも政権、官僚組織、政治政党、政治指導者という多元的・多様な主体が存在 していた点を整理する。 第三に、本稿では教育政策の策定過程と実施過程とを区別する。前者では教育 政策だけではなく、教育をめぐる政策策定過程が含まれる。後者は政策実施過程 における政治の介入、つまり教育をめぐる政治を指す。本論文で扱う教育政策と は、中・長期的に取り組まれる教育計画を指している。一方、教育をめぐる政治 とは短期的側面を持ち、1990年代のフン・セン首相の学校建設等に代表されるよ うな選挙の際の集票を目的とする個人的な行動をその対象とする。1990年代にお ける教育政策の停滞と混乱は、教育の政治化の産物である。換言すると、教育が 非政治化されることで、教育政策の安定化は可能になると推測できる。

! 国際支援・政治状況・教育開発―1991―1993年

本節では、第1回総選挙が行われる以前における UNTAC 統治下のカンボジア 国内の政治、および教育がどのような状況にあったかを検証する。国内紛争後の カンボジア復興は、高い国際的関心を集めており、1990年代前半において国連の 下で平和構築を試みた数少ない事例であった。主要なドナーは、和平協定策定の ための国際会議を組織し、協定成立後も、定期的な会合を通して、一貫してカン ボジアに対する援助を進めていくこととなった。 !―1 UNTAC 統治下のカンボジアの政治状況 1970年のポル・ポト(Pol Pot)によるクーデタを発端として約20年にも及んだ 内戦はパリでのカンボジア和平合意で収束に向かった。和平合意に基づいて、カ ンボジアの平和構築および民主化を目的とした国際的な支援の枠組みが正式に 定ったのである。1991年10月に締結されたパリ和平協定は1988年から継続してい たカンボジア紛争四派、カンボジア人民党、フンシンペックの他、クメール人民 民 族 解 放 戦 線(Khmer People’s National Liberation Front:KPNLF)7)、ク メ ー ル・

ルージュ8)による交渉の結果であった。協定締結の5カ月後の翌年3月には国連

カンボジア暫定統治 機 構(United Nations Transitional Authority in Cambodia:以 下 UNTAC)による統治が開始された。しかし、紛争四派のパリ和平協定への合意は

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とを受け入れたのも、国際的な圧力が理由であり(Shoesmith1992:4)、結果と して四派の対立は継続していた。 では、UNTAC 統治下において国内政治はどのような状態だったのであろうか。 結論としては、国内政治の実権は人民党が握っており、四派の和解は危ういもの であった。Ayres(1998)によれば、パリ和平協定に沿ってカンボジアの国内政 治権力を三つに分類することができる。その三つとは、UNTAC、1989年まで継

続していたカンボジア政府(State of Cambodia:以下 SOC)9)、そして最高民族評

議 会(the Supreme National Council:以 下 SNC)で あ る(Ayres1998:3)。UNTAC は内戦後の和平プロセスを監視する国際的ミッションとしての役割が特徴的だっ た。主な役割は、制憲議会選挙の実施とそれまでに必要な平和維持、行政機構の 整備、難民支援のための活動を行うことであった。ベトナムの傀儡政権と呼ばれ ていた SOC では、人民党が与党となってクメール・ルージュと対峙していた。 SNCは、移行期間中の「主権、独立、統一を含んだ唯一の正統機関と権威の源」 として、パリ和平協定後にカンボジア四派によって組織された10) 形式上、UNTAC は完全な中立を確保すべく、存在するすべての行政組織の権 限を代行する立場にあった。しかし現実には UNTAC の周りで職務を行ったのは、 1989年までカンボジアにおいて権力を握っていた SOC であった(Doyle1995: 35)。すなわち UNTAC 統治下において、かつての与党であった人民党の支配力 は継続しており、SNC は実質的に機能していなかったと言える。 !―2 政権移行期の教育政策の状況 1990年代の教育政策は、ポル・ポト政権下で崩壊した教育制度の再建という側 面を持っていた。1975年から1979年の間、ポル・ポト政権は、知識層(医師、教 師、官僚など)を大量に粛清した結果、有用な人的資源を失うことになった。ポ ル・ポトの思想は農本主義を根底とした原始共産主義であり、工業や産業を持つ こと自体、貧富の差に繋がるという内容であった。そのため政権奪取後は、国民 を首都プノンペンから追放し農村部に強制移住させ過酷な労働を強いた(チャン ドラー1994:14)。ポル・ポトは共産主義以外の思想・文化・教育の一切を否定し、 結果としてカンボジアの教育システムは僅か4年のうちに大打撃を受けることと なる。特に、知識層の粛清は、ポル・ポト政権後も教育の担い手の不足という形 で負の影響を残す結果となった。このような背景のもと、カンボジア政府は、パ リ和平協定以降の復興の際に、教育に高い優先度を与えることになった。 政治学研究40号(2009)

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Ayres(1998)による UNTAC 統治下の教育分野の様相についての記述から、二 つの特徴を捉えることが出来る。第一に、UNTAC は、1993年総選挙が自由かつ 公正に実施されるべく、中立的な政治環境の創出に焦点を合わせた活動をしてお り、教育分野には一切介入をしなかった(Ayres1998:4)。消極的な UNTAC に 対して、人民党優位の SOC が教育分野への干渉を継続した結果、教育分野にお いて新しい試みはほとんどみることができない。数少ない試みの一つとして、カ ンボジア四派の代表から構成された教育委員会の開催があったが、その活動は表 面的性格が強いものであった。例えば教育委員会の役割は教育政策に関する勧告 のみに限られ、教育省の組織に対する直接的な管理には人民党以外は手出しをで きない状態であった。 第二に、この時期の教育分野に対する援助は明確な方向性をもたないまま、緩 慢に続いていた。国際援助機関や他国による援助が正式に開始されたのは1991年 のパリ和平協定以降であったが、本格的な援助は1993年選挙の結果を待ってから のスタートであった11)。選挙の前にプログラムを実施しても、選挙後に発足する 政権の政策方針が定まらなければプログラムの運営に支障をきたすという懸念が あったためである。同様の理由から、UNICEF は1993年に教育計画(Education Plan)を作成し、教育分野における国家的な懸案事項を指摘したものの、プログ ラムの実施を見送っている。UNICEF の例にみられるようにプログラム実施の際 への影響を想定して、教育分野への援助はこの時期ほとんど行われず、国内の政 策も存在していなかった。 本節では、UNTAC 統治下でかつての SOC の与党である人民党の実質的な支配 が継続したことを示した。カンボジア紛争四派は、パリ和平協定の調印をもって SNCの枠組みの中にくみこまれたものの、依然として1993年総選挙を控えて対 立状態であった。UNTAC の役割が中立的な政治環境を作り出すことに終始して いたことと、選挙の結果を懸念したドナーの思惑によって教育分野への援助はほ とんど手付かずの状態であった。UNTAC の下で継続して権力を有していた人民 党は、1993年総選挙でその権力基盤に変化が生じた。次節では、いったん権力基 盤が揺らいだ人民党と権力を握る好機を得たフンシンペックの二党の政党政治の 下で教育政策が受けた影響を検証する。

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! 連立政権と教育政策の不安定性―1993-1997年

1993年総選挙直前後から1995年前半は、新たな政府としてスタートをきったカ ンボジアにとって本格的な国家開発のための計画の準備段階と捉えることができ る。その間、ドナーはそれぞれ個別にプロジェクトを実施していたが12)、複数の プロジェクトをバラバラに実施することの弊害が顕在化すると、国家全体として 長期的視野にたった開発フレームワークを作成する必要性を認識するようになっ た。特にドナー側は、急増する援助間の重複を回避し、効果・効率性を高めるこ とを目的とするようになった。カンボジア政府がこのようなドナー側の問題意識 を共有した結果、1995年以降、カンボジア政府とドナーは、全体およびセクター 毎の戦略的計画に基づくプロジェクトの実施を図るようになった。 1990年代後半以降、カンボジア政府は、教育分野を国家開発フレームワークと の関係を意識して実施するようになったといえる。ただし、総選挙後、連立政権 が組織されることにより、教育政策は迷走を深めていった。本節では、1993年総 選挙後、フンシンペックと人民党とが緊張関係を帯びていく過程で、教育政策が 如何に形成され、実施段階においてどのような不都合が生じていたかを検討し、 政権の不安定と教育政策の不安定の関係について検証していく。 !―1 カンボジア人民党とフンシンペックの連立 1993年5月に行われた第1回総選挙の結果、フンシンペックと人民党による連 立政権が誕生した。比例代表制の選挙制度の導入直後から、連立政権の成立と、 連 立 政 権 に お け る 人 民 党 の 優 位 は、大 方 の 予 測 す る と こ ろ で あ っ た(Ayres 1998:6)。しかし実際には、人民党有利の予想に反し、選挙で勝利を収めて第 一党に踊りでたのは、王党派ノロディム・ラナリット(Norodom Ranariddh)が党 首を務めるフンシンペックであった。国連の監視のもとで「自由かつ公正」な選 挙という評価が発表されたにもかかわらず、敗北を受け入れられないフン・セン

(Hun Sen)率いる人民党は、選挙結果の無効性を主張した(Doyle1995:72―74;Peou 1997:73―74;Shawcross1995:20―29)。

当事者による様々な交渉と、国王ノロドム・シハヌーク(Norodom Sihanouk)

による仲介の結果、政治的妥協案としてフンシンペックと人民党による連立政権 が発足した。フンシンペックのラナリットが第一首相を、人民党のフン・センが

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第二首相を務める「二人首相制」という形で、政権を運営するという合意に達し たのである。両首相は同時に、国防大臣および内務大臣をそれぞれ兼任すること になり、首相府、国防省と内務省は二人の長を持つことになった。それ以外の大 臣ポストは両党にそれぞれ10省ずつ割り振られ、教育省のトップを占めたのはフ ンシンペックであった。同年9月23日には、民主国家として機能するために必要 な要素を盛り込んだ新憲法が公布された。翌24日にはシハヌーク国王を国家元首 とする「カンボジア王国」が、新たな国家としてスタートを切った。 第1回総選挙におけるフンシンペックの勝利は、第2節で述べたようにパリ和 平協定の前後において政治権力の中枢にあった人民党の優位を覆すことになった。 人民党は、カンボジア国内の紛争四派の中立を確保する役割を持った UNTAC 統 治下で、実質的に力を維持してきた。総選挙後も引き続き支配的な立場を維持す るはずであったが、国際的な圧力の下で展開した連立交渉の結果、人民党はフン シンペックとの権力分有を受け入れなければならなった。すなわち連立政権の発 足は、人民党にとって80年代そして UNTAC 下で有していた権力基盤を一旦手放 さざるを得ない状況になったことを意味していた。 連立政権の成立は、表面上の対等な力関係にもかかわらず、水面下での両党の 権力争いの余地を残しており、カンボジア政治の不安定化につながった。一方の 人民党にとって、連立は独自の権力基盤の確立を阻害するものであり、他方のフ ンシンペックにとっては、人民党に対する影響力を確立するための好機となった。 換言すれば、政治情勢が悪化する過程は、人民党の権力基盤確立への道筋である とも捉えることが出来る。権力基盤の確立をめぐって教育が政党指導者の政治目 的に利用されることになるが、その内容は3節3項の中で詳述する。次項では、 パリ和平協定に先駆けて進んでいた国際的協議の過程と、第1回総選挙後の連立 政権の下で策定された教育政策の特徴を検討する。 !―2 「教育投資計画 1995―2000」 カンボジア政府が新政権設立準備に追われる中、ドナーは開発目標や優先分野 が明確でなかったことを踏まえて1991年から1993年までの援助方針を決定した。 1991年の第1回パリ和平会議13)の結果、日本・オーストラリアの共同議長による 第三委員会(難民復帰と復興を担当)の設置が決まり、カンボジア復興を今後国 際的な支援の下に進めていくこととなった。翌1992年6月の「カンボジア復興閣

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UNDP])においては、中長期的な復興援助の調整メカニズムとして閣僚レベルの 「カ ン ボ ジ ア 復 興 国 際 委 員 会」(International Committee on the Reconstruction of Cambodia:以下 ICORC)14)の年次開催が宣言された。ICORC の開催決定によって、

第1回パリ和平会議で確認されたカンボジア復興が国際援助の下に実施されるこ とになった。ICORC の場では、カンボジア政府が国家開発フレームワークをド ナーに提示し、一方のドナーが政府に情報提供もしくはアドバイスを行った。た だし、このような ICORC の在り方が根本的に意味したのは、ドナーがカンボジ アの今後の開発を主導することであった。1994年3月の東京における第2回 ICORCは、総選挙後初めての国家開発フレームワークとして国家復興開発計画

(National Program to Rehabilitate and Develop Cambodia:以下 NPRD)を採択した。 国家開発フレームワーク同様、ドナーは第1回総選挙後の教育政策の策定をも 主導した。その代表的な政策が、教育省が1994年12月に ADB の支援のもとに作 成した、基礎教育を重視した教育政策「教育投資計画 1995―2000」であった。1994 年以降、ドナーによって数多くのプロジェクト形成が行われ、先行していた NGO のプロジェクト15)との重複や、さらにドナー間での援助プロジェクト調整の必要 性が表面化した。そこで共通した目標である教育マスタープランを作成した上で、 どのプログラムに対する援助をどのドナーが行うかといった青写真を示すことが 教育分野においては喫緊の課題であった。基礎教育分野への財政支援を行ったの は主に EU、SIDA(UNICEF を通じて)、ADB であった。最終的に「教育投資 計

画」が教育政策として成立するまでの教育援助の調整をめぐっては、1994年から の UNESCO を中心とした国連機関と ADB がドナー間の牽引役を担おうと試みて きた。 基礎教育分野への拡充に関しては、世界的な教育開発戦略の合意16)と時期的に も一致していた。1990年代以降 UNESCO は「基礎教育普遍化」に関する国内セ ミナーをカンボジア国内に対しても開催し、基礎教育の普遍化にむけた取り組み を政策に盛り込むよう 教 育 省 に 対 し て1993年 に 政 策 提 言 を 行 っ た(UNESCO 1993)。さらにその後、UNICEF と共同して教科書開発や教員養成などといった 個別の問題に関する教育セミナーを開催し、意見交換等を通じてカンボジアに対 する援助ニーズを調査している。

UNESCOは、1994年1月、同機関主催の国家教育セミナー(National Education Seminar)において、調査結果に基づいて今後実施すべき教育プログラムとその 投資金額を示した報告書「カンボジアの質的な教育・訓練の再建(Rebuilding

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ity Education and Training in Cambodia)」を、教育省に対して提案した。同報告書 には、プログラム作成にあたってカンボジア国内から12の関係省庁職員そして10 の州と自治体の代表者が関わり、そしてとくにカンボジア教育省大臣のウン・ フォト(Ung Huot)の支持をうけて報告書が作成に至った、との記述がある17) このセミナーの趣旨は、同年3月に開催される第2回 ICORC 会議において教育 分野での開発計画を提示することを目的とし、プログラムの優先項目を事前に国 内において採用しておくことにあった。実際に、ICORC 会議に国家開発計画が 提出される直前の同年2月には、議会が同報告書を承認した。 UNESCOが提示した報告書は教育政策のフレームワークとして位置づけられ たが、プログラムの実施レベルの調整計画として役割を担ったのが ADB による 「教育投資計画 1995―2000」であった。ADB は、1994年に投資計画を作成するた めの専門家を派遣し、各セクター調査を行った。最終的には同年12月に ADB の

支援によって、教育省はドナー会議(Education Donor Round Table)を開催し、教 育政策としての教育投資計画を発表した。 教育投資計画以外では、カンボジア政府は各ドナーによるプロジェクトの重複 を、CDC の設置によって解消しようとした。海外からの援助資金を一元的に管 理する枠組みが存在していなかったため、和平協定後の援助プロジェクトは各々 の援助国・機関の価値判断に基づくことになった。同時に、援助を通してカンボ ジアの政策形成および実施能力の強化につなげていくことは、UNTAC 解散後の 課題であった。こうした事態に対する政府側の取り組みとして、外国援助と民間 投資を一元的に扱う CDC を1993年12月に新設した18) 表1 各計画の位置づけと役割 位置づけと役割 ・教育政策のフレームワーク ・第2回 ICORC における承認 を視野にいれたもの ・国家の開発ビジョン(全般 的な国家の開発指針と目標 の設定) ・第2回 ICORC で承認される 「カンボジアの質的な教育・訓 練の再建」の第2回 ICORC に おける承認を受けて策定され た実施計画 出典:「公共投資計画 1997―1999」(1996)、「教育投資計画 1995―2000」(1994)をもとに筆者作成 作成官庁(協力機関) 教育省(UNESCO) CDC(UNDP) 教育省(ADB) 計画名 「カンボジアの質的な 教育・訓練の再建」 「国家復興開発プログ ラム(NPRD)」 「教育投資 計 画 1995― 2000」 年 1994年1月 3月 12月

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この評議会の目的は、カンボジアに対する公的投資だけでなく、民間投資をも

包括的に管理、促進することにあった。1993年総選挙後の CDC は、フンシン

ペック・人民党の両首相が理事会(副議長と8名の委員)の議長として立ち、外

国援助を担当するカンボジア復興開発委員会(Cambodia Rehabilitation and Develop-ment Board:以下 CRDB)と民間投資を担当するカンボジア投資委員会(Cambodian Investment Board:CIB)の二つの実行委員会を下部組織に抱えた。 1995年6月の閣僚評議会の「CDC の機構と機能」を定める準法令によれば、 CRDBは!援助調整と広報、"文書と情報、#二国間援助管理、$多国間援助管 理、%国連開発計画(UNDP)および国連機関援助管理、&NGOs との連絡調整、 'プロジェクト評価、(庶務を担当する8部からなる。二国間援助管理部は、! 日本およびアジア、"フランスおよびヨーロッパ、#オーストラリアおよびオセ アニア、$アメリカを担当する四課に分かれていた。また、多国間援助管理部は、 !アジア開発銀行、"世銀・IMF、#ヨーロッパ連合を担当する三課から構成さ れていた。援助国・機関ごとに CRDB の部・課が配置されているのは、それぞ れの援助機関の特有な援助手続きを理解し、援助の実施をスムーズに行うためだ と考えられる。 1998年の時点では CDC がカンボジア国内で行われているプログラムすべての 把握は十分であるとは言えず、国内で活動する NGO やボランティア組織の活動 を把握しきれていないといった点も指摘できる。しかし CDC に設けられている 国および機関担当課は、カンボジア政府の要請とドナー側との意向を調整する役 割を担っており、カンボジア側で一元的に援助プログラムを管理しようとする試 みは評価できるだろう。 以上、1993年の総選挙後ドナーに主導される形で立案された「教育投資計画」 について述べてきた。国家教育セミナーの開催から僅か1カ月で教育政策のフ レームワークが採用された過程で、どれほどカンボジア政府・教育省の中で議論 が尽くされたかは不明である19)。この時期の教育政策は ICORC 会議を多分に意 識したものであり、国際援助機関の承認に重点が置かれていたことが伺える。ま た、同セミナーにおいて教育相ウン・フォトが教育政策の優先項目を打ち出した ものの、その基となった資料は教育省の官僚が作成したものではなく、UNESCO が用意したものであった(Ayres1998:11)。ドナーの主導性を体現する ICORC で、「教育投資計画」の承認はいわば当然である。このように、教育政策の作成 政治学研究40号(2009)

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過程におけるドナー主導構造には疑いの余地がない。 しかし、ドナー主導という観点では、政策実施段階での主体の多様性を軽視し がちになる。1993年はカンボジアの教育政策に新しい主体をもたらす契機であっ た。第1回総選挙によって連立政権が組まれることになり、政党政治が教育政策 でも無視できない要素となった。教育にかかわる主体を整理すると、プロジェク トを各自で行うドナーのほか、教育省、二大政党の政党指導者の存在が浮かび上 がる。以下では、ドナー以外の政策実施主体に注目して1990年代の教育政策が不 安定になった要因を探り、不安定な政権と教育政策の不安定さとの関係を示す。 !―3 連立政権と教育をめぐる政治 総選挙後、連立政権を組んだ人民党とフンシンペックであったが、1994年の終 わりには連立が名ばかりの状態であることが明らかになった。人民党は、その頃 には総選挙以前に有していた権力基盤を着実に取り戻しつつあり、連立政権を機 能させるために必要な釣り合いの取れた利権配分を行うことはなかった(Ayres 1998:14―15)。以下では、連立政権の危うさが表面化してきた中で教育政策がど のように影響を受け、結果不安定になったかを分析する。 教育投資計画は中長期的に成果を達成する目的で策定されたが、実施段階にお いて両党トップの政治目的を達成する場として利用されたため、計画と実行にお いて大きく乖離することになった。当時のフン・セン第二首相(人民党)、ラナ リット第一首相(フンシンペック)の双方ともに、国民の支持を得る手段として 教育政策を利用した(Ayres1998;小味2002)。フン・センとラナリットは、1998 年の第2回総選挙を視野に入れ、国民の支持拡大を画策しはじめたのである。特 にフン・セン第二首相は、個人的資金によって多くの学校建設を進め、メディア にアピールすることによって自身がラナリット第一首相に比べて多くの貢献をし ていることを示そうとした。つまり、国民に分かりやすい量的拡大という形で個 人の影響力を示すのに教育は格好の場であり、教育が単に国民生活の発展のため ではなく、政治的に重要であったことを示している。 カンボジアではなぜ教育が政治の具と化し、しかも開発の最前線とみなされる ようになったのか。その要因は、ポル・ポト政権時代に教育が徹底的に破壊され た歴史に見いだせる。ポル・ポト政権下では、知識人が徹底的に弾圧されて教育 制度は完全に崩壊した。結果として、復興期には、教育機会が国民一般に平等に 行き渡る必要が生じた(Ayres1998:25)。全ての国民に開かれた教育が国家目標

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として標榜された。こうした教育の拡大が教育の政治化を招いた。ADB をはじ めとしたドナーはすでに1990年代半ばの時点で、1993年の新政権移行直後から、 教育政策は質的向上と量的拡大の両方を伴って実施されるべきであるものの、量 的拡大に傾いている、と指摘していた20)。教育の量的な拡大は、前述のフン・セ ンによる学校建設や、1994年3月に導入された prime pedagogigue と言われる教 員の給与確保を保障した政策に典型的に現れた。こうして二人の首相はそれぞれ の政策の正当性を確立し、支持基盤の拡大を図ったのである。 なかでも、量的拡大に重点をおいたフン・セン首相は、しばしば教育省の権限 を逸脱した範囲と規模で独自の行動を展開した。このために、教育システムの質 的向上を図ろうとしていた教育省の努力は水泡に帰した。教育省のトップの地位 はフンシンペックが掌握していたにもかかわらず、フン・セン個人の集票を目的 とした学校建設が優先的であった事実からは、教育省がフン・センの独壇場に対 抗するだけの力を有していなかったことを読み取ることができる。 図1からも分かるように、1997年以降教育支出の低下がみられる21)。限られた 教育予算は主に学校建設や教員のリクルート、育成、給与などの教育のハード面 の拡大に伴う費用に費やされることになった(Ayres1998:23―28)。中でも学校建 設は1995年頃から、自己資金を投入して建設した学校の落成式に出席するフン・ セン首相の姿が、頻繁にメディアで報道されるようになった。 上記のような首相の個人的な政策立案は、政治的な意図をもった短期的な要素 を含むゆえに、しばしば政府の総合的な開発目標との間に矛盾がみられた。政府 の総合的開発は長期的視野に立っていたため、教育分野における質的向上を目指 していたが、首相の量的拡大の政策は本来の政策の計画、そして実施過程を阻害 図1 教育年次支出 1994―99(US$) 政治学研究40号(2009)

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することとなった。こうしたフン・センによる教育政策への介入が教育投資計画 の破綻につながった。1994年に策定された教育投資計画は一度も更新されること なく、1990年代の教育政策の失敗例となったのである。 教育改革前後のカンボジア政府や UNICEF、ADB などの報告書では、ドナー による多額の援助資金にもかかわらず、1990年代の教育政策の成果は芳しくな かった、と記述している。いずれの場合も、教育改革が行われる伏線として、1990 年代の教育政策の失敗を扱っている点で共通している。1991年以降の教育政策は ドナーによる強い主導の下、国家開発フレームワークとともに計画されたもので あった。この時期の教育政策は、唯一の計画である「教育投資計画 1995―2000」 に基づいて行われるべきであったにもかかわらず、フン・センの教育政策への介 入は個人的な動機によるところが大きい。このことから、教育政策が最終的に頓 挫した要因をドナー主導に認めることは適切ではないといえる。むしろ1990年代 の教育政策の失敗要因は、!連立政権が不安定な状態にあったこと、"結果次期 総選挙において権力基盤を確立しようともくろむ人民党による集票を目的とした 行動に求めることができる。 本節では、1990年代の「教育投資計画」が失敗として扱われる背景を示した。 その際に着目したのは、カンボジア政府と教育省という、ドナー以外で教育政策 に関わる主体であった。カンボジア政府と教育省は、政治指導者の短期的かつ個 人的な動機によって翻弄させられた。ドナーとの関係性が深い教育は政争の具と 化した。すなわち、政権の不安定性が政策の不安定性をもたらしたと考えられる のである。

# 政治権力の変化と教育政策の安定化―1997―2006年

本節では、1997年の政変後に変容した連立政権の下での教育政策を扱う。政変 に前後して、人民党の影響力が増大した。1999年の教育改革の実施は、人民党の 権力基盤が確立した連立政権の下であったが、結果的には教育政策は安定化した。 政権の安定化がどのように教育政策の安定化に関連したか。本節では、この点を 1999年における教育改革以降の教育政策の歩みを追いながら検証する。

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!―1 1997年政変・第2回総選挙・連立政権 1997年7月、政変が勃発した。フンシンペックと人民党の対立が軍事衝突とし て表面化したのである。政変の背景には、第2回総選挙を1998年に控えた、諸政 党の離合集散の動きがあった。1997年の初めからフンシンペックも人民党も勢力 拡大の動きを見せ始めた。ここでは、二つの政治情勢の緊迫に触れておきたい。 第一は、フンシンペック側の勢力拡大を引き金とした、フンシンペックと人民 党との対立である。1996年末からその可能性が伝えられていたフンシンペックと

サム・レンシー22)率いるクメール国民党(Khmer National Party:KNP)23)との同盟

は、1997年1月にラナリットによる民族統一戦線(National United Front:NUF)

の提案にサム・ランシーが応じるという形で公になった。NUF は首相一人制、 反汚職を提唱し、そして人民党支持者に渡ってしまった国家資産の回復を訴えた (Peou2000)。NUF には、KNP のほか、仏教自由民主党(BLDP)ソン・サン派が 加わり、2月下旬にラナリットを議長として正式に発足した。 人民党は NUF 結成表明直後に行われた臨時党大会で、すでに NUF に参加しな い旨を表明した。NUF の標榜する内容は連立政権の存続にかかわるものであり、 人民党の NUF への不参加によって連立政権のパートナーであるフンシンペック と人民党との間の亀裂は決定的となった(カンボジア協会 1997:238―240)。人民 党側も仏教自由民主党(BLDP)イエン・ムーリー派のほか、議会に議席を持た ないいくつかの少数政党とも選挙協力協定を締結するなど、NUF に対抗する動 きをみせた。 第二に政変勃発の直接の引き金となった政治展開である。フンシンペックは勢 力拡大の一環として、クメール・ルージュ、すなわち民主カンプチア党(Party of Democratic Kampuchea:PDK)24)との連携を進めていた。当初、ポル・ポトは交渉 に積極的な姿勢をみせていた。しかし、ラナリット側が連携の条件をポル・ポト の排除としていたため、PDK 内部は交渉推進派と交渉に反対するポル・ポトの 派内闘争に発展し、結果ポル・ポトの敗北が決定した。ポル・ポトの敗北後、交 渉は急速に進展した。7月3日にはラナリットが共同声明文書に署名をし、PDK 議長のキューサンパンの署名を待って公表されるばかりであった。しかし、この 動きはフン・センによる武力行使によって阻止されることになる。翌4日に、首 都プノンペンにおいて人民党兵士とフンシンペック派兵士との戦闘が始まり、5 日にはフン・センはこの武力行使について声明を発表した25)。すなわち、ラナ 政治学研究40号(2009)

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リットによって「国家にとって有害な法律違反」が行われたことを指摘し、武力 行使の正当性を主張した。当のラナリットは、政変が起こる2日前に「親戚に会 いに」フランスを訪れていたため危機を免れた。ラナリット追放後は、フンシン ペックからは後任者としてウン・フォトが第一首相として立つこととなった。 1997年の政変は、1993年以降の平和構築を脅かすものとして国際社会の批判を 受けることになった。国際社会のより重大な関心は、翌年1998年に行われる総選 挙が民主的手続きにのっとった形で実施されるか否かということであった。しか し結果として、国際社会は援助の融資条件を強化させるなどの一致した経済制裁 には踏みきらなかった。個別の対応として、アメリカなどは政変を人民党側の クーデタとして扱い、援助の一時停止を行い援助額の削減などをほのめかし、ド イツも同様の対応を取るに至った。最大のドナー国である日本は、国際社会の流 れを受けて政変直後には援助停止をしたものの、短期間で援助再開の意向を示し た。日本はこの後フン・セン個人に訪日要請を行うなど、カンボジアの政治混乱 打開のために他のドナー国とは異なる対応をした26)。最終的に、翌18年の第2 回総選挙において必要物資と人員のために100万米ドルの支援と投票箱などの設 備提供をした。 カンボジア政府にとっても、年次予算の3分の2以上が国際援助によってまか なわれている以上、経済制裁は最も恐れるべきものであった。カンボジア政府は、 総選挙の成功が国際社会の信用を取り戻し、引き続き援助を受ける手段である、 と認識していた。 1998年7月の総選挙は、国際選挙監視団のもと混乱なく実施された(カンボジ ア 1998:2―3)。同年11月には、フン・セン首相を中心とする人民党・フンシン ペックの連立政権が成立したため、軍事衝突を発端とした政治的混乱は回復にむ かった。 第2回総選挙の結果、人民党の権力基盤は確固たるものとなった。人民党が圧 倒的な優位に立つ連立政権が成立したのである。それは人民党とフンシンペック の連立内容の変化を意味した。その例の一つとして各省大臣のポストの割り当て の変化が挙げられる。人民党は27省中20省を占めただけではなく、主要大臣ポス トの大半を人民党が獲得した。フンシンペックは、農村・開発省、教育省、保健 省、公共事業・運輸省、文化芸術省、宗教省、女性省のみとなった27)。本論との 関係で注目すべきは、教育相のポストはフンシンペックが継続して掌握している 点である。

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1998年総選挙のもたらした政治的帰結には、本論との関係で注目すべきことが 三つある。第一に、教育相のポストは、政変後もフンシンペックが継続して掌握 し続けた。第二に、度重なる批判にもかかわらず、教育政策の策定過程における ドナー主導という構図には変化が生じなかった。第三に、1998年選挙の結果、フ ンシンペックに対する人民党の優位が確定的となった。このように、教育改革に 前後して変化したのは、教育政策の策定におけるドナー主導の構造ではなく、策 定過程を含む政策過程全体に影響を及ぼすカンボジア政府の枠組みであった。 1998年総選挙に勝利した人民党は政権を握ったと同時に、権力を集中させること に成功したが、開発に外国の援助はいまだ不可欠な状態であった。人民党優位の 政権の下でカンボジア政府は新たな「国造り」に着手し、ドナーもその国家建設 の枠組みの中で教育政策に携わることになったのである。 !―2 1999年 SWAp に基づく教育改革 カンボジアの教育分野の分岐点となった1999年の教育改革においても、依然と してドナーが政策策定の主導権を握っていた。ADB が提示した SWAp に基づく 教育改革の実施案を受け入れる形で、教育省は教育改革を開始したのである。実 施案の内容は当初4年の中期プログラムであり、援助金額も3800万ドル(この内 2000万ドルは財政支援、1800万ドルは教育施設支援)と他のドナーと比べ最も大き な融資であった(CDC 2004)。フンシンペックが数少ない大臣ポストである教育 省で何らかの影響力を行使させようとした結果が教育改革であったという先行研 究の指摘に基づけば(清水 2006:30)、教育改革の成功はフンシンペックの権力 基盤の強化につながったと考えられる。しかし、第4節2項で示したように政変 以降の連立政権内部では人民党の優位が確立していた。なぜ人民党はフンシン ペックが大臣を務める教育省が関与する教育分野への援助を受け入れたのだろう か。 この問いを考えるためには、人民党の権力基盤確立に前後して改変された援助 の受け入れ制度に注目する必要がある。未だ権力基盤を確立していなかった1990 年代の人民党は、ドナーからの援助資金をフンシンペックと共同で管理する必要 があった。しかし、第2回総選挙後にフンシンペックに対する優位を確立した人 民党は、援助資金により独占的にアクセスできるようになったと考えられる。 SWApによって教育分野に多額の援助資金が注入されたとしても、人民党が資金 の配分経路を抑えているのならば、人民党は教育省を直接管轄する必要はない。 政治学研究40号(2009)

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人民党による教育省の軽視は、「教育省はフンシンペック側のポストでかまわな い」といったフン・セン首相のアドバイザーの発言(清水 2006:30)や、教育省 に対する予算の低さからも読み取ることができる。人民党が教育の政治化を図る 必要がなくなった結果、ADB を中心とした効率的な教育政策の運営が可能と なった。 1999年から2001年までは、SWAp を導入するにあたっての教育省・ドナー・ NGOのパートナーシップ構築過程であり、新たな教育政策を策定する準備期間 であった。1999年9月の ADB の支援開始と同時に、教育省とドナー、NGO に よって教育セクターにおける SWAp に関する話し合いの機会を設けることに なった。当初は ADB が主体となって話し合いを進めていたが、その後は教育省 側の積極的な関与とともに、国連機関や二国間ドナーも加わって、一致した協力 体制作りに向けて全体的な教育政策の枠組みの策定と支援の調整を協議した。 1999年以前の支援に関しては、教育省側とドナー間のパートナーシップに関する フレームワークは存在していなかった。ドナーが個別に話し合いを行ったり、支 援団体内の限られたネットワークを通じて情報収集をしながら支援内容を考慮し たりする程度にとどまっていた。 2000年3月に ADB がパートナーシップに関する覚書である「協力意図表明文 書」(Statement of Intent:SoI)へのドナーの署名を求める会合を開催したが、全 会一致にはいたらなかった。招かれた14のドナーのうち、ADB、UNDP、UNICEF、 UNESCO、スウェーデン、アメリカ、オーストラリア、ベルギーは合意したもの の、USAid、JICA、EU、フランス、ドイツは署名を保留した。保留したドナー 側の理由としては、合意後の援助手続きに何らかの支障が生じるのを避けたため とみられる。もう一方では、カンボジアが新しく採用する SWAp の過程におい て、カンボジアの資金管理体制の不透明さを背景に資金管理が今後どのように行 われるかについての理解が不十分であったことも要因であった。また全会一致に いたらなかった理由としてドナー間で SWAp の意図するパートナーシップ構築 認識が低かったとして、その後9月から教育省は SIDA の支援と UNICEF が手配 した SWAp の内容に関するセミナーを政府関係者、ドナー、NGO を対象に行っ た。

この結果、2001年2月 に は、ESWG 会 合(Education Sector Working Group)28) おける「パートナーシップのための原則と実施」(Principals and Practices for Partner-ship)が教育省、ドナー、NGO 間の正式な教育改革への合意として成立した。以

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降、SWAp に基づいた教育改革のもと教育政策の策定、合同レビューが行われて いくことになる。

!―3 教育政策 ESP と ESSP の策定

教育改革以降もドナー主導の構造に変化をみることはできない。教育改革が ADB主導による ESP、ESSP の策定という形で実を結んだ結果、各ドナーは SWAp に基づいて各自の担当分野を持つようになった。ESP、ESSP が ADB の支援に よって行われたように、ADB は引き続き計画分野で力を発揮している。また、 SWApのもとで財政支援は ADB(有償)と EU(無償)のみである29)

。UNICEF、UN-ESCOなどの国連グループはカンボジアにおける SWAp 浸透過程で多くの役割を 果たした。その経緯からプログラムの実施、そして評価後において援助協調の推 進役である。対する ADB はアジア地域の援助金融機関であり、融資される援助 資金の使用が包括的な援助プランに基づくことへの使命を担っていることから、 資金計画・運営においても中心的な存在である。 約2年間のパートナーシップ構築期間を経て、2001年以降の教育改革の内容は 教育政策 ESP、ESSP の策定期間へと移行した。ADB の支援の下で教育省は4年 計画である ESP2001―2005、ESSP2002―2006を策定し た。同 様 に2004年、2005 年にも ESP、ESSP の策定を継続して行っている。2003年には、2015年までの長 期戦略を示す「万人のための教育2003―2015行動計画(Education for All:EFA2003

―2015)」を策定した。EFA は教育省と UNICEF の間でマスタープランの取りま とめの後、UNICEF が SWAp に基づいてリーディングドナーの役割を果たしてい る。 教育政策 ESP2001―2005の内容は次の二点に要約できる。一点目は、子供たち すべてが9年の基礎教育を終えることを目標に、初等教育における子供全ての就 学と卒業を達成する。加えて中学へのアクセスを高め、卒業する生徒を増やすこ と。二点目は、9年の基礎教育の質を改善することであった。その他、ポスト基 礎教育、組織体制の向上と権限の分散化、予算編成などが主な優先方針であった。 2005年には ESP2001―2005を振り返っての評価書、教育セクター評価レポート

(Education Sector Performance Report:ESPR)が作成された。内容は、反省点およ び ESP2006―2010への反映を目指して現状の課題を提示するものであった。また 世銀の調査(World Bank2005)が指摘したことによれば、今後初等教育の発展に 伴って前期中等教育に資源配分を移していくことが重要であるが、基礎教育の

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様々な問題が小学校高学年から始まっていることが指摘できるため、引き続き初 等教育分野を焦点とすることを求めた。 ESP2006―2010では、以上の視点を反映して継続して基礎教育に重きをおき、 教育への公平なアクセスを確保すること、教育サービスの質と効率を高めること、 そして地方分権化のための制度開発と能力構築の三つを主な優先分野とした。こ こで重要なことは、教育政策 ESP、ESSP が計画、実施、レビューの三段階をお いながら継続的に更新していることである。 SWApの枠組みの下でのドナー主導の教育政策の策定は、1990年代の状況と変 わりはない。しかし、1990年代の教育政策が継続しなかったことから、教育政策 が人民党優位の連立政権下で実施されていることを示している。政権の安定がも たらしたものは、国際開発フレームワークと連繋した教育政策の策定にもあらわ れている。 表2 SWAp による教育改革のプロセス 備考 協 調 メ カ ニ ズ ム、フ レームワーク策定 ESP、ESSP策定期 (ADB 主導) (UNICEF 主導) ESP、ESSPの継続 (ADB 主導)

出典:Government Donor Partnership Working Group Sub-Working No.3(2004:41)をもと に加筆 SWAp のプロセス、国内状況 SWAp による教育改革開始 ・政府、ドナー、NGO 間の覚書(SoI)の署 名が行われるものの、全会一致ならず ・様々なレベルでの協調メカニズムの構築 ・Moeys は SWAp セミナーを開催 教育パートナーシップに関して Moeys、ド ナー、NGO による公的な合意、ESWG の活 性化を伴う ESP2001―2005の策定と承認、ESSP2002―2006 の策定 初の ESSP の合同レビュー開催 第3回総選挙、第2次フン・セン首班連立政 権発足

Education for All National Plan 2003―2015 (EFA)の策定と承認 ESP2004―2008の策定と承認 ESSP2004―2008の策定、実施 ESP2006―2010の策定と承認、ESP2006―2010 の承認と実施 年月 1999年9月以降 2000年 2001年2月 2001年3月∼4月 2001年6月 2003年7月 2003年8月 2004年9月 2004年12月 2005年12月∼

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!―4 人民党の優位と教育政策の安定化 以上本節では、ある程度の安定化をはたしている教育改革後の教育政策の歩み を跡づけた。しかし、ここでいう安定とは、あくまで1990年代との比較を前提に したものであるということを指摘しなければならない。1990年代の教育の内容は、 教育投資計画という政策が存在にもかかわらず同計画に沿っての実施は一部に限 られていた。計画外で実施されたのはフン・センの個人的動機に基づいた学校建 設等であり、政策としての一貫性を欠いていた。また、各ドナーが取り仕切る形 で縦割り式にプロジェクト単位で実施されていたため、教育投資計画に基づかず、 ドナー間の整合性の問題は教育政策の混乱の一因であった。 改革後の教育政策の安定とは、以下の二点を特徴とする。第一に、国家開発フ レームワークに基づき、教育政策 ESP、ESSP それぞれの策定が継続しているこ とである。第二には、教育政策に関係する主体が唯一の教育政策を支持し、プロ ジェクト単位ではなく目標達成のために各主体が一元的にプログラムを実施する ことによって協調関係を築くことを指している。安定の背景には、1990年代に不 安定な連立政権であった政治権力構造が、1997年の政変を経て1998年以降人民党 の権力基盤が確立して安定した連立政権へ変化したことがいえる。 人民党が優位に立った結果、1990年代のようなフン・セン首相の個人的動機に 基づく教育政策への干渉が前面に現れなくなった。代わりに海外からの援助金を 管理するための国家における開発の窓口である CDC の組織において、人民党は 教育政策に関与することができるようになったと考えることができる。1998年の 総選挙後、連立政権の内容変化と同時に CDC の組織のトップ構造における変化、 役割の追加があった。フンシンペック・人民党の共同担当制はなくなり、フン・ セン首相が唯一の理事となった。そして、3人の副議長の席を全て人民党が占め るというトップ構造になったのである。カンボジア政府唯一の援助窓口としての 役割に変わりはないが、第3節での設立当初と比べ新たに加えられた役割は、援 助の窓口ゆえのものである。ICORC の後身である1996年から始まったカンボジ ア支援国会合(Consultative Group Meeting for Cambodia:以下 CG 会合)の主催機関 を2002年の第6回 CG 会合から務めることになった。

上記のように、CDC の役割が変化し、ドナーとの関係においてカンボジア政

府の代表として担っている役割は、1998年総選挙後に人民党が優位に立った連立

政権の成立によるものであった。フン・セン首相の個人的な政治的行動が表面に

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現れなくなったのは、人民党の強い影響力が発揮できる CDC の存在にその理由 を見出すことが出来る。人民党の権力基盤の確立、それにともなう政権の安定化 は、政治家が教育に介入する動機の消滅につながった。 じつは、1998年の第2回総選挙後は、カンボジアが新たな国造りを開始した時 期でもあった。2000年の第4回 CG 会合で、CDC はカンボジアの開発における 「ドナー主導」から「カンボジア政府のオーナーシップ」への枠組みの転換を打 ち出した(CDC 2000)。CDC は同会合で提出したドラフトに、その目的を有意義 な話し合いを通してドナーとカンボジア政府の連携を強化することと明記した。 枠組みの転換はドナーからの脱却を意味せず、むしろ国際援助を維持する中でカ ンボジアにとって効果的な援助をドナーとともに作り出していくことを意味して いた。この新たな枠組みの下で人民党による国造りが始まったのであり、教育改 革はその一角を担う重要な政策課題であったといえる。 本論では、1999年における教育改革の実施のタイミング、および教育政策安定 化の要因をドナー主導以外の視点から解明を試みた。1990年代からの教育政策の 道程を再考することによって、カンボジア政党政治の内容変化が教育政策実施に 及ぼした影響を検証できた。1990年代と2000年代の連立政権、教育政策の関係は 次のようにまとめることができる。ドナー主導の教育政策策定過程は、1990年代 と教育改革後の2000年代にも共通していた。しかし、教育政策は教育改革後には 安定するという変化をみせた。一方、1998年第2回総選挙によって発足した人民 党優位の連立政権をもって、カンボジア政権は安定した。教育改革の行われた1999 年の時点で確固とした権力基盤を得た人民党は、1990年代のように教育を政治化 する必要がなくなり、結果として教育政策は実施段階における政治家の介入を受 けなくなったのである。以上を要するに、教育改革のタイミングは人民党の権力 基盤確立の時期と重なり、教育政策の安定化は人民党優位の政権のもとでの教育 の非政治化によって説明できるのである。

むすび

以上、1991年のパリ和平協定後のカンボジアにおける教育政策を政治権力と政 策の安定化という観点から議論してきた。 本論から明らかになったことは、1999年の教育改革を理解するためには、1990 年代の国際援助だけに目を向けていてもその実態はつかめず、むしろ国内政治の

参照

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