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無の存在(二)-香川大学学術情報リポジトリ

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(1)

四 我々は今まで鋸を抽象的無と具髄的無とに分ち、更に具鰐的無の中に相封的無と絶封的無の二つを見、純劉的 無とばそれ自身に於て凋立に存在し相封的有無皆超越する絶劉努であるが▼級に蜜は有とも無とも呼ばれ得ぬ如き ものでみることを論じ来った。こゝに於て我々は今、絶封的無なるものにづいて叫つの重要なる間越を考へで竃 かねばならぬことを感する。それは、相封的有幾を包含し且つそれらを超越する巌判者が、賛は有とも無とも名状 _ ヽ ヽヽ し拙いものであるに拘はらす、それ故にまた有とも無とも、随ってまたより適切だは絶封的着とも絶封的無とも いはれ縛るものであるに拘はらや、何級に絶封的有と呼ばれゃして絶封的無とのみ名づけられるか、といふこと である。 ’ヽ 専貨スピノザの如きはこれを絶封的有と呼びなしでゐたではなからうか。或はせ主より恩賞なるへーゲ

商工経済研究 第十三怨讐一視︵胡鰐窮︶

一無 の 存 在 絶“ 虫ハ

の 存 在 ︵二︶

高 階

︵劇九七︶

(2)

第十二惑 第三戟 ︵叫九八︶ こ ヽヽ ル的立褒に放ても、絶到着は組封踊翫さいはんよりはむしろ絶封的有と名づけることのより安歯であるべきこと ㍍思惟されるやうであるじ輿望署単著によつてもこれは有Sa叶と呼ばれて無Asatとは呼ばれなかつ圭。然 るに我々は放てこれを、例へば老子などの立場に近く、㍗して大憾は東洋的な考へ方に碓ひ、紹劉的無と呼ばん と欲する。▼そしてその理由を、次に概改したく思ふのである。 絶封者はまづ剛切の有の根源であをが故に、それは有であるよりはむしろ撫でなければならぬ。′何故ならば有 の践泌は有ではなくしで非有即ち撫でなければならぬと考へられるからである。有の根源が有であるといふ時に はその根瀕上る有のまたその根鮨計聞はねばならす、かくして測る時それはヘーゲルの所謂悪しき無限に与を蹴 り込まねばならぬであらう。これに反して有の板張は無であるといふ時には我々は更にその無の根濾を間ふな どの煩をなさゃして済まし得るであらう。コーヘンの根源としての非有はまさしくかくして指定されるに至つに ものと見ることがで㌢る。我々は串賛に於て、﹁無から有が生成する﹂といふことの、﹁布から有が生成する﹂とい ふことよりもまして深き意味あることを感得する。﹁無からは何のものも生成しない﹂といふ輿論苔哲畢者達の考 への如きは、無を軍に所帯抽象的無の如きものとのみ解してゐる、謂はヾ二柾の唯物的な考へ方に基づくものと いへるであらう。まして﹁有から無が蕪成する﹂といふが如きに至っては、哲螢的理性への反逆なしには海へられ 得ぬことですらもぁる。縫って抱勤者から乾物が生成するものとすれば、・それは絶渕的有と呼ばれるよりはむし ’ヽ う縦封無と呼ばれること伊より相厳しくかることを感ぜざるを待ない。庸ほその上に絶封者はそれ自身明かに無

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規定着であり、それ故にこそよく自ら萬物にまで生成し得るところのものである。随つでそれは常然未だ萬物な らざるもの、即ち存在としで規定し得られぬもの、即ふ撫でなければならぬ。かくして我々は絶射的有と呼ばれ すして絶封的無と呼ばれねばならぬ所以の理を、それが劇切有の銀波であること∼、萬物錬成の無漁走者である ことゝの中に見出しにわけとなる。蛮らとするならばそれは、無の無にる所以の規定を有に封するものであると いふことの埋よりなせることヽなり、へ払って、それは、紅封的撫ではなくて相封的無の無たる所以を稔明せるも のに過ぎぬこと∼なるであらう。寮驚に於て、有の世界の根源と見られたコーヘンの非有は、絶封的撫であるよ りもむしろ相封的無に軍営するものであつた。 かく、以上の詮が相異的銀の存在性確立のためのみのものに過ぎなかったとするならば、絶封者が絶対的無と して呼びなされねばならぬ所以の球は、錦ほ他の方面より明かにされねばならぬ。そしで私はこれを、それが常に 何時でも我々によつT関越にされてゐる限りの抱封着であつてそれ以外ではないといふそのことの申に、見出し 得るやうに考へる。然らばそれは如何なる理由に於てゞあるか。兜づ絶封者を絶封着としで二これを問題とし、それ について思索しその存在について考察してゐる限りの我々自らを反省して見る時、少くともその如く思索し考察 しっゝある以上、その場合の我々自らは、例へばデカルトのCOgitOの場合に於ても明かである如く、常に絶封 的有として存在するのであつて、決し七無としては考へられないであらう。それは恰も、我々が死について思索 し考察.してゐる間はそれ自ら決して死してあるので般なくして生きてゐるものであるといふことゝ同じであら l 無 の 存 在 〓九九︶ 三

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_ ︵二〇〇︶ 四 第十三巻 第三娯 うCそれ故に絶勘督は、常に絶射的有とレての我によつて問題とされるものであり、その限り我を超越する絶封 者は、常然絶封的有を超越するもの、 給料的有の立場にあるが赦に我をも超越して存在すると思惟する絶封者を常に宥としてよりもむしろ無として考 へなくてはならぬ。奇人不奪坊や奪境不奇人の立場から見る時、人境棋密は絶射的無の立瘍と見なくてはなら ぬ。このことは例へば逆に我々が我を絶封的無そのもの■ゝ只中に立上しめに時、即ち例へば純粋経験に没し去っ て純粋活動のみをなす時や、宗教的紳秘の寂光に包まれて無念無想の境涯に患まれし時なとは、その絶封者が直 ちに絶封的有即ち常有の形貌を具へて我に迫り、賓在そのものゝ中にまで職を顔合せしめ、自然法爾、梵我叫如 の妙境にまでも我を奪し去りつゝ而も花紅柳紘の絶封境を現出せしめ待ることによつても明かであるであらう。 人境租不奪は人境供奪を保って始めて可能であつにといはねばならぬ。かくで組封老は我が自己を紙料無にらし ヽヽ ヽヽ めた瞬側には絶射的有としで現前し、反封に我が自己を絶封有にらしめた時には絡封約無として思索されねばな ヽヽ ヽヽ らぬ。然るに哲拳的思索は別々宗教的現前と異り、我をしで思索する者、即ち恩ふが故にあるところの絶封的有 としての存在にまで仲嘩づける。そのために哲拳的思索の封象となれる限りの絶判者は、常然絶封無としで考へ られねばならぬことゝなる︶かくて結伺、絶封的無の存在を可能ならしめるものは、考へるが故に存する絶封的 有としでの飛自らであるといふことができる。勿論この場合と畔も、絶料著そのものは決しで絶判的有と絶制約 紺とに分たれるものではなく、常にそれは唯〓照二のもの、人墳棋不奪のものではあ㌃が、只それが我々にょつ

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て開放にされ思索考察の封象とされる瞬間に於て我から離れ︰絶判的鯉即ち入場供奪の底のものとしで指示され

るに至るのである。この限りに於ては絶射的無も謂はゞ絶封的有によつで初めてその有水が可能にされるともい

へる。併しかくはいつても勿論それは磯射的無が相封的有によつて初めで存在せしめられるといふが如き意味に

於てゞほない。かくて要するに我々の静初に掲揚したところの原理、﹁凡て矛盾するものが矛盾するもの・ゝ存在

を可能ならしめる﹂といふことは、単に相封的有無の存在に射しでのみならす、紀射的有無の存廃に封しでも安

蕾し得るものとなるのである。

以上のことから、有はたとひそれが相封的看であつでも絶由的看であつても、常に自ら無によつて初めでその

存在が可能となり、■厚封に無は、紀封的無にせよ相封的無にせよ、常に有主の関係に於てのみ初めてその静水性

の確保せられるといふことが明白であるであらう。有との関係を有たね無は重く抽象的なものであり、隠って我

々の論究領内には入り釆らぎるものである。それ故に無そのものゝ林木について考察する時、我々の有ち得る投有

数の唯山の手段は、常に鍵を有との銅備に於て見るといふことでなければならぬ。何故ならば、無は、′本葬それ

白身無であり、布衣せぎることを本質とするが故に、.我、々は直接にはそれについて如何なる存在性をも琴不するこ

とができないからである。これに於て我々は、無の存廃を保記し琴不するためには、其の相射的撫であると絶封

的無であるとを問はや、直接に無そのもの∼存在を明許ならしめんとすることをせす︼に、むしろ無なくしては布

衣し離はぬところの存在的なるもの、即ちそれについては規定も言表も可能である有の他界なる或ものを撃那す

無 の 存 在 ︵二〇山︶ 五

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弟十三令 弟三渋 ︵二〇二︶ 六 ることに.よつて、間接に無の存在を保許し確立し明示することをしなくてはならぬ。 五 先づ無は、それが相封的撫であれ絶封的撫であれ、.只今の我々によつて即題にせられてゐる限り、それは何等 かの意味で琢め異へられてゐるものでなければならぬ。.我々は無を間ふことに於で鞘はるべき無に眈に面模しで ゐる。けれども、最初には先づハイデッガーと共に次の如く問うて見なければならぬ。﹁人間の現存在に於て人 諌 間が無そのもの■ゝ前に直面せしめられてゐる如き気分を有つことは現に起ることであらうかご若しか∼る寮分に 放て在ることができるものとすれば、我々はそれを即存在的に分析し解明しゆくことによつて無そのものに肉薄 し得るであらう。−これに封してハイデッガーは自ら﹁その生起は可能でみり ー たとひ非常に稀ではあるとし七 読 も − Uハ不安といふ根本親分に於て瞬間的にのみ硯質的である﹂と答へてゐる。然るに不安といふ根本気分によ・ る人間の心の何とはかなき動播は、関心S。rgeと呼ばれるものに外ならぬ。こ∼に於てこの無の存在の存在性 を頼長する有的のものとして、我々はまづ筋⊥に人間の細心性七轟げ得るであらう。関心が︵ィヂツガ一に於け る現存塞、相ち世界−円−存在としての人間的存在の存在性を明かにも快打してゐるものであることは既に充分 に明かであるところ、関心なる心的琴態の存在は敢早坂々に.とつて決して疑ふことができなかった。何故ならば それを疑ふことが、例へばデカルトの場合に於ても明かであざ如く、眈に関心なくして可能なことではなかつ

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たからである。さうしてその摘心は眈に述べに如く決して恐怖ではなく、それはまさしく不安そのものにこそ根 ざすものでるったC然らばその不安が不安として人間的現春在に生起し、むしろその現存在の布衣性を構成しで ゐる所以のものは何であつにか。それは存在としでの現有継が自らに矛眉する非行春としての世界そのものの中 に麻衣してゐるが放ではなかったか。不安とは存在即ち有が無の中に任してゐるが故の琴7嘉きなさではなかっ たか。現存在としでの人間がその中に於て存する世界そのものは、ユまさしく無としての布衣であつた。ハイデッ ガーに於ても無は固より何ものも存麗しないことではな′、、むしろ﹁それ自らを存在者の存在に屈するものとし ﹁こ ゲルの﹁純粋石と純粋無とは同叫である﹂といふ命喝すら、ハイデッガl て 終呈する﹂ものであつた。否、ヘー ︵−︶ にとつ七はiEしいものであつに。尤もその意味は、或はヘーゲルと金然同じとはいひ得ぬかも知れない。﹁宥は 無と亙に結合してゐる。併しその理由はそれらの両方が−−ヘーゲルの思惟の概念から挑めで⋮その無税定性 や直極性に於て仙致するからではなくして、むしろ着日身がその本質上有限的であり、無の中に引き入れられた ︵仙︶ 現存在の超越に於てのみ自らを轡不するからである﹂とハイデッガーは説明してゐる。けれどもこれにょって少 ︵二︶ くとも﹁現存在とは即ち無の中に引き入れられてゐるこ壬であることが明かである。存在が鎌の中に任するこ とば、その存在が常にその無によつて脅かされでゐるが故に必然的に不安に落ち請きなくされねばならぬことの 珊を明かならしめる。それは恰も死の贋直中た年盲つゝあるものゝ常に不安に駆られざるを得ぬ桝以が、その死に よつて常に脅かされてゐるといふことの中に存してゐると同じセある。常が無によつて脅かされる時、即ち存在 無 の 存 在 ︵二〇三︶ 七

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第十三巻 帝言訳

︵二〇四︶ 八

が非存在のためにそあ存在箸別警れようとする時、そこに語るものが尊命を査はれせする時に感サる如

き不安の生じ来ることはいふまでもない0不安は、有産するものが存春着から遠ざからねば誓っぬことのために

飴儀守せし切られる宿りなさである。﹁不安に於て我々にひしくと押し寄せで誉ところの、この各膿的存

泰者の遠ぎかりは、我々を威堅せすには招かない。全く輯りどころがなくなるのである。この械りところの﹃な

へ一一一︶ い﹄といふことが、存在者の遠ぎかりに於て我々に増されたものであり、我々に製ひか∼るものである。﹂かく

て、無としての世界の中に存在すべく運命づけられた人間的現存泰が、常に不安の工めに落ち着盲なくされるの

は常然のことであ・り、その落ち着き誉品ナ晶心なくしては人間そのもの∼存燕が可能ではない。関心はか÷ 存在者とし▲て人間自らの性格であ、り、性格は総じて葦命でもあるが故に、関心はまたその存憲の如何ともt得 ぎる運命でもあつたのである。存在がかく自己に矛眉する無に直守ることによつて初誓その存布性を確立t

得ることは、例へばデイルタイに於ける生命が、それ自らの衝警る外的驚布との朋備によつて自旨らの霊

性を一瞥明かに確立し得るものであつたことゝ同一であらう。

話 中eide慧召1一ぎニst試etMニー宣k∼S.一の. ︵山︶ ibid.︸S.韻. ●︵二︶ ibid.︸S.皆. ︵ニこ ibi吾平一月

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かくの如く現存在としての人間的布衣は自ら無の中に任し、無に結合し、而もそれ自ら準であり、無といふ有 であるが故に、筒ほ謂はゞ、撫であつて撫でないといふ自己矛盾着であることの故に、常に、心落ち着きなく迫 る瀬なくされるのである。それが摘心であり、その関心の核心が不安である。不安は何かについてかまた何かの ためのものであつたが、その何に常βものはとりも直さや有がそれ白身その■申に作示する世界であり、その≠界 はまさしく撫に常るものであつた。本来有たる我は、鍵に任し衆に直面することの故に、常に如⋮についてまた無 のにめに奇異に製はれ、驚異にまで覚醒されわばならなかつに。﹁無が現存療の根掠に於て明かであるが故にの み、存在者の全き奇異性が我々に製ひ付くことのできる。存在者のこの奇異怖が我々に迫り舞った時にのみ、驚 濠 興が目覚め、邑つ魅するのである。﹂この驚典は必然的に懐疑にまで押し進められねばならぬ。その懐難が我々を 駆って﹁何か﹂﹁何故か﹂﹁如何にしで﹂などの問題にまで押し進め、我々を研究者の道命にまでつき落す。それ故 に研究者は常に歓ばしき不安、朗かな街迫によつて、日々刻苦精粗すべく徐儀なくされるのである。彼の不安は 彼の魂をして不断の研究にまで駆り立てる。かくて輩術家はか∼る不安の故に創作し、宗教家はかゝる不安の故 に紳を求め、遺徳衰は人の世に働きかけ、教育家は陶冶に執しむのである。さうして﹁かゝる根瀕的不安は刻々 の瞬間に於て調布産の裡に目覚め得るものである。それ故不安は何か異常の串件によつでR螢iきれる必邸がな い。不安の支配の深刻さはその可能なる機縁の些末の事柄にも相應じて規ほれる。不安は常に飛躇の用意をしセ ︵山︶ ゐる。﹂宥としての人間が有つかゝる不安のそれに於て生中る根披は無である。換言すれば小安には党きつた封象 無 の 存 療 へこ〇五︶ 九

(10)

弟十≡巻 第三餌

︵二〇六︶一〇

が警。それは何とはなき心配であるごの這の封象のないことが不安の恐怖と異る所以の特質であつた。不安

がその中に苦痛を癒するよりはむしろ却つで叫つの慰︰若さへ有つものであつにのも、その封象が不定でめり無

であつたからであつた。即ち無は存在者に不安を翳らしはするが、その不安は賓は決して布衣者の存在性を破壊す

るものではなくして、却って不安に基づく関心によつで存在者の存在性が据ボされるものたるのである。﹁不安の

無の明る㌢佼の中に、初めて存在者そのもの∼根濾的恕示健か嬰謹する。それは存在者が有りー1さうして無でな ︵二

いといふことである﹂かぺ不安によつて存在者が存在性を琴不するといふことは、謂はゞ存在者が無によつて存

在せしめられてゐるといふことである。またこれを逆にいへば、有が存在してゐるのは不安によつてゞあり、そ

の不安が無を琴不してゐるといふことである。か﹂てハイデッガーはいふ﹁不安が無を麒示サる。我々は不安の

中に﹃渋って﹄ゐる。簡明かにいふならば、不安が仝閻に於ける存在煙を感落せしめるがために、不安が我々を洋々 へ≡︶

ある。

たらしめるので﹂﹁かくて﹃汝に音たは冠に﹄気味が悪いのではなくして﹃人に﹄気味が悪いのである。それ

自ら全く振りどころを求め待ないこの漂浪の落ち活きなさの申にある純粋なる用布在のみが、それでも佃ほ頒布 ︵三︶

してゐるのである。﹂かくの如く﹁不安が無を瑛はすといふこ迂は、不安が退いた時に入射自らの患接に確許する

ことである。新鮮なる回憶を揺ふ慣見の明さに於て、我々は次の如くいはねばならぬ。それに封してまたそれの

ために我々を不安たらしめたところのその何かは﹃本寒﹄−・何ものでもなかつに。革質に於て無そのものがー ︵ニこ

ゝるものとして∫そこにあつた。﹂かくて﹁無は自らを不安の只中に曝露するー併し存在者としてではな

(11)

い。それ故にそれは封象として興へられト→ものではない。不安は無の把捉ではない。たとひこの歩合熱が不気味

さの中に存する金牌に於ける存辞者の﹃隣に﹄別這離れて甥はれるのではないと←ても、無は不安を通して、ま

た不安に於て明かとなる。我々の意味したところはむしろ次のやうであっ㌔即ち無は不安に於て、金牌に於け

︵四︶ る存在者と劇締に生起する。﹂さ,︵ノしてそⅥ不安が摘心を構成してゐる。かくて我々は摘心といふ有的なるものに

よつて最も確賓に無そのものゝ布衣を明許することがでるのである。

註 詳ide粥ge=W曇ist試e宮h宣k∼¶㍗“胃 ︵こ ibid・u∽・NU・ ︵二︶ i荘dこSJp ︵三︶ ibid・、弾一﹃・ ︵四︶ibid・﹀S・一00・ 関心の外に無の廊在を鯨示する有的なものとして我々は次に否認斉neinung及び否定看註きngを蓼げ

ることができる。無は既に見来った如く、形式論理蓼的にこれを規定し得ぬものである﹀併し論珊的なる否認の

現象が無そのものの存在を保諾するものとして考へられることは、単に可能なる許りでなく、肴的なるものゝ叙

述によつて間接に無の存在を明かならしめんとする我々の只今の企閥にとつては、甚だ畢要なものとして硯は、れ

る。この論理的否認の現像が有的なるものとして我々にせって明かであることはいふまでもな十。それは否定判

断の存在といふ事賓が明かにこれを誇明してゐる。のみならすか、る論理的否認は、︵ィヂツガ一望Ⅷを以てす 無 の 存 在 ︵二〇七︶一山

(12)

第十≡春 第≡㌍ ︵〓〇八︶ ︼二 れば、人間的現存進の本質に脇すべきものですらもあるのである。然らばその否誰の棋墟ば何慶に存しでゐるの でめらうか。即ち否認は叫鰭何によつて可能であらうか。それはハイデッガーもいへる如く、非すといふこと Nichtによつてゞある。この非やといふことに根掠づけられてゐるが故に否認は可能なのである。そしてその非 すといふことは否定に根嬢を有ち、而もその否定は無の存在によつてのみ可能なるが故に、否認の根嬢は結局無 に於て存することゝなる。かくて非認は要する宜血州によつで初めで可能であり、否認芦れるが故にその結英無が 生するのではなく、撫が国々存在してゐるが故に否認も可能と互るのである。怯って﹁悟性の働きとしての否認 話 の可能性、ひいては悟性そのものが、何等かの形式で無に依存してゐる﹂ことが明かである。かくて﹁無は否認 ︵こ ︵二︶ の撲瀕であ・つてその戊封ではない。﹂即ち﹁無は非サといふことや否認よりも二慮滝壷的であるC﹂以上のことか ら、否認の現象が無そのもの\存在を麒示しでゐることが明かである。﹁否認以外の何ちのが、我々の甥存在に ヽヽ 於ける知の、たとひ本来の奏ではないが常恒的にし三股的に擁がれるその掠示性を、卓勺力闘く明細してゐる ︵≡し か。﹂否認こそまさしくそれに於て撫そのもの∼存在の示されてあらぬばならぬものである。かくて我々は、布的 なるちのとしでの否認の現象によつでも、無の存在そのものを明かに指示することができるのである。 話 冒e邑e盟登1Wasi洛]呂etapF篭ik∼㌍一時わ ︵.一︶ ibidこ舐.NN ︵二︶ i雷d.﹀S●芯. ︵三︶ ibid.﹀00.N一.

(13)

形式論理拳的・惰性的意味の否認は、かくの如く無の存在を鋪嘉する有的宿直であるが、併しそれは未だ存審 拳的意味の否定ほどには嘩接撫に即してゐるものではない。ハイデッガーに於で敢も直接に無に即してゐるもの 註 は否定であり、その否定によつで非やといふことが可能となり、その非すといふことに基いて否認が可能となる。 註 ﹁香誰は無にこ揺る否定に源を有つ非やといふことに根接づけられてゐる﹂といはれるのである。それ故に﹁否認は、 詮 否定する態度、即ち無に接る否定に濠め板嘩づけられてゐる態度の常なる劇つの様式に過ぎぬ﹂ことゝもなる。 ヽヽ かく否定が否認よりも∵慧⋮に近く、随ってまたよヱ暦根源的であるといふことは、佃ほ全人問的活動が恩な ヽヽ ふ悟性作用よりもよゎ根源的で でゐるのではなく、悟性が人間に根櫨づけられてゐるのであり、そしで否認は革なる悟性作用に過ぎぬが、否定 は全人問的躍動だからである。かく否定が盟なる悟性作用以外に、非知的要素監莞nte賢甲in邑e。t莞−を含 むことは、例へばベルグソン昔どによつても特に強調されたところであり、殊にそれは例へば、彿教に於ける否 定の運撃竺督することによつてもよく明かにされるところでぁる。かくでハイデッガーも亦次の如くにいふ﹁思 ヽヽ 惟的否認よりも忘底知れぬものは、反封に行動することの剛毅さや嫌稟することの鋭利さである。より蒜費 tヽ 任あるものは拒絶することの苦痛及び禁止す▲ることの無慈悲である。より仙骨箕荷に感やるものは映乏すること

の辛辣である。﹂そしでこれらのものこそまさしく否定するものゝ態度である。それ故に否定は否認よりも高澤

▼ヽ

く且つ賓任ありまに濱くるしいものである。否定のかくの如き性質はそれがより二櫛直接に時に即してゐるとい 無 の 存 在 ︵こ〇九︶ 二ニ

(14)

ふことから必莞に結馨るもので誇れば誉ぬ。即ち否定は撫そのもの∼自己莞に外宮ぬ。偽っで無の

本質は香掌ることにあるといへる。即ち﹁晶に於て芳し去るもの蓋鰭に於て諾し誤らも侍ほこれを

︵こ二︶ 指示するものとして、無は不安に於て項存在に押し迫って警。﹂﹁かくの如寧本質、これが即ち否雫あー芸無 〓︶

畠が香寄る。﹂無は休みなしに否定←療育去のであるっかくの如く否定が錐の本質である以上、無の存苧の

ものは、否雷存寄るといふ事賛によつて、充分明かにその存廃性が確保されるべきである。

註 Heide深e=弓慧i温罫書lぎsik∼s.田 ︵こibidJm.一戸 かゝる否定の作用がヘーゲルの矯誇法に於て如何に賢哲の、として硯はれ警かは、今こ∼に僻掌る姜

長いっそしてそれがその富力として矛盾といふ霊性嘉しでゐること晶かである。驚喜れば、有と

共に如の霊することによつで、初めて香苦る牒の∼の存布の可能誉桝以も明かにせられ、それ故に否雷

霊は矛眉の存雷明かにし、その矛盾の霊はやがて警共に無の存雷も明かにしてゐることば警のだ

ことであらう。

以上によつて、無の霊は我々にとつて敢早疑ひ得ないこと、そしてその存琵は有的霊の説明によつて挿

示せられること、史にま喜べての′有は無によつてその霊の可能ならし苦れてゐることきが明かであら

ぅ。かくて例へば表に・生の蔭には死があり、意識の奥には憲識があり、闊心の奥には蒜心があり、自我

菟十三令 弟≡戟 ︵こ仙○︶ 劇四

(15)

や自覚の奥抵には無我や無自覚がある。更に例へば有理数の奥に撫理数があり、有限の底には無限があり、有感 の奥に無銭がある。老子の日へる如く、萬物の母にる弔命の前に天地の始めたる無命が存してゐる。荘子も亦、 無動いて有を生ずるといつてゐるのである。 かく一切の有にはその存在の根扱として常に無が存在するが故に、軸が有の・存在を可能ならしめてゐるといへ ㌃。そしてその無はまた反封に有によつてその存在仰が藤山止されるのである。併し以上のことは顛が有を垂簾す るといふことでも、鮎⋮が有を流出させるといふことでもない。コーヘンの非有は根源としで劇切の有の生席をな すものであつたが、我々の無はむしろ有と封宜してその存在を可能ならしめてゐる相封的触と、それの根掠をな してその存在を可能ならしめてゐる絶封的無とを意味するのである。プロティノスの無は叫切の有を超越するも のであり、それ故直接に有に即するものではなく、むしろ全くそれを超脱せる如きものであつた。即ちそれは如 何なる形相も形態をも有つことなき猫立着であり、むしろ榊とも呼ばるべきものであつた。全く超越的に存在す るもの甘乱雲鼓さ∵賢う孟即ちすべでの有から隔絶し去つにものは、如何にしてその存在の存在惟が把捉し得られるで あらうか。プロティノスの二者即ち尊者は、我々の見地よりすれば、撫であると共に看であるところの、謂はゞ 無とも有とも名状し難きところの絶封者、侍ほ厳密にいふならば絶封者とも名づけ難き戎ものでなければなら ぬ。それ厄我々の患味し来った絶射的無にるの性質に近いものではあるが、併し決して存在畢的にその存廃性の 把挺されにものではなかつに。ブロティノスがその明かなる叡智的直観を以て確雀にこれを認めたとしでも、只 無 の 存 在 ︵二劇 ∵︶ 仙宥

(16)

第十二惑 第≡戟 ︵二二こ 劇六 ひたすらにこれを放棄し欝伸し得ただけとすれば、それは我々の立協と同軸のものとはいへぬであらう。我々は どこまでも弧石工つの.布衣としてその存在性を解明せんと欲する。かゝる立婁に於ては、然はとこまでも無であ って常に有との関係に於てのみ存在し、無はどこまでも有に封する矛盾者としで、さうして常にその矛盾者にる の親機に於てのみ存在し、また少くとも問題たり得るものでなければならぬ。プロティノスの〓肇か鵬切の存在 の濾泉であり、絶封的無として考へられるものとすれば、それから流出せしめられにるすべてのものはやはり∴ 者的性質のもの、即ち無としでの性質を有つものでなければならぬ。単に流由せしめられにものは全くその源泉 と異質であることはあり得ない。燕は単に有を流出せしめるものではなく、むしろ有の存布を可能ならしのてゐ る横腹でなければならぬ。無と有とはノ瑚者が他者を生産するとか流出せしめるとかいふ如きものではなく、むし ろ雨着互に張り合ひながら、一棟の緊張関係によつで連関せしめられ、それによつてその各々の存在仲を保誇せ しめられてゐるものと見なければならぬ。有の存在する以上無がなければならす、有は無なくしては存在し碍な いといふことも、嘗は﹁矛眉するものが矛眉するものの存在を可能ならしめスこといふ根本的零態に撼れるに外な らぬ。かく有と錬とは互に封立的矛盾たると共にまた包含的矛盾王るの関係を有ち、それによつで初めてその存 在仲即ち明晰性と判明性とをかち得るものであるが故に、我々は有をいよいよ明かにすることによつて無をます ます吼かにすることができ、また反封に顛への意識を強く有つことによつて省への意識を強めることができるっ 恰も生を明かにすることが死を明かにすることであり、また死に直面することによつて蕉の脅さを惰るが如くで

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六 無は以上に述べたる如く、すべての存在的なるもの、即ち有的なるものの存准を可能ならしめるものである。 さうんて無と有とは封立並に包含なる啓態に於て両者相即不離の緊張関係に於て聯関してゐる。このことの動き なき事賛で凍るが敵に、我々は有的㌢Qものからの指示によつて、またそれによつてのみ頚の布衣の存在性を明 差し得るのであるしかく無が有的なるものからの指示によつてのみ、謂はゞ間藤にのみ、その存在の存布陣を顕 示し得るといふことは、叫鰻何を意味してゐるであうっか。それは無が直接には如何なる意味に於ても規定し得 ないものと心で存在することを意味するものに外ならぬ。若し直接に規定し得るものとすれば、それは有であつ て無とはいひ得ぬからである。こ∼に於て我々は発づ筋こに、朱は無規定性たることをその本質としてゐること の埋を明かに悟ることができる。それ故に無の無規定性を検事することが、やがては無としての存在の存在僅を 明かならしめる所以となる。かくて我々は無の存在の存在性jいふ一見甚だ矛屑らしく見える事柄について槍鼓 するに常り、先づその無規定性について由るべく張ひちれる。 無が所謂抽象的無と呼ばれるものの如く全くの峯虚や無意味ではなく、やはり或る蹄の存在であること、即ち 具憾的無と呼びなされるものであることは既に以上に於て明かであるであらう。そしてそれが眈に或る耕の存在 柳 ● あるし 無 の 存 在 ︵〓〓ニ︶ 丁虻

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第十二義 第≡覗

︵こ蒜︶ 式

場 でぁる以上、やはヱつの存在性を有つものでなければならぬ。無規定性はこの無の存在の存在性として、発づ

第一に容げられねばならぬものである○

無の蝕⋮規定性は、例へばプ芸イノスやへ→ゲルなどの無を想起することによつて充分明かに感得され得るで

註 ぁらう。﹁純粋有は只純粋なる顛規定性に於てまたその尤めにのみ郵であり、−一の宮詮し挫きものである﹂と

いふ言葉に於ても明かである如く、ヘーゲルに於ては純潜有は純粋なる無規定催でるち、そしてその撫規定性と

いふことの故にのみ純粋無でもあつた。即ち純粋有は純粋顛であり、その存在憧は無税定性で透る々規定された

舞はへ1∴ケルにとつでは虞賞の意味の無ではなかった。無はどこまでも自己の血⋮規定的な劇的さといふ如きもの ︵劇︶

でなければならなかった。その無の無規定なる桝以は、それが最も単純なる直接性なるが政一ビあつた。またそれ

が全く形式がなく縫って内容なきものであるが散でもあつた。ヘーゲルはか∼る無を以て絶封者とも或は却つで

純粋有ともいふのである。触規定的といふことは完甚だ漠然なるが如く見えて、賓はこれほぐ明かなる性質づ

ヽ けはないであらう。何故ならば無瀾定傭とは単に仙つのものにのみ規定せられるものではなく、驚はあらゆるす

べての、即ち限り竜き規定のそ風についで可能であることを意味するものに外ならぬからである。随つで無規定

ヽヽヽヽ

性とは忘これを州封的に槻やる時は、未だ規窟はせられぬがこれからいつでも無限に規定し得られる性質を規

はすものとも見ることができる。これ、それがやがで未規定着であり、可視定性であり、所謂可能性であるとい

はれる所以でもあるであらう。まさしくアリストテレスによつては無は可能性であると見られたのである0

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諌 ]暦駕l⋮寧︼C竃−Op監ie︸舟00叫● ︵一し ibi′i.∵二拭. アリストテレスに於ては既に述べた如く、無は三つの賓昧に於ていほれ、その中で最も正常には可能的なるも のについでいはれた。即ち可能的なるものは規賛的にあらざるもの、即ち現驚性の紋如せるものとして無と呼ば れたのである。併しながら撫が可能性として意味づけられることは、それはと♪もなほさや⊥つの可能的存在と して規定されることに外ならぬ.。無が既に可能的存在として規定せられた畔、それは梅も絶封的撫主して布衣し 得るであらうか。即ち無が可能性として規定せられ得る限り、それはその故に相封的無の意味に於てのみ在り得る ものではなからうか。何故ならば可能性とは硯嘗性に対していはれるものであう、そしてその限りに於てのみ意味 を宥つものだからであるっかく常に硯資性に相封立し、さうしてそのことによつてのみ初めて音味を有つものと すれば、それは常然相封的のものでなければならぬ。こゝに現賛性の紋如としての無、即ちアリストテレスの意 註 昧する無が、相射的撫でめるとされる所以があるのである。随って無の布衣の存在性を可能性として性質づける ことは、無の血面的性質づけではあらうとしても、少くともその全面的なる性琴づけ、即ち無そのものの存在性 の解明とはなり得ぬであらう。絶封的無は資は可能性であかとさへもいひ得ぬものでなければならぬ。然らばそ れは如何なるものであるべきか。私はこれは宵は有無超越の紹封着であるが故に、語の汲も深くまた正しき意味 に於て、むしろそれは硯塞性に於て存するものではないかと考へるのである。この言藁冒しき異論と見える鬼 ︵二二革︶一九 無 の 存 在

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勿論今若しその硯資性を解して単に時間・基軍因果の範囁に於ける革質踊保内の賓衣、即ち白戯科解約穫在の 世界、感官的経験の世界の如きるのと見なすとすれば、かくの如き菅世界が抱封的無であるといふことは、固よ り滑稽なこと以外何物でもあり得ないであらう。何故ならば汲も普通にかゝる資性界こそ眞に有といはれ決して 無とはいはれ得ないと考へられるからである。.随って現蜜的なるものを常にこれ以上には解し得ざる常識的乃至 自然科挙的見解に於では、無は決して現質的なるものではなく、それはむしろその反封なる観念性の如きもので あるといふ如くに主張するでもあらう。それ故に掲封的無を以てむしろ硯資性であるとなす我々の詮が剛見輿論 と見られるのも故なきことではない。併しながら、我々の意味してゐる規整性は決してかゝる自然科塾的驚在界 ではない。最も深く且つ忙しき意味の現驚性は決してか\るものではなく、それは例へばニ・ハルトマンが蜜在 界と観念界との此岸に考へにるが如き最も具牌的なる直接着であり、覇へされたる眼にとつては脈々として迫り 乗る或もの、可能的存在や必然的存在を存在せしめるところの限りなき力の活動ともいはるべきものである。随 って自然科挙的事蟹の世界即ち感官的経験尭は決して現軍使の▼名に催し得るものではなく、むしろそれは高々現 賓件なるものの無限なる所動によつて外的に固㍍化せしめられたる、何れかといへばデイルタイの所謂暗い沈猷 せる事物界であるに外ならぬ、即ち我々の見地よりすれば、感官的経験の寛在界は存在の一現象性として必然的 第十二山容 第二仙班 解の、驚は煎らざるべきことの理由について、次に詮明しなければなむぬ。 註 前鶉八八翠象照 ︵二一六︶ こ○

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存在の中の一つであり、その必然叫存在の中の目的因英的雷焉即ち不許不SO−1enに封する機械因果的必然即ち 不可不M︵iss琶の位風土るものに過ぎぬのである。それ故に我々の意味する現背性は瞥はその自然科蓼的常在 ヽ■ 界の存在根櫨であり、さうし仁蜜在界をも劇つの布衣と㌦て可能ならしめるところの原動力である。かくて硯葦 性なるものは、最も典憫的なる無税定着であり、存在といふ存在のすペてのもの、即ち山切の有的なるものに隠 然たる偉力を及ばしてゐる、謂はゞ繹完などでいふ容の如きものである。規贋性はかく最も直接的にしで具照的 なる活動自硯であり、それ故に鋸規定着であり、概念的には把捉し能はぬものであるが故に、普然無と稀せられ 得るものである。かくの如く見凍る時、何人か抱封的無の群衆件を以て現驚性的なるものとなす我々の毒柁を重 くの輿論として難じ去り得るであらうか。 併しながら我々は飼ほ他の方面から、紀動的無が可能性でも必然性でもなくしで現質的存在でなければならぬ こと、即ち相封的存在者としての可能性と必然性とを存在者にらしめてゐるものは絶封的撫であり、その絶封的 無は規嘗性として存在せねばならぬことの理を説明せんと欲する。額づ−般に存春着として存在するものは程々 の現象形態に於て存在し、そしてその現象形態には普通、可能的形態、必然的形態、硯琶的形態のlニつが考へら ヽヽヽ tヽヽヽ れてゐる。我々は存在者の存在のこの三つの甥象形態をそのま∼に是認しうゝ、而も倍ほその間の存在関係をこ ヽヽヽヽ 督することをより進んで、抱封的無が一つの存在であるといはれる時、それはむしろ − 現菅的なる現象形態で ︳ヽヽヽ︳ヽ ぼなく﹂﹂疲密性そのもの即ち現鹿的存在そのものに於て存しなければならぬことの印を明かならしめようとす 無、の 存 在 ︵ニー七し ニー

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るのである′0 ﹁凡て矛盾するむのが矛盾するものの存在を可能ならしめる﹂といふ原理より、存在者としての有が併存春着 としての無によつて初めてその存在が可能であり、また反封に無は有によつてその存在性の確語せられてゐるこ とは眈に明かであるであらう。この有としての存在の中に可能的存在と必然的存在とが考へられ、規質的存在は これらと同じ平面上にあるものではなく、むしろそれらの根砥にあら、以てその有を有たらしめでゐる無的なも のと考へられる。今若し可能的存在を相封的無と見なす時、必然的存森は相判的有と見なされ得るであらう。か く見る時、規嘗的存在は、これら相封的なる有無の≠界をすべて打つで仙丸とせる仝閻的統叫怜としての存在臼 餞とも見られるであらう。縫って硯襟的存在に封する可能的存在及び必然的存在は、また金牌的存在に封する部 分的存在とも見られ得るであらう、かくて相封的有無を部分として有つ全鰭的故山性として、硯僅的存在は有と 無との混合であると、澤き意味に於ていはれ得るのである。規質的存藤が絶対的無であるとなされるのも、かく 相対的甘る有無を包含しっ∼而もこれを超越する絶封着であると思はれるからに外ならぬ。 七 さて無は非存在であり、存在せざることをその本質性となすが政に、無についての存在怖の究明は、恰も闇に ついてのその姿の追究と同じ意味彦有つものとなるであらう。けれとも触甘亦尊者布衣であるが故に、それについ 第十三巻 第二山畢 ︵ニー八し 二二

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て存在性を問ふことは、閤の春華の認ぬられ各限り、許さるべき事柄であらう。然らば無と有との布布に於て、 それらの存在性が如何に異るべきであるか。これについては、既に見に如べ、無に於では布衣怖が直ちに非頭象 性であるが、有にあつては、それが直ちに現象惟で㊥るといふことによつて、囁別し得られるであらう。それ故 に、無については、その存在性は間ひ得てもその現象鮎は開ひ得ない。然るに宥についでは、その存在性を閃ふ ことが直ちに現象性を間ふ桝以となり得るのである。 さで然らば、その存在者即ち布としての存在が有つ現象には如何なるものが存してゐるであらうか。我々はこ こに生命現象、意識現象、文化現象、自然現象の四つのむ¢を数へ蓼げることができる。さうしでこれら現象す る有に則するものとして相封的無が考へ得られ、その租射的無とそれらすべての瑠象的存在との打って叫丸とせ られたる金牌的・紀封的・.統叫的存在が、絶封的無即ち疲蛮性そのも・のと呼びなされ得るものであらうと思ふ。 それら存在的なるも・のの相互の関係については、今は只、そ▼の概胎的管見のみをなすことに止めて竃かなければ ならない。 先づ可能的存在の領城に於ける存在的現奴は、生命現象及び憩識現象と考ぺられる。.何故ならばこ皐には替・ 意 ・正邪・実醜・眞惰などの一切の慣値的聖止はなく、在るものは只、それらの封五官しれから生ぜしめ得る可 能性だけであり、すべてが専ら程度の菜のみによつて二列に連る謂はゞ意味的存在の世界とし・て存蒸すかから・で ある。、次に必然性を核心とする存布的現象は、文化現象及び自然現象と考へられる。こ∼に於てはすべてが慣値 簸 め 存 在 ︵ニー九︶.こ三

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第十≡巻 第≡鋭 〇三〇︺ 〓四 的見坤に於て評慣せられ、仙が探持されて他が棄却されねばならぬ揮叫的酎立の番で預はれる。そし.てその中の 不許示が文化現象の世界を形成し、その不可不が自然現象の世界となつて甥はれる。さて然らば餞る硯寛的存在 とは何か、普通にはこれが自然瑛象であり、自然科革的夢暦の世界であると仰せられるが、その然らざる桝以は 既に明かにせるところ、さうしてその理由は、若しかくの如く解するならば、そこに色々の困難〆生起し来るか らに外なちぬの 然らばその困難とは何か。兜づ甥寛的存在を自然科挙的澄在界と見る時、硯資性は可能性や必然性を存癒せし めてゐる常のものなるが故に、自然科挙的事賓の世界が可能的存在としての生命現象や必然的存在としての文化 現象を存在せし竺しゐることとならねばならぬが、かゝることのあり得ないといふことが、第∼の困粍である? 次に、硯琶性は多くの人々、例へばアリストテレスなどにがつでも常に作用と解せられ、活動的なるものと解さ れてゐ、事賛また然るものと考へられねばならぬが、酎然科挙的軍産のせ界は決してか\るものではなく、むし ろそれは固定せる疇獣のせ界と軋られねばならぬといふことが第二の由難である。 こゝに現贋性がむしろ相封的有無のせ界を薪〓した仝鰻的絶封的存在と解されねばならぬ所以がある。﹁凡べて 矛盾するものが矛盾するものの存在密可能ならしめる﹂と\いふ時、そこには合邦相矛盾する雨着の各々にその存 在性を保澄してゐるところの鮪二的金牌力或は活動といふ如きものが考へ㌃れねばならぬ。それが規鷲性たるも のである。.それ故にこそ硯管性は可能性や必然性と同軸水平線にあるものではなく、むしろそれ以前た、それら

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の各々をすべて自らの部分的存在者として存在せしめてゐるところの金牌性として存在する所以である。即ち可 能性や必然性は硯賓件に射することによつて初めで可能性にり必然性たぎしとができる。現賓性を離れては可能 性も可能性たり得モ必然性も必然性たり得ない。、そのわけは可舵性とは現資性写り得る性質といふに外なら す、必然性とは硯嘗性にらざるを得ぬ性質藍息昧するに外ならぬからである。規賓性との関係を離れたる可能性 や必然性は恰も金牌を離れたる部分の如く、重く抽象的のものであり、有的なるものとして存在し得るものでは 。 然るに山方我々は、可能的存在や必然的春蚕の存在性は﹂それに矛膚すか非存在即ち無によつて初めて保許せ られる所以の理を見来ったのであるひ即ち無を離れたる有は、また恰も重機を離れたる部分の如く、全く抽象的 なるもの・であり、それ自身有的なるものとんて存在し得ぬものである。 こゝに於て、可能的存在と必然的存在を確諾するものとして、我々は一方に現驚性を考へ.他方に無を考へる のである。こゝに二見甚だしき不整合の生ぜし如くに思ほれるが、併しこの不塾合を不重合㍗らしめざる所以の ものが、即ち我々の今解明せんとし努力しっつあるところの事態そものものの明許となるのである。それは一偲 何か。即ちこれら有的なるものに封立してこれに作用してゐると考へられたる限りに於ては、無は均質性たるの 性質を有つものであるといふことこれである。それ故に無が、さうして特に絶封的無が存癒すぞものとして考へ られた限り、それは規優性として存在することが考へられねばならぬ。かくいつでも勿論それは、縫封的無が常 鹿﹁ の 存 在 ︵二ニー︶ 二五

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欝十二呑 第三軟 ︵こ三こ ■〓ハ にいつ象でも現蟹性としで存在すること藍風味するものでははい。それが喝犀性となるのノは・まさにそれ自らが 有的なるものに封してその存在性を燥話すべく働らく限りに於てである。かく特に働くことなき限りに於では絶 針的無と錐もむしろ硯傑性なるものの部分的存在として、他の有的存在と共に仝鴇的統山的絶封著そのものの構 成をなすものとなる。この瞬間に於ては絶封的無は最早その名には値ひせや、むしろ相封的無なる名に価ひする ものとなる。かく無が瑞賢性として作用し活動する限りに於ては、それは常に革なる存在ではなく、有に酎しで 絶えすこれを刺磯し、そそり立て、その白壁にまで騙り立でるものとなる。即ち無はそれ自らの所動に於て常に 有のすペてに勤し、隠然たるガを押し及ぼしでゐるものと払る。かくでハイデッガーもいへる如く、無の本質は その働きとしての否定の作用にぁり、而も常に現存在に押し迫りつヽあるものとしで存することが明かである9 それらのことの最も明か写る許嫁が、まさしく人間的頒布在の常に不安に製はれ、関心々飴儀なくされでゐ桟と いふそのことの中に存してゐるのである。さうしてか∼る暗然たる偉力を.無が可能的存在わ、必然的存在に糾し て及ぼし得る所以のものは、それ自ら硯質的存在性にる性質を有つからであつたのである。 ハイデッガ1の硯存疋が無の中に任して居りヾまにむしろそれ自ら仰の撫であるといはれる所以のも.のも、そ の瑛存在が最も甥故的なる典鰭的清掛として、朴界−円上渾夜着であり、まに他の〓切の個々の≠界内魔的布寒 者告白らによつて存在せレめてゐるからに外なら風。かくそれが液も硯密約なる具鰭的活動なるが故にこそ無と 呼ばれねばならことは、それが即存在的に我々に最も肝て、むしろそのもの白身が我自らであふからに外なら

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ぬ。我自らは世界内に癒すねがら議の個々の存在者を存在者たらし釣てゐる活動者そのものであるが故に、

それ自らはむしろ無と警られねばならぬのである。ヘーゲルが純粋有は純粋無と同盲あるといふ時、その純

粋有とは規寛性を晋映するものでなければならぬ。

竺の絶判的管しての規蟹性、及び有としての可能性、必

然性との相互的閥係は、瑚ほ存在の現象銅係を明

かにすることによつて、忘瞭然たらしめ得られるであらう。けれともこれは、今後の課褐として、留保せしめ

られねばならぬ。 ︵了︶ 附託−莞枝光氏が誓雑雪女の如く述べてゐるの考興味深く飛んだ﹁大戦後のヨー;言あつて、苦情蒜乱

したフランスの祀曾はプルーストを生んだ。彼は、触州の清朝を以て、フランス精神の中央に漠々と巨醍を登場させた

⋮是でも、国民の思考カが白易の行警見失ふときに、常にこの撫の紛糾が、地上忙下基の如くもろもろの朝

食の流言行ふ。Lかも今までのところでは、この無の綺紳は、蒜に不可解の豊富きかくの如く細川の間慧

既に象牙の塔内のものではない。それは馴般人の生々しい間警苛つつある。水稲は少しく蕾稿に恩するものでは

あるが、ここ蒜衆の機曾を得て、この号しい問題忙劃して何等かの貫就差すことがあ孟らば率である。=≡、 七、血︶ 無 の 存 革 ︵こ二三︶ こ七

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