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話線について--音と意味の分節-香川大学学術情報リポジトリ

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87 話線について一昔と意味の分節

守 矢 信 明

8. ばじめに ≪彼は音痴である≫というとき,「音痴」という言葉ほ,例えば「広辞苑」 によると「生理的欠陥によって正しい音の認識と鑑賞と記憶ができないこと」 とある。「音痴」に相当する英語,フランス語の表現ほそれぞれ次のように.な る: Heis tone−deaf.

Iln’a pasl’oreille musicale.

「広辞苑」では.間接的に「耳」に問題があると説明しているが,こちらでは もっとあからさまに≪耳が悪い≫と表現している。生理学上音痴というものが どう説明されるものなのか私ほ全く知らない,その不明を恥じるものの,その 上でここに一つの素朴な疑問がある。それほこの世守こは「音痴の音楽好き」が 少なからず存在しているということである。それで思い出されるのはあるアメ リカ夫人のレコt−ドになった歌である。彼女ほ大変な音楽好きであった。それ もクラシックとかオ・ベラが好きだった。熱意が高じて彼女の歌はレコ・−ドとな り,たちまちにしてベストセラ1−となった。堂々たる歌唱,そして堂々たる調 子ツ外れ,彼女は徹底した音痴だった。 そこで私の素朴な疑問に戻るが,この夫人は確かに正しい音程を保、つて歌う ことほできないが,はたして正しい晋の認識,鑑賞が同時にできないのだと断 定できるだろうかということである。少くとも,彼女の再現する音が,彼女の 耳に聞き取られ得たであろう音だとは思えない。なぜなら耳が把えた調子外れ の音をそのままロが再現できたのであれば,定義上,彼女ほ音痴ではなくなる のだから。 0.1話を音楽の問題から言葉の問題に移してみたい。言葉にもまた「聞く」

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守 矢 信 明 88 と「話す」,すなわち音の聴取と音の再現という二面がある。そして音楽にほ 音痴,味覚には音痴という■言い方があるが,言葉に.ほ少くとも「痴」と称され ●● るようなものほない。それを指す言い方こそないが,−−・方通行の組合せは音楽 や味覚以上にある‥「聞く」のは駄目だが「話す」ことほできる;「話す」は駄 目だが「普く」ことはできる;「香く」ほ駄目だが「読む」は得意だ,等。「聞 く」「書く」「話す」の三要素の組合せだけで全部で8通りある。程度も考慮 すれば無数である。音楽ほ歌えなくても聞くだけで成立つ。味覚ほ自分で作れ なくても味うことほできる。しかし言葉は「書く」ほともかく,「聞く」と「話 す」ほどちらが欠けても片手落ちで,コミ.ユニケ・−・ションほかなりあやういも のとなる。最近の言語教育では読む,普く,話すの−・体化が標樺され実践され ている。しかしなぜか「聞く」は除外されている。あるいほ「聞く」ほ「話 す」に含まれているのだろうか。多分そうだろう。しかし「音痴」の問題でひ っかかりを覚える私ほ,「聞く」も,他の「話す」「書く」「読む」と肩を並べ る言語習得の四要素の一つと見なしたいのである。つまり「聞く.」は「話す」 に・併呑されるような問題ではなく,言語習得を昌がけて相競う(三要素ではな く)四要素の一つと見たいのである。そうした視点から私ほ以下に主として音 の面から把え.た言葉の問題に.言及してみたい。 1.0 まず「音痴」の所で触れた疑問が言葉ではどうなのかということをは っきりさせておきたい。先に音痴にあたる英語,フランス語の表現を挙げてお いたが,次のやりとり(l)ほ,音楽とほ無関係な言葉にまつわるフランス語の表 現である:

−IMaiselle prononce bien! 彼女なかなか発音がいいじゃないか。

−C’estqu’elle al’oreille fine.なにしろ耳がいいからね。 このやりとりの発想を支えているものは耳とロの密接な相関関係に対する合 意である。ところで「発音がいい」とは「正確な発音」のことを指しているの か,それとも「芙しい発音」のことであろうか。確かに正確さと美しさほ別々 の評価ではなく,同じ一つの評価(正確さ,すなわち美しさ)だと言えなくもな い。しかしことが言葉に関するかぎり「美しさ」と「正確さ」は,矛盾はしな

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話線について一首と意味の分節 89 いが,二つの別の事柄である。そして人の美的感覚を刺戟するような「美しい

発音」はできるに越したことほないが,言語習得の上では不要である。必要

なのは「正確な発音」である。その正確さとは,例えば日本語の場合,老若男 女,悪声美声を問わず,ふつうに日本語を使ってコミュニケ・−・ションができる 人々すべてにあてはまることである。これは非常に広い(ゆるい)概念である。 おそらく広すぎてCri七色reとしては殆んど役に立たないほどである。ましてこ の意味で「正確な発音」には「正確な耳」が必要かといえば,われわれの殆ん どが日本語に.関するかぎり1’oreille fine(繊細な耳)の持ち主であり,その 程度のことであれば,なるほど「■正確な耳」ほ必要である。もちろん言い換え れば,正確な発音に特別な耳は必要でほないということになる。 1.1 ところが,話が母国語である日本語から,他の外国語の習得について となると,以上の説明でほ何か物足りなく思われ,その通りでほあるがあまり 教えるところのない無駄なおしゃべりのようにも思えてくる。そして−またぞろ 具体性の仮面を被った「耳が良ければロも良し」という神話のカが本当らしく 聞こえてくる(2)。 確かに.母国語を問題にするかぎり,殆んどの人々が正常な耳と口を持ちなが ら,母国語以外の言語を習得するとき,この正常さは必ずしも正常に機能して− こないというのほ.経験的事実である。そこで正確な,とか,美しいといった実 情のほっきりしない言い方をやめて,言語音の正体に迫る視点に立つ必要があ る。例を≪ラッパ≫と≪江の島≫に取って考えよう。日本語には/γ/と/エ/ の区別がないので,仮に〔rappa〕と発音しても〔1appa〕と発音しても意味 の区別がない(8)。同様に≪江の島≫の「一江」を〔e〕〔e〕〔je〕〔je〕〔二i〕〔oe〕 のいずれかで発音し,「島」の「し」を〔.Ji〕〔si〕〔su〕〔s≠〕のいずれかで発 音するとすれば,24通りの組合せができるが,これらほすべて多少のなまりの 印象を無視すれば,いずれも/enoIima/と処理(理解)されよう。Variantes は音声上区別されても意味を区別する上でほ本質的ではない。しかし英語での rap〔rap〕と1ap〔1ap〕,フランス語でのChat〔.1■a〕とSa〔sa〕もしくは aimais〔eme〕とaim占〔eme〕ではそれぞれが別の言語音となって,音のち

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守 矢 信 明 90 がいが意味の区別に.役立っている。意味の区別に役立つ音,すなわち音韻は 各国語で数が限られている。 日本語では21∼22,フランス語でほ大体36であ る。そのうち母音は日本語の5に対しフランス語では16(4),と三倍強である。 日本人が■フランス語の母音を習う場合,さらに.新らしく11の母音を学ばなけ ればならない計算に・なる。しかし言うまでもなくフランス語の声音16ほ,日 本語の母音5+11でほ.ない。同じ〔a〕でもフランス語のそれは他の15の母 音に対する〔a〕であり,日本語のそれは他の4母音に対する〔a〕である(図 Ⅰ)。 フランス語の母音 日本語の母音 〔区=〕 新らしい音を学ぶというとき,確かに印象の上でほそうも言えるが,厳密に は新らしい音韻体系を学ぶというべきである。ということは新らしい実質を学 ぶというのでほなく,図Ⅰからも分るように,全体における部分の位置づけを 新らしく学び直すということである。さらに言えばそれは実質でほなく組織法 を学ぶのである。繰返して言えば,言語音というのは個々の物理的な音声では ない,物理音から得られる音韻という観念である。われわれがある言語音を認 識し,それを記憶するとき,われわれは決してその昔を孤立させて把えてはい ない。一・回性の物理音は聞いた途端に.忘却させられると言っても過言ではな い。ある言語音のidentification(同定)は,それ自体の性質によってなさ れるのではなく,その言語の音韻体系の中の他の要素と異なることに・よって同 定される。例えば(p,b),(t,d),(s,Z),(.T,3),(k,g)の音は合計10種の 音である前に,合計5種の音である。()で括られた各要素は実は調音(運 動)上全く同じ音である。pとbを分けるものはpに.特有の性質,bに特有の 性質によってではない。声常のふるえの有無,その一点だけである。

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話線について一昔と意味の分節 91 1.2 音韻が体系化されるのは,その差異特徴による。異質なものの寄り集 まりではなく,均質なものの分節であり,分節されたそれぞれほ.差異特徴に よって対立し合う。この点に.関して示唆的なのほ,赤ソ坊の母音である。赤ン 坊,すなわち新生児ほ機嫌の良いときなどによくア、−とかウ1−・とかいう音を発 している。これはよく聞いてみると実は〔a:〕とも〔u:〕とも〔e:〕とも〔0:〕 とも〔i:〕ともつかぬ,きわめて綜合的な母音である。これを先の図式Ⅰと合 わせて考えた場合(図Ⅰ)(5),i)ii)iii)の相異はより綜合的か,より分析 的かの相異であ、つて,ii)の/a/はi)の/a/のプラスαを吸収しiii)の /aノほi)ii)のすべてを吸収している。つまり新生児の母音はフランス語と 日本語のすべての母音を吸収し,日本語の〔a:〕はフランス語の〔a〕の一・部 を吸収しえているが,フランス語の〔a〕ほ新生児のそれも,日本語のそれも 吸収しえていない。速笹言えば,新生児の母音はフランス語と日本語のすべて の母音を分析しえず,フランス語の〔a〕は新生児のそれも,日本語のそれも 分析しうる,と言える。 i) フランス語の母音 ii)日本語の母音 iii)新生児の母音 〔図Ⅱ〕 新生児の母音は,分節がないという点で動物の吠え声,叫・び声と同じく,言 語の音とほ言えないかも知れない。しかし胚胎期にある言語音であることほ疑 いない。彼は徐々に個別言語の(日本人なら日本語の)言語音を習得してゆく だろう。そしてその習得とは,新らしい実質の習得(記憶)ではなく,すでに 有する音の分節の仕方,組織の仕方であるということほすでに述べた。 2.0 新生児の綜合的母音から個々の分節された単音への移行ほ,同時に言

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守 矢 信 明 92

語の二重分節(double articulation)の習得過程でもある。Martinetは言

語のメカニスムをこ墓分節という点から把えた。話を進める上で,この二重分 節という問題に立ち入ってみたい。 われわれが行なうコミ,ユ.ニケ・−ションの過程というものは,大雑把に言っ て,AからBへの何らかの経験事実の伝達である。言語はその経験事実を運 ぶいわば箱である。ところでなまの経験というものほ,いまだ分析の加えられ ていない均質の連続体である。話者はこの連続体である経験を,線条の不連続 体のつながりに区切り,区切られた不連続体は聞き手にわたって元の経験に還 元されてゆく。例えば頭痛がするとき,■フランス語では: J,aimalala tete. と言う。頭痛という区切られない均質の経験がJe,aimal,a,1a,tete とい う6つの不連続体に変えられている。ここに使われている各要素ほ.頭痛とは全 く関係のない事柄を伝達する場合にも使われる。この経験を−・連の意味をもっ

た要素(Martinetはこれをmon畠meとよぶ)に区切るのが,第−Lの分節で

ある。mOn占meの数は理論上限られていないが,事実の上では有限である。 次に,それぞれのmOn畠meほ音のレベルで弁別要素(phon畠me)のつながり に分節されるが,これが第二の分節である。phon昌meの数はさらに・限られた もので,Martinetの言葉を借りればほんの「二,≡ダ1−・ス」(8)である。 こうして言語のこの二重分節のおかげで ,われわれは数千のmOn畠mesを組 合せて,無限の相異なる経験を表現することができ,またわずか数十のpho−

n畠mesを組合せることで数千のmOn色mesを区切することができる。経験事

実を ≪J,aimalalatete≫ と6つに分割するか,≪頭 が 痛い≫と3つに

分割するかほ,それぞれの言語体系の組織の仕方のちがいであって,経験とほ 何ら必然的つながりをもたない。また七色teとはもともと「壷」という意味で あって,「頭」を意味するから〔te:t〕という phon畠mesを使わなければなら ない必然性はない。それを〔atama〕もしくは〔b:〕という全然別な pho− n昌mesで表わすことも可■能である。 2.1かつて谷崎潤一・郎はその名著『文章読本』の中で,「況や日本語に.なる

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話線について一昔と意味の分節 93 と,読み方などは日本人の間でもまちまちであり,その他稔べての場合の規則 が,あると言へばあるやうなものの,外国人にも分るように説明せよと言われ ると,出来ないものが沢山ある。西洋人が最も困難を感ずるのほ,主格を現は すテニヲハの「ハ」と「が」の区別ださうでありますが,成る程,「花ほ散る」 と言ふのと「花が散る」と言ふのと,明かに使ひ道が違ってをりまして,われ われならその場に臨んで迷ふことはありませんけれども,さてそれを,一・般に 当て飲まる規則として,抽象的に言へと言へば出来ない。文法学者は何とか彼 とか説明を与へて,一応の体裁は取り繕ふでありませうが,そんな説明は実際 の役に.立たない。」と嘆いた。昭和9年の事である。それに対して文法学者の 側からほり 日本語についての完塗な文法讃がないとほ言えるが,日本語に文法 がないとほ言えない,という反論がいつでも用意されている。つまり「花が散 る.」とイ花は散る」のちがいを潜在的に自覚しているか,顕在的な法則として 自覚しているかという問題である。ただ残念ながら,日本語に対するわれわれ の文法的自覚はあまりに潜在的で,他の外国語の学習の際にあまり役立って 釆ないというのが実情である。従って外国語を学ぶ最初に,日本語の「さ」は S+aのこ青から成るということから説きおこすことは,ばかばかしいようだ が大事なことに.なってくる。もう−・つ,例を「促音のツ」と呼ばれるものに取 って考えてみよう。次のような発話があったものとする: ≪大阪の奥さんほ「うちのひとは東京にいま行てる」と言ってる≫ ここで,「行てる」と「言ってる」のちがいは「つ」の有無であり,われわ れほ.それを「つまる感じ」という印象で把えている。その印象は正しい。しか し谷崎夙に言え.は,日本語を初めて学ばうという老にとって,それは何の知識 も与えてくれない。「さっき」「言った」「カッパ」「−・茶」「いっしょ」で の「つ」の相異ほ調音運動上のちがいとして理解されなければならない。音響 音声学的にはこれらの「つ」は閉鎖性十破裂性である。しかし調音運動上は別 個の音がそれぞれ介在している。便宜上これらをロ・−マ字表記すれば,Sakki,

itta,kappa,issa,if.roとなる。二つ並ぶ同一子音中,まず当該の(kなら

k)子音が調音される。調音されるがそれは黙音のままであり,−・拍おいて のちに発出される。われわれが「つ」と文字で表わすものほ,音韻論的には

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守 矢 信 明 94 /saQki/,/iQta/,/kaQpa/,/iQsa/,/iQ.ro/と表記される(7)。 「つ」の発音法をわれわれ日本人の殆んどが体得しながら,それを説明する 知識を持たない。それは−・面白然のなりゆきである。しかし知識があれば,次 のようなフランス語の連鎖:

des habitants de toIJtela ville

PerSOnne ne traVaille

paエ三宝eOurira・ を前にしても,わずかの連想でわけなく自然な対応(発音の上でも,聴取る上 でも)ができるはずである。 2.2 二重分節という言語のメカニスムから言って,Phon畠mesはmon畠mes の識別素として学ばれなければならない。母国語でほphon畠mesはmon昌mes の中に折り混ぜて学ばれるから,ただ単音としての把握だけでなく,今述べた ような連鎖の中での把握も無理なく習得される。しかし成人が母国語以外の言 語を学ぶとき,最初に・phon畠mesを−・括して学ぶのカミ.ふつうであり,その方

が言語の経済性(数十のPhon昌mesを組合せることで数千のmOn占mesが作

られ,数千のmOn占mesを組合せることで無限数の経験が表現できる,という 経済性)から言って理にかなっている。phon畠meの学習ほ,われわれの場 合: a)日本語にひきつけて,あるいはそれとの比較対象で教える b)運動(調音)音声学的観点

C)理屈ぬきのimitation

のいずれか,もしくは混合方式で行なわれる。問題は種々様々に.あるが,この レベルではまずまずの水準に達している,あるいは達しうると言える。だが驚

くべきことにはphon畠me より上の段階,すなわちmon昌mes,grOupeSde

mon占mes,phrases,discours(昌nonc6s)のレベルでの学習が,事実上,完

全に等閑に付されているのである。理由は二つ考えられる。一つは現在の語学 教育が置かれている逆境(教材の不備,学生数の超過,等),もう−・つはこの 方面の研究の遅れ,である。前者について述べることは本論の主旨ではない。

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話線について∼音と意味の分節 95 本論が追いつづけているのは後者である。 理屈の上では,その言語の音韻体系を構成する各要素,すなわちphon昌mes

を習得すれば,Phon占mesによって区別されるmon畠mesが,mOn畠mesに

よって構成されるgTOuPeS de mon占mesが,そしてそれから構成される

Phrasesが,最後にphrasesによって構成されるdiscoursが理解されるは

ずである。だが周知のように事ほ理屈通りには行ってない。逆境が順境となっ て,訓練につく“訓練を積めばあるいは理屈通りに運ぶかも知れない。ただその 日が来る前に,もう少し理屈の面で疑問をもち,その疑問を解明しておく必要 がある。 2.3 ここに興味深いテストの結果がある。私の受持つフランス語のAクラ スの諸君(58名)に次のような日本語を口述し,聞こえた通りに層き取っても らった。口述は二度行ない,一仙度目に書き取り,ニ度目に訂正があれば訂正を してもらった。日本語又は次の通り: ≪むかし,にわとりのたまごは男がひろい,ひらった たがもは女が売っ 1 2 た。たまごは/くック,あの,女性がむ皇室の前でベタベタぬるパックとし 8 ても使われる。 この話は文福茶旦蚕に出てこない。≫ 4 これと同じテストをBクラス(60名)でも行ない,さらにCクラス(24名)で ほ次の文例で類似のテ.ストを行なった: 2. コP:/ブスのたがも 3.かがみよ,かまみ 4.文福茶まが 以上の結果は表の通りである(数値は/く・−セソラトージ) 。(表で,+ほすべて 「聞き分けた者」を示し,一については,1が「ひろう,ひろった」とした 者,2が「たまご」とした者,3が「かがみ」とした者,4が「茶がま」とし た者を示す。)この結果から分ることは,読まれた通りに聞き取った学生が圧 倒的に少ないという事である。殊に2,3,4でほ大半の暑が音の奇妙な組合

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守 矢 信 明 テ スト の結果 96 20 せに気づいていない。口述者がふつうのスピ・−ドで,しかし明確に,大声で読 みあげたにも拘らず,である。Cクラスの場合は比較的小人数で(ということ はクラス全体の集中力が高まる),話線が短かかった(ということは,集中の 努力が比較的少なくてすむ)ことが原因して,A,Bクラス程+−が極端に 分れていない(それでもやはり−・のパ−・センチ・−ジの方が高いことに注意)。 このテストの狙いが〔ra〕か〔1a〕か?といった日本語の音韻以外の音の聞 き分けを試したものではなく,「tag・amO〕か〔tamago〕かといった,日本語 で認められている音韻どうしの,組合せのちがいを聞き取れるかどうかを試す ことであったことは明らかである。しかしながらテストの結果は先に見た, 〔αnOSima〕 =⇒ /eno.√ima/ 〔enos≠ma〕 のように音声一音韻間に見られるのと同じ収赦現象が, 〔tagamo〕

=⇒ /tamago/

〔tamag0〕 のようなmon畠meのレベルにも起り得ることを示している。なぜそうなるか について,学生の集中力の欠如を責めることもできよう。しかし,むしろ聞き

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話線について一昔と意味の分節 97

分けをしない方が自然だとするなら,原因は他に.求めるべきである。視覚に・お

けるパタ・−・ソ認識というものが聴覚にもあるのかも知れない。だが話を元に・戻

して,弁別要素としてのphon占meはmon由nesを区別するのに役立つとい

うことを思い起こすとき,〔tagamO〕を/tamag0/と処理(理解)した人々

は,口述される日本語の言表が,先ず何よりも第一・に意味のある言表であろう

という共通の誤解に.立っていたということである。テストの際の問題の出し方

が,もし「次の各音ほ/臥ているがちがう音です−。それぞれの各組.を聞き分けな

さい:1.タマゴとタガモ,2.…」というようなものであったなら,結果はま

た別であったろう。

2.4 実を言えば,テストに.使われた「タガモ」と「カマミ」ほ,かねてこ

歳の幼児から採取しておいたものである。この幼児の場合は,正常な音連鎖

「カガりが正常でない「カマりという連鎖として把捉されていた。回数を 重ねても,「か−・・か−・・りと引っ張って−教えて−も「■か州・マ加・ミ・−・」と なってこしまい,そうした期間がほぼ一年近く続いた。「タガモ」について:も同 様である。 さて,先のテストを受けた学生諸君と,ニ歳児の場合とでは,反応の立場が それぞれ逆である(タガ・モく−>タ・マゴ)。だが両者には共通して,音速鎮(1a

chainedessons)と発話行為の連鎖(1achainedesactesdeparole)(8)

のずれがある。学生諸君の多くにほ.音連鎖に対する受け取り方にザれが見られ (これをAタイプのずれ,とする),ご歳児には発話行為の連鎖に対するずれ 許連鎖(ずれ) 発話行為の速鎖 音速餓 発話行為の連鎖(ずれ) 〔図Ⅲ〕

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98 守 矢 信 明

が見られる(これをBタイプのずれ,とする)(図Ⅲ),Bタイプのずれは調

音運動がうまく運ばないことに帰因し,典型的にほ早口言葉の場合に見られる

が,外国語の学習の場合に も時折見られる。調音器官 (吾と唇)の運動量を日本 語とフランス語で対照的に 図式化すれば(図Ⅳ),フ ランス語の運動量の二万がほ るかに多く,かつ激しいこ とが分る(垂直線ほ上に行 くにつれ舌の位置が上が る。水平線は十方向が平唇 フランス語(宍線),日本語(破線) 〔図Ⅳ〕 化,「・方向が円唇化を示す)。日本語の口の動きに慣れている者にとって,左 右前後に口を開くこと自体が極めて難かしい。たちまちBタイプのずれを経験 することになる。しかし今,「時折」と.言った。というのは実際には学生が惧 盈で,間違いをおそれるあまりゆっくりと,かみしめるように発音を試みるか らである。むしろずれ易い自らのマイナス帝を−・日も早く克服して,自然なス ピ、−ドでの調音活動ができるようにするべきであるのに,修得よりは失敗の乃 をおそれている。そのため,毎年授業の始めには,目では読めても口では読め ぬ例として,例えば「少女シャンソソ取手」のような言某を発音させ,フラン ス語音の修得に必要な唇の緊張,看の動き,声量の重要さを自覚させようとす るのであるが,大抵ほかばそい小声で,かみ.しめるように,聞達わずに.′読ま れることが多く,鼻白む結果となる。そのほかに,最近耳にしたBタイプの例 では≪ティ、−ム・チーチング≫というのがある。teamは殆んど日本語化して 「チ・−ム」と発音するのがふつうであるが,teaehingの方はまだ一・般化して いない。教養もかなり高いその人は,japonglais(和製英語)を嫌ってteam を「ティ・−ム」としたまではよかったが,〔t心q の連続に舌を巻かれて「チ ・−チソグ」とつないでしまったわけである。 次にAタイプのずれであるが,こちらの例として−ほ,フランスの詩人

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話線について一昔と意味の分節 99

Ma11arm畠の名をマラメルと記憶してしまった人がいた。この人が友人と

Mallarm畠の詩について議論した。マラルメは,いやマラメルほ,と口角抹を 飛ばしての白熱した議論が続いたが,ついに相方とも「マラメル.」の不自然さ には気がつかなかったというものである。マラメルに限らず,おそらくわれわ れ自身,聞達って記憶してしまった語の聴覚映像というものを,必ずやいくつ か隠し持っているほずである。出来合いのあり得べき例としては〔egzamg〕 を〔egZama〕(examen),〔1ggtlist〕を〔1ggist〕(1inguiste)など。Aタイ プのずれほいずれにせよ無知と誤解のなわばりである。 3.O A,Bタイプのずれはなぜ生ずるのだろうか。言うまでもなく単独音 ではこの種のずれほ起り得ない。事がすでに話線の段階に・あるからである。一・ つの要素が二つになる,ということは,話線に.なるということである。そして 一つの要素が.ニつになるというだけで,すでに関係が生じ,規則が生じたので ある。 同じ音には同じ発声行為が対応するはずであり,その道も言えるほずであ る。ということほ.音連鎖を断ち切っていったとき,そこに対応する発声行為が 見出せるはずである。だがこの事は何によ、つて認証されるのであろうか。この 点に閲しSauss11reは次のように述べている: 「われわれがbとは何か,tとは何か,などを知るのは,耳によるのであ る。かりに映画の手段をもって,音連鎖を遂行中のロや喉頭の運動をのこら ず再現しえたとしても,こうした分節運動のつづきのなかに下位区分を発見 することほ不可儲であろう;ある晋がどこに.始まり,他の音がどこに終るか がわからない。聴覚印象がないとしたら,たとえばf象1には単位が三個あっ て,ニ個でも四個でもないと,どうして断言すべきか?ある音がおなじ音と して続いているか,いないかを,ただちに知覚することができるのほ,耳に した言の連鎖のなかである」く9) ここで述べられていることほ,音連鎖の中の単位を認知しうるのほっ 耳にし た言の連鎖,すなわち聴覚印象に.たよるほかほないということと.,もう−・つほ 分節運動のつづきの中に単位の区分を見出すことはできない,ということであ

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守 矢 信 明 100 る。忘れてならないのは,今問題になっているものが,単音でほなく話線だ ということである。すると,発声運動の連鎖には区分がないのであろうか? Saussureは「ない」と言っている。そしてここに述べられた見解をJakobson が再び取り上げて「慧眼」であると評し,次のように述べている: 「ソシュ叫ルの死後およそ釦年たって,彼が見ることを望んだにちがいない 映画が実現された。ドイツの曹声学者パウル・メンツェラ州トが,ト血キ脚 映画を使って音声装置の働きをレントゲン撮影したのである。そしてこの映 画ほソシ島∵−ルの予想を完全に立証した。〔・‥〕伝統的な学説ほ,安定した ●●● 持続部を含む持続音SOn de positionと,持続部を欠いていて,ある位 ●●● から他の位置へ移る際に現われるわたり音son de transitionとを区別し ていたが,ニ人の音声学者〔メンツエラートとアルマンド・ラセルダ〕は, あらゆる音が実際にはわたり音であることを示す。」(10)(下線は引用者) これは実に驚くべき発見である。確かにスペクトログラフやオシログラフが 示す音声の図ほ,われわれ素人にほどこにどの音が対応しているのか全く伺い 知ることのできない,混沌の世界である。しかしここに指摘されているのは物 理的な音声の記録などではない。調音運動そのものである。もう少し引用を続 けることを許していただきたい: 「言連鎖に関していえば,彼らほなおいっそう逆説的な主張に到達する。 厳密に調音的な観点から見ると,音の継起性は存在しない。継起するかわり に,音は絡みあっているのだ。そして音響印象によれば他の音に続いている はずの音が,この前者と同時いや,部分的にほそれ以前に調音されることが あるという。」(11〉

JakobsonもSauss11reも,このあと,自らの言語学老としての職務に従っ

て,音韻論としての音素材の組織原理を索めるわけであるが,本論でほ音声学 と音韻論の入り組んだ関係にあらためて立ち入るつもりはない。本論に・とって 二人からそれぞれ長い引用をしなければならなかったのは,次の点を明らかに したかったからである。つまり言葉を話線という面から把えるとき,普遍鎖 (現実には聴覚印象)も,発話行為の連鎖(すなわち調音運動の連鎖)も,と

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話線に.ついて一誓と意味の分節 101 もに全体としての−・対一対応ほあるが,個別的な−・対一対応に分析することは できないということである。これは同時に,音痴の問題から始めた本論の,ひ とまずの結論である。 4.最後に,この一応の結論に対して補足をしておきたい。私ほ言語習得に おいて「聞くこと」の意味を絶えず念頭に置きながら,問を発し,答を索めて きた。そして今,一応の結論を(形を変えた,これも問であるが)出した。こ の結論を「聞こえないものほ話せず,話せないものは聞こえ/てこない」という ふうに誤解されては困る。 「聞く」を核に据えて考える場合,・一つに.は「聞こえる」ための調音の学習,

すなわち話線の発音法を明らかにすべきだろう。例えば,先のJakobsonの

引用にもあったように,■フランス語では事実上,子音の発音時に後続する母音 の唇の形が先取りされるということがあげられる(12)。また,ニ要素間の依存関 係の例としてのasSimilationの問題。あるいほフランス語音のくっきりした 聴覚印象を説明するための,休止状態から子音を調音させる訓練など。 もう一つは,あまりに大きな問題であるが,音から意味への問題である。だ が手がかりがないわけではない。例えばBallyが言う「意味のリズム」とし ての0ⅩytOnリズムである。(18)それらについては別の機会に稿をあらためて 述べてみたい。 5.終りに 本稿には術語の不統一・, ならびに人名表記の不統¶がある。前者について は,必ずしも術語を統一する必要を,論旨の上で感じなかったこと。必要があ る場合には元になる原語を示した。人名については,翻訳者の表記を引用上尊 重したこと。以上=つの点をお断りしておきたい。 註 (1)文例ほ佐藤房吉「こんなときフランス語でどう言うか.」(評論社)より。 (2)ロと耳の問題の短絡は,例えばA.,Rebou編 Guide p6dagogique pourIle

(16)

守 矢 信 明 102 る。 (3)簡略な音声表記を〔〕で,音韻表記を//で示すものとする。 (4)semi−VOye11esも含めてある。なお〔品〕〔言〕および〔a〕〔0〕の区別を認めない とすれば14種炉である。 (5)新生児の踪合的母音を/a/と設定するものとする。 (6)A.マルチイネ「言語梯能論」(田中春美他訳)(みすず書房),25ペ・−ジ (7)服部四郎「■言儲学の方漁」(岩波書店),なお同著「■音声学」(岩波金吾)170ペ・−・ジ では/Q/の代わりに./ヱ/が用いられている。 (8)cf..M..Grammont,Trait占dePhon6tique,p.10(LibrairieDelagrave) (9)F.deSaussure,Coursdelinguistiqueg6nirale,pP.631−64,引用文の訳は 小林英夫訳「・一般言語学講義」(岩波書店)59−・60ペ・一ジ 鯛 R.Jakobson,SixleGOnSSurlesonetlesens(LesEdition de Minuit) pp.29−・80,引用文の訳は花輪光訳「音と意味についての六昏」(みすず書房)34− 35ペ・−・ジ 細 岡上 ¢今 cf.A.Rig・ault編LagrammairedufranGais par16(Hachette) 姻 Ch.Bally,Ling・uis七iqueg6n占raleetling・uistique franGai$e(Editions Francke Berne)

参照

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