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続・村山籌子(1903-1946)をめぐって-香川大学学術情報リポジトリ

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続。村山等子(1903−1946)をめぐって

山 崎

怜 今回は,前回にひきつづいて,諸子(以下,すべて敬称を略する)の手 紙のいくつかを記録しておきたい。 童話作家,村山簿子のかきもので主要なものが童話作品であることはい うまでもない。しかし,同時にかの女の場合,もうひとつの主要なかきも のが,手紙であることをとくに指摘しなければならない。それは以下に示 すような理由からである。 手紙というものは本来私信であり,■▼一般には生活上の連絡事項をかきあ らわしたものであって,ドキュメントまたはフィクションとしての恋愛文 学の一・形式としての恋文集のような場合を除き,文学的価値はすくないの が普通である。 ところが,手紙の送り手と受信人とが長期にわたり空間的にへだてられ, 手紙以外に意思疎通の方法がない状況におかれた場合,手紙は独自の意義 と内容をもつこととなる。このとき両者の精神的理解,人間的存立のあり ようが手紙において可能となるし,相互交流のほとんど唯一一一・の手がかりを そこにみいだすのである。 刑事犯であれ思想犯であれ,獄中にある人物との交信は,そこにさまぎ まの制約があるにもかかわらず,手紙という形でひとつの文学領域をうみ, 獄内人物の日記や作品とならんで獄中文学のジャンルを形成してきた。こ の文脈では,主軸は獄内人物の側にあって,獄外人物の側にはない。それ は両者を比較してあきらかなように,おかれた条件に基本的なちがいがあ り,獄外人物が本格的に自己の感情や文学的見解を山・方的にのべることは ゆるされない。後者はその本性において支援なり協力がその本旨であり, その点では第二義的立場にあるからである。しかも,こうした獄内外の交

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流は極度の検閲下におこなわれ,「不許」,没収,抹消,留置の処分の制約 のもとでのみ,なされるため,とくに救援,支援の側は自己抑制の度合を つよめなくてはならぬ立場にある。したがって獄外の人物はみずから第2 ヴァイオリンの立場をわきまえつつ,これに専心しうる者でなければなら ない。 つぎに第2ヴァイオリンとはいえ,これを十全にひびかせ,十二分の意 義を発揮するには,第1ヴァイオリンのすべてが理解され,ときにはそれ を補正し協調する腕前が必要である。あるいは第1ヴァイオリン以上の技 術や心情が要求されるのである。獄中人物の下着や食糧などへの配慮はい うにおよばず,その精神生活を熟知し,心理をつかみ,差し入れ書物のあ り方,表題,内容,順序などに長(た)けた能力と感′受性が前提となる。 これは容易なことではない。 そのうえ,思想犯の場合,裟婆の状況,友人同志の状況,政治,経済, 社会,文化などの動きを・「不許」あるいは抹消にならぬ程度にかきとめて 伝えるセンスや表現力や獄中人物が「落ち込まぬ」ような,その人物の性 格,健康に応じた機車云,俊敏さが必要であるから,差し入れる物品,書物, そして手紙文について全般的な・知恵や識見,行動性が大切であるであろう。 手紙一つでも,今日の「電話」のよう なものであるから,頻度ゆたかに毎 日のようにかかれ,日々刻々の連絡が必要であるし,その中身も獄内人物 が溜飲を下げ,心中,呵々大笑してカタルシスの役割をもちえないと意味 は半減してしまうし,いくら中身が長文の内容の濃いものであろうとも, 受信人が獄内で頭をかかえこむような性質のものでは困るのである。 村山碍子の場合,その天衣無縫の性格やすぐれた直観力や感受性によっ て,しかも独自の,すばやい筆力によって,いわばその天性から,手紙の 書き手としての救援者にふさわしい能力をもち,みずからの意思によって これを実行した他に例をみない女性であったから,かの女の−・群の手紙は 独自の意味をもち,私は差し入れ文学,救援文学の名称をこれらに与えて 場言につとめてきた。以下は,資料発掘に重点をおきつつ,親友の松井志 づ子宛の篤子の手紙1通と中野垂治との往復書簡をと−)まとめたものであ

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33 続・柑1」詩子(1903−1946)をめぐって る。

松井志づ子宛のものは,生前かの女が郵便局から最後にひとに送った手

紙であり,松井はこれを「簿子さんが亡くなる数日前にもらった手紙」と

私にかかれたが,6月にだされた「書留,速達」であるから,8月4日に

他界する数日前よりはもっと前であるとおもわれる。しかし,最後の郵便

書簡であることはたしかなところである。

ここで松井志づ子について,いくらかふれておきたい。碍子の成人後の

女友達で親友とされる女性は,近藤きよ,松井志づ子,原泉,富本一徹の

4人であり,近藤と桧井の両名が自由学園の高等科の同級生であった。私

生活に深くはいりこんで遠慮なく往来したのは近藤であるが,婚人之友社

の編集部に共に席をおき,協力しあいながら,とくに等子が助けられる側

に立ったのが松井であり,松井の友情は詩子の生涯をみる上で,逸せられ

てはならない重要なものである。それは知義と結婚後の碍子の思想生活と

婦人之友君側のそ・れとの狭間のなかで編集部の中心に位置した松井が詩子

に献身した友情のきずなに示される。戦時下3,4年の杜絶と沈黙のあと

にきた戦後の出合いの中で死病の簿子が最後の生命をふりしぼって投げ返

したこの友情の手紙は裟婆内のやりとりであるにもかかわらず,−・連の手

紙と同性質,あるいはそれ以上の意義を石するのである。

郵便書簡というのは,もう1通,郵便によらず村山亜土によって運ばれ

た富本【一枝宛の手紙があり,それは知掛こよってすでに『ありし日の妻の

手取』の末尾に収録,公表された。「口付はわからないが,−一九四六年初夏

と思われる。死ぬ−・ノ・・・カ月ほど前であろう。憤稿紙にペンで書いてあるが,

二rl‡ニく力がか−らしく,字がみだれてゐる」と注記されている。かの女は1946

年8月4日,鎌倉長谷の借家で死去したので「死ぬ一一・カ月ほど前」であれ

ば7月のはじめということになる。以下に公表する「書留,速達」(鎌倉長

谷郵便局受付番号213)は昭和21年6月の消印であー),封筒を開封する際の

ハサミで日付の部分が切りおとされて不明である。かつてこの郵便局を訪

れた私は過去の受付番号から消印の日付を確認するべくお尋ねしたが,規

程上一∴定期間を過ぎた原簿は焼却されているといわれ,残念ながら,日付

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をつきとめることはできなかった。推定では6月の終わりころとおもわれ

る。このほうは原稿紙ではなく粗末な1枚の藁半紙の裳表に鉛筆がきであ

る。字は乱れている部分もあるが,写真版にみるように,全体としてはか

なりしづかりしている。しかし,藁半紙1枚の裟表に鉛筆がきというのは

何を意味するのであろうか。文面での病状説明はいずれも深刻であるけれ

ども,富本宛のペンがきのほうが色調はいっそう暗い。それは同級生の松

井志づ子宛のものが送金を意識しており,反対に年長の富本には−一種の甘 えとおわびと依頼がなされるという手紙の姿勢がまったく逆であることも 作用しているといえようし,受信者が詩子を訪問したあとに追うようにか

かれたものとそうでないものとにはおのずから差異はあ−)うるであろう。

もとより,受信者の松井には何月何日におたずねになられたかを質問して

みたのだが,「覚えていない。しかし何回かお見舞に参上した」といわれた。

回数の複数がかえって記憶を散漫にしているようである。

いずれにせよ,この手紙がかの女の最晩年のものであることだけはまち

がいようもない。

しかも,この書簡はつぎのような,いくつかの理由でとくに重要な意味

をになっていると思われる。

当時,かの女は文字どおり重病の身であー),42歳ながら,ほとんど

起き上れない状態であったし,手紙にもあるように,ひとと話をすること

もできない惟件のなかにあった。1930年前後に喀血して以来,本人の自覚

め有無は別として,結核を持病として背負わざるをえなくなり,夫,知義

の入獄,小林多喜二,戎原惟人,中野壷治,壷井繁治などへの差し入れ,

同志への救援で身体は休む暇なく,加えて貧乏は底なしの態で押しよせた。

それが十数年つづいて敗戦を迎え,朝鮮に亡命していた知義も帰国し鎌倉

へ疎開したが,窮乏と栄亜矢調と東京空襲が持病を悪化させ,1946年2月

より,間断なく ̄F潮がつっき,痩せ細って,水泳で鍛えたうつくしい肉体

はみるかげもなく,最後には排便も自分ではできなくなっていたのである。

そこへ借家の陣之内家(隣家)に住んでいた宇野重吉夫妻が火事で 焼けだされて宇野∼■・家と陣之内家の両家とがすぐさま,ころがりこんでく

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続・村山詩子(1903−1946)をめぐって 35 るという始末で,4間に3家族10人の同居となり,2階の一部屋に死病に ある諸子¶・家(知轟,簿了,亜土の3名)が住むこととなった。ただひと つ,これが幸いしたのは宇野の妻が碍子の世話(いわゆるシモの世話をふ くめて)をすることとなり,かの女がそれをよろこんでいたことである。 痩せおとろえた自分の体をかの女は宇野の回想によると,身内のひとにも みせたくはなかったということである。生活は惨たんたるもので療養生活 の名に催しないものであったことは容易に想像がつく。1946年という年の 食糧事情や医療,経済生酒−L般を少しでも知る者は,この年がかの女のよ うな重病人にとってどんな年であったかはすぐわかると思う。かの女は他 人から恵んでもらっても他人に恵む立場にないことはあきらかであろう。 三 ところがかの女は死の直前,既述のようにこの「書留,速達」をか き,旧友のためになけなしの原稿料を贈り,遠い過去について語った。学 隼時代の同級隼で親友の松井は終始,自由学園の精神にそいつつ質朴,誠 実なキリスト者となり,やがて『■婦人之友』誌の編集の中軸において活躍 するのに対し,碍子は知義との愛を経過して非合法の社会主義者たちと交 遊するようになり,徐々に二人の接触は「疎遠」になった。しかし詩子は プロレタリア文学者やその演劇活動家の運動仲間につらなって,生活はま すます困難となり,資金も欠乏するにつれ,自分の持ちものや知義の本な どを売却して金を稼ぐ毎月を送らざるをえなくなり,文中にあるように, 「ゆびわや本」(傍点は憤文)を松井に買ってもらうことになる。それを松 井はあの危険な時代に,主義主張にこだわらず,親友,簿子のために買っ たし,「随分,づけづけと肋力を求め」られたのを嫌がらずに応じたのであっ た。先年,私は年をとられた松井に何度かお逢いする機会をえて,その気 さくな人柄に感銘した。松井はこの手紙を胸に抱きしめ,「これは私の宝物 よ。一・生の宝物よ」と私の前でほほえまれた姿が忘れられない。 松井の同級隼で詩子と同級の方にもお目にかかったが,そのお話のなか でも松井の簿子への友情の探さを知ることができたのである。私はあの「暗 い谷間」の時代に等子が童謡や童話をかき,一・には次代の子供たちに声援 をおくり,二には童話の世界の中で精ネ申の安定をえ,三には資金を稼ぎえ

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たのは,松井のひそかな協力によるとかんがえている。大正のおわりから 昭和10年に至る12年間,『子供之友』を中心に詩子作・知義画の作品群が発 表され,おわりごろは巳むなく筆名で作品を掲載することさえ,こころみ えたのは松井の仲立ちと支援のほかにはありえないことである。 しかし,詩子は詩子で翌11年以後は松井や婦人之友社への迷惑をおもん ばかり,発表誌を『コドモノクキ』に変更したと推定される。両名の相互 のおもいやりはこのようにうつくしく,いたわりあうものであった。 松井の諸子への友情の顕著な事例としては,岩崎和の監督した日本初の アニメ、−・ション映画「三匹の小熊」(諸子原作,知義画)(昭和6年,婦人 之友社制作)や岩崎のつくった自由学園や婦人之友殻の活動を記録した−L 稚のCM映画も挙げられよう。プロキノの資金不足とあたらしいジャンル の映画をめざした岩崎たちを救ったこの措置を岩崎は,「簑子さんにいまも 大いに感謝してい る」と私に語ったが,簿子のほうは桧井にこそ感謝す−る というであろう。もちろん,岩崎には松井の存在は伏せられている。 四 その松井が突然に鎌倉まで見舞にこられて,簿子ははしなくも松井 の生酒の苦しみを感知したのであろう。松井の帰宅後に急送した様子があ りありとみえる。簿子は「いくらか物質にはゆとりができるやうになりま した」とかいているが,これは先に述べたように,詩子が松井の立場をお もうゆえであって,かの女の生活がとくにゆたかになったとみるべきでは ない。もちろん,敗戦後の1年を経て,当時の状況から,進歩的知識人, 知義の周辺が暗黒時代の獄中時代や亡命期よりもあかるくなり,印税収入 もふえつつあったことは想像にかたくないが,これが字義どおりに「物質 にはゆとりができる」ことに直結しないであろうことはあの頃の日本人の 疎開生浦上一・般をすこしでも承知してい る者には即座に察知しうることであ る。重病のかの女がおちついて療養することもできない枕辺の事情ひとつ とっても,このことは説明を必要としないとおもう。 五 松井はみずからの生涯など,とるに足りないと謙遜しつつ,私にこ うしるされた。「私の略歴とのことですが,明治三十五年五月掛一一・日,束京 卜野の桜木町の国鉄の官舎で生まれました。その後父の転勤先が大阪に変

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続・村山等子(1903−1946)をめぐって 37 りましたので,小学校は大阪市南区木津第一・尋常小学校へ入学し,そして 女学校は府立夕陽ケ丘高女でしたが,一年生の夏,父の樽任で東京に移り, 第三高女に車専入学し大正十年[九年]に卒業しました。母が病身でしたの で,一年間自宅で家事の手伝をしていましたが,大正十山年[十年】に自 由学園の創立を知り,高等科に入学し,そこで岡内幕子さんと友達になり ました。そして卒業後,婦人之友社に入社いたしましたが,私自身には著 書どころか全く雑用をしたにすぎませんでしたが,その頃の私の仕事の様 子を知って頂くために,婦人之友,六十周年の記念会を全国に開催の折に 作りました小さなパンフレソトの中から「編輯室四十年」という記事を同 封しましたから御想像下さいますようお願いします。」 これは当該パンフレットの12−14ページのコピーで冒頭に松井の笑顔の 写真があり,文章は松井志づ子の署名による,あくまで「雑務」にあけく れた編集業務と多くのひとへの感謝のことば,戦中の不自由な言論下の苦 労一括がかきつらねてある。事実_l二のリーダーであったことを否定しない松 井ではあるが徹底して自己を飾らず,私に対して,「自分は編集長ではない。 もともと,婦人之友和に編集長という制度はなかった。あえて編集長とい うのであればミスター・羽仁しかおられない」とくー)かえしいわれた。独身 のまま自己の生涯を妬けた婦人之友のみとの60年,70年,80年の人生をあ ゆみ,それとの−一心同体の境涯でありながら,「全く雑用をしたにすぎませ ん」という松井のことを・おもうと,「野の花のやうな・純真な思ひが欲しい。 安らかな野の花の姿で多くの友の中にゐよう」(羽仁もと子)のことばがう つろにはきこえない。 松井は昭和43年頃以降,健康がおもわしくなく,40年代後半から,入退 院をくりかえし,快調の日々には机社して相談事に応じていたが,52年に は病状急変し,その後も再三の入退院の末,56年7月からは点滴のみの療 養となり,同年9月24日朝に眠るように逝去された。9月30日に自由学園 の明日館講堂で白ばら,白百合,白菊にかざられての告別式があり,多く の参列者には10名ほどの同級生もふくまれ,11月29日には多摩墓地に埋葬, 翌年9月24日に1周年の記念会,翌25日に記念墓参がおこなわれた。病名

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は脳梗塞,79年のいつくしみと友愛の生涯であった。 松井の述懐によると,碍子が死去したとき,知義は自由学園明日館講堂 での告別式を希望したが,「思想的なこともあり,おことわりした」のであ る。しかし,このことは松井の簿子への愛情をいささかでも傷つけるもの ではない。また大正13年の夏,自由学園卒業生結婚の第1号として知発と 簿子が羽仁夫妻の媒酌により挙式したのはライトの設計したこの明日館講 堂においてにほかならない。 六 韓子と松井の友情をいくらかでも知るために入獄中の知義への,残 されたわづかな碍子の手紙から松井への言及部分を以下に示しておく。手 紙のなかにある「盛束亭」(せいきんてい)のこともでている。これは知義 の最初の入獄時のもの。なお,「盛京亭」は,両名の同級生(自由学園高等 科1期生),椎葉富貴子の父親が経営していたもので松井は「諸子さんとよ く行った」と想い出を語られた。 1.1930年7月28日 松井の来訪。 2.同年8月30日 松井が−−一一昨日きて泊ってかえる。 3.同年9月2日 昨晩,富本と松井がきて請をした。 4.同年9月7日 座談会で松井などの四,五人で請。 5.同上 昨晩,松井泊りにきてくれる。 6.同年10月2日 松井のうわさ。 7.同年10月23日 松井と友人の結婚式に参加。 松井への評価。 8.同年10月29日

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続・村山第一子(1903−1946)をめぐって 39 松井との相談。 9.同年10月28日[日付が上のものと逆であるが,書物のままの順序 にしておく]

一昨日松井がくる。松井とヤキソバ,魚のニッケを食べる。

桧井の家へ差し入れの本を借りに行く。四,五十冊借りる。

松井の弟妹,母のこと。 10.同年11月25日 この間,松井に招待されて盛京亭に行く。とてもおいしかった。 11.同年11月28日 昨晩,松井来批 ふたりでクツ下■のつぎをする。松井,泊って かえる。 12.同年11月29日 今日,松井来訪。 七 こう して死床に臥した簑イがかつての友情にこたえて友情を投げか えした手紙がここにある。別々の人生を歩んだ女性の友情の証しがここに ある。しかも,これは死病の悪者がこころをこめた童話作品の印税,いわ ば蓑重な初穂を忠送しつつ,秘めやかに決意して永訣のことばをかきつら ねたものではないであろうか。 なお,必要なことは脚注でふれることにしているが,この手紙のあと1 カ月余のかの女のことを知義の筆を偶りてしるしておきたい。「彼女の遺骸 を骨にした【二1は悲しい【1であった。死んだ翌々l】だった。′巨壷の山の上の 小さな火葬場だった。〃ドイ榊こ,検事からやっと十二時間の仮釈放を賞っ て,巣鴨の拘帯所から駆けつけて母の遺骸をやいた落合の火葬場とくらべ ると,詩イが可衷さうになるようなみじめなところであった。′削こなるの に二時間かかるといふので,私と二軋l二と二仙人の友達は′ト壷の海岸に出た。 雨笠が低くさがり,海は鉛色をしてゐた。そんな中で五つ六つの漁師のイ 伏が二人泳いでゐたバ毎を向いてしゃがんだまま私は泣いてゐた。雨が降っ たりやんだりした。私達は無言のまま立.ち卜がi),海岸伝ひに温子の町に 出て,Jハ度二時間Hに火葬場に哺りついた。引き目した鉄板の」上.に妻の身

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体は灰になってをり,おんぼうは如露でシュソシュッとそれに水をかけた 仙」(村山知弟『亡き妻に』101−02ペ、−ジ)。 1.[藁半紙の表面] 先口は突然だったのでなほのこと嬉しく思ひました。其の後,又, 熱が出て,がっかりしてしまひました。もう治らないのではないかと 思って。塚原さんは,病気らしい所はキカンシに少しカタルがある丈 で,それが,こんな1こ永びく筈がない,といって,困ってゐます。治 療法がないといふのです。私は土地があはないのだらうと思ひます。 みんな段々さう思ってきたのですが,移らうにも家はなし,情ない時 勢です。 一人でねてゐると,昔のいろいろな,垂[主]に食べ物やへ,あな・ たと行ったことを思ひ出します。盛京亭へもつれて行ってもらったこ とがありましたっけ。私の貧乏生活を,あなたが,どんなに肋けて下 すったか,いろいろと感謝ばかりです。交通が永くとだへてゐたとか なんとかいふ事に,何の関係があるでせう。私はそれをあなたの長所 としてみとめ,しかたのないことと思ってをi)ました。あなたは,私 の第一一一・の友達である気持に,いつも変りはありませんでした。あな・た は[,]私のやうに,カンの強い人間に,さう思はせる丈の [藁半紙塞面] (2)まごころのある人だといふ確信は,いつもゆらぐことはありませ んでした。 幸,病気ではありますが[,]いくらか物質にはゆとりができるやう にな−)ましたから,困った時には,さう言って下−さい。私はあなたに

ゆびわや本を員はせたり随分づけづけと肋力を求めてゐます。あなた

もどうぞ遠りょしないで下さい。遠慮すると「お互ひに年をとった」 なんて,台所くさいことを言はなくちゃなりませんからね。まだ,私

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41 続・村山詩子(1903−1946)をめぐって は,年をとりたくないし,とってゐないと思ってゐます−から。 同封,わづかですが,一・時しのぎにと思って。これは,「アヒルサン トニハトリサン」といふ子供之友に出たマンガをある本屋が出す−こと にな・って,そ・の印税です。あなたによって私のツマラない仕事が幾度 助けられたことでせう。 印税の一・部ですが,その第一一・番に受けとった分を,あなたに使って 頂くことは,私として,ほんとに満足です−。あなたも喜んで使って ̄F さると思ひます。 あなたにはお合ひしたいんですが,話をすると,−一・週間は苦しいの で,どうか,もう少し,よくなってから釆てF■さるやうにお願ひしま す。−T言も話をしないで,ゐることもできませんから。それではあま りにあなたは気毒です。でも,もう,すぐよくなります。そして,沢 山,あなたと海辺で諦をしか、です■ね。話すことは山のやうにありま す。 (1)塚原俊雄氏。笥子の主治医。結核の専門家。知義氏とは開成中学,旧 制第−▼什高校,束京帝大の同級生。私は先年,気骨な開業医であられた故 塚原氏にお逢いして等子の病名,治療のことを教示していただく機会を もちえたのである。富本への手紙には「塚原さんはカタルも,其他悪い 病気はない,ただ,神経のせいで,脱が早く動きすぎるのだといふので す」とある。 (2)「土地があはない」のことばは,富本への手蘭とかんぜんに符合して いる。 (3)「交通」とはふたりの人間的な交流のことであり,たんに交通機関の ことではな・い。『ドイツ・イデオロギー』を想いおこしてほしい。ふたり が異質のグループに属してからの,戦中の禁忌を配慮する「疎遠」につ いての詩子のあたたかい慰めのことばである。

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(4)これは簿子が自分の性格を例によって直観的にするどく表現したもの。 (5)藁半紙表面には,たんに1.とあるが,裏面の冒頭には(2)とあって, カツコがついている。 (6)このとき等子は満で数えて42歳と7カ月であり,ふた−)が知りあった 学生時代のはじまF)は17歳たらずのうら若い少女時代であった。 (7)「あひるさんとにはとりさん」シリーズは『子供之友』昭和4年3月 号から12月号にかけて10月号をのぞき連載された。 (8)単行版『あひるさんとにはとりさん』は昭和23年4月,ニューフレン ド利から出版された。もしも,この本のことを指すのであれば,これは いわゆる印税の前借i)であー),それを友人に恵送する意味をかんがえざ るをえない。 (9)松井は弾圧下の簿子の生活のために各種の品物を購入しただけでなく, 童話の発表誌を斡旋し,ときにはペン・ネイムによる掲我をとりもった のである。 (1q)富本へ・の手紙にも「あまりおとろへて,お合ひするのも気が引けるや うです。もしよくなるものならば,もう少し,肥ってからお金ひしたい」 とある。また,「近頃はものを云∴ふと,熱が高くなるやうにさへなりまし た」とかいている。 仙 「それでは“……よくなります」グ)部分,または,「それでは………気毒で す」の部分はあとから挿入された箇所のようにみられる。「す−ぐよくなり ます」の文意は富本への手紙にはない。反対に,「私は,おそらく,この 夏はこせないだらう」とか,「折角の什事も,永遠に,お手伝ひできなさ さうです」とか,「よくかけません,力がなくて。御免下さい」などの文 章がある。これは死期がより近いときのものとするべきか,前述の手紙 の姿勢の問題なのか,それとも先輩同級の,ことなる人間関係に起因す るのか,いまは保留しておきたい。 (1》 瀬戸内海をまえにして育ち,水泳の得意な笥f」イま海が好きであった。「海 辺で話をしたい」のことばは,おもわず松井への愛情の気持が「ふるさ と」への遠い想いとかさなったのであろうか。また符丁・には「ウミベ

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統・村山簑子(1903−1946)をめぐって 43 ノ マヒゴ」という未発表原稿もある。それやこれやの「海辺」が諸子 を茶毘にふした目の小壷の海岸のこととダブらされて暗然たらざるをえ ないのである。 さて,つぎに村山簿子と中野垂治の往復書簡の問題にうつりたい。 以下は現存する詩了と中野との合討18通の往復書簡をすべて判読しうる 限F),原文のまま,はじめて公表したものである 。これらは,故村山知義, 村山亜l二,故中野垂治,故愴泉の4氏のご好意により研究,公表をゆるさ れたものであり,厚く謝意を表したい。 詩了の手紙が往復書簡の形式で公表されたことは従来は−一度もなかった。 蔵原雅人のかの女への一手紙はその『■芸術書簡』において,小林多喜二のか の女への手紙はその『全集』のな・かで,また笥子の犬,知義への詩子の手 紙は『ありし日の妻の手紙.』で印刷にふされたが,いずれも相手方の手紙 は未公表のままである。ただ夫,知義の詩子への手紙が主として知義の自 伝の第4巻でか なり発表されたので,これらをつきあわせると事実上の往 復=井簡集が編集できそうであるが,自伝上の部分公表であるために隔靴掻 樺は否めない。 その意味でも今桓1の18通は数は多くないが,重安な交信記録であり,そ れらが両人の交わした書簡としては,「不許」, 没収その他の理由でその山・ 部にすぎないとしても,むしろかえって留目に値するものと思われる。 ここには,差し入れ文学,救援文学としての笥子のひたむきの,健気な 寺う軌と心情とが追憾なく発揮され,詩人中野の希望にそうべく努力する日 常,また友人同志の妻であり,夫,知義の主宰する劇団の俳優であり,直 接に親しい女友だちとなった原泉との留守居の生活を報告する詩子の筆致 が躍動している。20歳台のおわりから30歳にかけての両人のドキュメント としても,大船4人の同志的友情や運動上の交流のあり方としても,めく るめく・古年後期もしくは壮年初期の日々の刻みがここにある。 手紙AとBは両人の村山椀多論であるため,この書簡集の解説に代えて, のちに1文をしるすことにする。手紙Bは後半でショパン論,音楽論を展

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閲し,手紙Gは碍子の童話の原型として重要な資料である。総じて中野の 手紙のほうは,女性の生き方,役割,あるいは女房論がかれらしい文体で 開陳され,「猫ノ省」見合い事件(この事件を私は猪野省三自身にお逢いし てたしかめる機会をもったことがある)についても,その分析と反応はな かなかにするどい。手紙E,Ⅰ,Lは検問をかいくぐって内外の情報交換 をこころみていることもみのがしてはならない。 これらの往復書簡は,中野垂治『愛しき者へ』(上,下,中央公論社,昭 和58年5月,昭和59年4月,とくに上.)と併読することによって,さらに 興趣をそそられる。というのは,中野が債鬼や妹,鈴子への手紙のなかに, 宅下げするべき諸子関係の本のこと,詩子からの手紙について感想をつづっ た部分があることなど,多くの開通率項宣接しうるからである。例えば『愛 しき者へ』(上),52ページには「旧約[聖]書の文学」(村山等子さん), 21ペ、−ジには「村山詩子さんに「光雲普がたり」とかいう本をかりてある」 とあり,「村山諸子さん−一う畠」(39ページ),「日本工業史は村山さんが貸し てくれたものだったと思うが,この本は大へん両日くて非常に立派な本, 書物という名に値するものと感心した旨お伝えあれ。」(42ペ、−ジ),「村山 詩了さんがまた本を入れてくれた。」(46ページ),「村山簿子さんから弁当 を貫い」(71ペ1−ジ)など,何回となく,簿了の名がでてくるが,これ以上 はここでは省略する。 ,二言及したいのは,微苦笑を禁じえない中野の感懐であって,「村山 笥了さんから手紙が米て,お前さんとしょっ中食うそうだが,お前さんが 「『中野が,中野が.』を連発なさるので,私(これは多分ワタクシと謹むの だろうと思う。)心の中で大変閉【、]してるんです。」そうだ。まことに有り がたい仕合せというものか。」(53ページ)としている。これは手紙Bにふ れたものである。これによって(破れ)でよめない欠損部分,「大(破れ) るんです」が「大変閉ー二lしてるんです」であったことも判叩=ノた。 「簑了さんのハガキは恐しい。「あなたの勉強は進みましたか。(萩原は こういう風にやっている)あなたも,どうか勉強して下さい。」これだ。/ 不親切な先生はこわくないが親切な先生はこわい,なまけ生徒にとって。

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続・村山碍子(1903−1946)をめぐって 45 この簿子さんと釆たら底から親切なのだから全くこわいよ。しかし大いに 勉強しよう。哲学の勉強は俺ものぞむところだ。」(162ページ)といい,さ らに「苛子さんからのハガキに(簿子のカズの字をお前さんは蒔という字 をかいてるよ。上に竹冠があるのだ。詩子さんのハガキは六号晴字よりも ズット細かい字でかいてある。エハガキの通信欄に血・行二十九字かいてる には驚く。)「擬さんは気慨は甚だよい人ですが,勉強が不足していると私 は思っています。山L般に誰でもそうですけれども。私はムリにでもそれを すすめようと思っています。」/とある。これには私も大体異議はない。し かしお前さんの勉強していることも知っている。勉強はムリにもせねばな らぬ。ただおのれに適した勉強法をあみ出すことが大切だね。」(同ペ・−ジ) とかく。 中野が原泉をやさしく包み,苛子の 「勉強せよ」の砲弾から妻をかばい つつ,適切な勉強法をみずから_工夫することをいざなう心づかいが目にみ えるようである。これは手紙.Jへ・の中野の反応である。簿子自身に対して 中野が直接にどんな返事をしたためたかは現存分の手紙からでは不詳であ る。 .丁への反応には,「諸子さんのハガキのこと前にかいたね。あのハガキに, お前さんが夜おそく米て二人でいろいろおしゃべ−)をしたと書いて,カツ コして(聞かして_上げてよいことや憩いことや様々)とかいてあったよ。 それを・みるとハソとしたね。何がハソとしたのか分らないが,とにかくハソ として顔が赤くなるような気がした。まあ,お前さん達が何をしゃべった ことやら。/−■体女たちというものはどんな風に胸襟をひらいて喋るのか, それが分らないために,そういう話をきくと男どもは不安になるのだ。全 く男どもはそういう点ではきわめて善良だからね。俺などと来てはとびき り善良だから。」(169ページ)ともあり,これまた,わらいをさそう。 ところで,手紙はいずれも豊多摩刑務所内の中野と上落合1丁目186の等 fとの往復書簡…といっても「不評」その他の理由で行方不明が多いの でゆきちがいであるものもかなりある¶であlノ),両名のいずれの手紙も 検閲を経て本人の手元に届いたものであった。簑子の手紙は刑務所に到着

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して一一・定期間,留置の上,中野に手渡され,中野の書簡も執筆して2,3 週間,検閲のために留置されたあと投函されたので,両人が手紙を手にし たときは心意において1カ月以上のズレがあり,そのために両人はそのこ とを念頭において文章をしたためたとおもわれる。 1946年8月4日,詩子は鎌倉の疎開先で生涯を閉じたが,原泉は東京か ら通夜にかけつけただけでなく,かの女を悼む・一・文を『東京民報』に寄せ ている。筆の重い原の思いが込められたものであり,ほとんど陽の目をみ な・い薯重な回想であるので,それを最後に「再録」しておいた。なお,こ の文章の発表日付をたしかめる必要から,私は『東京民扱』のバックナン バーをもっとも多く所蔵する法政大学の大原社会問題研究所で調査してみ たのだが,現物を発見することができていか、。「1946年8月FL旬号」は原 泉の好意によるゲラ刷めいたコピーの教示のままのものである。 往役書簡の文中,*印は才未消字のあることを示し,その数は可能な限り その抹消字数にあわせたが,字数がふえるにつれてその数は推定によるほ かはなかった。また判読できない字は□印で示してある。 (往復書簡の構成) 手紙A 中野垂治より村山笥子へ (封絨はがき)(1930.9.26消印,執筆目付9.5) 手紙B 村山笥子より中野垂治へ (封絨はがき)(1930.9.27消印) 手紙C 中野重治より村LL」簿子へ (封絨はがき)(1930.11.25執筆t]付) 手紙D 村山諸子より中野蚤治へ (絵はがき)(1932.7.1消印,執筆日付7.1) 手紙E 村山簑子より中野亜治へ (絵はがき)(1932.8.7消印,執筆日付8.3) 手紙F 中野重治より村山笥了へ (官製はがき)(1932.8.9消印,執筆r▼1付7.27)

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続・村山簿子(1903−1946)をめぐって 47

手紙G 村山諸子より中野垂治へ

(絵はがき)(1932.8.18消印) 手紙H 村山詩子より中野垂治へ (絵はがき)(1932.8.20消印) 手紙Ⅰ 中野垂治より村山詩子へ・

(封絨はがき)(1932.9.5消印,執筆日付8.24)

手紙.一村山碍子より中野垂治へ (絵はがき)(1932.9.20消印) 手紙K 中野垂治より村山静子へ

(封絨はがき)(1932.9.21消印,執筆日付9.12)

手紙L 中野垂治より村山簑子へ (官製はがき)(1932.11.16消印,執筆日付10.28) 手紙M 中野垂治より村山詩子へ (官製はがき)(1932.12.17消印) 手紙N 村山簿了より中野垂治へ (封書) (1932.12.20執筆日付) 手紙0 中野亜治より村山簿子へ

(封絨はがき)(1933.1.21消印,執筆日付1.16)

手紙P 叶1野蛮治より村山苛子へ

(官製はがき)(1933.5.21,執筆口付5.16)

手紙Q 中野垂治より村山簑子へ (封絨はがき)(1933.12.26消印,執筆‡」付12.23) 手紙R 中野垂拍より村山」簿イへ

(封絨はがき)(1934.3.30消印,執筆日付3.2口,破損のため1部

判読不能) 苛子の手紙7通は封書1通,封絨はがき1通,絵はがき5通,中野の手

紙11通は,封㌧絨はがき7通,官製はがき4通から成る。特徴「l勺なことは詣

子にとって中野への通信は字数よりも通信そのものにあること,名優など

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の肖像や舞台姿の絵はがきによって在獄の詩人を精神的に慰撫(救援)す ることを目的としたことである。これは例えば夫,知義への手紙には絵は がきはなく,こまごまとした家庭的な生消上の連絡事項,知義の読書記録, 仕事上の打ちあわせ,人間関係の整序中心である書簡との相異,また憧憬 し連絡者としての役割を自覚して差し入れと救援にいそしんだ「私教師」 萩原への「生徒」としての手紙(それはしばしば長文であり,封書や封絨 である)との対称を示しているだけでなく,中野の妻,愴泉との二人三脚 ぶりを意識したものであることも別種の味わいをもっている。また,中野 の手紙についてみれば,憤泉や妹の鈴子宛の手紙とトムの妻,詩子宛の手 紙との比較によって中野の個性を詩子という女性の鏡に映してとらえるこ とができるのである。例えば,手紙Gに関連していえば,中野は妻の原に 対して「泳ぎに行くのは大変いいが医者に診てもらわないで行ったのはよ くないね。もしかしたらよくないのかも知れないのだ」(『愛しき者へ』_t二山, 136ページ)とかく。これは憤の衰弱をふっとばすかのように,この親友を 水泳に誘う諸子の性格を察して,その行為を非難す−ることなく,妻をまも ろうとしている中野の配慮を示しているし,翌年の4月には壷井栄方の, 実妹の鈴子せ激働する意味でつぎのようにかいている。「夏になったら神宮 のプールヘ行って泳ぎをならうのだね。……バチャバナャやってればいい。 原は去年の夏かよっていた。彼女は全く泳げないのだが・……とび込みをや るのだそうで,村山簿子さんの言葉によると「これが本当の向うみず」で ある由。その調子でやるのがいいでしょう。」(同書,246ペー・ジ)妻の性格 と反対の病弱の妹には,このように英気をやしなう文意をしるした。また, 二人二三脚の例は差し入れ書の選択をはじめ,いろいろあるのだが,ひとつ の明白な事例は,僚の住所が不定であるため(蔵書類を詩子にあずけて串云々 とせざるをえなかったとき),中野は原への手紙を儲子方に送付している。 1932年8月24日の62信(同書,145−47ページ)がそれに当る。 中野重治の小説『村の家』のなかに「山つの ′トさい記録」という短編が ある。そこに大森という「世堺大戦のあとドイツへ行って,あばれまわつ て,表現主義とか構成主義とかを日本へ持ってきた」「背の高い上の方の頭

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統・村山簿子(1903−1946)をめぐって 49 の毛をもじやもじや」にした「長髪の」「亀さんという渾名」の夫とその妻 が登場している。この裏は「電車賃をかしてくれませんか」という主人公 の「私」に対して「電車賃?うち,いまちつともないんですよ!」といい, 「あなた,一・銭銅貨でもかまいません?」「一戯銅貨ならあるんです−けど・…… −■明くらいあるんです」といって紙小箱を出し,「じやりじやりする銅貨」 をみせ,「私はそれをポケットに入れて礼をいつて」外に出た,とある(『中 野垂治全集』第2巻,筑摩書房,102−04ペー・ジ)。この妻が村山碍子をモ デルとした人物であることを故鹿地卓の直接の教示によって私はたしかめ えた。ここに感謝をもって付記しておく。 手紙 A (封絨はがき) 中野垂治より村山諸子へ (1930.9.26消印) 拝啓 古物を差し入れて下さってどうもありがたうございます。写楽その 他の書物を惜して下すったことに対してもありがたく思ってゐたのですが 今度は又括接差入れして下さったこと感謝にたへませぬ。あれ等の書物は 税多以外は全部はいりました。税多のはいらぬことは止むを得ませぬがし かし残念です。僕は彼の苦いたものは本になってる限りではみんな読みま した。猿が人間を袈、ふ寄妙な話なぞは武*傾[伏]世界で読んだ記憶さへ あります。彼が死んだ時のデスマスクが丸々と肥ってちょうど腕白小僧の やうに見えてゐた(伸し写兵)のも日に見え.るやうです。彼のヰ作展覧魯 は不幸にして見ませんでしたが今度出たらどこかで彼の制作にお目にかゝ りたいと思ひます。その中でも私の叫・目でも見たいのは,多分死ぬ少し前 のものであったかと思ひますが,大きな*大木のデッサン(多分,ケヤキ の木,冬で乗がない,大きな枝が−−−−1“本折れてゐる)とマリをつく女(紙風 船だったかも知れません)のデソサンとです。これは二つともデッサンで 仕上げはされなかったものと覚えてゐますが,その画面(これも写兵で見 たゞけ)を思ひ浮べるとちょっとヂッとしてゐられない。あ、いふ人間が

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京都のやうな所に生れたのはまことにふ思ギです。 ショパン(あの本はあなたが惜して下すったのかと思ひます。さうでない かも知れない,アルスの本也)を読みました。彼のアンプロムプテユが私 に似てゐるといふあなたのお詣でしたが,それは何れチタオンキでゞもき いて見ようと思ひます。たゞ彼の人物は小生とは甚しく違ひます。あんな 人間は仕方がない。たゞ私は,彼が当時の悲劇的なポ、−うンド人であった ことに好意を持ちます。倦レJ、生は音楽のことを言っているのではありま せん。音楽は分らないですから。但し,僕は楽器の中でビヤノが−一番好き だからビヤノの神様のやうな彼をゼヒきいて見たいとは思ひます。次に「ショ パン」といふ書物そのものですがこの本を書いた人はまるで中学三四年生 のやうな文章を,しかも僕のよめない六づかしい換字を使って書くのには 閉口しました。これで「ショパンを研究すること僅々数十年に過ぎない」 と豪語するのだからまことに以て大したものです。僕はショパンに非常に 同情しました。ショパンその人とこの「ショパン」といふ書物との間に何 といふ*へダタリがあることぞ! この本の著者の如きはキンコ三年位が 相当だ。 次に小生はまことに元気です。雀:どもの如く快活です。柑山君も同じく, あるひはそれ以上に元気で快活のこと、信じます。彼のことを人はよく「ト ム」といふやうです−が,僕は昔チタオンキできいたアメリカの子供の歌を 思ひ出します。 “Tom,Tom,piper’sson・州“”タム,タム,パイバズサンといふこのパイ パといふのはパイプ造りのことか笛吹きのことか知りません(小生は英語 を知らないのです)綴りもこの通りかどうか知らない,子供の陽気な唄で す。子供といへば,イギリス語でかゝれた子供に関するホンヤク(いつか 話してゐられた)は暇を[コさられたらホンヤクしておく方がいゝでせう。 ドイツ語のは誰かやってくれる人がゐるでせうと思ひます。番地はこれで 寺ゴニくと思ひますが−みぎお礼かたがた 中野真治 村山笥子株 九月五日午前暗

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51 統・村山等子(1903−1946)をめぐって 手紙 B (封繊はがき) 村山詩了より中野畳治へ (1930.9.27消印) (破れ)ロロロロたお便りで,いつものあなたを強く思ひ出し(破れ) 政野さんと,刑務所や,裁判所へ参りました。(破れ)いつでも「中野が, 中野が」を連発なさるので,私,心の中では大(破れ)るんです。大変元 気でいらっしゃいますから御安心下さい。あなた(破れ)おからだがおわ るいさうですが,もう,よろしいんでせうか。昨日,刑務所や,警察の, カリケチェアを見て,大変気になっています。何だか,とてもジメジメし てゐるらしくって,足の裏がかゆくなるやうです。そんなにジメついては

ゐないんでせうけれど。日がさゝなくては,身体が参ってしまひます。な

る丈,散歩の時には澤山,深呼吸をなさるとよいと思ひます。散歩場は, とても牢獄らしく出来てゐるやうですね。情けなくなってしまひます。で もなかにゐる方が,皆大変元気なので,私たちは,かへって,面会に行っ て,力を得て来ます。面会の時には,なる丈け,快活にうれしさうに話し て下さい。何だか,むっつりして,不キゲン相な顔をすると,ガッカリし て帰って来ますから。言ひたいことがあっても,不遠慮に話せないので, いつも,心残りがするやうです。一一月に,二匝=ま,許可されます。差入れ のことについては,随分,原さんは,骨折っていられます。あの方は,大 変気軽ですから,あなたには,丁度よく似合った方だと私は考へてゐます。 あなたは又,大変,誠意のある方ですから,随分,廃さんは幸だと思ひま す。私からも,差入れ時々したいと思(水破れ)ゐます。色々,考へてす るんですけれど,矢張り,あなたの好みに(虫くい)考へないで,あなた の(破れ)たへの差入れについ(破れ)へば,*****ふだんの(破れ) 考へると,何だか,とても(破れ)物々しくなっ(破れ)です。(水破れ) 常(水破れ)さう思はせられることを喜び,楽しんでゐるんです。** 税多のがはいー)ませんでしたさうで,私も残念です。大変なデカダンなの で,あなたが不愉快に感じるといけないと考へたのですが,私は詩人とし

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ての税多,蓋家としての税多を思ふと,あなたに入れたくなったのです■が。

私は椀多が死んでから,税多を知ったのですが,岬私が十九位の時−

とても,あれには,正に,タンデキ致しました。少年の頃の詩は,今よん でも実に黄金のやうに光りかゞやいてゐます。実にスバラシイ詩です。私 は椀多*のグロテスク*に大分影響されました。デッサンのうまいのは実 に,おそろしい程です。でも,京都から,こんな人が出たのは実にフシギ です。この人**の芸術*は,あるよさなどといふ部分的な才能の少々の あらはれでなくて,全く芸術的天分の****あまりにも見事な確実性が

あるのですが。アナタ,高閲筆子のデッサンを御覧になりましたか。この

人は,少々デリケー・トで,器用すぎ,都会的でいけませんでしたが,血・寸 似てゐます。女の人で,発狂して自殺しましたが。椀多(水破れ)墓に, 私があげた石の花生けがあります。従兄の山本かナエ(椀多の)さんに,(水 破れ)送ったら,知らぬうちにこさへてあったのです。誰だか分らなくて, (水破れ)私だといふことがわかって,(カナエさんは私の先生です。)と ても大(水破れ)山の現在の姓と同じなので, そこが気にゐって結婚(水 破れ)と,私,大変,迷信家なので,多分,心の(水破れ)′受けたんでは ないかと思ってゐます。でも(水破れ),とても女学生の頃のお詣です−から, たゞ,(水破れ)私が入れたのです。私も,ショパンの生れつきは(水破れ) ビアノ曲だけは,私は,他のドノ作曲家のより好きです。小(水破れ)章 は,全くなってゐません。私も,アンナものをショパンの解説(水破れ) すると見当ちがひだと思ふのです。それに,私は,自分の考へだけかも知 れませんけれど,少くとも,ピアノの曲丈けは,センチメンタルに聞き, 解説すべきではないと思ふのです。それよりも,むしろ,文学的に,詩の 解説をするやう解ぼうし,批判した方が,まだ,よいと思ふのです。わた しはピアノの曲を聞く時には,*****************[私 受ける は,詩を読むように,批判するように]曲を聞きながら曲全体から 甘い,*快よい感じ,それから,何かの精神,さういふもの*が,どうい ふ音と音,小節と小節の組み合はせから来るかといふこと,****** ***[そして,その組合は□]を−■・つ−一つ判断します。ピアノのよい曲

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続・村山簿子(1903−1946)をめぐって 53 は,よい曲になる程,この音と音,の組合はせは,複雑になり,又*** **[ハ、−モニー・]思ひがけないやうな不調和なもの**を,完全に調和 させてゐます。ですから,私は,もしも,一つ−−一つの音を完全に,頭の中 によび起すことが出来たら,ピアノにひかれたものを聞くより,字の音譜 を読んだカが面白いと思ふ程です−。私の考へてゐる事は,よく言ひ現はせ な・いので,そして,もっともっと細かい,複雑な感じですが,分って頂け るでせうか。*又,この音と満との組合はせを,詩の上にもって釆て,* **言葉に置き変へやうと,心の中で試みる時には,随分たのしみなもの ですが,昔を,*言葉*に変へることが(水破れ)ショパン(水破れ)な どは,充分に,理解され得(水破れ)ひます。(水破れ)詩を,(言葉を) 音に(水破れ)詩を常に,ビアノノ[の]曲に直したさうです■から。口□ (水破れ)考のためにおいれしたんです。仲々,アナタへの差入れはか(水 破れ)ふ風な考へのLに基礎をおいてあるのですが,こんな細かい註付き で差入れることが出来ないのは,まことに残念でたまりません。私は,人 に,自分の考へてゐる事を話したり,手紙を書いたりすることは,アナタ と同じやうに好きなのですけれど,近頃は,人間は,段々,ドンドン忙し くなって来るので,こんな好みは中止しなければなりません。これは,私 と,アナタへの忠告になるわけですね。ただ,時に,人の慰めとなる位に, 使はれてよいものと思ひます。それで充分ではないでせうか。 この頃,私は大分勉強しました。フリ1−チェの芸術社会学は,大変よい ものと思ひました。タメになりました。やっと,*このころ勉強し初めた ので,仲々,よくは分らないのですが,ハウゼンシュタインのものなどよ りはずっとずっと完全で,しかもよく分りました。有難いと思ってゐます。 アナタの論文も読みました。タラハラさんのも読みました。アナタのもよ いし,タラハラ*さんのも大変よいと思、いました。私は大変タラハラさん を尊敬してゐます。あの方の帽子は大変1雪風(水破れ)似合っていらっしゃ いましたね。アナタは,歩いてゐるのを後か(水破れ)で,女の人のやう に歩かれますね。いろんな事を思ひ出(水破れ)丈夫で益々肥って行きま す。淋しがりな・ので,ちょっと(水破れ)分おこられます。無口で,筆ぶ

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しょうで困(水破れ)てゐますでせう。アナタも御丈夫で。 手紙 C (封絨はがき) 中野東治より村山簿子へ (1930.11.25,本人日付) 十一月二十五日 大変長々御無沙汰しました。色々書物を(それも細かな注意の上で)入れ て下すったりありがたふございます。これはこの前のあなたの手紙に対し ては返事としてあんまり遅すぎるやうですが,この頃は世の中が忙しくなっ て勝手にいらぬ手紙なぞ書いてる時でなくなったといふやうなお話でした から丁度よい加減かも知れません。面会の時*ムッツリしてゐては折角合 ひに釆た人がとりつき場がなくて困るから云々といふ御注意はふかく肝に 銘じてせいぜい気をつけてゐます−。しかしこの点では私の方があなたに忠 告出来るかも知れない。といふのは,あなたはどっちかと言へば,考へて からそれを言葉にして口に出すといふ方の人のやうだし,村l力は元来あゝ いふ風だし,それに一般的にいって,面会所へ引き出されて色々話をきい てもトッサに十分の返事が出来るものではないのですから,我々としては 口数をウントよけいにべろべろしゃべることは努力しても六づかしいので す。だから,我々に面会の析出来る限りにこやかな顔つきをしろといふあ なたの言葉は守らなければならないのですが,その外に私としてはあなた に,あなたが知義君と話す時に,考へたことを(考へてから)話すといふ やり方を逆にして,しゃべった後から(考へる必要があれば)考へるとい ふやうになさいと言ほうといふのです。さうすれば村山宕の方でもそれに ついてしゃべり易くなるでせう。とに角我々は,−・一㌧八で居る時は何彼と面 会時に話すべきことを考へたり思ひついたりしてるのですが,思ひがけな い時に「ソラ面会だ!」といって引き出されるとフィに胴忘れしてしまふ といふ具合で,勿論こんなことではいけないのですが,事実さうなのだか ら,あなたの方で知義君に向って旺に笑顔をみせ且つ話のイトグチを次々

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続・村山諸子(1903−1946)をめぐって 55 とたへまなしに引き出すやうにしなければいけないと僕は思ひます。 タラハラのシャッポは僕も覚えてゐます。それよりも彼がふところ手せ して,肩を振って−といふよりも,ふところ手をしたゝめにかラッポに なった袖を振って歩く歩きぶりが眼に見えるやうです。それから立野が内 わに(私が内わに歩くかどうか自分では気がつかないけれど彼の内わには 気づいてゐます)ベッタンベッタンと歩くやうす,小林が曲り足で歩くや うす,橋本英菩の欠けた歯をみせて笑ふ顔−−一橋本からハカ[ガ]キが釆 て,彼は猿江に移るし鹿地は寺島に行く*し「上落合部落は中心地でなく なった。今にあそこは懐占の地になるだろう。」とありました。 この夏頃あなた方の集まってる所へ西沢隆∴が行き合せたさうですね。 彼*はあなたが「白い身体にキチンと合った尼僧のやうに清楚な洋服を着 てゐた」と書いてゐました。さうしてあなた方が肝なキエンを上げるので, 傍で口出しをしずに拝聴してゐたといってゐました。私は元来女の人達を 馬鹿にしない方の男ですが,それでもこういふ所へ来てからはますます女 の人達のヱラサを感じるやうになりました。今までも女達をいろいろ尊敬 して釆たのではあるがこの際もう−一一度ハツキリと見直さねばなるまいかと 考へてゐます。私はとうていフェミニストではなく,いはんや秋田さんの やうなよきフェミニストではない(アキタがよきフェミニストだといふの は私の全くの独断ですが,これはどうも当ってゐさうだと思ひませんか。 秋田さんにきいてごらんなさい。)けれど,婦人の力といふものは大きいの であって,我々男どもはそれと【二]に出さなくともそのおかげを心の中では それぞれ感謝してるのだと思ひます。戦旗の婦人欄なぞももっともっとよ くなって行くに違ひない*,そのよくなって行くよう一子が色々と想像され ます。 日岬にはどうかすると蓄音機のなることはこの前書かなかったかと思ひ ますが,山・昨[jの日曜には怪しげな「汽笛一日声シンパシを−」「こゝはお国 を何百崖」「坊やはよい子だ」等々がきこえました。よい音楽程い、ものは ないが悪い音楽ほどわるいものはないと思ひます。ダーウィンの*博記を よみ,彼が音楽を好んだこと,しかも自分で何■・■■つ音楽が出来ず,好きな

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小唄を口ずさんで調子外れであったことなぞ小生自身のことを考へ合せて オカシタ同情しました。ルッタ、−・は美しい唱ひ手で,歌をうたって学資を かせいだことがあるさうですね。ルッター・がギタ(?)をひいて彼の子供 達が鳴ってるタラナッハの画の写眞をこゝの「官本」でみました。 中野垂治 村山簿子株 手紙 D (絵はがき) 村山詩子よ−)中野重油へ

(1932.7.1消印)

中野重油棟。 七月一・臼 今日は雨が降ってゐます。こんなエハガキが出て釆ましたからお送りし ます。今日のやうに雨でも降ってクサクサしたら御覧なさい。別に面白く もない写真ですが,あり合はせのものです。 身体の工合がよくないさうですがどんな風でせう。この頃は,家が遠く なったので原さんにも会へません。外では,みんなみんな元気にやってゐ ますから御安心下さい。一刻も一つの所には立ち止っては居I)ません。あ なたも身体を丈夫に,よく勉強して下さい。毎朝ラヂオ体操をおやりなさ い。私は,主義がちがふので(体操上の)やりはしませんが(別のを夜や るのです。)いつもペソドの中で,あのかけ声を問いて,あなたたちの事を 考へてゐます。然し,あの体操はあんまり上等,高尚ではないんですブコ。 ***【しない]よー)はましだから,おやりなさい。 手糸氏 E (絵はがき) 村山笥子より中野垂治へ (1932.8.7消印) あなたから,ちっとも返事が釆ないのですけれどもどうしたんでせう?

(27)

続・村山詩子(1903−1946)をめぐって 57 少しは手紙を書くもんですよ。 八月−L日には,私は,外に用事があって行けませんでしたが,原さんは行っ

てたさうで*す。色々差入れがあった事でせう。随分あつい事ですね。私

はいつも,汗など出た事のないタチですのに,今年は汗がいくらでも流れ 落ちるのです。中はひどいあつさでせうね。あなたは少し身体が悪いさう ですが,みんな,どこか悪くなるやうですね。これから先は,まづ,相当 長くなるものとすると,随分,身体を大切になさるやうに。外では,色々 と,仕事がはかどってゐるやうに見えます。まだまだ,これから,大きな 困難が来ることでせうが,国際的に見ても,我々の進展は非常に堅実なも のです。近頃,ジャ、−マ、ニイの様子など,我々に,手に汗を掘らせてゐま す−。安心して下さい。ひまがあったら,少しは,手紙をお書き下さいね。 八月三日 手糸氏 F (官製はがき) 中野連泊より村山碍子へ (1932.8.9消印) ハガキをありがたう。それからお菓子もありがたく食べました。この頃は 大分あつくなって釆ました。汗が本当に滴になって落ちます。あのエハガ キは何ですか? あれは誰か有名な人ですか? 額つきや額越しに見るく せ(?)などがあなたに似てゐるのですか? 僕はからだはすっかりよく なりました。この暑さにも少しもへこたれてゐませぬ。体操は勿論やりま す。しかしラヂオ体操ではなく僕の独自的な体操です。ラヂオ体操をやら ぬのはあなたのやうな体操上の主発からではなくあれのやり方が分らない からです。ラヂオ体操の時だけ,(それだけ)***ラヂオが問えてたのし い。しかし時々やる******斉唱のふしまはしには驚き恐れてゐます。 むしろ『新兵さんも古兵さんもミナ起きよ−起きなけや云々』といふラッ パの方がいゝ。しかし時々ホゲラカ(こういふ言葉が今年のはじめ流行っ たのですか?)なのもあっていゝです。何とかかんとかで,−一・叫・,二,三と

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かいふ*ウタ(文句はちっとも分らない,■■F■らぬウタですが)は僕もおぼ えました。ラヂオ体操の始まる時は僕の朝の体操の終ったあとなのであれ はボンヤリ聞いてるだけです。「ドナタサマモ」とか「オアチ申シ上ゲテヲ リマス」などアナウンサの下等な日本語には閉口。 七月二1■七日 手紙 G (絵はがき) 村山簿子より【日野垂治へ (1932.8.18消印) このごろは毎日,(殆んど)憤さんと神宮プールへ通ってゐます。それはそ れは面白いんですよ。博さんは泳げもしないのにとび込みをやるのです。 これを僻して向ふ水といふのではないかと思ってゐます。 今日は,私は石きましたが,塘さんは行きませんでした。何でも,昨日, 前進座へ見物に行ってたさうでしたからそれで,ネボーしたんでせう。ニ 三日前には・−−一緒に鎌倉へ行って山内さんとこへとまりました。劇場の連中 も二十人も行きました。ミンナ砂の止で大さわぎしました。リレーレスを やった−),片足競争をしました。波ノリもしました。濱のエーカン八神が アソケにとられて見てゐました。百パーセントに,−−一・日を遊びました。そ れから,バスに釆−),江の島のサンバシをわたって,小田急で帰りました。 J」度,日蓮宗のおまつr)で,江の島のサンバシの上は,仲々通れませんで した。電車は満員でみんな床の上でイネムリをしました。十・一・時頃帰I)ま した。トテモトテモツカレマシタ。 手紙 H (絵はがき) 村山簿子より中野重治へ (1932.8.20消印) このエハガキは,**有名なるアンナ・パブローワのおどりすがたです。

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59 統・村山詩子(1903−1946)をめぐって 此の前のは,ルイズ・ブルソクスといふアメリカの映画の女優で,パラマ ウントのおかかへだったのを,ドイツのすぐれたカントク,パブストに発 見されて,ドイツのサーフア、−・に扱かれて,「パンドラの箱」「リンラクの ・女の日記」等に主演しましたが,非常にフカシギ極まる女優で,いつもノッ ソリしてゐて,利口だか馬鹿だか,名女優なんだか大根だかさっぱり分ら ぬといふ女優さんです。トニ角,日本のインテリゲンツイアを,甚だ多く なやましたところの人です。今はさっぱり何をしてゐるんだか分りません。 何でも彼女は,電車やバスに乗る時には,−・番あとから釆たくせに必ず−・ 番先に乗るといふうわさです。私に似てるかどうか,そんな事は少しも知 りません。 あなたは北斎の塞を見た事がありますか?私は見ました。甚だケチく

さい写真版で。それでさへ,私は嘆声を発して感動しました。日本人に稀

に見るパソショネ1−トな精力的な蟄術で,甚だしいデカダンです 。−■度は 見る必要があらうと思ひます。トニカタ北斎は天才です。アルスのケチな 本がありますから,□望みなら入れます。お返事に−一寸苦いて下さい。 外では西瓜の値段がオドロク程 ̄1て■落しました。いまだかつてない程。そ してトマトは高くなりました。 手紙Ⅰ(封繊はがき) 中野壷治よ−)村山薄子へ

(1932.9.5消印)

「ミンナ フォン パルンヘルム」の役者のゑはがき受け取りました。前 の絵はがきを貰った時やはりハガキをかいたのですが,それはもう届いて ることゝ思ひます。前の絵はがきが*七月−L日発で彼のが八月三日発だか ら,その間にとヾゐてもいゝのですが何かで少し後れたのでせう。さて僕 はからだは元気です。「みんなどこかしら悪い」とありますが私はどこも悪 くありませぬ。賞司は胃病がなほったさうだし,壷井がちよっと悪かった

とかき、ましたが今ではすっかり快くなってること、思ひます。外のこと

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Jones, 村上順, 大槻知忠, 葉廣和夫, (量子力学, 統計学, 物理学など様々な分野との結びつき ながら大きく発展中!!

1991 年 10 月  桃山学院大学経営学部専任講師 1997 年  4 月  桃山学院大学経営学部助教授 2003 年  4 月  桃山学院大学経営学部教授(〜現在) 2008 年  4

藤田 烈 1) ,坂木晴世 2) ,高野八百子 3) ,渡邉都喜子 4) ,黒須一見 5) ,清水潤三 6) , 佐和章弘 7) ,中村ゆかり 8) ,窪田志穂 9) ,佐々木顕子 10)

神戸市外国語大学 外国語学部 中国学科 北村 美月.

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