国家と正教会
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1917 年のセルゲイ・ブルガーコフの社会主義観―
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堀江広行
[Резюме]
Государство и православная церковь:
отношение Сергея Булгакова к социализму в 1917 году
ХОРИЭ Хироюки
В статье автор прослеживает перемены в воззрениях С.Н.Булгакова на
социа-лизм в течение 1917 года, учитывая его давный интерес к социасоциа-лизму, достигший
своей кульминации в 1905 году, и его дальнейшие социально-философские
воз-зрения до времени падения царского режима. В качестве материалов используются
опубликованные Булгаковым в 1917 году статьи и датированные тем же годом
за-писи его докладов и высказываний в Деяниях Священного Собора Православной
Российской Церкви. Автор приходит к нескольким выводам. Во-первых, так же как
и в 1905 году, социализм рассматривался философом как относительное средство
для реализации социальных идеалов, могущее иметь значение, лишь когда эти
иде-алы соответствуют христианскому мировоззрению. Во-вторых, у Булгакова
сохра-няется сформировавшееся у него к 1905 году основное четкое противопоставление
сфер государства и общественности, однако с тем изменением, что
демократиче-ские силы, сначала относимые философом к сфере общественности, теперь
перене-сены им на сторону государственных властей. Выступая как член церковного
собо-ра, Булгаков так же как и в 1905 году, связывает себя с позицией “общественности”.
При этом история человечества рассматривается им как история сакральной
обще-ственности. В-третьих, Булгаков, применяя церковно-апокалиптический сценарий
метаистории к современной ему истории России, фактически признает значение
“утопии” для исторического развития, хотя придерживается совершенно иного
взгляда на сущность секуляризованного утопического мышления социализма.
キーワード:キリスト教社会主義、社会主義革命、ロシア正教、総主教座、黙示録 * * * 以前、いくつかの場所で筆者は 1905 年革命前後のセルゲイ・ブルガーコフの社会主義観につ いて触れた1。これは、ブルガーコフが、人民主義(ナロードニチェストヴォ)、マルクス主義に代わるべき第三の解放勢力として宗教的観念論に基づくキリスト教社会主義を追究しようとして いたことに注目したものであった。ブルガーコフは実際に当時キリスト教社会主義を掲げるキリ スト教政治同盟という社会組織を設立しようと試み、同時に、より急進的なキリスト教的解放運 動であったエルン、スヴェンチツキー、フロレンスキー等のキリスト教戦闘同胞団にも理解を示 していた。 このキリスト教社会主義の立場の一つの基盤は、<キリストの体>としての教会というキリス ト教の伝統的概念2に注目し、人々の内的で自由な結合としての教会における統合を、外的な強 制による統合としての国家に対置し、前者の後者への優越性を主張したホミャコフ等の理念にあ り、広義の「教会」に国家権力に抗う「社会」を見出そうとしたものであった3。ブルガーコフ は、さらにカントの統整概念を応用することで、この「教会」が、自由や平等、人格尊重といっ た最高目的、一種の先験的理念に関しては一致するものの、その実現のための手段においては絶 対的な意見を持ちえないとし、「キリスト教的社会性 Христианская общественность」として定義 した「教会」をこのような統整に服しながら相対的な意見のみを持ちえる信仰者が議論により意 見をもつ空間であると理解していたように考えられる。このようなブルガーコフの態度は、徹底 した無神論的社会主義、マルクス主義への批判と並行しており、無神論的社会主義を否定するが、 相対的な手段としての社会主義、すなわち具体的には、生産手段の共有を含む経済管理、被搾取 階級の利益の尊重、立憲共和国などを志向する一方で、有神論の立場から人格の自由という理想 の実現の道具としての社会主義を訴えた。このようなブルガーコフの姿勢は、国家権力に対する 一種の公共的な議論空間の確立とも評価できるもので、そこには、また政治と経済の両面での既 存の社会主義理念への独特の協調と差異が指摘できる4。 しかし、以上のような 1905 年にかけての社会主義への接近はその後、激しいまでの「保守反 動化」に呑み込まれる。まず、彼自身が後年述懷しているように5、1905 年革命の経験、それに 続くドゥーマ議員の経験が失望をもたらし、研究者ゴレルバッフが「道」出版における自由主義 的な「正教国家主義」のイデオロギーと描写しているような立場6、すなわち神秘的な権力をも つ皇帝に率いられたロシアの使命の確信、政策としてのストルィピンの上からの近代化政策継承 への賛同、世俗化した独立した概念としての民主主義や法治主義を神を知らぬ人間中心主義、「俗 物主義 мещанство」として批判する「新スラブ派」、「新ビザンチン主義」と呼ばれるような立場 に次第に移行した。 この過程は、黙示録の研究を通じた歴史観の形成、すなわち、現象としての政治的歴史の背後 により深い神秘的な筋書きによる神への倫理的応答としての形而上的歴史というものが存在して おり、この形而上的歴史の事象が現象としての歴史を操り、ときには、現象としての歴史に噴出 するという歴史観の形成を伴った。このような歴史観は 1910 年発表の評論「黙示録と社会主義 ――宗教・哲学的並行」、そして 1910 年から 1912 年にかけて公開された『経済哲学』などで展開 され始め、そこでは無神論的社会主義は古代ユダヤの預言者に繋がるような宗教的社会的衝動と 看破され、本来形而上的な将来のものである天の王国を黙示し、煽られつつも、その実現が地上 の地平において起きることを信じる千年王国主義の立場と位置づけられていた7。 第一次世界大戦を迎える時代には、無神論的社会主義は、無神論的世界観と共に「俗物主義」 の一種として形而上的歴史の事象に由来する悪としてとらえられるようになる。大戦が勃発する と、ブルガーコフは、ドイツとの戦いの意義を、この俗物主義のもっとも先鋭な現れとして見ら れた近代欧州文化との戦いと定義した。このような見解はブルガーコフが参加する出版社「道」 の周辺の思想家たちにある程度は共有されていた8。来たるべきロシアの勝利はロシアの形而上 的次元の使命としてのキリスト教原理の復権に重ねられ、戦意高揚のための集会などでこのよう
な戦争意義を呼び掛けることになる。ブルガーコフは、このような大戦肯定、思想的な戦争意 義の確信をほぼ維持したまま 1917 年を迎えた。皇帝権力が瓦解し、遂にはボリシェヴィキ政権 が成立するこの年、ブルガーコフは直接的な政治的参加を行わずに、ロシア正教会の教会の一 員として政治事象に対峙する立場を選んだ。 本論は 1917 年という時点をとって、現実となりつつあった社会主義に対するブルガーコフの 姿勢を解き明かすことを目標にしたもので、時系列的にその見解を追う。資料としては 1917 年 のブルガーコフの各論文のほかにブルガーコフがメンバーとして参加したロシア正教会の全露 地方公会での議事録なども参照する。前もって結論を述べれば、表面的な「保守反動化」と教 会的立場への移行にも拘わらず、ブルガーコフは暴力的国家に対抗する第二権力としての社会 の機能をキリスト教会に求める姿勢を止めておらず、それが現実化した社会主義に対する 1917 年の特異な姿勢――「教会」の立場から発言し行動すること――に結実したように考えられる。 1. 2 月革命の勃発 序文で触れたように、大戦勃発から 1916 年までブルガーコフが維持した立場は、対独戦に、 神と霊性の概念なしに世界を構築しようとする人間中心主義や俗物主義に対するキリスト教原 理の戦いを重ね見るものであった。この戦いは、歴史の真の次元としての形而上的歴史にその 筋書きをもつものと見なされ、具体的には、ブルガーコフは、この戦いを黙示録に預言された 歴史の終わりに訪れる善の勢力と悪の勢力の戦いに重ねることにもやぶさかではなかった。神 の油を塗られしものとしてのロシア皇帝は、キリスト教の原理を実践し推し進める善の勢力と しての使命を帯びたものとして理解され、この<キリスト教の戦い>は、皇帝なしには考えら れぬものであった。2 月革命、さらに 3 月 2 日(以下すべて露暦)のニコライ二世退位は、この ブルガーコフの姿勢を根底から震撼させたはずである。その約二週後のモスクワの作家たちの 集会での講演に基づくというブルガーコフのテキスト「自由の才について」では、起きてしまっ た 2 月革命と帝政崩壊の追認というべき姿勢を読み取ることができる。 ロシアの民衆は、歴史的成熟、自身の道の自由な選択、自立的な創造、自立的な確定の時期 に入りつつある。< ... >政治的解放は大戦における民衆の自己防衛の行為、愛国的憂慮の産 物であった。その起源は、狂騒にではなく、敬意にあり、憎しみではなく、祖国を愛する配 慮に基づく。9 帝政崩壊を「解放」と呼ぶこのような発言を1914年の論文「ロシアの想い」における皇帝の 神秘的役割に関する発言10や、1916年秋に執筆されたとの断りのある『黄昏ざる光』の皇帝論11 と比較すると彼の主張の中で、いかに大きな政治見解面での変化がおきたのかがわかる。大戦 中のブルガーコフの主張を知るものにとってこのようなブルガーコフの主張は、突然の転向の ように見えたであろうことも想像に難くない。しかし、この上で、ブルガーコフがこの講演で テーマにする聴衆へのアピールは、新政権成立の熱狂に水を差すようなもので、国民が獲得し た自由が野放図の自由に移行する可能性に対する警告である。ブルガーコフは、責任ある自由 と野放図の自由の対峙を持ち出す。当然ながらブルガーコフがロシア社会に選び取るように呼 び掛けるのは前者の自由の道である。 否定的自由、野放図な「すべてが許されている」、「利益」への動物学的執着の自由があり、 他方で、創造、責任、霊的尊厳 духовное достоинство の自由がある。12
「すべてが許されている」という表現が、1901 年の「哲学的類型としてのイワン・カラマーゾフ」 で取り上げて以来、ブルガーコフが『カラマーゾフの兄弟』におけるイワン・カラマーゾフの精 神として描いてきた無神論の〈破壊的結論〉をさしていることは明瞭である。こういった主張は 大戦前、それどころか 1905 年革命以前に遡るブルガーコフの主張に重なる。ブルガーコフの発 言は以前の宗教的民主主義者としての立場にも通じるものとして受容されたはずである。このよ うな立場は、政治的にはまたリヴォフ公に率いられた立憲主義者を首班とする臨時政府のイデオ ロギー的立場にほぼ賛同するものだと言っても良いだろう。 ただしこのような<回帰>と括られるようなブルガーコフの主張中で異色に見えるのが、ブル ガーコフがこの新しい時代に「ヤロスラヴナの涙、ポロヴェツ人との戦い」に連なるロシアの< 霊的伝統>の継承を求めることである。この伝統の継承の理念は、具体的には自由の理念、ロシ ア的自由、ホミャコフの主張したロシアが使命を帯びるという「自由の秘跡」の理念の継承であ るとの主張がなされる。 わたしは、事実としてでなく課題、霊的献身としての自由について、ホミャコフがあえてロ シアが使命をもつと考えた「自由の秘跡」について語るべきだと感じる。<...>われわれの自 由の中に、われわれはヤロスラヴナの涙、ポロヴェツ人との戦い、キエフの分封時代のルー シ、モスクワの想い、「第三ローマ」を夢みるモスクワ王国の遺言、閃きと飛翔をもつ近代 におけるロシアの心の燃え猛りを聞かなくてはならない。<...>ロシア的自由に値するように なるということは、民衆の魂を愛し、感じ、ロシアのイデア、ロシア的使命を信じることで ある。13 これは伝統回帰的な志向であり、具体的には、大戦期の自身の「新ビザンチン主義」的な主張 と連続性を持たせるための多分に妥協的な継承の試みであるように診断できるかもしれない。共 和ロシアは以前のロシアが尊んだ価値を継承しなければならないという意味である。ただし、こ の<継承>に際し、例えば、以前のブルガーコフの主張にあった明白な戦争継続の主張、イス タンブール奪取(「全正教世界の視線はかつてそれを統一した聖ソフィアの丸屋根に向かってい る」14)といったテーマは、それが主張されていないという意味で放棄されたとも指摘できる。 しかし、この<継承>の問題において一つ考えてみるべきなのは、彼が、それまで自身が忠実で あるべきだと考えた、政治的事象より一層深い真の霊的 духовное 次元としての形而上的歴史の 次元の理念の問題である。ブルガーコフは、この時までに政治的事象は表面的なものであり、そ の背後にこの事象とは表面的に矛盾することもあるような、より深い真の形而上的な霊的次元が あるという概念を確立させていた。あらゆる政治的事象は、表面的なものとは異なる霊的な意義 を有している。このような形而上的次元こそが政治的事象としての大戦へのロシアの参戦にキリ スト教的歴史としての次元を付与しえたがゆえに、ブルガーコフはこれを正当化したのである。 これを考慮すれば、2 月革命直後の上の発言は、変化した表面としてのロシアの新政体の奥底に もこのような深い形而上的な霊的な次元でのイデアとしてのロシアが継続するべきだというメッ セージであると解釈できよう。 ただ、ブルガーコフは、ここで、それまでイスタンブール奪回であるとか、ヨーロッパの俗物 主義、無神論、ドイツ性 германство との戦い等にその現れがあるとみなしてきたロシアの形而 上的使命の真の本質が、より本来的には「自由の秘跡」というべきものであるという新たな再定 義を行ったと考えることができる。ブルガーコフはそれまでも責任ある自由をもつ人格の理想を
訴え、このような理想が究極的にはキリスト教的価値であることを訴えてきたので、このような 自由の理想の提示そのものはそれほど不思議なものではない。ただし、それまでこのような人格 の自由そのものがロシアの形而上的使命であるように主張されたことはなかったように見える (もっとも 1915 年の「戦争とロシアの自己意識」にも使命としての一種の<自由>に関する主張 が見られた)15。いずれにせよ、人格の自由に代表されるような自由を、このような形而上的使 命としての「ロシア的自由」として捉えなおすことが、共和政体に面した直後のブルガーコフの 最初の回答であったと言える。 2. 全露地方公会に向けて――民主主義を指導せよ 1917 年の政治的大変動と並行して起こったもう一つのロシア最大の事件としてロシア正教会 の数世紀ぶりの総主教座回復、並びにその回復が取り決められた全露地方公会の開催を挙げるこ とができる。この公会は、1917 年 8 月 15 日に開幕され、同年 12 月 9 日までの第一部会、翌 1 月 20 日から 4 月 7 日(新暦 20 日)の第二部会、6 月 7 日(新暦 20 日)から 9 月 7 日(新暦 20 日) までの第三部会に亘って進行した。この公会により、総主教座回復のほかチーホン総主教の選出、 一種の教会内民主主義と言うべき主教選出、教会管轄区より総主教の行政補佐にいたるまでの教 会管理における平信徒の参加16が実現した。ブルガーコフは、6 月、シンフェローポリで開かれ たタヴリヤ教区大会で同教区からの平信徒の全露公会議員に選出され、平信徒の資格で公会に参 加し、チーホンの依頼により報告を作成したり、総主教座の意義についての報告や革命後最初の 公会声明文(後述)を作成したりするなど、重要な役割を果たす。またこの時期、モスクワ大学 政治経済学教授に選出され就任した。著作活動としては、この公会が開催された夏にかけ、大著『黄 昏ざる光』の執筆を終了し、また『名前の哲学』の執筆の準備が始まったとされている17。また ストルーヴェが提唱し 6 月に設立された非政治性を旨としつつも政権批判を行う超党派の「ロシ ア文化同盟」にも参加した18。 公会に先立ち、6 月 2 日にモスクワで開催された「全露聖職者・平信徒第一大会」でのブル ガーコフの報告「教会と民主主義」をまず参照したい(この時期、6 月 14 日には、憲法制定会 議の 9 月召集が臨時政府によって決定され、6 月 18 日にはボリシェヴィキが躍進する大規模な デモが控えていた)。同論で、ブルガーコフは、二月革命後に現れた新しい体制の本質を「民主 主義 демократия」、すなわち、多数決原理を本質とする「人民権力 народовластие」、「人民意志 народная воля」に見いだす。 誰も守ろうとしなかった古い陣営は無抵抗で倒れた。教会社会は、人民権力が約束した人民 の自由を開かれた心で迎え、人民の政治的春において人民と一体になった。「真にロシア的」 な君主制原理に代わってよりしばしば「民主主義的」(原理――筆者)が宣言されるようになっ た。19 「政治的春において人民と一体になった」という表現にはロシア国民の選択としての新体制を できるだけ理解したいという意志が読み込める。しかしブルガーコフを捉えているのは、先の自 由の将来に対する憂慮にも似た、民主主義の将来に対する危惧である。彼はこの民主主義がキリ ストの善にも反キリストの悪にも育ちうると注意を呼び掛ける。 民主主義は偉業へと高まり得るが、卑しき野獣化と暴君の狂騒にまで下落し、その名におい て無信仰と冒涜、暴力と犯罪が正当化されることもある。そして、今「人民の専制」をそれ
が何に表現されようとも構わず崇拝する者たちは、君主の専制をそれがいかに己を汚そうと も構わず崇拝しつづけた者たちが犯したのと同じ位に、罪を犯しているのである。20 この「民主主義」の形象からは、「民主主義」をスローガンにした民衆の暴力が次第に無政府 状態に近いものになっていく当時の社会情況への危機感が彷彿とされる。ブルガーコフは「民主 主義」における「人民意志」の絶対視が、罪を自覚しない自然人をそのまま良きものとして跪拝 する近代の「偶像崇拝」だとしたうえで、ルソーを持ち出し、その絶対意志としての「一般意志」 の概念を「人類の無謬性」の概念だとして非難する。ブルガーコフによれば、これに対し、この ような「民主主義」の政体の善導こそ教会の役割である。以降見ていくように、政治体制に対す るこのような教会の役割付けは 1917 年以降のブルガーコフの基本的な姿勢である。 教会は生命の最高の絶対的原理であり、此岸に由来する王国ではない。しかし、それは自身 にまで世界を引き上げる課題をもっている。民主主義は、単なる自然的な人類、罪の状態に おけるもので、ときに照明され、霊感を得るが、ときにまた獣の相を得る。それ(民主主義 ――筆者)は必ずや霊的指導 духовное руководство を必要としている。21 ここには 1905 年当時にもみられた教会の国家に対する優位の概念がみられ、現在の「人民権力」 としての国家に対してこの教会が果たす役割が述べられている。教会は、彼岸の王国であり、国 家は此岸の王国であり、前者は後者への制度的な干渉を行わないが、道徳的に一種のパートナー として後者を善導する。ただし 1905 年革命の時代には、帝政としての専制国家に対して、それ を監視し導くものとしての民主主義勢力が「キリスト教的社会性」=「教会」に同一視されてい たのに対し、ここでは民主主義権力としての新しい国家に対し、それを導き監視するものが教会 である。教会対国家という対立軸はそのままだが、民主主義勢力の位置づけは反転している。ま たもう一つの大きな違いは、ブルガーコフが自身の属する「教会」を、1905 年革命の時代のよ うな民主的で広範な「キリスト教的社会性」、つまりキリスト教化された知識人層率いる国民と いうよりも、聖神を帯びた実際の歴史的継続性をもつ組織としてのロシア正教会であるとはっき り考えていることであろう。ここにはブルガーコフが自らの立場を歴史的ロシア教会の一員とし て明瞭に意識していることも見て取れる。言うなれば、ブルガーコフは 1905 年に「キリスト教 的社会性」の一員として専制国家に対峙したように、今回は「教会」の一員として新しい人民権 力に対峙している。 そして、このような教会によって導かれる民主主義政体の国民があるべき姿は次のような形象 に窺われる。 民主主義の民衆とは、使徒が自身の会衆に向かって「神の種族、支配する祭司たち、聖なる 民 род Божий, царственное священство, народ святой」(ペトロ 1、2 章 9)と呼び掛けたところ の民衆であろうか。明らかにまだそうでない。22 この「神の種族」とは本来、使徒ペトロが呼び掛けた、既に信仰を受け入れて真理を知り、善 き者たらんと努力する信者の会衆を指している。民主主義をこのような「神の種族」にまで「引 き上げ、訓導する」23ことこそ教会の使命である。そこには「暴力と犯罪」に陥らぬ真の世俗権 力はキリストへの信仰をもった国民による政体であるという確信がある。おそらくこのような 世俗権力に対する態度を、世俗権力が「白き帝の黙示録的な神権王国」24と呼ばれていた第一次
世界大戦期の国家観と比べると興味深い。大戦期の世俗権力と教会の間が、一種の予定調和的な パートナーシップ、言うなれば<ビザンチン・ハーモニー>によって結ばれていたのに対し、こ こではその関係ははるかに緊張感のあるものになったのだと言えよう。 3. 社会主義を「指導」することは可能か? 1917 年に出版されたブルガーコフのパンフレットの一つ「キリスト教と社会主義」には以下 の表現がある(具体的な出版の日時は不明である)。 ロシアでは二、三か月のうちに突然社会主義が勝利し、世界は初めて社会主義政府すらをも 目撃した< ... >各地の選挙での社会主義ブロックのこの勝利、銃後での略奪行為を前にして の社会主義への圧倒的な卑屈な跪拝――疑問の余地なくこの略奪行為には、前線での『革命的』 でそしてもちろん社会主義軍隊の腰抜けの逃亡を伴う、冒険的な「同志」――「社会的ブルジョ ワ」の無限の要求が含まれる――これら全ては何を物語るのか。25 これはボリシェヴィキ政権の発足直後を指しているのかもしれないし、また自然発生的な戦線 離脱が早くから大勢になっていたことを考慮すると、これを 7 月 8 日に発足した社会主義者を主 班とするケレンスキー政権のもとでの世相の描写として理解することもできる26。いずれにせよ、 ここには社会主義を標榜する政権が実際のものとなった直後の情況が言及されていると考えられ よう。 同論において、ブルガーコフは、現実の大衆的運動となった社会主義に表れているもの は、経済的要求の解決を専横的に求め約束する、資本主義と変わらぬ富崇拝であり、俗物主義 мещанство であり、他人の富を羨望する、ゲルツェンのいう「持たざるブルジョワ」であると断 罪する。ブルガーコフの指摘によれば、現在のロシアでは、この社会主義の俗物性が最大限に表 現されその「捕食的性格」が表れている。 社会主義においてこそ俗物主義は、こう言ってよければ、戦闘的性格を帯びている。< ... > 社会主義が、現在のロシアでのようにその真の顔を見せ、あらゆる者たちが何かの捕食的な 狂宴に狂うとき、その顔が忌まわしいまでに俗物的で、人間性のもっとも低劣な動物的本能 が露呈しているのは驚くべきことだろうか。27 ブルガーコフがそこに見出している「社会主義」の本質は、真の自由の追及を、経済的問題の 解決による経済的な自由の約束にすり替え、真の精神的自由を貶める精神である。このモチーフ も以前からみられるものである。しかし、ブルガーコフがここで思い遣るのは、再び歴史の背後 にある霊的次元の問題である。ブルガーコフによれば、この状況は、歴史の初期に人間の以降の 歴史のモデルとして示されたキリストに対する「荒野の誘惑」のモチーフ、すなわち、パンによっ て民衆の歓心を買うという誘惑が、歴史の現実として全人類の前に到来していることにほかなら ない。 しかし、それでもブルガーコフはこの民衆の社会主義への志向に最大限の理解を示そうと し、社会主義に隠れる正しいモチーフを理解せよと呼び掛けながら(これを「預言を貶めるな Пророчество не уничижайте」とシンボリックに表現する)、同時にこの社会主義への志向が脅か している人格的なもの精神的なものの価値―ブルガーコフにとっては無論、キリスト教的なもの ――を守れと呼び掛ける(「霊を消すな Духа не угашайте」)。基本的に、民衆の運動に善と悪の両
面性を見るという姿勢は、これまでと同じであるが、これまで民主主義と呼ばれてきた民衆の運 動の精神は「社会主義」として見定められている。ここでのブルガーコフの姿勢は、一言で言う ならば、6 月の「教会と民主主義」の主張が<民主主義を指導せよ>であったのに対し、より困 難な課題としての<社会主義を指導せよ>に変わっていると言うべきだろう。従ってこの両面性 のバランスを知りうるという「キリスト教社会主義」には一定の有効性が認められている。 キリスト教は社会主義を俗物主義から解放し、社会主義に欠けた霊的基盤を社会主義に与え る。一方で社会主義はキリスト教的愛の命令の履行のための道具であり、経済生活において キリスト教の真実を果たす< ... >その政策が粗野な暴力を伴わず、良識に一致する限りにお いて、社会悪との闘いに向けられた慈悲的な社会改革としてそれ(社会主義――筆者)を受け 入れる十分な理由がある。28 ブルガーコフによればキリスト教と社会主義の否定的でない肯定的な関係というものがありう るが、いずれにせよ、経済問題解決の方策として社会主義は「天の国」に向かう「道の歴史的段 階のひとつであるにすぎず、歴史的エピソード以上のものではない」29。また、ブルガーコフは 最後までキリスト教政党の設立には否定的である。ここには、これまでに確立した、教会は国家 に合流せずパートナーとして国家を指導すべきものであるという立場、そして、社会主義はキリ スト教の理想の道具に過ぎないという理念が貫かれている。 ブルガーコフによれば、現在の無神論的社会主義は神の意志を経済法則に代え、神への信仰を 人への信仰に代えようとしている。アウグスティヌスがいうように二つの都があり、第一はキリ スト原理の教会で、第二は人間の国家である。この第二の都としての国家が第一の都なしで建設 されようとするとき、それは悪の国になる。この戦いが同時代の社会主義のなかで進行している のだ、と同論は締めくくられる。 4. ボリシェヴィキ革命を経て――全露地方公会 10 月 25 日のボリシェヴィキ政権の成立に直面した教会の第一の課題は、この未曾有の異類な 国家体制に対する自らの位置づけを定め、自らと信徒を守ることにあったと言える。10 月革命 の 3 日後にまだ戦闘の傷跡の残るクレムリンで、革命政権に許可され、再開された全露地方公会 では、それまで延々とその是非を巡って議論の続けられた総主教座の復活が、急遽決定される。 これは、教会周囲の政治状況の緊迫下において教会が権威ある代表、「とりなし役、霊的な父」30 をもつべきだとの公会の多数の意見によるものであった。言うなればこの総主教座の回復こそ、 ボリシェヴィキ政権に対する教会の最初の回答であった。1918 年に順次刊行された公会の議事 録の同日、すなわち 10 月 28 日付け付録には、まさしくこの総主教座の復活に捧げられたブルガー コフの報告「ロシアにおける総主教座の意味」が添付されている。これは、三つの報告の一つと して筆頭に添付されており、教会とおそらくはチーホン総主教自身にとってのブルガーコフの報 告の重要さも読み取ることができ、注目される。 しかしこの付録には後に触れるとしてここではまずは少し日付は下るがボリシェヴィキ政権成 立に対するより生々しい態度が見出せる 11 月 11 日にブルガーコフの起草により作成された公会 による声明を参照しよう。これも公会議の議事録に掲載されているもので、クレムリンで行われ た戦闘におけるボリシェヴィキによるクレムリンの寺院の破壊を国民の前で非難する目的で公会 理事会 Соборный совет の依頼により作成されたものである。ここまで述べてきたようにブルガー コフの基本的な姿勢は、教会が民衆の作るものとしての世俗の国家を一種のパートナーとして指
導するというものであった。この姿勢は守られる。しかし、教会に対して無関心というよりもあ からさまな攻撃性をもつ国家体制に対する態度は当然ながら異なってくる。 大いなる災いが我々の祖国に到り、神の怒りの器は未だまだ我々に注がれ、我々はこの正し き怒りを新たな罪で以て盛んにさせている。あらゆる不幸にロシアの地を覆う大いなる内訌 が加わった。あらゆる地上の富と速やかな平和の約束に誘惑された軍隊と国民の一方が別の 一方に対して立ち上がり、われわれの大地は兄弟の血で赤く染まった。ロシアの鉄砲と大砲 はもはや敵にではなく、無防備な住民、女、子供たちをも容赦せず、祖国の町々に向けられ ている。<...>数日間、ロシアの大砲は、ロシアの最大の聖所、聖なる奇跡のイコンと聖人の 遺骸、ロシアの古を収める古の聖堂をもつわれわれの聖なるモスクワ・クレムリンを砲撃し た。31 声明はこのような破壊行為を「指導者たちにそそのかされて」起こした者たちを憐みながら、 その「指導者たち」を強く非難する。この「指導者たち」がボリシェヴィキそのものであること は明々白々である。 己の権力をある階層のすべての国民に対する暴力に見ている者にとっては祖国もその聖所も 存在しない。彼らは祖国の裏切り者になり、祖国とわれわれの忠実な仲間たちに対する前代 未聞の裏切り行為を起こした。しかし、不幸にも、正教会の祝福を受けるにふさわしい真の 人民権力はまだ生まれていない。そしてそれは、われわれが、彼なくしては都(世俗の世界 秩序――筆者)を造る者たちの労働が徒労になるところの彼の者(神――筆者)に悲しみの祈 りと涙の告解をもって向かわぬうちは、ロシアの地に現れない。32 ここからは教会が、直接に政治に干渉するのではないが、「ふさわしい真の人民権力」が現れ た際にそれを祝福し善しとするというような役割をもつという教会の具体的な国家に対する役割 の理解が窺える。ただし、ブルガーコフにとって当時のボリシェヴィキがそれでないことは明ら かであろう。 2 日後の 11 月 13 日公会におけるブルガーコフの報告「国家に対する教会の関係について」と いう報告には、教会の国家に対する関係のより明瞭な公式化、そして具体的な姿勢が読み込まれ る。これは本来、期待されていた憲法制定会議に対して教会の法的地位を確定する法律を提案す るために作成されたものであったようである33。この中で、ブルガーコフは、政教分離を、国家 が教会を支配することも、教会が制度として国政に外的な影響を及ぼすことも否定するという意 味においてのみ肯定したうえで、しかし、教会が国家に対して及ぼすべき内的な影響を否定し、 排除しようという国家の傾向には抗わなくてはならないとする。ブルガーコフによればこのよう な意味での政教分離があってはならず、世俗には教会の影響の及ばぬ場所があってはならない。 それ(教会――筆者)の影響分野の限界が置かれてはならない。教会は人間生活のあらゆる性 質を変容させる新しい酵母であり、この酵母にとってまったく届かないものであるような人 間的自然 стихия はその中(人間生活――筆者)には存在しない34。 キリスト誕生以降の国家は、その霊的意義が変容し、自身が最高原理ではなく、教会という一 層高い最高権威をもつことを認め、キリスト教的奉仕をその使命にするべきものになったという
のが同報告でブルガーコフの与える国家と教会の関係の定義である35。ブルガーコフによれば、 このような教会に対する姿勢、教会から与えられた使命を守るのであれば、いかなる政治体制も 教会は受け入れる用意がある。 いかなる政治形態も、それがキリスト教精神に満たされ、あるいは少なくともそれを探すの であれば、教会の前で正当化されうる。< ... >しかし、ロシア国家がもしその精神的、歴史 的な根から自らを切り離そうと望むのでなければ、その(教会の――筆者)必要に配慮し、自 らも民衆生活へのその霊的作用のための道を合理的手段で開きながら、ロシアにおける正教 会の優越的地位をみずから保護しなくてはならない。36 作成された報告に添えてブルガーコフが行った議事録での発言によれば、教会の国家への関係 の定義は世俗的問題であるにとどまらず、ロシア正教会がその一部であるところの世界公教会 Вселенская Церковь もその行方を見守っている37。「教会は国家を指導しそれに影響を及ぼす使 命を帯びる< ... >」38のであり、たとえ、国家が世俗に関する一種の独占権を主張し、教会の干 渉を排除しようとも、教会は国家を倫理的に指導しようとすることを止めない39。このような関 係こそが、ブルガーコフが政権に対して教会が守り確保すべきと考えた教会の責務の範囲であっ たと言える40。 より明確なブルガーコフの教会の位置づけが読み取れるのは「ロシアにおける総主教座の意味」 である41。そこには総主教座の復活に、世俗権力に対して緊張ある関係を維持していこうという 意志の表現としての意義が見出されていることが読み取れ、また、十月革命そのものに対する姿 勢というよりも事象をより広い時代的視点から――形而上的歴史の視点から――見ようとする姿勢 が見て取られ、興味深い。それまでの、教会が国家を指導すべきだという姿勢は維持されている が、まずは混乱の中で総主教座が教会そのものを導く役割が強調される。 総主教座は教会の自立性の象徴であり、同時にそれは、以前の国家の湾内での安全に代わって、 全面的な内紛の中、激しい波をかき分け教会の船を導かなければならない。42 ブルガーコフは総主教座の誕生を神命による出来事として無条件に愛でているが、むしろブル ガーコフの関心は、このような総主教座の復旧と、到来した国家溶解の理由と霊的な意義を探 り、その次に来るべきものを見据えようとしているかのようである。だが、まずその視線は過 去に向けられ、それまでのロシア国家と教会の関係が顧みられる。ブルガーコフは、ロシア教 会のこれまでの歴史を、教会の本来あるべき姿としての全世界的に広がる公教会意識 вселенское сознание を目指す中での数々の誤謬の歴史であるように描き出す。まず、ビザンチン帝国の崩壊 に際し誕生した、モスクワ公国時代の最初の総主教座は、第三ローマの理念により、自らの狭隘 な地域的伝統を全世界的公教会に同一視しようとし、「宗教的民族主義と地域主義 религиозный национализм и провинциализм」43に陥った。この偽の全世界公教会の意識をもったことに対す る歴史的罰として、ピョートル大帝が宗務院体制によって教会を国家に隷属させ、教会は国家の 官僚機構と化し、国家身分体制の影響を被って陳腐化し、さらには全世界的公教会の意識への開 かれを失い、逆に「地域主義」は一層強化された。ブルガーコフによれば、ロシア国家の行き詰 まりの震源はこの国家と教会が陥った「地域主義」にある。 ロシアを「ペテルブルグ」、ドイツへの窓によってヨーロッパ化しながら、ピョートルはロシ
アにプロテスタント文化の毒を移植し、同時に教会生活を麻痺させ、教会の普遍的自己意識 への道を遮った。われわれが最後まで辿ったこの運命的な道の結果は、国家にとっても、教 会生活にとっても同じく致命的であった。44 このような帝政時代の教会と国家の誤謬の追及、一種の反省は、彼にとって 1917 年以前には 見られない新しいモチーフである。しかし、ブルガーコフがここで語りたいのは、この誤謬の是 正の必要であると同時に、むしろ、自由になった教会が齎す、これからの道筋を凝視することで あるように見える。ブルガーコフによれば、新しい総主教座の誕生によって「国家生活より先に 教会生活における肯定的建設の仕事が始まって」45いる。ここには、ロシアが歴史的に常に教会 と国家によって成り立っており、この総主教座の新しい誕生によって始まる教会の再生、そして それに続き教会の指導力により波及するように国家の再生、健全化が始まるという信仰が読み取 れる。一方、ボリシェヴィキ政権そのものはブルガーコフにとって教会の指導の対象というより、 ロシアの瓦解を体現していると言って良いだろう。 しかし真に興味深いのは、この「地域主義」から解放された総主教座が齎す新たな意味につい ての彼の考えである。ブルガーコフはこの総主教座が、ロシア教会の一方的な独善的権威を示す のでなく、逆に一総主教座として、他の全世界の総主教座と共に並ぶことによって、ほかの教会 と共同で全世界的公教会意識を形成することへの期待を記している。さらに、ブルガーコフによ れば、このようにして全世界的公教会意識が形成された暁には、全キリスト教世界のもっとも深 い病としての東西教会分裂の解決も課題になってくる。彼の主張によれば、「われわれの眼前に 展開するヨーロッパ、そして同時にロシアの悲劇」46をもたらした遠い歴史の「種」とは、この 教会分裂にほかならない。これは近代全体の行き詰まりを見出すと同時に、ロシアの歴史のみな らず人類の歴史の真の主体――形而上的歴史の主体――が教会であるという概念だと言えよう。人 類の歴史とは教会の歴史にほかならない。到来しうる教会統合が、どのような<具体的>意義を もっているかは次の一言から明らかになる。 そしてもし神意が、すべての世界公教会の中にある新世界という奇蹟の接近を感じさせる歴 史の時がついに到来したということを良しとするならば、われわれは覚悟ができていなくて はならない。われわれの腰帯はもう締められている。灯明はもう灯されている。47 一言でいえば、ブルガーコフは「黙示録」に預言されている世界崩壊後の世界的キリスト教王 国の誕生の兆しを疑っている。世界教会の統合がキリストの千年王国の成立に先行するというシ ナリオはソロヴィヨフの「三つの会話」のストーリーをも連想させる48。先に、大戦中のブルガー コフが、神の油を受けし者としてのロシア皇帝が善の勢力として悪の勢力に立ち向かうことを黙 示録のビジョンによって終末として理解していたことに触れた。ここでは再び、終末のビジョン が新たに甦り、総主教座という新たな事象に読み込まれたと言える。本論の枠は 1917 年である ので、1918 年に上に記したようなブルガーコフの態度がどのように変化したのかは直接には問 題にしない。しかし、1918 年の対話篇「神々の饗宴にて」からは、このモチーフ――正教会の開 かれによる正教会の変容と世界教会への合同の覚悟、それが開く世界変容の終末的希望――が継 続していったことが十分窺えると指摘しておきたい49。 1918 年のブルガーコフの運命を簡単に記しておこう。1918 年、ブルガーコフは聖職に志願し、 五旬祭の 6 月 10 日に輔祭の叙聖を受ける。これに引き続き、家族が事実上疎開していたクリミ ヤ沿岸が砲撃にさらされているという報道に接し、急遽シンフェローポリに向かう。その後、モ
スクワに戻ろうとしたところ、モスクワの情勢急迫によりキエフで足止めをくい、二度とモスク ワに戻ることはなかった。追放によるロシア出国は 1923 年 1 月であった。 おわりに 結論として 1917 年のブルガーコフの社会主義への観点として三つの特徴を挙げたい。一つは 1905 年当時と同じく、世俗の権力としての社会主義はそれがキリスト教の理想と一致する限り、 教会の承認を得ることができるという姿勢である。ただしこの社会主義は他の体制と同じ相対的 な価値しかもたず、それが承認されるのは、教会の理想と世俗において一致する技術的な手段と してにすぎない。この姿勢は 1905 年当時とほぼ変わらぬ一貫した姿勢であるが、現実化した社 会主義権力に対する危惧は著しいものであった。 二つ目は、ブルガーコフが社会主義思想一般と、その社会対国家という深層の構造を教会対国 家という理解のもとにある程度共有していたことである。しかし、1905 年の理解における社会 主義が、国家権力の横暴に対抗する社会=キリスト教社会性の側の勢力と見なされていたのに対 し、暴力化した無神論的社会主義政権を前にした 1917 年のブルガーコフにおいては、社会主義は、 主として、むしろキリスト教的社会性の側の勢力ではなく、このキリスト教的社会性の理想を継 ぐ広義の教会に対して抗い制御されるべきものとしての世俗の国家権力による暴力の一形態とし て捉えられるようになった。それでも、1905 年の社会対国家という一種の闘争的な二重権力の 図式は、表面的な右傾化と宗教化にも関わらず、1917 年当時の教会対国家という二重権力の図 式に受け継がれており、教会の側に立ったブルガーコフの国家に対するラジカルな独特な姿勢に 繋がったと言えよう。またこれこそがブルガーコフが 1917 年に際し直接の<政治参加>ではな く教会からの行動を選んだ一つの理由でもあり、そこには指摘したような教会こそが真の歴史の 主体であるという信条もあったと言えよう。多少の敷衍を行うのであれば、新たなボリシェヴィ キ政権にとって、単に教会が反動勢力なのではなく、ブルガーコフの総主教座の意味についての 報告が代表するような姿勢を教会がもちうること、すなわち私事に退くのでなく、国家としての 世俗権力に対して倫理的指導を行うことを使命とする教会の姿勢こそが、予期せぬ障害に見えた ことは想像に難くない。そうであれば、その後のソヴィエト政権の課題はこのような教会の姿勢 を排除し、国家に従順な教会――一種のソヴィエト的<ビザンチン・ハーモニー>――を実現する ことであったとも推察できる。ブルガーコフに関する論考であるこの場では、ソヴィエトのその 後の宗教政策を論じるものではないが、このような課題は結局は実現されたということができる かもしれない50。 もう一つは、社会進歩の原動力としてのユートピアの理念の尊重の共有である。ブルガーコフ は無神論的社会主義における世俗化したユートピアがユダヤ・キリスト教の預言者たちの「天の 王国」の虚像であると考えていた。しかし、これら社会主義ユートピア思想における、その最終 的な地上での実現の理念を批判しつつも、その社会における意義を認めていた。つまり、社会を 前進させる原動力としてのユートピアから吹く風の意義を、その本質についての意見を異にしな がらも、認めていたということである。従って、ブルガーコフは、自身における天の王国からの 風としての終末観――ロシア帝国の神秘的使命や総主教座の意味に関する考察――と、革命運動 における地上の王国の建設への衝動が、究極的には同じ源泉に基づくことも意識していたこと になる。ブルガーコフは後年、この時代を振り返り、実在するものとしての革命運動に自分が まったく共感を持たず、皇帝の神秘的意義を信じていながらも、深いレベルでは自分が「革命家 революционер」であったと告白している。ブルガーコフによれば自身には、表面的歴史の「断絶」 の「宗教的・革命的、黙示録的な感覚」があり、それが自身を「革命、horribile dictu(言うにも
恐ろしいが)ロシアのボリシェヴィキ主義とも不可分に結び付けている」51。つまりそこでは「革 命」が宗教的、黙示的な形而上学的歴史の反映――それが歴史における悪の立ち回りであろうと ――であることが肯定されている。この一見奇妙な告白は傾聴に値する。事実、彼自身、それま で唯物論的社会主義の形であれ、宗教的民主主義の形であれ、また宗教的君主主義の形であれ、 あるいは最後の総主教座への期待の形であれ、彼は世界の背後にある形而上的な「天の王国」を 信じ、この「天の国」が「地の王国」に及ぼす圧倒的な風を感じ、「地の王国」の変容を信じて いた。ただ、異教時代のローマ帝国の古代教会がそうであったように、ブルガーコフの<革命> は何よりも力による変容ではなく、精神の変容を志向するものであったと述べて、結論としたい。 註 1 拙論「セルゲイ・ブルガーコフのキリスト教社会主義の概念によせて――「焦眉の課題」における ブルガーコフの政治思想と市民社会」『ロシア思想史研究』第 2 号(通算 6 号)、2011 年、33-47 頁、 拙論「哲学的観念論と宗教的観念論の間――『新しい道』、『生の諸問題』誌の7つのシリーズ論考「筋 書きなしで」に見る 20 世紀初頭ロシア「観念論派」の「進化」の一側面」『ロシア思想史研究』第 5 号(通算 9 号)、2014 年、93-106 頁等。 2 この論理は「コリントの信徒への手紙 1」(「あなたがたはキリストの体であり、ひとりひとりはそ の肢体である」〈「コリントの信徒への手紙 1」12:27〉)等の記述、そしてキリストの国が地上と異 なるものであるという「ヨハネによる福音書」(「わたしの国はこの世のものではない」〈「ヨハネに よる福音書」18:36〉)等の記述によって正当化される傾向をもった。カントローヴィチは、西欧中 世においてはこのこの<キリストの体>としての教会の概念が<キリストの神秘体>としての教会 の概念に発展し、世俗的な政治体が自立性を主張する傾向に対抗していたことに触れている。カン トローヴィチ著、小林公訳『王の二つの身体』(上)ちくま学芸文庫、2003 年、5 章参照。 3 しかし、このようなブルガーコフの姿勢は他方で教会側からは、「政教分離と教会改革のための戦 いに正教『世論』を政治的に動員する道具としての教会論の手段化の試み」、すなわち教会の政治 利用とも評価されうるもので、教会とロシア君主制の「シンフォニア」としての協力の肯定的可 能性をアプリオリに否定するものであったとベンジンは指摘している。Бендин А.Ю. С.Н.Булгаков о взаимоотношениях церкви и государства в России (1902-1918)// Русское богословие в европейском контексте. М., 2006. С.107. 4 詳 し く は 拙 論 Х.Хориэ Был ли «cоциализм» идеалом священника Сергия Булгакова в первом десятилетии ХХ века? // Вестник Православного Свято-Тихонского гуманитарного университета. Серия 1. Богословие. Философия. Религиоведение. 2016. № 2(64). С.57-72. 5 Булгаков С.Н. Пять лет // Булгаков С.Н. Тихие думы М., 1996, С.336. (初出は Булгаков С.Н. Пять лет // Булгаков С.Н. Автобиографические заметки. Париж, 1946. С.71-93.) 6 Голлербах Е. Религиозно-философское издательство “Путь”(1910-1919 гг.)// Вопросы философии. 1994. №3. С.123. 7 拙論Х.Хориэ Амбивалентность “первобытной материи” и генезис человеческой свободы в “Философии хозяйства” о. Сергия Булгакова // Вестник московского университета. Серия 7. Философия. №3. май-июнь. 2016. С.3-21.、筆者報告原稿「初期セルゲイ・ブルガーコフにおける「人類」概念と神義論 ――個死の克服とその限界のテーマ」(ロシア思想史研究会報告、2012 年 11 月 24 日)を参照。こ の歴史観に触れたものとしてはまた北見論「セルゲイ・ブルガーコフの経済哲学におけるマルク ス主義とソフィア論」『スラブ研究』62 号、2017 年、75-107 頁などがある。またパロモフはこの ようなブルガーコフにおける黙示録的立場について、ブルガーコフにとって「黙示録が、あらゆ る同時代の矛盾を(ヨハネの――筆者)告知に照らし、その最終的な仮現性を見出すことで、その
矛盾の過熱を覚ます、殆ど最も有効な政治的テキストであった」と指摘している。Паромов К.Я. Религиозно-политические искания С.Н.Булгакова (1905-1917): от “антихристова самодержавия” к “теократии Белого Царя”. Вестник ПСТГУ. II: История. История Русской Православной Церкви. 2013. Вып. 6(55). С.27. 8 松原広志「第 1 次世界大戦開戦とロシア・インテリゲンツィヤ――イヴァーノフ=ラズームニクと ネオ・スラブ主義者たち」、『ロシア思想史研究』第 5 号(通算 9 号)、71-92 頁、拙論「巫女との対 決――S・ブルガーコフによるドストエフスキー『悪霊』評価によせて」『ロシア思想史研究』第 8 号(通算 12 号)、2017 年、3-17 頁を参照 9 Булгаков С.Н. О даре свободы //Булгаков С.Н. Христианский социализм: Споры о судьбах России. Новосибирск, 1991. С.202. (初出は Булгаков С.Н. О даре свободы //Русская свобода, 1917, №2.) 10 例えば、「欧州は中途でロシアは終局である。欧州は文化と国家性であり、ロシアはその深い自己 意識において、己の限りなく果てし得ぬ夢の中、その預言者たちのヴィジョンの中では、超文化、 超国家性、白き帝の黙示録的な神権帝国である」。 Булгаков С.Н. Русские думы // Русская мысль. №12, 1914. С.114. 11 例えば、「地の皇帝は、この世で、王の王(キリスト――筆者)のある種のイコンのようなものになり、 そこには盛大なる神聖な瞬間に白き王国の光が灯ることもある」Булгаков С.Н. Свет Невечерний, М.,1994. С.340. (初出は Булгаков С.Н. Свет Невечерний, М.,1917.) 12 Булгаков С.Н. О даре свободы. С.203. 13 Там же. С.203-204. なおヤロスラヴナとは『イーゴリ遠征記』のイーゴリ公の妻のことであろう。 14 Булгаков С.Н. Три идеи //Русская мысль. 1913, №2, С.149. 15 同論では、ロシアのヨーロッパに対する本質的な特徴であって、ロシアが世界にもたらすこと のできる意義、イデアは、地上の自身の<家>を愛し地上的な価値に執着しついには俗物主義 мещанство に陥るヨーロッパに対し、広大な大地をさまよう遊牧民族の血を引くロシアの国民性が この地上の<家>のはかなさを常に意識しており、それから<自由>であり、この地上が砕けいつ しか<天の国>が来ることを常に意識していたということに見出されている。これをこの 2 月革命 後の<責任ある自由>と比較すると自由の理解の大きな転換が起こっていると指摘せざるを得な い。Булгаков С.Н. Война и русское самосознание // Булгаков С.Н. Труды по социологии и теологии. Т.2. М., 1997. С.143-171. 16 オリヴィエ・クレマン著、冷牟田修二、白石治朗訳『東方正教会』白水社、1977 年、39 頁参照。 17 執筆時期についてはエフトゥホヴァの記述による。またエフトゥホヴァはこの地方公会が革命に 対する一種の中産階級の対応とみなせるものであり、公会そのものが予定されていた憲法制定会議 とタンデムになり、教会・国家の近代化の片翼を担っていたと指摘している。Ehthova C. The Cross
and Sickle: Sergai Bulgakov and the fate of Russian Religious philosophy. Ithaca; L, 1997.
18 御子柴道夫は、ロシア文化同盟には、ロシア知識人たちが存在論や人間論といった普遍性の問題よ り文明論への関心を蘇らせ、民族への関心を持ち始めたという全体の思想的動向が反映されている とする。また二月革命直後の革命賛美の論調をもった『ロシア思想』誌に対し、四月事件が周辺の ロシア思想家の全体の論調変化の転機になったと指摘している。御子柴道夫著「<解説>光と闇に」、 長縄光男・御子柴道夫監訳『深き淵より』現代企画社、1992 年、408 頁を参照 19 Булгаков С.Н. Церковь и демократия. М., 1917. С.7. 20 Там же. С.12. 21 Там же. С.13. 22 Там же. С.10. 23 Там же. С.12.
25 Булгаков С.Н. Христианство и социализм // Христианский социализм. С.224. 26 2 月革命以降のペトログラードの社会秩序の崩壊は監獄襲撃、脱走兵の横行などにより急速に進 行し、長谷川毅によれば、1915 年に市内の武装・非武装強盗件数が年間 63 件であったのに対し、 1917 年 6 月には一日 40 件の窃盗強盗がおき、同 10 月 4 日には一日 250 件、7 日には 310 件と加速 度的に増加し、無秩序下での市民によるリンチが横行した。長谷川毅著『ロシア革命下ペトログラー ドの市民生活』中公新書、1989 年、312-313 頁参照。 27 Булгаков С.Н. Христианство и социализм. С.223. 28 Там же. С.227-229. 29 Там же. С.231. 30 総主教座復活の提案に対する公会賛成意見代表 P・N・ラホツキー長司祭の発言から。Деяния. Священный Собор Православной Российской Церкви. Кн.III. Деяния XXXL-XL. Петроград, 1918. С.3. 31 Там же. С.185. 32 Там же. С.186. 33 Деяния. Священный Собор Православной Российской Церкви. Кн.IV. Вып. 1: Деяния XLI-XLV. Петроград, 1918. С.16. 34 Там же. С.13. 35 ブルガーコフによれば、教会の誕生以来、「国家性の原理は自身を自己完結的なもの、人間生活の 最高原理として意識することを止め」、国家は「キリストの教会の最高権威を認め、教会は< ... > 歴史における新しい使命を己に負った」Там же. С.14. 36 Там же. С.15. 37 「それら(教会の国家への関係に関する議論の声)は第一にわれわれの聖なる公会がその一部であ るところの全世界教会によって聞かれているはずであり、第二にスモーリヌィ学院に座っている 人々に尽きぬ正教ロシアの人民によって聞かれているはずである< ... >」Там же. С.7. 38 Там же. С.10. 39 「それ(国家――筆者)が教会を斥けようとも、教会はロシア人民の国家生活を斥けない」Там же. С.13. なおここで国家に生命を与え指導するものとしての教会の役割の理念を掲げたものとしてドストエ フスキーと掌院フョードル(A・M・ブーハレフ)が挙げられている。 40 このような一見、慎重とも言えるブルガーコフの姿勢のもう一つの根拠は、教会内に生まれてい た臨時政府、あるいは社会主義各派に対するさまざまな積極的な支持を主張する意見に対して、こ れが教会内に分裂をもたらし兼ねないものであることに対する危機感であったことが同論から窺え る。 41 本文で触れたように同論は 10 月 28 日の公会の議事録付録として存在するほか、11 月 23 日には『ロ シアの朝』紙に掲載されたことが知られている。10 月 28 日の議事録そのものには同論が報告とし て読まれたという記載はなく、また同論の中でも総主教座の復活がすでに起きたもののように書か れているところを見るとこの文章の作成されたのは 10 月 28 日から『ロシアの朝』掲載日までのい ずれの日かということになろう。 42 Булгаков С.Н. Смысл патриаршества // Деяния. Священный Собор Православной Российской Церкви. Кн.III. Деяния XXXL-XL. Петроград, 1918. С.19. 43 Там же. 44 Там же. С.20. 45 Там же. 46 Там же. С.21. 47 Там же.
亡命思想家 1900-1946』成文社、2006 年、12-40 頁)参照。逆にロシア皇帝がキリストの勢力の統 率者として旧コンスタンチノープルのソフィア寺院に入場するというイメージは、中世ヨーロッパ に広がっていたという将来の最後のキリスト教皇帝コンスタンスの形象を連想させる。ノーマン・ コーンによれば、コンスタンスと呼ばれる皇帝が西のローマと東のビザンチンを統一し、その任務 を果たすとエルサレムに向かい帝冠と帝衣を脱いでゴルゴダの丘におき、キリスト教国を神の御手 にゆだねるという筋書きをもつ神託書『ティブルティナ』が中世ヨーロッパに普及した。ノーマン・ コーン著、江川徹訳『千年王国の追及』紀伊國屋書店、1978 年、20-21 頁参照。 49 「神々の饗宴にて」の第 5 対話冒頭には、対話者のひとり「世俗神学者」の発言として教会の国家 からの自由の獲得は革命の混乱によって生じたすべての社会的マイナスを補って余るという大胆な 発言がある。「世俗神学者」によれば、無論、教会と専制体制の宗教的、すなわち霊的な結びつき のようなものは存在しない。革命の波は教会の敷居で止まって、教会は内的に団結しており、世俗 生活への影響力強化という形での攻勢の準備ができている。「世俗神学者」はもう一人の対話者で ある「外交官」の、教会が革命の流れに対して無為であったという指摘に対して、このためがゆえ に人々はこの時期にあって一層「教会的」なるべきだと主張する。この姿勢は基本的に、ブルガー コフが二月革命以来露わにした態度を彷彿とさせる。しかし、第 5 対話の後半にこの「世俗神学者」 の論争相手となるのは「難民」である。「難民」は、教会と専制の結びつきは必須で神的なものであっ たと反対し、他方で、この革命は全世界的崩壊であり終末的戦争であり、正教会もカトリック教会 もその誤りにより行き詰まっており、その時代が終わりつつあるとする。この難民によれば、共通 の敵のために正教は開かれたものになるべきであり、教会統一の問題をほのめかす。この姿勢は上 記の「総主教座の意味」で登場した立場を思い起こさせる。ただ両者は、「外交官」に抗い、教会 こそがロシア史の根幹で形而上的な筋を示すという点に関しては一致しており、「より教会的にな れ」という言葉に至っては全く同じである。キリスト教社会主義に関してはもう一人の対話参加者 「作家」にはっきりだめだと言わせている。Булгаков С.Н. На пиру богов pro et contra современные диалоги// Труды по социологии и теологии. Т.2. С.336-347. (初出は Булгаков С.Н. На пиру богов pro et contra современные диалоги//Из глубины (“De Profundis”). М., Пг., 1918.)
50 前掲のベンジンは、このようなブルガーコフの教会の国家指導の理想が 1917 年から 1918 年に 公会が確立した政教関係論に大きく影響を与えたほか、さらに 2000 年に主教公会で採択された 「ロシア正教会の基本的社会概念」に影響を与えたと評価している。Бендин А.Ю. С.Н.Булгаков о
взаимоотношениях церкви и государства в России (1902-1918). С.109. 51 Булгаков С.Н. Агония //Христианский социализм. С.300.