随筆 私本太平記
随筆 私本太平記 新春太平綺語
新春太平綺語
お そ ら く 、十 代 二 十 代 の 人 に は 一 笑 に も 値 し ま い 。け れ ど 私 た ち の 年 齢 の 者 は 、 平凡なはなしだが、 ﹁ああ、元日か﹂の感慨を年々またあらたにする。昨日の歴史、 あ の 戦 中 戦 後 を 通 っ て 来 て 、 生 け る 身 を 、 ふ し ぎ に 思 う か ら で あ る 。そ こ で 去 年 ︵ 昭 和三十二年︶の正月の試筆に は、 た わむ 戯 れ半分に﹁元日や今年もどうぞ女房どの﹂など という句を色紙にかけて拝む ことにしておいた。すると升田幸三氏やら だれ 誰 やら、つ随筆 私本太平記 新春太平綺語 ね日ごろ女房泣かせの や から 輩 が来ては﹁おれにも書いてくれ﹂と請われるまま、ついト ソ気分で、おなじ句を何枚も人に書いてやった。ところが中にはそんな甘い文句の 家庭円満剤では何の き 効 き め 目 もないらしい の 呑 ンべな亭主どのもあったので、そんな人 へは特に﹁これは細君に上げ給え﹂といってはべつな句をこう書いてあげた。 うぐいす 鶯 やうちの亭主はどこの木に む か し か ら 、〝 太 平 楽 〟 と い う 言 葉 が あ る 。ク リ ス マ ス か ら つ づ い て ま だ 不 足 顔 の さ 醒 めない 〝 正月の亭主族 〟 のごとき者をいったのだろう。語源は﹁太平記 ﹂以前で あるにちがいない。それが古典の太平記に用いられてから謡曲、民劇、小説など で さらに一般化したのである。室町期の記録もの、お と ぎ ぞ う し 伽草子 。また江戸時代の小説類 な ど お よ そ 〝 太 平 記 〟 と い う 書 題 を 取 っ た も の は 百 種 以 上 に も の ぼ る で あ ろ う か 。 た と え ば ﹁ お 伽 太 平 記 ﹂﹁ ご ば ん 太 平 記 ﹂﹁ 女 太 平 記 ﹂﹁ 東 国 太 平 記 ﹂﹁ 化 物 太 平 記 ﹂ 近 年 で も ﹁ 新 聞 太 平 記 ﹂﹁ 何 々 太 平 記 ﹂ な ど 、 と て も か ぞ え き れ な い 。私 の こ ん ど 書 く ﹁私本太平記﹂もその一つに入るわけである。けれど無数 の書名は、じっさいには、 ほんとの太平記の内容とは、何のかかわりもなく、ただその 〝 太平 〟 ということば の持つ広さや ばく 漠 とした思わせぶりに か た く 仮托 したものが大部分であるといってよい。
随筆 私本太平記 新春太平綺語 原典の﹁太平記﹂を書いた作者は、小島ノ法師円寂とされている。が、この人 の 伝 記 も よ く わ か っ て い な い 。書 か れ た 時 代 は 正 平 か ら 応 安 年 間 ︵ 今 か ら 約 六 百 年 前 ︶ ごろだろうと考察されている。いずれにせよ、足利尊氏の死期をまたいだ頃だった ら し い 。し か し 筆 者 の 小 島 ノ 法 師 は 、 当 時 で い う 宮 方 ︵ 南 朝 方 ︶ の 人 で あ っ た か ら 、 その物語は多分に一方的であって、史料として信じるわけにいかない学説は古く か らあった。けれどまた、北朝方の手に成った﹁ ばいしょうろん 梅松論 ﹂という一書もあり、これは むしろ足利尊氏方なので、二書をあわせ見れば、やや公平にちかい客観点に立てぬ ことはない。そのほか、同時代の日記物、文書、古記録のたぐいは、古くから現 代 の歴史家までが、あまねく あさ 漁 りつくしているので、新発見というような史料は、お そらく今日ではもうありえない。求めてもむりである。 けれどまた、私の拙い作品でも、これが新聞小説となって、世衆の関心にふれ て く る と 、 社 寺 院 の 開 か ず の とびら 扉 や 郷 土 の 暗 黒 倉 な ど か ら 、 何 が 出 て く る か わ か ら な い 。 現 に 、 き の う も 電 話 で 、 私 に か く れ た 南 北 朝 史 料 を 提 供 し た い か ら と い う 人 が あ り 、 いままた、この随筆を書いているとき、階下の玄関へ、同様な意味をいって面会 を 求めきた訪客があるが、礼をつくしてお断りした。この後も、そういう御好意に は 謝 す る が 、会 っ た り 御 返 事 を 書 い た り は 一 切 し な い つ も り で あ る 。と い う よ り も 、 じっさいの小説へ毎日の執筆をつづけ出すと、とても私には時間がない。私の﹁ 私
随筆 私本太平記 新春太平綺語 本 太 平 記 ﹂ へ の 目 標 や 文 芸 構 成 の こ と は 、 べ つ な 〝 作 者 の こ と ば 〟 で つ く し て あ る 。 さ き に 私 は ﹁ 新 ・ 平 家 物 語 ﹂ を 書 い た が 、﹁ 太 平 記 ﹂ は 、 そ れ に く ら べ る と 、 お な じ古典でも、時代が下がるし、人の考え方や世の中も一変している。平家には見 え たあの優雅な人々の無常観も 〝 あわれ 〟 さもまた文章の詩趣も至って 乏しい。総じ て文学価値としては古典平家の方が太平記よりも上だとおもう。けれど人間社会 の けわしさとか、個々の苦闘とか、また歴史上の日本という国の未成年期山脈をふみ 越えて来た祖先たちのあとを振向いてみるものにしては、平家の世頃とは、比較に な ら な い も の が あ る 。そ れ だ け に 、 小 説 と し て も 、 生 々 し い 人 間 臭 を も つ と お も う 。 しかし、これまでの太平記や、いわゆる南北朝概念では、足利尊氏にしろ新田 義 貞にしろ、また正成正行父子にしろ、誰の観念の中にも、人間としてはいない 。極 端なまでに偶像化されたままである。こころみに、私は周囲の高校生や大学初期の 若い人たちに試問してみたが、ほとんどがよくもわるくもそれらの史上の人物に つ いて知るところがない。わけて、日本の中世歴史中でも重要な五、六十年間にお い て 、 ど ん な 風 に 、 こ の 国 が あ っ た の か 、 北 朝 、 南 朝 な ど と 分 れ て い た の か 、 そ ん な 社 会の下の庶民や文化の生態はどうなっていたのかなど、中年以上の人でも、今では すこぶるあいまいになっている。そしてこのあいまいな歴史の密林にたいして、た だ一種の懐疑だけをもっているのが実状ではなかろうか。
随筆 私本太平記 新春太平綺語 ほんとをいえば、そんな深い史林の奥は、私にもわかっていない。けれど私は 歴 史家ではないのだから、新史料の導きに よ 拠 らないでも、独自の史観と空想を力に文 芸の火を頼りとして、その史林の やみ 闇 へも、入ろうとすれば入ってゆける。心ぼそい ことなどちっともない。読者と共にだからである。だがこれは、さきに平ノ清盛 を 書いたときにもなめた経験であるが、尊氏などを描いてゆくと、きっと旧観念の尊 氏 を 過 信 し て い る 人 な ど か ら は 相 当 つ よ い 風 あ た り が 来 や し な い か と 思 っ て い る 。 正成の人となりやらその神格化を人間として描いたばあいなどでも、同様な はんぱつ 反撥 が 予 想 さ れ よ う 。だ か ら と い っ て 、 い つ ま で も 、 日 本 歴 史 中 の 胴 ナ カ の よ う な 部 分 を 、 みんなが、あいまい 、 も 、 ことしておいてよいわけでもあるまい。とにかく、手をつけ 出せば、それを機縁として、ほかの作家もまたさまざまな意図の下に同時代の素材 に手を染め出そう。そして自然それが、国民全体の考慮や関心になって来れば、国 民的思判も生じ、専攻の史学家諸氏も、一ばいの研究をこれにそそぐ動機ともなっ てくるかもしれない。ただしばらくは、私のごとき空想児の しょうよう 逍遥 を笑って見ていて いただきたいと ねが 希 うのである。 まだ小説の方は一字も書かないうちから、ここでいってしまうのも率直すぎて他 愛ないが、逆賊尊氏も、忠臣楠公も、私には、 、 え 、 こも 、 ひ 、 い 、 きも全くない。その時代 の下に生きた一個の家庭の父、一個の人間 、社会人として、どう描きうるかがまず
随筆 私本太平記 新春太平綺語 さしあたっての苦吟である。人間尊氏を私はやはり人間的な気の弱さや人のよさ を 多分にもった人だったと思っている。正成にしても、そうである。みんな社会 、み んな周囲が、彼をしてやむなくさせなければ、河内の一田舎武人として、よい妻 や よい子にかこまれ、 かき 垣 の梅花を楽しんだり、老後は菊の花でも作って、しごく平凡 にまた平和に天寿を まっと 全 うしたろうにと思われる。その点、かの くさなぎえんせき 日柳燕石 が、楠公の 詩に﹁過マツテ武人ニ生レ﹂と歌っているのは、偶像楠公にいささか人間の待遇 を 以て涙しているもので、今の私たちに共鳴される。いずれにせよ、 こう 高 ノ もろなお 師直 のごと きは変っているとしても、人みな善人だったと思う。それが、建武年間、正平以 後 にかけてまで、半世紀余の血みどろを地上に現じ出してしまったのは、いったい誰 の所業か、何の作用か、私は人間同士の住むこの世には、何か﹁誰﹂と指摘でき な い ま か 摩訶 不思議な素因がどこかに ちょうりょう 跳梁 している気がしてならない。 小説の中では、そんなものをも、つきとめてみたい意欲がするのである。だが そ れ は 、 文 芸 の 徒 の 文 芸 思 惟 な ど で は 遠 く と ど か な い 永 遠 の 問 題 で あ る か も し れ な い 。 な ぜ な ら 、 眼 の 前 に あ る 今 日 の 国 際 社 会 に お い て さ え 、 な お ま だ 未 解 決 の ま ま つ ね に 不気味な不安のナゾとなっているからだ。︱ ︱ ︱ うぐいす 鶯 やうちの亭主はどこの木に。︱ ︱ ︱ その酔っぱらい亭主のあたまにも、この虚無型の不安だけは、どこにいても消えて はいまい。つい、大それた放言に似てしまったが、南北朝の世をかりて、ひとつ そ
随筆 私本太平記 新春太平綺語 の、この世の影なき魔ものの正体を、読者とともに、考えてみようというのが私 の 意図でもある。そんな小説は、さだめしおもしろくも何ともないだろうといわれそ うだが、しかし新聞小説である、私も たの 愉 しんで書くつもりだし、かたがた、毎日の 暮しですらおたがい大へんな今日なのに、その朝ごとの諸兄姉にたいして、なんの 足しにも愉しみにもならぬかたい小説などを書くつもりはいささかもない。 終 り に 。 ﹁ 太 平 ﹂ と い う 語 意 は 、 古 来 ど う も 、 乱 世 の 反 語 に 使 わ れ て 来 た よ う で あ る 。い わ ば 平 和 の 曙 を 待 つ 、 庶 民 の 悲 願 が こ の 二 字 に 、 こ め ら れ て 来 た も の と お も う 。 ︵三三・一・一︶
随筆 私本太平記 新春太平綺語
随筆 私本太平記 その一
筆間茶話
その一
連載小説の習慣で、ほんら い毎月の初めには 〝 前回までの梗概 〟 が載るのが約束 になっている。だが、どうもあ れはつまらない。書く方もつまらないが、読者にも随筆 私本太平記 その一 中途半端で、あれで要領がえられようとも思われない。 そ こ で い ッ そ と 、こ ん な 試 み に か え て み た 。 月 一 回 を 小 説 定 休 日 と し て し ま う 。 そして代りに、私本太平記の篇外雑感とか、臨時の史蹟紀行、作品の補遺などに す る。また、時には全篇の梗概ばなしとしてもよいが、とにかく月一回は読者と共 に 遊ぶ気で、勝手なことを書きたいのである。もし、おいやならやめてもよい。だ が 何せい長篇である。急ぐ旅ではなし、どうであろうか。 過 日 の 早 春 日 和 に 、 杉 本 画 伯 を 誘 っ て 、 栃 木 県 足 利 地 方 の 史 蹟 歩 き を こ こ ろ み た 。 まっ たい 平 らな両毛平野も、この辺まで来ると、渡良瀬川をさかいに、 たいら 平 ノ まさかど 将門 以来の ばんどう 坂東 の人煙が日光山脈に よ 拠 って散在し、赤松の小丘陵の多い起伏の変化もおもしろ い。 が、南北朝時代の、ここと鎌倉、ここと京都、九州。その遥けさを考えると、馬 の旅でも、千里の感がしのばれる。 まず ば ん な じ 鑁阿寺 を訪ねた。足利市の街中である。 ほり 濠 は旧態をのこしているが、古図に 見える林泉や大杉は面影もない。多宝塔そのほかの諸堂も荒れている。住職山越氏
随筆 私本太平記 その一 の住む階上に、国宝の そ う よ う か び ん 宋窯花瓶 やら たかうじ 尊氏 自筆の古文書などが、からくも無事をえて いる有様だった。 ﹁なにしろ、長い月日、陽の目も見ない寺でしたから⋮⋮﹂ と 、 山 越 住 職 は かこ 喞 っ て 、﹁ 今 は ま あ 。そ ん な で も あ り ま せ ん が 、 以 前 は 、 足 利 出 身 の子が東京へ徒弟にでも出ると、逆賊の土地ッ子かなんて、よくいじめられたもん で す し 、足 利 織 物 の レ ッ テ ル で さ え 、逆 賊 織 か と 嫌 わ れ た と い う 程 で し た か ら ね 、 文部省でも、ここの修理なんてことは、うっかり持ち出せなかったもんでしょうな あ﹂と、いかにも長い世代の白眼に耐えて来たようなまろい背を、今もかがめた ま までいる。 若い高氏のいた頃の居館は、この鑁阿寺ともいわれるが、四囲の地形から市の背 後の本城山︵今、 りょうがいさん 両崖山 ︶かと考えられる。本城つまり本庄、 あしかがまんどころ 足利政所 の て ん か 転訛 では なかろうか。 前回まで書いた又太郎高氏の忍び遍歴は、もとより私の創作である。が、時代 の 風 潮 、 点 景 人 物 、 後 醍 醐 帝 の ち ょうきん 朝覲 の 儀 な ど 、 お も な る こ と は 〝 増 鏡 〟 や そ の 他 の 史 実 に拠った。︱ ︱ ︱その日、私たちのために案内の労をとってくれた足利史談会の須永
随筆 私本太平記 その一 弘氏は、高氏の京都出生説をのべていたが、それとて確証はないのである。が 、郷 土史家の一史眼ではあると思った。 け ん こ う ほ う し 兼好法師 の ﹁ つれづれぐさ 徒然草 ﹂ に は 、 謡 曲 鉢 ノ 木 の 最 明 寺 時 頼 が 、 旅 す が ら 、 足 利 家 に も 立 ち寄っていたことが見える。夜物語りの酒のあとで、時頼が土地の織物について訊 ねたりしている。ここの機業史はそれほど古い。が今は、繊維工場の えん 煙 とつが、渡 良瀬川をけむらせていた。 足 利 学 校 の 訪 う 人 も な い 庭 梅 と 、 そうはん 宋版 の 国 宝 古 書 籍 の 真 新 し さ な ど は 忘 れ が た い 。 昔、 もんもう 文盲 の領民が、なにか読めない文字があると、紙キレに書いて、門前の小松に ゆ 結 いつけておき、翌朝を待つと、それにフリ仮名と解釈が付いていたという言い伝 えのある 〝 かなふりまつ 字降松 〟 はホホ笑ましい。以て当時の学校なるものの在り方も、よく読 める。 この学校は約千百年前の お ののたかむら 小野篁 の創始だとか。ならば、日本最古の学校といって よかろう。これが明治七年には、現在国宝の蔵書ぐるみ二束三文で売りに出された こともある。それを時の鍋島県令にせまって中止させたのは画家田崎草雲だった と いう。その草雲の旧居 はくせきさんぼう 白石山房 では木村市長などから興味ある話もきいたがただメ
随筆 私本太平記 その二 モ と し て 先 を 急 ぐ 。帰 路 を 新 田 義 貞 の 旧 山 河 に 向 け 、桐 生 、太 田 な ど を 一 巡 し て 、 夜おそく東京着。カゼ気味の杉本健吉氏には、ひどい目にあわせた日帰りの旅だっ た。 ︵三三・三・三︶
その二
読 者 諸 子 か ら い ろ ん な 寄 与 や お 便 り を い た だ い て い る 。い ち い ち の 御 返 事 は 、 き ぼ う 机忙 、 とても不可能なので、おわびしておく。ただ黙し難い御注意二、三のみを、ここ で お答えしておきたい。 ﹁新田桜﹂の項に書いた利根川と渡良瀬川の位置について、前橋市の一教諭の方か ら 、 詳 細 な 地 誌 学 上 の 御 注 意 を い た だ い た 。負 け 惜 し み み た い だ が 、 中 古 か ら の 河 川 推 移 に 私 も 気 づ い て な い わ け で も な か っ た 。が 、 そ こ ま で の 考 証 は 逆 に 文 学 の 〝 病 〟 になるし、読者イメージを混雑させる。同様なフィクションは、たいがい作者は 承 知の上で書いてるものとお読みおき願いたい。随筆 私本太平記 その二 知人の結婚式で、諸橋轍次博士とお会いしたときも、小説と史料のはなしが出て ﹁たいへんですなあ﹂といわれたが、私はいつもこんな答 えをするのである。 ﹁作家 の空想は、一応の史実を忠実に あさ 漁 った上の発想でないと、ほんとの空想とはいえな いんですね。フィクションにも、そこで二た色ありますから﹂と。 高 氏 の 母 が 鑁 阿 寺 に もう 詣 で る 回 で 、広 島 県 の 一 住 職 か ら 投 書 が あ っ た 。 ﹁ 地 蔵 如 来 は、地蔵菩薩に。また、たんに だいにち 大日 とあるのは、大日如来と訂正してください。そ の方が正しいのです﹂と。 何百万という読者は、それ自体 そく 即 〝 大智識 〟 であると思う。郷土のこと、建築や 服飾のこと、風俗、植物のことなど、何かしら各 一つは作家よりも う わ て 上手 な智識と か専門を持っている。新聞小説はまったく恐い。 〝 足利郷土史料年表 〟 をわざわざ作製して、土地の須永弘氏が送ってくれ た。ペン 細字の丹精こめた便覧表である。また羽黒洞のK氏からは、国宝足利尊氏像の写し を贈られた。これは高柳光寿氏著の﹁足利尊氏﹂その他、南北朝関係の史書にはよ く口絵になっている物だが、K氏がくれたのは、寛文頃の土佐家の摸本である 。そ
随筆 私本太平記 その三 れを見つめていると、若い高氏の性格描写などの上に大いに役立った。 若い高氏像は世にないので、挿絵の杉本氏も苦労しているが、大体彼は気取りッ 気のない、線の太い人物だったには違いない。秀吉、家康、清盛などの部分部分 を ツキ交ぜたようなところがある。少々ロマンチストで、正直者だが、他のなしえ な い凄いこともあえてやる。権力や物質に 、 こ 、 だ 、 わ 、 りなく、功でも物でもよく他に分け 与えて惜しまない方であったという。︱ ︱ ︱ちょっと肖像画の顔では、現代政治家の うちにも似たのがいそうだが、内容を考えると、さてこの二流もいそうではない。 近 く 舞 台 は 鎌 倉 に 移 る 。執 筆 前 に 、い ち ど 鎌 倉 史 蹟 歩 き を 約 し て い た が 、風 邪 、 雑忙、それに原稿もストックなしで、私がぐずぐずしているまに、数日前、杉本氏 一人で先に出かけたらしい。 燈 台 もと 下 暗 し で 、 鎌 倉 は 私 も 小 学 生 頃 か ら 知 悉 し て い る わ け だ が 、 さ て 、 書 く と な っ て み る と 、 じ つ は 何 も 知 ら な い の だ 。人 間 お お む ね 、﹁ 知 っ て い る ﹂ と 、 す ま し て い る こ と が 、 じ つ は い か に 何 も 知 っ て い な い こ と か と い う 、 よ い 一 例 で あ る 。東 京 及 び 鎌 倉 人 は 、 か え っ て 、 奈 良 、 京 都 、 阪 神 な ど の ほ う が 詳 し い よ う だ 。 ︵ 三 三 ・ 四 ・ 二 ︶
随筆 私本太平記 その三
その三
五月。なんとなく若さを感じ る。メーデー、憲法記念日、子供の日。それと、眼 に青葉。 作家の生理にも、季感の影響 はあるかもしれない。一年中、雑書と紙クズだらけ な書斎だが、五月の窓光には、五 月の発想が うず 疼 く。窓外の新緑をみると、机の上に も、新芽を吹きたい欲望がしきりにおこる。 ﹁私本太平記﹂も、いつか百回を こえた。百回ぐらいまでには、一応、高氏の人間 的な準備期と 〝 正中の へん 変 〟 あたりもすむ予定でいたが、つい はかど 捗 らない。なにぶん読 者に馴じみのうすい時代なので 、そこを分りやすくするための、時代の舞台装置な どに、どうしてもよけい筆が い 要 る。 戦国時代や源平期もみなそ うだが、太平記のばあいでも、時代の主動力は、若さ である。すべて変革期の中の若さを見おとすことはできない。 昨 今 の 場 面 の 、 正 中 元 年 を 基 準 に 、〝 太 平 記 中 の 主 要 人 物 〟 の 年 齢 を 、 拾 っ て み て随筆 私本太平記 その三 も。 足 利 高 氏 ︵ 二 十 歳 ︶ 新 田 義 貞 ︵ 二 十 四 、 五 ︶ 楠 木 正 成 ︵ 二 十 八 、 九 ︶ 北 畠 親 房 ︵ 三 十 二 ︶ 日 野 資 朝 ︵ 二 十 九 ︶ 日 野 蔵 人 俊 基 ︵ 二 十 六 、 七 ︶ もりなが 護良 親 王 ︵ 十 七 ︶ ︱ ︱︱ ま た 、 後醍醐天皇は三十七歳の御壮年だし、楠木 まさつら 正行 や北畠 あきいえ 顕家 などは、まだ五、六歳の 乳臭児にすぎない。 先ごろ、鎌倉を半日歩いた。杉本画伯は国画会の審査日で行けず、鎌倉在住の Y 氏や社の学芸子、ほか二、三人が同行してくれた。 か ね て すがわらみちなり 菅原通済 氏 が 、 常 盤 山 文 庫 所 蔵 の 有 名 な 、〝 尊 氏 の 願 文 〟 を 見 せ よ う と 約 し て下すっていたが、あいにく通済氏は出京中。拝見は、他日とする。 い つ も の 東 海 道 コ ー ス を か え て 、 本 牧 か ら 磯 子 、 富 岡 、 金 沢 、 朝 比 奈 越 え の 道 を え らぶ。私はハマ生れのいわゆる浜ッ子だが、このコースの変化にはおどろいた 。横 浜は昨今、開港百年祭の準備で、終戦後初めてといっていい明るさにある。 途上、どこより先に、まず金沢文庫を訪れて、 せ きせい 関靖 先生に十年ぶりでお目にかか る。 以前、私は夏中よくここの緑蔭に来ては、何かと博士の教示にあずかったもので
随筆 私本太平記 その三 ある。その頃か。兼好法師の消息の う わづつ 上包 みを、文庫の屋根裏から発見したと、狂喜 されたことなどあった。生涯を文庫の再建と、鎌倉文献の研究にささげて来た先生 も 、 よわい 齢 す で に 八 十 。と つ ぜ ん な の に 、 す ぐ 御 自 宅 か ら 杖 に す が っ て 文 庫 へ 見 え ら れ 、 そして私のために、たちまち書目を あ さ 漁 って、太平記関係のものを示されるやら、旧 懐談やら、おはなしは尽きない。 太 平 記 を 見 直 す た め に は 、金 沢 文 庫 は そ の 宝 庫 の よ う な も の で あ る 。惜 し い が 、 再訪を約して、文庫長の熊沢氏とも、行きずりのままお別れする。 朝比奈山にかかると、同行のY君が﹁ここの峠は、 こん 今 ちゃん︵日出海氏︶が銀座 から深夜帰る途中、きっと車から降りて小便する所です﹂と名所案内みたいなこと をいう。そこで、小生も車を降りてどんなものかとこころみる。 むつうら 六浦 一望、なるほ ど、彼は風流児である。 鎌 倉 で は 、 杉 本 寺 に の ぼ り 、 東 慶 寺 で は 偶 然 、 さ さ き ・ ふ さ 女 史 の 苔 碑 に 会 う 。近 くに真杉静枝女史も眠っている。真杉さんのお墓には、誰が供えたのか、ガラス び んの酒徳利に、お酒が上げてあった。 円覚寺の黄梅院で、暮れかける。お訪ねした辻雙明氏は御不在。だが、ここに は
随筆 私本太平記 その四 鎌倉時代そのままな やつ 谷 の ゆうすい 幽翠 がしいんと残っていた。また、いただいたお茶に水の 良さも思われた。 辞して出ると、行きずりの続灯庵の和尚が﹁よい物をお見せしよう﹂と、先に 立 つ。ついて行くと、正続院の一庵の裏庭で、艶なる牡丹十数株が、薄暮の中に 、見 る 人 も な く けん 妍 を きそ 競 っ て い る の だ っ た 。和 尚 は 、わ れ ら の た め に 牡 丹 を 見 せ た の か 、 牡丹のために客引きとなって私たちを連れ込んだのか。これは一案の提唱になり そ う で あ る 。が 、 山 門 へ 来 る と ﹁ 左 様 な ら ﹂ と 、 あ っ さ り 一 灯 の 洩 れ る 房 の う ち へ 、 別 れ去った。 ︵三三・五・九︶
その四
現代小説は身軽らしいが、私の仕事はいつも史料と同居している。そのため 、と んと おっくう 億劫 にしていたが、前月末、久しぶり関西方面へ旅行した。 目的は、そろそろ登場人物として腹案中の 〝 楠木正成 〟 とその郷党の地、南河内 からあの附近の史蹟を、足で歩いてみることだった。随筆 私本太平記 その四 ちょうど、親鸞七百年忌をかねた相愛学園の記念大会もあって、それへ出る一日 も日程に組み入れ、名古屋駅で杉本画伯を加え、社の学芸子などあわせて、四 、五 人で京都に降りる。 下車早々、Y京都支局長から﹁京大の教授に、足利尊氏の末孫という人がおら れ ますがネ﹂と聞かされた。 しかし、これまでにも私は、何通となく﹁わが家は、足利尊氏の子孫と言い伝 え られてますが﹂という読者の手紙をもらっている。で、たぶんY氏がいうのも 、足 利支流のそうした家系かと軽く聞いていたが、やがて宿の大文字家に落着いてか ら の話だと、どうもこれは聞き捨てならない。 そこで私は急に言い出した。 ﹁ひとつ、今夜中にその人に会わせてくれませんか。明日は大阪、明後日はもう 河 内行きだから、ぜひ今夜中に﹂ 。 夕がた、南禅寺の龍村家の庭を拝見、その足で初子の営む奥山へ行く。先に諸 方 へ 電 話 し た り 、 記 者 を 走 ら せ て 、 手 配 を 尽 し て く れ た Y 氏 も 来 て ﹁ や っ と 今 、 尊 氏 の まつえい 末裔 をつかまえましたよ。つい近所の ほそかわもりたつ 細川護立 さんの別邸内に住んでるんです、す ぐお見えになるそうですから﹂と、まるでちょっとした捕物騒ぎ。
随筆 私本太平記 その四 食事をひかえて、お待ちする。と、程なくその足利氏が見えられた。五十なか ば か、物静かな紳士である。かりにその背広服を、 の う し 直衣 か ひたたれ 直垂 にかえ、頭に冠をのせ たら、人品すでに、その物である。学究臭い 、 ぎ 、 こ 、 ち 、 な 、 さもなく、酒は余り い 飲 けない が、話はすごくおもしろい。 ここで私が、氏の無断紹介をするな どは、おそらく同氏にとっては御迷惑なこと だろう。けれど六百年後の今日、私本太 平記の筆者が末孫たる君に巡り会うなどと い う 奇 縁 か ら し て 、そ も そ も 、祖 先 尊 氏 の 引 き 合 わ せ か も わ か ら な い 。と 思 っ て 、 観念していただくことにする。 お名前も、足利 あつうじ 惇氏 さんである。京大では ぼん 梵 文学︵東大でいう印度哲学科︶の教 授、学習院時代には、いまの陛下と同 級であったという。だからお年は訊かないで もすむ。五十七。 東 京 の 家 庭 は 、有 馬 邸 の 内 で 、作 家 の あ り ま よ り ち か 有馬頼義 氏 は 義 弟 に 当 る 由 で あ る 。だ が 、 細 川 さ ん と は ど う い う 御 縁 か 。私 も 訊 い た が 、人 に も よ く 訊 か れ る ら し い 。 ﹁ だ っ て 昔 は 家 来 筋 だ も の ナ ﹂。そ う 答 え た ッ て お か し く な い 。だ が 、 あつうじ 惇氏 氏 は 、 笑 っ て こ
随筆 私本太平記 その五 う い う 。 ﹁ 細 川 さ ん へ は 、 貸 し が あ る ん で す よ 。貸 し と い っ ち ゃ あ 、 ま ず い か ナ 。ま ア、そんな関係がね﹂ 。 そこをみんなで根ホリ葉ホリし始める。由来は、こうであった。 幕 末 ご ろ 、熊 本 の 細 川 藩 か ら 、当 時 十 五 、六 歳 の 細 川 護 美 氏 と い う お ん ぞ う し 曹司 が 、 や し ゅ う き つ れ が わ 野州喜連川 の足利家へ養子に入った。 ここで私の調べたところを少々加えると。 足利将軍家の正嫡は、室町幕府の滅亡後、各地を転々とし、天正十八年、徳川 家 康の擁護で、やっと し もつけ 下野 塩谷郡の喜連川に一万石の封土を得て落着いた。 これが あしかがさひょうえのかみくにとも 足利左兵衛督国朝 で、世に 〝 き つ れ が わ く ぼ う 喜連川公方 〟 などと呼ばれたものである。 表 向 き 、 徳 川 幕 府 は ﹁ 礼 ヲ 以 テ 之 ヲ 遇 ス ﹂ な ど と 恩 に 着 せ た が 、 喜 連 川 一 万 石 も 、 じつのところ、実収高は五千石にみたなかった。そのくせ格式だけは高い。よけ い つら 辛 かったわけである。 こんな い わ れ 由緒 つきの小藩へ、熊本の大藩から養子入りした年少の護美氏が、辛抱出 来なかったのは当然だ。そのうえ幕末維新の中央は若い夢をそそらずにいない。そ こ で こ の 若 殿 の 養 子 さ ん は 、 つ い に 家 臣 の 隙 を う か が い 、 藩 の 小 判 を ふ と こ ろ に 、 出 奔してしまったのだ。まるで小説のような話がこのあとにもある。 ︵三三・六・一︶
随筆 私本太平記 その五
その五
公休日は一日が定法だ。だの に私の 〝 小説公休日 〟 が二回にわたるなど、沙汰の 限りである。読者のおゆるしを仰いでおく。 それというのも、こんどの旅 行中、はからずも たかうじ 尊氏 の末裔、足利 あつうじ 惇氏 氏に会って しまったためである。半分は惇氏 氏のせいだとしよう。大いに語らせねば読者も気 がすむまい。 前回、話半分で終ったが、小判を 持って養子先の足利藩を逃げ出した細川護美氏 は、まだ十六、七の若殿なので、おそ らく熊本の自藩へ一目散のつもりだったに違 いない。だが途々、 わ ら じ 草鞋 を買うにも小判を出し、旅籠へ泊っても、いきなり上段の 間 に 坐 っ た り す る の で 、 忽 ち 宿 役 人 に 捕 ま っ て し ま っ た 。と ど の つ ま り こ の 養 子 は 、 離縁となった。やがて明治政府 となって、この人は ド イ ツ 独逸 公使となっている。現、細 川護立氏の祖父の御兄弟だろうか。 惇氏氏が冗談に﹁細川さんに は貸しがある﹂と言ったのは、つまりそんな関係の ことらしい。随筆 私本太平記 その五 足利家へは、その後で、水戸家から烈公の十一番目の一子が養子に来て、これ は 落着いた。 し か し 、 国 粋 主 義 の 水 戸 藩 が 、 南 朝 の 逆 臣 足 利 氏 の 家 系 と 、 縁 組 み す る な ど と は 、 ちと奇観である。それにまた、喜連川一万石の小藩へ、御三家からの養子入りな ど も、常識では考えられない。 あ つうじ 惇氏 氏はニコニコしつつ、こう続けた。 ﹁べつに もんじょ 文書 も何も残ってはいませんがね、私の家にも水戸家にも、こんな言い伝 えが昔からある。例の 〝 大日本史 〟 ですネ。尊氏が逆賊と決定づけられ たのも、あ れからですが、その編纂を とく 督 した水戸 みつくに 光圀 ︵水戸黄門︶も後では少々尊氏に気の毒 だと考えたのか、こう遺言しておいたというんです。⋮⋮これでは後世、足利家 に 男子のない場合は、三百諸侯から養子の き て 来人 もあるまいから、断絶になる。そんな 時には、必ず水戸家の男子一名を や 遣 るがよい、と﹂ これはおもしろい。光圀の 〝 大日本史 〟 編纂の意図を窺う上からも、また尊氏観 にも、示唆に富む話ではあるまいか。 当然、尊氏に討たれた楠木正成も話題にのぼる。
随筆 私本太平記 その五 だが惇氏氏はただ﹁⋮⋮正成って、やはりいい人だったでしょうなあ。少なく も 正 直 な 人 で す よ ﹂ と だ け 言 っ た 。そ し て 先 祖 の 尊 氏 に つ い て も 、 多 く を い わ ず 。 ﹁ ど うも歴史上、あんなにまで国家主義に利用された人物はない。それもいいが、こ う 敗戦日本となっちまッては⋮⋮﹂と後を笑いに ま ぎ 紛 らした。 察するに、戦時中までは、ずいぶん 〝 尊氏の子孫 〟 という眼で、いやな思いもし て来られたらしい。 学習院時代でも、歴史の時間は つら 辛 かったそうである。当時の院長は の ぎ ま れ す け 乃木希典 大将 だった。南北朝史が講義をされる前日などは、あらかじめ学校当局から﹁明日の 講 義には、君の先祖の事歴も出るが、ひがんではいけない﹂と、厳に いまし 誡 められたりし たという。それでも、逆賊尊氏の名が出ると、同級の皇太子︵現、陛下︶から級友 たちの眼が、みな自分を刺すように感じられたそうである。 忠臣蔵の吉良上野介も、祖先は足利家の支族である。だから尊氏が ち ゅうげん 中原 へ出た軍 需や足がかりの地は、三河だった。 そんなわけで、ここにもまた一挿話がある。義士討入りの当日、不忍ノ池の足 利 邸から松坂町の吉良邸へ、ある問題で、お礼の使者が行っていた。︱ ︱︱その使者が 大雪の中を帰って来た夜に、あの事件だった、という。
随筆 私本太平記 その六 それ以前から、上野介は、本家の足利家が、あまりに微禄なのを見かねて、足 利 家の転封を、時の幕府に内々運動中であった。そしてほぼ成功の しょ 緒 についたところ を、彼の横死で一切は闇に葬られてしまった︱ ︱ ︱という語り継ぎが、足利家にはあ るそうだ。︱ ︱ ︱こう み 観 てくると、過去をただ時の流れといってしまうには、余りに 人と歴史の あ や 綾 は目に見えぬ密度の糸で か が 縢 られている。 さて。かんじんな河内紀行だが、もう枚数がない。またの機会に書くとする。た だ 同 日 、 小 雨 の 中 を 、 観 心 寺 、 赤 坂 、 みくまり 水分 、 楠 木 氏 夫 人 の 遺 蹟 な ど 、 多 大 な 労 を と っ て下すった郷土の諸氏に、厚くお礼だけをのべておく。 ︵三三・六・二︶
その六
近 々 の う ち に 、﹁ あ し か が 帖 ﹂ を 一 ト ま ず 閉 じ て 、 次 に 楠 木 正 成 を 中 心 と す る ﹁ 菊 水帖﹂へ筆をすすめる予定である。 先月、つい書きもらしたが、五月下旬の私たち一行の 〝 河内紀行 〟 は、私にそん随筆 私本太平記 その六 な腹案があったのと、ちょうど東北大の豊田武教授とも同行の約が出来たので、大 阪 滞 在 中 の 寸 暇 、 あ い に く な 小 雨 を 見 つ つ も 、 む り に 出 か け て 、 観 心 寺 、 みくまりじんじゃ 水分神社 、 な ん び あ ん 楠妣庵 などを中心に、あの附近を一日じゅう、濡れ歩いてみたわけだった。 次の帖を﹁菊水帖﹂とするか否かには、じつのところ、少々迷った。 この シ ンボル 象徴 には、どうも理窟なしに、かつての極端な指導者の軍国利用や虚構の かげ 翳 がさす。そんな先入主と混同されては、迷惑だし、小説にも失望されよう。で 、楠 木帖、ちはや帖、何々帖とならべてみたが、正成を書く以上、題語などは、五十 歩 百歩、文芸的には何の内容関係もない愚と さ と 覚 った。 素心で見れば﹁菊水帖﹂は字ヅラもきれいだし、語感もよい。正成を書くにし て も、私はただ、文学的素心で自分の正成を書くしか方法はないのである。 正成ほど、史家を悩ませる人はあるまい。 か つ て は 、 余 り に 神 格 化 さ れ す ぎ た 大 楠 公 だ っ た し 、 近 来 の 研 究 で は 、 そ の 人 を 人 間として い ぶ 息吹 き返させる史料にも、じつに乏しい。家系、職掌、人となりにも、不 明が多く、彼のはっきりした姿は、 か さ ぎ 笠置 に召されてから、湊川の合戦で、尊氏の軍 に当って死ぬまでの、六年間に見られるのみだ。
随筆 私本太平記 その六 けれど、彼にも生まれたところの山河がある。山河に偽色はない。大阪から車 で 約二時間ちょっと。南河内千早赤坂村の彼の故郷へ立った。そして、ない物 、 ね 、 だ 、 り の史蹟一巡をこころみる。︱ ︱ ︱前述の豊田武氏、杉本画伯、社の数氏に加え、観心 寺の下で待ってくれた永島住職や小柴河内長野市長、ほか土地の人々も入れ て、ち と仰山な人数になる。 寺宝の もんじょ 文書 や内陣の諸仏を見てから、正成の首塚、 た ち か 建掛 ケの とう 塔 の辺りに立つ。こ こで得たものは、それらの既存の遺物よりも、正成一族や和田氏その他の近郷 武士 が、この自然と が ら ん 伽藍 に よ 拠 って、何を考え、何を志向していたか、当時の彼らの な りわい 生態 やら生き こだま 谺 がそこはかとなく心に響いてくることだった。 南北朝の世頃、四十六坊といわれた山門下の寺元村の茶店前には、観光バス や修 学旅行の学生が群れをなしている。 ﹁ 楠 木 氏 の 菩 提 寺 の ち ゅういん 中院 は 、 あ の 辺 で す ﹂ と 、 永 島 住 職 が 指 さ す 。水 は 見 え な い が 、 崖下は金剛山の西麓からくる石見川である。奥からは、良質な ひのきざい 檜材 が出る。鎌倉時 代 に は 、 こ こ の 檜 が 都 へ 送 ら れ 、 仏 師 の 彫 刀 に 刻 ま れ た ら し い 史 証 も あ る と か 。で 、
随筆 私本太平記 その六 観心寺には、 ひ 檜 ノ お さ ん 尾山 の山号もある。 菊水紋の話になる。 楠 木 家 の 菊 水 ノ 紋 に つ い て は 、郷 土 の 間 で も 、諸 説 紛 々 で 、一 定 は な い ら し い 。 朝廷から賜わったとするのが従来多い説だが、ここの郷里には、おもしろい口碑が あ る 。 ﹁ ︱ ︱ ︱ 菊 水 の 菊 は 、 菊 の 花 で な く 、 山 吹 に 流 水 を 添 え た 山 吹 ノ 紋 だ っ た ﹂ と い うのである。 もしほんとに、山家静かな里の瀬の山吹が、 あやま 誤 って武門に咲き、時潮に乗せられ て、いつか菊の花となり、菊水となったのなら、それこそ正成という人を、真に 象 徴しているものかも知れない。奈良街道には、有名な井出ノ山吹があるし、ここ の みくまりがわ 水分川 やほかの瀬々にも、古くは山吹がたくさん咲いていたようだ。 建 水 分 神 社 の 宮 司 岡 山 氏 が 、 私 た ち の た め 、 雨 傘 を さ 翳 し 添 え て 、 石 階 数 百 段 を ぼ く り 木履 で案内してくださる。楠木氏が みくまり 水分 の水利権を抑えていたのが、この地方に重きを なしていた重因であると み 観 るのが、豊田氏の近説である。道に辷り、山坂の小雨し ぶきに濡れながら、豊田氏の説にうなずく。
随筆 私本太平記 その七 正 成 夫 人 、 久 子 の 生 家 の あ と 址 を 見 て 通 る 。こ の 日 、 奥 の 金 剛 山 は 、 雲 煙 に つ つ ま れ 、 赤坂城の址には、蜜柑畑のみどりが濃い。正成の や し き 屋敷 址は、いまの千早赤坂小学校 だ。山雨を避けて、校門へ駆け込む。蜂ノ子みたいな学生たちにワイワイ囲まれ つ つ 、 雨 の 小 や み を 待 つ 間 、 健 吉 画 伯 は 、 そ こ ら の 写 生 に 他 念 も な か っ た 。︵ 三 三 ・ 七 ・ 八︶
その七
こ の 一 稿 を 挟 ん で 、﹁ 菊 水 帖 ﹂ へ 移 る が 、 新 聞 小 説 の 日 課 を 、 あ ら た め て こ れ は た いへんだぞと思った。前に経験した新・平家物語にくらべると、まだ週刊誌誌上 で の二十回分程度しか書いていない量である。︱ ︱ ︱ずいぶん書いてきたような長途の 感を覚えたが。 ﹁菊水帖﹂は、菊水帖から新たに読み初められても、さしつかえないものになる つ もりである。随筆 私本太平記 その七 意図としてでなく構成上、次の﹁××帖﹂も同様に、一帖一段落でゆくつもり な の だ 。 ﹁ い ッ た い 、 太 平 記 の ど の 辺 ま で 書 く 御 予 定 な ん で す か ﹂ と も よ く 人 に き か れ るが、それも﹁︱ ︱ ︱行けるところまで﹂というのが私のたてまえである。読者が飽 いたらすぐやめる。 ﹁ あ し か が 帖 ﹂ で の 、 高 氏 、 道 誉 、 藤 夜 叉 、 高 時 、 ほ か 傍 系 の 人 物 も 、 や が て み な 菊 水帖の登場人物となろう。読者には、草心尼や覚一など、実在の人か否か、その 辺 が気がかりらしいが、覚一は実在の人である。ただ、足利高氏の おい 甥 か い と こ 従兄弟 かには 確証がない。︱ ︱ ︱ないままに私はいとことして書いた。 従来、将軍足利尊氏の縁者に、そんな変った盲人があったことなどちッとも注意 さ れ な か っ た 。だ が 覚 一 は 後 年 、 明 石 に 住 ん で 〝 明 石 ノ けんぎょう 検校 〟 と い わ れ 、 後 醍 醐 、 光 厳、後村上、光明の諸帝も彼の平家琵琶を愛された。盲目の彼一人には、南北朝の 別もなくまた暗黒期もなかったのだ。 そ の 晩 年 に は 、 京 都 高 倉 綾 小 路 に 〝 清 聚 庵 〟 と い う 盲 人 組 織 の 職 屋 敷 を お い て 、 そ れ ま で は 全 く 社 会 の 癈 疾 者 ︱ ︱ ︱ 厄 介 者 と し か み ら れ て い な か っ た 盲 人 に 〝 平 家 琵 琶 〟 という一職業を与え、検校、別当、 こ うとう 勾当 、 ざ と う 座頭 の四階位から十六階位までの こ か ん 瞽官 制
随筆 私本太平記 その七 度のゆるしを得、瞽官の授与やその他で上がる金で、全盲人のうえに希望と保護を もたらした人でもある。 大きくいえば、覚一は琵琶の名手で、なお日本の盲人の父だった。覚一の出現 で 盲人の社会的位置は全く一変した。宮中から公卿、武将、庶民の巷にまで、ひと 頃 は、琵琶法師の見られぬところはなかった。それまでは、ひどい話だが﹁盲が一 人 死ねば、長者が二人できる﹂とさえ当時の ことわざ 諺 にいわれた程なものだった。︱ ︱︱けれ ど、そんな人も、逆臣尊氏の縁者という悪名に るい 累 されてか否か、歴史の上ではほと んど影を消されており、もちろん今日の盲人諸君にしても、自分たちの せんじん 先人 に覚一 があったことなどおそらく知るまい。 先ごろ河内紀行から帰った直後、三重県上野市の久保文雄氏から天来の一信を い ただいた。氏の郷土史報告によると、楠木正成の縁類にも、盲人ではないが、覚一 のごとく、芸術に生きて、あの大暗黒期の下から、長い後世にわたる芸林の源泉 を せ せ ら ぎ 出 し て い た 人 が あ っ た と い う 。以 来 、私 は 私 な り に 、書 庫 の 鼠 と な っ て 、 その裏ヅケとなるべき傍証漁りに熱中した。 いま詳しくは述べえないが、久保氏の手がけた伊賀の上島家文書中の のうめん 能面 覚エや
随筆 私本太平記 その七 ら 観 世 系 図 に よ る と 、 観 世 流 の 始 祖 、 観 世 き よつぐ 清次 の 母 は 、 楠 木 正 成 の ご く 近 親 な 者 で 、 姉か妹かは不明だがとにかく︱ ︱ ︱河内国 た まくし 玉櫛 ノ庄 たちばなの 橘 入道正遠ノ じょ 女 ︱ ︱ ︱と明記があ り 、そ れ は 信 憑 に 足 る も の と 、発 表 さ れ て い る の で あ る 。久 保 氏 の こ の 新 提 説 は 、 まだ学界として取り上げられるまでには至っていないが、氏の示唆による私の私 な りな せんさく 詮索 でも、そのいわれある点や、根拠といえるところがどうやらつかめて来た 気がする。従来、一族みなコチコチな人とのみ み 観 られていた大家族楠木氏のうちで も、性情さまざまな人が、もちろんいたはずといってよい。しかもその一人が、日 本 能 楽 の 始 祖 の 母 だ っ た と い う 一 構 想 に 立 ち う れ ば 、 私 の 文 学 的 想 像 の 野 も 、 ち は や 千早 、 こんごう 金剛 、湊川だけのものではなくなって来る。 ﹁菊水帖﹂の予告と共に、たちまちいろんなお手紙を頂戴した。久保氏の御書面 な ど は 天 来 の も の だ が 、ど う に も 御 返 事 に 困 る の も 多 い 。要 す る に 、歴 史 の 山 河 は 、 私たちの汲む水道の源流みたいなものだ。未曾有なヒデリもあり大颱風もそこに は あったが、善意の人間の一脈だけは、今日にも流れ続いている。正成や尊氏は、い わば颱風時代に揉まれた生命中の きょ 巨 なるものだ。官賊の別や功罪の論などは、私本 太 平 記 の 任 で は な い 。揉 み に 揉 ま れ た こうてん 荒天 の 下 の 生 命 そ れ ぞ れ を 書 い て ゆ き た い 。 出来ることなら、その颱風の眼を、筆のさきでとらえてみたい。 ︵三三・八・四︶
随筆 私本太平記 その八
その八
﹁菊水帖﹂になって、三十回ほどになる。 ﹁楠木正成はいつ出るのか﹂と、ままきかれるが、増鏡や古典太平記では、後醍 醐 天 皇 が か さ ぎ お 笠置落 ち の さ い 、 天 皇 の 夢 告 か ら 、 こ つ ね ん と 召 さ れ て 出 て 来 る 正 成 で あ る 。 し か し 、現 代 の 読 者 に は 、や は り 人 間 正 成 の 出 現 で な け れ ば 心 か ら 受 け と れ ま い 。 それが﹁菊水帖﹂の主要テーマなのだから、いささか、私も私なりにここは構造 を こ 凝 らしてみたい。 まいどの く 繰 り ごと 言 だが、正成の前半生には、殆ど信じるに足るほどな史料は皆無に 近い。 ならば、小説的な空想にはかえって都合がよさそうなものだが、昨日までの日本 史では大楠公としてきた過去の忠誠の象徴である。いたずらに、偶像をやぶるだけ が の う 能 でもないし、それだけでは意味もない。 と ぼ 乏 しい史料をも、ていねいに、再検討 して、ややうなずける人間正成をこの﹁私本﹂に新しく築いてみたい。随筆 私本太平記 その八 日野俊基をかりて、河内や石川盆地の さ んじょみん 散所民 などを書いたのも、正成を生んだ郷 土の特色とか社会条件なども、一応、描いておく必要からであった。 しかし、俊基の潜行は、私の作為ではなく、天皇が奈良や叡山へ、政治的な行 幸 をこころみている間に、彼が勅旨をおびて高野その他の諸大寺を ひそ 密 かに あんぎゃ 行脚 してい たのはほぼ事実といってよい。 古来、正成の兵学上の師と伝えられている毛利時親︵所伝・大江時親︶につい て のことは、読者の一人、山口県豊浦郡豊田町西市の中野盛紀氏から寄せられた懇書 に拠るところ多かった。 中野氏の家系は、鎌倉執権代の長崎高資の え い 裔 とか。山口県での毛利氏研究には専 門家以上の ぞうけい 造詣 のある人である。ほか、読者の御好意は何くれとなくいただいてい るが、一片の御示唆でも、それを小説中に用いた場合は、明記して、お礼に代え る つもりである。 平家物語の治承・寿永の世には、西行法師という風外の歌法師がいたが、太平記
随筆 私本太平記 その八 の大乱時代にも 〝 つれづれぐさ 徒然草 〟 の著者で知られている 、 す 、 ね 、 法 、 師の けんこう 兼好 がいた。 兼好法師は、太平記の中では、 こう 高 ノ もろなお 師直 にたのまれて、人妻へ横恋慕の手紙の代 筆をするぐらいにしか使われていない が、将来、この兼好法師なども、私本太平記 の中では、もっと、あの時代をどう生きたかという観点から、書いてみたい。 ついでに言っておけば、私本太平記の 今のところは、元徳二年だが、その元徳二 年は、兼好法師四十八歳のときで、彼はす でにぼつぼつ何処かで 〝 徒然草 〟 など書 きはじめていた頃である。 この二ヵ月ちかくは軽井沢で仕事をし て来た。ことし辺りの軽井沢は、すっかり 青年たちの軽井沢に変ったようだ。よく書 斎の窓へ来た小鳥も り す 栗鼠 もだんだん顔が 減っている。 去年はここに見えた升田名人も、今年は入院と聞いて、 病むもよし 病まば見るべし はぎすすき 萩芒 と呟いた一句を、彼への便りに出そうと 思いながら、ついまだ見舞状も書けずに いる。
随筆 私本太平記 その九 浅間測候所のしばしばな警告によると、いつ爆発があるか知れぬほど、今年は異 常に山が鳴っているそうである。だが誰一人、浅間山を心配顔で見る者はない 。い や世界の鳴動も、社会の鳴動もするが、火を噴くまでは、みんな 、 た 、 かをくくってい るものだろうか。おそらく、南北朝大乱の前も、そんな世態 だったのだろう。歴史 はいつも、浅間測候所の如く未然を告げているのだが。 この初旬には、例年の毎日、文春、両社主催の高原ゴルフ 大会がある。盛夏は遠 慮して、わざわざ二百二十日がらみの人なき頃にやるわ けだ。文壇、各界いろんな 顔が無慮六、七十名も集るので、浅間山麓の鳥類どもも顔 マケの観がある。これが すまないと、軽井沢もほんとに静かな秋にならない。もち ろん、運動会の中学生み たいなもので、年々、私の机なども、それからでないと真に 灯下の秋が来ない気が する。 ︵三三・九・七︶
その九
ま ず 、 新 年 の 賀 を 、 お め で と う 、 と 大 方 の 読 者 へ さ さ げ る 。こ こ は 理 く つ 抜 き に 。随筆 私本太平記 その九 元日はよいものと思ふ なにもかも 社会的にも個々にも、なみなみならぬ去年であった。そして今年もと、覚悟は さ れるが、とにかく健康と平和があれば、その国もその人も、至上な幸福とせねば な らない。いまの地球住民ではそれが最良級である。 そ ん な 中 で 、 は や 一 年 。 ﹁ 私 本 太 平 記 ﹂ な ど を 悠 々 と 書 か せ て も ら い 、 ま た 愛 読 を 得たなど みょうが 冥加 にあまる。だが作家妄執とは、そんな気持の、もひとつの裏側のもの である。今年もまた私はひたむきに書くだろう。その手初めに、正月から読まれ る 新読者のために、作品の骨子と概要だけを述べておきたい。 去年一年で、私は何を書いて来たろう。 ﹁あしかが帖﹂で尊氏の若い日の りんかく 輪郭 を。 ま た ﹁ 菊 水 帖 ﹂ に 入 っ て 、 楠 木 正 成 と そ の 郷 土 の 人 々 を 。︱ ︱︱ そ れ か ら 、 後 醍 醐 天 皇 という不世出な天子と、若い衛星公卿の復古運動が、末期的な時の幕府をおびやか し、その武断をよび、はやくも ひ の と し も と 日野俊基 、 すけとも 資朝 らの犠牲を生みつつ︱ ︱︱ついに、天 皇 の 宮 中 脱 出 か ら 、 叡 山 旗 上 ゲ の 皇 子 ら の 手 ち が い を 見 る ︱ ︱ ︱ と 、 い っ た 辺 ま で を 、
随筆 私本太平記 その九 どうやら書いてきたにすぎない。 これではまだ、太平記ほんらいの 〝 南北朝物語 〟 としては、目鼻もととのってい な い の で あ る 。作 家 構 図 で い え ば 、南 北 朝 と い う 敷 地 に 、後 醍 醐 天 皇 、北 条 幕 府 、 足利尊氏、楠木正成と、こう四つの は しらだ 柱建 ての基礎工事が、まずまず出来たばかりと いってよい。 で、新春からは、 か さ ぎ 笠置 籠城の天皇軍へ召された楠木正成が初めて宮方となって起 つ 辺 か ら 筆 を と る つ も り で あ る 。中 年 以 上 の 人 な ら 、こ こ ら は 覚 え て お ら れ よ う 。 私たちは小学校の歴史時間でよく教わったものだった。しかし私はもう小学生で も ない老書生だ。日本も世界も変った。史観もすすんだ。どう書けるか、正直、重 た い至難を感じている。 史料は少なくない。だが史料の中に埋まってみても、南北朝史の密林は立ち暮れ るばかりなのだ。ただ、頼れるものは、六百年前の人間も、近代人も、ともに人 間 であったということと、人間が作る社会であったということだけだ。 笠置を書くには、ぜひ史蹟を踏ンでみたかったし、また、金剛山から赤坂辺の 再 遊も期しながら、つい旧年中は旅行出来ずにしまった。が、健吉さんは、私にシビ レ を 切 ら し た と み え 、﹁ こ な い だ 、 ひ と り で 行 っ て 来 ま し た よ 。よ か っ た な あ 、 冬 の
随筆 私本太平記 その九 笠置は﹂と、誇っている。おそらくこの筆間茶話の挿絵には、そのスケッチを描 く だろう。すこし小憎い。 やがて、後醍醐天皇が お き 隠岐 ノ しま 島 へ流される日を読み越して、隠岐ノ島の観光面や 有志の方々から連名で、書く前にぜひ一遊してほしいと、史料文献なども送ってよ こされた。同様に さくらやまこれとし 桜山茲俊 や備後三郎などの史蹟のある地方からも、おすすめをい た だ い て い る 。時 間 が ゆ る せ ば 、 ど こ へ も 行 き た い 。し か し 書 く 以 外 の 〝 調 べ る 〟 こ とに、こんどの仕事ほど時間を食われた経験はない。 ここで過誤のおわびをしておく。第三百十四回 〝 佐渡へ 〟 の中で、 る た く 流謫 のお方を ご と ば い ん 後鳥羽院 としたのは全く私の思いちがいで﹁順徳天皇﹂でなければならない。 とたんに、読者からのお叱言は、数十通にのぼったろう。係のM氏はノイロー ゼ になりそうだと言った。私の手もとへもいまだに絶えない。新年早々、お詫びす る わけ。︱ ︱ ︱毎日丹精に、切リ抜キ保存をし続けておられる方は、恐縮だが、御訂筆 を加えておいていただきたい。 要するに﹁太平記﹂は、かつての日本国内の兄弟喧嘩の小説である。今も﹁山 家 集﹂の歌のようにはなれない日本か。
随筆 私本太平記 その十 春となる桜の枝は何となく 花なけれども むつまじきかな 次のは﹁源三位頼政家集﹂にある歌だが、ことし御成婚の正田美智子嬢に寄せ た ような歌なので、載せておく。 みやま木の その こずゑ 梢 とも見えざりし 桜は色に現はれにけり︵三四・一・一︶
その十
か さ ぎ 笠置 落 ち や 赤 坂 城 の さ つばつ 殺伐 な 筆 に 飽 い た の で 、﹁ 群 雀 帖 ﹂ の 初 め に 、 兼 好 法 師 の 小 僕 の命松丸と雀のことなど書いたら、それから妙に私は雀が目につき出してきた。考 えてみると、この東京なども、戦後人口は急増したが、雀はすっかり減っている。 品川区に住んでいた頃、品川の雀は色が黒いなと思ったことがある。 ばいえん 煤煙 のせい随筆 私本太平記 その十 であろう。赤坂へ越して来たら、赤坂の雀はまだ少しは 、 き 、 り 、 ょ 、 うがいい。奥多摩を 考えたら、奥多摩の雀はほんとの雀色をしていた。 田園では毛ナミもよし さえず 囀 りもいい雀と思って選挙しても、東京でももっとも空気 の悪い国会周辺に遊ぶ議員雀となると、みんな変に薄 ぎたなくなってしまうのと同 じようなものだろうか。 命松丸は生涯、兼好法師にかしずき、兼好の 死後、師の反古を集めて いまがわりょうしゅん 今 川 了 俊 に提出し、あの 〝 つ れづれぐさ 徒然草 〟 を残した者だといわれている。その命松が、ふところだ の、ふとんの中にまで、雀を飼って愛していたと書い たので、たちまち二、三人か ら﹁そんなことが徒然草にも書いてあるのか﹂とか﹁雀 がそんなに人に馴れるかし ら?﹂などとあやしまれた。 もとより徒然草にそんなことは載っていない。いま の都会とちがって、南北朝時 代の京都などには、京雀ともいうほど朝夕 、 わ 、 ん 、 さと雀が さえず 囀 ッていたろうし、兼好法 師などはその やぶすずめ 藪雀 の一羽に似ていた。けれど小説中の雀は私の創作である。といっ て 、 で た ら め を 書 い た の で も な い 。宮 津 地 方 の 人 で 、 子 供 の じ ぶ ん か ら ほ ん と に 雀 が 好 き で 、 命 松 丸 が や っ た よ う に 雀 を 飼 い 馴 ら し た 人 を じ つ は モ デ ル に し た の で あ る 。
随筆 私本太平記 その十 でも、あまり ただ 質 されると少々動揺して、おそまきながら中西悟堂氏の著書だの雀 譜や辞書など調べてみた。と、やはり雀は馴らせばどんなにでも馴れるものとあっ たので安心した。中西さんの実験だと、家族同様、外出にも連れ歩くし、朝の味 噌 汁の椀の 、 ふ 、 ちに止まった雀が、足をすべらして、汁の中に落ッこちてしまい、中西 さんのあの白いヒゲの童顔を、味噌汁だらけにしたことなどもあるそうだ。 そんな雀も、人間が愛の目で見ず、雀 焼きにして食べたりするものだから、いつ か人間に極度な警戒をもつようになっ たのだろう。しかし南北朝時代の人間は人間 同 士 の さつりく 殺戮 に 明 け 暮 れ し て い て 、 ま だ 酒 の 肴 に 雀 ヤ キ ま で は 思 い つ い て い な か っ た 。 お か げ で 、藪 雀 も 、軒 雀 も 、あ の 時 分 は ま だ 楽 土 を 歌 っ て い ら れ た こ と で あ ろ う 。 そして自分たちも稀れには雀合戦をや るが、人間がもッぱら努力をかけている血み どろな戦場などは、いったい何のために 何をやっているのかと、ふしぎそうに高み で見物していたに違いない。 過 日 の 南 北 朝 展 で も 、絵 画 か ら 古 鏡 、蒔 絵 の 図 様 に ま で 雀 の 図 が よ く 見 ら れ た 。 往時の世間には、眼をやるところ雀が いたのであるまいか。それらの作品にも、人 間が雀の持っている平和を せんぼう 羨望 しているような おもむき 趣 がある。私たちもついさきごろの
随筆 私本太平記 その十一 戦争の空襲下では、地にいる人間の座をかなしみ、梢雀たちを羨ましいとしみじみ 眺めたことがある。 だが、私たちはすぐそれを忘れちまうのだ。雀は忘れない。いちど仲間が焼鳥 に された痛恨は忘れないから、たとえ私が中西さんの くち 唇 真似してチッチッと呼んでみ ても、私の窓へは寄ッて来ないのだろう。淋しいがしかたがない。私は私本太平 記 でも書いて、私の中に人間 ざ ん げ 懺悔 を返しながら、それを雀供養の一つとしよう。そん なふうに考える。 後醍醐天皇が隠岐ノ島へ流される章にちかづいた。かねて隠岐一遊を、島の団体 からすすめられているが、原稿も日々 ち ち 遅々 だし、 き ぼ う 机忙 は溜るばかりで、どうも今の とこ行けそうもない。ちょっと山陰、九州辺の南北朝史蹟だけでもと、この春は 考 えている。 い ぜ ん 史 料 の 寄 与 や ご 助 言 を い た だ い て い る が 、 ご 返 事 の おこた 怠 り は ゆ る し て 欲 し い 。 正直ゴルフにもほとんど出かけてない。陽気異変で春は早く来たが、筆は遅く 、こ こ 少 々 尻 痩 せ の 私 で あ る 。今 日 、窓 外 は 春 の 雪 に 暮 れ た 。め ず ら し く 客 は 少 な く 、 雀も見ない。 ︵三四・三・三︶
随筆 私本太平記 その十一
その十一
御成婚式も間近い。 四月は皇室の最上なおよろこ びの月である。が、あいにくこの私本太平記のうえ では、六百二十年前の歴史の ふるごと 故事 ではあるが、 お き 隠岐 へ島流しとなる後醍醐天皇のみ じめな 、 く 、 だ 、 りを次回から書かねばならない。 平和の真価は、戦争の悲惨を 書くと に じ 滲 み で 出 てくる。今日の皇室の姿は、かつての 天皇や皇子が ふ 践 まれた いばら 茨 を振りむいてみることで、そのご幸福さも一ばい切実に思 われずにいられない。たまたま 、現皇太子の御盛事のさなかに、後醍醐やらまたそ の 二 皇 子 の 悲 惨 な 流 離 を 書 く な ど 、 ま こ と に 皮 肉 に は 似 る が 、 古 今 を な が め く ら 較 べ て 、 それが読者のむねに何かの答えを持つならば歴史は今日に生かされたことになる。 お き せ ん こ う 隠岐遷幸 の道順は、増鏡や古典太平記にもかなり詳しいので現代からでもよくわ かる。しかし途中船坂山で天皇 奪回を策して成らず、院ノ庄の あんぐう 行宮 へ忍んで有名な ︱ ︱︱ テ ンコウセン 天勾践 ヲ ムナシュ 空 ウスル ナカ 勿 レ︱ ︱ ︱を桜の木に書いて去ったと伝えられる児島 たかのり 高徳 ︵備随筆 私本太平記 その十一 後ノ三郎︶は、どうもむずかしい まぼろし 幻 の人物なので、その調べにも扱いにも苦吟させ られる。 古 い こ と だ が 、児 島 高 徳 非 存 在 説 が 一 時 史 界 を ふ う び し た 時 代 が あ っ た 。重 野 、 久米博士など抹殺論の方だった。しかし八代国治博士そのほか反論も多く今日に い たっている。おかげで高徳研究は大いに進み、高徳の墓が発見されたり、また古 典 太平記の筆者小島ノ法師こそ、じつは晩年の児島高徳その人であるなどの説も出 た りした。だが結論はいまだについていない。 同様に、隠岐ノ島にも、未判定の問題がのこっている。 こ の 方 は 、現 実 の 隠 岐 島 民 間 の 論 争 や ら 、ま た 対 文 部 省 の 史 蹟 指 定 の 面 だ と か 、 観光客誘致の方にもひッかかっていることなので、もっと厄介な難問題だ。 隠岐ノ島と一括して呼ぶ大小四つの島は、大別して北部の島後︵どうご︶と南 部 の島前︵どうぜん︶とに成っている。 古 来 、 後 醍 醐 帝 が 一 年 ほ ど 流 さ れ て い た 地 は 、 どうぜん 島前 の 黒 木 ノ 御 所 と な っ て い た が 、 これもまた、吉田東伍博士らの ど う ご せ つ 島後説 が文部省をうごかし、帝の配所地は、島後の 国分寺であると変更されて、従来の島前は、その史実性や指定地の資格まで取消さ
随筆 私本太平記 その十一 れてしまったのだ。 と こ ろ が 、 古 く か ら の 島 民 の 口 碑 伝 説 、 ま た 地 名 郷 土 史 的 な も の は 、 す べ て 今 も っ て、島前の黒木ノ御所がほんとの史蹟であるとして、かたく信じたまま疑っていな い。 ︱ ︱ ︱そこで今日では、島へ来る一般観光客へも、一島の内の二ヵ所の遺跡で﹁後 醍醐天皇の御配所の地はこちらでござい﹂と大声で家元争いを うた 謳 うという珍風景を 呈しているわけである。どうも困ッた問題だ。さだめし後醍醐も地下で苦笑してお いでだろうが、私本太平記の筆者としても、いったい、どっちへ天皇をお流しし て よいものやら頭がいたい。 途中の警衛役として い 赴 った佐々木道誉と帝との間には、恐らく史家も うかが 窺 いえぬ史 外の関係が生れていただろうと思う。 帝の流されてゆく隠岐ノ島の地頭も、道誉とおなじ佐々木同族の清高だった。当 時、佐々木系の族党は、近江本国から武蔵、相模、三河、出雲、備後にまで分布さ れていた点も、高氏の足利党などより格段上な大族だったと観ることができる。 一ノ宮 たかなが 尊良 と む ねなが 宗良 の二皇子は、土佐と讃岐へ流された。 そ の 途 中 、皇 子 の 一 行 は 、播 磨 の 加 古 川 附 近 で 、後 醍 醐 の 護 送 を 見 か け ら れ た 。
随筆 私本太平記 その十二 で﹁父に一ト目会わせてほしい﹂と、武者どもにすがッてお頼みになったが、許 す ところとならず、あえなく父皇は山陰へ、皇子は四国へ引き裂かれて行く。 これなど、歴史とみれば一場の悲劇にすぎないが、現実の今日の四月におきかえ てみれば、一ばい古今の感がある。 当年の皇子お二人は、ちょうど現皇太子ごろのお年頃だった。私たちが、象徴 と しても皇室というものをお互いに め 愛 で戴いている以上は、折にはこういう回想もし てみる必要はあると思う。そしてそのうえで、十日の御慶事なども心から共によろ こび合いたい。 ︵三四・四・一︶