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学びの技・1章

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人権とハラスメント

 ハラスメントとは,他の人を不快にさせ,精神的に傷つけるような言動を行うことです.ハラスメ ントについての正しい理解が,ハラスメントの防止につながります.そこで,人権とハラスメントに ついて紹介します.

6.1

 人権とセクシュアル・ハラスメント

6.1.1

 男女共同参画社会の構築と人権

 大学は,卒業後様々な分野で活躍する人材を育成する重要な使命を持っています.したがって,大 学で学ぶみなさんは日本のあるべき社会の構成員になることを自覚して,専門分野に限らず,一般教 養や倫理,あるいは人権に関して広く学ぶ必要があります.  現在,我が国は男女共同参画社会の構築を目標にしています.この男女共同参画社会は,男女が均 等に政治的,社会的および文化的利益を受けることができ,共に責任を担う社会のことです.  このような社会の実現には,男女がまず個人として自立し,しかも互いに尊敬しあうことが大切で す.そのためには性別によらずにそれぞれが持つ能力を最大限に発揮し,平等の権利のもとで社会参 加することが求められています.したがって,人権の視点に立って平等,自由および生命を尊重し, さらには働いたり,学んだりする権利を保障しなければなりません.  現実には性差別やさまざまな人間関係によって,人間が持つ基本的人権を侵害するセクシュアル・ ハラスメントが起こっています.セクシュアル・ハラスメントは人権侵害であり,犯罪であることを 学び,それを防止したり,排除することに努めることが男女共同参画社会に参加する者の責務でもあ ります.

6.1.2

 セクシュアル・ハラスメントとは

 セクシュアル・ハラスメント(sexual harassment)は,アメリカの女性解放運動家であるキャサリン・ マッキノンによって 1979 年に「セクシュアル・ハラスメントは雇用における性差別である」とはじ めて指摘されました.このように名付けられたことによって,労働環境の中で起こっている既成の事 実が性差別の問題として認識されるようになりました.そして,セクシュアル・ハラスメントを解決 するためにさまざまな対策が採られたり,それが犯罪であると考えられるようになってきました.  日本では,1993 年に労働省がセクシュアル・ハラスメントを定義しました.その定義によると, セクシュアル・ハラスメントは「相手方の意に反した,性的な性質の言動を行い,それに対する対応 によって仕事を遂行する上で一定の不利益を与えたり,またはそれを繰り返すことによって就業環境 を著しく悪化させること」となります.  セクシュアル・ハラスメントの基準は,相手の意に反した性的な性質の言動を,それを聞いたり, 受けたりした人が不快に思うことです.その言動を行った当人の意図は関係ありません.したがって, セクシュアル・ハラスメントを起こさないためには,自分の言動が他人に対してどういう感情を与え るか,相手の価値観や感受性を敏感に察知する感覚を養うことが重要です.

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 セクシュアル・ハラスメントには,次の三つのタイプがあります. 1.言葉によるもの 2.行動によるもの 3.視覚によるもの  具体的には,性的な噂を流すなど間接的に相手に向けられるものは1の例になります.性的な関係 を強要したり,身体に触れたりして直接相手に向けられるものは2の例になります.3の例は,ヌー ドポスターを人目のつくところに貼るような不特定多数に向けられたものです.  また,セクシュアル・ハラスメントは図 6.1 に示すように「対価型」と「環境型」に分類されます. 前者は,権限を持つ上司による性的な要求に従わなかったため,解雇や昇進差別等の職業上の不利益 が生じた場合を指します.後者は,明白に具体的,経済的な不利益は伴わないものの,屈辱的,敵対 的な発言の繰返しにより,就業環境を著しく不快なものとし,個人の職業能力の発揮に深刻な悪影響 を及ぼすことを指します.  いずれにしてもセクシュアル・ハラスメントを起こさないためには,相手の人格を尊重し,自分勝 手に思い込むのはやめることです.また,セクシュアル・ハラスメントを受けていると感じたら「い やだ」という意志を明確に伝えることが大切です.

6.2

 アカデミック・ハラスメント

6.2.1

 アカデミック・ハラスメント(アカハラ)とは

 アカハラとは,研究と教育の場での権力等を利用した(性的でない)嫌がらせをいいます.嫌がら せを意図せずに行われた行為も含まれます.セクハラと同様,アカハラも,被害者に著しい精神的・ 肉体的苦痛を与え,被害者を著しく傷つける行為です.また,被害者の人格や学習権・研究権を侵害 する行為です.

6.2.2

 アカデミック・ハラスメントの内容

 学生さんへのアカハラを考えますと,加害者として一番目にあがるのは,残念ながら教員です.教 員は学生さんに対して大きな支配力をもっています.その支配力を背景に行われる下記のような事柄 等が,アカハラの内容としてあげられます. ・ 研究教育機関での正当な活動を直接的・間接的に妨害する. ・ 正当な理由無く,進級・卒業・修了を認めない.単位を与えない. ・ 就職・進学の妨害. ・ 教員の職務上の義務である指導や教育を怠る.指導下の学生を差別的に扱う. ・ 本人がその場に居るか否かに関わらず,学生を傷つけるような言動を行う.発奮させる手段 としても不適切. ・ 深夜や,他人の目の届かない状況など,不適切な環境下での指導を強制する. ・ 権力を濫用して,不当な規則,親密な関係,不正・不法行為,プライベートな行動に付き合 うこと,送り迎え,教員の学会発表のデータ作りを,共著者でない学生に徹夜で仕上げるこ と,等々を強要する. ・ プライベートなことを必要以上に知ろうとしたり,プライベートなことに介入しようとした りする.  学生間でもアカハラが起こることが考えられます.専攻やゼミ,クラブやサークルといった集団で の先輩−後輩関係,卒業研究指導等で,大学院生等の上級生が「教員役」を努める場合等には,学生 同士でも権力関係が生じます.集団内に多数派と少数派があると,少数派は「弱い立場」に追い込ま れます.これも一種の権力関係です.

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54 第6章  人権とハラスメント 55 図 6.1. セクシュアル・ハラスメントの分類:対価型と環境型. 教員から好意を示され,恋愛感情を 綴った手紙をもらった. その手紙を返したところ,急に教員 の態度が変わった. 受講態度不良等を理由に,不合格に なった. 大学に出られなくなった. ストレスがたまり, 研究室の先輩から毎日のように, 性的な言葉をかけられる.

対 価 型

環 境 型

受講態度 不良 不合格

6.2.3

 もしもあなたが被害を受けたら

 被害を受けたことで,一方的に自分を責めないで下さい.取りあえずその状況から逃げ出して危険 を避け,心と体を癒して下さい.一人で問題を抱え込まないで,信頼できる人に相談したり,相談窓 口を利用したりして下さい. 6.2 アカデミック・ハラスメント

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6.3

 アルコール・ハラスメント

6.3.1

 人はなぜ酔うのか

 血液に入ったアルコールは循環されて脳に到達します.すると,アルコールが脳の神経細胞に作用 し,活動に必要なエネルギー源を不足させ,その働きを抑制し,麻痺させるといわれています.そし て,その結果として酩酊状態になります.  さて,未成年者の飲酒は法律1で禁じられています. どうして未成年者がお酒を飲んではいけないのか  アルコール健康医学協会は,つぎの理由をあげています. ● 未成年者はアルコールを分解する仕組みが未熟です.それで過度の飲酒をした場合,急性ア ルコール中毒になる危険性が高いのです. ● アルコール依存症になりやすくなります.未成年者は心身が未発達なため適度な飲酒をする という判断力もなく,自己規制がききません.未成年の時から飲酒すると次第に飲酒量が増 え,飲まないと落ち着かなくなってきます.そして大量のお酒を毎日飲むようになり,アル コール依存症になってしまいます. ● 脳の神経細胞を破壊します.アルコールを大量に長い年月飲み過ぎると脳が縮んできます. 特に脳が未完成の未成年者ではおこりやすいのです.そのため勉強に必要な集中力や記憶力 が低下し,成績不振につながります. ● 人生の幅を狭めてしまいます.酒の酔いは他の楽しみ方を学ぶ意欲をなくします. アルコールが飲めるか飲めないかは先天的に決まっている  生まれつき酒に弱く,わずかの酒を飲んでも顔が赤くなったり,吐き気を訴える人がいます.体内 に入ったアルコールの大部分が肝臓で代謝されます.肝臓ではアルコールはアセトアルデヒドを経て アセテート(酢酸)に分解されますが,このアルデヒドが問題です.  アセトアルデヒドを分解する酵素の ALDH には1型と2型があります.日本人の約 46%の人は生 まれつき ALDH2 型の活性が低いか欠けています.このタイプの人はアセトアルデヒドを分解する能 力が低いため,少量の酒を飲んでもアセトアルデヒドが体内に蓄積されていくので悪酔いしやすいの です.  この体質は,遺伝によるもので終生変わることはなく,努力で飲めるようになることはありません. 飲めない人にお酒を無理強いするのは,相手を苦しめることになるのです2

6.3.2

 アルコール・ハラスメントとは

 次のような,アルコール飲料を用いたいやがらせや人権侵害は,アルコール・ハラスメント(alcohol harassment略してアルハラ)と呼ばれています. ● 上下関係・部の伝統・集団によるはやしたてなどといった形で心理的な圧力をかけ,飲まざ るをえない状況に追い込むこと. ● 場を盛り上げるために,イッキ飲みや早飲み競争・罰ゲームなどをさせること.イッキ飲み とは一息で飲み干すこと.早飲みと同じ. ● 酔いつぶし.酔いつぶすことを意図して,吐くための袋やバケツ,つぶれ部屋を用意して飲 み会を行うことで,これは傷害行為. 1未成年者飲酒禁止法. 2さらに詳しく知りたい場合は,http://www.arukenkyo.or.jp/ にアクセスしてください.

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56 第6章  人権とハラスメント 6.4  喫煙について 57 ● 飲めない人への配慮を欠くこと.本人の体質や意向を無視して飲酒をすすめる,宴席に酒類 以外の飲み物を用意しない,飲めないことを侮辱する,など. ● 酔ってからむこと.酔ったうえでの暴言・暴力,ひんしゅく行為,セクハラ.  アルハラは,セクハラと同じく重大な人権侵害であり,程度のひどいものは命を失うケースもあり, 傷害などの犯罪に発展する可能性のあるきわめて悪質かつ危険な行為です.絶対に,アルハラをしな いようにしてください.

6.4

 喫煙について

6.4.1

 たばこを吸うことは健康によくない

 成人するとたばこを吸うことができますが,たばこは健康によくないので,吸わないようにしましょ う.疾病に対する喫煙者の相対危険度3 によると,喫煙により喉頭ガンになるのは,非喫煙者の約3 ∼ 33 倍です.肺ガンは2∼4倍になります.喫煙を始めると中毒になり,禁煙をするのにはたいへ んな努力が必要です.初めから吸わないのが一番よいでしょう.  タバコは,モルヒネ,アルコールと並ぶ中毒物質と断定されています.阿片と変わらないものを, たばこ会社は販売しているので,アメリカでは大きな問題になっています.アメリカ国内で販売が困 難になったたばこ会社はアジアをターゲットに販売促進をしています.有名な俳優がたばこを吸う宣 伝などをして,たばこを吸うことが“かっこよい”とみせかけています.  しかし,現実は,喫煙は健康に害があります.そのことを決して忘れないでください.「吸うも自由, 吸わないも自由」だと言われそうですが,実際には喫煙者になってしまったら,吸わない自由をもう 一度手に入れることは大変難しいことです.

6.4.2

 不幸にして喫煙者になった場合

 たばこを吸うか吸わないかは個人の問題ですが,たばこを吸わない人が近くに居る場合には,たば こを吸う人は,吸わない人に対する配慮が必要です.  特に,多くの人が集まる場において,喫煙者がたばこを吸うことにより,非喫煙者が自らの意志と は関係なく環境中のたばこの煙を吸入する可能性があります.このようなたばこの煙の吸入を受動喫 煙と呼んでいます.受動喫煙が非喫煙者の健康に悪い影響を及ぼすとともに,不快感等を生じさせ, 心理面にも悪い影響を与えていることが指摘されています.そこで,喫煙者と非喫煙者が選択の余地 なく,日常的に相当な時間を一緒に過ごす場合には,喫煙者は非喫煙者に対する受動喫煙の影響を配 慮する必要があります.

6.4.3

 喫煙する場所について

 健康増進法が 2003 年5月1日に施行されたことに伴い,受動喫煙の防止に向けて大学全体で禁煙 運動を実施しています.このため,平成 16 年1月より工学部の建物内での喫煙は全面禁止となりま した.現在は建物外でも指定の場所以外での喫煙は禁じられています.

6.5

 薬物乱用について

 近年,一部の大学生の大麻栽培,所持などの大麻取締法違反事件が社会問題化しています.違法薬 物の使用,所持は法律違反であるばかりでなく,軽い気持ちでの 1 回の使用が依存となるため,長期 3コホート研究,1966 ∼ 1982,日本

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間の乱用につながり,身体,精神に不可逆な後遺症を残すおそれがあるのです.  ここでは代表的な違法薬物である大麻と覚醒剤の依存について説明しましょう.  大麻も覚醒剤も依存性薬物です.依存性薬物は精神依存,つまりその薬物を使用せずにはいられな くなる状態をきたします.覚醒剤はさらに身体依存ももたらし,これは薬物の使用を中止すると離脱 症状が出現するために使用を続けることになってしまう状態を生じます.  大麻を使用すると酩酊感,陶酔感とともに錯覚や幻覚が出現します.行動は衝動的となり,不穏・ 興奮・不機嫌状態が誘発されることがあります.慢性的に使用すると身体的には免疫の低下や白血球 の減少などを,精神的には独特の妄想や異常行動,思考力低下を引き起こすため,普通の社会生活が 送りにくくなり,場合によっては犯罪の原因となることもあるのです.  覚醒剤の依存はさらに深刻で,急性中毒としては興奮,気分高揚,不安・焦燥感,不眠,食欲減退, 振戦,頻脈・血圧上昇などがあり,薬効が切れてきたときに不快感,脱力,抑うつ気分,疲労感など の症状が出現します.また,慢性使用の症状としては,意欲減退,感情不安定,易怒性に加え,幻覚 妄想状態が引き起こされ,特に周囲の人に監視されている,あざ笑われている,脅迫・迫害される, 殺傷されるなどの妄想を持つことが多く,防衛の目的で傷害などの犯罪行為に及んでしまうことが見 られるのです.さらに,乱用をやめても,フラッシュバックといって使用していたときに似た幻覚妄 想などが体験されることがしばしばあります.  正確な知識をもち,違法な依存性薬物には手を出さないことが最も大切なことです.  以下のホームページなども参考にしてください.  薬物乱用防止「ダメ。ゼッタイ。」ホームページ http://www.dapc.or.jp/

6.6

 不祥事について

 工学部学生の一人ひとりが自覚をもって不祥事を絶滅しましょう. ● 非社会的行為は学生であっても許されません  非社会的行為は,学生だからといってゆるされないことを十分に理解してください.逆に, 法的な処分と大学の処分との両方を受けることになります.非社会的行為には下記の不祥事 件なども含まれます. − 万引き,窃盗 − 飲酒運転事故 − 覚せい剤などの薬物使用 − のぞき見や盗撮行為 − ストーカー,嫌がらせ行為 − その他の全ての犯罪行為 ● 学内だから非社会的行為は許されると考えないでください  全ての犯罪行為は工学部長の許可のもと直ちに警察に連絡され,調査を受けます.学内に は警察が入れないとは思わないでください. ● たとえ学外での非社会的行為であっても,大学は厳しく対処します  学外であっても,身分は徳島大学工学部学生です.問題が発生した場合は,警察からも必 要に応じて大学に連絡が入ります.非社会的行為に対すろ大学の処分は学則により,訓告, 停学,退学などで処分されます.  また,氏名と処分内容が告知されます.停学になれば,少なくとも1年間は進級が遅れること になります. ● 試験でのカンニングは許しません  工学部では全教員が試験の不正行為(カンニング,替え玉受験など)を防止ために,非常 に強い決意で厳しく取り締まります.また,試験の不正行為の処分では,試験期間中の全て

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58 第6章  人権とハラスメント 6.6  不祥事について 59 の単位が取り消されます.下記の点をもう一度考えて下さい. − 全単位の取り消され,留年しても,不正行為はあなたの得ですか? − 就職試験,就職後も頼りになるのはあなたの実力です.それでも,楽をしますか? ● 悩みがあったり,被害を受けたら相談しましょう4  悩みがあったり,何か気が付いたことがあれば,早めに友人や身近な信頼できる人にまず 相談してください.程度や場合によって学科の学生委員,クラス担任などの教員,あるいは 学生相談室5 に相談するといいでしょう. 4第8章 8.2.3 も参照. 5電話:088-656-7637 で相談できます.

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工学倫理について

 近代工学が発祥して 300 年を経過しました,現代の工学の専門家の胸にズッシリと響く言葉が二つ あります.その一つが,かのガリレオ・ガリレイが宗教裁判でつぶやいたと伝承される「それでも地 球は回っている」という言葉,もう一つは,近代科学の意味に関するフランシス・ベーコンの「工学 は自然の原理を応用して人類の福利に貢献するものである(意訳)」という定義付けです.  この二つの言葉は 300 年の間の近代工学の進歩の過程で,ある時は進歩を加速し,ある時は抑制し てきました.そして現代の私たちこそが,この二つの言葉の意味をきわめて真摯に深く考えなければ ならないところに立っているのです.  工学を学ぶ入り口に立ったみなさんは,歴史を振り返ることによってこれらの巨人達の肩の上に乗 り,そして遙か彼方の行く末を見ることができるのです.特に 21 世紀の日本は環境や資源,そして 人生そのものまで激動の時期を迎えようとしています.そこで求められるのは単なる工学の知識だけ ではなく,広く深い関連知識が自分の人生を支えることになるでしょう.

7.1

 倫理からみた近代工学の進歩

7.1.1

 人間の精神の崩壊

 近代科学が最初に遭遇した社会との間の大きな衝突はキリスト教世界観の破壊でした.すでに 15 世紀にはデカルトの還元論にもとづく自然の観察の成果として,ガリレオやコペルニクスの地動説が 唱えられ,それまでのキリスト教の世界観に大きな打撃を与えました.事実は事実なのだ,われわれ は自然をありのままに観測するのだ,それがなにが悪いのだ,という近代科学の強い意志が当時の書 物からは感じられます[1].  19 世紀に入って,キリスト教世界観はダーウィンの進化論で再び打撃を受けます[2].ガリレオ の地動説はこの地球が宇宙のごく一部であり,それ故に人間や特定の民族が神に選ばれたものではな いかも知れないと言う疑問を生みだし,さらにダーウィンの進化論は人間がサルから進化したもので あることを明らかにして,動物と人間の連続性を示したのです.聖書の具体的記述に触れるこの進化 論がヨーロッパを中心とした精神界に大きな影響を与えたのは当然でしょう.  20 世紀に入ってもダーウィンの進化論教育に対するキリスト教の側からの疑問は提示され続けら れました.一例として,特にキリスト教の信仰の篤いアメリカ中部で起きた教育裁判があげられます. 中学校で生徒に進化論を教えた罪で裁判に掛けられたスコーブスは,裁判で有罪判決を受けました. この事件の一般的な評価は,キリスト教側の学問に対する無理な攻撃とされていますが,むしろ科学 がもたらした精神界への打撃について,科学側および教育側の充分な研究と配慮が不足していたと考 えるのが妥当でしょう.科学はベーコンの言ったようにあくまでも人類の福祉に貢献するものですの で,それは物質社会のみならず,精神的影響においても同様であるからです.  さらに,生命の尊厳に対する影響という意味では,ワトソンとクリックの DNA 構造の解明のほう が進化論より大きいでしょう.DNA 構造の発見というものを科学的に解釈すると,「生命と無生物 の境界はない」もしくは「命の尊厳というものはない」ということを明確に示しているからです[3]. したがって,DNA 構造の発見が,遺伝子工学などの工学分野に発展し,それがクローン人間などの

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倫理問題を招くのはある意味で当然の帰結でもあります.近代科学は意図していたかどうかは別にし て,ガリレオ,ダーウィン,そしてワトソンとクリック(図 7.1 を参照)と続く発見によって人間の 精神を破壊しつつあるといえます.

7.1.2

 人間機能の崩壊

 産業革命直後に起こった人口の都市への集中,労働者階級の誕生はマルクスの理論を経てやがて共 産国家を産むに至りました.ある意味では社会的進歩ともいえるこの動きも,産業革命と蒸気機関の 発明による自動機械と新しい力の誕生による工学の帰結でした.それまで人間の筋肉の力,またはせ いぜい家畜や水車の力しか利用することができなかった人類に巨大な力を与え,その力で自動的に動 く機械が動くことにより,産業は飛躍的にその生産力を高めたのです.その結果として農村が囲い込 まれ,工場群が誕生し,資本家と労働者など新しい社会階級が生み出されました.  大規模生産工場の出現は悲惨な炭鉱労働者や都市のスラム化などの社会問題も同時に引き起こし ましたが,生産量は増大し,生活程度や衛生状態は飛躍的に向上し,人々は文化的生活を享受できる ようにもなったのです.しかし,産業革命が大きく人間の生活に影響を与えたのは「人間から筋肉と いう機能を追放した」といえます [4].筋肉機能の崩壊は,その後,機械工学,制御工学などの高度 化により徐々に進み,最近の産業ではすでに若い男性の筋肉を必要としないまでに至っています.  人間機能の崩壊の最終段階として現在進行中なのが,コンピューター,インターネットなどの発展 に伴う情報工学の発展と,それによる頭脳労働の追放でしょう.電車の駅の切符きり,銀行の窓口の 支払いなどの単純な頭脳の機能を発揮する職業はすでに追放されつつあり,情報革命の進行は徐々に インテリ層の仕事を奪っていくでしょう.現在でもワープロの発達で漢字が覚えられなくなり,電卓 が便利になって2桁のかけ算も思うようになりません.より複雑な頭脳の活動は徐々に崩壊し,感受 性も乏しくなる可能性があります.  このように,工学は,最初に屈強な男から筋肉という機能を,次に人間が人間たるゆえんといって もよい頭脳の機能を奪いつつあります.すなわち,現在進めている工学はまさにまっしぐらに人類か らほとんどの機能を奪わんことに熱中しているように見えるのです.人間が体に備わっている本来の 機能を発揮することは,人間にとって苦痛であり除かなければならないのでしょうか,額に汗をかい て働く生き甲斐を感じることは奪わなければならないほどの苦痛を伴うことでしょうか?

7.1.3

 地球環境の崩壊

 近代工学がもたらしたものの第3はすでに数多く指摘されているように工学による生活環境への 図 7.1. ワトソンとクリックによる DNA 構造の解明.

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62 第 7 章 工学倫理について 7.1 倫理からみた近代工学の進歩 63 影響です.16 世紀から始まった大航海時代は地球上の暗黒部分に光を照らし,人類の足跡が全世界 に及ぶまでになりました.その後も探検,開拓,開発は続き,人間の活動は地球の隅々に及び,人類 の生活環境に大きな影響を与えつつあります.  20 世紀半ばには地域的ではありますが,大気中の鉛公害,河川や海洋の汚染などが顕著になり, いわゆる「公害」問題を引き起こしました.もとより,ノーベルの火薬が人類の福祉に貢献するとと もに戦争に使用され,殺戮を行うように,工学にはある意味で人類に対して両刃の剣といえる面を持っ ていることは確かです.しかし,20 世紀末になって起こった核による汚染,オゾン層の破壊や温暖 化などの問題は,進歩した工学を利用した人類の活動が局部的な影響に止まらず,地球全体に及ぶよ うになったことを示しているのです.  たとえば天然界からの放出がもともと多いイオウにおいてすら,人類のイオウ排出量は天然界から の放出の3倍以上に達し,人類の活動は大気圏から成層圏に及び,フロンガスなどの放出によりオゾ ン層の破壊が予見されているのです.翻って見れば,オゾン層は約 10 億年前に形成され,地上に達 する紫外線の量を激減させて生物の陸上への進出のきっかけとなったものであり,仮に人類によって オゾン層が破壊されれば 10 億年前以来の地球の大きな変化なのです.  また,ローマクラブの「成長の限界」が基本的概念を指摘したように,石油,石炭,天然ガスなど のエネルギー源は化石時代に地球に降り注いだ太陽エネルギーの貯蓄の結果であり,鉄,銅などの金 属元素の堆積も地球の長い歴史の中で進んできたものです.それらの多くの資源が人間の活動によっ て枯渇の危険にさらされていることは驚くべきことでしょう.資源の枯渇,砂漠化,人類以外の陸上 動物海生動物の死滅,紫外線の増加,温暖化,食糧危機など人間から見た地球号の破滅と言える変動 を人間は自然に対して与えつつありますが,これが工学の目指すところであったのでしょうか?

7.1.4

 長寿命の獲得

 近代工学は人間の精神,機能,そして環境に大きな影響を与えてきました.もちろんマイナス面だ けをもたらしたのではありません.人類が 450 万年前に誕生して以来,人類は常に物質の不足と生存 の危険に晒されてきたのです.現在に残された人類の軌跡が高度な精神活動を示すようになったのは ネアンデルタール人以降で,生活をともにした家族や友人がその命を失ったとき墓に埋葬する習慣を 獲得したのです.その遺跡から当時の人類の平均寿命はおおよそ 18 才程度と推定されています.  さらにエジプト,ギリシャ,ローマと時代を経ても平均寿命はさほど長くはならず,ワイスによる と中世の終わりまで世界の平均寿命は 25 ∼ 30 才と推定されています.人生 30 年,それは現代の私 たちの感覚では信じられないほどの短命であり,人生そのものの持つ意味が大きく異なっていたこと が判ります(図 7.2 を参照). 図 7.2. 平均寿命の変化. ネアンデル タール人 古代・中世 大英帝国(1843) 日本 (1998) 83歳 43歳 25歳 18歳 20 40 60 80 年 0

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 国単位の平均寿命が 40 才を越えるようになったのは産業革命以後のヨーロッパで,1843 年のイギ リスの平均寿命が 43 才,そして 1903 年にはスウェーデンが 50 才の平均寿命に達します.  よく知られているように最近の日本人の平均寿命は 80 才であり,しかも 60 才を越えても健康な生 活を楽しむことができるようになりました[5].  平均寿命の伸びは医学の発達によるところが大きいと感じられますが,実際は医学より生活程度や 衛生状態の向上が寄与していると考えられます.たとえばテレビの普及率と乳幼児死亡率が強い相関 性を持つことが知られていますが,これはテレビによって母親の基礎的知識を高め,衛生観念,より よい子育ての方法などを知るとともに,気象変動,戦争などの直接的な危険についての情報をテレビ から得ることができることが原因しています.  工学の発達によってもたらされたこのような素晴らしい成果を,本当に人類の役に立つように使う こと,それが「人類の叡智」というものでしょう.

7.2

 工学の専門家としての倫理

7.2.1

 専門家とは何か

 工学を学ぶということは,その道の「専門家」になることを意味しています.私たちは他の人と違 う知識や技能を持っている人を専門家と呼びますが,果たして「専門家」というのはどのような人の ことをいうのでしょうか? ヨーロッパでは専門家は次の3つの要件が必要とされます(図 7.3 を参 照). 1.普遍的な法則に従っていること 2.長期的高度な習練を積んでいること 3.依頼主ではない不特定多数のために働くこと  たとえば,お医者さんは普遍的な法則,つまり医学に従って,長期間,高度な訓練をし,どんな状 況でも病人を助けます.この場合,第3番目の要件との関係では,患者さんは「依頼主」ではありま せん.たとえば,そのお医者さんが国立病院に勤務している場合,依頼主は国家です.もし,そのお 医者さんが軍医として戦場に出向いたとき,味方の傷兵でも敵でも傷ついていたら助けます.つまり, 依頼主に敵対する場合であっても,その人の専門は不特定多数に対して働くということです.  これを「工学」というものに当てはめてみます.ある技術者が新車を作ったところ,ブレーキに不 具合があり,このままで走ると衝突する危険性があるとします.もし,その技術者が「機械工学の専 門家」であるなら,会社が秘密にしておけと命令してもその欠陥を社会に知らせなければなりません. 専門家でなければ一般人の倫理に照らすことになります.このように,「専門家」とは一般人よりも 図 7.3. 専門家の要件. 1.普遍的法則に従う 2.長期間高度な修練を積む 3.不特定多数に対して責任を持つ

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64 第 7 章 工学倫理について 7.2 工学の専門家としての倫理 65 その専門の領域では厳しい倫理が求められることになり,その理由は「高度に鍛錬し」「その専門領 域について」「不特定多数のために働く」からに他なりません.  社会における専門家の役割は本当に大切なものです.つまり,「社会の倫理にもとる行為が行われ ようとするとき,それを防ぐ唯一の人は専門家である」ということができるからです[6].みなさん はこれから工学を学び,やがて専門家として社会に巣立ちます.そのときまでに専門家としての鍛錬 を積んでもらいたいと思います.

7.2.2

 工学の勉強と倫理

 1945 年 8 月 6 日,一発の原子爆弾が広島に投下され,その瞬間まで楽しく遊んでいた多くの子供 など数万人が突然にその命を落としました.このような人間の仕業とも思えない原子爆弾を作った人 は誰でしょうか.もちろん,物理学者達であり,工学を学んだ専門家だったのです(図 7.4 を参照). 広島に原爆を投下する数ヶ月前にアメリカの砂漠では人類初の核実験が行われました.そしてその場 にいた多くの技術者は原子爆弾の威力を「この世のものとは思えない」と表現し,その中の一人は飛 び散る紙切れの速度を見て炸裂のエネルギーを計算したと伝えられています.  なぜ,それほどの専門家や科学者がいるのに,「原子爆弾を投下すれば,その灼熱の地獄に可愛い 子供達が居る」ということに気が付かなかったのでしょうか?原子爆弾投下後の長崎の有名な写真が 知られています.その写真には両親を原爆で亡くし,瀕死の幼い弟を看病していた兄が写っています. そしてやがてその弟も苦しみの中に死に,兄は弟の亡骸を背負って共同墓地に来るのです.死んだ弟 を背負って凛々しい顔つきで墓地の前に立つ少年(図 7.4 を参照).この少年は工学の知識はありま せんが,原子爆弾を作って大量の人を殺めた工学の専門家とどちらが人間として正しいでしょうか?  この原子爆弾誕生の歴史は工学の勉強と倫理という大きく厳しい問題を象徴的に描き出していま す.私たち工学を学ぶものは少しずつ少しずつ勉強して工学の力を付けていきます.最初は簡単な機 械部品一つ設計できなかったのに,やがて大きなシステムすら設計し製作できるようになります.そ れは,それだけ社会に貢献することができるようになったということでもあり,その知識や技能を使 えば多くの人を不幸に陥れる力をも手に入れることを意味します.  工学の専門家は大きな力を持っています.それ故に,勉学の進展とともに人格を磨き,自分が獲得 図 7.4. 原子爆弾の父オッペンハイマーと墓地の前に立つ少年.

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した知識や技能に即した倫理観や人格を築いて行かなければなりません.しかし,一般的には工学の 知識や技能は大学の講義に出席し,しっかりと学べば段階的に実力を付けることができます.それに 対して人格を磨いたり,高い倫理観を身につけるには学問を広く学び,人生の苦難を経なければなら ず,その獲得は容易ではありません.それでも「工学を身につけた限りは,高い倫理観を持つ必要が ある」と考えているだけでも専門家に近づく一つの方法です.

7.3

 おわりに

 さて,最初のところで示したガリレオ・ガリレイとフランシス・ベーコンの言葉は現代の私たちに 何を語っているのでしょうか?  「それでも地球は回っている」というガリレオの言葉は歴史的な意味を持っていますが,工学の専 門家としてできるだけ厳しい表現にしてみると,「私の,今考えていることは間違いない.たとえ神 が違うと言われても正しい」ということにもなります.しかし,この 300 年間,人間は必ずしも思い 違いをしなかったわけでもありませんし,また正しいと信じられてきた学説や思想がいとも簡単に覆 されることも経験してきました.「人間はそれほど強い確信を得ることができるのであろうか?私た ちはそれほど正しいであろうか?」と疑って見なければなりません.  「工学は自然の原理を応用して人類の福利に貢献する学問」というベーコンの言葉は現在でも生き ています.20 世紀,人間は大量生産,大量消費をひたすら願って工学を進めてきました.それはそ れで人類の平均寿命を延ばし,文化的生活の中で人生を送るチャンスを与えてもくれました.しかし, 1972年,アメリカのマサチューセッツ大学(MIT)のメドウスが発表した計算によれば,人類は工 学の過度の発達により 21 世紀の中盤には 60 億人の餓死を伴う破壊的な状況に陥るとされています. (図 7.5 を参照).  もし,工学が「人類の福利のために」活動をするのなら,人類が一気に 60 億人も死亡する大惨事 を自ら招くことは無いはずです.その点で,すでに工学はその初期の目的から逸脱し,あらぬ方向へ 一人歩きをしている可能性すら感じられるのです.  20 世紀の工学は人類に大きな貢献をしたことは間違いありません.それだからといって 21 世紀も 同じような工学が人類の福利を増進するという保障は無いのです.むしろ 20 世紀とは異なる工学が 21世紀の人類には必要であり,それこそが次世代を担うみなさんが学ぶべき工学なのでしょう. 図 7.5. MIT のメドウス博士の予想図. 資源 汚染 西暦 1900 2000 2033 2100 2050 2009 人口 1人当たり 食料

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66 第 7 章 工学倫理について 7.3 おわりに 67

参考文献

[1]大林信治,森田敏照,“科学思想の系譜学”,ミネルヴァ書店(1996). [2]C. Darwin,“On the Origin of Species”, John Murray (1859) Londn.

(この歴史的原著は,1977 年,Yushodo reprint edition として出版されている) [3]この種の考え方の最初の著作は,R. Dawkins(ドーキンス)“利己的な遺伝子”

(たとえば,紀ノ国屋書店,(1996)日高敏隆ら訳がある)であろう. [4]たとえば,大沼正則,“科学史を考える”,大月書房(1993).

[5]武田邦彦,「リサイクルしてはいけない」,青春出版(2000). [6]武田邦彦ら,“産学連携とその将来”,丸善(1999).

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