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三菱商会の誕生
三菱自動車工業は1970(昭和45)年4月、三菱重工業か
ら分離独立して設立された、比較的新しい企業である。
2010(平成22)年は設立40周年にあたる。しかし、母体
である三菱重工業のルーツをたどると明治維新に行き当
たる。
1853(嘉永6)年7月、ペリーが率いる黒船来航を機に、
264年間にわたる徳川幕府により続けられてきた鎖国政策
に終止符を打ち、開国を迫る動きが活発化してきた。この
変化をいち早く読み取り、やがて来るであろう新しい時代
に備える藩が現われた。土佐藩もその一つで、1866(慶応
2)年に殖産、貿易のための機関として土佐開成館を設立、
やがて土佐藩の軍備、財政、産業、商業等すべての機能を
つかさどる大組織となる。
土佐の郷士であり、後に三菱初代社長となる岩崎彌太
郎は、藩主山内容堂のブレーンであり開国派であった吉田
東洋の門弟となり、その非凡な才能を認められ藩職を得
る。26歳であった。1859(安政6)年8月から1年間長崎に出
張しシーボルトをはじめ多くの外国人、外国人と交流をも
つ日本人蘭学者、蘭方医と交友を深め多くの知己を得る。
そして、土佐開成館設立にともない、長崎出張所の主任を
任じられる。
1867年、明治天皇が即位し、翌年1月に王政復古の大号
令が発せられると、政治、外交の舞台が長崎から京都、大
阪に移り、岩崎彌太郎も長崎出張所を閉鎖し大阪出張所
へ転勤となった。この頃には藩政府のナンバー3の地位に
あり、大阪出張所の責任者であり、土佐藩大阪蔵屋敷の
管理責任者でもあった。
やがて、明治政府は経済政策として民業育成策を打ち
出し、藩政府の直営事業を禁止、これを受け、土佐開成館
も私商社の形で運営することとし、1870(明治3)年11月、
社名を九
つ十
く九
も商会と改め、藩有船3隻を借り受けて大阪・
三菱自動車工業の生い立ち
高知間の海運業を始めた。
しかし、翌1871年8月、廃藩置県の公布があり土佐藩も
廃絶され、藩の資産や事業は中央政府に没収あるいは民
間に払い下げるという方針が打ち出された。この時、岩崎
彌太郎は借用中の船舶の払い下げを請願し、2隻を4万両
で買い取り、1隻は政府に上納された。同時に大阪藩邸蔵
屋敷も買い取っている。
1872(明治5)年1月、九十九商会を三
みつかわ川
商会と改め、藩
の庇護から完全に離れた私商社として発足した。この社名
は代表者に名を連ねた川田小一郎、石川七財、中川亀之
助に共通する三つの「川」から採ったものであったが、彌
太郎は気に入らず、1873年3月、岩崎家の家紋『三階菱』を
分解して、土佐藩藩主であった山内家の家紋『三ッ柏』に
なぞらえた現在の三菱マークの原型をつくり、社名も三菱
商会と改めた。岩崎彌太郎は名実ともに『三菱』の創業
者となった。
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郵便汽船三菱社誕生
政府の貢米輸送のために明治新政府主導で設立された
「日本国郵便蒸気船会社」が、三菱商会のライバルとして
立ちはだかるが、1873(明治6)年7月の地租改正で租税が
金納になると急速に経営悪化、1874年の台湾征討の役に
際し、軍事輸送の任を果たせなかった。
三菱商会が代わってこれを引き受け、政府も所有船13隻
の運航を三菱に託した。これを機に日本国郵便蒸気船会
社を合併し、社名を郵便汽船三菱社とした。
1877年1月に起きた西南戦争に際し、軍事輸送を担当、
これを機に規模の拡大を図り、同年9月に事変が終息する
頃には海運国日本のシンボル的存在になっていた。
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海運事業からの撤退、三菱社誕生
明治初期の政権は伊藤博文、井上馨などを代表とする
薩長藩閥が主流であり、一方では、福沢諭吉の文明開化
思想を信条とする、大隈重信なども政府の要職につき活
躍していた。三菱は当主、岩崎彌太郎が福沢諭吉と親交
が厚く、大隈一派との絆が強かった。ところが、大隈一派
と伊藤一派が憲法制定をめぐる意見の対立が深刻にな
り、利権問題もからみ、ついには大隈重信の参議罷免に発
展する「明治14年の政変」が起こる。
この政変を機に政府の三菱に対する嫌がらせが始ま
る。1883(明治16)年1月、政府主導で海運会社「共同運輸
会社」を新設、郵便汽船三菱社と熾烈な値引き競争を展
開する。結果は両社とも疲弊してしまうが、破綻寸前に両
者の話し合いで合併により解決が図られた。1885年9月29
日両社合併により日本郵船会社が誕生する。三菱は保有
船舶、海運にかかわる土地、建物すべてを日本郵船会社
に譲渡し、社員515名も移籍した。そして、1886年3月29日、
社名を三菱社と改めた。
創業以来最大の危機のさなか、1885年2月7日、創業者、
岩崎彌太郎は世を去った。52歳であった。2代目当主は弟
の彌之助が引き継ぐ。
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造船事業への進出
三菱初期の事業は外国製の船による海運業であった
が、所有船の補修が課題であった。そこで、1875(明治8)
年12月、たまたま建設中であった造船器械所を譲り受け、
三菱製鉄所として、上海の造船業者ボイド(BOYD)商会
と共同経営を始めた。技術指導はボイドが行なっていた
が、やがて手を引き三菱の所有となった。日本郵船会社発
足とともに同社に移譲され、その後横浜船渠に譲渡される
が、1935(昭和10)年に旧三菱重工業と合併し同社横浜造
船所となる。この三菱製鉄所が三菱の造船事業の源流で
あり、わが国初の民間日本人経営による造船所であった。
三菱製鉄所を日本郵船会社に移譲する前年の1884年6
月、徳川幕府が1861(文久元)年にオランダ海軍士官ハル
デスの指導で長崎に建設した艦船修理工場を明治政府
が没収し、工部省の管轄に入った長崎造船局の貸下げを
受け、同年7月7日に長崎造船所と改称した。これは政府の
財政節減と鉱工業の活性化を図る、官営工場民間移管の
方針に基づくもので、当時軍事上重要なもの以外の赤字
工場の払い下げを次々と行なっていた。
長崎造船所は1887年に払い下げられ、翌1888年12月1
日、三菱造船所と改称され、わが国随一の民間造船所と
して発足した。それまで外国人に頼ることの多かった技術
力を、邦人技術者に習得させるため、多くの社員を英国に
留学させ、修理主体の運営から新造船建造に切り換え、
1890年にはわが国初の鋼製汽船「筑後川丸」
(610トン)お
よびその主機である520馬力三連成機関を完成した。1898
年には日本郵船が外国航路進出に際し発注した大型船6
隻のうち1隻を受注、英国製の姉妹船となんら遜色の無い
「常陸丸」
(6172トン)を完成、これを機に国産化が進み、
改良と設備の増強、近代化を進め豪華客船を含む無数の
三菱初代社長 岩崎彌太郎。 三菱マークの成り立ち。 三菱2代社長 岩崎彌之助。 1885(明治18)年頃の長崎造船所。 1890(明治23)年に三菱造船所で建造された、わが国初の鋼製汽船 「筑後川丸」。 1940(昭和15)年に長崎造船所で建造された、純国産の豪華貨客船 「新田丸」。特設航空母艦「 鷹」に改装され、短命に終わった。■
コルト系
三菱500(1960/4∼) 1959(昭和34)年10月、東京、晴海
で開催された第6回全日本自動車ショーに新しいコンパク
トカーが展示されていた。新三菱重工業が戦後はじめて
世に出した純国産車「三菱500」であった。翌1960年4月に
39万円で発売された。
三菱では乗用車開発に先立って激しい論争が繰り広げ
られたと言われる。一つは欧州のように、国の経済力に見
合った性能、サイズのクルマを造るという意見と、三菱が、
しかもおくれて参入するからには、最初から、ドイツのメル
セデス・ベンツにも匹敵するような超高級車の生産から出
発すべし、という強硬な意見が出されたようである。
1955年に通産省が国民車構想(4人乗り、排気量350∼
500cc、車両重量400kg程度、100km/h走行が可能、価格
は25万円以下)を出していたことも、小型車の選択に影響
したのではないだろうか。
名古屋製作所において開発することに決定したのは
1957年早々で、1958年7月から9月にかけ第1次試作車4台を
完成し、テスト結果をフィードバックして第2次試作車12台
を1959年6月から8月にかけて完成した。試作車呼称M1、
生産車型式A10。
しかし、三菱500立ち上げ時に大災害に見舞われる。
1959年10月24日に開幕するショーに出展する車両準備の真
っ最中、9月26日に上陸し5000名を超える犠牲者を出した
伊勢湾台風の直撃を受け、工場が2メートル近く冠水し、シ
ョー出展予定車を含め、量産準備中の部品、設備等すべ
て水浸しとなってしまった。従業員と家族あわせて100名
以上の犠牲者を出す大惨事となった。死に物狂いで復旧
にあたり、ショー、量産立ち上げとも予定通り実施したのは
さすがである。
ショーでの評価は高かったが販売は低調で、1961年7月
までに7866台にとどまり、月販目標1000台には届かなかっ
た。そこで、1961年8月からエンジンを101cc拡大し、定員を
4から5名に増やし、装備を充実した「三菱500スーパー
デラックス」を発売したが、所期の目標を達成できなか
った。
1962年11月、マカオGPレースで優勝し(Aクラス:750cc
以下)、4位まで独占する好成績を収めている。
コルト600(1962/6∼) 三菱500の販売が低調なのは、
シンプルすぎるスタイルと装備にあるという意見が強く、
車体の前後部分、内装などをリファインして「コルト600」と
改称して1962年6月から発売した。このクルマも1963(昭和
38)年4月、マレーシアGPレースで優勝(600cc以下)、3位
まで独占する好成績を収めたが、販売増には繋がらなか
った。
コルト1000(1963/7∼) 三菱500シリーズの後継モデル
は当初空冷4気筒水平対向800cc(NE37X型)を後部に配
置するフォルクスワーゲン型の小型車をイメージして、まず
エンジンの試作を行ない、テストを重ねると同時に簡易ボ
ディの試験車に、それを搭載して走行試験を行なうまでに
なっていた。しかし、最終的にFR方式のオーソドックスな
800cc級の小型乗用車とすることに決定。車体は名古屋製
作所、エンジン、トランスミッションは京都製作所で開発す
ることに決定した。
「コルト1000」は生産型式A20として、1962年早々から開発
をはじめ、1963(昭和38)年7月に発売された。デラックス、
スタンダード、バンタイプのデラックス、スタンダードおよび
タクシー用のLPG車を揃えていた。
1964年5月鈴鹿サーキットで行なわれた第2回日本GP
レースで優勝(ツーリンガカーTIII部門)、3位まで独占
した。
コルト1500(1965/10∼) コルト1000の発売によって小
型車市場に本格参入したが、そのコルトシリーズの充実を
図るべく、1965(昭和40)年10月、コルト1500が発売され
た。さらに翌1966年12月にコルト1500スポーツを、1967
年4月にはコルト1500デラックスポピュレールが追加発
売された。
コルト1100(1966/9∼) コルト1000のレベルアップを図
るため、エンジンをKE44型1088cc 58psに換装し、内装等
も手直しして、1966年9月、コルト1100を発売した。
ニューコルト1200/1500(1968/5∼) 1968(昭和43)年
5月、コルトは大きな変更をうけて発売された。特にコルト
1200は拡大されて1500と共通のボディとなった。三菱の乗
用車ではじめてチルトハンドルが全車に採用され、セダン
18型式、バン4型式のモデルを揃えたが、売れ行きは期待
したほど伸びなかった。
コルト800(1965/11∼)、1000F(1966/9∼)、1100F
(1968/8∼)、11F(1969/5∼) コルト600の後継モデル
として、コルト1000、1500がグレードアップしたため、並行
して用意されたモデル。1965(昭和40)年11月、コルト800
と800バンが同時に発売された。開発・生産は1962年まで
三輪車を生産していた水島自動車製作所が担当した。コル
ト800の最大の特徴は、わが国で初めてファーストバックス
タイルを採用したことであろう。
1966年9月、1.0Lエンジンを搭載した1000Fが追加発売
された。1967年5月に1000Fバンが加わり、同年12月にはリ
アハッチが開く3ドアセダンが発売された。
1968年8月には1.1Lエンジンを積んだ1100Fスポーツと
1000F 4ドアセダンが戦列に加わり、同年11月、よりホット
な1100Fスーパースポーツが発売された。1969年5月、コル
ト1000Fは1.1Lエンジンに換装されコルト11-Fとなり、コル
ト1000Fバンは1ヵ月遅れてコルト11バンとなった。なお、
1967年11月、1000Fをベースにした500kg積みのコルトトラ
ックが発売されている。
新世代コルト(2002/11∼) 2002(平成14)年11月、懐か
しい名前のコルトが発売された。ダイムラー・クライスラー
との共同開発によるプラットフォームを用い、
「ワンモーシ
ョンフォルム」と称するボディデザインは、乗用車デザイン
本部長に迎えられたフランス人オリビエ・ブーレイの指揮に
よるもの。エンジンは1.3Lと1.5Lが用意され、INVECS-III
CVTが組み合わされる。内外装や装備の組み合わせが自
由に選べる「カスタマー フリーチョイス」という新しい販売
方式が採用された。2002-2003年グッドデザイン賞(商品デ
ザイン部門)を受賞、欧州で発売された2004年にはドイツ
のゴールデン・ステアリングホイール賞(小型車部門)を受
賞している。2003年1月に4WDモデルが追加発売された。
1960(昭和35)年4月に39万円で発売された初期の三菱500。 三菱500は発表後フロントグリルのデザインを公募し、これは1960(昭和 35)年2月10日付け入選発表の新聞広告。市販車にはこのグリルが採用さ れた。 1962(昭和37)年に発売されたコルト600。 1963(昭和38)年頃のコルト1000の組立ライン。 1965(昭和40)年11月発売された、わが国初のファーストバックモデル、コ ルト800。 2002(平成14)年11月、ダイムラー・クライスラー社との共同開発で登場し た新世代コルトのイメージスケッチ。1950年9月28日に発表された1951年 型ヘンリーJ最初のカラーカタログ。 東日本重工業川崎製作所でノックダ ウン1号車が完成したのは1951年6月 9日であった。車名は公募で決まった が、カイザー・フレーザー社の創業者 の一人、ヘンリー J.カイザーにちなむ ものである。ナッシュ・ランブラーと ともに戦後の米国コンパクトカーのさ きがけであった。全長4430mm、全 幅1780mm、全高1572mm、車両重 量1040kg、最高速度136km/h。シャ シーはフロントがダブルウイッシュボ ーンの独立懸架、リヤはリーフ+リジ ッドアクスル。エンジンはウイリス・オ ーバーランド社製で、4気筒2199cc、 68ps/4000rpmとデラックスモデルに は6気筒2638cc、80ps/3800rpmの2 種類が用意されていた。ただし、三菱 製1951年型は4気筒モデルのみの設 定であった。
●
ヘンリーJ(1951/06∼)
●
1952年型ヘンリーJはフロントグリル、テールランプなどの変更を受けた。イラストではトランクリッドをあげて荷物を積み込んでいるが、トランクリッド付は 1952年型の途中まではオプションで、標準は室内から荷物の出し入れを行なった。1952年型では全長が6気筒モデルで+196mmの4626mm、4気筒モデルで +186mmの4616mmに伸ばされた。このイラストは、のちに背景を担当するヴァン・カウフマン(Van Kaufman)との共同作業でポンティアック1959年型から71 年型まで、13年間にわたってすばらしいイラストを展開するアーサー・フィッツパトリック(Arthur Fitzpatrick)の作品。 1953年型の和文リーフレット。1953年3 月カイザー・フレーザー社はウイリス・ オーバーランド社と合併、ヘンリーJの 生産を中止したので、最後のモデルと なった。米国では1953年11月3日から 20日にかけ1954年型として1071台生産 されている。川崎製作所では1954年1 月に生産終了、国内で組立てられ販売 されたヘンリーJは合計502台であっ た。ちなみに、三菱ではヘンリーJのカ ラーカタログを発行しなかったのか、 その存在を確認できなかった。●
ジープ(1953/02∼)
●
1955年発行のジープCJ3B-J3型のカタログ。この頃はまだ 一部分ノックダウン生産であったので、前面とボンネットサ イドには「WILLYS」の車名が打ち出されている。仕様書 はインチ・ポンドで記載されているが、メートル換算する と、全長3388mm、全幅1688mm、全高1895mm、ホイール ベース2032mm、車両重量1096kg。Fヘッド4気筒2199cc、 70ps/4000rpm、15.8kg-m/2000rpmの「ハリケーン」エンジ ンを積む。 1955年発行のカタログ。「ジープはあなたのお嫁さん。丈夫で 元気で 働き者で おまけに お化粧が 大きらい!」のコ ピーは、当時の様子を良く伝えているが、いま使用したら物議 を醸すであろう。表紙のクルマは新たに加わったCJ3B-J10型 で、J3型とホイールベースは同じだが全長を188mm伸ばして 3576mmとし、乗車定員を4名から6名に増やしたモデル。 1956年に発売されたジープデリバリワゴンJ11型。 A、B、Cの3型式あり、AおよびB型はホイールベース 2032mmで、A型のリヤドアは上下開き、B型は左右開 きでリヤバンパーが2分割されており、中央にパワー・ テーク・オフあるいはトレーラー用フックを取り付け可 能。C型はホイールベース2532mmでリアドアは上下開 きであった。まだフロントグリル上部の車名はWILLYS のままである。 1975年11月発行のカタログ。「ジープワイドセレクション」と称し、ホイールベースが2030mm、 2225mm、2640mmの3種、ボディの基本形式が5種類、エンジンはガソリンが2機種とディーゼ ル1機種が用意されていた。●
第 2 世代 ニューギャラン(1973/06 ∼)
●
1973年6月1日に発売された2代目ギャラン。コルトの名前は消え、ニューギャランと称した。カタログのモデルは1600GL。エンジンは4G32型1600サターン100 (MCA-II仕様は97)ps、4G51型1850アストロン105(ツインキャブ仕様は115)ps、4G52型2000アストロン115(ツインキャブ仕様は125)psの5種を設定。サイズ は全長4200mm、全幅1600(2000シリーズは1615)mm、全高1395(GS-5、GS-IIは1375)mm、ホイールベース2420mm。初代に比べてホイールベースは同じだ が、全長で120mm、全幅で40mm大きくなった。車両重量900∼985kg。また、チルトハンドルが全車に標準装備されていた。 2代目セダンと同時に発売された、ニューギャラン ハードトップ。エンジンのバリエーションはセダンと 同じ。サイズは全高が15mm低いのを除きセダンと同じであった。車両重量は910∼990kgでセダンより 5∼10kg重い。 1973年10月11日、追加発売されたニューギャラン エステート-V。エンジンは4G32型1600サターン100 (MCA-II仕様は97)psを搭載、トランスミッション は4速MTと、スタンダードには3速MTが付く。サイズ は全長4215m、全幅1580mm、全高1435mm、ホイー ルベース2420mm、車両重量955∼975kg。 1975年2月19日に2代目ギャランの戦列に加わったギャランGT。米国クライスラー社向けに輸出 していた、ダッジ・コルトのフロントグリルとサイドストライプを装着して売り出したモデル。セダ ンにはSL-5とデラックス、ハードトップにはSL-5の3モデルを設定。エンジンは4G32型1597cc、 100psで、トランスミッションはSL-5には5速MT、デラックスには4速MTが付く。手前はギャラ ンセダンGT SL-5、奥がギャランハードトップGT SL-5。 1976年型ダッジ・コルトのカタログ。ギャランGTの「生 みの親」。エンジンはサイレントシャフト付き1600ccが 標準で、サイレントシャフト付き2000ccがオプション設 定されている。●
第 3 世代 ギャランΣ(1976/05 ∼)、ギャランΛ(1976/12 ∼)、
ギャランΣエテルナ/ギャランΛエテルナ(1978/03 ∼)
●
新任の久保富夫社長の理念にそって開発された3代目、ギャランΣ(シグマ) は1976年5月14日に発売。「低く&幅広く、いま、セダンは変った。」のキャッ チコピーに三菱の自信のほどがうかがえる。 ギャランΣのサスペンションは前輪がI型アーム式ストラットタイプ、後輪はリ ジッドアクスル+アシストリンク付き4リンクを採用。エンジンは4G52型アストロ ン80 1995cc、105(ツインキャブ仕様は115)ps、4G51型アストロン80、1855cc 97psと4G32型サターン1597cc、92(同100)psの5種。全車MCAシステム搭載で 51年規制に合格している。 ギャランΣは南アフリカでは「コルト ギャラン」の 名前で販売されていた。1.6L、2.0Lの他に4気筒 2.6L仕様があり、大型のバンパーを付けているた め全長は4450mmある。 サイズは全長4300(2.0L車は4330)mm、全幅1655 (スーパーサルーンは1670)mm、全高1360mm、 ホイールベース2515mm、車両重量975∼1110kg、 価格は1600カスタム95.7万円∼2000スーパーサ ルーンAT車144万円。トランスミッションはカスタ ムとGLが4速MT、その他は5速MTと3速ATを設 定。全車とも前輪にディスクブレーキを備える。こ の車は2000GLXで122万円(AT車は4万円高)。 「Spoils You. :(シグマは)あなたを虜にする」この短く明快なコピーに最初に出会ったのは シドニーに向かうカンタス航空の機内誌だった。望遠レンズを通して絶妙のアングルで捉え たシグマもカッコいいと思った。これは1981年6月に豪州三菱で発行されたリーフレットで、 お気に入りの1枚である。1968年7月1日、デリカトラックが発売され、翌1969年4月1日にはライトバン、ルートバン、コー チが追加発売された。さらに、同年12月10日に高床式トラックが発売。これは1972年6月に 発行された輸出用英文カタログで、車名は「コルト」となっている。定員3名、最大積載量 600kg、エンジンはコルト1100と同じKE44型58ps。 1975年1月にマイナーチェンジされたデリカ1400 5ドアバン。フ ロント部分が変更を受け、4灯式ヘッドランプを採用、フロント ドアの三角窓が廃止された。 1979年6月25日、2代目デリカ・シリーズが発売され た。これは初代デリカコーチの後継にあたるデリ カスターワゴン。広さを追求した結果生まれたと いう直線基調のシンプルなボクシースタイル、9人 が乗れるワイドなボディが特徴。MCA-JETサター ン80サイレントシャフト付きG32B型SOHC直列4 気筒1597cc、86ps/5000rpm、13.5kg-m/3000rpm エンジンを積み、トランスミッションはXL-5には 5速MT、DXには4速MTが付く。サイズは全長 3990mm、全幅1690mm、全高1790(DXは1800) mm、ホイールベース2200mm、車両重量1150(DX は1130)kg。価格はXL-5が114.9万円、DXは101.7 万円。