江州商人の中小都市における消長
小 倉
栄
一
郎
は し が き 八幡の大店、日野の千両店といわれて、江州商人の店舗の構え方には一様でないものがあり、したがって、その立地の 仕方にも差があった。大阪に出店するものが最も多く、大坂商人の主体をなしたことは周知のところであり、京・江戸に 店を構えるものも多かったが、関東以北に進出して、経済的に後進地であった東北に近代的商業活動を推進せしめたこと や、中仙道沿いに山嶽地帯に潜入したのも江州商人であったし、西国・九州にも歩を進めているから、 一概には断定でき ないが、いつれの場合にも、共通の方式として、店を他国に構え藩際交易に従事した。郷里江州の産物を取扱うものは、 江州にも営業店を構えたが、これがすべてではなく、むしろ、江州には本家を置き、財務部門とするか、あるいはまった くの留守宅として、家族、子女はいつれの場合も江州に留め置き、出先店舗は男手のみで運営した。 ︻−関東後家﹂と呼ば れたのは、関東一円に進出した江州商人の妻女が留守宅をまもる姿を指したものである。 このような方式は明治以降も相当期間存続したようであるが、現代生活には合わないので、ある時期に急速に解消され、 今日では別の事情で名目的に本宅を江州に存続させているが、実際の生活の本拠はすでに移している。 それでも、伝統というか、習性というか、単身赴任に対する抵抗が少ないことや、海外移住者の性行などにも残存して 江州商人の中小都市における消長 一江州商人の中小都市における消長 二 いるQ 江州商人が出たのは県下全域ではない。湖北、彦根、湖南には著しく少ない。厳密ではないが、日野商人、八幡商人、 高島商人、愛知川商人に大別することができるようであ。 それぞれは、発祥の時代、活躍の時代、その舞台がことなり、一様ではないが、古いものでは三百年近く、新らしいも のでも百年にわたりこの方式を繰返しているのである。その上、江州商人は郷党意識が強いといわれる。現地雇入れの従 業員も少なくなかったが、主たる要員は同郷に求めたから、幾世代か重ねる問に、親戚孤老が江州商人に連ることになり 右の地域は、主として農村であるにもかかわらず、殆どが商人と縁故をもっている。 明治以降にも滋賀県人は次々と他府県に移り商業に従事したし、戦後になってもこの事情は変らない。江州商人の発生 原因として、模倣性を言う人があるが、このような事情を現象面で事えた見解であろう。 江戸時代における江州商人の活躍については、すでに多くの研究がみられ、大体の状況は分っている。研究しつくされ たわけではなく、県下においても未調査の史料が残されているし、出先各地でも研究されているので、今後一層充実せら れるものと思うが、明治以後の江州商人については、断片的、挿話的で、体系的研究については寡聞にして知らない。 ︵1︶ 滋賀県史第五編県治時代の戸口の節に、人口統計を解釈して、興味ある見解を示している。 明治五年以降の連年調査について、 ﹁出寄留﹂が著しく多い点に着目し、 ﹁近江商人の諸国への出店及その店の使用人 ︵2︶ が男子に限られている為﹂に男の出寄留が女のそれより多く、また、郡別にみて、甲賀・浅井の両三以外はすべて女の人 口が多く、蒲生・神崎・犬上の順であることから、 ﹁近江商人が此三郡に多いことを示している。由来近江商人は諸国に ︵3︶ 設けている支店に婦人を伴はず、数十百人の店員も主として県内の男子を用ふるを通則とした﹂ことが、男の出寄留、女 の本籍人口の多い理由としている。大正十年代にいたるまでには変動があり、この理解が通用しないことも少くないが、
江州商人の中小都市における消長
年明 大
度678910121314151718192022232425272829303233343537383940424344453456
二誘講麗搬器蹴誘瓢識蹴鋤蹴瓢饗熱熱謙需器二
二黒奮瀧謙斬灘叢論謝謝蹴農業謝雛撚誰撚朧三
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明治六年以降人口連年統計 出 女以脇町鵬鰯蹴蹴倒囎m湖棚鰯謝肌肥潮脚測温鵬脚謝細則聯想躍増鰯鵬蹴娚㎝鰯蹴
脳髄畿雛黙嶽饗畿蹴瓢黙跳叢嶽訟訟黙黙瀦麗
総数Z 446 7, 026 9, 785 9, 476 9, 676 10, 146 14, e24 13, 176 12, 411 13, 634 11, 229 24, 175 31, 087 33, 350 3L 013 32, 451 33, 702 70, 877 70, 524 72, 500 75, 731 98, 746 103, 673 160, 311 166, 287 171, 818 175, 341 (滋賀県史第四巻) 寄 留 男 女 5, 651 1, 795 5,222 L804 7, 471 2, 314 7, 049 2, 4P−7 ZO44 2, 632 7, 181 2, 965 9, 150 4, 474 8, 914 4, 262 8, 325 4, 086 入 総数 3, 360 2, 710 3, 421 2, 684 3, 202 4, 163 5, 117 3, 655 4, 179 5, 025 4, 734 22, 405 29, 577 30, 530 28, 774 30, 732 30, 898 57, 211 53, 988 56, 701 60, Ol1 49, 655 48, 277 70, 748 79, 288 81, 018 82, 319 寄 留 男 女・ 2,016 L344 L693 LO17 2, 129 1, 292 1, 577 1, 107 1, 836 1, 366 2, 390 1, 773 2, 877 2, 240 2, 049 1, 606 2, 376 1, 803江州商人の中小都市における消長 現住 人口 55, 274 41, 401 34, 117 59, 438 80, 783 35, 678 38, 751 69, 976 57, 795 38, 688 20, 863 45, 332 578, 099 男 27, 654 20, 509 16, 970 29, 794 LP」9, 698 17, 620 19, 210 34, 540 29, 664 19, 166 10, 716 22, 443 286, 975 明治6年郡別戸口出入寄留 女 27, 629 20, 892 17, 147 29, 644 41, 085 18, 058 19, 541 35, 436 39, 131 19, 522 10, 147 22, 892 291, 124 出 総数 1, 162 522 207 584 1, 872 475 245 1, 076 342 119 37 805 7, 446 寄 男 687 321 166 448 1, 737 391 218 839 229 70 32 513 5, 651 留 女 475 201 41 136 135 84 27 237 113 49 5 292 1, 795 入 総数 829 107 50 281 374 623 79 222 307 225 32 121 3, 360 寄 男 490 56 29 167 214 337 64 137 179 135 20 78 2, 016 留 女 339 51 21 114 160 286 15 35 128 90 12 43 1, 344
別 賀太洲賀生崎知上田井山導
計郡 滋栗野白痴神愛犬坂浅伊高
四 それも当然で、寄留届はかならずしも励行されなかったし、出寄留にして も入寄留にしても、県内の冷間のものは、就学・就労など様々あり、また 、ある時期からは、戸籍そのものを出先へ転ずる傾向が生じ、明治初年は いざ知らず、大正ともなると近江商人の存在だけでは人口動態を説明でき なくなるのである。 以上のように、すべてを近江商人に帰することには賛成できないが、他 府県に比し、著しい差をみせる点の理由の大なるものが近江商人であると いうことは否定できない。 滋賀県史より連年人口統計を引用すると前頁のとおりである。年によっ て欠けているのは本文中に特性のみ記述してあり、数字が不足していて、 復元できないからである。 日清・日露の戦役による男人口の減は別として、大体順調に増加する中 で、男女逆転して、男の方が多くなる。そのうち、明治三十六年には、﹁此 十年間は女が毎年約五〇〇に近い数だけ減じつつあるとすべきである。⋮ ⋮同じ趨勢で、三十六年の差二五、〇六〇は眼路県外へ移住しているので る ある﹂また、この五十年間に出寄留は平均毎年二、四六四人増加している ので、人口増加の五〇%が出寄留していることになる。 戸別が引用されているのは明治六年のみで、やや古くもあり、また動向を窺知しえないが参考までに引用しておく。 ︵前頁参照︶ 湖西では滋賀・高島、特に高島の出寄留超過が目立つ、後世盛大となって織女を導入することになる綿織物は、まだ軌 道に乗っておらないで、絹や綿の着尺地が分散的に製織され、高島商人の跡を追って京都・東北へ出ているのではない か、これと並んで、蒲生が首位、犬上がこれに次ぎ、数的にも率の上からも出寄留が超過している。幕末、明治の近江商 人の出自を暗示している。神崎・愛知はすでに滞り気味である。坂田、浅井、伊香は逆になっており、養蚕機業地として 人口を吸引している。 五十年といえば二世代にわたり、その上に文明開化の一大変革期を謂えたのであるから、近江商人のあり方も昔のまま 一ではない。 ﹁関東後家﹂の風が墨守されていると期待するのはむりであろう。まして、そのモデルだけで人口統計を解釈 することには賛成できない。むしろ、寄留の形で出ていたものも、代がかわると転出してしまい、つづいて別の人が出寄 留するという形と解するのが自然で、したがって、統計上の差引計算以上に多くの江州人が商人化して、全国へ出ていっ たものであろう。そこまで詳細には統計資料は語ってくれない。 その上さらに五十年を経た今日、江州商人はどうなっているであろうか。第一次世界大戦を経て日本の国力が飛躍的に 伸長され、特に、日本の経済力が世界的な発展をとげるまでは、日本の経済界は二重構造になっていた。西欧文化を基盤 に近代的産業を形成する部面と、在来の日本的生産機構の中で、国内経済に浸透して、地道に生きつづける部面の二重構 造は意外に堅牢であった。江州商人が後者の中にあったことはたしかである。それが第一次世界大戦を契機に、国力の伸 長にともなって、企業としても急成長して、上部構造の中へ浮上していったものもある。現存する江州商人系大企業の中 にはこれがある。また、この時期に創業して今日大を成している江州系企業が多い。その後、昭和の統制経済、戦争経済 の中で成長した江州系大企業は少ないが、敗戦後の日本経済復興の波に乗って大を成したものも多い。これらをどのよう 江州商人の中小都市における消長 五
江州商人の中小都市における消長 六 に分類し、江州商人という観点からどう把えるかは、方法的に問題の多いところである。しかし、現在すでに企業基盤が 固っていて、研究対象から消え去ってしまうという心配はない部類である。 しかるに、江戸・明治を生きてきた下部構造の中にあった本来の江州商人系企業の多くのものは、大正の良ぎ年代にも 浮上の機会をつかむことなく、昭和初期の世界恐慌、つづく戦時経済、敗戦で抹殺されてしまったものが多い。四世代に わたるのであるから、後継者が絶えたものも少なくない。戦後の経済復興の波に乗って、新らたに登場したものもある。 この部類に属する江州商人については、ある期間を切って、意識的にしかるべき調査を続けない限り、歴史の中から消え てしまうことになる。 今回伊勢丹奨学会の後援をえておこなった﹁明治以後の江州商人の研究﹂はまだその計画の半分しか実行されていない が、その半分というのが、中小都市における江州商人の現状調査で、上述の問題群の後者、すなわち、昭和の日本経済の 底流にある江州商人の調査である。結論的にいって、調査の時期はすでに遅かった。一時期は全日本に活躍してその名を 知られていた江州商人は、今日では殆ど影をひそめてしまい、後を絶ち、滋賀県出身ということで抽出してみても、戦後 創業のものが多い。すなわち、全国津々浦々に商業活動を繰展げていた江州商人は、今日では例外的に存続しているのみ’ で、東京・大阪・京都・名古屋等々、大都市に存続する江州系大中小企業が、江州商人系企業のすべてであるということ ができる。 本稿は、例外的に存続している中小都市の江州商人系企業の調査報告である。 ︵1︶ 滋賀県編﹁滋賀県史﹂第四巻︵最近世︶第五編、計量時代、第一一章現代、第二節戸口 一一九頁以下。 ︵2︶ 同右、一二一頁。 ︵3︶ 同右、 =一二頁。 ︵4︶ 同右、一二八頁。
二調査結果の分析
調査の第一段は全国に分布する江州系企業の悉皆調査であるから、全商工会議所に照会を出して回答を求める方法によ った。大阪・神戸・京都・名古屋・東京等は第二段の調査で扱うつもりであったが、 一応照会は出した。 会議所総数四七三のうち、回答のなかったものが三四八にも達する。この回収率は満足できるものではない。たとえば 北海道は古くから江州商人が活躍した土地であって、その全土に及んでいるが、現存するものは少ないとしても、少なく とも画館、小樽、札幌、釧路、北見には現存していることがわかっているのに、回答がなかった。同様の検討を進めてゆ くと、仙台のごときも多数に上るはつであるが回答なし、といった具合に、規模の大きい都市の会議所ほど調査能力を欠 くものか、あるいは誠意を欠くのか、不満足であるので第二段の調査対象が当初計画以上に増加することになったが、回 答がなくとも当然と思われる都市もあるので、 ﹁中小都市﹂という壷中としたくくり方をすれば、この回収率は悪くはな いと思う。 該当者なしと回答してきた場合、多くは調査方法をも示して、かくかくの調査をしたが該当者はありませんとか、会報 地方新聞に掲載して調査をなし、その写しを同封している例もあり、 ︵恵那・氷見・尾道︶該当者のないことに信凝性が 濃いので、今後の調査の参考のため次に列挙しておく。 九州八女、苅田、宮田、佐賀、島原、平戸、荒尾、中津、日田、佐伯、臼杵、高鍋、串間、西都、鹿屋、枕崎、有 田、行橋、豊後高田、豊前 四 国 西条、今治、伊予三島、新居浜、坂出、観音寺、須崎、土佐清水 中国光、江津、三原、井原、庄原、尾道 江州商人の中小都市における消長 七江州商人系企業地方別分布・概況 地 方 総 数 内 訳 規模別企業数 差規模 小規模 創業期別企業数 江戸期 明治以 後戦前
戦後
不 明希
・1佃・汰牟町阿娠・
21 21[ 21 21 瑠・・1離・,岡山・・鰍・・竹原・1・1・l1 71 4[近畿
中部 関 東 33 21 74 上野2,亀山5,久居7,鈴鹿4 尾鷲2,熊野1,松原1,泉佐野 7,堺1,具塚2赤穂1 静岡7,富士宮1,甲府1,三島 1,多治見4,駒ケ根1,長野3 西尾2,尾西1 水戸1,下館3,足利14,結城5 鹿沼1,佐野3,桐生10伊勢崎5 沼田3,富岡7,川口1,行田4 本庄6,蕨2,銚子3,野田5, 武蔵野1 12 14 34 21 7 40 1 10 19 20 10 42 11 1 g 1 5 東北 22 1秋…1・盛岡・2,八戸・・蘭・1141・1[・・1・1 北海道 34 倶知安4,旭川11,紋別3,留萌 6,網走8,名寄1,栗山1 13 21 26 2 6 合計11ggl gs l ioi ll so l iog[ 2s l i2 江州商人の中小都市における消長 八 一 畿 新宮、紀州有田、熊野、小野、伊丹、 御坊、吹田 中 部 鯖江、魚津、新潟、村上、亀田、三条 上越、氷見、恵那、瑞浪、江南、半田 中津川、伊那、松代、塩尻、下諏訪、 岡谷、茅野、神岡関東渋川、水戸、銚子
東 北 会津喜多方、会津若松、白河、横手、 気仙沼、白石、大船渡、水沢 北海道 夕張 ︵以上七三都市︶ まつ全般的分布について述べよう。 該当企業ありの回答は五五、︵京都・大阪は回答 があったが、第二段にまわす︶東北は江州商人の活 躍した土地であったが、回答が少なかった。も っとも、回答はいつれも江戸期に創業のものば かりであったから、質問の﹁江州商人系﹂とい う表現が誤解を招いたのかも知れない。 なお商工会議所のない小町が除外されていること、および、商工会議所によっては会員でない企業も含めて回答してもらえたが、会員あるいは、少なくとも江州出身 であることが周知である程の規模の企業に限定されたのは当然である。したがって、悉皆調査とは称しがたいものとなっ た。 規模の大小は、業種によって基準を変えた。すなわち、一率に人数によるというのではなく、例えば呉服店で従業員十 創業時期別企業規模比較 明 手 大 小 戦後創業
大1小
明治より 戦前創業大1小
江戸期創業大1小
方 地 − PO 4 2221。引
2 2 19424116
1 2 4 7181513
州国畿部東北道 四 海 九中近中関東北 14 54 1 54 1 5 1 22 1 2 L 10 計 37 合 江州商人の中小都市における消長 数名なら大としたが、製造業で十数人なら小である。 近畿で大阪・京都を加えると当然圧倒的に多数となるが、中小都市では意外に少 ない。関東で東京を加えると、近畿に匹敵するであろうが、江州商人の最大の活躍 舞台であっただけに、中小都市にすこぶる多い。東北は仙台を入れればほぼ揃うと 思われる。盛岡、八戸については研究されたものがある。 江戸時代以来の老舗で中小都市に存続しているものということになると、やはり 関東、東北である。そして老舗を維持発展させることはむつかしく、多くは明治以 降に出寄留が毎年コンスタントに増加した主因が、巷間に言われるとおり、関東、 北海道への進出であったことが窺知される。 この調査結果をサンプリング的に解釈するのは危険であろう。江州商人は種々の 縁故をたよって進出したので地方によって違った事情にあり、また、その土地の人 には江州商人系である事実は周知のところであるので、回答のあった都市にだけ現 存しているという可能性が強いからである。 老舗は有力企業であろうか、地方別に経歴と規模を検討してみよう。 九江州商人の中小都市における消長 一〇 戦後創業のものは概ね小規模で滋賀県からあまり離れない。明治から戦前の間に創業したものは、戦争を経て存続した のであるが、大小の差はない。しかし、江戸期創業の老舗ともなると、概ね規模は大きい。老舗で小規模のまま存続して いるというのは、分家した専門店、酒小売、化粧品小売、旅館、醤油のようなものである。 江戸期創業の大規模企業の業種はどんなものか、地方別にみてみよう。 酒造と卸・小売は江州商人の得意とするところであったし、産をなすものが多かったが、やはり老舗の雄である。中部 江戸期創業大規模企業の業種 呉服 1その化 顛
軒
櫟溌
荒馬品 囎 齢.死
顔
些
1 9︼ りQi −月
1 4 1 i[ 5 1 1 3 9 0Q ]一一一睡方
近畿
中部
関東陳北
6 2 5 1 6 1 1 15 計 地方では富士宮、甲府、尾西にそれぞれ大型の酒倉があり、他にもあったと聞いているが、 やはり関東が最も盛大で、行田には三、桐生、伊勢崎にそれぞれ二、富岡、埼玉にもある。 また、東北でも八戸、盛岡に二あって、江州商人の足跡のあるところ酒屋ありということに なる。同じ醸造でも、醤油は、昔は盛大で、町々村々に存在したし、いつれも素封家といわ れたが、近年近代的工場生産が主となって、地方では衰退した。 薬品を小売し、これにカメラなどを兼業するものは全国的に珍しくないが、江州商人系と しては東北に酒田と八戸・盛岡に各二店ある。また、江戸期の江州商人の多くのものが呉服 を扱ったが、そのうちの大をなしたものは京都・大阪・東京など大都市で卸・小売を営むも ので、地方都市では意外にも足利と秋田にあるのみである。この事情は明治以後創業となる と違ってくるが、需要は人口に比例する以上、当然のところかも知れない。 明治以降戦前に創業している大規模企業は、明治維新という大変革以外はほとんど同じ難 関を切抜けてきたのであるし、創業以来同業種のままであったとも限らないので、現在の業 種で判断することには問題があるが、どこか質的な差があるように思えてならない。明治以降戦前創業大規模企業分類 そ の 他 地場産業用材料
関連事業
地場産業
嶽郁耐撫
化粧品・金物雑貨小売
菓 子 呉 服 醸 造 ︵酒・醤油・味噌︶ 地 方 2 4 2 1 9U 1 3 2 1 3 1 1 2 1 2 3 −−、− U,日− 1 1 2 1 3 2 7 1 州国園部東北道四 海
九中近中関東北 6 41 91 10 1 2 3 13 5 顔 合 れない。醸造業や搾油業のごときは問屋制家内工業の適しない業種であるので、 あるQ 問屋制家内工業は明治以降は殖産興業の政策に乗って、地場産業化していったが、その中で問屋が地場産業に対して原 材料や機械部品を供給する商人と化することがあろうと考えるのであるが、江戸期創業の江州商人にその例が存しない。 江州商人の中小都市における消長 一一 さすが江戸以来の酒造と酒卸・小売は江州人が副を利かせていて、しかも、 その規模が断然大きい。それに対して、医薬品は事情が激変して江州人のお 家芸ではなくなっている。 呉服商は依然として存在するが、産地での買集問屋、消費地での分散問屋 としての機能は不要となり、老舗の小売商となっている。 菓子製造業は地方都市で局地的であるが意外に大店がある。 金物の看板は強く、化粧品・雑貨は大消費地で成長している。 この期に創業した小売店が地方都市のデパートに成長してゆく例が多く、 筆者はこの数字以外にも聞いているから、江州商人は大型小売店の経営でも 成功している。京都・大阪・東京を加えれば、もっと強調できる。 江州人が工業に弱かったと判断し、これを江州商人衰退の主因とする考え 方があるが、明らかに謬見である。江戸期にあっては、多くの工業製品は問 屋制家内工業の形で製造せられ、江州商人ばその問屋となった。各種織物を はじめ、三豊・家具・漆器その他の木工品、金属製品もいつれもこの例に漏 江州商人はいち早くこれを手がけたので江州商人の中小都市における消長 一二 大阪・京都・東京にその例が多いから、この種の商人はもっと大規模で全国的である方がよかったのであろう。そして、 木工品産地で材木・合板・銘木商︵広島.竹原.紋別︶、機業地で原糸商、機械商や、紡績・撚糸・整経工場︵堺・倉敷・泉佐 野・足利・桐生︶、あるいは窯業地で陶器問屋︵多治見︶を営むものが成長している。 江州商人の出身別,地方別,規模別分布 不 明 高 島 郡 滋 賀 郡 大 津 甲 賀 甲 西 甲南 信楽 蒲 生 郡・ 日 野・水 口
神崎郡と
八日市・八 幡 愛知川・豊 郷 能登川・五箇荘 犬上郡と彦根 湖北諸郡と長浜 規 模 地 方 2 2 大小 九州 2 1 1 1 1 1 [2 2 大小 中・ 四国 1 1 2 8 3 3 1 3 15
3 2 大小 近畿1
−31−− 7 4 3 1 1大11
小12
中部9
2 15 16 1 1 5 34 L4
31 4
3 4 大小 関東912
,1一, 1 1 1 大小 東北8
1 1 1 4 1 1611
51 2
2
1 大小 北海道 8 21 9 8 1 2 8 16 26 20 6 6 13 7 15 13 大 小 10 10 合計 地場産業そのものに進出する例は多くない し、その産地の平均的規模からいうと大きくな い規模である。地場産業ではないが、他国で縫 製を創めて成功しているものには大きいものが ある。実は縫製は滋賀県の地場産業で、家内工 業を集合せしめる方向で発達した。仏工もその 例である。 次に観点をかえて、出身地と進出先、業種、 時代区分の問題を扱うことにしたい。 八日市・八幡は発祥古く繁栄したが、地方中 小都市には少ない。日野・水口の商人が地方都 市に進出し、特に関東以北に定着する。高島の の商人は東北に局限され、愛知川商人というの は時代も下るが、主として大都市に出て、ま た、全国的に拡散している。彦根・長浜・湖北は明治以降に発生するが、関東と北海道に多い。大津出身者は意外に少ない。出身地別に業種をみてゆくとある共通点が 見出せる。 八幡商人は大消費地において大規模店舗を構える風があって、 ﹁八幡の大店﹂と呼ばれたが、地方中小都市にあっても 同じ傾向がみられる。酒類食品の卸小売を営むものはいつれも従業員十∼二十名の大型店、足利デパートにしても留金の マルゲソにしても大型小売店である。戦前・戦後にかけて機械商、畳商などの加工業もある。しかし、全体として地方都 市には稀である。 日野商人は地方都市に多いが、江戸期創業のものには酒造・酒類卸・小売、あるいはこれから発祥したものが大部分を 占め、長野の味噌と下館の醤油も大規模で、合せて一六企業ある。富士宮の山中正吉商店、甲府の十一屋、桐生の矢野本 店、伊勢崎の丸一酒店、行田の横田酒造などがある。他は食品・染料・医薬・雑貨の大型店で十∼二〇人、特に桐生の矢 野商店は右の酒屋の矢野久の分店で、染料雑貨店、従業員百十名である。こ.れに比し明治以降戦前創業のものは大規模は 四〇%で、やはり酒造には大きいものがあって、本庄、鈴鹿、結城、静岡には二〇∼四〇名級のもの五店、ほかに、久居 と上田の長野味噌は百五〇名という大規模であるが、他の酒店はいつれも関東一円の小売店で小規模である。戦後創業の ものにも酒小売が三店あり、日野商人の酒商売には驚くほかはない。 甲賀出身者で江戸期創業のものには、尾西で酒造をやった近江屋︵三〇人規模︶があるが、今は廃業している。他もあ季 り振わない。明治以後出店したもので、桐生の吉村酒店は大きいが、他は小さい。駒ケ根の西尾薬品は甲賀売薬の流れを 汲む配置売薬、静岡のなすやは化粧品雑貨小売で従業員一〇〇名の老舗、多治見に陶器問屋がある。戦後には久居にスー パーを出店して、一方で服地商を営むもの、尾鷲に呉服店を出すものなどの例があるが、いつれも近隣への出店である。 地域が広く、日野・水口に近く、甲賀売薬、信楽窯業という地場産業をもっているわりには、商人化が少ない。 江州商人の中小都市における消長 一三
江州商人の中小都市における消長 一四 愛知川商人は幕末・明治にかけて持下り商人として京都・大阪で大を成したが、地方都市に定着したものについては、 そのような特色がみられない。八戸のせきのドラグストアが薬品カメラ小売で従業員五〇人の規模である。足利の山源商 店は呉服卸商である。明治以降活溌化するのであるが、それでも地方都市では多くない。さすがにその大部分が大規模店 であるが、業種は一定しない。酒店は稀で、佐野の江墜落商店が味噌醤油で大きい。大牟田の松屋デパート、名寄の丸山 山田デパートが目立ち、高松のすずやが仏学・仏具、野田のおおみやが菓子で大きい。呉服を商うもの三、金物商二のほ か、進出の地場産業に従事するものが特色といえる。遠隔地に飛んでおり、 一定しないのも特徴である。 高島商人は東北地方、岩手県以北に進出したことはよく知られているが、現存しているものもそのとおりである。さす がに規模は大きく、創業も古い。文字どおり毛①〒①ω鐙げ房冨窪といえる。そのうち、酒の醸造販売、ならびに食品販売を 兼ねたものは、いつれも大きいが、その最大のものは村井一族のものである。慶長年聞の創業にかかり、盛岡だけで十店 に及んでいる。屋号はいつれもちがえているが、村井カメラ店、加賀野土地、井筒屋、村定楽器店、村研薬品、村源商店 村井松月堂、村治洋品店、近文商店、鍵屋酒店、阿さ開瑞鳳、いつれも村井である。種々の物品小売から、事務機器、文 具、薬品、カメラ、紳士服、楽器・レコード、弁当製造、不動産業にも及んでいる。村井一統の事業については別に述べ る機会をもちたい。高島商人は限られた地域に集中して開店するが、競業を避けるのが特性である。 彦根は城下町であったから、江戸時代には商人が出なかった。本調査でも皆無である。明治以降に輩出するが、戦後は また少ない。しかし、六〇%が大を成している。進出先は近畿、関東、北海道であるが、大規模なものは北海道に多く、 ついで関東である。 酒小売は北海道と、関東にあるが、紋別の田中醸造店は大きい。洋品・雑貨・化粧品、医薬品、呉服を扱うもののう ち、蕨の近江屋、倶知安の日高橋商店は大規模の呉服店であるが、あとはいつれも小さい。メリヤス、タオルなど繊維製
品をその産地で製造しているもの六企業のうち、堺の近泉合繊は綿紡で大規模である。また、竹原で津田木材工業が合板 を扱い︵三二〇名︶紋別で紋別造船と土田木材が同一経営者のものであるほか、旭川の宮川本店が仏檀仏具を相当の規模で 扱っている。泉佐野でミシン部品製糖をやったり、川口で鋳物材料を商うなど、地場産業関連業種が半数近いことは大き い特色である。 出身地別,創業時代別業種調査 その他、雑 工 業 言 口 目口 機 械 諸商品卸 小売大型店 を含む 酒造・醸造 酒類卸小売 業 者 数
創業期
出身地
1 11 1 2 江戸 3i 2 2 7 戦前 1 1 2 3 戦後 八幡その他 神崎周辺 !l[i 1 2i ] i6 1 si tinj i lg [ ls 1 311i
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12 不明 明 不 江州商人の中小都市における消長 一五 長浜・湖北も 彦根藩の領地が 多かったので江 戸期に出た商人 は少ない。静岡 の日本レーベル 印刷、長野の川 添商店など時代 不詳ながら、江戸期といわれ
る。殆どが大正・ 昭和の創業であ る。長浜が機業 地であって、糸江州商人の中小都市における消長 屋などが多かった関係もあって、足利で原糸を扱うもの、整経業を営むもの、 四国で呉服、洋服仕立の大型、北海道では燃料・木材や、旭川で脇坂仏具店、 業も少ない。 三 結 語 一六 桐生でレース編立を営むものがある。中・ 酒田に大型綜合商社がある。戦後創設の企 江戸時代にあっても江州商人の大手多数が京都、大阪、江戸など日本的な商業都市や大消費都市で活躍したが、江戸末 期、明治初期ともなるとこれが主流となって、この調査に現われたごとき地方中小都市に定着して、老舗としての存続発 展をはかるものは、次々と出現したけれども、後になり、先になりして、次々と消えていった。特に、明治維新、西南の 役後の不況、日清戦役、日露戦役、第一次世界大戦などを経て、日本の経済力は伸長し、産業の近代化が進む中で、地方 産業は常に劣後し、したがって、地方経済は大きく較差をつけられていたので、地方経済を背景とするこの種の地方都市 の江州商人はたえず後進性をもっていたにちがいない。そのような地方産業のすべてに陽が当り、世界的な水準で躍進を はじめた直後に、昭和初期の世界恐慌が襲い、やがて戦争経済に突入するというような、個々の企業には回避不可能な圧 追が加えられたのであるから、江戸期創業のものも、明治以降に創業のものも、その経歴に関係なく打撃をうけ、弱体の ものは戦後になっても、遂に再起できないで終ったのである。今日なお生き永らえている企業が、古く、かつ、規模の大 きいものに限られている事実をみるとき、右の圧迫がいかに強大で苦しいものであったかがわかるのである。そして、今 日ではすでに存廃決着がついて、地方における江州商人の活躍は、ある意味で、一つの昔語りになっているのを感じるの である。その意味で、この調査は、江州商人の日本全国にひろがった活躍ぶりを見るためには、遅すぎたという感が強 い。該当心なしという回答のいくつかに、以前には存在したことを聞いているが、今日では転廃業してしまって、すでに
なくなっている旨の回答が多かった。 しかし、健在する江州商人糸の企業についての調査から多くの興味ある事実を学びとった。そのすべてを列挙する余裕 はないが、主なものを書き留めておこう。 ω 江州商人というのは滋賀県全土から出たのではない。大津・湖南からは著しく少なく、彦根周辺からは古い時代には 出ない。長浜・湖北からは出ないわけではないが、不規則で、業種、業態が異なる。 ② 八幡商人とも呼ぶべき、神崎郡一帯から出た商人の活躍の無台は主として大消費地であったから、この調査にはあま り関係しないようである。八幡商人の典型は地方都市には見出せない。 偶 日野商人は関東以北で活躍した。年代的には八幡商人より下るし、地方都市への進出が目立っていた。その伝統は明 治以降にも残って、江戸時代創業、明治年間創業の老舗が今なお続いている。その当時は、手広く商業に従事し、業種 も多彩であったが、殆どの大商人が酒造業を兼営した。今日他業種は時代の変遷とともに衰滅しエいったが、酒造、 卸・小売は相当の規模で維持されている。十一屋、矢野久のごときはその典型である。江州商人は酒屋を好んで営んだ といわれるが、その当否は別として、現存するものに酒屋が多いのは事実である。 ㈲ 高島商人は岩手県以北で活躍した。一族が集中的に立地するが、業種は区々で、競業を避けたようである。酒屋もあ るが、主力は物品販売業、百貨店に成長したものもある。滋賀県史にはきわめて僅かしかふれていないが、小野組の研 究は尽されており、また、村井一統の盛岡における現状にその典型をみることができる。 ㈲ 愛知川商人は、厳密には豊郷、愛知川、五箇荘、能登川を別に扱うべきであろうが、今日の観点からすれぽ一括して も大きな不都合はない。京都・大阪・東京で大商人となるものが多く、主として呉服を扱ったが、地方都市に進出した ものはその典型からはつれている。幕末に創業するものがあるが、維新から明治にかけて輩出した。業種は、酒屋が少 江州商人の中小都市における消長 一七
江州商人の中小都市における消長 一八 なく、衣料品をはじめとして物品販売業が主体である。 ㈹ 彦根商人には高宮商人を含め、長浜商人として湖北一帯も含めてよい。その殆どが幕末から明治にかけて成立する。 地方都市で大をなすものは、さらに時代が下る。したがって業種も特色がある。すでに各地で地場産業が定立されてお り、工業化が進行しているので、工業または地場産業用原料資材を供給する業を営むものが多い。また北海道開拓に関 与するものをみる。 Gり@明治三十年頃から一家をあげて現地に移住するものが増え、江州には留守宅を残すか、それさえも処分して、墓地の み残留することが多くなる。盛大に営業している場合には代替りしても江州出身の故事は伝承されるが、衰退したり、 転業すると縁が切れてしまう。特に、太平洋戦争を契機に、企業整備、社会変革を経験して、系譜の明らかなものが激 減しているQ ㈲ 明治以後戦前という時期を一区劃として、地方都市における江州系企業は消えるべきものは消え、有力な老舗が残っ て、整理がついたという段階である。戦後といっても、やがて三十年である。その間に、日本経済は明治以後の百年に も勝る発展を遂げたのであるが、滋賀県人にして、先人にならって他国に進出創業するものは著しく稀である。また規 模も小さい。 働 江戸期または明治以後創業の大型老舗が酒屋、金物卸小売業、呉服商、洋品雑貨などの大型小売店といった、伝統的 商業の類型にはまる業種であることが多い。地方都市百貨店やスーパーマーケットも有名なものがあるが、それとても この類型に属する。いつれ、時代とともに取扱商品も変化し、販売形態も新らしくなるのが当然であるから、そのよう な変化も含めて伝統的商業分野とするなら、これら老舗は、この分野を守って存続している。これにひきかえて、戦後 に地方都市に進出した大型企業は、スーパーが一企業︵久居︶で、運送業、新聞業、機械部品製造といった異種のもの
であり、小企業でも、酒小売の小さいのが四店、呉服・衣料・寝具店が五店、食品一店で、建材・電工・DPE・レコ ードなど、およそ別種のものである。これらをも江州商人系として考察するのには疑問を感じる。その意味で、地方都 市における江州商人は戦前までで、戦後は絶えたといってよい。 ⑩ 明治以降の江州商人の調査で重要なのは、京都・大阪・東京・名古屋を舞台とした八幡商人、愛知川商人、彦根商人 などの近代的商社活動と、金融業、保険業、交通業、不動産業、諸種の工業にわたる近代的大企業の中から江州商人を 掘り出すところの、第二段の調査である。 この調査研究には方法的にも問題が多い。江戸期から商人であったものが明治以降近代化して会社企業となり、一流 商社となったもの、すなわち、伊藤忠・丸紅・稲西・丁吟・塚本・外灯・同定⋮⋮この種のものを江州商人系とするこ とには異論はなかろう。また、明治維新後に江州出身の経営者によって起業された会社企業として日本生命、東洋紡、 ヤンマー、ワコール、オー、、・ケンシなどを江州商亜系としてするとき、前者とは相当違った特質が存するが、異論はな かろうし、興味も多い。滋賀銀行、近江鉄道のごとく、地元資本と経営者による企業は当然として、地元起業の小企業 を合併した関西電力・大阪ガス・京阪電鉄などは避けて通るわけにはいくまい。 創業には関係がなくとも、江州人によって中興され、江州人が社史の中で重要な役割を果たす企業、たとえばトヨタ 自工、東洋綿花、豊田通商などとなると基準がむつかしい。しかし、これらにも江州商人の商法が生きているのであ る。 江州商人の中小都市における消長 一九