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2 解題五條猫塚古墳 川畑純 1 はじめに 奈良盆地と紀の川の間に位置する北宇智地域に所在する五條猫塚古墳は 3 点の金銅装眉庇付冑や帯金具を装着した小札甲などの稀少な副葬品 多数の武器 武具類 多種多様な農工漁具類の出土で知られ さらにそうした出土遺物は古墳時代中期中葉という時代相を大いに反映した

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  1 はじめに

川畑 純  

(1)五條猫塚古墳の副葬品と被葬者像  五條猫塚古墳の被葬者像については、豊富で特徴的な副葬品に基づきこれまでにも数多く論じられて きたが、それらはどの遺物や資料を重視するのかによって実に多様な様相をみせている。蒙古鉢形眉庇 付冑や帯金具と小札甲といった渡来系遺物に注目すれば「対外交渉」が主題的となり、古墳の立地に注 目すれば葛城氏や紀氏との関係が論じられる。さらに、個々の副葬品の研究成果に注目すれば、甲冑類 からは軍事的な職掌が想定され、いわゆる鍛冶工具や漁具からは鉄器生産工人や海人集団の統括者とし ての性格が言及される。さらにそれらが相互に密接な連関を持って論じられることも多い(1)  ここにあげたものだけでも五條猫塚古墳出土遺物の一部に過ぎないが、もし、五條猫塚古墳から出土 した多種多様な副葬品の評価に基づいて論じられてきた被葬者像を「最大公倍数」的に理解するなら ば、五條猫塚古墳の被葬者は、5世紀における朝鮮半島との対外交渉の活発化の中で、奈良盆地から紀 の川・紀伊水道・瀬戸内海へと続く交通の要衝に所在するという立地から、葛城氏・紀氏と密接な関係 を構築し(もしくは葛城氏または紀氏そのものであり)、軍事的な活躍・渡来系鉄器生産工人の統括者・ 漁撈活動ないし海人集団の統括者としての性格を持ち合わせていたことになる。さらに今回の再整理に より、鋸や耳掻き状鉄製品などの木工関連遺物の存在が明らかとなり、加えて雛形ではあるものの鍬・ 鋤先、鎌、手鎌という農具のセットも明らかになったことを合わせれば、木工や農業生産の統括者とし ての性格までみえてくることになる。  奈良盆地と紀の川の間に位置する北宇智地域に所在する五條猫塚古墳は、3点の金銅装眉庇付冑や帯 金具を装着した小札甲などの稀少な副葬品、多数の武器・武具類、多種多様な農工漁具類の出土で知ら れ、さらにそうした出土遺物は古墳時代中期中葉という時代相を大いに反映したものとみなされたため に、非常に高い注目を集めてきた。一方で、そうした古墳時代全期間を通じても他に例をみない顕著な 副葬品が、なぜ一辺 32 mの方墳に過ぎない五條猫塚古墳に納められたのだろうかという至極素朴な疑 問は常に沸き起こる。もちろん、そうした疑問についてはこれまでにも多くの考察がなされ、五條猫塚 古墳の評価として提出されてきた。いずれも説得力のある論考であり、参考すべき意見が多い。  ここでは本研究での出土遺物の再整理成果とそれに基づく考察の深化に導かれながら、五條猫塚古墳 が築造され豊富な副葬品が納められた背景と、五條猫塚古墳の被葬者像についての私案を提示したい。

  2 五條猫塚古墳竪穴式石槨外出土遺物の評価

03-2 第11章 総括(2)解題 五條猫塚古墳_p427-438.indd 427 2016/02/05 9:29:39

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 果たしてこれほどの古墳時代史上稀にみる八面六臂の大活躍を、30 mほどの方墳の被葬者に期待す ることができるのであろうか。そうした稀有の被葬者像を五條猫塚古墳に認めるというのも一案ではあ るが、少なくとも五條猫塚古墳において副葬品全ての様相を被葬者の生前の活動の成果と活動領域の表 象物として被葬者の性格に付与するのはあまりにも非現実的だろう。五條猫塚古墳の総合的な評価は、 個々の副葬品の性格を単純に加えていくだけでは結論として明らかに過剰であり、作業としては不十分 なのである。 (2)竪穴式石槨外出土遺物の評価  石槨外出土遺物の外部性 このように様々な評価がなされてきた五條猫塚古墳とその被葬者像である が、その出土遺物に基づく評価の主要なものである「対外交渉」や「鍛冶工人集団の統括」といった性 格は、竪穴式石槨外出土の遺物から与えられた評価であることには注意が必要である。そしてそれは、 冑3(蒙古鉢形眉庇付冑)、小札甲とそこに装着された帯金具、鍛冶工具、そして時には漁具から与え られた評価である。しかし、今回の再整理作業により、それらに加えて鍬・鋤先と鎌と手鎌という農具、 鉄斧・鉇・鑿に加えて鋸と耳掻き状鉄製品といった木工具、さらには銛に加えてヤスという漁具の存在 についても明らかになった。鍛冶工具として一括して評価されてきたものの中には採鉱用の工具として 考えるべきものが含まれることも示されるなど新たな分析視角も提案されている(第 10 章9岩本考察)。 これまで五條猫塚古墳の主要な評価を担ってきた遺物は、あくまで竪穴式石槨外出土遺物の一部分に過 ぎないのである。果たしてそのうちの特定の資料だけに注目することは方法論上適切であろうか。  新たに判明した出土遺物を含めもう一度石槨外出土遺物の全体像を考えるならば、農業・木工・金工・ 漁業という生業のあらゆる面に及び、さらに個々の分野についても例えば金工では採鉱から細部加工ま で、砥石についても置砥には荒砥から中砥、そして提砥もみられるように、生業あるいは使用に関わる あらゆる段階の用具を取り揃えたという状況であることがわかる。そうした総合的な生業関連の遺物と 類例の少ない武器・武具類が共伴しているのが石槨外の状況なのである。  こうした石槨外の各種遺物は一見無関係で雑多なものの集積のようにもみえる。しかし、それらの遺 物については、以下に示すように「外部性の表象」という視点から一貫した理解をすることができる。  冑3と小札甲・帯金具はこれまでにも何度も論じられてきたように、大陸または朝鮮半島との関係を 示唆する遺物である。環頭剣は装具の形態は不明だが、朝鮮半島で多くみられる環頭大刀との関係の中 で理解できよう。提砥の副葬は朝鮮半島南部との関連でなされたともされる(第 10 章 10 細川考察)。  生業関連遺物については、五條猫塚古墳の被葬者が統括する分野を表象していると考えることも可能 ではあるが、それではあらゆる分野に過剰に及びすぎる点を考えると、むしろ「五條猫塚古墳の被葬者 が直接関与していない分野」とする可能性を提案したい。そのように考えれば、他の地域でなされる生 業の表象として、鍛冶工具や木工関連の遺物は評価することができるし、そうした文脈の中でこそ紀の 川流域には所在するものの海から離れた地で漁具が副葬ないし埋納されたことも理解できる。あるい は、鍛冶工具は大規模鍛冶関連集落である南郷遺跡群を抱える葛城地域との、漁具は紀の川を下った紀 伊水道から瀬戸内海との関係を表象しているのかもしれない。あるいは採鉱具と考えれば、日本列島外 での生産活動とみることもできよう。漁具については「海の向こう」を表象している可能性もある〔魚

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429 津 2010〕。砥石の石材産地に島根県の宍道湖西南付近や徳島県の吉野川付近の可能性があるものがみ られる点も、あるいはそうした外部性との関連の中で評価する余地もあろう(第 10 章 12 奥田考察)。  鉄鏃については「外部性」の実態も多様である。石槨外のみに顕著にみられる形式には、三稜式・二 段腸抉式・大型定角式、それに多数の短茎式がある。第 10 章7の川畑考察で明らかにされたように三 稜式は朝鮮半島東南部で顕著にみられる形式であり、大型定角式に方形の透かし孔を持つものも日本列 島各地に分散し、一部では朝鮮半島でもみられる。短茎式鉄鏃は矢をともなわず鏃だけで交換財として 各地の有力者間を流通した可能性が指摘されている〔川畑 2013〕。もちろん他にも多数の形式があるが、 大阪府アリ山古墳で最大数の集積がなされる二段腸抉式のように、中期に一般的なほかの鉄鏃について は中期型の武器・武具副葬の中心地である百舌鳥・古市古墳群という五條猫塚古墳からみれば「外部」 との関係を表象しているのかもしれない。  飾金具は盛矢具を装飾する金具と考えられるが、蹴り彫りのピッチが非常に粗いなどやや稚拙な造り であることから日本列島製の可能性が高い。であるならば、当該時期に日本列島に流入し始めた金銅装 の胡籙金具をモデルとして改変を加えることで日本列島で製作されたものと考えることもできよう。後 続する資料がみられない点も合わせて考えれば、そうした行為は外来器物を表象・模倣する形でごくご く単発的になされたのであろう。そのように理解するならば、眉庇付冑でありつつも蒙古鉢形として造 られた冑3や切先が諸刃となる特殊な環頭剣という、模倣と改変により外部性が表象されたとみられる 他の器物と同じ性格の中で飾金具は理解できる。完全に同じものを模倣しないという点は重要であり、 帯金具が小札甲に取り付けられるという現象も、同根の現象かもしれない。  外部性の多元性・複層性 以上のように五條猫塚古墳の石槨外出土遺物は、「外部性の表象物」と考 えることで、一貫した理解が可能なのである。そしてその「外部性」については、あくまで想定に過ぎ ないが近くは葛城地域や紀伊水道から瀬戸内海、そして倭王権中枢、日本列島各地、朝鮮半島あるいは 中国大陸と、多元的・複層的な外部性の表象である点が最大の特徴といえる。複層的な外部性の集積こ そが、五條猫塚古墳石槨外出土遺物を通底する根源的な性格なのである(第 240 図)。そうした遺物の 集積状況ゆえに、主要な埋葬施設の竪穴式石槨とは異なる施設にまとめられたのであろう。  複層的な外部性の集積を五條猫塚古墳石槨外出土遺物の性格として理解してよいならば、そこからは 五條猫塚古墳の被葬者が各外部領域において直接的に活動したということよりも、そうした多元的な外 部と関係を持つということの表象こそが五條猫塚古墳石槨外出土遺物に顕れた最大の特徴であったこと が指摘できる。  ただし、それはあくまで「表象」という語を介してこそ理解されるべきものであることは注意が必要 である。先述のとおり冑は蒙古鉢形ではあるものの、あくまで日本列島製の眉庇付冑の脈略の中で製作 されたものである。帯金具の製作地は朝鮮半島である可能性も想定できるが、甲冑とセットで用いられ るという日本列島的な使用法がなされている。環頭剣も切先が諸刃という特殊な剣であり飾金具も胡籙 金具とは違う。いずれもおそらく日本列島製であろう点は重要である。あるいは、湾曲形の腰札を持た ない小札甲についても、帯金具を装着するという点を含めて日本列島でのあり方に合わせて改変・製作 されたものかもしれない(第 10 章5初村考察)。  鍛冶工具に使用痕跡が観察される点は留意が必要だが、石槨外の遺物は多元的な外部との直接的な交 03-2 第11章 総括(2)解題 五條猫塚古墳_p425-436.indd 429 2016/01/05 19:17:45

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(1)竪穴式石槨内出土遺物の評価と類型化  「複層的な外部性の表象」として竪穴式石槨外出土遺物は評価できること、そしてそれが五條猫塚古 墳の被葬者の性格の一端を反映している可能性を指摘した。では、主要な埋葬施設である竪穴式石槨内 出土遺物はどのように評価できるのであろうか。  石槨内出土遺物は地板が市松状に金銅装にされる眉庇付冑2点と、2点の短甲、金銅装の頸甲・肩甲 が特徴的で、それに 100 点を超える鉄鏃に、鉄鉾・刀剣、いくつかの工具類が加わる。特に金銅装の 眉庇付冑は類例が少ないが、2セットの甲冑という点も特徴的である。そうした金銅装の眉庇付冑や2 セットの甲冑といったいくつかの特徴を共有する古墳には、福井県向出山1号墳第1主体や大阪府西小 山古墳があり、全貌は不明だが滋賀県塚越古墳も同様の類型の中で理解できる。眉庇付冑の金銅装の範 囲には違いがあるが、兵庫県小野王塚古墳、福岡県稲童 21 号墳も類似したセットといえる。盗掘のた 第 240 図 竪穴式石槨外出土遺物の外部性概念図

  3 五條猫塚古墳竪穴式石槨内出土遺物の評価

渉で入手したものだけではなく、それらの表象物として生産されたとみられるものも多く含まれてい る。五條猫塚古墳の被葬者の活動そのものを反映している可能性もあるが、観念的な領域での表象物が、 実際に使用されたものであろうとわざわざ造られたものであろうと集積されているといえる。数ある遺 物・副葬品の中で、もっとも身近な生業を表象するであろう農具だけが雛形化されるのと通底する現象 といえるかもしれない(第 10 章8魚津考察)。

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431 め全貌は不明であるが鹿児島県神領 10 号墳も同様のセットであろうか。眉庇付冑を直接金銅装とせず、 金冠状の金銅製品を鋲留するものだが、佐賀県西分円山古墳も参照できる。これらの2セットの甲冑と 金銅装の眉庇付冑という五條猫塚古墳石槨内出土と類似した副葬品構成の古墳を1類型と仮称する。  いま、これらの古墳の様相を第 17 表に提示したが、1類型の古墳は、神領 10 号墳を除いて円墳・ 方墳のみで占められており、九州北部の2古墳を除いて竪穴式石槨(あるいは礫槨)を採用しているな ど、これらの諸古墳の墳形や埋葬施設の特徴には比較的高い関連性が認められる。ただし、稲童 21 号 墳の竪穴系横口式石室も構造が竪穴式石槨に非常に類似しており、同様の性格で評価してよいだろう。 副葬品についても、顕著な玉類の出土がみられず、また甲冑は2セットあるにも関わらず、頸甲・肩甲 が1セットしかみられない点も共通点である。鉄刀・鉄剣は西小山古墳の 23 点が最大だが、他の古墳 では中期古墳としてはやや数量的に乏しい点、鉄鏃は 70 点ほどから五條猫塚古墳の 177 点までとやや 幅があるが、さほど突出したものはない点も共通点といえようか。鉄鉾も数点がみられる。甲冑のセッ ト関係と合わせて、墳形・埋葬施設・副葬品構成の総体として比較的高い共通性を持つ一群として抽出 できるのである。  参考までに、同じく中期中葉のいくつかの古墳もあげたが、同じく地板が市松状に金銅装とされる眉 庇付冑を持つ古墳でも、甲冑が1セットの大阪府御獅子塚古墳第2主体や1セットの出土しか知られな い三重県佐久米大塚山古墳は、墳形は前方後円墳で御獅子塚古墳は木棺直葬であるなど、先に述べた一 群とは様相が異なっている。これら2古墳を2類型と仮称する。ただし、佐久米大塚山古墳については、 第 10 章3の川畑考察で示されたように、金銅装眉庇付冑はやや新しく位置づけられ、鉄鏃も長頸鏃が みられるため、中期中葉よりもやや新しい段階に位置づけられる可能性も高い。 第 17 表 中期中葉の副葬品の諸類型 銅     鏡 玉     類 眉 庇 付 冑 衝 角 付 冑 短     甲 小 札 甲 頸     甲 鉄 刀 ・ 鉄 剣 鉄     鏃 鉄 鉾 ( 石 突) 農 工 具 類 そ の 他 五條猫塚 石槨内 方 32m 竪石 1 3 2 2 ○? 1 3+ 177+ 4(1) 鉄斧1 鑿1 鉇1 刀子1 向出山1号 1号石室造円 56m 竪石 2 50+ 2 ? ○ 1 ○ 105+ 5(5?)+ 鍬鋤先1 刀子1 砥石2 鉸具須恵器 土師器 西小山 円 40m 竪石 16 1 1 2 ○ 1 23 107 2 鉸具1 貝殻 塚越 方 45m 不明 1 1 1 2 1 8 11 小野王塚 円 45m 竪石 1 1 2 1 6 76+ 1 蕨手刀子10+刀子2 ヤス3 三輪玉5 鎹3 釘1 稲童21号 円 22m 横口 1 37 1 2 1 4 70+ 3(1)U字形鍬鋤先1鉄斧2 脛当 三輪玉 轡 鉸具 神領10号 方円 55m(舟形石棺)礫槨 9 1 1 2 1 ○ ○ 篠状鉄札 胡籙 西分円山 円 46m 横室 ○ 1 1 1 ○ ○ ○ 蕨手刀子 鉇 御獅子塚 第2主体 方円 55m 木直 1 1 1 4 184 4(1) 1(2) 鎹 盾 佐久米大塚山 方円 45m 不明 3 3 1 1 4 ○ 下北方5号 円 22m 地下横 2 640 1 2 1 5 50± 4(1)鉄柄付手斧1 鉄斧5鎌3 鑿1 金製垂飾付耳飾 鞍金具 杏葉 轡 鐙 三環鈴 馬鐸 市尾今田1号 円 22m 木直 250+ 1? 2+? 1 ○ 160+ ○(1) 鉄手斧 茶すり山 第1主体 円 86m 木直 3 1241 2 2 1 64 389 19 鉄柄付手斧2 鉄斧4 刀子5 針1+ 七観 東槨 円 55m 木直 2 2 2 6 鉄柄付手斧2 龍文透彫銙帯金具 略称は以下の通り 類 型 1a 1b 2 3 古 墳 名 墳 丘 規 模 墳 形 埋 葬 施 設 主な出土遺物 金銅装の甲冑を含むもの(帯金具付帯を含む) 墳形 円:円墳 方:方墳 方円:前方後円墳 造:造り出し付 埋葬施設 竪石:竪穴式石槨 木直:木棺直葬 横口:竪穴系横口式石室 横室:横穴式石室 地下横:地下式横穴 03-2 第11章 総括(2)解題 五條猫塚古墳_p427-438.indd 431 2016/02/23 19:12:50

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 同様に2セットの甲冑が出土しているが金銅装の眉庇付冑がみられない古墳として、宮崎県下北方5 号地下式横穴墓(もう1段階新しく位置づけられる可能性が高い)、奈良県市尾今田1号墳(短甲は2 点よりも多かった可能性が高い)、兵庫県茶すり山古墳第1主体、大阪府七観古墳東槨をあげたが、こ れらについては円墳のみで占められ、埋葬施設は下北方5号地下式横穴以外は木棺直葬で共通する。ま た、大半が攪乱により失われていた七観古墳東槨を除いて、これまでにあげた古墳とは異なりいずれも 多量の玉類が出土しており、さらに鉄柄付手斧が出土しているという点でも共通する(2)。金銅装の眉 庇付冑を持つ一群とはまた異なる墳形・埋葬施設・副葬品構成として類型化ができるのである。これら の古墳を3類型としよう。  以上のように、中期中葉において2セットの甲冑や金銅装の眉庇付冑を出土した古墳を中心にあげた が、墳形・埋葬施設・副葬品の構成として、1~3類型としたようにいくつかの類型化が可能なのである。 ちなみに、これらいずれの類型においても、かなり高い頻度で鉄製の石突をともなう形で鉄鉾がみられ る点は注目できる。その場合、現状で鉄鉾の出土が知られない塚越古墳・神領 10 号墳・七観古墳東槨 はいずれも盗掘を受けているという点についても留意する必要があるだろう。いずれにしろ、これらの 類型のいずれにおいても、鉄鉾が副葬品の基礎的な組成として含まれていた可能性も想定してよい。  その一方で、馬具については稲童 21 号墳・下北方5号地下式横穴墓にしかみられず、副葬される頻 度が低い点も一つの傾向として指摘できる。ただし、これら馬具を出土した2例は長頸鏃や横矧板鋲留 短甲といったやや新しい副葬品が含まれており、馬具副葬の有無は時期的な違いによる流通量の違いを 反映しているだけかもしれない。なお、後述するようにこれらの類型は古墳の立地や交通路との強い関 係性を持っている可能性があり、そうした点から馬具の有無を評価することも可能かもしれない。  また、三角板革綴短甲を2点出土した古墳は五條猫塚古墳だけであるなど(第 10 章4阪口考察)短 甲の形式には違いがある点には注意が必要である。  話がやや逸れた感があるが、五條猫塚古墳が含まれる1類型については、五條猫塚古墳例と同じく地 板を金銅装とする眉庇付冑を持つ一群を1a 類型、地板を金銅装としない眉庇付冑を持つ一群を1b類 型として細分できる。五條猫塚古墳の石槨内出土遺物を評価するためには、より類似した墳形・埋葬施 設・副葬品構成を持つ古墳との比較が不可欠であるため、続いて1a 類型とした古墳を検討しよう。 (2)古墳の立地と古墳群の構成  では、1a 類型の古墳には上記の要素以外にも共通性があるのだろうか。ここで、少し視点を変えて 各古墳の立地や古墳群の構成から検討したい(第 241 図)。  五條猫塚古墳は、葛城地域から金剛・葛城山麓裾の狭隘部を抜ける風の森峠を越えた北宇智の微丘陵 上に所在する。南進すれば紀の川に達し、後の紀伊に至る。多数の円墳・方墳からなる近内古墳群に含 まれ、近内鑵子塚古墳(円 85 m)が嚆矢となり、丸山古墳(円 37 m)・西山古墳(方 54 m)が先行し、 五條猫塚古墳・つじの山古墳(方 52 m)・塚山古墳(方 24 m)の築造時期が近接し、今井1号墳(前 方後円 35 m)がやや遅れるとみられる(第 10 章 11 加藤考察)。  向出山1号墳は、近江から北上し、詳細な位置は確定していないが愛発関を抜けた敦賀平野南東部の 微高地である向出山の山頂に所在する。北陸道への入り口にあたり、また西方に目を向ければ若狭か

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433 第 241 図 五條猫塚古墳と関連古墳の立地 想定される古代道路 奈良盆地 琵琶湖 大阪平野 近江盆地 若狭湾 琵琶湖 大阪湾 奈良盆地 琵琶湖 大阪平野 近江盆地 五條猫塚古墳 五條猫塚古墳 塚越古墳塚越古墳 西小山古墳 西小山古墳 向出山1号墳 向出山1号墳 若狭湾 琵琶湖 大阪湾 和歌山平野 伊賀→ 伊 勢 北 陸 道 加 賀 → 淡路 → 美 濃 → 伊賀→ 伊 勢 大阪平野 北 陸 道 加 賀 → 淡路 → 美 濃 → 奈良県五條猫塚古墳 滋賀県塚越古墳 福井県向出山1号墳 大阪府西小山古墳 紀伊水道 紀伊水道 03-2 第11章 総括(2)解題 五條猫塚古墳_p425-436.indd 433 2016/01/05 19:17:47

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らの結節点とみることもできる。中郷古墳群に含まれ、小谷ヶ洞4号墳(円 25 m)・立洞2号墳(帆 立貝形 24 m)・明神山1号墳(前方後円 47 m)・明神山3号墳(円 35 m)・向出山1号墳(造出付円 56 m)・向出山3号墳(円 15 m)という継続的な築造順序が想定されている。  塚越古墳は近江平野から、後に「横田渡し」としても知られる狭隘部を越えた水口盆地の入り口付近 に所在し、伊勢へ向かう東海道と伊賀へ通じる倉歴道の結節点・分岐点にあたる。西鑵子塚古墳(造出 付円 60 m)と東鑵子塚古墳(円 42 m)とともに泉古墳群を構成し、両古墳に後続する。  西小山古墳は和泉丘陵が大阪湾岸に張り出す貝掛付近の狭隘部を越えた淡輪に所在する。大阪湾の入 り口に近在し、海岸沿いを西から南に進んだ加太からは淡路へと至ることができる。西陵古墳(前方後 円 210 m)、宇度墓古墳(淡輪ニサンザイ古墳:前方後円 175 m)と共に淡輪古墳群を構成する。埴 輪からはもっとも先行する可能性が指摘される(第 10 章 11 加藤考察)。  以上の五條猫塚古墳と非常に近似した埋葬施設・副葬品構成である1a類型とした4古墳は、いずれ も古代の重要な交通路上の狭隘部を抜けた盆地や平地という交通の要衝に立地することが指摘できる。 また、埴輪の位置づけから西小山古墳のみ例外となる可能性もあるが、各地域の古墳群内でもっとも先 行するようなものでもない。前方後円墳ではない円墳や方墳で、墳丘形態や規模なども連続的に築造さ れてきた古墳群内の脈絡の中で理解が可能である。墳丘規模も古墳群内で突出した様相はなく、むしろ 比較的小型の場合すらある。にもかかわらず、埋葬施設については古墳群内での脈絡を越えて竪穴式石 槨が使用されているのである。 (3)領域性の問題  こうした古墳の様相・古墳群内での位置づけ、さらには立地という点でも高い共通性を持つ1a類型 の4古墳についてはどのように評価できるのだろうか。これらの4古墳の立地の共通点はいずれも古代 の重要な交通路上で丘陵の狭隘部を抜けたという点であるが、その中でも示唆的なのは向出山1号墳の 立地、すなわち向出山1号墳が所在する敦賀平野との境界を画するのは古代三関の一つである愛発関で あるという点である。そうした理解を他の3古墳にまで敷衍するならば、これらの古墳の立地は特定の 「領域」を画する地点を抜けた別個の小領域としてさらに踏み込んで理解することができる。  そのような特定の「領域」を画する地点を抜けた地として1a類型の4古墳の立地を理解し、さらに それらの古墳が各地での古墳群内での連続的な造営という脈絡の中で位置づけられる点を加味すれば、 1a類型の古墳は特定の「領域」を画するという特異な地の在地勢力の構成員として理解できる。そし て4古墳の所在地からその「領域」を倭王権からみた領域とするならば、共通性の高い副葬品や埋葬施 設と合わせて考えると、倭王権にとっての一つの「領域」を画する地の在地勢力が、各地域で共通する 特定の役割を担って倭王権との何らかの関係を構築した姿として理解できよう。共通する特定の役割を 持って倭王権との関係を構築したがゆえに、共通性の高い器物を入手し、副葬したのであろう。  こうした「領域」の一つの可能性としては、例えば倭王権が自己の内部領域として認識するような「プ ロト畿内」のようなものを想定することもできる。のちの畿内につながるような、倭王権による内部領 域の形成については、窯業生産・鍛冶生産・玉作り・馬匹生産・塩生産といったさまざまな生産地の計 画的な配置が5世紀前半から中頃になされることから、当該時期に倭王権による領域に対する一定の支

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  4 中期中葉という時代相と五條猫塚古墳の総合的評価

(1)中期中葉という時代相の中での評価  墳形・埋葬施設・副葬品構成の特徴から設定した1a類型をはじめとする諸類型は、あくまで中期中 葉という限られた時期において設定したものである。こうした類型化がのちの時期においても可能であ るのか、それとも中期中葉という倭王権の内部領域が確立するという特殊な時代ゆえの現象であるのか どうかは今後さらなる検討が必要である。  古墳時代中期は渡来系要素による技術革新の時代として評価されてきた。須恵器(窖窯)の導入や農 具の刷新、馬具の本格的導入と馬匹生産の開始、金工や鋲留技術の導入などが代表的であるが、それら は現在の編年観からすれば、中期中葉における単発的な導入というよりも、多数の渡来系技術が複数回 に渡って断続的に導入され、それぞれ定着を果たしたものとして理解できる。中期にみられる渡来系要 素の特徴とは、前期前半の中国大陸由来の器物の流入や、前期後半の朝鮮半島系遺物の導入とは異なる、 生産体制の断続的な移植として評価できる。そうした断続的な移植が継続しつつも、それらを倭王権が 計画的に自身の内部領域に配置できる体制の確立こそが中期中葉の画期性なのであろう。  五條猫塚古墳の帯金具や環頭剣・蒙古鉢形の冑・金銅装の甲冑などはそうした渡来系要素の流れの中 にあるのは間違いないが単発的な存在であり、その後の長期間に渡る定着がみられないデザイン要素と いえる。そうした定着しない要素についても留意する必要がある。あらゆる渡来系の要素がそのまま変 容を遂げつつ定着するようなことはなく、定着するものとしないものが雑多に出現と消滅を繰り返す時 代こそが中期の特徴なのである。そして、そうした技術やデザインの盛衰の中で生産された器物が1a 類型のような特異な性格を付与された古墳に集中的にみられる点からは、倭王権が各地域との交渉を果 たす上で重要な意図を持って技術やデザインの導入を果たしたことが想定できる。技術の移植は発信者 である朝鮮半島だけではなく、日本列島におけるおそらく極めて政治的な要請とも絡み合いつつなされ たのであろう。そして、そうした断続的な技術の移植といういわば外に大きく門戸を開いた時代相があっ 配権が確立したとされている〔菱田 2007〕。先にみた倭王権の領域性と合わせて理解できる特定類型 の古墳の出現が、手工業生産からみた倭王権の内部領域の成立とほぼ時期を同じくするという点は、非 常に示唆的である。古墳時代中期中葉を前後する段階に「プロト畿内」のような倭王権の内部領域が成 立したこと、そしてそうした領域の成立と表裏一体の関係によりその領域外の直近の地に1a類型のよ うな諸古墳が成立したと考えたい。  このように考えてよいならば、1a類型の古墳は、そうした「プロト畿内」のような倭王権の内部領 域に接する地の在地勢力のいち構成員が、中期中葉に至って畿内倭王権と結びつき登用され、それにと もない共通性の高い器物が授受されたと評価することが可能であろう。そうした倭王権の意図と領域認 識、各地域の有力者の意図と領域認識が均衡する特異な立地と、最新技術による金工品の生産と授受と いう時代性が合わさって1a類型の古墳は成立したものと理解できる。五條猫塚古墳竪穴式石槨内の副 葬品構成は、そうした脈絡の中で確立したのだろう。特異な副葬品構成として知られる五條猫塚古墳で あるが、石槨内出土遺物に限ってみるならば、各地の古墳と同様の類型として理解できるのである。 03-2 第11章 総括(2)解題 五條猫塚古墳_p425-436.indd 435 2016/01/05 19:17:47

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 五條猫塚古墳出土遺物の再整理の成果に基づき、五條猫塚古墳の築造背景について私案を提示した。 時期を限定した検討ではあるものの、副葬品の構成や特質・墳丘の形態と規模・埋葬施設の構造・古墳 の立地・古墳群内での位置づけという、一つの古墳が持つ多様な要素を単純化して類型化することにつ いてはまだまだ課題が多い。さらにそれを倭王権の領域論と合わせて評価することの妥当性についても はなはだ論拠に乏しく、かえって地域史的な脈略からの理解を見え辛くしてしまったかもしれない。議 論が牽強付会に過ぎた部分も多かったかと感じるが、五條猫塚古墳の新たな評価として、さらには「古 墳」というものを読み解くための一つの方法論として提案したい。  もし、こうした類型化と理解に妥当性が認められるならば、倭王権と各地域の関係を新たな視点から 整序することも可能になろう。古墳を構成する副葬品や埴輪の様式は被葬者の一体何を表すのか、埋葬 施設の構造差はどういった基準によって決定されるのか、主体的な埋葬施設とは別に副次的な施設が構 築されるのはどういった時なのか、そして前方後円墳や円墳・方墳といった墳丘の形態差は何によって 規定されるのか。そうしたごくごく単純な疑問についても、あるいはこうした類型化と分析からいくつ

  5 おわりに

てこそ、石槨外の副葬品にみられるような顕著な外部性の表象という性格が構築されたのであろう。そ れらの背景に倭の五王による対中国交渉という特殊な事情をみることも可能である。 (2)総体としての五條猫塚古墳の評価  以上のように、竪穴式石槨内・石槨外の副葬品を弁別することで、五條猫塚古墳はそれぞれ明確な特 徴を持つ二つの相として理解できることを示した。一つは倭王権の領域性と各地域の勢力との諸関係の 均衡により現れる石槨内の様相であり、一つは多層的な外部性の表象という性格が顕在化した石槨外の 様相である。そして、両者共に古墳時代中期中葉という特殊な時代相の中で培われたものである。  古墳時代社会の中における五條猫塚古墳の意義・位置づけは前者から可能であり、さらにその中での 特殊性・独自性は後者から見て取ることができるが、ではなぜ、二相の共存という他の古墳にはみられ ない特徴が五條猫塚古墳に現れたのかという疑問は残る。その解題は非常に困難だが、先に1a 類型と した立地に高い共通性を持つ4古墳のうちでも、さらに特殊な立地がそれを可能にしたとみるのも一案 である。すなわち、渡来系要素の分布からみて日本海側のルートよりも瀬戸内海ルートが対外交渉ルー トとして相対的に重要性を増したとみられる中期の中でも、南郷遺跡群を擁する葛城地域からさらに北 方に備える馬見古墳群にかけて大型前方後円墳の築造が継続する中期前半に、それらの地から大阪側を 経由しない海洋へのルート上にあるという点が、顕著な外部性の集中を可能としたとする考えである。  あるいは、そうした各地域にそれぞれあまりに近在しすぎないという絶妙のバランスを備えた位置 が、決して一つの相に偏りすぎない複層的な外部性の集積をもたらしたのかもしれない。もちろん、そ うした背景を持ちつつも五條猫塚古墳の被葬者の類い稀な才覚が果たした役割も大きかったであろう。 時代相・立地・個人的な活動という三者が合わさって現在我々が知る五條猫塚古墳の総体が造り上げら れたのであろう。

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437  謝  辞 本稿は足かけ 10 年に渡り共に五條猫塚古墳の再整理・再報告作業を進めてきた五條猫塚古墳研究会 の各氏による作業成果、意見交換や議論、さらには頂戴した多くのご批判により成り立っており、また、各氏の多 様な考察や研究成果を受けたものである。その意味で、筆者個人名義による点は必ずしも適切ではないが、各氏の ご厚情・ご配慮により総括中での掲載とさせていただいた。篤くお礼を申し上げたい。本稿中において事実関係や 各氏の論考についての誤謬や誤認、論理の破綻等があった場合、それは全て筆者の責による。 <註> (1) 五條猫塚古墳の研究史上の位置づけと被葬者像については本書「第 11 章1 五條猫塚古墳の研究史と出土遺   物再整理の成果」をご参照いただきたい。 (2) ただし、市尾今田1号墳では「鉄手斧」として報告されており、鉄柄付手斧のことを示しているのかどうか   確定できない。鉄斧とは別個に報告されているため、可能性として提示しておく。 <参考文献> 網干善教 1962 『五条猫塚古墳』 奈良県史跡名勝天然記念物調査報告第 20 冊 奈良県教育委員会 梅原末治 1932 「淡輪村西小山古墳とその遺物」『大阪府下に於ける主要な古墳墓の調査(其一)』大阪府史蹟名     勝天然記念物調査報告3 大阪府教育委員会 魚津知克 2010 「古墳時代社会における鉄製漁具副葬行為の意義」『遠古登攀 遠山昭登君追悼考古学論集』      遠古登攀刊行会 pp.425-451 近江俊秀・亀田 博・坂 靖 ほか 1993 『鴨神遺跡』 奈良県文化財調査報告書第 66 集 奈良県立橿原考古学     研究所 川畑 純 2013 「古墳時代の矢の構造」『考古学研究』第 60 巻第1号 考古学研究会 pp.13-33 神庭 滋 2005 「近内古墳群と葛城」『かづらき』4 葛城市歴史博物館 pp.45-56 古代交通研究会 2004 『日本古代道路事典』 八木書店 かの新たな理解にたどり着くことができるかもしれない。  本研究での最大の成果は、なによりもこれまでに資料化がなされていなかった多くの遺物について実 測図の作成や写真・X 線画像の撮影といった資料化を果たしたことにつきる。それにともない、新たに 多くの器種の存在が判明し、詳細な形態や製作技法を解明し、またそれらの出土位置の認定を試みた。 新たな器種の判明は五條猫塚古墳副葬品のさらに豊かな性格を浮かび上がらせ、詳細な形態や製作技法 の解明は今日的な編年論・分布論中での議論を可能とし、出土位置の認定は五條猫塚古墳の特質を解き 明かすための一つの糸口となった。本稿でおこなった、竪穴式石槨内外出土遺物をそれぞれ別個に評価 し両者を統合することで五條猫塚古墳の総合的な評価を試みるという方法は、こうした基礎的な資料の 再整理成果なくしては成り立たない。改めて基礎的な整理作業の重要性を痛感させられる。  一方で、こうした分析により、五條猫塚古墳の性格をより詳細に追究する上で埋葬施設の構造や石槨 内・石槨外の関係性を解明する必要性がより明確になったといえる。再び地域的な脈絡の中に五條猫塚 古墳を位置づけ理解するためには、埴輪や墳丘の情報にもまだまだ不明な点が多い。出土遺物の情報を 明らかにし後世に伝え残していくと共に、新たな問題意識の下、今後の発掘調査の進展による次なる再 検討の重要性が益々高まってきたといえるだろう。 03-2 第11章 総括(2)解題 五條猫塚古墳_p427-438.indd 437 2016/02/23 19:13:09

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<図版出典> 第 240・241 図 筆者作成 第 17 表 筆者作成 <遺跡文献> 佐久米大塚山 下村登良男ほか 1978 「佐久米古墳群」『松阪市史』第二巻資料編考古 松阪市 pp.396-403 向出山1号 中司照世・山口 充 1978 「向出山古墳群出土の副葬品」『北陸自動車道関係遺跡調査報告』13    福井県教育委員会 pp.95-110、初村武寛 2015 「日本列島における導入期小札甲の構造と副葬の背景」    『研究紀要』第 19 集 由良大和古代文化研究協会 pp.1-36 塚 越 林 修平・細川修平 2012 『古代甲賀の首長と副葬品―塚越古墳出土遺物調査報告―』甲賀市史編    纂叢書第8集 甲賀市教育委員会 五 條 猫 塚 網干善教 1962『五条猫塚古墳』奈良県史跡名勝天然記念物調査報告第 20 冊 奈良県教育委員会、    吉澤 悟・川畑 純・初村武寛 2014『五條猫塚古墳の研究』報告編 奈良国立博物館 市尾今田1号 今尾文昭 1983 「高取町市尾今田古墳群発掘調査概報」『奈良県遺跡調査概報―1981 年度―』    奈良県立橿原考古学研究所 pp.439-451 御 獅 子 塚 柳本照男 2005 「御獅子塚古墳」『新修豊中市史』第4巻考古 豊中市 七 観 末永雅雄 1933「七観古墳とその遺物」『考古学雑誌』第 23 巻第5号 日本考古学会 pp.21-36、    樋口隆康・岡崎 敬・宮川 徏 1961「和泉国七観古墳調査報告」『古代学研究』第 27 号 古代学研究会    pp.1-24、阪口英毅(編)2014『七観古墳の研究―1947 年・1952 年出土遺物の再検討―』京都大学大学    院文学研究科 西 小 山 梅原末治 1932 「淡輪村西小山古墳とその遺物」『大阪府下に於ける主要な古墳墓の調査(其一)』    大阪府史蹟名勝天然記念物調査報告3 大阪府教育委員会 小 野 王 塚 阪口英毅(編) 2006 『小野王塚古墳出土遺物保存処理報告書』小野市文化財調査報告第 27 集     小野市教育委員会 茶 す り 山 岸本一宏(編) 2010 『史跡茶すり山古墳』兵庫県文化財調査報告第 383 冊 兵庫県教育委員会 稲 童 21 号 山中英彦(編) 2005 『稲童古墳群』行橋市文化財調査報告書第 32 集 行橋市教育委員会 西 分 円 山 佐賀県教育委員会 1964 『佐賀県の遺跡』佐賀県文化財調査報告第 13 集 下北方5号 野間重孝(編) 1977 『下北方地下式横穴第5号』宮崎市文化財調査報告書第3集 宮崎市教育委     員会 神 領 10 号 橋本達也 2010 「古墳築造南限域の前方後円墳―鹿児島県神領 10 号墳の発掘調査とその意義―」    『考古学雑誌』第 94 巻第3号 日本考古学会 pp.65-79 中司照世 1978 「敦賀地域の首長と畿内王権」『北陸動車道関係遺跡調査報告』13 福井県教育委員会 pp.86-    94 坂  靖 1991 『近内古墳群』奈良県文化財調査報告書第 62 集 奈良県立橿原考古学研究所 菱田哲郎 2007 『古代日本 国家形成の考古学』シリーズ諸文明の起源 14 京都大学学術出版会 前坂尚志 2014 「県指定史跡 猫塚古墳(第3次調査)」『大和を掘る』32 2013 年度発掘調査速報展 奈良県立     橿原考古学研究所附属博物館 p.18 門田誠一 1982 「大和政権の交通的条件」『考古学と古代史』同志社大学考古学シリーズⅠ 同志社大学考古学     シリーズ刊行会 pp.341-350 和田 萃 1979 「紀路と曽我川―建内宿祢後裔同族系譜の成立基盤―」『古代の地方史』第3巻 畿内編 pp.122-    150

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総括編

    

発行年月日

  2015(平成 27)年 12 月 28 日

        

    

発   行

  奈良国立博物館

       〒 630-8213 奈良市登大路町 50 番地        TEL 0742-22-7771

    

印   刷

  株式会社 天理時報社

       〒 632-0083 天理市稲葉町 80 番地 03-3 第11章 総括(3)_p439-443.indd 443 2016/02/05 9:31:20

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