Title
律令国家の成立と皇位継承 : 直系継承と官僚制
Sub Title
Establishment of ritsuryo state and succession of imperial throne : lineage succession and public
bureaucracy
Author
笠原, 英彦(Kasahara, Hidehiko)
Publisher
慶應義塾大学法学研究会
Publication year
2019
Jtitle
法學研究 : 法律・政治・社会 (Journal of law, politics, and
sociology). Vol.92, No.12 (2019. 12) ,p.43- 81
Abstract
Notes
研究ノート
Genre
Journal Article
URL
https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00224504-2019122
8-0043
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一、はじめに 二、壬申の乱と近江朝廷の脆弱性 三、天武政権の再評価と皇親政治 四、持統女帝の権力資源と草壁直系 五、皇位継承ルールと不比等政権 六、おわりに
一、はじめに
本稿の目的は、七世紀末から八世紀前半にかけて、皇位 継承ルールがしだいに世代内継承から直系継承へと変更さ れた政治的背景をより一層明確化するために、天智政権と 天武政権の実態を再検討し、律令国家の形成と皇位継承と の関係をより深く理解することにある。 そこでまず第二章においては、天智政権の脆弱化と壬申 の 乱 の 勃 発 と の 関 係 を 検 討 す る。 か つ て 直 木 孝 次 郎 氏 は、笠
原
英
彦
律令国家の成立と皇位継承
――
直系継承と官僚制
――
研究ノート
天武から持統所生の草壁への継承に天武政治の制度化が必 要とされ、律令の編纂が推進されたとの見解を示した (1 ( 。し かし、筆者は無条件に直木説にはしたがい難い。なぜなら、 天武政治の最大の特色ともされる皇親政治は天武のカリス マ性に立脚した一時的現象であり、律令制の根幹となるこ とはなかったからである。また、森田悌氏が指摘するよう に、乙巳の変における中大兄の功績とその実力をもってす れば、卑母所生の大友への直系継承は容易であったとする 説にも俄かに賛同しかねる (2 ( 。一方、書紀の記事にしたがっ た政権末期の近江における天智と大海人とのやり取りに対 する倉本一宏氏の解釈は妥当なものと考えられる (3 ( 。しかし 倉本説にも補強の余地があり、近江朝廷においては依然と して古来の世代内継承が有力で大友の擁立という選択肢は 必ずしも現実的ではなかった。筆者は大海人が即位を辞退 したのは、あくまで「近江大津宮での即位」を嫌ったため と考える。近江朝廷の脆弱性が壬申の乱を引き寄せた側面 を視野に入れる必要があろう。 第三章では、やはり律令国家の成立と皇位継承の関連性 を考察する前提として、天武政権を再評価したい。書紀の 編纂者は勝者である天武の治世について厳しい実情を率直 に描き出している。かねてより、筆者はかかる事実をもっ と重く受けとめねばならないと考えてきた。こうした点を 明確化するには、書紀の最終編纂段階を扱った不比等政権 を視野に入れる必要がある。遠山美都男氏は、天武と持統 が天智王朝を衰亡させた奸臣を掃討したが、不運にも大友 は奸臣らに擁せられたという。筆者はこれに対し、もしそ う し た 情 勢 な ら 天 武 ら は 近 江 朝 廷 に 残 っ て 当 面 主 導 権 を 握ったと考える。もう一つの重要な論点として皇親政治を 取り上げ、天武政権にはこれを推進するだけの権力基盤を 欠いていたとの仮説の実証をめざした。その際、倉本氏ら が提示した皇親政治の新たな見方にも検討を加えた。 第四章では、持統女帝の後半生を視野に入れつつ、天智 を父とし天武を夫とする持統がいかに権力資源を蓄積、活 用しながら、それまでとは異なる継承原理である草壁直系 の実現に向け律令制を完成する軌跡を再検討する。飛鳥時 代後半から奈良時代にかけて多くの女帝が輩出した政治的 背景には中国化の推進に伴い、天皇や皇族、天皇と貴族官 僚の関係を規定するため、皇位継承の安定化など天皇をめ ぐる諸制度の整備が急務となった。そのため持統は律令編 纂など律令制の完成を牽引しうる人材の登用に力を注いだ。 その代表例が藤原不比等であることはいうまでもない。本 章では、これまで持統と不比等の利害関係に矮小化されが
ちであった両者の関係を、女帝の性格の変化や律令国家の 成立といったより広い視野から捉え直してみたい。 第五章において、まず筆者は不比等政権の特徴を、持統 と不比等の提携関係を維持しつつ、天武朝とは異なる政治 路線を選択したことに求めたい。対外関係において、不比 等政権は天武朝の日羅関係に代わって日唐関係を主軸に据 えた。国内政治においては、天武朝の特色とされる皇親政 治に検討を加えた。また倉本氏の研究を踏まえて、天武朝 の政治における、いわゆる「壬申年功臣」の位置づけを再 確認した。すでに述べたように、天智朝末期の近江朝廷の 政 治 基 盤 は 脆 弱 化 し て お り、 天 武 朝 に お い て「 壬 申 年 功 臣」はいわれているほど厚遇されたわけではない。ただし 倉本説を全面的に肯定することはできない。同氏の学説に おいて再検討すべきは、 「皇親の官僚化」の概念であろう。 それは律令官僚制の形成過程の一齣であり、けっして「皇 親 の 官 僚 制 化 」 で な い こ と を 明 確 に し て お き た い。 ま た、 これまでやや軽視されてきた側面として天武朝政治からの 継承点に着眼したい。それは天武朝に緊密化した日羅関係 の影響である。一時的とはいえ唐との外交関係が途絶え新 羅の影響下に浄御原令が成立したことは、太政官制の発展 に依拠した不比等政権の誕生を助長した点は看過できない。 そして不比等が皇位継承ルールを変更する代償として太政 官制を掌握し、天皇を法的枠組みに取り込んだことの意義 を再検討したい。
二、壬申の乱と近江朝廷の脆弱性
日本書紀の最終編纂段階を考慮すれば、書紀は不比等政 権が東アジア外交を有利に展開するべく造られた勅撰の史 書という側面が大きいといわねばならない。そのため、書 紀にはすぐれて政治的な思惑が秘められていたとみられる。 なかでも書紀の伝える神話は、不比等政権のみならず、天 武以降の皇統の正統性を内外に示すために造作された性格 が濃厚である。いうまでもなく、書紀の本格的な編纂事業 は天武朝の頃から開始されていた。しかし、その後編集方 針は天武天皇の意図を離れ、大きく変更を強いられた。方 針転換を主導したのは天武の皇后、後の持統天皇にほかな らない。書紀によれば、皇后は天皇を補佐して天下を治め たとか、朝廷の政事にわたり天皇を支える上で多大の貢献 をなしたとされる。皇后が類い稀な政治力を有していたこ と は ま ち が い な い。 推 古 女 帝 や 皇 極 女 帝 に 認 め ら れ た シャーマニズムの色彩はほぼ払拭され、早くも天武朝後半には持てる政治手腕を遺憾なく発揮したとみられる (4 ( 。 天武が病いの床につくと、朱鳥元年七月には「天下の事 は大小を問わず、悉く皇后及び皇太子に啓せ」との勅が出 されている。直木孝次郎氏は律令の編纂について「天武の あとを草壁につがせようとするならば、天武の政治を制度 化しておくことがまず必要である (5 ( 」とするが、こうした指 摘はいささか見当違いではあるまいか。天武のカリスマ性 に立脚した皇親政治など長続きするはずがなかった。実際 のところ、持統は不比等率いる天智系の臣下ら新興官人層 に政治参加の道を開いたとの見方もできよう。 し か も 政 治 権 力 の 推 移 に つ い て、 皇 后 に は 先 見 の 明 が あったといってよかろう。父、天智天皇は晩年病床に臥せ りがちであった。病いの床に伏せった天智は同皇女の夫で ある「東宮」 (皇太弟 ( 大海人皇子を枕辺に召し、 「朕、疾 甚」とし後事を大海人に託す旨の詔を出した。兄、天智の 怜悧さを誰よりも知悉する大海人が身の危険を察してこれ を固辞したと理解するのが通説である。大海人は大友皇子 ではなく倭姫王を天智の後継者に推し、天皇のために出家 して修道するとして吉野に落ちのびたと書紀は記している。 これが通説といってよかろうが、これに対し倉本氏は天 智紀と壬申紀の微妙な文脈の相違を比較、検討した上で通 説 と は 異 な る 見 解 を 提 示 し、 注 目 さ れ て き た。 倉 本 氏 は 「 天 智 十 年 十 月 十 七 日、 い よ い よ 重 体 に 陥 っ た 天 智 は、 蘇 我安麻呂を遣して、大海人を『大殿』に召した。天智は大 海人に後事を託したが、大海人はそれを固く辞譲して『皇 后』倭姫王の即位と大友の執政(壬申紀では立太子 ( を懇 請し、出家して吉野に入った。というのが『日本書紀』の 記 す 顚 末 で あ る。 ( 中 略 ( こ こ で 史 実 と し て 天 智 の 側 に、 壬申紀の語るような『陰謀』が存在したかどうかは疑わし い。壬申紀にしても、天智が『陰謀』を企んでいたと記し て い る わ け で は な く、 大 海 人 が『 陰 謀 』 を 疑 っ て 慎 重 に なったと記しているに過ぎないのである」との主張は史料 に従った穏当な理解といえよう (6 ( 。 倉本氏はかかる所説を踏まえておよそ二年後に公刊した 著作の中で、よりわかりやすく持説を展開している。行論 の関係上、重複を厭わず続けて引用したい。そこで同氏は、 「 壬 申 紀 で は、 死 の 床 に あ っ た 天 智 が 大 海 人 王 子 を 呼 ん で 大 王 位 を 譲 る と 提 案 し た も の の、 『 隠 せ る 謀 』 の 存 在 を 警 戒した大海人王子がそれを固辞して出家し、吉野に隠棲し たということになっている。壬申の乱の勃発や大海人王子 の即位を正当化しなければならないはずの『日本書紀』に すら、天智が大海人王子を殺害しようとしていたとは書か
れていない。大海人王子の方に何らかの事情があって、勝 手に吉野に退去したとしか読み取れないのである。だいた い、即位を要請しておきながら、それを受諾したら謀反の 疑いで殺害するという文脈にも、無理がある」とする。倉 本氏は、天智は大海人に譲位する意向だったと考える。古 くからもう一方の後嗣に想定された大友は、母が地方豪族 の娘、伊賀采女宅子娘という、いわば卑母であり、よって 実際には大友に大王位を継ぐ資格はないとみなされること が多かった (7 ( 。明らかに、ここで倉本氏は大王位の継承をめ ぐる皇太弟と太政大臣の競合を根底から否定していること になろう。 その後、森田悌氏はこうした倉本氏の主張を退けた。森 田 氏 は そ の 理 由 に つ い て、 「 卑 母 所 生 が 皇 位 継 承 に と り 不 利な条件となることは言うまでもないが、乙巳の変では文 字通り自ら剣をとり蘇我入鹿に切りつけクーデタを実現し てその後の改新政治を主導し、孝徳天皇の拒絶を無視して 倭京帰還を強行する程の強烈な意思の持主である天智天皇 にとり、卑母所生が自分の息子を後嗣とすることにさほど の障害になったとは考え難いのではないか。乙巳の変の成 功は中大兄皇子、天智天皇に他を圧倒する政治的権威を与 えたはずであり、後嗣の問題に関し慣習に背くようなこと が あ っ て も、 廷 臣 が 異 論 を 持 ち 出 せ る よ う な 状 況 で は な かったと考えられるのである」と説明する (( ( 。 倉本氏の主張も説明不足の感が否めないが、森田氏の批 判もかなり粗削りの印象が拭えない。第一、乙巳の変と壬 申の乱では三〇年近い時代の隔たりがある。その間、実母 の皇極は重祚して斉明となり中大兄即位のための時間を稼 ぎ、白村江の敗戦により中大兄は六年余にも及ぶ称制を余 儀なくされたのである。したがって、このときにもはや天 智 に「 他 を 圧 倒 す る 政 治 的 権 威 」 な ど あ ろ う は ず も な く、 森田氏の説には与せない (9 ( 。一方、倉本氏の説を補強すると すれば、依然として近江朝廷にあっては古来の世代内継承 が有力であったことがあげられよう。後世、元明即位の宣 命に初めて登場する「不改常典」はあくまで持統・不比等 らに都合よく天智に仮託されたものとみなすべきで、天智 が直系継承を志向したというよりも、それは結果論にすぎ ない。よって、天智が世代内継承を尊重したことに不自然 さはなかろう。倭姫王の名があがったのもそのためにちが いない。倉本氏が指摘するように、大友の擁立という選択 肢は当時、必ずしも現実的ではなかったと筆者も考える。 そ れ で は、 倉 本 氏 曰 く「 ( 大 海 人 王 子 が 即 位 を 断 り ( 勝 手に退去した」のは何故か。後述するように、筆者は大海
人が即位を拒否したとすれば、それは「近江大津宮での即 位」を嫌ったためであろうと推察する。近江朝廷の権力基 盤が余りに脆弱化していたというのがその理由である。か くして、皇女も草壁皇子ら幼子の手を引きながら大海人と 行を伴にし、一路吉野離宮をめざした。才気煥発な皇女は 近江朝廷の末路を的確に予見し、父の天智を後に残して夫、 大海人に付き従ったのである。おそらく皇女は何の迷いも なく、豪族らの支持を失い弱体化した近江朝廷に見切りを つけたにちがいない。その研ぎ澄まされた感性としたたか さは、まぎれもなく父譲りであったといってよかろう ((1 ( 。 古代最大の内乱とされる壬申の乱における吉野方の圧勝 により、天武は漢の高祖に比肩されるほど英雄視され、天 皇のカリスマ性は一挙に高まった。賊軍が朝廷を降したの であるから、けだしかかる反応を醸成したとしても不思議 はなかろう。しかし、これは中央の事情に疎い東国の中小 豪族層の大海人に対する熱狂的支持に発するものであった とみられる。近江朝廷の情勢に通じた中央の有力豪族らは 朝廷の弱体化と限界を知悉していたにちがいない。その後 の大伴吹負らの背信行為がそれを象徴しているといえよう。 吉野へ向かう大海人一行を見送った近江朝廷の官人らがい みじくも「虎に翼をつけて野に放つが如し」とした後顧の 憂いは見事に的中したのである。朝廷の政治基盤の脆弱化 は政権首脳部に共有されていたであろう ((( ( 。 さすがの天智も出家するという「同胞」に刃を向けられ な か っ た と よ く 説 明 さ れ る が、 果 た し て そ う で あ ろ う か。 筆者はむしろ大海人は后妃共々、近江朝廷に見切りをつけ ていたと考える。大海人が吉野を選択した背景には、すで に軍事的戦略が秘められていたとみるべきであろう。もし 天智がそのことを見逃していたとすれば、もはや病いに蝕 まれる天智の判断力が極度に低下していた可能性をも考慮 に入れてしかるべきではあるまいか ((1 ( 。 いかに『懐風藻』に大友について「皇子博学にして多通、 文武に材幹あり」とみえるとはいえ、天智が卑母である伊 賀の采女、宅子との間にもうけた大友を立太子させること に大方の支持が得られるかは不透明であった。それでも天 智が唐の直系継承をもち出したとしたら、大海人はその気 性から推して憤激したにちがいない。天智七年に大海人が 天智天皇の御前において長槍で床を刺し抜いた話は有名で あ る。 『 大 織 冠 伝 』 は 鎌 足 を 顕 彰 し て お り、 む ろ ん 額 面 通 りには受けとれないが、こうした狼藉による混乱を鎌足が 割って入り必死にその場をとりなしたという筋立てになっ ている。これが事実なら、それは鎌足の存在感の大きさと
ともに、あらためて大海人の激しい気性を示して余りある といえよう。いまだ一皇女であった持統は冷静に父、天智 と夫、大海人を対比し、夫に従ったことはすでに述べた通 りである。天智には実母である皇極の孝徳への史上初の譲 位や斉明としての重祚、そして自らの称制など、その底力 を疑わしめる要素が多分にあった。父親の実像を娘の持統 は見透かしていたにちがいない ((1 ( 。 吉野裕子氏は立后前の持統について、額田王との関係の 深刻さを強調する。つまり将来、大友皇子が即位するよう なことがあれば、その妃である十市皇女が皇后となる可能 性は高いと指摘する。かねてより父、天智と夫、大海人の 不和の原因の一つに額田王をめぐる恋の鞘あてをあげる見 解は人口に膾炙する逸話といってよかろう。同氏が指摘す るように、夫である大海人の恋人とされる額田王とその間 に授かった十市の母子の存在は、皇女時代の持統にとって まさに天敵と見做すことができなくもない。皇女にとって 大友の即位を阻止することこそ至上命題であり、もはや内 戦は必然であったと吉野氏はいう ((1 ( 。しかしこうした見方は 余りに讃良皇女やその夫をめぐる男女関係を過大視しすぎ てはいまいか。直木氏のように、額田王をめぐる確執は過 去の出来事とし兄弟間の決裂とは切り離して考える見方も ある ((1 ( 。 もし卑母をもつ大友に践祚の可能性があれば、皇女が夫、 大海人とともに吉野に随伴するのは当然の成り行きであっ たともいえよう。同皇女の乱への関与という点で看過でき ないのは、天武元年六月、天皇に従い「避難東国。鞠旅会 衆、遂与定謀」と持統称制前紀にはっきりと記されている こ と で あ る ((1 ( 。 よ く 引 か れ る 立 后 の 際 の 書 紀 の 記 事 と し て、 皇后は終始、天武天皇を助け天下のためにつねに助言を加 え、朝政を輔弼したとの下りが知られる。こうした記事に 着目した研究としては、倉本氏による皇女時代の持統によ る壬申の乱首謀説が知られる ((1 ( 。倉本氏の説については、上 述したような皇女にとっての額田王の存在にふれる吉野氏 の説をも踏まえると、有力な仮説といってよかろう。 大海人や讃良らの吉野離宮における謀議に対して、近江 朝 廷 は も は や な す 術 が な か っ た に ち が い な い。 な ぜ な ら、 天智天皇の重患、天皇との間に子をなさない倭姫王、卑母 をもちいま一つ人望を欠く大友と朝廷の中枢は甚だしく無 力化していたからにほかならない。大海人の仏道修行の意 向 に 接 し、 兄 天 皇 は 二 度 に わ た り「 天 皇 許 す 」 と ま さ に 唯々諾々のあり様を書紀は描き出している。二度のうち先 の詔は吉野方の造作ともいわれる。天智一〇年一〇月一七
日、 「朕疾甚。以後事蜀汝」との兄天皇の申し出を「固辞」 した大海人は、俄かに出家と称して大津宮を後にした。た めに大友は天皇の詔により、即位することになる。天智一 〇年一一月二三日条には、以下の通り記されている ((1 ( 。 大 友 皇 子、 在 於 内 裏 西 殿 織 佛 臣 蘇 我 赤 兄 臣・ 右 大 臣 中 臣 金 連・蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣侍焉。大友皇子、手執 香櫨、先起誓盟曰、六人同心、奉天皇詔。若有違者、必被天 罰、云々。 大友が内裏は西殿、仏像の前に進むと、左大臣蘇我赤兄、 右 大 臣 中 臣 金、 御 史 大 夫 果 安 ら 五 人 の 重 臣 は、 臣 ら 五 人、 殿下に随って天皇の詔を奉るとして同皇子を擁立するとい う誓いを立てた。当の大友がこれら五人の重臣らを先導す る形で六人心を同じくして天皇の詔を奉り、もし違うこと があれば、必ず天罰を被ることになろうとの盟約が結ばさ れたと書紀は明確に記す。にもかかわらず、書紀は天皇の 詔の内容に一切ふれるところがない。それはいったい何故 であろうか。 素直に文脈にしたがえば、大友を後嗣に立てるという天 智の意思と受け取るのが自然であろう。しかし、ここから 直ちに天智が直系継承を志向していたとするのは単に後世 の見方を投影したにすぎない。もちろんその道のりは実に 多難であったが、乙巳の変で権力闘争に勝利し、改新政権 の中枢にあって旧支配勢力と渡り合いながら中国化を推進 し よ う と し た こ と を 否 定 す る わ け で は な い。 さ り な が ら、 この詔を直ちに天武朝の「吉野の盟約」や後の元明女帝の 即位の宣命にみえる「不改常典」と短絡的に結びつけて考 えることには慎重であるべきであろう。 い う ま で も な く、 「 吉 野 の 盟 約 」 が 王 位 継 承 者 と し て 草 壁 皇 子 を、 「 不 改 常 典 」 が 首 皇 子 を 想 定 し て い た こ と は ま ちがいなく、それらがいずれも直系継承を志向していたこ とも事実であろう。とはいえ、その起点を直ちにこの天智 の詔に求めることはやはり早計であろう。むしろここで最 も重要なのは、天智を直系継承の起点とすることに最も積 極的であったのが天智の皇女で後に天武の皇后となり、つ いで即位する持統にほかならないことであろう。近江朝廷 の重臣らがこの詔を奉じたその翌日のこととして、近江宮 に火災があり、大蔵省の第三倉より出火したと書紀は綴る。 この時代に、かかる類いの異変はけっして珍しいことでは ない。要するに、太政大臣とはいえ、大友の擁立に異を唱 える勢力が朝廷内に存在したということになろう。そして
さらにその五日後、五人の臣下は大友を奉って天皇の前に 盟約したとの記事が三たび登場する。これはいったいどう いうことであろうか。 弟の大海人と天皇の娘で皇子に嫁した讃良皇女らの離反 を容易に許した重患の天皇をいただく天智政権の弱体化は 決定的であり、ついに近江朝廷は重大な危機的局面に遭遇 したといえよう。白村江の大敗以降、斉明紀の異様なムー ドは称制期を挟み天智朝には払拭されるどころかむしろ拡 大し、書紀には多くの奇怪で思わせぶりな歌謡が配された ことはつとに知られていよう。この年一二月、ついに天智 は崩じた。その際にも、天智紀には以下三首の意味深長な 童 謡 が 織 り 込 ま れ た。 「 其 一 み 吉 野 の 吉 野 の 鮎、 鮎 こ そ は島傍も良き、え苦しえ、水葱の下芹の下吾は苦しえ。其 二 臣の子の八重の紐解く、一重だにいまだ解かねは、御 子の紐解く。其三 赤駒のい行き憚る真葛原、何の伝言直 にし良けむ」 。「其一」の歌は皇位継承をめぐる暗闘を強く 意識しつつ、大海人ら吉野方の苦衷を象徴するかのようで あ る。 「 其 二 」 は 吉 野 方 の 戦 闘 に 向 け た 陣 容 整 備 に ふ れ、 つづく「其三」は戦端が開かれる直前の両陣営の動向が諷 せられているとみられる ((1 ( 。
三、天武政権の再評価と皇親政治
天武一〇年三月条に「令記定帝紀及上古諸事。大嶋・子 首、親執筆以録焉」とみえるように、書紀の本格的な編纂 事 業 が 開 始 さ れ た の は 天 武 朝 で あ る と さ れ る。 そ の た め、 壬申の乱の敗者となった近江朝廷の治世が実際以上にあし ざまな表現を用いて描かれるのは当然のこととされてきた。 しかし注意深く記事をみると、書紀の編纂者は勝者の側に あるはずの天武朝の治世についても、厳しい実情を率直に 描き出している。筆者は常々、この事実をもっと重く受け とめねばならないと考えてきた。それは、書紀の完成が七 二 〇 年( 養 老 四 年 (、 奈 良 時 代 の 初 期 で あ る こ と に 起 因 す るとみられる。この年五月、舎人親王が「日本紀」三〇巻、 系図一巻を撰上した。すでに異例な皇位継承により即位し た元明天皇は無事、元正天皇への譲位を果たし、その後ろ 盾であった不比等政権も幕を閉じようとしていた (11 ( 。 古代日本の律令法典の完成段階といってもよい大宝・養 老両律令の編纂を事実上主導した不比等がほぼ同様に、書 紀の完成にも深く関与したと考えることに無理はなかろう。 壬申の乱において敗者の側にあった不比等は天武政権に対して批判的であったばかりか、同政権を反面教師とすら位 置づけていたと考えられる (1( ( 。 遠 山 氏 は、 「 天 武 は 舒 明・ 皇 極( 斉 明 ( 夫 妻 の 二 男 で あ り、その点で兄天智に較べて皇位継承権が乏しかった。他 方、 持 統 も 天 智 を 父 に も つ と は い え、 所 詮 皇 女 に す ぎ な かったから、天皇のキサキにならなければ即位することは できなかった(この時代、皇女に皇位継承権はなかった (。 天武と持統は、天智によって次期天皇に指名された大友を 武力で倒さない限り、そろって(相次いで ( 天皇になるこ とはできなかったのである」と述べている。その上で、遠 山氏は壬申の乱をめぐって「彼ら(天武・持統 ― 筆者 ( の 手が大友の血に塗られていること、彼らが大友からその地 位と権力を奪い取ったことを、同時代や後世にむかってそ のまま発信するわけにはいかない。彼らによる大友殺害は 結果的にやむをえないものであり、正当な理由のある行為 であったとしなければならない。そこで彼らが考えだした のが、天智を王とする中国にあったような王朝とその衰亡 と い う 設 定 で あ っ た。 ( 中 略 ( 天 武 と 持 統 は あ く ま で 天 智 の王朝に衰亡をもたらす奸臣らを掃討すべく立ち上がった の で あ る が、 大 友 は 不 運 に も 彼 ら に 擁 せ ら れ て し ま っ た 」 と説明した (11 ( 。 しかし、筆者はそうは考えない。もし遠山氏がいうよう に 近 江 朝 廷 の 重 臣 ら が「 天 智 の 王 朝 に 衰 亡 を も た ら す 奸 臣」なら、天武・持統は兄や父のために当面、朝廷にとど まり内部から天智を支えて主導権を握ることも可能であっ たはずである。たとえそれが史実の造作であったとしても、 そうした理由づけでは乱を起こした天武らの行為は何ら正 統化されないと筆者は考えるからである。天智政権の首脳 部を構成する蘇我赤兄や中臣金、あるいは巨勢人や蘇我果 安、紀大人らを文字通り「元凶」とみなすのは、壬申紀ゆ えであろう。上述のように、もはや近江朝廷は政権末期で あり、天武も持統もそれを承知で見放した上、王権の簒奪 を企図したにすぎない。壬申紀から天武らの大友への配慮 が読みとれるとしたら、それは持統朝以降、とりわけ草壁 早世後に天智の復権の一環として描かれたとみる方が自然 であろう (11 ( 。遠山氏自身が論じているように、天武らの着想 が「天智を王とする中国にあったような王朝とその衰亡と いう設定であった」というなら、天武政権はまさに革命政 権であって、大友の出自からみても、天武政権の正統性が 揺らぐことなどあろうはずもない。 壬申の乱においてはなばなしい戦果をあげ近江朝廷を降 して王位を簒奪した大海人は、東国の中小豪族層らを中心
に熱狂的な支持を得て飛鳥浄御原宮に即位した。天武がそ の強力なカリスマ性を背景に天皇と皇族だけで政権中枢を 担う皇親政治を断行したことは広く知られている。しかし、 果たして天武政権に皇親政治を推進するだけの十分な権力 基盤と基礎体力が備わっていたかといえば、それははなは だ疑問であるといわねばならない。 天武朝の政治については、これまで「専制君主制」の側 面が強調されることが少なくなかった。壬申の乱という古 代最大の内乱を戦い抜き、朝廷を圧倒したことは、強力な 王権の誕生を強く印象づけた。大王の権力が著しく強化さ れ、その権威も飛躍的に高まったとされる。それもあって、 天皇号が成立した時代と評価されるようになった。にもか かわらず、天武紀にはこうした理解や印象と矛盾する記事 が少なからず散見されるのは何故だろうか。 そもそも古代日本の天皇制国家、律令国家形成の背後に は、渡来系氏族や渡来人集団の大きな力を認めざるを得な い。六世紀以降、大王を中心とする中央集権化を先導した のは蘇我氏であり、それを後ろから力強く支え推進したの はまぎれもなく、渡来系技術集団や渡来人テクノクラート であった。なかでも東漢氏の存在は特筆に値しよう (11 ( 。東漢 氏は倭漢氏とも記され、天武朝における改姓までに分裂を 繰り返した同族は直の姓を有した。東漢氏は関晃氏が述べ るように、古来より重要な朝廷活動を担い、六世紀以前か ら巨大な社会・経済勢力に発展していった。蘇我氏の傘下 にあって半島から多くの渡来人を受け入れ、しだいに経済 力、武力ともに増大していった。彼らは半島からの新技術 の導入にあり、名族で軍事氏族であった大伴、物部両氏を 凌駕していった。同氏は蘇我氏と提携し、王権の支配下に 組み込まれ伴造として奉仕した。 たとえば、天武六年六月には、古くから蘇我氏の傘下で 政界工作に暗躍してきた東漢氏に対し、天武は次のように 詔した (11 ( 。 汝等党賊之、自本犯罪七不可也。是認以、従者小墾田御世、 至于近江朝、常以謀汝等為事。今当朕世、将責汝等不可之状、 以随犯應罪。然頓不欲絶漢直之氏。故降大恩以原之。従今以 後、若有犯者、必入不赦之例。 こうした詔からは、一見天武がそれまでの東漢氏の悪行 を挙げ糾弾したかのような印象を受ける。しかしその内容 を精査すると、必ずしもそうとばかりはいえない。むしろ 宮都を飛鳥に移すにあたり、天皇は何とか同氏との妥協を
図ろうとしたかにみえる。わけても詔の後半部分には、天 武の本音がかいまみえる。結果として、天皇は東漢氏を根 絶やしにするどころか、同氏は奈良時代まで生きのび土木 事業などに取り組んだことが『続日本紀』などから読みと れ る。 そ も そ も 天 武 政 権 に 同 氏 を 壊 滅 さ せ る ほ ど の 力 が あったとは考えにくい。東漢氏が高市郡を占拠しているこ とを併せ考えれば、上述の詔にみえるように、天皇が共存 共栄の道を選んだのは現実的かつ賢明な判断というべきで あろう。なぜなら、天武朝も天智朝と同様に、豪族らと密 接に関連する皇位継承という極めて大きな不安定要因を抱 懐していたからにほかならない (11 ( 。 政権が抱える問題はこうした表面上の権力闘争にとどま らない。天武政権を特徴づける皇親政治は、壬申の乱の劇 的勝利に伴う一時的な天武のカリスマ性を大前提とした実 に脆弱な側面を併せもっていた。天武政権の拠って立つ支 持基盤はいうまでもなく壬申の功臣らであるはずだが、皇 親政治の名の下に臣下の政治参加は部分的にしか認められ なかった。このあたりの事情について早くに着目したのは 北 山 茂 夫 氏 で あ る (11 ( 。 石 母 田 正 氏 も、 「 皇 親 」 を「 天 皇 を 中 心とする身内的・族制的集団」とし、一つの政治勢力とみ なした (11 ( 。 天皇を中心にその血族ら「皇親」による皇親政治を考察 するには、まず「皇親」の実態を明確にしておくことが重 要であろう。直木氏は「皇親」の範囲を皇子、諸王、真人 姓 氏 族 と 捉 え た (11 ( 。 そ の ほ か、 研 究 者 に よ っ て 皇 子 と 諸 王、 諸王のみに限定するなど、その範囲は思いのほか区々であ る。 「皇親」を直木氏とほぼ同様に把握する竹内理三氏は、 八色の姓の内、真人姓の氏族らを「準皇親」とみなした (11 ( 。 こ れ を 踏 ま え て、 倉 本 氏 は 真 人 姓 氏 族 を 二 つ に 分 類 し、 そ の う ち 多 治 比、 威 奈、 路、 守 山、 当 麻 の 五 氏 を「 準 皇 親」と捉えたのである。倉本氏は「準皇親」と位置づけた 五 氏 に つ い て、 「 氏 族 系 譜 に 混 乱 が な く、 六 世 紀 の 継 体 王 子の世代以降の王族を始祖とし、官人として現われ始める 時 期 が 七 世 紀 後 半 と 遅 く、 真 人 姓 賜 姓 以 前 に は す べ て 『 公 』 と い う 姓 を 持 っ て お り、 在 地 に 勢 力 基 盤 を 有 し て お らず、乳母氏と思われる同名他姓氏族を確認することがで き、中央の上級官人を多く輩出し、大王家に后妃を入れた という伝承を持っておらず、壬申の乱における活躍がほと んど見られないという点で共通している」と論じた (1( ( 。 さらに倉本氏はこうした「準皇親」に位置づけられる真 人姓氏族を皇子や諸王とともに「皇親」に含めて考えるべ きとする。同氏は、その根拠として多治比真人をあげ、正
倉院文書や『藤原宮木簡』に共通して「王」の字が付され ていることをもって、後々まで同氏が「皇親」として認識 さ れ て い た と す る。 ま た、 「 皇 親 」 が 官 僚 層 と し て 必 要 と さ れ た 時 代 の 要 請 か ら「 皇 親 」 概 念 の 拡 大 を 主 張 す る が、 こ こ で は も う 一 方 の 概 念 で あ る「 官 僚 」( ひ い て は「 官 僚 制 」( が 明 確 に 定 義 さ れ て い な い。 よ っ て 筆 者 は 同 見 解 に 与するには慎重でありたい (11 ( 。 ただし倉本氏が先行研究を踏まえて天智朝と天武朝を峻 別し、天智が目的遂行の手段として王族を官僚化する考え をもっておらず、天武朝になって「皇親」が中央の官司を 任され、地方に使節として派遣されるなど行政を恒常的に 分担するようになったとする見方は十分に首肯できよう。 また、 「皇親官僚制成立の画期が天武朝であった (11 ( 」とか、 寺西貞弘氏が指摘するように、天皇の詔が発せられる際に、 天武朝以前は「天皇対官僚」の図式であったのが、天武朝 になると「天皇対親王・諸王および官僚」という図式へと 変化することをもって、皇親官僚化への転換期を天武朝と する見方を示しているが、誤解を生じることのないように より丁寧な説明が求められよう (11 ( 。 すなわち寺西氏の二つの図式を理解する上で、後者の図 式にみえる「親王・諸王」が前者の図式には登場しないこ とをどのように考えるべきか。天武政権以前の段階で王族 ら は 天 皇 の 背 後 に あ っ て 政 治 力 学 を 左 右 す る 存 在 で は な かったという理解でよいのであろうか。もちろんあらゆる 場合にそうだったわけではないが、王族らの政治的地位が 対豪族との関係において確立していたとは必ずしもいえな い。 たとえば推古女帝崩御に伴う継嗣問題においては、大臣 蘇我蝦夷の指導力の欠如も相俟って、実質的には大夫合議 体の構成員に王族は加わっていない。舒明即位前紀には先 帝 崩 御 直 後、 「 九 月、 葬 禮 畢 之。 嗣 位 未 定。 当 是 時、 蘇 我 蝦夷臣為大臣。独欲定嗣位。顧畏群臣不従」とみえる (11 ( 。群 臣らが相応の政治的発言権を有していたことはまちがいな かろう。合議の結果として推古の遺詔が尊重され、田村皇 子が選出された。その後、結果を聞いた山背大兄王はこれ に納得せず、叔父で大臣の蝦夷に異議を申し立てた。山背 大兄の抗議は執拗であったが、蝦夷は何とかこれを抑えた。 山背大兄の異議は結局、群臣らの合議により退けられたの である。大夫合議体の決定が王族の意向を撥ね退けたこと は、やはり注目に値しよう。この事案をめぐって武光誠氏 は、王族は国政の合議機関の枠外にあって官僚制から超越 した身分にあったとみる (11 ( 。いかに身分が高くとも、重要な
政治決定から疎外されることもあろう。 そもそも天武朝を一面特徴づける「皇親政治」と「皇親 官僚制」や「皇親官僚化」といった概念は果たして如何な る関係と意味合いをもっているのであろうか。一般に「皇 親政治」とは天皇と皇族がほぼ排他的に政治に参加する政 治形態で、壬申の乱に大勝した天武は大臣のポストを設け ず、臣下の政治参加は著しく制約された。畿内の有力豪族 の族長らは太政官の「納言」に集められたが、重要な政策 決 定 に は 関 与 せ ず、 「 納 言 」 は い わ ば 豪 族 ら の ガ ス 抜 き の 機 関 に す ぎ な か っ た と さ れ る。 天 武 政 権 の 長 期 化 に 伴 い、 事実上政治参加の機会を奪われた豪族らの中には当然、不 満が鬱積していった (11 ( 。 一方、天武朝官制を作動させる上で一定の行政活動が求 められたが、これを担う必要性から倉本氏らのいう「皇親 官僚制」が求められた。しかしそうなると、いわゆる壬申 の功臣らの処遇との間に不整合が生じる。そこで皇親政治 の前提となる政権発足まもない時期の官人に対する対応ぶ りをみておく必要があろう。まずは壬申の乱の戦功が注目 される。天武紀二年二月二九日条に「有勲功人等、賜爵有 差 」 と み え る (11 ( 。 同 年 五 月 一 日 に は、 「 詔 公 卿 大 夫 及 諸 臣 連 並伴造等曰、夫初出身者、先令大舎人。然後、選簡其才能、 以充当職」とした (11 ( 。詔冒頭の表現は珍しいが、旧来からの 族連を明確にしようと試みられた可能性が指摘される。慣 例にしたがい、まず中央の豪族に対して出身法が定められ た。つまり「最初に宮仕えする場合は、大舎人として任用 して、しかる後に適材適所で再配置せよ」と命じたのであ る。 白村江以来の日羅関係はすでに改善され、天皇にも半島 統一を成し遂げる勢いの新羅の発展ぶりから学ぼうとの意 欲があったにちがいない。同年六月中旬には、新羅も使節 を遣し天武の即位に対し祝意を表した。半島情勢を知悉し ていた天武は新羅の急成長ぶりに着目し、和白の制なども 参考にしながら、律令国家化をめざした。吉野方の勝利に 寄与した東国の中小豪族層には当初、それなりの配慮が加 えられたものの、かかる豪族層を政権の中軸に据えること には無理があった。したがって、豪族らはまず大舎人に採 用した上で、後は能力主義を実践したのである。 政権中枢には「皇親」を配した。皇后のほか、高市、草 壁、大津、忍壁、磯城、川島、施基など諸皇子ら、そして 上述の「準皇親」が起用された。後者の諸王らは各官司の 大夫層を構成することになったのである。倉本氏が注目し た小紫美濃王、小錦下紀臣珂多麻呂、諸王四位栗隈王、そ
して小錦上大伴御行の四名はいずれも重要な官司の要職に 補された、いわゆる「壬申年功臣」である。いうまでもな く、万葉集に「大君は神にしませば」と詠じた大伴御行は 壬申の乱で近江朝廷を脱出して吉野方に加担した典型的な 壬申の功臣であり、天皇のみならず天武系の皇子らを支持 し、 天 武 一 三 年 に 宿 禰 を 賜 姓 さ れ、 大 納 言 ま で 栄 進 し た。 したがって、臣下が政権中枢から排除され政治参加を制約 されたという「皇親政治」の説明は、厳密には誤解を生む おそれなしとしない。そうした背景があったからこそ、天 武政権は「皇親」と大夫層により維持されたのである (11 ( 。 天武政権がまがりなりにも維持された背景としては、政 権上層部に対外的な緊張感と国内的な結束の必要性が共有 されたためと考えられる。百済や高句麗の没落と半島にお ける唐と新羅の攻防はいやが上にも日本の軍事力増強を推 進させ、国内的には危機管理を徹底すべく天皇の超越的権 威化や皇太子制の創出による朝廷内部の軋轢の極小化がめ ざされた。いうなれば、国家権力を徹底して集中・強化す るために、急ピッチで律令国家の完成度を高めることが目 標に据えられたのである。 天武朝のまさに中葉にあたる天武八年五月、吉野の盟約 が結ばれた。天皇は「朕男等、各異腹而生。然今如一母同 産慈之」と語り、六人の皇子らを抱擁したという (1( ( 。天皇は 自らがこの世を去って後、皇子らが皇位継承をめぐって血 みどろの争いを引き起すことをいたく恐れた。かつて壬申 の乱に際し、謀議をめぐらせた吉野離宮を舞台に選んだこ とからも天皇の思いが汲みとれよう。天武紀によれば、天 武は詔して、末永く皇位継承をめぐる紛争を避けるよう念 じた。天皇が皇后共々、草壁皇子の擁立をめざしていたの はまちがいなかろう。天武紀の同八年五月六日条には、天 武が皇后や草壁をトップに据え、皇子らを熱心に説諭した 様 子 が 描 き 出 さ れ て い る。 寺 西 氏 に よ れ ば、 高 市、 草 壁、 大津、忍壁、河嶋の五人の皇子らは一〇代ないし二〇代の 頃に壬申の乱と吉野の盟約に遭遇した。これにより、皇子 らに改めて天皇の偉業を再認識させようとしたことはいう までもなかろう (11 ( 。 壬申の乱の結果、天武朝に至って天皇の権威が急速に高 まったとする通説は過大評価に過ぎよう。すでに述べたよ うに、天智朝に至るまで政界の闇の勢力として暗躍した東 漢直に対して、天武は「今当朕世、将責汝等不可之状、以 随犯應罪」とその動きを強く牽制した。しかしこれを天武 の実力の誇示と額面通りには受け取れない。なぜなら、客 観的視点に立てば、とても政治学的にみてプラスに評価で
きない皇親政治を特色とする天武政権が盤石とは考えられ ないからにほかならない。 さて、壬申の乱における近江、吉野両陣営の形勢にも目 を向けておこう。壬申紀はいうまでもなく吉野方優位に描 かれているため、その記事をそのまま史実と受け止めるこ とはできない。内乱は当然のことながら、両陣営の綱引き によって左右された。壬申の乱は古代最大の内乱といわれ るが、戦闘自体は一月で終息している。これは近江朝廷方 が白村江の敗戦の後遺症として大打撃を受けた西国から兵 を集められなかったのに対し、吉野方が迅速にして果敢な 東征により東国兵の動員に成功し、さらに大伴吹負らの加 担が大きく乱の進展に影響を与えたためと考えられる (11 ( 。 しかし一方近江方も七月上旬、山部王や蘇我臣果安らに より数万の衆を出兵せしめたとの記事もみえる。結果とし て近江陣営の内訌により不首尾に終わり、これが勝機を逸 した大きな要因ともいわれる (11 ( 。ここではこれ以上詳細な内 乱の経過には踏み込まないが、近江方の指揮命令系統の乱 れが戦局全般を大きく左右したと筆者は考える。すでに述 べたように、その背景には天智政権の脆弱性が大きく影響 していたとみられる (11 ( 。 すなわち近江朝廷の政治基盤には少なからぬ亀裂が生じ ており、脆弱化を引き起こしていた可能性が高いと筆者は 考える。吉野方の戦略や戦術が功を奏した側面があったに しても、天智政権は早晩、崩壊する運命にあった。壬申紀 を占める記事が安斗宿禰智徳、調連淡路、そして和迩部臣 君手ら吉野方にあった舎人の日記などを中心に構成されて いることを考えれば、天武の力量を余り過大評価するのは 適切ではなかろう。 天武を神格化していたのも、中央政界の動向に疎い東国 の中小豪族層であった。畿内の大豪族らは、もっと冷静に 新政権の動向を注視していた。天武三年八月、天皇は「元 来諸家貯於神府寶物、今皆還其子孫」と勅した (11 ( 。石上神宮 に忍壁皇子を派遣し、諸氏の武器が接収された。その意味 するところは、天武の力の限界に帰着するのではあるまい か。壬申の乱の戦後処理や皇位継承争いを回避すべく吉野 の盟約を結びしめるなど、その状況判断には見通しの甘さ が顕著である。 こうした戦後の動向を踏まえて、いま一度皇親政治につ いて問い直してみたい。太政官に納言を設け畿内の有力豪 族らを集め、形ばかりの政治参加を演出するだけでは、そ もそも政権基盤を強化することなど望むべくもない。はな ばなしい戦勝に酔いしれ、天武は己の実力を過信していた
といわれても致し方あるまい。白村江の戦い以降、近江朝 廷を見限っていた畿内の豪族らにとって、天武政権の政治 方針も彼らの期待を裏切るに十分であった。天武自身も天 智 政 権 の 矛 盾 に 対 す る 洞 察 力 に 欠 け て い た の で は な い か。 天武四年二月の詔で、天皇は「甲子年諸氏被給部曲者、自 今 以 後、 皆 除 之。 又 親 王 諸 王、 併 諸 寺 等 所 賜、 山 澤 嶋 浦、 林 野 被 池、 前 後 並 除 焉 」 と 命 じ た (11 ( 。 天 皇 は さ ら に、 群 臣・ 百寮及び天下の民衆は諸悪をなさぬよう、もし犯すことが あればそれ相応の処罰を断行する旨の一見毅然とした姿勢 を示したかにみえる。だが、天武は政権をめぐる客観情勢 を 読 み 誤 っ て い た と い っ て も 過 言 で は あ る ま い。 そ れ は、 天武政権が専制的支配を貫徹するだけの強固な政治基盤を もち併せていなかったことの反映ともいえよう。 同政権が公地公民制をめざした諸施策も必ずしも十分実 を結ぶには至らなかった。これまで朝廷を構成してきた大 豪族層の中にも、壬申の功臣を優遇し食封制を東国に移行 させたと捉えた者が少なくなかったであろう。果たして天 武 朝 に よ る 政 策 選 択 は 妥 当 で あ っ た と い え る で あ ろ う か。 かつて北山氏は天武政権の政治的性格を次のように評価し た。通説的見解を確認する意味で、同氏の見解をみておこ う。同氏によれば、天武の専制政治は皇后との共治という 特異な性質を帯び、天武は臣僚からひとりの大臣をも選任 しなかった。天皇はその共治体制との関連で、諸皇子、諸 王を重要な部署につけ特別の役割を与えたとする。天武朝 官制の特色とされる皇親政治の依って立つ基盤を天皇と皇 后を中核とする専制的共和体制に求めるところに北山説の 特徴がある。 す な わ ち 皇 后 の 政 治 へ の 関 与 が 皇 親 政 治 や「 専 制 的 性 格」を帯びた太政官政治を生み出したとも読める。直木氏 によれば、皇后は天智の娘であるから、天智の皇子らが冷 遇されていなかったとされる。天武も新時代にふさわしい 官僚の育成を企図していたことはまちがいない。しかし天 武は王卿らにはきびしく、公民による法令違反についても 彼 ら を 問 責 し た。 「 近 日。 暴 悪 者 多 在 巷 里。 是 則 王 卿 等 之 過也」との同天皇八年一〇月二日の天武の詔は端的にそれ を物語っていよう。こうした天武の方針をめぐっては、天 武が天智政権をいかに理解していたかが大きな鍵となろう。 少しふり返れば、大化改新以来、中大兄皇子は長く「皇 太子」の地位にとどまり、即位の機を逃してきた。その原 因は客観情勢の厳しさだけでなく、中大兄自身の統治能力 の 限 界 が あ っ た の で は な か ろ う か。 白 村 江 の 敗 戦 に よ り、 中大兄はやむなく即位せず大政を領導する称制を敷かざる
をえなくなった。九州は朝倉宮における母、斉明女帝の崩 御に伴う苦肉の策とはいえ、もはや政権は死に体以外の何 物 で も な か っ た と い っ て よ か ろ う。 天 智 天 皇 七 年 正 月、 「 皇 太 子( 称 制 ― 筆 者 ( は 即 位 し た。 ―― あ る 本 は 六 年 三 月 に 即 位 し た と あ る 」 と 書 紀 は 記 す。 そ し て 同 年 七 月、 人 々 が「 天 皇 は 皇 位 を 去 る の だ ろ う か 」 と い っ た と す る、 何とも唐突な記事がみえる。前年春の近江遷都についても、 かねてより中大兄は民衆への労役負担の軽減を打ち出して いたから、顰蹙を買ったことは否めない。天智即位前紀に は 依 然 と し て 文 飾 や 造 作 の 可 能 性 が 疑 わ れ る。 斉 明 紀 に 「 た ぶ れ 心 の 渠 」 と み え る よ う に、 土 木 事 業 に 執 着 し て 民 衆に労役負担を課した先帝、斉明の汚名を返上する意図が あったにしても、中大兄が「斉明天皇の勅を承って、万民 を い た わ る た め 」 に 苦 役 を 避 け た と の 臣 下 へ の 説 明 に は、 あまりにも説得力が欠けていよう。しかも中大兄は対外情 勢に関する的確な情報収集能力を著しく欠いていた。そも そも天智称制元年九月、長津宮にあった中大兄は鬼室福信 の救援要請に対して質の豊璋に五千の護衛兵をつけて帰還 させたように、朝鮮半島情勢を十分に把握していなかった。 こ れ と は 対 照 的 に、 『 旧 唐 書 』 や『 新 唐 書 』 か ら 明 ら か な ように、唐は福信と豊璋が所詮は折り合えないことを承知 していたのである。よって、かかる中大兄のとった措置は、 結果として百済の内紛を招いただけであった。同二年五月、 「犬上君は、 (中略 ( 石城で会った豊璋から福信の罪状を知 らされた」というのである。その後、さらに王豊璋は名将 といわれた鬼室福信に疑念を抱き、まもなく福信の身柄を 拘束し、ついに斬殺した。不幸にしてこの内紛は新羅に百 済への軍事侵攻の口実を与えた。白村江以降、唐と新羅と の 関 係 は 急 速 に 悪 化 し、 日 本 に 対 す る 追 撃 な ど あ り え な かったにもかかわらず、都を近江大津宮に移し水城を築く など過剰防衛に終始したのも天智の能力的限界を示す証左 といえよう。 天智天皇や近江朝廷をめぐる書紀の記述には、後の不比 等政権による編纂過程において多大の修飾が加えられた可 能性が想定される。後述するように、不比等は持統の意向 にしたがい、草壁直系への皇位継承を巧みに画策した。持 統の父であり天智系継承の原点でもある天智の事績につい てはかなり過大評価されているとみられる。かかる視点に 立って、天智系の系譜や天智・天武両系統の関係について その政治的背景を新たに考察する必要があろう。
四、持統女帝の権力資源と草壁直系
わが国の歴史上、スメラミコトのもつ政治的・宗教的権 威は、歴代の政権の正統性を大きく規定してきた。とりわ け皇位継承をめぐる政争は熾烈を極め、朝廷における貴族 らの盛衰にも多大の影響を与えた。そのため、皇位継承の 歴史は血塗られたものとなったといえよう。壮絶な皇位継 承 争 い を 回 避 す る た め、 奈 良 時 代 に は 中 天 皇 と し て 元 明、 元正のような女帝が擁立された。女帝には、過熱しやすい 皇位継承争いを鎮静化する役割が期待された。しかし、こ うした古くからの「女帝=中天皇論」に対しては、批判も 投 げ か け ら れ て い る。 荒 木 敏 夫 氏 は、 「 女 帝 = 中 継 ぎ 天 皇 論の誤りは、中継ぎと規定したからではなく、性差を前提 にして『女性だから中継ぎ』としたため」とする (11 ( 。天皇と は本来男性であるべきという一種の偏見に対する批判とい えよう。 推古、皇極ら初期の女帝は、シャーマンとしての性格が 濃厚であったとされる。女帝史をふり返ると、六世紀末に は、崇峻暗殺による王権の危機を乗り切るべく、推古女帝 と聖徳太子によりいわゆるヒコ・ヒメ制(二王制 ( とも呼 ばれる統治体制が構築された。邪馬台国の女王、卑弥呼と 男 王 と に よ る 統 治 形 態 と 同 様 の 支 配 原 理 に 根 ざ し て い た。 だが、時代が下るにしたがって、女帝のシャーマン的色彩 はしだいに希薄化していった。巫女王についてもその前提 に自然と農耕の関係に依拠した先入観が作用していたとい えよう。こうした女帝の巫女性は、王権を神格化する司祭 者 と し て の 大 王 に 求 め ら れ た 性 質 の 一 つ で、 性 的 差 異 が あったとは考えにくいとの見解もある (11 ( 。 これに関連して注目したいのは、義江明子氏の所説であ る。義江氏が指摘するように、額田部王以下、石上部王や 穴穂部王、泊瀬部王など、この時代の王族らは部という経 済的基盤と固く結びついていた。つまり、王族らはしだい に呪術的支配者から脱皮していったのである (11 ( 。義江氏を含 め古代史家により多く取り上げられるのが、巫女性を指摘 さ れ る 飯 豊 王 に ほ か な ら な い。 古 く は 折 口 信 夫 が『 古 事 記』清寧記にみえる同女王の特異な役割について論じた (1( ( 。 天皇崩りましし後、天下治す可き王無し。於是、日嗣所知せ る王を問ふに、市辺忍歯別王妹、忍海郎女、亦の名は飯豊王、 葛城忍海之高木角刺宮に坐しき。この記事をどう読むべきか。結論をいえば、やはり臣下 らが問うた結果として飯豊王の治世が開始されたというこ とであろう。問うた相手が重要であるが、その点について 『 古 事 記 』 の 記 事 だ け で は 判 然 と し な い。 そ こ で 荒 木 氏 は 書 紀 に 注 目 し た。 清 寧 紀、 同 天 皇 三 年 七 月 条 に は、 「 飯 豊 皇女、於角刺宮、与夫初交。謂人曰、一知女道。又安可異。 終不願交男」とみえる。扶桑略記や皇胤紹運録にも「飯豊 天皇」と記されている。確かに、飯豊王はシャーマン的色 彩を帯びていたといえよう (11 ( 。しかし飯豊王はあくまで実在 し な い 伝 承 上 の 人 物 で あ り、 折 口 の い う よ う に「 与 夫 初 交」とあるのは祭祀上の話であろう。 事実上飛鳥時代に幕を引いた持統天皇ともなると、女帝 とはいえ現実の覇者としての性格を色濃く帯びるようにな る。皇后時代の称制については、持統称制前紀に「国母の 徳 」 を も つ と 讃 え ら れ、 「 立 為 皇 后。 皇 后 従 始 迄 今、 佐 天 皇定天下。毎於侍執之際、即言及政事、多所比補」とみえ る。称制下の皇后は、父、天智の権威や夫、天武のカリス マ性を最大限に利用して、皇位継承のルールの大幅な変更 を企図した。皇后は天武の崩御に伴う葬儀の最中に、草壁 即位の大きな障壁となっていた姉、大田皇女所生の大津皇 子を葬り去った (11 ( 。 『 懐 風 藻 』 に よ れ ば、 草 壁 が 病 弱 で あ っ た の に 対 し、 大 津は偉丈夫で文武両道に秀で大らかな気性は周囲の人望を 集 め た と さ れ る。 皇 后 は そ こ で、 大 津 の 排 除 を 決 断 し た。 朱 鳥 元 年 一 〇 月 二 日、 「 皇 子 大 津、 謀 反 発 覚。 逮 捕 皇 子 大 津 」、 つ い に 大 津 は 死 を 賜 わ っ た (11 ( 。 し か し そ の 後、 連 累 者 三〇人は赦された。皇后周辺の謀略とみられる。 天武八年五月、皇后は天武の希望にしたがい、六人の皇 子らを集め、吉野の盟約を結ばしめたことはすでに述べた。 皇后が同盟約に期待した主たる目的が草壁を後に立太子さ せるための環境整備の一環であったことはまちがいなかろ う (11 ( 。 し か し、 大 津 の 抹 殺 に よ り「 一 母 同 産 の 如 く 慈 ま む 」 との誓いはむなしく雲散霧消した。皇位継承には、当事者 である王族だけではなく、その背後に控える豪族らの激し い権力争いがどうしても絡んでくる。とまれ、皇后所生の 皇子が他に先んじて皇位を継承する原則がこの盟約の最大 の意義であるとしたら、論理的には高市皇子を除くべきで あろうが、依然として皇位継承には事実上大夫層の支持が 不可欠であったために、大津皇子が標的とされたというこ とであろう (11 ( 。 天武朝初期には大津に朝政を聴くことが命じられた。し かし、ほどなく皇后へと実権が移行するにしたがい、天武
一四年の冠位の制定にあっては、大津の「浄大弐」に対し、 草壁にはその一階上の「浄広壱」が賜与された。明らかに、 処遇にも変化の兆しがみられるようになった。朱鳥に改元 したかいなく天武が崩じると、皇后は称制を敷いて草壁の 即 位 に 向 け て 邁 進 し た の で あ る。 朱 鳥 元 年 正 月、 「 皇 太 子 率公卿百寮人等、適嬪宮而慟哭焉」とあるように、草壁は 長きにわたって、しめやかに営まれた葬礼において率先し て諸事にあたった。殯宮は異例の長期に及んだ。皇后の後 ろ盾を得て、草壁は六度にわたり葬儀を主宰したのである (11 ( 。 皇后は一連の葬儀を通じて、天武の後嗣が草壁をおいて ほかにないことを内外に示し、草壁の即位を正統化しよう と腐心した。大后の地位を最大限に活用して、皇后は草壁 の擁立に向け心血を注いだのである。称制三年正月には諸 国をして前殿に朝せしめ、その翌月には鎌足の次男「直広 肆藤原朝臣史」を刑部省の「判事」に任じた。この任命記 事が書紀における藤原不比等の初出である。しかし、皇后 の願いもむなしく、草壁はほどなく夭折した。だが、気丈 にも皇后はこれに挫けることなく、孫の軽皇子への皇位継 承に期待をつないだ。周知の通り、父、天智は祖父、蘇我 石川麻呂を謀殺し、壬申の内乱は父と夫を引き裂いた。上 述の如く、近江朝廷においては天智の病いが重篤化すると、 俄かに王位継承問題が急浮上した。天智の譲位の申し出を 固辞した夫の大海人が吉野に難をのがれると、当時皇太弟 の妃であった讃良皇女もこれに従った。草壁ら幼な子の手 を引きつつ吉野をめざして山路を急いだ苛酷な経験は、皇 后に強靱な心を宿したにちがいない。 そして僅か七歳の草壁の忘れ形見、軽皇子が後に残され た。草壁とその妃阿倍皇女の間に生まれた皇子である。し かし、皇位継承資格を有する天武の皇子らとそれを背後か ら支える豪族らがその行く手を阻むことが十分に予想され た。しかも未だ時代は幼冲の天子を支える政治機構を備え ていなかった。持統三年六月、飛鳥浄御原令が頒布された。 そこには天皇、皇后、皇太子の各称号が法定された。この 令制は草壁の即位を念頭に構想されたが、もはやその草壁 は こ の 世 に い な か っ た。 こ れ ま で 法 制 史 の 研 究 を 通 じ て、 散逸した断片的資料から復原された飛鳥浄御原令から法典 としての水準の高さがうかがえる。ここに皇太子制が成立 し、皇位は著しく安定化した (11 ( 。一方、義江氏は持統女帝の 即位を天武没後の皇位継承争いにおける王権の「奪取」と 捉え、壬申の乱における天武と同様に血統上の有資格者の 中で実力のある者が大夫層の支持を獲得して王権を掌握し たとする (11 ( 。
軽皇子を擁立するには、天武の他の皇子ら手ごわい抵抗 勢力に対抗しうる強力な政治勢力の結集が求められた。そ のため皇后は草壁薨去の翌年、持統四年の正月、軽の成長 ま で の 中 継 ぎ と し て 即 位 し た の で あ る。 こ の 年 大 陸 で は、 中国史上唯一の女帝、則天武后が誕生し、国号を周とした。 しかしわが国は、その後遣唐使を派遣させるまでそのこと を知らなかったとされる。 そこで皇后・持統がそうした軽の支援グループの中核と して担ぎ出したのが、かつて父天智の忠臣であった中臣鎌 足の息、藤原不比等であった。不比等は斉明五年、鎌足の 次 男 と し て 生 ま れ た と さ れ て い る( 『 公 卿 補 任 』、 『 尊 卑 分 脈』 (。鎌足の長男である真人は、仏の道に進み定恵と称し て 弱 冠 一 一 歳 の 若 さ で 入 唐 を 果 し た。 不 比 等 の 出 生 を め ぐっては、天智が忠臣、鎌足に懐妊した嬪を与えたとする 説 が あ る。 ま る で そ れ を 裏 づ け る か の よ う に、 『 万 葉 集 』 には「われはもや安見児得たり皆人の得難にすとふ安見児 得 た り 」 の 一 首 が 収 め ら れ て い る。 「 内 大 臣 藤 原 卿( 鎌 足 (」 の 喜 び は さ ぞ や 大 き か っ た で あ ろ う。 鎌 足 は 連 の 姓 をもつ中臣氏で身分は低く、よって娘の入内に踏み出すこ と適わず、大王家とは姻戚関係になかった。また、文武天 皇の宣命には「藤原朝臣の仕へ奉る状は、今のみにあらず、 かけまくも畏き天皇が御世御世へ奉る」とみえる。宣命の 内容が事実なら、不比等はさぞや持統、文武両天皇の信頼 を得ていたにちがいない。 不比等は養老四年八月三日に逝去するが、続紀には「是 日、右大臣正二位藤原朝臣不比等薨」と記されている。そ の昇進のスピードは尋常ではなかった。しかも同日の記事 によると、天皇はこれを深く悼み、ために政務を休むとと もに同人の死に対し弔礼を行い、とりわけ手厚い勅が出さ れたとある。元正紀には、死者を弔う礼は「異于群臣」盛 大であったとの記事がみえる。不比等は政権中枢にあって、 律令国家の完成や皇位の直系継承への変更に大きく貢献し た。破格の扱いを受けたことも頷けよう (11 ( 。 律令国家の完成に向けて、不比等は国史や律令法典の編 纂に多大の貢献をなしたことは疑いない。持統の期待に応 えて、不比等は草壁直系に皇位継承ルールを変更すべく奔 走した。不比等は持統の権力基盤を巧に活用し天武が推進 した専制政治を制度化して、律令官僚制の構築を進めたと される。不比等に近い天智系の官僚や渡来系氏族など新興 官僚層の官界進出を促進し、政権基盤を強化するとともに 自 家 発 展 の 礎 を 築 い た そ の 政 治 手 腕 は 高 く 評 価 さ れ よ う。 そもそも藤原氏の前身である中臣氏は天児屋命を始祖とし、
四世紀頃までは、物部、大伴両氏らと同様に朝政にも関与 する比較的高い地位にあった。だがその後、忌部氏と並ん で大王家の祭祀を司るようになると、その朝廷内における 地位は低下を余儀なくされた。 不比等の生母を車持君国子の娘、与志古娘とする所伝も あ る( 『 尊 卑 文 脈 』( 。 も し「 安 見 児 」 の 歌 の 内 容 が 本 当 で あったとしても、大王家と姻戚関係にあったとはいえまい。 不比等は、幼い頃から渡来系氏族である田辺史大隅の家に 預 け ら れ 養 育 さ れ た。 さ ら に『 尊 卑 分 脈 』 に は、 「 公、 避 く 所 の 事 あ り。 す な わ ち 山 科 の 田 辺 史 大 隅 ら の 家 に 養 う 」 との下りがみえる。ここにいう「避く所の事」とは、近江 朝廷における天智と大海人の確執をおいてほかになかろう。 これに対して、不比等誕生の頃、父の鎌足は不比等の従父 弟にあたる意美麻呂を猶子として迎えたこととの関係を重 視する見方もある。相続について鎌足が意美麻呂に配慮し たのであろうか (1( ( 。周知のとおり、鎌足は天智と大海人の間 に分け入り、深刻な衝突を回避するための緩衝剤の役割を 果 し た と さ れ る。 大 海 人 は 吉 野 に お い て 挙 兵 す る 際、 「 大 臣( 鎌 足 ― 筆 者 ( 生 存 せ ば、 吾 豈 此 の 困 し み に 至 ら む 」 (『 家 伝 』( と 苦 し い 胸 の 内 を 漏 ら し た と さ れ る。 天 智 朝 末 の朝廷は緊張感著しく、鎌足は不比等の行く末を案じてい た可能性は否定できない。鎌足も幼い頃から中国の兵法書 を愛読したと伝えられている。鎌足には早くから策略家の 資質が備わっていたとも考えられる。 もちろん「大織冠伝」にとどまらず、書紀にも随所で鎌 足の事績は顕彰されている。鎌足の子孫である不比等のみ ならず、武智麻呂、仲麻呂らにより藤原氏の始祖である鎌 足が美化されていることはまちがいない。仲麻呂は曾祖父、 鎌 足 を 忠 臣 で は な く、 「 諫 臣 」 と し て 描 こ う と し た と 富 樫 進氏は分析する (11 ( 。冨樫氏は『家伝』において「諫臣」とし ての鎌足に注目し、なぜ仲麻呂が鎌足に「諫臣」像を投影 し よ う と し た か を 明 ら か に し よ う と し た。 す な わ ち、 「 大 織冠伝」において鎌足に比定される張良や呂尚といった古 代中国の名臣らを分析する試みである。そこで注目される のが、続紀天平宝字二年八月甲子条にみえる淳仁天皇の勅 である。勅には「況自乃祖近江大津宮内大臣已来、世相明 徳、翼輔皇室」とみえる。天皇は鎌足以来、藤原氏は天皇 家を支えてきたと讃え、仲麻呂に恵美押勝の名を賜与した ことはよく知られていよう (11 ( 。 周 知 の と お り、 『 家 伝 』 は「 不 比 等 伝 」 を 欠 く。 不 比 等 は自らの朝政に対する多大の貢献を父、鎌足に仮託したの ではなかろうか。文武は即位後直ちに出した詔により、藤