聖ニコライの翻訳から読み取れる
一
ひとつの神
かみ 1についての真実
ブリーズナ・インナ(イリーナ)
1. はじめに 聖ニコライ(俗名Касаткин Иван Дмитриевич)は神かみの神聖なる旨と働きに よって日本に神 かみ の 言 ことば の種を播くために遣わされ、五十一年間も倦まず弛まず 働いた。その種が良き地におち、百倍も実を結んだ(マトフェイ13:8)2。彼 は日本正教会の基盤を築き、二百もの教会共同体と三万人以上のハリストス 教徒3を残した(Позднеев 1912, 中村訳 1986:6)。1970 年に日本の亜使徒聖ニ コライとして列聖された。 1 本研究では引用文中だけではなく、筆者の文章中においても聖ニコライの正教会語彙をその まま使う。ここで一般的な「一つ」ではなく、聖ニコライの「 一ひとつ」を使うのもそのためである。 同じように、神か みに関する箇所では一般的な「唯一」ではなく「惟一ゆいいち」、「聖霊」ではなく「聖神せいしん°」、 聖母マリヤではなく「生神女しょうしんじょマリヤ」を用いる。漢字の字体について、引用文中では聖ニコラ イの「獨」を保つが、本稿では新字体の「独」とし、その読みは聖ニコライのままとする。 2 聖書を文中で引用する際、聖ニコライ訳の 1901 年の新約聖書を使用し、「マタイ」ではなく 「マトフェイ」、「ヨハネ」ではなく「イオアン」などのように正教会の表記を採用する。振り 仮名・送り仮名の表記に関しては片仮名を平仮名に変えることにした。 3 日本では、「イイスス ハリストス」は一般的に「イエス キリスト」として知られているが、 Ἰησοῦς Χριστός というギリシャ語の聖ニコライによる音写に従い、正教会では「イイスス ハリ ストス」と書かれる。それ故、正教会では「キリスト教」ではなく「ハリストス教」、「キリス ト教徒」ではなく「ハリストス教徒」と言うが、一般的な「キリスト教」、「キリスト教徒」も よく用いられる。ギリシャ語の発音に関しては、西洋で使われるロッテルダムのエラスムス式 と、ギリシャ正教会で使われるヨハン・ロイヒリーンによって体系化された二種類があり、 Ἰησοῦς の η が前者では「ē」、後者では「i」と発音される(Богомолов 2008:5)。9 世紀にスラヴ 民族のためにアルファベットを作り、聖書及び礼拝祈祷文を訳した聖キリル及び聖メフォディ イの翻訳でἸησοῦς の二つの母音 Ἰη が融合して И「イ」として音写されたので、当初 Ἰησοῦς は Исус「イスス」と表記された。総主教ニコン(1605-1681)の改革によって「Ἰη」が Ии「イイ」 となり、Иисус「イイスス」に修正された。いずれにせよ、教会スラヴ語、ロシア語、聖ニコ ライ訳の何れも、エラスムス式の「ē」ではなく、聖キリル及び聖メフォディイの伝統に基づき ロイヒリーン式の「i」と発音する。聖ニコライと一緒に翻訳を行ったパウエル中井は音写の問 題について説明している。「ハリストスの稱呼に就いて、余はニコライ大主教の言を思ひ出す。 嘗て翻訳の際、大主教はギリシャ語のΧριστὸς の字を示して、此の通原本には明にハリストス とあります。キリスト、クリストなどの音がどうしてでませうか。譬へば中井さん、あなたを ぬかゐさん又はねかゐさんと言ったらどうです、といはれた事があった。人々がニコライ大主 教の精神を継がなければならないといふ事は始終聞きますが、尤大切なる神様の稱呼を亂して、 其精神を継ぐ事ができませうか」(中井1931:12)。聖ニコライにとって、教会活動の中で最も重要視されるべき事業が翻訳で あった。彼が新約聖書、奉神礼に不可欠な礼拝祈祷文を日本語に翻訳したお かげで、信者となった日本人は、機密に与り、一いつなる地上の教会及び天上の 教会で神かみに捧げられる神聖な讚美の歌に参祷することができるようになった。 翻訳の際、聖ニコライは「自分の正教会理解を出発点として、自分で日本語 の文章語のさまざまな難しさを克服し、正教のテキストに合致した言葉」を 模 索 した 結果 、「 全く独 自 な日 本語 の 正教 神学 語 彙集 」が 編 集さ れた (Позднеев 1912、中村訳 1986:61-62)。例えば、Богородица を「生神女しょうしんじょ」4、 Богоприимец を「抱神者ほうしんしゃ」5と訳し、教会スラヴ語の語根の一つに対して、漢 字を一つ当てるという聖ニコライの独特の翻訳方法が指摘されている(司祭 ニコライ・ドミトリエフ)6が、今日まで聖ニコライの翻訳の特殊性は十分に 研究されていない。 聖ニコライはΘεός(Бог)の訳語として、神道、仏教、儒教に親しんできた 日本人にとって大昔から馴染みの「神 かみ 」を選択したため、正教の教えを伝え るには何よりもまず神かみが惟一ゆいいちであることを説明する必要があった。なぜなら ば、この教義こそは「神かみによって開示された真の宗教を偽宗教から区別する 重要な前提条件である」からである(Православно-догматическое богословие, Том 1, 1883:76)。しかし、 一ひとつの神かみについての真実は、神かみが惟一ゆいいちであり、その 他に神かみがいないという教えに尽きる訳ではない。この真実の幅は広く、三位 の中に惟一ゆいいちの神性の至聖三者についての教えも、神人かみひとイイスス・ハリストス の藉身 せきしん 7 機密についての教えも、ハリストスにおいて信者が一いつなる教会につ いての教えも包含している。聖ニコライは文脈によって「 一 ひとつ の神 かみ 」、「一 いつ なる 神 かみ 」、「同どう一いつの神かみ」、「 獨ひとり神かみ」、「惟ゆい一いちの神かみ」、「獨どく一いつの神かみ」という表現を使ってい る。こうして神かみが啓示する、正教会の聖師父たちが教える 一ひとつの神かみについての 真実は開花する。 2. 一ひとつの神かみに関する正教会の教え 「神かみが 一ひとつなのは、同類の中でそれぞれが 一ひとつであるのとは異なり(異教の 神 かみ それぞれが他の神々 かみがみ の集団から単独に切り離された時に 一 ひとつ と呼ばれうる 4 Бог に対して「神」、род に対して「生」、ица に対して「女」 5 Бог に対して「神」、приим に対して「抱」、ец に対して「者」 6 http://orthodox-hakodate.jp/wp/wp-content/uploads/2010/09/002_20101021_2.pdf (2016 年 11 月 20 日閲覧) 7 イイスス・ハリストスが身を藉とり、人となったことを示す正教会の訳語である。他の教会で は一般的に「受肉」と呼ばれている。
のは、この意味である)、他に神かみがいないという意味であり、同等の者も、上 位の者も、下位の者も存在せず、 独ひとり彼のみが惟一ゆいいちの神かみであるということだ」 (Православно-догматическое богословие, Том 1, 1883:77)。つまり、神かみは惟一ゆいいち であり、その他の神かみは存在しない(1 コリンフ 8:4)。同時に神かみの性は惟一ゆいいちに して三位である(Православно-догматическое богословие, Том 1, 1883:156)。 「父は神かみであり、子も神かみであり、聖神せいしん°も神かみであるが、三つの神かみではなく、た だ一つ、惟一ゆいいちなる神かみである」(Прп. Иустин (Попович), Том 2, 2006:115)。『三 歌斎經』(1911:63)では「性せいの惟一ゆいいちなる三者さんしゃ、又また位いの三みつなる惟一者ゆいいちしゃ(Единица)」 と歌われている。この秘密は、イイススが洗を受け、「天てん彼かれの爲ために開ひらけ、神かみの 神 しん °鴿はとの如ごとく降くだりて、其その上うえに臨のぞむ」(マトフェイ3:16)時に少し解き明かされ る。「天てんより聲こえありて云いふ、これは我われの至し愛あいの子こ、我わが 喜よろこべる者ものなり」(マト フェイ3:17)。さらに、イイスス・ハリストスが「父ちちと子こと聖神せいしん°との名なに因よ りて洗 せん を授 さづ け」る(マトフェイ28:19)ように使徒等に教える時にも、至聖三者 しせいさんしゃ の三つの位格 いかく が「神 かみ 」という一つの名によって一 いつ にされる。なぜなら、ここ で使われる ὄνομα(имя「名」)が複数形ではなく単数形であるため、主は神かみ 至聖三者しせいさんしゃ の一つの名に因って洗を授けることを教えたからである(Блж. Феофилакт, Том 1, Мф. 28:19, 2015:225)。 一ひとつの神かみについての真実は神かみの一般の性質によっても啓示される。これは 「父と子と聖神せいしん°に同一に備わっている」、「一つの違いもなく三つの位格に同 一に共通」の性質である(Свт. Петр (Могила) 1900:17)。一般の性質とは、主 に無限、完全、自在、不覊 ふ き 、測るべからざること及び在らざる所なきこと、 永遠、不易 ふ え き 、全能である(Православно-догматическое богословие, Том 1, 1883:104)。一般の性質の他に、至聖三者の各位には他の位格と異なる特質が ある。それは「父が他位より生るるにあらず、その本体より子を生み、聖神せいしん° を出ず者なり、子が父より生まれ、聖神せいしん°が父より出ずる」8ことである (Православно-догматическое богословие, Том 1, 1883:254)。 至善なる聖三者せいさんしゃの摂理は堕落した人類の救いを中心としている。人々への この計り知れない愛は主イイスス・ハリストスの藉身せきしん機密を通じて絶頂を極 める。「ハリストスは惟一 ゆいいち であり、主は惟一 ゆいいち であり、子は惟一 ゆいいち であり、彼は同 一に神かみ及び人、同一に完全なる神かみ及び完全なる人、全き神かみ及び全き人である が、一いつなる複雑な位が神性及び人性という二つの完全なる性質からなり、神 性 及 び 人 性 と い う 二 つ の 完 全 な る 性 質 に お い て で あ る 」(Прп. Иоанн 8 原文はロシア語だが、この翻訳にあたって特定の用語の日本語訳は『基督正教定理神学』 (1889)を参照した。なお、「その本体より」はロシア語原文では cам である。
Дамаскин, Слова на Успение Богоматери)9。 同一どういつなる神人かみひとイイスス・ハリストスによって教会は一いつである(Прп. Иустин (Попович), Том 3, 2006:479)。信者の中で神かみは一いつであり、全ての人々が真実を 知り、救われ、神かみにおいて一いつなることを望んでいる。「願ねがはくは皆みな一いつと爲ならん、 父 ちち よ、 爾 なんぢ が我 われ に在 あ り、我 われ も 爾 なんぢ に在 あ るが如 ごと く、願 ねが はくは彼等 かれら も我等 われら に在 あ りて 一 いつ と爲ならん…我等われらの一いつなるが如ごとく、彼等かれら の一いつと爲ならん爲ためなり。我われは彼等かれらに在あ り、 爾なんぢは我われに在あり、彼等かれら をして一いつに成全せいぜんせしめん爲ため」(イオアン 17:21-23)。 この 言ことばは神かみによって置かれた、惟一ゆいいちの基なるイイスス・ハリストスの教会に おいてのみ実現される(1 コリンフ 3:11)。聖体機密をはじめ、聖なる機密を 通じて、信者は主イイスス・ハリストスに在って一いつなり(ガラティヤ3:28)、 互いにも一いつなり、ハリストスの 一ひとつの体を成す。体において 一ひとつであり、個人 において多数なる教会は位の三なる一体、一体なる三者、すなわち至聖三者 の像を象る(Прп. Иустин (Попович), Том 3, 2006:480)。 3. 課題と方法論 本研究は、教会スラヴ語で多くの場合に同じедин が用いられる 一ひとつの神かみに 関する様々な表現に注目する。聖ニコライが「惟ゆい一いち」、「獨どく一いつ」、「一人いちにん」、「 一ひとつ」、 「一いつ」、「同どう一いつ」、「 獨ひとり」という表現を使って、един の様々なニュアンスを別の 表現で差別化することで、神かみが啓示し正教会の聖師父たちが教える通り、一ひとつ の神かみについて真実に尽きることのない豊かさをあらわにしたことを示すのは 本研究の目的である。そのためにまず日本最大の国語辞典『日国』10によって 各語の語彙意味を分析する。この辞典は聖ニコライの時代に発行された『言 海』(1889-1891)を含めて、平安時代から明治中期までに編まれた代表的な辞 書を参照している。『言海』は日本初の近代的国語辞典である故、当時の語彙 の意味を網羅するには限界があることから、本稿では『言海』には必要に応 じてのみ言及する。逆に『日国』では各意味の用例がもっとも古いと思われ るものから新しいものへと順次並べてあるので、聖ニコライ時代の意味を判 断できる。次に各表現を聖ニコライ訳の1901 年の新訳聖書から抽出し、初期 及び後期の礼拝祈祷文の翻訳の特徴と比較しつつ、聖ニコライ訳の通時的な 変化過程を探る。 9 https://azbyka.ru/otechnik/Ioann_Damaskin/tri-pokhvalnykh-slova-na-uspenie-bogomateri/(2018 年 11 月 24 日閲覧) 10 本稿では『日本国語大辞典第二版』(2000~2002)を『日国』と略す。ジャパンナレッジ Lib を参照したため、頁番号は記載しない。
聖ニコライ日記によると、新約聖書の翻訳に際して、聖ニコライとその助 手パウェル中井は三つのギリシャ語のテキスト、二つのラテン語のテキスト、 スラヴ語・ロシア語・英語・フランス語・ドイツ語のテキスト、三つの中国 語のテキスト、日本語のテキスト、ロシア語・英語で書かれた注解書を参照 していた(全日記、第4 巻、1896 年 12 月 8 日、2007:271)11。これらのテキ ストの中で何にもまして優先されるべきはギリシャ語と教会スラヴ語のテキ ストである。新約聖書(マトフェイ聖福音を除く)12が書かれたのはギリシャ 語によって13であり、教会スラヴ語訳は正教会の伝統、聖キリル及び聖メフォ ディイの伝統を大事にしている。 ギリシャ語のテキストとして、本研究ではティッシェンドルフの新約聖書 第8 版(1869-1872)及び総主教テキスト(1904)を使用した14。前者は、ド イツの聖書学者コンスタンティン・フォン・ティッシェンドルフがシナイ山 の聖エカテリナ修道院で発見し、その後ロシア皇帝に献上したシナイ写本が 底本となっている。このように、このテキストの起源は正教会にあってロシ アとの関わりが深く、出版されたのは聖ニコライの訪日後である。総主教テ キスト(1904)とは、コンスタンティノポリ総主教庁の祝福の上、9-16 世紀 に奉神礼で通年使われた新約聖書の読み(лекционарий)を元に作られたテキ ストで、聖ニコライの翻訳以降に出版されたが、正教会の奉神礼の伝統をよ く反映している。 教会スラヴ語のテキストとしては、いわゆる『エリザベータ聖書』を参照 する。このテキストはエリザベータ女帝の時代の 1751 年に初めて発行され たもので、奉神礼で朗読される新約聖書と聖詠経が特別に取り扱われ、ほと んど修正されなかったので、奉神礼のテキストに非常に類似している (Бобрик 2010:443)。本研究では、1876 年版をオプティナ修道院が 1998 年に 11 本稿では『宣教師ニコライの全日記』を『全日記』と略す。日付に関して聖ニコライは旧暦 及び新暦の日付を併記しているが、本稿では新暦、すなわち現在一般に使われている暦の日付 を記す。 12 マトフェイ聖福音は初めヘブライ語で書かれたが、最初期にヘブライ語からギリシャ語に 訳されたという意見がある(Еп. Михаил (Лузин) 1899:8-9)。 13 新約聖書のギリシャ語とは、いわゆる koine dialektos であり、アレクサンドロス 3 世(紀元 前356-323 年)の時代に地中海地域で広まった共通の、いくぶん単純化にされ、方言の特徴も なかった言語であり、それから一世紀も経たない紀元前 3 世紀までには定着していた (Верещагин, 2000:55-56)。 14 これらのギリシャ語テキストについては http://www.onlinegreekbible.gr/を参照する。そこで 使用される略語「Tischendorf」(ティッシェンドルフの新約聖書第 8 版)、「PT/GOC」(総主教テ キスト(1904))を本研究でも適用する。文中におけるギリシャ語の新約聖書からの引用には PT/GOC を使用する。
翻刻したテキストに準拠する15。 シノド版ロシア語訳は 1876 年に初めて発行された。新約聖書のロシア語 訳に関して、1868 年という早い段階で既に聖ニコライはロシア語と教会スラ ヴ語のテキストの間にある相違は通常前者に不利に働くと指摘している (Арх. Николай (Касаткин) 1869:249)。それにも拘らず、聖ニコライはロシア 語訳を参照したし、聖詠経、旧約聖書の部分訳を主にこのテキストに基づい て行った(Бесстремянная 2006:214)。本研究では 1870 年のシノド版ロシア語 訳新約聖書16を使用している。 聖ニコライが日記で言及している三つの中国語訳は、ロシア正教会の北京 ミッションの司祭グーリー訳、英国聖書協会訳及び米国聖書協会訳である(加 藤2003:107)。その他にも、聖ニコライは中国語訳の中で最も優れていると考 えた聖公会のシェルシェフスキー訳(1898)も持っていた(全日記、第 5 巻、 1899 年 1 月 2 日、2007:240)。本研究ではグーリー訳(1864)、英国聖書協会 訳(1857)、米国聖書協会訳(1863)及びシェルシェフスキー訳(1898)を参 照し、脚注でそれぞれ「グ」、「英」、「米」、「シェ」と記す。中国語訳を参照 することによって、聖ニコライの翻訳で使われた漢字の特徴を追求すること が可能になる。日本語のテキストとして、上田訳(1892)及び「明治元訳」 (1887)を参照し、脚注でそれぞれ「上田」、「明治」と記す。前者は聖ニコ ライの日本語に非常に役立ったことが知られている(全日記、第4 巻、1895 年10 月 10 日、2007:86)。後者は聖ニコライの時代に発行されたものである ことから、それを参照することによって、聖ニコライの語彙の読みの特徴を 明確にできるだろう。これらの翻訳では分析対象の語彙に相当する訳語がな い場合は「x」で記す。ここで注意しておきたいのは、本稿で分析に使うテキ ストは聖ニコライの時代のものであるけれども、必ずしも聖ニコライがそれ らを使ったという意味ではなく、違う出版年のものを持っていた可能性もあ ることから、あくまでもそれらとの比較によって正教会用語の特徴を示すこ とが目的である。 礼拝祈祷文に関しては、聖ニコライの初期の『祈祷祭文』として知られる 『朝晩祈祷 曁および聖体礼儀祭文』を分析する。『祈祷祭文』には三種類あり、そ 15 一般的に読みやすくするために、http://www.my-bible.info/biblio/bib_tsek_rus/を参照し、教会 スラヴ語の文字をロシア語文字に転写し、現在よく使われるгражданский шрифт「世俗文字」 を適用している。 16 1870 年のロシア語ではまだ教会スラヴ語の幾つかの文字が使われているため、それらに関 してもhttp://www.my-bible.info/biblio/biblija/index.html を参照し、現在の文字に転写されたもの を適用している。
の一つはより早いもので、二つはより遅く印刷され、修正箇所を含んでいる。 ダヴィド水口神父は前者を『祈祷祭文元本』、後者の二つはそれぞれに記載さ れた信徒の名前によって『田口本』及び『渡辺本』と呼んでいる(水口2003:17)。 本研究では、前者の『祈祷祭文元本』を分析している。それに印刷年の記載 はないが、ダヴィド水口神父の調査から1877 年〜1880 年の間に印刷された ことが判明した(水口2003:18)17。『祈祷祭文』の他に、必要に応じて『時課 經』(1884)、『八調經略』(1884)、『奉事經』(1894)も参照する。後期の礼拝 祈祷文として、『三歌斎經』(1911)を使用するが、『八調經』(1909)、『五旬 經略』(1903)からの例も挙げる場合がある18。 4. 聖ニコライの翻訳における「惟ゆい一いちの神かみ」及び「獨一どくいつの神かみ」 4.1 「惟ゆい一いち」・「惟ゆい一いつ」・「獨一どくいつ」、「一いち」・「一いつ」の意味 『日国』によると、「惟 ゆい 一 いち 」、「惟 ゆい 一 いつ 」及び「獨一 どくいつ 」は同じ‘ただ一つ’を意 味する(表1)19。「惟 ゆい 一 いち 」の『日国』における用例は13 世紀前〜19 世紀のも ので、「惟ゆい一いつ」の用例は20 世紀初頭からのものである。つまり、19 世紀の終 わりから「惟ゆい一いち」が徐々に「惟ゆい一いつ」に取って代わったのである。聖ニコライ の早期の翻訳で「惟ゆい一いつ」も見られるが、後期の翻訳で「惟ゆい一いつ」が登場せず、 「惟ゆい一いち」 及び 「獨一どくいつ」が用いられている。では、聖ニコライはこれらを区 別していたのだろうか。 表 1 『日国』による「惟ゆい一いち」、「惟ゆい一いつ」、「獨一どくいつ」の意味 単語 意味 ゆいいつ 【唯一・惟一】 ただ一つであること。ゆいいち。ゆいつ。 ゆいいち 【唯一・惟一】 ただ一つであること。ゆいいつ。ゆいつ。 どくいつ 【独一】 ただ一つあるもの。独自のもの。 これらの問いに答えるために、「一いつ」及び「一いち」の意味に注目する。「一」 という字は一方で‘一つ’を意味する数詞として使われるが、他方‘全体’、 ‘未分化の状態’、‘一つにまとまる、集中する’意味でも用いられる(『漢字 17 以下『祈祷祭文元本』(1877 年〜1880 年)を『祈祷祭文』或いは『祈祷祭文』(1877)と呼ぶ。 18 教会スラヴ語訳については、https://azbyka.ru/bogosluzhenie/を参照するが、『三歌斎經』に関 しては各例をキエフ洞窟修道院所蔵の『Триодион』(1851 年)を調べ、語彙の変化があった場 合は脚注で記す。 19 『日国』によると二つ目の意味として「惟ゆい一いち」及び「惟ゆい一いつ」は‘「ゆいいつしんとう(唯一 神道)」の略’、「獨一どくいつ」は‘仏語。独一覚の意で、他より教えを受けずひとりで修行し悟りを得 た者’を意味する事がある。
語源語義辞典』2014:30-31)。「一いつ」は『日国』によると、‘いくつかに分けた ものの一つ’、‘同じこと、同様、同一’、‘一つに集中すること、合同、統一’ という三つの意味を持つ。‘一つに集中すること、合同、統一’の意味の用 例として『日国』は「…心を一にして」を挙げている。『日国』によると、こ の意味の「一 いつ 」は5 世紀の『大智度論』という漢籍にすでに登場したが、日 本語のもっとも古いと思われる用例として『教育に関する勅語』(1890 年) の文例が記載されているので、当時かなり新しい意味だったと判断できる。 それはこの意味が『言海』(1889-1891:67)に掲載されていない理由、聖ニコ ライの初期の翻訳ではこの意味での「一いち」も「一いつ」も用いられたが、後期の 翻訳でははっきりと区別されるようになった理由の一つだと考えられる。 「一いち」は‘いくつかに分けたものの一つ’、‘最初、第一番目’、‘最もすぐれ ていること、第一、最上’、‘多くの中の不確定な一つ、ある’などの意味が あるが、「一 いつ 」と異なり、‘一つに集中すること、合同、統一’のニュアンス はない(『日国』)。これは大きな相違であり、聖ニコライが箇所によって「一 いつ 」 ではなく「一いち」、「惟一ゆいいつ」ではなく「惟一ゆいいち」を選んだ根拠となり得る。 最初に「惟一ゆいいちの神かみ」に注目し、この表現がいかなる文脈、いかなる翻訳で 使われ、通時的な変化が起こったのかを探ることにする。 4.2 聖ニコライの翻訳における「惟ゆい一いちの神かみ」 聖ニコライの初期の翻訳では、「惟一」・「唯一」をいかなる文脈でどのよう に読むかまだ定まっていなかった。例えば、『祈祷祭文』(1877:70)では едино Божество, едина Сила が「唯一ゆういちの天主 かみ 唯一 ゆういち の 能力 のうりょく 」と訳されたが、『時課經』 (1884:18, 122, 242)では「唯一ゆういち」が「惟一ゆいいつ」に直された。『時課經』(1884) の全箇所において「惟一」が「ゆいいつ」と読まれるが、『八調經略』(1886:102) に「唯一ひとつの教會」(едину…Церковь)が出現し、『八調經 巻一』(1909:758)で は「惟一ゆいいちの教會」に修正された。 新約聖書の1 コリンフ 8:4 では Θεὸς … εἷς(Бог …един)が出現するのだ が、聖ニコライは「惟ゆい一いちの神かみ」と訳したのである(表 2)。「我等われら 知しる、偶像ぐうざう は世 よ に虚無 きょむ にして、惟 ゆい 一 いち の神 かみ の外 ほか に他 た の神 かみ なし」(1 コリンフ 8:4)。この箇所 では「なんの力もなく、神かみでもなく、石である」偶像が真の神かみ、惟一ゆいいちの神かみと 対比される(Свт. Иоанн Златоуст 2010a:237)。
表 2 聖ニコライ訳の新約聖書における「惟ゆい一いちの神かみ」 箇所 聖ニコライ (1901) ギリシャ語 教会スラヴ語 シノド版 ロシア語 Tischendorf PT/GOC 1 コ リン フ 8:4 我 われ 等ら知しる、偶ぐう 像 ざう は世よに虛きょ無む にして、惟ゆい一いち 20の神かみの外ほかに 他たの神かみなし。 οἴδαμεν ὅτι οὐδὲν εἴδωλον ἐν κόσμῳ, καὶ ὅτι οὐδεὶς θεὸς εἰ μὴ εἷς. οἴδαμεν ὅτι οὐδὲν εἴδωλον ἐν κόσμῳ, καὶ ὅτι οὐδεὶς Θεὸς ἕτερος εἰ μὴ εἷς. вемы, яко идол ничтоже есть в мире, и яко никтоже Бог ин, токмо един. мы знаем, что идол в мире ничто, и что нет инаго Бога, кроме Единаго. 1 コリンフ 8:4 の英国聖書協会訳では「只一」、その他の中国語訳において は「獨一」が登場するが、聖ニコライが「獨一」を適用しなかったことから、 「獨一どくいつ」と「惟ゆい一い ち」を区別していたことが推測できる。「惟ゆい一いち」は、「惟ただ」及 び「一 いち 」の組み合わせによって‘神 かみ が惟 ただ 一 いち であり、その外に神 かみ がない’ニュ アンスを表しているが、ここで「一 いつ 」としないのは「一 いつ 」に‘一つにまとま る、集中する’意味が備わるからだ。 後期に訳された千頁以上の『三歌斎經』(1911)では「惟一」が「ゆいいつ」 と読まれる例は一つもない。これが、聖ニコライが「惟一」に「ゆいいち」 の読みを当て、‘ただ一つしかない’を表現するために選んだ証拠である。 『日国』は「惟一ゆいいち」と「惟一ゆいいつ」の意味を区別しないのだが、‘一つにまとま る、集中する’ニュアンスを表現する 「一いつ」が「惟一ゆいいつ」の意味領域に含まれ るためか、聖ニコライはもはや「惟一 ゆいいつ 」を使わない。 表 3 『三歌斎經』(1911)における「惟ゆい一いち」 聖ニコライ訳 教会スラヴ語 1 我われ惟ゆい一いちの性せいの實在じつざいの三位さんい、生うまれざる父ちち、 生うまれし子こ、及および聖神せいしん°、無原むげんなる國 くに 、 權柄けんぺい、惟ゆい一いちの神性しんせいを歌うたふ。(36 頁) Триединаго Естества пою, Лица самоипостасная, нерожденна Отца, Сына рождшагося, и Духа Святаго: безначальное Царство, власть, Божество едино. 2 父ちち、子こ、及および至聖しせいなる神しん°よ、我われなんぢ爾を 神性しんせいの惟一ゆいいちなる者ものとして歌うたひ、 爾なんぢを位いの 三みつなる者ものとして 尊たふとみ、 爾なんぢの國くにの無原むげんな る權柄けんぺいを世世よよ に讃榮さんえいす。(45 頁) Яко Единицу Существом пою Тя, яко Троицу Лицы Тя чту: Отче, и Сыне, и Душе Пресвятый, безначальную державу Твоего Царствия славлю во веки. 3 我われは性せいに於おいて惟一ゆいいちにして無原むげんなる神性しんせいに 伏拜ふくはいし、位いに於おいて三者さんしゃの中うちに單一たんいつにして 分わかれざる同寶座どうはうざの惟一ゆいいちの神かみを讚榮さんえいす。(78 頁) Единому покланяюся Естеством безначальному Божеству, треми же Лицами славлю в Троице Единицу нераздельную, и сопрестольную. 20 英「只一」、米「獨一」、グ「獨一」、シェ「獨一」、明治「 獨ひとりの」
表3 に示すように、「惟一ゆいいち」は「惟一ゆいいちの性せい」、「神性しんせいの惟一ゆいいちなる者もの」、「性せいに於おい て惟一ゆいいち」という表現、すなわち至聖三者の性の文脈において用いられる。三 つ目の例では、教会スラヴ語の Единица に対して聖ニコライは「惟一ゆいいちの神かみ」 を用いる。興味深いのは、至聖三者の性の文脈において、「一いつ」ではなく、「一いち」 を使って、聖ニコライは Умно Божественную Единицу, в три Лица просто купно еже пресещи совокупляю несекомая を「我われ意思いし の中うちに神かみの單一たんいつの性せいを 三位さんいに分わかちて、之これを截きられざる者ものとして復また一いちに合あわす」(『三歌斎經』1911:39) と訳していることである。しかし、例えば、教会の文脈で同じсовокупить と いう動詞の場合、聖ニコライは 「一いつ」を用いている(詳しくは6.2.2.で述べる)。 至聖三者に関係のない文脈において、聖ニコライは「 唯一ただひとつ」を用いる。例 えば、『三歌斎經』(1911)では「 唯一ただひとつの食(единаго вкушения)」(656 頁)、 「父よ、爾の祝福は豈 唯一ただひとつならんや(еда едино есть благословение у тебе отче)」 (867 頁)が挙げられる。 4.3 聖ニコライの翻訳における「獨どく一いつの神かみ」 聖ニコライの初期の翻訳に於いて「獨一」は「どくいち」、「どくいつ」及 び「ひとり」と読まれる場合があった。例えば、『祈祷祭文』では「獨一どくいちの子こ (Сыне Единородный)」(70 頁)、「神かみの 獨一ひとり の 子こ 」(77 頁)、「獨一子とくいつし (Единороднаго Сына)」(100 頁)が出現するが、『時課經』(1884)ではそれ ぞれ「獨生どくせいの子こ」(18 頁)、「神かみの獨生どくせいの子こ」(141 頁)、「獨生子どくせいし」(231 頁)に 修正された。つまり、かなり早い段階で聖ニコライがединородный を「獨生 どくせい 」 と訳したことで、「獨一 どくいつ 」を異なる意味で使うことが可能になった。『時課經』 (1884:305)の八調の生神女讃詞で「獨一どくいつ」の最初の定義が出現する。それは すなわち、「 二ふたつの性せいにて 一ひとつの 位くらいある獨一子どくいつし なり」(Един есть Сын, сугуб естеством, но не Ипостасию)という定義であり、「獨一どくいつ」の「獨」は主がただ 独りであることを示し、「一いつ」は主イイススの二性が一いつなり、一位をなすこと を表している。つまり、『日国』の「獨どく一いつ」及び「惟ゆい一い ち」が同じだが、聖ニコ ライは初期の段階から「獨一どくいつ」の意味を拡張したと言える。 次に新約聖書で「獨 どく 一 いつ 」がどんな文脈の中で用いられるか考察する。「願 ねが は くは尊そん敬けいと 光くわう榮えいとは、萬ばん世せいの王わう、壊やぶる可べからず見みる可べからざる獨どく一いつ睿えい智ちの神かみ に、無むきゅう窮の世よに歸きせん」(1 ティモフェイ 1:17)。「萬ばん世せいの王わう」とは、神かみ父ちちのみ ならず、世々の創造者である独生の子こや、エウレイ9:14 で αἰωνίου21と名付け
21 αἰώνιος は A Greek-English Lexicon(Liddell and Scott 1996:45)によると‘lasting for an age,
perpetual, eternal(永遠の、永久の)’意味を持っている。教会スラヴ語訳のエウレイ 9:14 では Духом Святым となっている。
られた聖神せいしん°のことでもある(Блж. Феодорит, 1 Тим.1:17, 2013:629)ように、 「壊やぶる可べからず」、「見みる可べからざる」性質は子こにも聖神せいしん°にも備わるものとい うのである(Блж. Феодорит, 同上)。「睿えい智ち」も、至聖三者しせいさんしゃ の智の性質であり、 三つの位格に等しく備わっている(Православно-догматическое богословие, Том 1, 1883:127)。この文脈において μόνος を「獨どく一 いつ 」と訳する聖ニコライは、 「獨どく」によって‘ただ、のみ’という意味を表し、「一いつ」によって至聖三者しせいさんしゃ の 三つの位格が‘一いつであること’を表すのではないだろうか。そうだと仮定す ると、聖ニコライ訳の「獨どく一いつ」は、『日国』の定義‘ただ一つあるもの’を表 すのではなく、二つの意味を合わせていると考えられる。「獨どく一いつ」の同様の使 い方はイウダ1:25 及び 1 ティモフェイ 6:15-16 にも見られる。「獨どく一いつ睿えい知ちの 神 かみ 」(イウダ1:25)、「獨どく一いつ權けん能のうなる神かみ」(1 ティモフェイ 6:15)、「獨どく一いつ不ふ死しを 表 4 μόνος Θεός に対する聖ニコライの「獨一どくいつの神かみ」 箇所 聖ニコライ (1901) ギリシャ語 教会スラヴ語 シノド版 ロシア語 Tischendorf PT/GOC イオアン 5:44 獨一どくいつ22の神か み よりする榮えい を求もとめずし て καὶ τὴν δόξαν τὴν παρὰ τοῦ μόνου θεοῦ οὐ ζητεῖτε; καὶ τὴν δόξαν τὴν παρὰ τοῦ μόνου Θεοῦ οὐ ζητεῖτε; и славы, яже от единаго Бога, не ищете а славы, которая от единаго Бога, не ищете? 1 ティモ フェイ 1:17 獨一どくいつ23睿えい知ち の神かみ μόνῳ θεῷ, μόνῳ σοφῷ Θεῷ, единому премудрому Богу единому премудрому Богу 1 ティモ フェイ 6:15 有いう福ふくにして 獨一どくいつ24權けん能のう なる神かみ ὁ μακάριος καὶ μόνος δυνάστης, ὁ μακάριος καὶ μόνος δυνάστης, блаженный и един сильный блаженный и единый сильный 1 ティモ フェイ 6:16 獨一どくいつ25不ふ死し を有たもつ者もの ὁ μόνος ἔχων ἀθανασίαν, ὁ μόνος ἔχων ἀθανασίαν, един имеяй безсмертие Единый имеющий безсмертие イウダ 1:25 獨一どくいつ26睿えい知ち の神かみ、我われ等ら の救きう主しゅ μόνῳ θεῷ σωτῆρι ἡμῶν μόνῳ σοφῷ Θεῷ σωτῆρι ἡμῶν, единому премудрому Богу и Спасу нашему Единому Премудрому Богу, Спасителю нашему 22 英「只」、米「獨」、グ「獨一」、シェ「獨一」、明治「x」 23 英「獨自一」、米「獨一」、グ「獨一」、シェ「獨一」、明治「 一ひとり」 24 英「獨一」、米「獨一」、グ「獨一」、シェ「獨一」、明治「獨一ただひとり」 25 英「x」、米「惟」、グ「獨一」、シェ「獨一」、明治「獨一ただひとり」 26 英「獨一」、米「獨一」、グ「獨一」、シェ「獨一」、明治「獨一ひとり」
有 たも つ者もの」(1 ティモフェイ 6:16)における「睿えい知ち」、「權けん能のう」、「不ふ死し」も至聖三者しせいさんしゃ の性質であるため、聖ニコライはμόνος(един)を「獨どく一いつ」と訳し、‘惟一ゆいいち’ 及び‘三つの位格が一いつなる’意味を同時に生かせている。イオアン 5:44 の μόνου Θεοῦ(единаго Бога)も聖ニコライ訳において「獨一どくいつ」と訳され、人々 からの栄ではなく、獨一 どくいつ の神 かみ 、すなわち至聖三者 しせいさんしゃ からの光栄を求めるべきで あるという(表4)。他訳においては、これらの箇所において「獨一」が用い られる場合が多いが、「惟」、「一」も出現することがあり、「獨一」が「ひと り」又は「ただひとり」と読まれる場合もある。 新約聖書では、聖ニコライが「獨どく一いつ」を使う箇所がもう二つある(表 5)。 イオアン17:3 においてイイススは「永えい遠えんの生命いのち とは、 即すなはちなんぢ爾、獨どく一いつの 眞まことの 神 かみ 、及および 爾なんぢが 遣つかはししイイスス ハリストスを知しること是これなり」という。この 箇所では「及びκαὶ(и)」があるにも拘らず、それが他より排除する機能でな く、区別する機能を果たす(Иоанн Златоуст, Ин. 17:1-5)27。「神 かみ 父 ちち が獨一 どくいつ であ ると呼ばれるにも拘らず、子 こ も神 かみ であるし、神 かみ 父 ちち は獨 どく 一 いつ の真の神 かみ であると呼 ばれるにも拘らず、神かみ子こも真の神かみである」(Иоанн Златоуст, 同上)。つまり、 聖ニコライは「獨どく一いつ」を用いたおかげで、イイススが神かみ父ちちと一体であり、神かみ 父 ちち と同じく「 眞まことの神かみ」であることを表している。 二つ目の箇所イウダ1:4 では、聖使徒は、「獨どく一いつの主しゅ宰さい神かみ及および我わが主しゅイイス ス ハリストスを拒こばばむ者もの」を責め、彼らを「不ふ敬けい虔けんの人ひと人びと」と呼ぶ。それは ハリストス教の最初期から、万世よろづよの前さきに在るイイスス及び母より生まれたイ イススが異なる者であると主張した異端者であった(Блж. Феофилакт, Том 2, Иуд. 1:4, 2015:622)。しかし、万世よろづよの前 さき に在る神 かみ ・ 言 ことば 、聖神 せいしん °及び童貞女どうていじょマリ ヤより身を藉と り人となったイイススは、 惟独ただひとりであり、一位を成す(Блж. Феофилакт, 同上)。従って、聖ニコライ訳の「獨どく一いつ」は‘ただ独り’の意味 と‘二性一位’の意味を統合しているのではないかと推測できる。他訳では 「獨一」も登場するが、他の訳語も用いられる。 27 https://azbyka.ru/otechnik/Ioann_Zlatoust/besedy-na-evangelie-ot-ioanna/80 (2017 年 7 月 25 日閲 覧)
表 5 イオアン 17:3 及びイウダ 1:4 における「獨どく一いつ」 箇 所 聖ニコライ (1901) ギリシャ語 教会スラヴ語 シノド版 ロシア語 Tischendorf PT/GOC イ オ ア ン 17:3 即 すなはち 爾 なんぢ 、 獨一どくいつ28の 眞まこと の神かみ、及および 爾 なんぢ が 遣つかはしし イイスス ハ リストスを 知しること是これ なり。 ἵνα γινώσκωσιν σὲ τὸν μόνον ἀληθινὸν θεὸν καὶ ὃν ἀπέστειλας Ἰησοῦν Χριστόν. ἵνα γινώσκωσί σε τὸν μόνον ἀληθινὸν Θεὸν καὶ ὃν ἀπέστειλας Ἰησοῦν Χριστόν. да знают тебе единаго истиннаго Бога, и егоже послал еси Иисус Христа. да знают Тебя, единаго истиннаго Бога, и посланнаго Тобою Иисуса Христа. イ ウ ダ 1:4 獨一どくいつ29の主宰しゅさい 神かみ及および我わが 主しゅイイスス ハリストス τὸν μόνον δεσπότην καὶ κύριον ἡμῶν Ἰησοῦν Χριστὸν τὸν μόνον δεσπότην καὶ Κύριον ἡμῶν Ἰησοῦν Χριστὸν и единаго Владыки Бога и Господа нашего Иисуса Христа единаго Владыки Бога и Господа нашего Иисуса Христа. イオアン 17:3、イウダ 1:4 の場合、中国訳においては「獨一」が出現する 場合が多いが、聖ニコライ訳における意味と異なる可能性がある。例えば、 『明治元訳』(1877)において「獨一」が多くの場合「ただひとり」と読まれ るのだが、それは『日国』で記載される意味である。『明治元訳』(1877)の 表5 の二箇所(脚注 28、29)では、「 唯獨ただひとり」及び「 惟一ただひとり」という異なる漢字 の組み合わせが用いられている。 後期の聖ニコライの翻訳では「獨一どくいつ」がイイスス(二性一位)の場合、至 聖三者(三位一体)の場合に使われている30。「獨一どくいつ」及び「惟一ゆいいち」が同じ文 章の中で登場する例に注目する。 28 英「獨一」、米「獨一」、グ「獨一」、シェ「獨一」、明治「唯獨ただひとり」 29 英「一」、米「獨一」、グ「獨一」、シェ「獨一」、明治「惟一ただひとり」 30 さらに、1909 年の『八調經』においては生神童貞女マリヤに用いられる「獨一どくいつ」の例があ る。例として、『八調經』(1909)の「 言ことばの神聖しんせいなる幕まくと爲なりし獨一どくいつ至淨しじゃうなる童貞女どうていぢょ母はは」(546 頁)、 「 言ことばの母はは、獨一どくいつの永貞えいてい童女どうぢょよ」(929 頁)が挙げられる。この例では童貞女どうていじょマリヤより主イイ スス・ハリストスが生まれ、生神女マリヤにおいて生うむ性質及び童貞どうていを守まもる性質が奇蹟的に一いつ となったことが讃美されるので、聖ニコライは「獨一どくいつ」を用いている。
表 6 『三歌斎經』(1911)における至聖三者を指す「惟一ゆいいち」及び「獨一どくいつ」 聖ニコライ訳 教会スラヴ語 1 爾なんぢは身みを取とりたれども、我われなんぢ爾が三者さんしゃの 一いつなるを知しりて、 爾なんぢ身みを取とりたる惟一ゆいいちの 子こ、種たねなく生神女しょうしんじょより生うまれ、父ちち及および 聖神せいしん°と偕ともに崇あがめ讃ほめらるる獨一子どくいつしを 讃榮さんえいす。(933 頁) Единаго от Троицы вем Тя, аще и воплотился еси, единаго и славлю, Сына воплощенна, от Богородицы безсеменно прозябшаго, и со Отцем и Духом единаго Сына славословима. 2 我われは三位さんいなる惟一ゆいいちの神性しんせい、父ちち、子こ、 聖神せいしん°、三質さんしつに分わかるる獨一どくいつの神元しんげんの權柄けんぺい を歌うたふ。(61 頁) Троичнаго единства Божество пою, Отца, и Сына, и Божественнаго Духа, единаго начала державу, соразделяемаго треми начертаньми. 3 我われは性せいの惟一ゆいいちなる三者さんしゃ、又また位いの三みつなる 惟一者ゆいいちしゃ、父ちち、子こ、聖神せいしん°、惟一ゆいいちの 能力のうりょくと 意思いし と行動かうどうとを歌うたふ。三聖さんせいの神かみは獨一どくいつに して、其その國くにと權柄けんぺいとは惟一ゆいいちなり。(63 頁) Три едино31 Существом, и едино Лицами, Три пою Сия: Отец, Сын, и Святый Дух, едина сила, хотение и действо. Един Бог Трисвятый, Царство едино единоначальнейшее. 4 獨一どくいつの神性しんせいの中うちに三位さんいなる惟一者ゆいいちしゃ、生うまれ ざる神かみ父ちち、獨生どくせいの子こ及および惟一ゆいいちの聖神せいしん°、 王わうたる惟一ゆいいちの權柄けんぺいよ、我等われらしゅうじん衆人を救すくひ給たま へ。(857 頁) В Божестве едином триипостасная Единице, Отче нерожденне Боже, и Сыне единородне, и едине Святый Душе, единоцарственная державо, спаси вся ны. 5 獨一どくいつ權能けんのうなる三位さんいの惟一者ゆいいちしゃ、萬世ばんせいの 宰つかさた る父ちち、子こ、聖神せいしん°よ、天使てんしの大數たいすうと 全人類ぜんじんるいとは 爾なんぢを讃榮さんえいす。(872 頁) Единоцарственная, триипостасная Единице, господство и Царство веков, Тя славят Отца, и Сына, и Святаго Духа, множество ангел, и все естество человеческое. 表6 の最初の例は、イイスス・ハリストスについてである。この例の教会 スラヴ語訳では同じ един が三回使われるが、聖ニコライは三回とも異なる 訳語を用いる。Единаго от Троицы を「三者さんしゃの一いつなる」と訳することによって、 イイスス・ハリストスが人体をとった存在であるにも拘らず、神性において 常に父及び聖神せいしん°と一いつなることを示した。次に、「惟一ゆいいちの子こ」を使うことによ って、イイスス・ハリストスが「種たねなく生神女しょうしんじょより生うまれ」し、ただ独りの子 であることを明らかにしている。最後に、今までの文章を結論づけるかのよ うに、二つの意味を合わせた「獨一子どくいつし」を用いた。 表6 の例 2 から 5 は至聖三者についてであり、「三位さんい なる惟一ゆいいちの神性しんせい」(例 2)、「性せいの惟一 ゆいいち なる三者 さんしゃ 、又 また 位 い の三 みつ なる惟一者 ゆいいちしゃ 」(例 3)、「三位 さんい なる惟一者 ゆいいちしゃ 」 (例4)、「三位 さんい の惟一者 ゆいいちしゃ 」(例5)という表現自体が「獨一 どくいつ 」の定義であると 31 キエフ洞窟修道院の図書館所蔵の『Триодион』(1851:35)では Три едину となっている。
考えられる。‘ただ一いち、惟一ゆいいち’という意味及び‘三つの位格が一いつなる’という 意味を表している表現があるからこそ、聖ニコライは「獨一どくいつ」を選んでいる。 次に斷肉主日早課の第九歌頌の聖三者讃詞に注目する。この讃詞の教会ス ラヴ語訳でедин が九回使われていることは、興味深い例であるが、意味区分 はかなり判読しづらいものとなっている。それでも聖ニコライが『三歌斎經』 (1911)の 67 頁に「惟一ゆいいち」及び「獨一どくいつ」の意味を区別して訳したことで、そ の意味がよりわかりやすくなっている。この讃詞は『三歌斎經』(1911)では 再び数回出てくるのだが、聖ニコライは内容のわかりやすさを配慮して、そ れ以降は「惟一ゆいいち」を削り、より意味の広い「獨一どくいつ」のみを残し、翻訳に省略 を施している。 表 7 『三歌斎經』(1911)の斷肉主日早課の聖三者讃詞における「惟一ゆいいち」、「獨一どくいつ」 聖ニコライ訳 教会スラヴ語 獨一どくいつ生せいの子この惟一ゆいいちなる父ちち、 獨一どくいつの 光ひかりの惟一ゆいいちなる 輝かがやき、 獨一どくいつの神かみの惟一ゆいいちなる聖神せいしん°、 主しゅよりの主しゅ、實じつに永在えいざいの者もの、 鳴呼ああ 聖せいなる三者さんしゃ、惟一者ゆいいちしゃよ、 我われなんぢ爾を讃榮さんえいする者ものを救すくひ給たま へ。(67 頁) 獨一子どくいつしの父ちち、獨一どくいつの 光 ひかり の輝煌かがやき、獨一どくいつの神かみ の聖神せいしん°よ、鳴呼ああ 聖せいな る三者さんしゃ惟一者ゆいいちしゃよ、我われ 爾 なんぢ を讃揚さんやうする者ものを救すく ひ給たまへ。(387, 525, 800, 904 頁) Единаго Единородителю, единороднаго Сына Отче: и едине единаго Свете, Света сияние: и единый едине единаго Бога, Святый Душе, Господа Господь воистинну сый: О Троице Единице Святая, Спаси мя богословяща Тя. 単語間の関係性をはっきりさせるために、един が使われる教会スラヴ語訳 の各表現を聖ニコライ訳と並列して比較する(表8)。 表 8 表現ごとに並べた聖三者讃詞 聖ニコライ訳 教会スラヴ語 獨一どくいつ生せいの子こ Единаго… единороднаго Сына. 惟一ゆいいちなる父ちち Единородителю, … Отче, 獨一どくいつの 光ひかり Едине … Свете 惟一ゆいいちなる 輝かがやき единаго … Света сияние: 獨一どくいつの神かみの единаго Бога 惟一ゆいいちなる聖神せいしん° Едине … Святый Душе, 惟一ゆいいちなる…、…主しゅ единый … Господь 聖せいなる三者さんしゃ、惟一者ゆいいちしゃよ О Троице Единице Святая この讃詞の「惟一ゆいいち」を‘ただ一つしかない’の意味で、「獨一どくいつ」をイイスス の場合は‘二性一位’、至聖三者の場合は‘三位一体、性せいの惟一ゆいいちなる三者さんしゃ’の
意味で捉えると、至聖三者についての教義的意義が解明される。惟一ゆいいちなる父ちち から、一つの位、二つの性のある神人かみひと、獨一どくいつの子が生まれる。至聖三者の三 位は、惟一ゆいいちなる 輝かがやきを発する三つの日、獨一どくいつの 光ひかりである。神父かみちちも惟一ゆいいち、イイ スス・ハリストスも惟一ゆいいち、聖神せいしん°も惟一ゆいいち、つまり、聖せいなる三者さんしゃ、惟一者ゆいいちしゃは獨一どくいつ の神 かみ ということになる。 5. 聖ニコライの翻訳における「 獨ひとり神かみ」及び「一人いちにん」 5.1 「 獨ひとり・一人ひとり」及び「一人いちにん」の意味 『日国』によると「 獨ひとり・一人ひとり」は名詞及び副詞として主に人を数える時に 使われ、‘一個の人、ただひとり、いちにん’を意味する。副詞として‘単 独で、そのものだけで’、‘ひとりでに、自然に’、‘ただ、単に’の意味があ る。さらに、日本語では「ひとり息子」、「ひとり娘」、「ひとり子」のように 「ひとり」が完全に名詞と結合し、「ただひとり」という性質を表す場合もあ る。また、神道の用語だが、「ひとりがみ」と読まれる「獨神」という語彙も ある。「一人いちにん」の場合、『日国』はその最初の意味として‘人’を挙げている。 これこそが、聖ニコライが文脈に応じてこの漢字の組み合わせを選び、この 読みを当てた理由であると考えられる。 5.2 聖ニコライの翻訳における「 獨ひとり神かみ」 初期の段階で、聖ニコライが「只ただ」或いは「唯ただ」を「 獨ひとり」に付け加え る場合がある。例えば、『祈祷祭文』(1877:110)では Един свят, един Господь は教会スラヴ語では「只ただ」に相当する только がなくても、「聖 せい なるは只 た だ 獨 ひと り主しゅなるは只ただ獨ひとり」と訳され、『奉事經』(1894:173)では「聖なるは獨、 主なるは獨」に修正された。新約聖書では「 獨ひとり神かみより外ほかに善ぜんなる者ものなし」(ル カ18:19)、「 獨ひとり神かみより外ほかに、誰たれか罪つみを赦ゆるすを得えん」(ルカ5:21)という表現が ある。この箇所において 獨ひとり神かみのみに備わる全き善を人々の善から区別し (Блж. Феофилакт, Том 1, Лк. 18:18-29, 2015:530)、 獨ひとり神かみのみに罪を赦す権が 備わることが表現される。聖ニコライは、ギリシャ語と同じように「 獨ひとり」を 「神 かみ 」の前に置く。これらの例の場合、語順も確認できるように、脚注では 表9 と同じように文章全体を挙げている。
表 9 聖ニコライの翻訳における「 獨ひとり神かみより外ほかに」 箇所 聖ニコライ (1901) ギリシャ語 教会スラヴ語 シノド版 ロシア語 Tischendorf PT/GOC マトフェ イ19:17 獨 ひとり 神かみより外ほか に善ぜんなる者もの なし32 εἷς ἐστιν ὁ ἀγαθός. οὐδεὶς ἀγαθὸς εἰ μὴ εἷς ὁ Θεός. никтоже благ, токмо един Бог Никто не благ, как только один Бог マルコ 10:18 獨 ひとり 神かみより外ほか に善ぜんなる者もの なし33 οὐδεὶς ἀγαθὸς εἰ μὴ εἷς ὁ θεός. οὐδεὶς ἀγαθὸς εἰ μὴ εἷς ὁ Θεός. никтоже благ, токмо един Бог Никто не благ, как только один Бог ルカ 18:19 獨 ひとり 神かみより外ほか に善ぜんなる者もの なし34 οὐδεὶς ἀγαθὸς εἰ μὴ εἷς θεός. οὐδεὶς ἀγαθὸς εἰ μὴ εἷς ὁ Θεός. никтоже благ, токмо един Бог никто не благ, как только один Бог マルコ 2:7 獨 ひとり 神かみより外ほか に、誰たれか罪つみ を赦ゆるすを得え ん35 τίς δύναται ἀφιέναι ἁμαρτίας εἰ μὴ εἷς ὁ θεός; τίς δύναται ἀφιέναι ἁμαρτίας εἰ μὴ εἷς ὁ Θεός; кто может оставляти грехи, токмо един Бог Кто может прощать грехи, кроме одного Бога? ルカ5:21 ひとり獨神かみより外ほか に、誰たれが罪つみ を赦ゆるすを得え ん36 τίς δύναται ἁμαρτίας ἀφεῖναι εἰ μὴ μόνος ὁ θεός; τίς δύναται ἀφιέναι ἁμαρτίας εἰ μὴ μόνος ὁ Θεός; кто может оставляти грехи, токмо единъ Бог Кто может прощать грехи, кроме одного Бога? 上田訳のマトフェイ19:17 では同じ表現が登場する。他訳の最初の三つの 例では「一」、「一人」、「獨一」、「惟」が出現し、ほとんどの場合、それらが 神 かみ を指す語彙の前に置かれない。マルコ2:7 及びルカ 5:21 では、聖ニコライ の翻訳においてのみ「 獨ひとり神かみ」が用いられ、他訳では「獨」、「一」、「惟」も出 32 英「並沒有善的、不過上帝一個」、米「於神而外、無一善者」、グ「至善惟天主」、上田「 獨ひとり 神 かみ より外ほかに善者よきものなし」、 シェ「天主外、無一善者」、明治「一人の外ほかに善よき者ものはなし 即すなはち神なり」 33 英「並沒有一個善的、不過上帝」、米「於神而外、無一善者」、グ「至善者、獨一天主」、シ ェ「天主而外、無一善者」、明治「一人の外ほかに善よき者ものはなし 即すなはち神なり」 34 英「並沒有一個善的、不過上帝」、米「於神而外、無一善者」、グ「至善惟天主」、シェ「天 主而外、無一善者」、明治「 一ひとりの外ほかに善よき者ものはなし 即すなはち神かみなり」 35 英「上帝以外、是那個能赦人的罪呢」、米「神而外、誰能赦罪乎」、グ「天主外孰能赦罪」、 シェ「天主之外、孰能赦罪」、明治「神にあらずして誰たれか罪つみを赦ゆるすことを得えん」 36 英「上帝以外、那個能…赦人的罪呢」、米「神而外、孰能赦罪乎」、グ「天主外、誰能赦罪」、 シェ「天主而外、孰能赦罪」、明治「神かみより外ほかに誰たれか罪つみを赦ゆるすことを得えん」
現しない。 『三歌斎經』(1911)では、同じように神かみの文脈で出現する際に「 獨ひとり」が神かみ に備わっている性質を表現している。主神しゅかみは「 獨ひとり大仁慈だいじんじ」(51 頁)なり、「 獨ひとり 死しせざる者もの」(43 頁)なり、「 獨ひとり人ひとを愛あいする救世主きうせいしゅ」(52 頁)であり、「 獨ひとり罪つみ なき」(69 頁)、「 獨 ひとり 心中 しんちゅう の事 こと を識 し る者 もの 」(90 頁)、「 獨 ひとり 我等 われら の不能 ふのう を知 し る」主 しゅ (77 頁)、「 獨ひとり義ぎなる審判者しんぱんしゃ」(207 頁)である。さらに、新約聖書と同じよ うに、「 獨ひとり」がниктоже…, токмо Бог един という表現で用いられている。例 えば、「預言者よげんしゃ イエゼキイリの見みたる門もん、 獨ひとりかみ神の外ほかに誰たれも過とほられ」(78 頁) ず、神かみの子だけが生神童貞女しょうしんどうていじょより生まれる。 このように、聖ニコライの翻訳では「 獨ひとり」が主神しゅかみに備わる性質を表すため に使われ、‘ただひとり’の意味を持つことを理解した上で、「獨一どくいつ」の最初の 字の意味を‘ただひとり’として捉えられたと考えられる。 5.3 聖ニコライの翻訳における「一いち人 にん 」 『八調經略』(1884:44)の二調の主日早課では、一つの興味深い例がある。 聖ニコライは最初にЕдинем Сыном Божиим を「 一ひとりの神かみの子こ」と訳し、後の 『八調經 巻一』(1909:298)ではこの表現を「一人ひとり神かみの子こ」に修正している。 また、同じ文章のЕдинем убо человеком, первым Адамом を最初に「 一ひとりの人 始のアダムにて」と訳し、『八調經』(1909:298)では「一人ひとり 第一だいいちのアダムに由よ りて」に直している。つまり、アダムの場合も、イイススの場合も、聖ニコ ライは表現を揃えて「一人 ひとり 」を使うようになった。この文脈で「一人」には 「神 かみ の子 こ 」が伴うので、「ひとり」の読みを選んだが、新約聖書ではこの関連 性を示すために「いちにん」にしている。 ロマ5:15-19 では、聖使徒パウェルは、アダムも、イイススも「一いち人にん」と名 付ける。一いち人にんアダムの罪によって死が支配することになり、多くの人々が死 んだが、一いち人にんイイスス・ハリストスによって死が滅ぼされ、多くの人々に恩 寵が余りをもって与えられた(Блж. Феодорит, Рим. 5:17, 2013:91)。聖ニコラ イは、‘人ひと’の意味を明白にするように「一いち人にん」と訳したと考えられる。この 箇所では原文にἄνθρωπος(человек)がある場合にも、ない場合にも、聖ニコ ライが「一いち人にん」と訳している。他訳では、「一」のみが使われる場合もある。 明治元訳(1877)では「一人ひとり」及び「 一ひとつ」が登場する。
表 10 イイスス・ハリストスに関する聖ニコライ訳の「一いち人にん」 箇所 聖ニコライ (1901) ギリシャ語 教会スラヴ語 シノド版 ロシア語 Tischendorf PT/GOC ロマ 5:15 蓋 けだし 若もし一いち人にんの 罪 つみ に緣よりて、 …、一いち人にんイイ スス ハリスト スの恩おんちょう寵に緣よ る 賜たまもの…37 εἰ γὰρ τῷ τοῦ ἑνὸς παραπτώματι …καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τῇ τοῦ ἑνὸς ἀνθρώπου Ἰησοῦ Χριστοῦ εἰ γὰρ τῷ τοῦ ἑνὸς παραπτώματι … καὶ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι τῇ τοῦ ἑνὸς ἀνθρώπου Ἰησοῦ Χριστοῦ аще бо прегрешением единаго… и дар благодатию единаго человека Иисуса Христа… Ибо если преступлением одного… и дар по благодати одного человека, Иисуса Христа… ロマ 5:17 蓋 けだし 若もし一いち人にんの 罪 つみ を以もつて、死し は一いち人にんに緣より て王わうたりしな らば、…、一いち 人 にん イイスス ハ リストスに緣よ りて、生命いのちに 在ありて…38 εἰ γὰρ τῷ τοῦ ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσεν διὰ τοῦ ἑνός, … διὰ τοῦ ἑνὸς Ἰησοῦ Χριστοῦ. εἰ γὰρ τῷ τοῦ ἑνὸς παραπτώματι ὁ θάνατος ἐβασίλευσε διὰ τοῦ ἑνός, … διὰ τοῦ ἑνὸς Ἰησοῦ Χριστοῦ. Аще бо единаго прегрешением смерть царствова единем, … единем Иисус Христом. Ибо если преступлением одного смерть царствовала посредством одного: … посредством единаго Иисуса Христа. ロマ 5:18 故 ゆえ に一いち人にんの罪つみ に緣よりて、… 斯かく一いち人にんの義ぎ に緣よりても、 悉 ことごと くの人ひとに 義ぎとせられて39 Ἄρα οὖν ὡς δι' ἑνὸς παραπτώματος …, οὕτως καὶ δι' ἑνὸς δικαιώματος… Ἄρα οὖν ὡς δι' ἑνὸς παραπτώματος …, οὕτω καὶ δι' ἑνὸς δικαιώματος … Темже убо, якоже единаго прегрешением …, такожде и единаго оправданием… Посему, как преступлением одного …, так правдою одного... ロマ 5:19 蓋 けだし 一 いち 人にんの不ふじゅん順 に緣よりて、… 斯かく一いち人にんの 順じゅん に緣よりても、 多 おほ くの者ものは義ぎ 者 しゃ とならん40 ὥσπερ γὰρ διὰ τῆς παρακοῆς τοῦ ἑνὸς ἀνθρώπου…, οὕτως καὶ διὰ τῆς ὑπακοῆς τοῦ ἑνὸς … ὥσπερ γὰρ διὰ τῆς παρακοῆς τοῦ ἑνὸς ἀνθρώπου …, οὕτω καὶ διὰ τῆς ὑπακοῆς τοῦ ἑνὸς … Якоже бо ослушанием единаго человека…, сице и послушанием единаго... Ибо как непослушание м одного человека…, так и послушанием одного... 37 英「一人」、「一人」、米「一人」、「一人」、グ「一人」、「一人」、シェ「一人」、「一人」、明治 「一人」、「一人」 38 英「一個人」、「一個人」、米「一人」、「一人」、「一人」、グ「一人」、「一人」、「一人」、シェ 「一人」、「一人」、明治「一人」、「一人ひとり」、「一人」 39 英「一個人」、「一個人」、米「一人」、「一人」、グ「一」、「一」、シェ「一」、「一」、明治「 一ひとつ」、 「一」 40 英「一個人」、「一個人」、米「一人」、「一人」、グ「一人」、「一人」、シェ「一人」、「一人」、 明治「一人ひとり」、「一人」
聖ニコライの翻訳ではイイススを指して「一いち人にん」が用いられる箇所がもう 数箇所ある。2 コリンフ 5:14 では、εἷς が人類の罪の贖いのために自らを犠牲 にし、衆人のために死に、復活したイイススを指している。「若もし一いち人にんしゅう衆に 代 かは りて死しせば、衆しゅう已すでに死しせるなりと忖はかるが故ゆえなり」(2 コリンフ 5:14)。衆人 が滅びていたので、一 いち 人 にん が衆人の為に死んだが、それは滅びた者や死せし者 を生かすためである(Блж. Феофилакт, Том 3, 2 Кор. 5:14-15, 2015:297)。「ハリ ストスは 衆しゅうに代かはりて死しせり、生いくる者ものは既すでに 己おのれの爲ために非あらず、 乃すなはち彼かれ等らに代かはり て死しして、復ふくくわつ活せし者ものの爲ために生いきん爲ためなり」(2 コリンフ 5:15)。これについ て司祭長カイアファも予言する(イオアン11:50、18:14)。すなわち、神かみの力 によってカイアファのようなイイススの敵さえも真実を告げる(Иоанн Златоуст, Беседа 65, Ин.11:50)41。 表 11 「一いち人にんしゅう衆に代かはりて死しせり」の文脈における「一いち人にん」 箇所 聖ニコライ (1901) ギリシャ語 教会スラヴ語 シノド版 ロシア語 Tischendorf PT/GOC イオ アン 11:50 又また一人いちにん42民たみの 爲ために死しし て、全民ぜんみん滅ほろ びざらん事こと の、我等われらに 益えきある συμφέρει ὑμῖν ἵνα εἷς ἄνθρωπος ἀποθάνῃ ὑπὲρ τοῦ λαοῦ καὶ μὴ ὅλον τὸ ἔθνος ἀπόληται συμφέρει ἡμῖν ἵνα εἷς ἄνθρωπος ἀποθάνῃ ὑπὲρ τοῦ λαοῦ καὶ μὴ ὅλον τὸ ἔθνος ἀπόληται. уне есть нам, да един человек умрет за люди, а не весь язык погибнет лучше нам, чтобы один человек умер за людей, нежели чтобы весь народ погиб. イオ アン 18:14 一人いちにん43民たみの爲ため に死しするは 益えきあり συμφέρει ἕνα ἄνθρωπον ἀποθανεῖν ὑπὲρ τοῦ λαοῦ συμφέρει ἕνα ἄνθρωπον ἀπολέσθαι ὑπὲρ τοῦ λαοῦ уне есть единому человеку умрети за люди лучше одному человеку умереть за народ. 2 コ リン フ 5:14 我われ等ら若もし一いち 人にん44しゅう衆に代かは りて死しせ ば、 衆しゅう已すでに 死しせるなり εἷς ὑπὲρ πάντων ἀπέθανεν· ἄρα οἱ πάντες ἀπέθανον· 45 εἰ εἷς ὑπὲρ πάντων ἀπέθανεν, ἄρα οἱ πάντες ἀπέθανον· аще един за всех умре, то убо вси умроша если один умер за всех, то все умерли. 41 https://azbyka.ru/otechnik/Ioann_Zlatoust/besedy-na-evangelie-ot-ioanna/65 (2018 年 11 月 24 日閲 覧) 42 英「一個人」、米「一人」、グ「一人」、シェ「一人」、明治「一人」 43 英「一個人」、米「一人」、グ「一人」、シェ「一人」、明治「一人」 44 英「一個人」、米「一人」、グ「一人」、シェ「一人」、明治「一人」 45 Tischendorf 及び PT/GOC では 2 コリンフ 5:15 に相当する。