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妖怪学講義録 利用統計を見る

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(1)

妖怪学講義録

著者名(日)

井上 円了

雑誌名

井上円了選集

21

ページ

97-141

発行年

2001-05-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00004687/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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(巻頭) 1.サイズ(タテ×ヨコ)  240×158㎜ 2.ページ  本文:42 3.刊行年月日  初版:明治31年8月 4.句読点  なし 5.発行所  佐渡教育会

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 余は、これより日々三時間ずつの講義をなさんと欲するが、そのうち一時間を妖怪学に、 やし、残る一時間をもって、質問または余のときどき思いつきし講話をなすの時となさん。 一時間を倫理学に費

妖怪学

妖怪学講義録        かんげんこ  妖怪学研究の趣旨 さて、余が妖怪学研究をなすにつき、世人、あるいは好奇のあまりに出でて無用の間言語  ろう を弄するがごとく思為するものあれども、それ、奇を好み間言語を弄するがごときは、余の不肖といえども、ま たあえてなさざるところなり。そもそも余のこの挙に出でしものは、実にやむをえざるありてしかるなり。そ は、今日わが国を一見するに、有形上の政治、法律のごときは、これを欧米の諸国に採りて、やや完成するがご としといえども、無形上の道徳革新に至りては、いまだその運に会せざるがごとし。しかして、この革新をなす は、そもそもだれの責任なるか。すなわち、教育、宗教の二者によらざるべからず。しかるに、両者を普及、改 良するには、教育家、宗教家その人を進めざるべからず。しかして、これを進むるに当たりて、常にその進路を 遮断するものあり。これをなんとかなす。曰く、迷信これなり。その迷信の起こる原因は、人世の常として、死 をおそれ、災難をおそるるに起因せざるはなし。死をおそれ災難をおそるるは、人情として、あえて無理にはあ 97

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らざれども、そのこれをおそれ、これを免れんと欲するの結果、財産をつくるも労力を費やすも、みなこれがた めになすに至りては、その愚もまたはなはだしからずや。生死はこれ常数、なんぞおそるるがためにこれを免る るを得んや。されば、舟乗り早死にするとも限らず、家居するものもその期に至れば、なんぞ免るるを得んや。       ご されば、死生は天の命ずるところ、少しく識見を有するものより見れば、これ一つの迷信にほかならず。世の御 へい 幣担ぎという人々は、すべてのことにつきて死を忌むの極み、四十二︵死重二︶、四十二の二つ子︵四に四の重 なる︶等をも忌み嫌い、また十九︵重苦︶、三十三︵散々︶等をも嫌忌するがごとき、東京の消防組にも﹁し組﹂ を置かざるなど、その例、枚挙にいとまあらず。世にいう、かの人相、家相、方位等も、ただ一つの迷信たるを 免れず。欧米にても皆無というにはあらざれども、近世に至りてはただ宗教上においてわずかに、金曜日に人の        たく 集会を嫌う︵これヤソの礫日なり︶、数に十三を忌むがごとき︵これヤソの殺さるる前に十三人にて晩餐せしと いう︶等なり。しかして、この迷信を打破するは、すなわち妖怪学の研究をおいて他に求むべけんや。  前にも述べしがごとく、わが国をして欧米と均勢を保たしめんとするには、まず、その任に当たるの人は教育 家なれども、教授の時間より家庭にあるの時間は多く、したがって、家庭教育の及ぼす勢力もまた大なり。しか して、家庭には前述の迷信あるにおいては、ついに、これがために感化せらるるやまた必然たり。その家庭の迷        ゆうめい 信を破るべき宗教そのものも当今のごとくんば、かえってこれを補助こそせめ、これを打破して、その幽冥を開 くがごときことは望むこと難し。こいねがわくは、宗教家その人も純然たる真正の宗教をしきて、もって世の迷       しがく 信を導きひらかんことを欲して、予がここに斯学を講ずるになん。今また、一つの方面より今日世間の好楽する ところを見るに、はなはだ野卑にして、学問の進歩に伴い、自然に高尚には至らんと思えども、現今の状態にて 98

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妖怪学講義録       きんしよう は、実に道徳上に影響するところ僅少にあらず。ゆえに、これを改良するは学者の任務にして、いわゆる風俗 改良これなり。その、これをなすにつきてもまた、妖怪学の研究こそ必要なれ。  世間通俗の妖怪となすところのものは、火の玉、幽霊のごとき不思議を義とするもののごとし。されど、これ らはあえて不思議となすに足らず。顧みて吾人の身体を見よ。立つも不思議なり、泣くも不思議なり。世間万般 の事々物々、みな不思議ならざるはなし。吾人、朝夕この不思議に接して、この不可思議を楽しむべし。通例、 世人の楽しみとするは衣食住にあれども、これ下等の楽しみにして、人知進むに従い、下等の楽しみを去りて高 尚に推移すべきものにして、飲食、衣服のごときは、ただに自身の栄養を保つをもって足れりとす。しかればす なわち、かの不平不満等をことごとく変じて、無上の快楽を味わわしむるに至らん。しかして、この一大天地の 妙味を知るに至るは、妖怪学研究にあらんと考う。  世の政治、法律、道徳の罪人を生ずるは、みな天地の不思議、妙味を味わうを知らざるの罪にして、下等なる 衣食住をむさぼりて、その極み、詐欺、取財の罪悪を犯すの人とならざるはなし。  上述せることによりて、ここに妖怪学研究の要旨を概括せんか。一方には真理に対し、一方には国家に対し、 人心の迷雲を一掃し、社会の弊習を除去し、教育、宗教の位置を高めて、道徳の一大革新を実行するの端を開か んと欲するにほかならず。しかして、妖怪の研究は理学、哲学によりて説明すべきものにして、天地万有の法則 は古今東西一定不変のものなり。されば、妖怪学の研究も理︹学︺哲学の範囲内において説明せんと欲す。しかれ ども、理︹学︺哲学は表面より説明を与うるものにして、世には表裏なるものあり、また事に正権の別あれば、理 ︹学︺哲学は表面正道の学にして、妖怪学は裏面権道の学といわざるべからず。ゆえに、理︹学︺哲学を正式学とい 99

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い、妖怪学を変式学と名つく。  妖怪の解釈 妖怪とはなんぞや。曰く、異常変態これなりと。異常変態は妖怪の一原因たることは相違なし。 例えば、一口両目は人の常なり。しかるを、三つ目小僧のあらんか、これを妖怪といわん。されど、単に異常変 態のみをもって妖怪となすあたわず。そは、異常変態をもって妖怪となさざることあり。例えば、面をかぶりた るがごとき、その原因の判明せるものは、だれか妖怪となさんや。しからば、人知の測り知るべからざるところ のもの、すなわち不可思議のものをもって妖怪となすか。曰く、いな。例えば、人心のごとき、天地のごとき、 実に不可思議なるも、人、これを妖怪とせず。しからば、なにをか妖怪という。曰く、異常変態にして、かつそ の道理を解すべからざる、いわゆる不可思議に属するものにして、換言せば、不思議と異常変態とを兼ぬるもの これなり。  妖怪の変遷 妖怪なるものは、常に一定不変のものにあらず。すなわち太陽のごとき、古代の人民にありては 妖怪なりし。その当時にありては、不思議なるもの、一にこれを神と名つく。されば、ギリシア等にてもアポロ       なまず ンと名つくる神ありて、毎日太陽を引き回すとなせり。また、星を降雨の穴なりとし、地震を地鯨の動くとな せしがごとき、されど今日においては、だれかこれらを妖怪となすものあらん。しかりといえども、今日はまた 今日の妖怪あれば、妖怪は決して一定の標準あるにあらず。通俗のいわゆる妖怪なるものは、人と世とに従って 変遷するものにして、甲の妖怪は乙の妖怪にあらず、昔日の妖怪は今日の妖怪にあらず。すなわち、妖怪の有無 は物にあらずして人にあり。ゆえに、妖怪は下等の人民に多しといえども、学術の進歩に伴って、今日まで不思 議となさざるものを、かえって不思議として疑うに至る。ゆえに、常に新妖怪は吾人の前面におりきたり、決し 100

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妖怪学講義録 て妖怪を根底より払い去るがごときことは、なし得べからざる事業なり。  妖怪の種類 妖怪の種類ははなはだ多けれども、概括すれば左のごとくに分かつを得ん。  虚怪 虚怪とは、妖怪にあらざるものを混ずるものあり、誤りて妖怪となすものあり、偶然に妖怪となすもの        ふえん あり。概して妖怪は世に多きものにして、通俗の妖怪となすところのものは、誤聞またはその事実を敷術補飾せ るものありて、最初はいささかなることも、人より人に伝わる間に、ついに大怪となること、往々これあるもの          こうひ なり。ゆえに、伝記、口碑は断じて信拠すべからず。世間にて話上手と呼べる人は、好奇心によりて無を有にな し、針小なることも棒大となすことありて、妖怪といえるものを極尋すれば、自己の見聞せるといえるものは、     きんしよう はなはだ僅少なるものなれば、これ、大いに妖怪研究につきては注目すべき点なり。ゆえに、古人いえること あり、﹁ことごとく書を信ぜば書なきにしかず﹂と。実に至言といいつべし。  実怪 実怪とは、虚怪を除去せるものこれなり。  虚怪の分類 虚怪を分かちて偽怪、誤怪とす。しかして、偽怪を人為的妖怪、誤怪を偶然的妖怪とは名つく。       ねつぞう 偽怪とは、人為によりて妖怪となりしものを意味し、例えば、好奇心より捏造し、あるいは私利を営まんがた        かつさい め、あるいは人の喝采を得んがため、あるいは小説的あるいは弁護的に作為せるものをいう。なかんずく、神仏 101

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に託して自利をはかるがごときは、その罪軽からざるものなり。また偽怪中には、政略上より人心を収めんた        もりつ め、あるいはこれを鼓舞せんがために、かの秀吉が出陣に際し、厳島に詣で百文銭を神前に投じ、その表裏をも       こごう      げんわく って軍の勝敗を占いしがごときは、あらかじめ二銭を糊合したるものなれども、一時人目を眩惑せしめ、もって        ふくしゆう       いずも      りんしよく 神意となすがごとき、また、復讐的に出でたる例を挙げば、出雲国などにては、富豪にして、もし吝薔なるの        にんこ 人などあるときは、だれいい始むるともなく、かの家には人狐の出ずとの風説を流布す。これ、ひとたび人狐出        ひんせき ずとの風説を唱わるるときは、該家はただちに社会に擦斥せられしうえ、ついに絶交さるるに至ると。これ、す なわち妖怪を機械的︹に︺使するものにして、真にこれあるにはあらざるなり。  一昨年のことにかありけん。上州磯部の温泉にて林屋といえば名代の旅館なるが、隣家なる旧士族の小間物商 をなせる家との中間より火を失し、火元争いの起こりしが、ついに、その火元の小間物屋に帰するに至りしか ば、小間物屋の・王人は武門の家庭に養われし士風にて、憤怒のあまり、林屋の新築落成するやいなや二階の客間        か に忍び入り、腹十文字に掻き切りて自殺せしかば、風聞ただちに四方にひろまり、林屋にては士の幽霊が出ずる よとて、だれ一人として宿泊するものなかりければ、ついにやむなく転業するに至りしと。かかる人為的妖怪 は、世間往々見るところなり。       へんきよう  精神上の妖怪 精神病には種々あるが、中に偏狂と名つくる一種は、平生は変わりたるところなきも、ただ、 ある一事一物につきて精神の変調を起こして、それを言行動作にあらわすものをいう。かの好奇心にかられて 種々の行為をなすは、偏狂と見て可ならんか。ある村境に、四人がかりくらいにてようやく動かし得るほどの石 地蔵のありしが、一夜のうちに後ろ向きたまいしかば、人々奇異の思いをなし、ただちに正しおきしに再び背面 102

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妖怪学講義録 を向き、したがって直せばしたがって転ずるものから、これは必ず地蔵尊の御心にかなわざることもあらんか と、それ念仏よ、それ供養よとさわぎしも、これは全く村内に大力の男ありて、早朝ここに来たり、その向きを       へんきよう 変えしに過ぎず。されば、これらを好奇心よりきたる偏狂といって可ならん。  偏狂に関しては、ずいぶんおもしろき話もあり。予が先年実見せし一人のごときは、書籍も一とおり読めし人       じやつき なりしが、精神の過労より幻視聴を惹起し、曰く、﹁空中に魔あり、常に予の所持金を明知し、その金を強請す るにより、やむなく室の窓上にこれを置けば、すなわちこれを奪い去る﹂と。これ、自己の所持金を自己の精神 が明知する、いわずして可なり。窓上の金の持ち去らるるがごときも、その窓の前はすなわち道路なりしといえ ば、その魔もまた知るべきのみ。  ﹃︹東京︺朝日新︹聞︺﹄紙上にも掲載しありしが、余の実験中にいとおもしろき一話あり。そは、今も生存しお る人にて、東京にてもかなりの洋服店なりしが、ここの主人は、得意先へ物品を持ち行くときは、途中にて必ず 魔物に出会い、持てる物品の代価につき割引の談判をさるるを常とし、そのたびごとに損失を招き、ついに破産          と      そうら するに至れり。予を訪いきたりしときなども、﹁魔が自己の脳中を撹乱すれば、先生御免候え﹂とて、金の製な る帽子をいただきおりしなどは、すこぶる奇怪なりし。しかして自らは、その魔は豊川稲荷なりといいおれり。 以上はみな、一つの偏狂にほかならず。        ぐう  誤怪 誤怪は、その実、妖怪にあらざるものの、知らず識らずの間に妖怪となりしものにして、先年、予の寓 きよ         かひ       びゃつこ 居にて夜の十一時過ぎ、下脾が便所に行かんとせしが、行く手の道に白狐の横たわるるを見、驚くこと一方な らず。ただちに引き返して家内のものを呼びさまし、ともに行き見れば、果たしてその言のごとし。されど、し 103

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ばらくの間これを望めども、あえて動くべくもあらざるより、点灯これに臨めば、露だもその形跡を認むるあた わず。よって、こは定めて光線の作用ならんと思い、その原因を捜索せしに、果たせるかな、一条の線路を発見       こデき せり。つきてこれを見れば、ランプの光線が戸隙より漏れきたるの結果なりし。かくのごとく、光線などは往々 妖怪をつくり出すことあり。音響もまた、人をして妖怪となさしむること、その例に乏しからず。  実怪 実怪を分かちて仮怪、真怪とす。仮怪を自然的妖怪、真怪を超理的妖怪と名つく。仮怪は怪は怪たる も、学芸の進歩によりてその原因を探究するを得べきも、真怪に至りては、到底、人知のもってうかがい知るべ からざるものをいう。  仮怪 仮怪を分かちて心理的妖怪、物理的妖怪の二つとす。今、これが説明をなさんに、物理的妖怪とは、火       しらぬ い の玉のごときこれなり。かの有名なる九州の不知火のごとき、物理学の進歩に伴い、その原因を発見するに至ら んも、今日においては、いまだ確然たる説明を与えざるものをいう。もっとも先年、熊本︹高等︺学校教員の研究 の報告によれば、おおかた海虫ならんとの説明を与えたるに過ぎず。また近ごろまでは、有馬に鳥の地獄とて、 飛鳥のその上を過ぐるあれば、ただちに落ちきたりて死すと伝えられ、毒水なれば近よるべからずとて、めぐら   さく       ばんきん すに柵をもってせしも、輪近理学の進歩より化学上の分析を施して、ついに炭酸水たることを発見し、今日にて  びんづめ は瓶詰となして発売するに至れり。  心理的妖怪 心理的妖怪とは、幽霊のごとき幻視、幻聴の類にして、精神作用の変態より起こるものにて、こ れらは心理学上より説明せらるるものなり。芸は忌が、乱神を語らずLといいしも・製葺人倫道徳の上に 関係なく、かつ古代にありては、理学の進歩幼稚なりしがために、これをひらかんと欲すれば、ますます迷路に 104

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妖怪学講義録 ふみ入りやすきをもっての故なり。されど、当今のごとく開明の世となりては、よろしくその迷雲をひらき、幽 微を発して、これが原由を究め、人心をして安心立命せしむるは、あにまた徒労の業ならんや。  自然的妖怪の種類 自然的妖怪すなわち仮怪は、吾人の研究すべき局面なれば、これより進んでこれが説明を なさんに、一つを物理的妖怪、一つを心理的妖怪とすることは、すでに説示するところなるが、再び物理的妖怪 を各科に分類せば、物理学的妖怪、すなわち光線、音響等の諸作用の現象によりて生ずるもの等、化学的妖怪、 こは化学の原理によりて説明を与うべきもの、例えば、元素の結合、分解等によりて生ずる諸現象、天文学的妖 怪、昔は天文につきては種々の妖怪を感ぜし。そは彗星、流星、天の川等、もっとも今日においてすら、天の川 などは一つの太陽系のごときものならんとの想像説にとどまるほどなり。地質学的妖怪、例えば化石、結晶石の 類なり。動物学的妖怪、例えば尾州熱田の社内には鶏の雄のみにして、ほかより雌鶏を持ちきたすも、ついに変 ずるというがごとき、動物学上より研究すべきもの。植物学的妖怪とは、植物につきての妖怪にして、変草のこ        ひいらぎ とき、換言せぱ、植物の変態これなり。例えば、京都の下加茂の社内にては柊のみにて、いかなる植物を移し 植うるも柊に変ずるというがごとき、植物学上より研究し、あわせて地質学上よりもその理を究むべきものをい う。世間にては年代を経るとともに、種々の奇怪なることをいい触らすものにて、老樹古木を神木と称し、これ をきれば崇。のあるなどいうは、植物学的妖怪にあらずして心理学的妖怪の範囲内にあるものなり。なお、一種 の妖怪ありて生理学的妖怪と名づけ、人身において異常変態をあらわすものをいう。  以上は物理的妖怪の分類にして、すなわち有形的妖怪とす。有形的妖怪に対して、無形なる精神作用より起こ るもの、すなわち心理的妖怪のきたる原因は種々ありて、外界に現ずるもの、すなわち心以外に現るるもの、幽 105

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霊のごとき自己の精神より出ずるものにせよ、とにかく心の外なる外界において見るもの、また他人の媒介を経 て現るるもの、人に神を乗り移らすがごとき、あるいは人相、家相、施持棒灘のごときこれなり。その他、自己 の心身上に発するもの、例えば夢感通または精神病のごとき類にして、これらはなにによりて研究すべきかとい うに、心理学によらざるべからざれども、到底、心理学のみにては説明を付するあたわざるものありて存すれ ば、病理上より発するものは病理学あるいは生理学上より論じ、また迷信等よりきたるものは宗教に関すること 大なれば、宗教上より講究せざるべからず。その他、経験上よりきたるものあり。例えば事実の偶合的中せる、 これらは物理または社会学の力をもからざるべからず。されば、心理的妖怪をば心理学のみにてはことごとく説 明を与うるあたわざるにより、心理学、社会学、宗教学、論理学、病理学、生理学等にわたりて研究するのやむ をえざるに至れり。  物理的妖怪は理学に関するものにして哲学に関せざるところなれば、これをばそれら専門家に譲り、心理的妖 怪に属する部門を講述することとせん。  妖怪解釈の時期 古代、蛮民が宇宙万有に向かいて説明を試みし以来、今日に至るまで、一般人知の発達とと もに説明そのものも次第に進化して、不完全なる説明より、ようやく完全なる説明を得るに至れり。予は、この 発達の年代を分かちて三大時期となさんとす。  第一期感覚時代 感覚時代とは、万有の解釈を与うるに、感覚にて見聞し得らるる形質上のものにより説明 を与うる時代なり。これ、人知の最下位にして、幽霊を見しというがごとき、幽霊をもって霊魂の変象としなが ら、霊魂そのものが無形たるにもかかわらず、幽霊を有形体となすに至りては、今日、三尺の児童も首肯せざる 106

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妖怪学講義録 ところなり。そもそも幽霊という語につきて考うるに、幽とは無形にして表現するあたわざるもの、これを幽と いう。ゆえに、この世を顕界といい、死後、目にみるあたわざるを幽界と名つくるより考うるも、幽霊をみしと はいうべからず。されば、古代にありては精神を有形となせり。ゆえに、幽霊におさえられて重く感ぜしという        さんけい がごときは重量を表し、寺へ参詣せしというがごときは形状を表す。また、扉を開きしなどとは、無形の幽霊な んらの必要がありてこれを開く。さはいえ、未開の時代においては、有形以上を考うべき能力を有せず、今日と いえども、下等社会にはなおかかる妄想を抱くものこれあるは、実に嘆かわしきの至りならずや。この期におい        が ては精神作用なることを知らず、我なる体に二様ありて、そのうち]我ここにあり、他我かしこに遊ぶものとせ り。これを一身重我説と名つく。昼間は二我相合して作用をあらわし、夜間は一我内にありて他我外に遊ぶもの となす。これ夢の解釈にして、当時、無形を想像することあたわざるをもって、その二我はともに有形なるもの となし、有形上の説明を与えし。また、この理を推して人の死に及ぼし、死も夢も同一にして、一我ここにあり て他我かれに遊ぶより起こるものと信ぜり。ただ、その異なる点は、他我の遊ぶに、夢に比すればさらに遠く、 かつ久しきの別あるのみ。これをもって、人の夢境にあるときは随意に喚醒し得べきも、ひとたび死するに及び ては、なにほど大声疾呼するも蘇生することなし。すなわち、死は他我の出遊はなはだ遠くして、呼び声のこれ に達することあたわざるによると信ぜり。        てんきよう  きつねつ  その他、疾病、失神、癩狂、狐葱き等も、みな重我の説によりて説明を与えたり。それ、人の一身は甲乙二 我によりて成るを知り、また、甲我ここにありて乙我外に出ずることを得るとなすと同時に、一人の乙我の外出 したるときは、他人の乙我のその中に入りきたることありと思い、すなわち癩狂者のごときは、その人の挙動、 107

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平生に比して全く別人の観あるものは、自己の乙我の出遊するに際し、他人の乙我の入りきたるものとなせり。 もしまた、他人の乙我の力強くして、自己の乙我の存在するにもかかわらず乱入することあり。これ、人に病患 の起こるゆえんとなし、その説明は一切の事物みな有形の道理をもって証明するものにして、予がいわゆる感覚 時代の説明に属す。けだし、当時にありては人すでに死後の世界あるを知るも、その世界はわが感覚上、目前の 世界の上にあるものと信じ、現世界と同一なるものとなし、その鬼籍に入るは、今日現在世界の上において、一 地方より他地方に移住するがごときものとなせり。これみな有形上の説明なり。この時代のようやく進みて鬼神 を想するに至るも、その鬼神はなお有形質にして、人類の性質を一層増大にしたるものにほかならずと信ぜり。       かざぶくろ        みずがめ 例えば、雷神は太鼓を具し、風伯、雨師またみな、あるいは風嚢を帯び、水瓶を携うとなすがごとき類これな り。  第二期想像時代 この期は感覚時代の一歩を進めたるものにして、人知ようやく進み、また実際上、有形質 のみにて解説すべからざるものあるを知り、自然に無形質を想像するに至る。ゆえに、この期においては第一時 期と異なり、神を無形体となし、すべての怪をもって神のなすところとなし、神はわが心の本元、実体となすと        かいてい いえども、いまだ論理の階梯をふまず、直覚的に空想を虚構しきたるものにして、その説はいまだもって吾人を 満足せしむるあたわず。これ、第三時期を要するゆえんなり。  第三期推理時代 この時期は知力の大いに発達したる時代にして、いわゆる学術時代なり。されば、虚構、 想像を交えず確実なる推理によりて、卑近より高遠に、有形より無形に、感覚以内より感覚以外に及ぼすものに して、現今学術時代の解釈これなり。すなわち、神はなになりや、夢はいかなるものかを説明するの時代にし 108

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て、今、予が講ぜんと欲するところのものは、この第三時期の解釈法により説明を与うるにあり。今、上来講述 せるところを概括、略記して示さば左のごとし。  第一期 一身重我説は、万有各体の内に存する他元にその原因を帰するもの。  第二期 鬼神説は、万有各体の外に存する他体にその原因を帰するなり。  第三期 この期は以上の二期に異なるなり。すでにこれを内に存する他元に求めず、また、これを外に存する 他体に求めず、万有そのものに固有せる天理、天則にその原因を帰するの別あり。されども、これもある程度ま でのことにして、換言せば、その天理、天則の既知と未知とありて、未知の中に可知と不可知とあれば、いかな るものが可知なるか、いかなるものが不可知なるかを発見するにあり。すなわち、前に分類せし仮怪は可知にし て、不可知を真怪とす。ゆえに、今日にありては仮怪と真怪との境界線を発見するにあり。

心理学部門中の妖怪の一類

妖怪学講義録  夢の説明 吾人の精神作用につきては、実験学においては到底、十分なる説明を与うるあたわずといえども、 ばんきん 韓近学術界の進歩に伴い、心理学研究の結果より多少解釈を与うるに至りしといえども、心はいかなるものなり やというがごとき問題に至りては、いまだ説明の限りにあらず。ゆえに予は、理学、心理学等によりて説明し得 らるる限りにおいて、夢の現象を説明せんと欲す。夢は睡眠中の心の状態の つなれば、これが道理を知らんと       珊 欲せば、まず睡眠そのものによりて起こりきたるゆえんを究めざるべからず。しかして、睡眠に関しては、心理

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学上よりの説明と、医学上よりの説明と異なるところあることを、記憶しおかざるべからず。  睡眠の説明 そもそも事物は、一定時の間使用せば、また一定時の間休息せざるべからざることは、普通の原 則にして、例えば機械のごときも、ある時の間使用せば必ずこれを休止し、あるいは油を注ぎ、あるいは修繕を 加えざるべからず。かくのごとくなすときは長時の使用にたうべく、しからずして不断これを運転せば、たちま ち摩損減耗し、また所用にたえざるに至る。これ、実にみやすきの理なり。これと同一にして、人間も一定の時 間労働せば、また一定の時間の休息なかるべからず。そは、人身はこれを労すること一定の時間に達すれば必ず 疲労を覚え、この疲労を復せんには一定の休息をなし、その間に栄養を得ざるべからず。これなお、機械の摩損 せる部分に修繕を加うるがごとし。しかして、このことは吾人の術躯、四肢を問わずみな同一にして、手足のご ときもまたしかり。一昼夜絶えず働くことあたわざるゆえに、吾人の食時は三回の度を限り、英国にては五回と なしおるも、二回はコーヒーを飲むのときにして、仏国は二回にて、朝は牛乳くらいにとどめて、午麓と晩餐と にわかてり。  かくのごとく、いずれの国においてもその度を限りあるは、もし、しからずして常にこれを労せば、必ずその 部において疾病を起こすのうれいあるによれり。しかるに、ひとり心臓、肺臓に至りては、日々夜々、藩も間断 なく作用するものにして、もしこれを休息せば、たちまちわが生命を失うべし。しからば、この二つの機能は全 く例外にして、右の規則以外に存するもののごとしといえども、つらつらこれを考うるに決してしからず、同じ く一定の休息をなすものなり。今、その方法をみるに、心臓、肺臓は、他の機関のごとく一定時の動作をなし、 一定時の休息をなすものにはあらずして、一刻一秒の間に、あるいは働きあるいは休み、もって少分ずつの休息 110

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妖怪学講義録 をなすものなり。すなわち肺臓につきていわば、一呼一吸の間に一回の休息をなすものにして、吸気と呼気との 間には休息なく相連続すれども、呼気と吸気との問に休息あり。その順序は一吸一呼にして、ここに一休し、そ れより一吸一呼することになるなり。かくのごとくにして、一昼夜間には平均八時間の休息をする割合なりとい う。つぎに心臓の方はいかんというに、これもまた、一伸一縮の間に休息をとるものにして、一縮一伸の間には 休息なし。ゆえに、その順序は一縮一伸、一休一縮となるなり。しかして、二十四時間中に合算するときは、六 時間内外の休息なりという。  これによりてみれば、吾人人間の有機体は、一昼夜に六ないし八時間内外の休息を要すること明白なり。され ば、吾人精神の最高機関たる脳髄もまた、六、七時間の眠息を要するや必せり。ただ、脳は心︹臓︺肺臓のごとく 一刻一秒の間に休息することあたわざるのみ。もし、しからずして時々刻々の休息をなさば、たちまち思想の連 絡を失するに至るべし。例えば、他人より﹁サドカハハラダ﹂を語り聞かさるるとせんに、もし脳にして一秒ご とに休むと仮定せば、サを聞きてドを聞かず、カを聞きてハを聞かざれば、この場合においては思想の連絡を失 するはいうに及ばず、ついになにごとをも得て領会することあたわざるべし。これ、脳の自然的に一定時間中は 不断労働し、一定時間の休息をとるものにして、すなわちこの休みを睡眠とす。  睡眠の種類 睡眠に二種あり。一つは熟睡にして夢なきのときをいい、一つは夢にして脳全体の休息せざると きをいう。今、以下にその原因、状態を説明せん。  夢の原因 夢の原因は種々あれども、まず昼間、脳が平均に活動せるがゆえに、また、その疲労の状態を異に するがため、その醒覚の時間一斉ならず。ある部分のみが活動するはこれ夢なれども、五官は全く休息するもの 111

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とす。もし、脳の全体の活動するときは、これを醒覚せるものなり。ゆえに、夢には正覚なるもの少なし。こ れ、覚むると同時に感覚はなはだしく強くなるがために、その夢を忘却するに至るものなり。夢には数年以前の 事柄をも夢むることあり。また、夢は前述のごとく、ある一部の他の部分にさきだちて醒覚するによるといえど も、かえってその疲労せる部分のことを夢むることあり。そは後段において説明することとして、吾人の脳髄中 の意識作用と、醒覚、夢、熟眠、死等につきての関係を左に示さん。しかして、これが表を掲ぐる前に注意しお くべきは、意識作用および反射作用これなり。反射作用とは無意識作用のことにして、例えば心臓、肺臓、腸胃 等の働きのごとく、己の意識にこれを覚えずして働きつつあるものをいう。意識作用とはこれに反して、己かく なさんと欲する有意的作用にして、例えば水を飲まんとして手を動かすがごときをいう。されば、熟眠中は脳全         こう 部の休息にして、毫も意識作用なきものなれども、中ごろより一部分に意識の現れ想像起こりて、これより夢境 に入る。ゆえに夢は、眠りに就きたる際より、まさに覚めんとするときに多し。しかして、醒覚には全部分の意 識ありとす。もしそれ、死時と熟眠とを比すれば、ともに無意識作用なれども、死時は身体の有機的反射作用を もあわせて欠くものなり。左表のごとし。

死熟夢醒

眠 反射作用  有  有  有  無 意識作用  有  一部分  無  無 112

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妖怪学講義録  以上は、これ心理学上の分類たり。  夢の生起する原因 夢の起こる原因をわかちて二種とす。一般の場合、特殊の場合、これなり。一般の場合は 疲労の度の不平均よりきたるものにして、特殊の場合はこれを内外の二つにわかつ。  特殊の場合のうちの外部の事情 外部の事情とは、感覚上よりきたるの謂にして、眠れる人に火を近づくれば       がしよう       しよつか 火災のゆめを見るがごとき、かつてある人の臥床の近傍を、その母の燭火を持ち行きて物を探ししに、翌朝そ の人のいえるには、﹁前夜、盗︹人︺あり。室内に入り、明りをとりて捜索せりと夢みし﹂と話せしがごとき類、 枚挙にいとまあらず。予が実験せしうちにおいても、かつて盤石をもって圧迫せらるるの思いをなし、覚めて見 れば、枕を落とし、頭を火鉢に触れつつありしを発見せり。また冬季、手足を夜具の外にあらわしおれば、雪中 または氷上を渡るの思いあり。﹃列子﹄にも﹁帯をまきてねむれば蛇を夢む﹂とあるは、これらの故なるべし。 一夕、予が傍らに熟眠せる友人の唇に一滴の水を点ぜしに、当人は一酔ののち眠りに就き、すこぶる酒渇を覚ゆ るありさまにて、その点じたる水を喜んで口中にて味わいたるもののごとく見えたり。暫時にして目をさませし    なんじ ゆえ、﹁汝はゆめを見たりや﹂と問い試みしに、当人答えて曰く、﹁ゆめにイタリアに遊び、暑気のはなはだし きを感じ、ブドウ酒一杯を傾け、実に甘露のごとき味を呈せり﹂と。  このほか、五官以外の筋覚により夢を結ぶことあり。すなわち、筋肉を圧するより起こるものにして、足を重 ねおるときは高所にのぼるがごとく、これを落とせば低所に飛びしかの感ある等、和歌山県人、久保某氏の書翰 中に、﹁一夕、夢中にて己の傍らにあるもの棒をふり回すに、予、その棒の己が身体にあたらんことを恐れしに、        ふ やや久しくして、果たして己の頭にあたれり。よって驚き、これによりて夢さむれば、たまたま己の傍らに臥し 113

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たる者が、手を伸ばして己の頭に触れたるなり﹂と。また、食物の不消化より腸胃を刺激し、ために苦しき夢見 をなすことあり。また、体温の変調より起こることあり。されど、胸に手を置きて恐ろしき夢などを見るは、世 人の熟知するところなれども、これらは習慣となるときは、さらに感ぜざるものなり。以上はこれ、外部の事情 の重なるものなり。  内部の事情 内部の事情とは、精神の以前の状態によりて夢を結ぶことあれども、いちいちその原因を明示す       ごう ること難きのみ。されば、十中八九までは必然の原因ありて、自己の身心に毫も事情なくして偶然に起これる夢 は、決してこれなしと断言することを得ればなり。例えば、夢の変態とも名つくべき夢によりて病気等を前知す るがごときは、毫も怪しむに足らざるなり。そもそも病といえるものは、外部に発せざる以前において、必ずや その兆しを内部に発せざるはなし。なれども、目の覚めたらんときは外部の感覚強力なるがために、精神この方 面に傾注し、内部の事情を知るの便なきのみ。しかるに、眠りに入ればそれら外部の感覚をとざし、細微のこと をも感ずるがためにして、かの目を閉じて物事を思考するがごとき、白昼よりは夜間の勉学に適するがごとき、 便所において考うるの良案の出ずる等、みな四隣に精神を乱すものなきによる。されば、人定まり神静かなるの ときにおいて、身体組織に変態あるときは、その刺激によりて夢をよび起こして前知する、また不思議なること にあらず。  夢の変態夢には時間、場所の関係は、決して順序を追いてきたるものにあらず。古今、東西、遠近の差別さ らになし。今、その理由を説かんに、総じて吾人の見聞は心界中にとどまるものにして、これを印象という。そ の印象が観念となりて現るるものにして、すなわち、目を閉じて扇子のいかなるものなるかを知るを得るは、こ 114

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妖怪学講義録 れ観念によるものなり。しかして、この観念が互いに連絡して、その連絡力に強弱あり。例えば、書籍につきて の観念、学校、机等、みなこれ個々の観念なりといえども、書物は常に机上にあるものなるを知るは、これ観念 の連合なり。机は学校内にあるものなるを知るは、これ連絡なり。しかるに、吾人醒覚中は観念の全体が活動し おれども、その意識中の一つの中心なるものありて、前後の事情、内外の関係によりて生ずるものにして、談笑 中、佐渡の話より九州の話に移りゆくも、必ずやその中間には連絡を有するものにして、ほとんど無関係なるが ごとき話頭に転ずるも、その中間には必ずなんらかの連絡なかるべからず。されば、醒覚中は心界中のいかなる 方面へも随意進行することは明々たれども、連絡を有することも白々たり。これに反して、夢中には不眠の観念 のみの働くものなれば、時間、場所等には合理せざることのみ多し。たとえば、故友に面接するがごとき、その 死せしということにつきて、観念の活動せざるがゆえに、生前の印象のみが浮かび出ずるも、これを正誤するの 観念なきゆえに、生けるがごとく感ず。場所等もまたしかり。九州より佐渡へ、一瞬間において至るの不合理な ることを正すの観念なければなり。  さはいえ、ときとしては観念の連合することあれども、その夢を一貫して連絡を持つことはほとんどこれな く、ただ多くの部分が醒覚せるときは、比較的連絡を有するに過ぎず。また、夢に作詩、詠歌などのできるは、 一部分の醒覚せるのみなるがために、かえって好都合なることあり。そは、醒覚中は外界の事情の雑多なるため に、感覚四方に散乱して精神の集合をなし難しといえども、夜中、人定まりたるときにおいては、外にしては五        とぜつ 官よりきたるの妨害なく、内にしては睡眠せる部分よりの刺衝杜絶せるゆえに、斬新の考案の浮かぶことなきに あらず。されども、確実なりしと思いしことの、さめての後は案外相違せることも、多くこれあるものなり。か 115

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の忘れたることを思い出すがごときことは、世間往々これあるの事実にして、これ脳中にはいくたの印象は、雑 穀蔵中に種々の穀類の堆積せらるるがごとくなれども、その観念となりて顕出するものは、常に強力なるものに 限らるるは、かの月明らかにして星まれなりというがごとく、かすかなる星光は強き月光のために、一段その光 輝を失するがためのみ。観念の現出もまた、この理にほかならず。しかるに、睡眠中は強力の観念はかえって疲 労せしがために休憩して、微弱なるものの現出するによれり。かつてある人、重要の事件を忘却せしが、夢に何 書の裏に記しありということを考え出したることありと。これ、かすかの印象、睡眠中に現出したるにほかなら ず。  霊夢 霊夢とは、遠隔なる地においての出来事、または事を未然において夢にて前知することをいうものにし て、研究中の大要点たり。されども、この霊夢というものには霊夢にあらざるものを混ずるものなれば、これら のものを除去したる後に、なお真の霊夢なるものあらば、大いに吾人の研究を要するところのものなり。今、霊        しんぴよう 夢にあらざるものを挙げんか。古代の伝説はことごとく信葱すべからず。今日のごとき電話、電信等の便あり       こびゆう てすら、なお誤謬の大きことのみなるに、いわんや古代の、人より人に転々幾数十回いな数百回の人口、時日 を経たるものにおいてをや。また、夢はさめてのち思い考うるものなれば、その間に必ずや誤謬なきを保せず。 また、そのことは前に想像し得べきことなるやいなやをも考察せざるべからず。例えば、事を約してその期に至 り思い出すがごとき、朝寝する人の、汽船の発程時には不思議にもさむるごとき等は、これ精神作用の妙所にし て、親の死を前知するがごときも、親の病勢等によりて帰納的想像のでき得べきものなれば、これらもことごと く除去すべし。 116

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妖怪学講義録  さて、時間などにつきて前知するは、人いちずに信仰するときは、その信ずるがごとくなることあるものにし       なんじ て、その例には、あるとき死罪の囚徒に目をおおいおき、﹁汝の足より生血一斗をとれば必ず死すべし﹂との予 言を聞かしめ、しかる後、その身体より出血せしむとの宣言をなして、ただに罪人の皮膚に一つの刺激を与え、 大声にて]升、二升と数えて、一斗という呼び声とともに絶命せりというがごときにても知るべし。わが郷里に おいても、現にある夜、夢に神のごとき異人来たりて枕頭に立ち、﹁汝は来年五月に没すべし﹂との示現を受け たりしが、夢さめて自ら驚き、かつ、その夢を信じいたりしかば、果たしてその月ごろに至り、病にかかりてつ いにたたざりしと。これ、自己の信仰よりきたるものにして、さらに不可思議となすべきの理なし。       えいち  その他、暗合、符合等の霊夢もまた世に少なからず。かつてある人、郊外の螢地において墓誌を読むことを好 めり。一夜夢みらく、その慣習のごとく螢地に至れば、たちまち新墓ありて目に触れ意をひけり。つきてこれを 見ればその親友の墓にして、死没の月日、姓名を表して的然たれども、その友はすなわち、その日の暮夜にとも        きようがく に会したるの人なりしの故をもって、極めて驚愕したれども、ただ、その夢なるをもって、再びこれを意に介        ふ いん せず、そのことを追懐することなかりしが、数日の後、その友の計音に接せしに、その死没は夢中に墓誌を読み しその日なりけり。これ、単に友人の墓を見しのみにて、即夜没せし人の臨終をば見ずして、いまだ建設前なる 墓表を見しとは、これ偶合にあらずしてなんぞや。以上論述せるものを除去せる以外に真の符合これあらば、今 日の理学、心理学の範囲外たらざるべからず。かの精気のごときは、光線につきてのみ研究せられたるのみなれ ば、はたして感応作用のあるやいなやは、未定に属する問題たり。      17       1  眠行︵睡遊︶夢に次ぎて眠行を説明せんに、睡遊とは睡眠中、自ら覚えずして立ちて歩み、あるいは談話する

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等をいい、これらは多く児童において見るところなれども、また、老成人においても、応対問答をなしながら自       こう      18 覚せざるものあり。古来の伝説中には、暗夜、自ら立ちて家の周囲を三回してのち就眠せしも、毫も記憶せざる ー がごとき、または屋上にのぼり、あるいは馬を囲みより引き出だしなどし、最もはなはだしきは、争論の末ビス       げいこ トルを放ちその音に驚き、はじめて覚知せしというさえあり。もっとも、人の性質にも関すれども、嘆語などは 多くあることにして、これらは夢と等しき精神作用よりきたるものなり。  説明 脳は休憩しおるも、五官神経および運動神経が活動するものにして、応答などは脳の反射作用によるも のなり。脳のある一部分が醒覚せるは夢にして、五官神経および運動神経のみの働く場合は睡遊とす。夢の起こ るはまさに目のさめんとするときに多く、例えば、目はもはやさめたるも動くあたわざる、あるいは耳には聞け ども口にするあたわざることあり。       たて き  幽霊 幽霊はこれを実在するという人、世に多く、現に谷干城氏の幽霊談として﹃国家学会︹雑誌︺﹄に掲載せ       と       わん るがごときは、友人を訪いて、茶漬け三碗を傾けて立ち去りしといえり。  今、幽霊を心理学上より説明するにつき、感覚の変態につきて述べん。  感覚の変態に三種あり。一に変覚、二に幻覚、三に妄覚とす。また、おのおのを五つに分かつ。左表のごと し。   変覚︷変視 変聴 変触 変嗅 変味   幻覚︷幻視 幻聴 幻触 幻嗅 幻味   妄覚︷妄視 妄聴 妄触 妄嗅 妄味

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妖怪学講義録  変覚とは、見聞するときに実物のままに見聞せざるをいう。遠きが近く、近きが遠く、高きが低く、低きが高        めいりよう く見ゆるなど、日常においても山岳等につきて見れば明亮なることなり。舟乗りなども未熟不練のうちは、こ れがため往々距離を誤ることありと。右は変視につきての挙例なれども、変聴以下、推して知るべし。  幻覚とは、ただに高下、遠近等の差のみならず、全くその実体を他の物質とみなすをいう。例えば、前面に古 縄の横たわるを見て蛇となすがごとき、あるいは路傍の石を見て大狐の道を要すると誤認する等なり。  妄覚とは、幻覚よりも一層はなはだしく無を有となすものにして、こは身心に変調を呈するとき、すなわち、 マラリヤ熱におかさるる者、精神病者等において親しく見るところなり。されど、妄覚は自身が非常に強く感ぜ しものは往々にこれあるものにして、太陽を凝視せる後、幾秒間は太陽を目前に散見するにても知らるべし。ゆ えに、幻覚は原因たるべき事物の現存ありて、妄覚はこれなきものとなさん。  変覚の原因 一つは媒介物の状態、一つは時間の関係によりて起こるものなり。例えば、空気中を通過せる光 線と、水中を通過する光線との屈折の度に差異あるにより、同一物体を二つの場所において見るがごとき、ま た、時間が隔たりて所在の異なるときは、そのいくぶんを変ずるものなれども、重量等は前後の関係によりて感      ごぴゆう 覚に大なる誤謬を生ずるものにして、重きものの後に軽きものを持てば、実量よりも軽く感じ、また井水は冬 夏によりて温度に大差なきも、外部の冷熱によりて吾人の感覚には、夏は冷ややかに、冬は暖かに覚ゆるがごと き、その前後の関係によりて感覚の不確実なることは、吾人の常に熟知するところたり。  内部の関係 すなわち、精神作用によりても大いに相違するものあり。﹃列子﹄の中に、﹁孔子東方に遊び、両       19       あざけ    ユ 児が、﹃太陽の朝と日中といずれが近き﹄の問いに対し、﹃夫子もこれを弁ずるあたわずして愚者なり﹄と嘲ら

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れし﹂という。また、日月の大きさなどに至りては、人々個々の思想を抱くものならんと考う。  幻妄両覚には種々の原因の存するならんも、大別して内界、外界の二つに分かつ。       あいまいも こ  外界の原因 事物の影像の曖昧模糊たるときのごとき、あるいは外界より与うるところの刺激の不十分なるが ごとき、もしくは急激に過ぐるの場合、あるいは諸感覚同時に起こり、複雑にして分界の明らかならざるときの ごとき、あるいはその感ずるところのもの新奇にして、過度に注意をひくべき場合のごときこれなり。  内界の原因 第一は想像にして、吾人は外物を感ずるや、心中の想像これに加わりて外物を構造し、もってそ の実像を誤ることあり。第二は、予期のために己の意をもってこれを迎え、もってその実像を誤ることあり。第 三は、知力作用のそのよろしきを得ざるために、判断の誤りを生ずるにより、第四は、恐怖の情によりあやまり て外物を認むるにより、その実像を誤るに至る。これを要するに、幻妄覚は平常健全の場合には多く見ざるとこ ろなるも、以上列挙するがごとき原因によりて、平時といえども間々これを見るに至ることあり。今、これを表 示せば左のごとし。        あわ  つぎに、精神作用の筋肉に及ぼせる例を挙げば、生来、毛虫を嫌える人の裸体たりしとき、その背に粟の穂を 触れて﹁それ、毛虫なり﹂と告げしに、当人は大いに驚怖せしが、後に至りその部分は脹起して、あたかも毛虫 120

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妖怪学講義録 の害を受けたるもののごとくなれりという。  予の斯学を講述せしは、さきにも述べしごとく、元来、世人の迷信を打破せんと欲したるものなれば、決して 奇好のあまりに出でたるにあらずして、これを心理学、病理学、哲学、物理学等の原理より研究して、これが説 明を与えてその迷雲をひらくにあれば、その真意は護国愛理よりしてきたるものなり。そもそも予は、いにしえ の学者と呼ばれし人のごとく、ただに学理のみを研究して、そのこれを実地に応用することをつとめざるがごと きは、予のとらざるところにして、予はむしろ学者たらんよりは実践家たらんことをこいねがうところの者なれ ば、諸君にも斯学の聴講をもって、単におもしろき妖怪談を聞くの念を離れ、理論を覚えたりといわんよりは、 ただ、一片の迷信を去りて一つの真理を得しといわんことを希望︹せざる︺にたえず。されば予は、哲学館︹館︺内 員にも、常に社会有為の人物とならんことを諭示し、利国公益を計るの精神を発揮せんことをおしえり。これよ り前講に継ぎて、意識作用を掲図説明せん。 外界 通常、意識作用は、外界の事物、求心性神経を経て脊髄に至り、脊髄より脳髄に達すべし。脳よりは脊髄にか 121

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えり、脊髄より遠心性神経に伝わりて外界に出ず。されども、求心性神経よりただちに脳に至り、脳より直接に 遠心性神経に至るものあり。しかるに、求心性神経より脊髄に至り、脊髄よりただちに遠心性神経に出ずるもの を反射作用と名づけ、無意識作用を呈す。意識作用は、必ず脳に入りてきたるものにあらざるはなし。しかる に、妄覚、幻覚は外界より入りきたらずして、脳より外界に向かいて現るるものにして、通常の場合にはこれな く、高熱のためか、あるいははなはだしく予期するところあるがために起こるものにして、幽霊のごとき、これ なり。幽霊なるものは、通常一般の場合においては、己の深く思える人が死せるとかいうごとき場合において、 よく現るるものにして、これ、精神の予期はその一原因たること疑いなし。また、幽霊なるものは、明々白々の       あいまいも こ ときにはみることなく、薄暮あるいは夜中に多く、すなわち曖昧模糊のうちに予期して幻妄覚を起こして、人為       きんしよう 的に構成するなり。ゆえに、予期せざることをみるは、はなはだ僅少なり。しかして、物の目に触れて起こる か、またはしからざる場合のあるは、これ、幻覚と妄覚との差にほかならず。        ま  今、幽霊につきて例を挙げんか。ある家にて昼間洗濯せる衣服を鞄し置き、夜に至り持ち入るるを忘れしを、 人の見て幽霊となせしがごとき、また、余の前宅は墓地と墓との間を通過して出入せざるを得ず、一夕、下卿出       ぼはん でて食品をあがない帰らんと欲して墓畔を通過せるに、白衣の幽霊現出せりとて、走り帰り倒れんずありさまな        ちようちん りしかば、予も不審にたえず、老僕に命じ実検せしむるに、墓前に白張り︹提灯︺の釣りて、これにろうそくの いまだ消えやらざるものあるを発見せり。これらを幻覚とは名づくめる。されば、自己の精神さえ動かざるにお いては、幽霊などはみるを得ざるべきなり。昔年、松島瑞巌寺の和尚、毎夜十二時過ぎ海岸に赴き修行せしか ば、近隣の青年輩戯れに木の上にひそみおり、和尚の樹下を過ぐるを待ち受け、その剛ぽ麟を手もて押さえし 122

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妖怪学講義録 に、和尚はそのまま立ち止まりて、かつて動ずる気色なかりければ、青年もついに手持ちぶさたにこれが手を除 きしかば、和尚もはじめて静々とその歩を移せりと。その後、和尚は一言この話に及ぶなかりしかば、人もて事 のついでに、﹁尊公には、近ごろなにごとかなかりしか﹂と問わしめしに、和尚再三のたずねにあい、やや思考 せし後・﹁馳そや・余が海岸へ鉱桔.に赴きての帰るさに、嚢の人の、予に竃を働きし・とのありしか覚ゆ るよ﹂とて答えられけりと。  されば、白昼に幽霊を見しとか、多人数同一のものを見しとかいわば、すこぶる研究の価値を有すれども、そ れらの例証はことごとく古き時代の伝説に属し、今日においては到底、説明なすべき限りのものにあらず。余 は、単に妖怪を排するのみにあらずして、真実、学術上において説明を与うるあたわざるものを収集して研究せ んと欲す。されば、わずかに一、二の例によりて判決を下すあたわず。とかく幽霊のごときは、その観念のこれ        ひつきよう なきものには出会せしということを聞かざれば、畢寛、自己の精神中に幽霊を宿すにあらんか。ゆえに、いに      へんげ      ことわざ しえより、﹁変化は子供にかなわず﹂との諺もあるぞかし。  天狗の説 天狗といえることにつきては、ずいぶん古くより学者の著書中にも記載せられ、その根元はつまび       せいそく らかならざるもののごとし。そもそも深山幽谷には奇々怪々の獣類の棲息は疑いなきことにして、人、その奇怪       ちようかい なる獣類を認めて天狗とはなすならんも、現今世間のもてはやすがごとき、人身両翼を備え、高鼻にして長味 しゆうそう 鷲爪なるがごときものにはこれあらずして、これらは古人の想像によりて、画工の手に成就せしものたるや疑        かす いなし。しかして、その後の人々はみな、話説、絵画において天狗をばたやすく想像し得るゆえ、山深く谷幽か       かいこう なる所において幻覚妄覚を起こして、天狗に避近するものも多からん。ただ、なかにつきて天狗とともに名山大 123

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  ばつしよう 川を蹟渉し、あるいは従って文字を習いしなどいうごときは、一見奇怪なるもののごとく、全国に通じてその 例をも往々聞くところにして、かつ、その多くは小児においてこれあることなるが、聖毒う、これらは、もし道 にでもふみまよえる等のことあるときは、一時精神の狂態を呈してしかるならん。すなわち、夢境に入り、ある いは幻覚を起こし、はなはだしきは妄覚を生ずるに至るならん。前講に述べし夢の変形のごときものならんか。 すなわち、先入の意識より夢を起こししを、己、実践せしかのごとく感ぜしものと考えらる。  左の例話は維新前の話ながら、明治の初年まで存命せりという一話あり。そは、陣波の国貞光村に生来白痴同         ひようぜん 様の者あり。一日瓢然として天狗のもとに遊び、書字および撃剣の技を学びて家に帰れり。爾後、日夜を選ば ず庭前の立ち樹に向かいて撃剣を試みしが、ついに大いに熟達せり。自らはいえらく、﹁これ、天狗のわれに授       ぞうけい けしところなり﹂と。これより、両技ともにすこぶる造詣するところありて、名声四近に聞こえしかば、ついに 徳島藩主に召されて撃剣の師となれり。人あり、これに妻帯を勧む。某曰く、﹁天狗、かたくわれに妻帯を禁ぜ り。ゆえに応ずるあたわず﹂と。されども、人の再三再四強うるに及び、やむをえず初めて妻を迎えしが、これ と同時に撃剣および能書の技術を失して、ふたたび従前の白痴に帰せしという。  かくのごとき例は、人々の最も奇怪とするところなれども、もし心理学上より考うるときは、これを説明する ことを得べし。すなわち、右の撃剣および能書のごときは、精神上の一時の変動より生ぜしものにして、某は当 時必ず自ら天狗を妄見し、これによりその術を伝授せられたる夢境を現ぜしならん。爾後、一時精神の変動によ       のうじつ りてこの二術ともに大いに発達し、また襲日の白痴にあらざるに至りしも、もとこれ一時の変態のみ。しかし て、その妄見せし天狗が妻帯を禁ぜし一言と、その伝授せし技術とは、相連帯して己が記憶内に存せしをもっ 124

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妖怪学講義録 て、いったん妻帯してその禁を犯ししことを覚知するときは、また精神上に一大変動を起こしきたりて、これと 連帯せし技術までも、にわかに退歩するに至りしならん。かくのごとく、一時の変動によりて得たりしものは、 また一時の変動によりてもとに復しやすきものにして、すでに妻帯の後はこのことつねに己を責め、わが術はか つて天狗より授けられしものなりとの信仰心を破るに至らば、これと同時にその芸能をも失うべきこと、自然の 理というべし。ゆえに、かかる現象は心理上、種々の作用に照らして考うるときは、またあえて奇怪となすに足 らざるなり。  思想の専制 精神病につきては、思想の専制といえることを講ぜざるべからず。されど、当今の医学において は、病理学、生理学、および経験等よりこそ論ずれ、心理学上よりはこれを論ずることあらざるも、ぜひこれら は一面、心理学上より論ぜざれば不可なり。吾人の精神がある一点に集合して、他の精神がことごとくこれの指 揮を受くるを専制と名つく。本来、精神は、多く使用するところのもの、あるいは非常の感覚によりて得たると        めいりよう ころのものは、またはなはだ明亮にして、これに反する不明亮のものは不確実なるものなり。ゆえに、日々相 接する人々の氏名は深く記憶に存すれども、疎遠なる人の氏名の不明亮なる、かの外国語の学び難きも、この理        こんが によるなり。されば、いかなる人も自己の氏名を忘却するものはあらずして、暗黒なる室に困臥する眠中の人に ても、自己の名を呼ばれたるもののまず目ざむるがごとき、その例なり。されど、あまりに泥酔するときは、己 の姓名すら失念することのあるものぞかし。先年、徳川公爵家において旧臣を会し園遊会を催せしに、三人ほど 熟酔してその場に倒れ帰らざりければ、人々、その宿所へ送り帰さんとて住所氏名をたずねしも、忘却して確答 しあたわざりしという。 125

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 総じて、観念のなかにつきてその力の強弱はあるものの、それらのものが互いに相均勢を保ちたる上に、必ず 忠・いうものの出で・た・は並・通の・とにして・ある特別の場合には一点においてのみ忠を作り・他の馨㎜ がことごとくこれに指揮せらるることあり。これ、いわゆる専制にして、精神病者の普通の人と相異なるは、す なわち思想の専制を作るにあり。例えば、物をはかるに尺度の異なるがごとし。ゆえに、精神病者よりわれわれ を見れば、また、われわれが精神病者を見るの感あらん。これ、中心に相違あればなり。  偏狂は少しくこれと異なりて、単にある一事においてのみ専制をきたすなり。その例として、さきに掲げおき        いなり し東京の洋服屋の話などにつきても、豊川稲荷を防ぐために、ゴムの衣服を着け、金の帽子をいただき、その身 体中へ進入を防ぎ、かつ、稲荷を銃殺せんと欲するも、単発︹銃︺にては到底その目的を達するあたわざるなりと て、銃砲店につきて連発︹銃︺を注文せしに、その注文に応ずるものを製造するときは、その価、極めて高貴にし て数百金を要するがために、いまだ製作せずといいおれり。これらは、ただに豊川稲荷の一事においては専制作 用を起こし偏狂にかかるも、その他においてはかつて異状を呈することなし。しかるに、事々物々相会するもの ごとにつきて偏狂を起こせば、これ純然たる精神病者なり。しかしてここにまた、専制を起こせば非常なる怪力 をあらわすことあり。先年、陸軍省にて、兵士の中にて思想の専制を起こしたるものが、ある大石を動かせしこ とありしが、後日に至りて再び試みしめしに、しょせん、動かしあたうべきものにあらざるものなることを発見 せりと。右らの例につきて考うるも、精神がある一点に集合するときは、常に異なりて非常なる強力をあらわす ものたるや明らかなり。専門家のその事業に対して異彩を現すがごときこれらは、数理上まさに、かくのごとく なるべきのことたり。左の図につきてこれを見よ。

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妖怪学講義録 〔第一図〕 〔第二図〕 〔第三図〕  精神界を百なる数をもって表し、これを五等分し、各二十ずつとせんか。しかるときに、この心界は、教育経 験の結果により、経済的利用法をもって融通運用することを得べし。すなわち、第二図、第三図のごとし。こ れ、百なる総数にはかつて増減なきものと仮定して、ただ、その数の中において、かれに減じてこれに増加す る、いわゆる専門家の能力の、その一事に発達することを説明するに十分ならん。ゆえに、前図の示すがごと く、心力の一方に集合せらるるの結果、他の方面においてはかえってその心力の割減せらるるは、勢いのやむを        ひつきよう えざることなり。今回も相川鉱山の選鉱場において、女工の鉱石を類別する鑑識には実に感服せり。これ畢寛、 精神これに集注せるがためのみ。両替屋にて手代を雇い入れし初期は、純金のみを一週間も目と手とに慣れしむ      にせもの るときは、贋物をばただちに見いだし得るに至ると。神経病者の格外なる動力をなし、または暴飲暴食をなす   こ  り は、狐狸の所為にあらずして、身心の全力をその一点に集合せるの結果にて、火事場に臨めるときのごとき道理        もち なり。東京にて十ニカ月の餅を二年食せし人ありて、自ら題して曰く、コ年夢のごとくまた一年﹂といえり。 また、余が在所にて餅を多く食せし後、善光寺まで中途食事することなく、兼行にて往復せりという人あり。ず 127

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いぶん多食の人も、世にはこれあるものにこそ。        28  ここに精神病者の通常人との差異を挙げんに、病者といえる人は固着して、通常人はその一時にとどまるもの ー       がいぼう なれども、囲碁に熱心なる人は外貌やや愚鈍なるがごとき感あるは、これ心力の囲碁につきて凝集せるがために して、また名手たるゆえんなり。専門家にあらざる人も、酒狂者のごとき夫婦喧嘩の末、一時の怒りに任せ、そ の妻を殺し後悔せしという例も、世間往々これあることにして、人によりて多少強弱はあるものの、精神の一点       てんきよう に凝集することは免れ難きことにして、癩狂者はただ永続し、その他の人においては一時にとどまるの差ある のみ。世に奇人と称せらるる人はこれ嬬獲。者なれども、この偏狂、かえって世を利すること雀爽.ならず。もし また、世を益するにおいては、だれか目して狂者といわん。いにしえより称する異人、豪傑は、一種の偏狂者と        そらい みなして不可なからん。物︹荻生︺狙裸の門人、ある年の元旦早々年始の礼に赴きしに、先生元旦なることを忘 れ、ただちに議論を始め、ついにその日は祝詞を述ぶるの機なくして立ちかえれりという。ゆえに、奇人伝など をひもとかば、偏狂集を読むの感あり。  されば、精神病者なるといなとの界線を画することは、はなはだ困難なることにして、先年長州の人にて、二      せがれ 十歳前後の停を携えきたり医師に診察せしめしに、病者にあらずとて治療を与えざりければ、なにとぞ良き方 案もなきかと余をたずねられしが、これは意力の衰弱して判断力の欠乏せしものにて、余はこれを病者と認めし ことあり。         きつねつ      こわく      むじな  狐愚きの説明 狐逓きを分かちて狐惑、狐懸きの二種とす。佐渡には狐のおらずして、狢のたぶらかすとい いはやすめれど、日本全国に通じては、狐惑、狐懸きをもって多しとす。ゆえに、余の説明もまた狐惑、狐糠き

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