に
著者
釈 悟震
雑誌名
国際哲学研究
号
別冊6
ページ
11-21
発行年
2015-03-10
URL
http://doi.org/10.34428/00008134
異宗教間の共存は可能か
―仏教国スリランカを中心に
釈
悟 震
「はじめに」
1951 年(昭和 26)サンフランシスコ講和会議において世界の勝戦国が次々と敗戦国に対す る責任と補償を求める中で、後のスリランカ1大統領になったジュニウス・リチャード・ジャ ヤワルダナ(J.R.Jayewardene: 1906∼1996)氏は「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、つ いに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む」(Dhammapada.No.5. 中村元博士訳)とい う仏典の言葉を引用し、日本に対して戦後の補償を放棄し被害者が加害者を許す寛容の慈悲の 精神を世界に向けて発したのは今尚記憶に新しい。これは日本が時の戦争で敗戦し、物理的の みならず精神的にも沈滞していた日本人に心理的、精神的勇気と希望を持たせると同時に、平 和の大切さを心に刻ませずにはおかなかったであろう。このように日本の現代の歴史の中に忘 れることのできない小さい巨国の姿は日本のみならず世界各国の人々に多くの感銘を与えた に違いないだろう。 ところで、このようなスリランカに対して今日の日本の学会において現代スリランカに関す る研究はそう多くない。わずかな研究書はあるが、いずれもインド研究の一部として扱われて いるものが多く見られる。しかしながら近年、スリランカ仏教と関連する民俗宗教の研究を実 地調査のかたちでまとめた、前田恵学編著『現代スリランカの上座仏教』2 は長い仏教学の研 究史において日本の仏教学会の研究方法に関して新しい問題提起を示したものであると言っ ても過言ではないだろう。つまり「日本の大学における思想研究ならびに教育は、・・・・文献学 や文献紹介に終わっている傾きがある」3との中村元博士のご指摘をおおげさにいえば見事に クリアしたものといえよう。ここではこれらの研究書を詳評する場ではないのでこのへんで止 めておく。 さて、ここで本稿の主題に入ると、すでに発表要旨で述べたように、スリランカは 4 半世紀 に及ぶ政府とタミル系ヒンドゥー教徒との宗教対立の国のイメージがあるが、歴史的には仏教 を中心に宗教討論を通じての宗教共存が積極的に行われてきた。その典型が、仏教とキリスト 教の対論である「パーナドゥラー論争」である。しかし、この対話の文化は今日のスリランカ では積極的な評価が得られていないとされる。本研究はスリランカにおける異宗教間対話研究を中心に、同国における異宗教間の共存思想 及びその具体的な展開としての対話の歴史的経緯と共にその現代的な意義を明らかにし、日本 のみならず世界に向けて、スリランカにおいて醸成された諸宗教間対話の思想と、その 21 世 紀的な意義を発信提言することをめざすものである。
Ⅰ.スリランカにおける異宗教間の共存と寛容思想の歴史的経緯
紀元前約 243 年ころ、アショーカ王(B.C.268∼232)の命によって王子マヒンダ(Mahinda B.C.281∼202)4が、紀元前 247 年、一行 7 人とともにスリランカに来島し、新しい宗教であ った仏教を伝えたのがこの国の仏教文化の始まりであるといわれている。以来、同国は名実共 に仏教国として、その歴史を生きてきた。 ところで、西欧の列強により、その事情は一変した。例えば 1505 年、ポルトガル人の来島 によって異教とみなされた仏教やヒンドゥー教は迫害され、ローマン・カトリック教が宣教さ れた。 ポルトガル時代(1505∼1658)時代がおわりオランダ時代(1658∼1796)になると平和を願 って戦争はしなかったが、プロテスタントの普及に全力を尽くした。すなわち、キリスト教徒 の洗礼と結婚を登録する学校台帳(School Tombos)まで備えられた。あるいは、学校教育にお いても従来の仏教思想による意識変化を徹底的にキリスト教化させた。従って、仏教やヒンド ゥー教の寺院用地は没収され、プロテスタントの教会地に転用された。のみならず、バーガー (Burgher)と呼ばれるオランダ人の混血児は 1 階級をつくって勢力をもつに至った5。 ここで長い歴史をもつこの国の仏教思想は完全にその機能を失うことになる。そしてこの国 には具足戒を授けた比丘僧というものが完全に無くなった。 そこでスリランカの地理的にほぼ中央に位置するキャンディを重心に栄えた王朝のヴィマ ラダンマスリヤ 2 世(Vimaladhammasuriya II、1687∼1707)は、現在のミャンマー即ちビルマ から 33 人の高僧を招き、沈みかけた仏教を復興させようと力を尽くした。又、シリヴィシャ・ ラージャシーハ王(SirivijayarAjasIha, 1739∼1747)は、ビルマや現在のタイのシャムから戒を 授けることができる比丘たちを迎えようと努めたが、嵐や国王の死によって果たすことができ ず、次のキッティシリ・ラジャシーハ王(KittisirirAjasIha, 1747∼781)は、1750 年タイのシャム のアユチャに使節を送り、1753 年に時のタイのダンミカ王(Dhammika)からウパーリ(UpAli) 長老など 13 人の比丘と 7 名の沙弥とスリランカになかった黄金の仏像を贈られた。彼らは、 国王に出迎えられ、時の都キャンディに入った。これはあたかも日本の奈良時代に鑑真和上 (689∼763)を唐から迎え、彼が日本の律宗の開祖になった様子を思わせるものがある。 ここにスリランカ仏教の三大宗派の一つであるシャム派(Siyam NikAya)が起こることとなった。そして 55 年後の 1808 年に在家の者がビルマに行き、受戒して伝来したアマラプラ派 (Amarapura NikAya)と、遅れること 56 年後の 1864 年、同じくビルマ即ち、ラーマンニャに 行って具足戒を受け帰朝し、その伝統を伝えるラーマンニャ派(RAmaJJa NikAya)などが次い で創生し今日に至っている6。 特にこの 3 宗派は今日もなおこの国の仏教の中核を成しているが、前のシャム派がタイの律 師によってその脈を引くのに対し、後の 2 派は共にビルマからその脈が引くのが大きな特徴と いえよう。 このように幾つかの仏教復興運動はあったものの、植民地支配が進むとともに、キリスト教 布教活動の促進と、土着の仏教、ヒンドゥー教に対する圧力強化の流れが変わることはなかっ たと言えるだろう。 しかしながら、幾多の外圧による苦難の歴史をもちながらも、スリランカは何とか今日仏教 国としての伝統を守っている。中でも特にイギリスの植民地時代には仏教徒に対する圧力とキ リスト教に改宗させようとする宣教活動はその頂点を極めた。 すなわち、もともとスリランカでは、仏教は王室の保護のもとにあり、国教としての地位を 占めていた。だからこそ、旧王領をイギリス王室に譲り渡した 1815 年のキャンデイ条約第五 条には「仏教の不可侵・保護」が盛り込まれていた7。植民地支配の実権を得たイギリスも、最 初のうちは、仏教サンガ(僧団)を保護していたのである。
Ⅱ.強まるイギリスプロテスタントの布教
しかし、このような政策に対して、イギリスのキリスト教団は、スリランカでも英国本国に おいても、共に抗議し、キリスト教政府が仏教の伝統を認めることは大きな誤りであると強く 主張した。キリスト教側の強力な圧力は、19 世紀中ごろには、総督 J.A.Stewart Mackenzie(1837 ∼1841)をして MahA Nayaka Thero の任命承認を拒むまでにいたっている8。MahA Nayaka Thero とは仏教教団の最高位で、管長職にあたる。この任命書にサインしないことは、仏教の 公的な地位を否認することに連なるものである。こうした傾向が次第に強まり、政策面でキリ スト教が優先されるようになった。近世から近代にかけて、キリスト教がヨーロッパ列強の植 民地政策と同調し、相互に補完しあっていたことは周知のことだが、ここスリランカでも例外 ではなかった。 仏教の活動は制限され、キリスト教への改宗が強制された。例えば、生まれた子供は洗礼を 受けないと登録されなかったし、結婚も同様だった。あらゆる機会を通じてキリスト教は援助 され、仏教の伝道、教育活動は疎外されるに至った。仏教徒としての自尊心は傷つけられ、自 立性も失われた。キリスト教の宣布は宗教上の問題ではなく、スリランカ人の文化とアイデンティティにかかわる問題となっていたのである。 もっとも、キリスト教徒も自らの宗教を単なる政策だと意識していたわけではない。キリス ト教徒はキリスト教こそが唯一絶対の信仰だと心から信じていたわけだし、どんな手段を講じ てでもキリスト教を広めることがキリスト者として当然の義務であると考えていた。自分の信 仰を広めることが人間としてなすべき善であるし、これが植民地政策と相乗りするようになっ ても不思議ではなかった。この視座からみると、キリスト教以外の宗教はすべて邪宗教であり、 その信者は卑しい人たちにほかならなかった。こうした考え方はイギリス国教会ヒーバー司教 の手による次の有名なセイロン賛歌に如実に示されている。 「かぐわしく風は流れて、香料の香りをはこび、セイロンの島をおおう。幸多き よろずの なかに、いやしきただ人間のみ。愛の心あふれて神のみ恵みを説くも益なし。盲いたる邪 教徒たちは、木や石にひれふし拝む。」9 この歌は、今なおイギリスのいたるところの教会において唄われているようである10。 またプロテスタント諸派の人びとは「仏教僧の説法を妨害し、仏教徒との対決を求めた11」 のであるが、当初仏教徒はキリスト教徒との論戦を拒否していたとされる12。
Ⅲ.異宗教間の対話と共生を求めて
しかし当時のこうした深刻な状況の中に仏教徒側にも危機感をもって現状に対処し打開し ようとする動きも生まれてきた。その運動とは自らの伝統を見直し、仏教徒としての自覚を促 そうとする動きであり、そしてまさに、キリスト教徒を相手として教義の是非、適不適を論ず る対論であった。1865 年 Baddegama における論争、同年 8 月 Waragoda における論争、1866 年の Udanvita における論争、1871 年の Gampola の論争などがそれで、こうした諸論争の帰結 が、PAnadurA の論争であった。この論争に勝ったことは、当時の仏教徒に仏教徒としての誇り を取り戻させ、大いなる自信と喜びを与えた、と伝えられている。これらの論争を PaJca MahAvAdaya(五大論争)といい、今日においても仏教徒としての誇りが脈々と続いている13。 これらの論争の中でも、今から約 130 年前の 1873 年(明治 6)8 月 26 日と 28 日、当時のセ イロン(現在のスリランカ)の PAnadurA という漁村において、一万人の群衆の前で仏教徒と キリスト教徒との間で行われた教義論争はこれらの一連の論争の中核をなしている。またその 関係資料も出版されており、学術的な価値も高い14。この宗教対論である「パーナドゥラー論 争」は近代宗教史の渦巻きの中で生じた歴史的事件であるといえよう。 この論争の模様は、ジョン・カッパー(John Capper)による克明な記事が、当時の有力紙で ある『セイロン・タイムズ』に掲載され、それは後日、さらに詳細に、同社の編集者の手でシ ンハラ語による単行本として発行された。このシンハラ語の単行本を、多くの人々の請いに応じて英訳したのがカツコリヘ(Katukolihe)である。そしてさらにこの論争は、当時たまたま スリランカに滞在していたアメリカの学者ピーブルズ(J. M. Peebles)によって記録され後に 出版された15。 この「パーナドゥラー論争」には、仏教側からはモホッチワテ・グナーナンダ(MohoTTiwatte GuNAnanda)比丘が、キリスト教側からは第一日目にデヴィッド・シルヴァ(David De Silva) 牧師が、第二日目にはF・S・シリマンナ(Sirimanna)伝道師も討論者として参画した。聴 衆は、初日が五千人、二日目には一万人を超えたと推定されている16。繰り返しになるが、こ のような大勢の人々を前にして行われた宗教的論争は、他宗教との融和・共生を目的とした友 好的な対話ではなく、あくまでも自宗教の優位、正当性を打ち立て、雌雄を決するための言論 による熾烈な戦いであった。したがって両陣営からは上述の討論者のほかに、それぞれの宗教 を代表する長老、有力者たちが参集している。仏教側からはスリランカ仏教界の大指導者のス マンガラ(SumaGgala)長老をはじめグナラタナ(GuNaratana)長老など四人が臨席する一方、 キリスト教側はS・ロンドン(London)牧師をはじめ三人の牧師、さらに医師、弁護士など 当代を代表する著名人が臨席していた。彼らは、この討論会のいわば監視者であり、目撃者で あった17。 この討論会をある意味で最も特徴付けているのは、全体を通じてあらかじめ厳密な規定が設 定され、その規定のもとで粛々と教理対決が執り行われたという点である。これは世界の宗教 間対話の歴史的観点から見ても、また今日的な視点から見ても、きわめて画期的なことではな いかと思われるので、その規定内容を具体的に紹介したい。 規定は十項目から成っていた。第一は「論争は、口頭で行うこと」であり、あくまでもこの 討論会が、平和裡に行われること、そして現場にいるだれもが生中継を見るようにして目の当 たりにできる形の、討論者としての力量がまともに問われる、文字通り真剣勝負をもって双方 相まみえる形で行うことが宣言された。第二項では「双方の議論を記録し、対論者がそれぞれ 記録文書に証明のサインをすること」と規定され、この討論の意義・内容をその場限りで終わ らせることなく、長く後世に至るまで、また広く世界に開かれた討論として残し、かつ討論者 はそのような歴史的に重大な意味をもつ自身の発言に責任を持つことが求められている。 第三項は「討論者は、引用する書物と論文の典拠を正確に示さなければならない」という内 容であり、双方とも自宗教および相手の宗教の聖典、教義、伝統を正確に理解した上での客観 的かつ論理的な論難応酬でなければならず、確固たる文献的裏付けを欠いた思い付きや、いい 加減な批判は許されなかった。第四項では「一人の対論者の持ち時間は一時間とする」として 無用な饒舌を戒め、第七項では、対論の日付を 1873 年 8 月 26 日と同 28 日の両日に定め、さ らに討論時間は「午前 8 時から 10 時まで、および午後 3 時から午後 5 時まで」という限定が
付けられた。 このような形式上の諸規定に加えて、第五項では討論すべきテーマ内容が具体的に定められ ていた。討論は、まずキリスト教側からはじめることが定められ、そのテーマは「仏教の虚偽 性を提示すること」であった。次に仏教側は、「仏教の虚偽性に対するキリスト教側の発言に 対して必ず答弁した後、キリスト教の虚偽性に対する対論を行う」ことが定められた。 また、大勢の聴衆が集まることが推測された本討論会では、不測の事態も予想されたため、 第八項と第九項では聴取者の静謐を保つべく、両教の代表者はそれぞれ責任を負うとの規定が 加えられ、最後の第十項には、この対論のために特設会場を設営する旨も記された18。 以上の十規定から成る協定書は、双方の宗教の代表者各々三人が署名し、1873 年 7 月 24 日 に承認された。この合意のもとに、仏教とキリスト教の宗教対決ともいえる両者の対論が、多 くの聴衆の見守るなか行われた。 この「パーナドゥラー論争」で何が争われたかについての詳論は時間の関係上省き、ご興味 がおありの方は、先年筆者が拙訳注した邦訳書を参照されたい19。
IV.「パーナドゥラー論争」で学ぶ異宗教間の共存が可能かに対する世界への示唆
20 この論争に関しての評価としては、「伝道師たちは今や己れの判断の誤りを悟り、もはやそ れ以上の挑戦はしなかった21、あるいは「この時の対論は、キリスト教側の思惑に反し、仏教 がキリスト教よりも優れているという印象を参会者に与える結果になった22。」というように 概してキリスト教側の劣勢で終わったという発言が目をひく。但し、前述のように仏教側は終 始シンハラ語で民衆に語り懸けたのに対して、キリスト教側はパーリ語の専門用語などを多用 したために議論の優劣の判断において不利となったのではないかと指摘する意見もある。また キリスト教側の討論者のレベルが充分でなかったという点を考慮すべきだという見解もあ る23。 いずれにしてもこの討論会の報告書を読んだ者、あるいはこの議論の様子を伝え聞いた人び とに与えた影響は大きなものがあった。この対論を機に植民地支配下において劣勢であったス リランカの仏教徒は自らの信仰や伝統に対する自信を回復し、さらにこの論争が引き金となっ て新しい仏教の近代化運動が世界に広まっていった24。 「パーナドゥラー論争」は当時どのように人々(特に欧米の知識人)に受けとめられ、どの ように評価されたのか。またその後、世界の諸国にどのような形で波及していったのか。本論 文の結論に代わるものとして最後にこの問題をまとめておきたい。 まず当時の欧米の知識人による評価をある意味で代表すると思われるのは、前述のピーブル ズの著書の以下の序文の言葉であろう。(仏教・キリスト教)両側ともにかれらの味方を持っており、いつものように両方が自己 の勝利を主張した。公平無私な見解を持っていると見られる人々の種々な印象を私が聞い た限りでは、仏教側の僧は品格すぐれた討論者であり、そして一般民衆の心をわがものと して、大衆をかれの側に引きつけた。一部のキリスト教徒が論争の結果に満足しなかった ことは確かである25。 その勝敗の判定はさておいても、この論争がスリランカの人々に仏教徒としての誇りと自信 を呼び起こさせ、良識的なキリスト教徒にさえも感銘を与えたことは確かである。後にインド の仏蹟・仏教復興運動を指導し、「大菩提会」を創設したアナガカ・ダルマパーラ(Anagarika DharmapAla: 1864∼1933)もこの討論の結果に影響された一人である。この論争が、歴史的に、 スリランカの仏教国としての命脈を名実ともに維持し、現代のスリランカの上座部仏教の再生 に貢献した非常に重要な出来事であったことは否定できない事実である。 また、これらの論争を知ったアメリカのヘンリー・スティール・オルコット(Henry Steel Olcott: 1832∼1907)が、グナーナンダの下を訪れ仏教に改宗したことはよく知られた事実であ る。彼は、1875 年にアメリカのニューヨークにおいて神智学協会をマダム・ブラヴァツキー (M. H. P. Blavatsky: 1831∼1891)と共に設立していたが、1880 年 5 月にスリランカを訪れ、仏 教に改宗すると、同年 6 月には仏教徒神智学協会(The Buddhist Theosophical Society)を設立 した。この協会は「仏教徒の子弟が仏教の教育を受けることができるよう、仏教学校設立をめ ざしたものであった26」。また、仏教徒神智学協会は、「実際には改革仏教そのものでもあっ た27」のであり、これはオルコットなりの仏教理解を基礎としている。彼は、キリスト教的な 発想で仏教の近代化に邁進し、多くの教育機関や仏教教団の組織化を行い、その運動は仏教の 近代化に大きな貢献を為した。 そして、そこで教育を受けたのが、仏教復興運動の指導者A・ダルマパーラである。一般に ダンマパーラとして知られる彼の旧名は、ドン・デヴィド・ヘーワヴィタルネ(D. D. Hewavitane)である。彼はコロンボの富裕層の家系に生まれ、基礎的な教育はキリスト教系の 学校で受けている。しかし、彼は「パーナドゥラー論争」に触発され、グナーナンダに師事し、 またオルコットの来訪当初より通訳などで関係を深めた。彼は、のちに仏教徒神智学協会から 離れるが、その後も仏教の近代化に大きな足跡を残した。特に、仏教の聖地ブダガヤーを仏教 徒の手に取り戻そうとする運動は、大きな反響を呼び、仏教の近代化運動の象徴的存在となっ ている。 日本から遥か遠い小さな島国で前世紀に行われたこれらの論争は決して日本人とも無縁で はなかった。この事情はインド哲学仏教学研究の泰斗によって、左記のように印象深く語られ ているので、やや長い引用ではあるが、ここに掲げる。
スリランカのグナーナンダ師がアメリカのオルコット大佐を精神的に覚醒させたとい うことは、実はわが国・日本における仏教復興の起動力となったのである。明治維新の廃 仏棄釈ののちに、明治十一年に原坦山が東京帝国大学で『大乗起信論』を講義したのが仏 教復興のはしりのように思われているが、実は原坦山28にそのような確信を起こさせたの は、オルコット大佐の書である。 原坦山は、仏教を印度哲学と呼ぶことに、むしろ積極的であったようである。原は明治 20 年(1887)二月文科大学において「印度哲学要領」と題して演説し「ヲルコット氏曰 ク、レリジョン(宗教)ト云語ハ仏教ニ用ユルコト妥当ナラス、仏教ハ寧ロ道義哲学ト称 スヘキナリト、余ハ直チニ心性哲学ト云フヲ適当トス、本校ニ於テ印度哲学ト改ムルハ尤 モ当レリ」と述べている。(『哲学雑誌』1 冊、3 号、明治 20 年、105 頁) 驚ろくべし、1875 年にニューヨークに設立され、インド、セイロンなどにおける仏教 復興運動の原動力となった神智協会(The Theosophy Society)の創設者ヘンリ・スティー ル・オルコット(Henry Steele Olcotte)の影響を、原坦山は受けていたのである。そうし て日本におけるインド哲学講学ということは、一つの大きな世界史的な動きの波動と見な し得るであろう。 廃仏棄釈ののちの日本における仏教復興というものは、草の根から芽がひとりでに生え て出て来るように仏教が復興したのではない。スリランカにおけるグナーナンダ師の発し た起動力がついに原坦山をして行動を起こさせたのである。その事情については原坦山著 『大乗起信論両訳勝義講義』(昭和 63 年、……功運寺刊)の序文のうちにわたくし(*中 村元)は詳しく述べておいた。(*は引用者による補足)29 まさにこの論争は、日本の仏教学の発展にまで影響を与えていたのである。 以上のように南アジアの一漁村で引き起こされたこの論争が、仏教の復興運動を引き起こし、 また欧米人に仏教への関心を高めることとなったことは、現在世界各地で進められている宗教 間対話ならびに共生思想に、大きな希望を与える事例となるのではないだろうか。また、喩え 本小論で扱ったような宗教間対決、つまり宗教間における厳しい批判を通じてすら異なる宗教 の接触が結果として異宗教間の相互理解を深め、さらには新しい共生関係を生み出す可能性を 持つということは、この論争によっても明らかである。
「おわりに」
今日の世界はグローバルな時代になっている。しかしながら、世界の紛争は、いまなお止む ことがない。その紛争の原因のひとつとして、文化や宗教の違いによる民族や諸社会グループ 間の相互の誤解や無理解がある。そこで、世界の主要な宗教の世界観をより一層知るべきであり、各宗教と密接に結び付いた生活習慣や思惟方法などの生活文化の伝統にも注目していく必 要があると思う。今こそ、諸宗教間の批判ではなく、「諸宗教共存」や「異なる宗教間の寛容 や共生」を促すことこそ、異文化の理解につらなる道でもある。すなわち、宗教の理解を通じ て、異文化に対する認識を広げ、ひいては人間理解を深め、最も安定した安らぎのある世界を 求める学際的な進展が課題とも思われる。 その意味において現在さかんに行なわれている異宗教間の「対話」はより広く、より深く行 なわなければならない。相手を批判ばかりする「対論」は「対話」や「共生思想」に移行して いく時代がすでに来ている。このような時代を確実にとらえ実行に結びつけさせるためには、 1958 年(昭和 33)スリランカの一人の仏教徒 Dr. A. T. Ariyaratne が諸民族、諸宗教多元主義を 基に始め、国際的にも高く評価されている NGO 団体の Sarbodaya 運動に期待されるところが 多い。 付記 本小論は、【科学研究費補助金(基盤研究(A)課題番号 19202003)「インド宗教思想の多元的 共存と寛容思想の解明」】(平成 19 年∼21 年、研究代表者、釈悟震)の研究成果の一部であり、 【科学研究費補助金(基盤研究(A)課題番号 25244003)「インド的共生思想の総合的研究―思想 構造とその変容を巡って」】(平成 25 年∼28 年、研究代表者、釈悟震)の研究成果の一部を用 いている。 1 スリランカの全人口約 1887 万と推定される内の約三分の二を占める主要な民族。言語はインド=ヨー ロッパ語族のシンハラ語を話す。大部分は仏教を信奉しているが、ヒンドゥー教の影響を受けたことも あり、カースト制をもっている。しかし必ずしもインドと同様なカースト制ではなく、スリランカ人特 有なものであり、婚姻は交差いとこ婚が望まれている。住民の 70%以上がおもに仏教徒の Sinhala 族と、 約 20%がヒンドゥー教徒の Tamil 族、約 9%がイスラム教徒で構成されている(2002 推計)[ブリタニカ 国際大百科事典 小項目版 2007]。 2 本書は、1986 年、東京の山喜房仏書林から刊行されて以来、多くの反響を基に、朝日新聞社の「朝日学 術奨励金」、中日新聞社の「中日文化賞」を受賞するなど、学会のみならず、一般社会全般においても多 大な評価を得たスリランカ仏教を知るために欠かすことの出来ない名著といえよう。現在は、『前田惠學 集別巻二』(山喜房仏書林、平成 18 年)に結集されている。 3『比較思想研究』第 17 号、比較思想学会、2 頁。 4 この Mahinda 王子や王女 SaGghamittA に関する物語について、「あくまでも伝説であり、史実ではない」 ことが、インドの歴史学の立場から主張されている。(例えば、山崎元一『アショーカ王伝説の研究』春 秋社、昭和 54 年、156∼185 頁)しかし、このような主張には、仏教学者の間では、そのまま受け止め られていないようである。例えば、前田惠學博士は、「Mahinda 伝説を否定することが、学問的に厳密な 態度であるとする歴史学者の考え方もあるが、解せぬことである。歴史学的偏見であるように思われる。」 と、従来の研究姿勢を「偏見」として断じておられる。(『パーリ学仏教文化学』第 11 号、パーリ学仏教
文化学会、1998 年、ii 頁)あるいはまた、この Mahinda に関する物語は、異宗教徒からスリランカ仏教 を批判する的としても用いる場合もあった。例えば、昭和 31 年の、仏紀 2500 年記念祭(Buddha Jayanti) の直前、シンハラ語の日刊新聞が、ローマ・カトリック教徒の手によって刊行された。この新聞には、 セイロンへの仏教初伝者と云われる Mahinda は「500 人以上の仲間とともにセイロンへ来た。かれら仲 間はセイロンに到着して、この国の美しい女性を見るや、煩悩の虜になり、黄衣を傍らに脱ぎ捨てて、 性的享楽にふけった」(Report,p.35:36:Cf.I.D.S Weerawardana, CEYLON. General election 1956, Colombo 1966, p. 148.)といい、史実に反する捏造でもってスリランカ仏教の非正当性を主張しながら、批判をした。(前 田惠學博士『前田惠學集第三巻 現代スリランカ仏教の世界(1)』山喜房仏書林、平成 16 年、334∼335 頁。
5 G.C.Mendis:Ceylon Today and Yesterday,pp.60-61;早島鏡正『初期仏教と社会生活』岩波書店、昭和 39 年、
121 頁。
6 Gunratna Panabokke: History of Buddhist Sangha in India and Sri Lanka Colombo, The Postgraduate Institute
of Pali and Buddhists, University of Kelaniya, 1993, p.216.
7 Colvin R.de Silva: Ceylon under the British Occupation, Colombo 1953, vol.I, pp.162-164. 8 H.A.J, Hulugalle: British Governors of Ceylon. Lake House: Colombo, p.61.
9 Bhiksu Sangharakshita: Anagarika DharmapAla、1952.; 藤吉慈海師『インド・タイの仏教』大東出版社、1991
年、85 頁。
10 藤吉慈海師『インド・タイの仏教』大東出版社、1991 年、85 頁。
11 Richard F.Gombrich: Theravada Buddhism: A social history from ancient Benares to modern Colombo. London:
Routledge and Kegan Paul. 1988. p.178.
12 Richard F.Gombrich: ibid, p.178.
13 T.S.Dharmabandhu."Panca Maha Vadaya" Anula press, Maradana.Sri Lanka, 1956. Re Edition Buddhist Cultural
Center,. Colombo, 2003.etc.
14 Richard F.Gombrich: ibid, p.182.
15 The Great Debate, Buddhism and Christianity, Face to Face (Colombo, 1955) として出版された。 16 Richard F.Gombrich: ibid, p.182.
17 釈悟震訳注『キリスト教か仏教か―歴史の証言』山喜房佛書林、1995 年、314 頁。但し、Wilhelm Halbfass,
India and Europe, State University of New York press, 1988, pp. 36-53 では、キリスト教の伝道師とインドを
中心とした南アジアにおけるヒンドゥー教や仏教との関係を記す中に若干の言及がある。特に同書 43 頁 で、当時の宣教師たちが、異教徒に対して「寛容」ともいえる態度で接したその背景には、当時のヨー ロッパの理性崇拝、啓蒙主義の時代背景があったという指摘がなされているように、このような討論に おけるキリスト教側の討論者もまた、立会人もそれに相応しい能力を持ったものであったかは不明であ る。 18 釈悟震前掲書、9∼10 頁。 19 釈悟震前掲書。 20 以下の論考は先年筆者が発表した「スリランカにおける仏教とキリスト教の歴史的対論―「パーナド ゥラー論争」の意義―」(『宗教研究』第 82 巻、第 2 輯、日本宗教学会、2008,316∼320 頁)によるも のである。
21 Richard F.Gombrich: ibid, p.182.
22 前田惠學『現代スリランカの上座仏教』(前田惠學集別巻 2)、山喜房佛書林、2006 年、480 頁。 23 P. Friedlander, “Rediscovering the Dharma: Western Encounters With Buddhism in 19th Century South Asia,” p.
46.
24 F. Katukolihe, PAnadurA VAdaya (The Panadura Controversy), Lankaputhra Press, Colombo, 1948. Re-edited by
Pranith Abhayasundara, Controversy at PAnadurA or PAnadurA VAdaya, Published by The State Printing
25 詳しくは、釈悟震前掲書、203 頁参照。
26 前田前掲書、480 頁。 27 Richard F.Gombrich: ibid, p.186.
28 原坦山【はらたんざん】1819-1892 年(文政 2-明治 25)幕末・明治期の曹洞宗の僧、仏教学者。磐城平 藩士新井勇輔の長子で幼名は良作。号を覚仙、別に鶴巣とも称した。15 歳で昌平黌に入って儒学を学び、 また医術を修めたが、20 歳のとき出家して大中京璨(だいちゆうきようさん)の法を継いだ。さらに西 洋医学の研究を行い、1856 年(安政 3)には京都心性寺に住したが間もなく退き、72 年(明治 5)教導 職に任命された。2 年後に出版法違反の責任を負わされて同職を免職され、また僧職も剝奪されたが、 80 年に復籍している。東大印度哲学科の最初の講師。のち曹洞宗大学林総監。 29 中村元「監修のことば」釈悟震前掲書、113 頁。