「信仰復興運動」とモラヴィア教徒のリティッツ町
の発展
著者
天川 潤次郎
雑誌名
経済学論究
巻
63
号
2
ページ
1-21
発行年
2009-09-15
URL
http://hdl.handle.net/10236/3314
「信仰復興運動」とモラヴィア教徒の
リティッツ町の発展
“Evangelical Revival” and the
Development of the Town of Lititz
天 川 潤次郎
Lititz a small Moravian town with about 9000 people in Lancaster county, PA, is famous for its traditional Springs Park. An Evangelist once sang “. . . here gushed forth, salvation to bring, The fount of the Cross, by the ‘Beautiful Spring’.” The famous ‘Bretzel’ bread and root ‐ beer, and particularly the chocolate caramel were made by the splendid water of the springs.
The Moravian’s Christianizing of American Indians has also made Lititz famous. 136 Indians have been laid to rest in Moravian cemeteries. John A. Sutter, the founder of California, and his wife have also been laid to rest in Moravian Lititz Cemetery.
Junjiro Amakawa JEL:N00 キーワード:宗教と経済発展、モラヴィア教徒とデイアスポラ
はじめに
松本忠明君のおかげであまり苦労をしないで前掲「信仰復興運動とアメリカ におけるモラヴィア教徒の産業都市建設活動」(『経済学論究』第62巻,第3 号,2008年12月、1∼30頁)を掲載したが、4都市の中リティッツ町(Lititz) についてはあまり言及しなかった。そこで本号においては同町の1742年以 後の発展についてモラヴィア教徒の『教会史』、H.M.J. Kleinより抜粋した Mary Augusta Huebner筆のA Brief History of Lititz(Lititz Moravian Congregation, 1947)合せて40頁余の印刷物より説明することにしよう。これは私の所属する教会、ニュー・コミュニティ三田チャペルに派遣せられたア メリカ人女性宣教師Mary Raverさんがたまたまリティッツ町出身であるの で、メアリーさんに依頼して獲得した資料である。ここに同嬢に紙上あつくお 礼を申しあげる。 リティッツ町とした訳は同町人口が1920年3680人、現在9000人余のマチ 位の大きさであるので、市というよび名を改めた訳である。また同町が産業、 ないし工業都市というよりは、むしろ観光町、ないし文化町であることを本号 では強調したい。 また前稿の14頁、3∼4行目を次の如く訂正する。すみません。 500エーカー → 5000エーカー 誤 正 本稿はあまり組織的な書き方をしないで、トピックス、ないし話題が展開す るに従って項目別に自由に述べることにしたい。
1. リティッツ(Lititz)町開設史
1742年ベスレヘム市の開設を宣言したツィンツェンドルフ伯は同年Berks 郡を経て、最終的にランカスター郡(Lancaster County)に入り、先ず地主 Jacob Huberの家で信仰心篤い人々の歓迎を受けた。保安官George Kline (Klein)も来る予定であったが、彼はもともとルーテル教会の信者でモラヴィ ア教徒をあまり良く思わなかったので最初は敬遠した。しかしツィンツェン ドルフの説教が非常に良かったのを聴いてあとで自分は非良心的に動いたと 後悔し、ランカスター郡役所での1744年の説教には進んで参加した。列席者 にはChristian Bomberger, Christian and Jacob Hershey, Christian Henry Rauchなどがあった。ボンベルガーは「讃美歌」作曲者と同姓、ハーシーと云 うと有名なリティッツの北のレバノンのチョコレート製造業者、スイス出身の メノナイトのMilton Hershey(1857∼1945)と同姓で、ラウシュもスイス系 らしい気がする。多くの考えの人が宗派の違いをこえて「心を一つにして」参 加したものと思われる。 結局クラインはツィンツェンドルフの説教に心から感服し、あげくのはてに1753年には自分の所有地491エーカーをモラヴィア・リティッツ教会の所 有に献げ、自らは改宗して熱心なモラヴィア教信者となった。491エーカーは 実測では600エーカー以上になったという。1757年にはリティッツ町のモラ ヴィア教徒は子供も含めて253人に上った。信者の中には“Frey”という人名 もあるが、これもイギリス、オーストラリアで‘Fry’という名のチョコレート 関係者が思い出されて面白い。 さて、1757年のリティッツ町の開市、命名は1456年のボヘミア北東部の 男爵領の名前“Litizia”、“Litiz”から採ったものである。教会堂を建てる段に なると、スパンゲンベルク司教やペーター・ベーラー司教も参列している。リ ティッツ町はウォーリック(Warwick)などの地区を含めて1888年4月24日 に「バラ、特別市」(Borough)に組織せられ、市長(First Burgess)はJohnson Millerである。ベスレヘム市が「バラ」となったのは少し早く、1845年であっ た。リティッツ町は次節で述べるように「リティッツわき水」(Lititz Springs) という「自然の恩恵」があったためか、‘Gemeinhaus’などに閉じこめられ、性 別、年齢で分けられることはなく、初めから比較的自由に自分の私的住宅を所有 しえた。Linden Hall女学校や男子のBeck校長の高等学校も生徒の寄宿制を 励行せず、親の家からも通学しえた。またこれは良いことだが、各種職業もベ スレヘムでは1762年で教会の仕事や職業を他の宗派の人に賃貸し(let, lease) することを禁じたが、リティッツでは1855年まで許可せられていた。こうし て基本的人権である職業の自由は早くから確立していた。宗教の自由化も早 く、Mary Raverさんの属する「福音自由教会」(Evangelical Free Church) についで、Brethren, Mennonite, Holland Reformed Church, Catholicなど の各教会が設立せられた。
2.
自然の恩恵としての「リティッツ湧き水公園(Lititz Springs
Park)
」の存在
リティッツ町はその自然に有利な環境条件によって「産業都市」ないし「工 業都市」よりも「観光町」ないし「文化町」になる運命にあった。とはいって もそれは決してリティッツを含むランカスター郡の農業、工業の生産力が他の地域より劣っていたかというとそうではない(酪農は年産2位)。そこには勤 倹力行の禁欲倫理をもつモラヴィア教徒やレバノンのメノナイト教徒、それか ら輩出したランカスターの、機械と電気を嫌うアーミッシュ族(Amish)が多 数居住しているからである1)。ただリティッツにはペンシルヴェニア州第一の 強力で豊富な湧き水、伏流水をもつ水脈があったからである。ちょうど日本の 「名水百選」と同じく、清澄で飲むと健康にも良い、石灰などの鉱物質をも含 む自然水(飲料水)が近くに存在したからである。宣教師ツァイスベルガーが 唱っている2)。 「彼らはここで休息する。ここでは救いをもたらすごとく、十字の聖水盤 から『美しい泉』が湧きだすのである」と。
Here they rested──here gushed forth, Salvation to bring/The fount of the Cross, by the“Beautiful Spring”.
「美しい泉」(Sch¨onbrunn)というと「ウィーンの王宮」をさすが、リティッ ツは「自然の景勝地」としてその自然水は北部のマサチューセッツ州の河より も良好である。またペンシルヴェニア州のスクールキル河の水は水質が良好で 繊維の染色にも適するといわれた。ベスレヘムの‘Fountain Hill’地区はフラ ンスのパリの王宮地区「フォンテン・ブロー」(‘fontaine Bleau’直訳では「青 い泉」)にあやかって付けたのか、やはり飲料水に適する地下水が豊富にあっ た。しかしリティッツはリーハイ郡のベスレヘムなどを抜いて一層良好な清水 の水脈が豊かであるという訳である。勿論リティッツは宗教団体の土地である から、何も「王宮」と比較したのではなくて、「キリストの聖地」にある聖水 と比較したのである。例えば讃美歌「十字架のかげに」(Near the Cross, F.J. Crosby作詞、W.H. Doane作曲)のスタンザに「十字架のかげに泉わきて」 とあり、泉は‘a precious fountain’(貴い泉)となっている。「生ける水の川」 には「主の御座から流れる生ける水の川/今その流れの中で(1)恵み、(2)救 い、(3)・い・や・し受けよ」と書いている。「活水」(学校名)にもある。
具体的に説明すると、リティッツ地区の天然水の水源はその北西部の丘にあっ
1) 前稿 7 頁、地図 1 参照。
毎年 7 月 4 日の「独立記念 日」には先ず 1000 箇のろう そくが公園を照らし、あとで 巨大な花火の打ち上げ! て、例えばBomberg農場の洞穴に入れた麦の・も・み・が・らは地下を通って2マイ ル先の「リティッツわき水公園」に到着するといわれる。(これは通称‘Carter’s Creek’(カーター氏のクリーク)と呼ばれる「リティッツ・クリーク」であ る。)そこから「コネストーガ・クリーク」(Conestoga Creek)を経て、さら に6マイル先のサスケハナ河に流入するのである。その清水のわき出す馬力 は非常に強く、且つそのふき出す水量は極めて豊富、多量であるといわれる。 従って昔からその地方に住むインデアン達はリティッツを喜んでキャンプ地に 選んだし、また後の時代にもわき水公園の水をボトルに積めてもらって飲料用 に使っていた市民も沢山いた。やがてその水は自然にたまって大きな池とな
「観光客歓迎」 200 年前のライオンの頭の彫刻が見える。水はあまり出ない。 り、かくて1780年以後に入るとわき水に至る近辺を美化しようとする試みが 生れた。ナザレ・ホールを建てた大工の子供と思われるトビアス・ヒルテとい う若い音楽家、あるいはリンデン・ホールの若い先生が1792年にそこを計画 的に遊園地に変えようとして柳の木の植樹を初めたが、教会側は俗化を嫌がっ ていたが、最後にしぶしぶその地を「公園」(park)とする目的で1エーカー の土地を譲渡した。教会は「泉」の存在はキリスト教の「救いの精神」に合う と考え、シーダーの並木やライオンの彫刻もできて、かくて土曜午後や月の晩 には多くの楽士や若人で賑った。1777∼8年には快復期の傷病兵も集った。や がてボートも許され、水浴場(bath)もでき「森林としての美しさ」(sylvan beauty)も完備した。19世紀に入ると商人Jacob Tshudyとリティッツ・ア カデミーの校長John Beckが1500ドルを寄付して公園は一層美しくなった。 1790年にはリティッツは郡都ランカスターとの間に石造ターンパイク道路が できたが、やがて北のレバノン、北東のレディング、東のフィラデルフィアの 間に鉄道も敷かれ、「市場圏」として相互に賑わった。レディング(Reading)
からピクニックにやってくる、一団があって公園は盛況を呈した。7月4日 の「独立記念日」には池に400箇の・ろ・う・そ・くが浮べられた。1846∼56年には 公園は子供アカデミーの学生の運動場としても使用せられた。
3. 名機械エクリステンゼン(1716∼78)と名オルガン職人タンネン
ベルグ(1728∼1804)の生涯
2人とも『メモワール』(自己審査書)を残し、宗教的にも立派な人である。 Hans Christensenはシュレスウィヒ・ホルシュタイン生れで、3歳で父死 亡、1751年アメリカに来て、27年間モラヴィア教徒として献身的に働き、19 台の水車を建造(内10台製粉用)。リティッツでは3度、3台の水車を建造し たが、1757年に製材と製粉用水車。教会の許可をえて、ジョン・トマスの為 に建造。リティッツ公園の強力な馬力の水力を利用して成功、8月15日稼働。 11月からパン用小麦を本格的に製粉した。かくてリティッツ町に「パン革命」 を起す。ここでリティッツ町民は初めて自分で作ったパンを入手しえた。それ までは小麦粉は北カロライナ州セイレムの同教徒が生産したものを2∼3カ月 に1回定期的に運ぶ馬車に積んでやっと入手しえたわけである。勿論19世紀 にはボルティモアでエヴェンスの自動製粉機で製粉した小麦粉を購入するこ ともできた。こうして1810年以後有名郷土みやげ物の「8字型かたパン」ブ レーシェルも生産しえた。1765年には織物縮絨用水車、1776年には再び製粉 用水車を建造。彼はレディング、アレンタウンにも建造している。しかし彼は 1778年肺病で死亡、その原因はベスレヘムで働いていた時、1768年リーハイ 河が洪水で溢れた時、神のおかげで溺死を免れたが、それ以来胸を病んだ訳で ある3)。 David Tannenbergは前稿で述べた1790年でなく、1765年からリティッ ツでパイプ・オルガンを製作し初めている。オルガン職人としてのタンネン ベルグの名声は間もなく有名となり、1768年11月17日の『教会日誌』には 「ランカスターの種々の音楽家はタンネンベルグの新しいオルガンを見るため集った。これはマクサタニ(Maxatany)教会のために彼が製作したものであ る」と書いている。彼は続いて1787年リティッツ教会用のもの、さらにオル ガンやピアノをフィラデルフィア、ボルティモア、ランカスター、ベスレヘム、 ヴァージニア州のマディソン、北カロライナ州セイレムや他の色々の場所のた めに製作した。彼の作ったピアノの1つは22£10シリング、即ち約110ドル であったと云う。
4. 音楽の都「リティッツ」
アメリカの音楽の都は当時フィラデルフィアやニューヨークではなく、実に リティッツであり、それもそのモラヴィア教会であった。教会は声楽、器楽と もに音楽を奨励した。1765年の早くから教会牧師グルーベ(Bernard Adam Grube)は「完成した音楽家」として礼拝を仕切ったのみではなく、「教会聖 歌隊」と「ハンドベル・クワイアー」を育成した。彼は作曲を手がけ、楽符図 書館を作った。こうして教会オーケストラは聖なる音楽、世俗のシンフォニー を含め、有名音楽家の作品を多数演奏した。彼を引きつぐ牧師も有名な音楽家 であって、「教会アーカイブ」にはその所有古楽器を陳列している。 教会オーケストラ以外の街の初期のオーケストラの1つは「音楽愛好協会」 (フィルハーモニック)のそれであって、1815∼45年の間に例えばハイドン (Frauz Joseph Haydn, 1732∼1809、オーストリア作曲家)の「天地創造」(Die Sch¨apfung, 1798)や「四季」(Die Jahres=zeiten, 1801)などのオラトリオ (聖譚曲)のコンサートやバッハ、モツアルトの演奏会を催している。 また最初の町の音楽バンド、いわば楽隊は1810年に結成せられたが、これ は当時としては珍しい存在であった。多くの楽器を揃えていたが、太鼓(ドラ ム)は余り世俗的すぎるとして教会が使用を禁止した。 1820年に結成された第2のバンド(楽隊)は明かに有名となった。特別行 事として、1824年ランカスターにおいて独立戦争の義勇兵、有名なフランス のラファイエット(La Fayette, 1757∼1834)を歓迎する式典に進んで参加し た。また1834年フィラデルフィア・コロンビア(S.C.)間鉄道開通祝賀式に知 事と共に参加した。ベック教授の語るエピソードは列車の第1両に乗っていた隊員の山高帽が低い橋脚にひっかかって列車を停車させたという話しである。 さらに時代が新しくなって、1870∼80年代になると、16∼18人の隊員から なる「リティッツ・コルネット・バンド」が組織せられた。これはトランペッ トより小型のよくすきとおる音の楽器である。金モールの紺の燕尾服を着た隊 員がワシントンで第20代大統領ジェームズ・ガーフィールド(1831∼81)の 就任式に参加した時、先頭切ってバトン・トワーリングと共に有名となった。 Pannebakerの話によると、隊員はあとでホテルの晩餐会に招かれて弱ったと いうエピソードが残っている。貧民出で教会を好んだ大統領とモラヴィア教徒 の会合は面白い。 外に年中行事として新年やクリスマス、収穫感謝祭などの定った行事がある が、何しろモラヴィア教会はツィンツェンドルフを中心とする貴族が結成した ものであるから芸術や音楽、紳士らしさを尊ぶ雰囲気が残っていた。例えばベ スレヘムのモノカシー・クリークの中の島、サンド島4)に「あずまや」を作っ たり、スパンゲンベルク師が糸紡ぎ女の「労働歌」を作ったりした。文化の高 さを誇示したり、ジェントルなマナーを喜んだり、古風な丁重さ、奥床しさを 尊んだ。そこでモラヴィア教徒の愛餐会(love feast)やベル・ハウスのバル コニー、テラスの上でのトロンボーン・クワイヤーの合奏、合唱隊のコンサー ト、リティッツでは麦秋を祝う若人のコンサート、オーケストラ、コーラスが 加わった。夏の青空の下で音楽の美しい音を聴きながら若人たちは草原に寝こ ろんで無数の蛍が飛んでいるのを楽しく眺めていたのである。いずれにしても 楽器を奏したり、コーラスを唱ったりするのが、音楽の街リティッツの生活の 一部であったのである。
5. リティッツの郷土産業 — 平帽(chip hat)工業
19世紀初頭には郡都ランカスターを中心とする石造ターンパイク道路がリ ティッツを通り、リティッツには「市場圏」の一環としてLindstrom、松本 4) 前掲稿 17 頁の地図参照。幸男5)の述べるごとくかなりの農村工業の発達が見られた。やがて「農村工業 タウン」の一環としてバークス郡レディングの帽子工業が移植せられた。リ ティッツの名前はリティッツの帽子(平たいモラヴィア教徒の帽子)製造業者 のマサイアス・シューディ(Mathias Tschudy)の工場の生産品として広く有 名となるに至った。シューディは多数の労働者を集め、チップ・ハット(chip hat)と名付けるモラヴィア教徒の、底の浅い帽子を製造し、殆どすべてのア メリカの町村に供給して有名となった。「彼はアメリカでチップ・ハットを製 造する技術を体得した唯一の人」といわれた。1844年のRupp誌には麦わら 帽子や・し・ゆ・ろの帽子が台頭するとすたれたとある。
6. 名物餅菓子「8 字型かたパン」プレーシェル(Bretzel, or Pretzel)
工業
ドイツ読みをすると「ブレッツェル」であるが、現地ではフランス読み、ス イス読みをして「ブレーシェル」とよむ。私は20年前アーミッシュ族の部落 で初めて食べた。先ず1810年頃John William Rauch(ラウシュ)という人がもと近傍のロ スヴィルRothsvilleで作られていた「8字型かたパン」を製造し、「バスケット に入れて町から町へと馬に乗って行商し、名はダッチ・シャーリーと綽名でよ ばれたという。」Johnの息子のHenry Rauchはその菓子の製造を続け、よく 売れていたが、やがてその徒弟の1人のJulius F. Sturgisが分家して1861年 から独立して「ブレーシェル製造工業」を始めた。その中彼はJacob Kramer と合同企業を始め、広汎な得意先を開拓し、かくて「リティッツのブレーシェ ル」は有名となるに至った。彼は1897年死ぬまで続けた。未亡人のSarahは その工業を続け1904年に自分の息子のNathan D. Sturgisに譲渡した。ナー タン・スタージズはやがて2人の新しいスタージズを自分の仕事に引き込み、 商売は繁昌し、スタージズのかたパンは1876年には「唯一の真正のリティッ
5) D. Lindstrom, Economic Development in the Philadelphia Region, 1810-1850 (1978), pp.100, 130, 134; 松本幸男「ワシントン政権下の連邦政府の成立と建国初期アメリ
ツのブレーシェル」(“The Only Genuine Lititz Bretzels”)として登録せら れるに至った。これはリティッツの製品が広く公衆に承認せられた地位を獲得 した証拠である。現在でもこの工業は依然としてリティッツの重要工業の1つ である。
7. ビールと地ビールなど
モラヴィア教徒の居住地では昔はウイスキーのようなアルコール分の強力な 飲物が多く使用されていたが、教会側では「ビール」のようなアルコール分の 少ない、あるいは「地ビール」(root beer)のようなアルコール分の全く含ま ない、炭酸、清涼飲料などをむしろ奨励していた。1820年「リティッツわき 水公園」など自然水の流れている「カーターの流れ」(Carter’s run)に近いブ ロード街に「ビール醸造所」(malt-house)が建てられ、グライダー(Michael Greider)とシューディ(Jacob B. Tshudy)が共同企業として1830∼66年ま で営業した。またクライター(John Kreiter)が教会の許可をえて1833年に ビール醸造所をわき水公園の南西部に建て、F.M. RauchとP.R. Tshudyがそ れを継承した。しかしそれらは‘Badweiser’のように有名にはならなかった。 他方アメリカではバニラや桜の樹皮や甘草、ゆりの根、ナツメグ、アニス、 糖蜜を加えてブレンドし、いわゆる「ルート・ビア」(地ビール)が各家庭で、 またDad’sなどの如く商店で製造せられ、伝統的なハーブ飲料や商店で売ら れるものには2%位の軽いアルコール分が入っていた。ハーシーも一時商った が、咳を鎮める薬として用いられた。アーミッシュ部落で私が飲んだものは 「コカ・コーラ」のような味がした。「地ビール」はやはりアーミッシュ族の ものが多いように思う。1866年チャールス・エルマー・ハイアーが開発した 「地ビール」は1876年のフィラデルフィア万国博で売られバプテストのエアー が宣伝した。また1886年にはジョージア州アトランタの薬剤師デンバートン (Denberton)がコカの葉とコーラの実を抽出した原料から「コカ・コーラ」と 名づける飲料を作った。これがキャンドラー(Candler)により企業化せられ た「コカ・コーラ」の出現である。8. チョコレート工業
イギリスではクエーカー教徒が多いチョコレート企業家がアメリカではス イス出身のメノナイト教徒のミルトン・ハーシー(Milton Hershey, 1857∼ 1945)が一番有名である。いずれにしてもココアやチョコレートという商品は 1893年のアメリカのシカゴ万博以後の20世紀に生まれた新しい菓子、または 飲物である。ミルトンの先祖は1717年にアメリカに来て元祖Menno Simon の名をとって‘Mennonite’と称し、レバノン渓谷に定住した。若きミルトン はランカスターに来て、アイスクリームやキャラメルを作って売った。シカゴ 万博で「チョコレート巻き機」を見て感心し、その製品を外国で売ったらと忠 告せられてキャラメル工場を100万ドルで売って故郷レバノンに帰り、かく て社会的責任を果す有名な工場を作り、労働者のために孤児学校、お客のため にテニスやゴルフの遊園地、ホテルを作って注目せられた6)。ところで Clyde Smithが写真をとり、Cronan Mintonがテキストを書いた別のPennsylvaniaの『写真集』の23頁には「ランカスター郡のリティッツでは街全体がキャン デーの工場から来るチョコレートの匂いで包まれている」と述べている。や はり「心を一つにして」をモットーとするモラヴィア教徒は北のメノナイトと 仕事においても仲良くしてチョコレート工業にも参加したのであろうか? このことについてはリティッツの商工会議所が特にチョコレート工業の発展 に尽力してくれたと書いてある。リティッツのチョコレート工業は現在でも 有名であって『モラヴィア教会史』においても「ウィルバー・シューシャード (Wilbur-Suchard)のチョコレート会社はリティッツに本社を置き、また工場 をもっている」と書いている。またレディングのチョコレート企業家と合同企 業を行ったことは次の文で分る。 リティッツ練乳会社は1899年に設立され、レディングの「高級菓子会社」
(Excelsior Confectionary Company)と合併してKendig製造会社と改名し
た。新社はココアとチョコレートを生産したが、社会の需要が多くなって最初 の工場施設では不十分となったので、地方資本家の要望で15万ドルに公称資
本を増資し、会社名を‘Ideal Cocoa and Chocolate Company’と改称した。 「理想ココア、チョコレート会社」の名は今でも全米で有名である(p.7)と述 べている。インスタント・コーヒー、ココア、チョコレート工業に対するスイ スの関与については「ネスレ・カフェー」の農業博物館を見ればよく分る。ネ スレはスイスのヴェヴェイ出身である。
9. 他の諸工業
ザクセンやボヘミアに居た頃は鍛冶屋など鉄工業職人が多かった訳である から、リティッツにおいても鍛冶屋や・ふ・い・ご職人が多かった。例えば拍車、・き ・り職人のJohn Henry Raucliは・き・りの「らせん切り器」(Screw Point)を発 明したが、判事ウイリアム・ヘンリーがひな型をイギリスに運び、世界で採 用せられた。なめし皮職人のガイトナー(Jacob Geitner)は長年仕事を行っ ていたが、1882年息子Clementは皮なめし用の樹皮がリティッツでは少なく なったので多い北カロライナ州Hickoryに移住した。1881年にベッド用ばね 会社やモルガン製紙会社が誕生した。20世紀初頭Acme Metalは銀行の金庫、 貴重品保管庫、金属家具を製造した。15,000ドルの資本金で設立されたJ.M. Mast製造会社は動物ほかく用わな、魚釣り用うき、野菜おろし金などの珍し いものを生産している。 有名な“V-8”を名乗る衣食住の「標準ブランド会社」、例えば編物、下着、 靴、家具の工場は盛んで、Keystone下着工場は1898年に設立、Erb, Longの 努力で拡張を重ね、製品はアメリカ、外国に輸出販売せられた。Gerber, Reist, Nissleyのクリーム工場は製品をバターの形でフィラデルフィアに売ってい る。W.C.E.のせき止め用ドロップは民衆に愛用せられている。1902年に設 立されたウエリントン製造会社は公称資本金250万ドルの大会社で・の・り、澱 粉(starch)の形で製品をアメリカやヨーロッパで売っている。1904年に1 日500足のゴム靴を生産していたリティッツの靴会社はEbyの靴工場を合併 し、1日千足の子供用靴を製造している。ランカスターの石版画会社を引きつ いだリティッツ会社はLandisの経営の下でボール紙箱生産や印刷などの事業 を行っている。
10. ランカスター周辺の各種博物館
ランカスターは「アーミッシュの里─外出も黒塗りの一頭馬車、トラクター の代りに6頭馬耕、Edwin Muirはこれを「家畜の・ひ・ず・めが古い水車のピスト ンの音のように上下に動くが、静かである」と歌っている。夕方になると蛍が 一杯出てくる牧歌的光景、「アーミッシュの里」そのものが一種の「教育施設」 となるが、ランカスターや周辺には次のような博物館がある。(1) Landisの農場博物館(Farm Museum)
ランディス渓谷の農場博物館には植民時代から19世紀に至るまでの各種歴 史的施設があり、1870年代のランディス家の建物は圧巻である。 (2) ペンシルヴェニア,シュトラスブール(Strassburg)の鉄道博物館( Rail-road Museum) 黄色の展望車3両、茶色の客車4両、大きなS.L.の機関車の引く「天国」 (Paradise)行きの鉄道は本物同様。ストラスブールというとモラヴィア教徒 のヨーロッパ兄弟教団の団地「ヘルンハーグ」の総管理者アブラハム・デュー ルニンガン(A. D¨urninger)の故郷である。そこから資金が出ているのであろ うか? (3) ペンシルヴェニア大学所有の「類人猿研究館」 20年前私は当時この大学に居られたチンパンジーの研究者松沢哲郎教授の お世話で案内してもらった。博士は現在京大霊長類研究所長として京都動物園 内にチンパンジー学習用の「学習施設」を作られた。チンパンジー紹介の子供 用絵本も出版しておられる。
(4) バックシャー、DoylestownのMercer’s Museum
中世のギルド、マニュファクチュア期の商店の模様、各種職人の作業場の模 型が良く保存されていて、Henry Chapman Mercer博士の力作である。「えり 抜きの職人」(‘the pick and choice of mechanics’)と賞められたフィラデル フィア職人の姿を現す。
尚アメリカの首府ワシントンの「科学博物館」には1876年のフィラデルフィ ア万博に出品された世界のあらゆる国の工具、器具、治具が完全に保存されて いる。 また美術館、Longwood Gardenのような植物園も博物館と同じように立派 な「教育文化」施設である。
11. 野戦病院の設立による協力
モラヴィア教徒は「戦争反対」であったが、「自己防衛」は重視した。アメ リカ独立戦争においてはベスレヘムの男子寮を野戦病院に貸し、看護婦として も協力した。ラファイエットがここに入っていたこともある。リティッツにお いてもワシントン将軍の懇請で1777年から約1年間William Brown博士の 下に野戦病院が造営せられ、モラヴィア教徒は全力をあげてこれに協力した。 戦場バレー・フォージも近く、「自由の鐘」もアレンタウンに行く道でベスレ ヘムなどを通過した。12. モラヴィア教徒の「学校教育」のコスモポリタン性
コメンスキーの「学校教育論」については松本君に任せよう。しかしモラ ヴィア教徒の学校教育の実質はそのコスモポリタン性にあって優秀であり、他 の宗派の子女も差別せず進んで入学させてくれたという話である。1766年に 設立せられたランカスターのモラヴィア教徒の学校では最初に数人のモラヴィ ア教徒学生についで、1794年にボルティモアの8才のモラヴィア教徒でない 他の宗派の少女の入学を許可している。またリティッツのJohn Beck校長の 男子校では50年間にわたって2000人以上の卒業生を出したが、その中にはア メリカ全州の殆ど、ヨーロッパのイギリス、フランス、ドイツなどの主要国や 西インドやインドの出身者をもうらしている。モラヴィア教会の少年用の「家 族学校」(‘Family School’)も有名であった。ベック校長の息子のAbraham R. Beckが30年間経営したその学校は大成功であって世間で名声をはせたと いう。「ナザレ・ホール」の50年間にわたる817人の卒業生の出身地は次のように全世界に分布している7)。 フィラデルフィア204人、ベスレヘム49人、ナザレ18人、リティッツ14人、 他のペンシルヴェニア州人117人、ニューヨーク市、ニューヨーク州159人、 ボルティモア53人、北カロライナ州12人、他の合衆国州、カナダ、ヨーロッ パ109人、西インド82人。
13. インデアンへの宣教活動、その墓地
多くのプロテスタント教派の中でもモラヴィア教徒がアメリカ原住民イン デアン(イロクワ族、モホーク族など)への宣教活動、そのキリスト教化に最 も献身的に努力し、かつ成功したことは明かである。アメリカ独立戦争におい ても「野蛮人を文明化し、キリスト教化した」モラヴィア教徒の働きは偉大で あったといわれる。 例えばツィンツェンドルフ伯は1742年9月15日にベスレヘムにおいて最 初のインデアンの洗礼式を行っている。ツァイスベルガー(David Zeisberger) とポスト(Christian Frederick Post)という2人の宣教師はモホーク族の言 葉を習得する目的でインデアンの中に潜入し、ポストの如きは2度もインデ アンの娘を妻にめとった。ツァイスベルガーの如きはインデアンの集落として デラウェア、リーハイ、サスケハナ河畔に「クリスチャンの泉」、「恩寵の谷」、 「平和の谷」、「恩寵のテント」、「平和のテント」などの居留地を設立した。サ スケハナの「平和のテント」ではモラヴィア教会の朝の礼拝の大声におびえて 叛乱を企てたインデアンが自滅したというエピソードもある。1752年モノカ シー・クリークの東岸にはインデアンの訪問者をもてなす酒場(ロッヂ)まで 造られた。その結果独立戦争の際にはフランス・インデアン軍から550人余 の投降者がアメリカ側に降服し、またイギリス軍からはスコットランド高地人 の優秀な青年が降服して来て、おかげでベスレヘムの人口が倍加するという嬉 しい結果まで出た。 モラヴィア教徒は彼らに英語を教え、文明の理念やジェントルなマナーを教えた。特にモラヴィア教徒はキリスト教讃美歌を英語で歌うことを教えた。イ ンデアンの学校も作り、学校の教科書として1803年には『キリスト教徒イン デアンの使用のための讃美歌集』(A Collection of Hymns for the use of the Christian Indians)を出版している8)。 モラヴィア教徒の墓地には実に136名のインデアン・クリスチャンの墓石が 発見せられる。彼らはモラヴィア教徒として白人と同じ大きさの‘breast stone’ の下に眠っているのである。
14. 「カリフォルニア開拓の先駆者」ジョン・サッター将軍 リティッ
ツのモラヴィア教徒墓地(‘God’s Acre’)に眠る
重要な州であるカリフォルニアの開拓、開発の先駆者であり、ある意味でカリ フォルニア州の「生みの親」でもあるJohn Augustus Sutter(1803∼80)氏の 父はスイスの小製紙工場主であって、子供であるJohn氏はドイツのBaden生 れ、スイスの軍隊に入り、1831年には少佐の位階であった。南ドイツのBasel に住み、1834年アメリカに入り、有名なカリフォルニアの‘Gold Rush’はサッ ター氏の「とりで」(Fort)で初めて起った。牛の牧場を経営していて、非常 に旅人に対して「厚いもてなし」(hospitality)を行う精神を持っていること で有名であった。しかし実際は余りにも人の良い性質の人であったので金を 自分の利財の資にすることはできず、他人に奪われ、牧畜していた牛は人に盗 まれ、かくて自称「とりで」は何の役にも立たず崩壊、1851年州知事にもな れず、いたずらに‘General’(将軍)という呼称をほしいままにするに留った。 1873年彼自ら名づけた「新スイス」(‘New Helvetia’)の自分の土地を離れ、 どういう因縁かよくは分らないがペンシルヴェニア州のリティッツの静かさに 最後の安住の地を求め、現在「サッター将軍のホテル」と名ずけられるホテル に夫人と共に「終の棲家」を定めて隠退した。「新スイス」の呼称を付けた彼 の土地はその後「サクラメント」(‘Sacramento’)と呼ばれ(1854年)、現在 ではカリフォルニア州の州都として人口40万人の大都市となっている。彼は“Swiss Idealist”(W.T. Parsons, p.202)と呼ばれ、また「空想家、夢想家」 (Visionary)とも言われたが、私などは自分に似ている性格の人として同情に 耐えない。彼が常宿として住んだホテルはリティッツ市民に役立つように若手 商工会議所員により理想的に改造せられ立派になっている。サッター将軍はこ のホテルが好きで彼と夫人は共にリティッツで晩年を過し、最後はモラヴィア 教会の墓地で葬られた次第である。 ところが1939年8月12日になって「100年祭」が行われ、彼が「新スイ ス」と故郷を表してか名付けた土地はいまや「サクラメント」として、キリス ト教の「堅信式、聖餐式」を表す目度たい呼称で呼ばれ、こうして彼は復権し た訳である。100年祭に当ってカリフォルニア側ではFrank H. Buck氏がサ 「サッター将軍」のホテル入口9) 9) スイス人サッター将軍はミズーリ、ネバダ州で 1834-39 年ビーバー、川うそ、エルクなどの毛 皮獣のわな捕獲を行い、インデアンと毛皮取引を行う。1839-45 年メキシコ総督より約 50,000 エーカーの領地を交付せられ、1000 人のインデアン、ハワイ人の労働者を傭って、製粉、製パ ン、毛織物、鍛冶屋、皮なめし、ウイスキー製造などの工場を経営する。ぶどう園も経営。 1848 年 1 月アメリカの支配下になって、製材工場を建設中、輩下の大工 James Wilson Marshall が 23 カラットの金鉱石を発見、有名なカリフォルニア Gold Rush となる。1000 人の労働者
クラメント市民がサッター将軍に献げた記念碑を除幕し、そして大陸を渡って リティッツの改造された「サッター将軍ホテル」の入口にはもとリティッツ市 民であったC. Robert Longenecker氏がリティッツ市民が贈ったタブレット (碑銘)を同時に除幕した訳である。日本人も関係深いカリフォルニア州のた めにもジョン・サッター将軍の復権は嬉しい、めでたい限りである。
15. 総括 — モラヴィア教徒の歴史的貢献
1749年のイギリス法律によって聖公会と同等の権利をもってモラヴィア兄 弟教会はアメリカを開拓し、宣教を許可される。Catherine, Little Strength,Irene, Hopeの4船を使用。56∼100人程度の教会員を毎回運ぶ。120トン以 下の船。4市を建設。32∼40 trades。1759年ベスレヘム618人、ナザレ268 人、宣教師50人。耕作地2454エーカー。各業種の中にはベルの生産、ボタン の製造、絹工業も含む。5学校、20棟の建物、5工場(mill)、2ホテル(Sun, Rose Inn)、48農業倉庫などの成果を生む。 しかしその生活方針は「天国の民」らしく自然に融け合い、ゆったりとして いた。先ず朝100匹程の牛のベルの音で起され、極めて「牧歌的」。ドイルス タウンやベスレヘムの陶磁器工場はドイツのマイセン(Meissen、ドレスデン とライプチヒの中間)の技術を輸入していたため、その製品は高級で、フィラ デルフィアでも珍重せられた。1755年300人の学童、80人の教師を擁するモ ラヴィア教会の学校は高級であったため、世界のあらゆる教派の人々の憧憬の 的となる。 飲料水は最初は桶で汲みに行ったが、やがてクリステンゼンによる市営水 の中、仕事を辞めて金を堀りに行く者多く、結果は必ずしも良くない。 1849-50 年、31 番目の州としてカリフォルニアの州知事選挙が行われたが、サッターは破れ、 代りに 1853 年民兵少将に任命せられる。 サッターがリティッツに最後の居を定めた訳は、(1) 孫 3 人を教育施設として優秀なモラヴィ ア教徒の学校に入れたかった。(2) 老齢に近づいて、自分の健康のためリティッツわき水公園の 清水の「健康に良好な品質」を利用することを期待した。(3) ワシントンと交渉上、リティッツ は近いこと、などである。 最近になってサクラメント市には半導体や電子機器などの最先端、ハイテク工場が進出したとい われる。南にシリコン・バレーも近い。
道技術(water-works)の完備により、40メートル程度の高さまで汲み上げら れ、各室の目の前まで送水せられた。例えばクエーカー教徒女性のHannah Callenderは1758年ベスレヘムの水道制度を最も賞めている。併せて泉の中 の鱒、「水路の鱒」は住民によく馴れていて、・え・さをやると集まって来ると述 べている。1796年になると、Isaac Weldは兄弟教団の人々はお互いに親密な 関係を保っていて、泉、小川にまたがる‘Spring House’ではミルク、バター、 または肉類を各員それぞれ定められた棚やボードの箇所に冷蔵貯蔵している ので、自分の欲しい時に自由に取出せるとしている。スパンゲンベルグ師も 「愛餐会」(love feast)があるおかげで創設期の苦役も楽しいものになりえた と述べている。ホテルのSun Innについてはジョン・アダムスも賞めている が、フィラデルフィアの暑い夏にベスレヘムのInnでは涼しくて良いとフラン スのラロッシュフーコー公が賞めている。一般に住民はマナーが良く、ホテル の値段も安く、それに古い時代、世界のcourtesyが残っていてすばらしいと している。イギリス人Auburyの『旅行記』(1789)には「サン・インの食事 はロンドンの一流料亭のそれに少しもひけをとらず、特にそのぶどう酒は素敵 である」と書いている。近代になると、茶にしても、ミント・ティーや中国の ウーロン茶や、最後にチョコレートさえ安く飲みうるとしている。 ランカスター郡の生産力(C.H. Smith, p23.) 近代科学技術を使わないと云いながらアーミッシュ族やメノナイトは「最も 生産的な農夫」。 ランカスター郡は6000農場、地価20億ドル以上、年穀物生産額3億5000 万ドル、酪農品生産額はアメリカで2位、タバコは5位。 牛は23万頭、豚13万5000匹、鶏2300万匹。 New Hollandの家畜市場は有名。 工業生産額は年25億ドル以上で、農業収益の8倍。 思うにモラヴィア教団のモットーは実に「心を一つにして平和を求める」思
想に根ざしたものであった。それはツィンツェンドルフ伯の心境でもある。即 ち、“In essentials Unity, in non-esentials liberty, in all things love.”であっ たのである。ベスレヘムの南の山頂に電飾された300バルブ電球の100フィー トの「ベスレヘムの星」が20マイルの遠くからでも見えるという。京の「大 文字山」の如きである。 モラヴィア教団の一応の成功の理由の1は何といってもやはりツィンツェ ンドルフ伯の豊かな財力によるものであった。しかし規律を重んずる同教団は 1764年に同家に55万ドルを返済し、残額の約77万ドルも1801年までに支 払ったという。それでも残りがあったのか1770年の「ベスレヘム未亡人協会」 (Widows’ Society of Bethlehem)は最古の養老保険といわれる。
4都市の中やはりリティッツは現在人口9000人で一番小さい。一番大きく 成長したのは北カロライナ州のセイレムでWinstonと合併して巨大都市となっ た。これは1750年初めイギリスのジョン・グランヴィル卿(John Granville) から98,985エーカーの土地を買収してWachovia村を開拓し10) 成立したも のである。 現在アメリカではバラク・オバマ氏が合衆国第44代大統領となった。1963 年にMartin Luther King牧師は“I have a dream.”の名演説を残して死んで いったが、オバマ氏の今期の当選は「アメリカン・ドリーム」の一層の具体化 の姿と考えられる。「宗教と経済」の2つの理念の長期にわたる・せ・め・ぎ・あ・いに おいて、実に今期は宗教の方が勝ったような気がする。関学の今泉教授は「正 義を洪水のように、恵みの業を大河のようにつきることなく流れさせよ」(旧 約聖書、アモス書、5-24)を引用されているが、ツィンツェンドルフ伯とモラ ヴィア教団の活動はこの思想を一早く実践したものと言えないであろうか?