多元的世界の宗教について : 存在の探究(その5)
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(2) . じ め. に. 上. 岡. 宏. そ れ ゆえ本論 では、 まず仏教 が出 現す る前後 のイ ンド から事 象 の. ろ、 フ。. え ば宗教 概 念 の図式 性 と い った考察 のため に、 そ の歴 史 内 容 が対 応 しう るよう 素材 の下 ごし らえをす る こと がどう し ても 必要 にな る だ. て いる事柄 に ついて直接答 え てく れ るよう な記 述 に は滅多 に出 会 え な い。 存在 論的 に歴 史 を考 えよう とす る我 々の立場 では、 そう し た 困難 も 倍加す る。 こう な ると、 まずも って 一通 り歴史 を勉 強 し、 例. 史 の考 え方 に馴染 ん で いる者 にと って非常 に把握 し にく い世 界 であ る。 教 科書 的 には細 いこと が沢 山書 いてあ るが、 こち ら が問 題 にし. よ く言 わ れ る こと だが、歴史 とし て見 られ る場 合 の東洋 は、 西洋. て い た の だ ろ う か。. 現し て いた。 従 って ここま では、 必要 な道具 立 ても 西半 分 の地域 と 殆 ど同 じ であ った。 と ころ が、そ こから始ま った紀 元後 の歴史 はそ れ と は極 め て異な ったも のにな った のであ る。 一体 東 では何 が起 っ. いず れも 古代 文 明 の発祥 地 であ る。 多 少 の時 間 のず れ はあ る が、 農 耕 の普 及 と共 に青銅 器時代 を 迎え、 前 六世紀頃 には鉄 器も庶 民 の手 に入 って いた。 そし て次第 に商業 経済 が盛 ん にな り、 都市 国 家 から 統 一国 家 への成 長 が始 ま ると、 世 界宗 教 の資格 を備 え た仏教 も姿 を. 1 111存 在 の探究 (そ の5 ) r ーー. 多 元的世界 の宗教 に ついて. 北海道教育大学紀要 ( 第 一部A)第 四三巻 第 一号 平成四年七月. は. 先 の論 文 で示 し たよう に、我 々は紀 元後 の歴 史 の考察 を 旧世界 の 西半 分 から始 めた。 そ の結果、 我 々は こ の地域 が見 かけ の断絶 にも か かわらず、 実際 には今な お世 界国 家 の原型 を留 め て いる こと に気 が ついた。 人間 世 界 は生存 の為 の用具連関 やそ れ に即し た人倫構造 が完 結 し てしまう と、 余 程 のこと がな い限 り変 化しな い。 前回 の論 文 で明 ら かにな った のは、東 地中 海 からイ ンダ ス河 に至 る ベルト地 帯 が前 六世紀頃 から始 ま った構造展 開 によ って完 結 し たあ と、 世 界 国 家 とし て存続 す るには、中心 とな る宗 教 はキ リ スト教 からイ スラ ム教 に代わら ね ばな らな か ったよう に見 え ると いう こと であ った。 これ は教 科書的 世 界史 では思 いも 及 ば ぬ視 点 であ って筆 者自身 も予 期 せ ぬ結 論 であ った が、 言う ま でも なく、 こう し た見方 の当否 は今 後 の考察 によ って追 々明ら か にな る こと であ るから、 こ こでは単 に そうし た発見そ のも のに注意 を喚起 す る に留 めよう 。 では、 そ のベ ルト地帯 の東半 分 はどう であ ろう か。 この地域 はカ ラ コル ムから ヒ マラ ヤ に至 る山岳 地帯 で南 北 に分断 され て いる が、.
(3) . . 宏. 上 岡. 整 理 を始 め、 そ れ が中国 に広 が る辺 り から 目を中国 に注ぐ よう な叙 、 述 を 試 みる こと にし よう。 本 論 の範 囲 とし ては 扱う 世 界 の複 雑 さ 、 も あ って簡 略 を 心掛 け ても 七、 八世 紀頃 ま でし か考察 でき な いが 、 先 行 き極 東 ア ジア の問 題 に関 わ る材 料 は大体 これ で揃う ので そ の 後 のこと は 今後 に委 ねる こと にし た い。 いず れ 日本 の歴 史 を存 在 問. 古代 イ ンド と仏教 の問 題. 題 とし て扱う 際 には、 ここで揃 え た材 料 が不 可欠 にな る はず だ から で あ る。. H. 古 代イ ンド や中国 に ついては、我 々は これま で青銅 器 文 明 の広 が り と か地中 海世 界 の歴 史 を論 じ な がら類推 的 に何度も 触 れ て来 た の 、 で、 こ こで繰返す のは多 少 冗長 を免 れ ぬ感 も あ るが 問 題 の性質 上 、 や はり押 さえ て おかねばな ら ぬ こともあ り 一応改 め て こ の地域 の 。 。 用具連 関 から事 態 を 整 理す る こと にし た い 最 初 はイ ンド であ る 周知 のよう に、 イ ンド の歴史 はイ ンダ ス文 明 が前 千 五 百年 頃 に滅 ん だ後、 イ ラ ン高原 から 入 って来 た アー リ ア人 が曲荊±的 な神話 型宗 。 、 教 によ って支配 体制 を施 いた時 から いわゆ る歴史時 代 に入 った 、 ただし、 そ れ から千 年程 の間 は全 く記 録 がな いので 学 者 たち は現 . 在 に残 る様 々な痕 跡 から推 理す る形 でし か空 白を 埋 め る手 立 て がな 、 い と 言 わ れ て い る 。 イ ンド の先 住 民 は モ ヘ ン ジ ョダ ロ の よ う な 都. 、 会 型 の都市 国 家 を築 いた農耕 民族 であ るが 建 築材 料 とし て焼 き レ 、 ンガを余 り に作 りす ぎ て森 を失 った所 為 か 或 いはイ ンダ ス河 口域 。 、 の変 化 で繰返 し 洪水 にや られた為 か と に かく次第 に衰 え て行 った 。 そ こ へアー リ ア人 が侵入し て来 た のであ る 彼 ら はも とも と遊 牧 民 。 であ る が、 先住 民を追 い払う とそ こで農耕 を 始 めた 最初 はイ ンダ. 二. ス河 流域 で麦 類 を耕 作 し て いたが、 次第 に東進 し て釈 迦 が生ま れ た. 頃 にはガ ンジ ス中流 域 ま で進 出 し、 そ こに都市 国 家を築 いて いたと. 言 われ て いる。 だ が、 こ の時 期 にはま だ先 住 民 の都市 国 家 も ガ ンジ ス流域 には残 っており、 釈 迦 の生 ま れ た カピラ国 も どちら かと いえ 。 ば蒙古系 に近 いシ ャーキ ャ族 の小 都市国 家 であ った 既 に水 田耕 作. も 本格 化 し て いたが、 アー リ ア人 は粉食 が主 だ った ので畑作 が中 心 であ り、 米 はド ラヴ ィダ族 や蒙古 系 のチ ベ ット ・ビ ル マ族 が作 って い た ら し い。. 、 と ころ で、 イ ンド と いえ ばカー スト制度 を連想す る が そ れ が こ. の時 代 ど んな 風 に民衆 を拘束 し て いた のかイ メー ジす る のは中 々難. し い。 よく知 ら れ て いる四 つの階 級 では先 住 民 はす べて最 下層 に落. とされ る こと にな る が、 例 え ば釈迦 の父 は非 アー リ ア系 と い っても 。 国 王 であ り、 そ んな に 一律 には扱 えな か ったと思わ れ る 一説 には. 二百も のカー スト があ ったと か、 職業 別 ・職能 別 と か人種 や民族 の 違 いで実 に様 々だ ったと いう から、 王族 な ら非 アーリ ア 人 でも 戦 士 。 階級 と見 な され ると か、 そう し た便 法 も あ った のではな かろう か. 、 し かし、 そう いう社 会 的制約 はあ る にし ても 経済 的 には同 じ頃 の 。 気 候的 にも 二毛作 が定着 し て 中国 よ り は は るか に豊 かだ ったろう. 、 い た だ ろ う し 、西 に は ア ケ メ ネ ス朝 ペ ル シ ャ が 盛 え て い た の だ か ら. 。 通 商 貿易も 可能 だろう し、富 裕な商 人 は沢 山 いた はず であ る と こ 、 ろ がそ んな に豊 かだ った にも か かわらず 当時 の知 識 人 は何 か大 き 、 な精神 的飢餓感 に苛 ま れ て いたらし い。 家を出 て 自 ら難 行苦 行 の 道 を 選 び、 最 高 の自我 に達 し て宇 宙的原 理 と 一致す る境 地 を追 い求. 、 何故 そ んな ことを し た のだろう か。 考 え ら れ る理由 の 一つは こ. め る人 々が続出 し て いた のであ る。. 余 暇 ) の問 題 であ ろう。 の時 期 の先 進 文明圏 に共通す る ス コレー (.
(4) . 多元的世界の宗教について. ギ リ シ ャでも中国 でも 、 この時 期 に個 の自覚 に達 し た知識 人 が哲学 にせよ政治 論 にせよ大 同小異 の活動 を始 めて いた のだから、 イ ンド. 既 にウ パ ニシ ャ ッド哲学 によ って、 あ のよう な 下地 が出 来 て いる の であ れ ば、 苦行 以外 の仕方 で解 脱 を教 え る仏陀 の説教 は、 誰 にと っ. 代 の布教 活動 とし てはキ リ スト教 な ど比較 にならな い程 の成 功 だ っ たと言 え るだろう。し かし これ は別 に奇蹟 的な出来 事 ではな か った。. し 、 イ ンド で は も う 一つ の 理 由 が あ った ら し い。 ウ パ ニシ ャ ッド の. ても有 難 いも のだ ったはず であ る。我 々はカ ル マ思想 を とも す れば. でも 同じ こと が起 ったと思え ば 一応 の説 明 が つく わけ であ る。 し か 哲 学 が出 現し て以来 、 人間 は死 んだら どう な る かと いう問 題 が人 々. 仏教 固有 のも のと受 取 り がちな ので、 バラ モ ン教 から ヒ ンズ ー教 へ. 高 原 理 であ るブ ラー フ マンと合体 でき ると ころま で自 分を磨 き上 げ. 分を解放す る ( 解 脱す る )に は全 てを捨 てて修行 に励 み、宇 宙 の最. らし誰 も それを免 れ る ことが できな い。 この悪無 限的な転生 から自. 付き ま と って いるため、前世 の悪行 の報 いによ る不幸を各 人 にも た. 対 で、永遠 に繰 り返 さ れ る輪 廻転生 は前 世 の因縁 ・業 (カ ル マ)が. 正し い思惟を勧 め、修行 者 タイプ には正し い精進 と腹想 を教 え、普. こと であ る。 知 識人 には、 論 理的 に考察す れ ば分か る こと だ とし て. 真 に偉 大 だ った点 は、 そ の要点 を相手 次第 でどんな形 にも 説 き得 た. は不 必要 であ って正し い方 法 は別 にあ ると いう こと であ った。 彼 の. 釈迦 が説 いた のは、 そう し た カ ル マから の解 脱 にはむや みな苦 行. ともあ るが、真 理 と の合体 と いう点 から いえば実 は行者 の方 が本筋 であ った。 そ こ へ仏教 が登場 し た のであ る。. と展開 し て行 ったイ ンド で の今も 見 かけ る行者 の意 味 を 誤解 す る こ. に 一定 の方向 性 を指 し示 し て いたよう な のであ る。 こ の哲学 思想 で は、 人間 は死 ぬとあ の世 に生 ま れ変 わり、 いず れ再 び こ の世 に生 ま. ね ばな らな い。 そ こで初 めて永遠 不変 の天上界 に留 ま る こと が可能. 通 の人 には犯し てはなら ぬ ことを戒 め とし て説 く と いう 仕方 で、解. れ て来 ると言 わ れ て いた。 ただし、 そ れ は喜 ばし いど ころ かそ の反. にな ると いう のが、 そ の思想 だ った のであ る。 王 子 だ った釈 迦 が こ. 脱 は身 分 の上下 や知識 の有 無 に関 係 なく各 人 の自覚 と努 力 に か か っ. 続出 し た のも当然 であ る。 では、仏 教 はたちま ちイ ンド 世 界を覆 った のだろう か。 いや必ず. て いると教 え た のであ る。 在家信 者 にす ら解脱 の可能 性 が開 かれ て いると いう 点 は、 そ の意 味 では革 命的 でさえあ った。 帰 依す る者 が. う し た修 行者 の群 に身 を投 じ て、 そ の苦行 の途中 で仏教 の悟 り に到 達 し た こと はよく知 ら れて いるが、当時 はかな り の人 々、多 く は バ ラ モ ン出身 か戦士階 級 だ った が、 そう いう知 識 人 が こう し た苦行 に 加 わ って い た と いう 。. 既 に述 べたよう に、 そ の頃 のガ ンジ ス中 流域 は大 小 の都市国家 が. しも そう ではな か ったよう であ る。 確 か に バラ モ ン階 級 への反 撰 は. とを むし ろ強調 し、支持者 も多 か ったらし い。仏教 は民衆 に は難 し. あ った にせよ、そ れ に対抗す る形 で出 現 し たウ パ ニシ ャ ッド 哲 学 や、. 国 を 経巡 りな がら約四十 五年間 布教 に努 め たわけ であ る。幸 いな こ と に、 そ の布教 は極 めて順調 であ った。 冷淡な国 も な いではな か っ. す ぎ ると いう こともあ る が、 厳し い戒 律 と修 行 で凄惨 な姿 を 人目 に. 勢 力争 いを し ており、 アー リ ア系 の国 家 が優 勢 だ ったけ れ ども、 ま だま だ先 住 民 の小国 も残 って いた。 悟 りを開 いた仏 陀 は、 そ こで諸. た が、何 人 か の国 王 が帰 依し、幾 人も の富 豪 が立派な僧院 を寄付 し、. 晒す 苦行者 を見 れ ば、 どう し ても そ れを拝 ん で供物 を捧 げ 幾 分 の御. 仏教 と前 後 し て現 われ た ジ ャイナ教 は、 烈し い苦 行 に身 を や つす こ. 八十歳 で死 ぬ時 ま でには各 地 に教 団 が出来 て いたと いう から、彼 一. 三.
(5) . . 宏. 上 岡. 、 利 益を願 わず には いられな いと いう ことも 民衆 の気 分 とし て はあ った であ ろう 。 ジ ャイナ教 な どは修行 者 に対 し ては るか に厳 し い殺 、 生戒を 課 し ており、 禁欲 と苦行 を 強調し て いたそう であ る が イ ン ド の激し い暑熱 の中 で生 き る民衆 の気質 は、 何 かし ら仏教 の優 し さ. 四. 、 と、多 く は 口伝 だ った仏 陀 の教 えも 少し づ つ文字 に移 され 紀 元前. 後ま で の二百数 十年 の間 に、 現在 に伝 わ る経典 の殆 ど が成 立し て い 、 た。 ただし、 そ の間 の政治 状況 は大変 であ った。 王 の死後 マウリ. 、 ヤ朝 は何 人 か の王 子 によ る分割 統 治 が始 ま ったため に 半 世紀もす 、 ると統 治権 が重 臣 に移 ったりし て滅 ん でしま い ま たし ても群 雄割. ると中央 ア ジア にあ ったギ リ シ ャ人 の植 民国 家 が西北 イ ンド を支 配. 拠 に戻 ってし ま ったから であ る。 そ れば かり ではな い。 そ の頃 にな. し たかと思 う と、 続 いて遊 牧 民 のサ カ族 や バ ルテ ィア 人 がそ こに侵. とそぐ わな い面も あ ったよう であ る。 この点 は、 後 にイ ンド から仏 教 が消 え た理由 の 一つにな ろう 。 、 さ て、 こう し て各 地 に教 団を作 る こと に成 功 し た仏 教 は 前 四八. 入し、 紀元 一世紀 にク シ ャ ン王朝 が西北イ ンド からア フガ ニスタ ン 。 に跨 が る帝国 を築 くま で、 絶 え間な く戦 乱 が続 いた のであ る. 〇年頃 に釈 迦 が入滅す ると、 まず は主 要な弟 子 たち が集 ま って釈迦 の教 えを暗 記 し たり相 互 に確 か めあ ったりす る こと からそ の活 動 を 始 めた と いう。 そ れ と同時 に各 地 の僧院 では、 師 の教 えを 口伝 とし て残 す ため にそ れぞ れ分担が 決 めら れた。 文字 にし て記 録す る のは. 、 イ ンド亜大 陸 と いう 世 界空間 はイ ンダ ス流 域 とガ ンジ ス流域 そ 、 れ にデ カ ン高 原 と地理 的 に大 き く 分け ら れ る せ いもあ って 全 土を. 実質 的 に支配す る王朝 と いう のはそ の後も 出現 しな か ったよう であ 、 る が、 ク シ ャン朝時 代も デ カ ン高 原 にはア ンドラ王国 があ って ペ 、 ルシ ャや ロー マと の貿 易 で大 いに潤 って いた。 し かも そ の間 仏 教 、 は次第 にイ ンド 人 のも のから侵 入民族 の方 に移 り 有名 な カ ニシカ 王 の帰依 によ ってそ の中 心 を ガ ンダ ー ラ地方 に置 く よう にな った の. 紙 のな い当時 では困難 で、 貝葉 と呼 ばれ ると ころ の綜 欄 の葉 を 加 工. であ る。 そ し て、 そ れ と共 に仏教 はイ ンド 固有 の地域 では次第 に迫. し たも のに書 き つけ るよう にな った のはず っと後 のこと だ ったと言 われ て いる。 そう し て いる内 に長 い時 間 が過 ぎ て行 った。 釈迦 の入. 、 権 とし て誕生 し た のは、 ア レキサ ンダ ー の襲来 の後 であ り 有 名 な. 、 滅 から百 五十 年程 の間、 イ ンド の小国 家 分立状態 は続 いてお り 統 一国 家 は中 々実現 しな か った。 マウリ ヤ王朝 がイ ンド最初 の統 一政 ア シ ョー カ王 の帰 依 によ って仏教 が最 初 の隆盛期 を 迎 え た のは前 二 六〇年以降 のこと であ る。. 仏教 が消 え てしま ったわけ ではな い。 た だ民衆 への浸 透度 と いう 点 で在家 信者 の拡大 にも 限 界 が来 たよう な のであ る。 かく て四世 紀 に 、 イ ンド中 央部 を 統 一し てグプ タ朝 が出 現す ると 仏教 は迫 害 こそ受 け な か ったも の の統治 理念 や政治 倫 理 と連 動す るよう な 影響 力 は持. 力を欠 くよう にな って来 たらし い。 も ち ろ ん各 地 の僧 院 は健在 だ っ たろう し、 ガ ンダー ラ で仏像 の製 作 が始 ま った のと前 後 し てガ ンジ 、 ス河支 流 の マト ゥラー でも 独自 に仏像 彫刻 が行 わ れ たと いう から. たなくな り、 そ れ に代 って ヒ ンズー教 が、 母体 とす る バラ モ ン教 に. ではア シ ョー カ王 の時、 イ ンド で の宗教 的 世 界国 家 は実 現 し た の だろう か。残 念 な がら、 そう は言 えな いと思 わ れ る。 成 程 たし か に 、 王 自身 は熱心 な 信者 とな って仏 教 の保護 育成 にも努 めた が 民衆 の 、 方 は色 々であ って、 王 とし てはむし ろ信教 の自由 を認 め 他 の宗 教 念 と結 び ついた形 で の宗 教支 配 と は成 りえな いから、 一時 的な 形態. も 保護す るよう な 政策 を と る必 要 があ ったらし い。 これ では統 治 理 と いう 以上 には評価 でき な いだろう。 だが と にかく彼 の時 代 にな る.
(6) . 多元的世界の宗教について. 仏教 に関 わ るイ ンド の歴 史 と いえば、 ほ ぼ以上 で大体 の材 料 が揃. は民衆 に対す る教 化力 はかなり早 く から失 って いた こと であ ろう。. イ スラ ム教徒 に破 壊 され る十三世 紀頃 ま で続 いたらし いが、 これ で. う な る と、 仏教 は民衆 ど ころ か在家信者 の手 にも 負えな くな り、 経. った と いえ る だ ろ う 。 周 知 の と お り 、 ヒ ンズ ー 教 は イ ンド の 民 衆 に. だ が、 ま さ にそ の頃 から仏教 は世界宗 教 への道を歩 み始 め る。 西. カ ル マ思想 や仏教的要素 を加 え て、 次第 に民族 宗教 とし て の地位 を. 完 全 に定着し、 八世紀 にイ スラ ム教 が軍 隊と共 に来 てイ ンダ ス流域. 北 イ ンド は中 国 西域 に向う ルート の起 点 の位 置 にあ り、布教 の流 れ. 典 を積 み上げ て いる僧院 の専有 物 にな ってしまう。 イ ンド の僧 院 は. を支配 し ても 、 そ の後 のイ スラ ム系 王朝 がイ ンド全域 に支配 圏を広. はや がて中 国 世 界 に及 ぶ のであ る。 では中 国 はそ の頃ま でにど んな. 確 立す るよう にな る。. げ ても、 民衆 の支持 を失う こと はな か った。宗教概 念 の図式 性 から. 歩 みを し て いた のか。我 々は今度 はそ ち ら の方 に目 を転じ て みよう 。. 中国 の歴 史 は段堀 の発掘 によ って前 千 四百年代 ま で遡 れ るよう に. 中 国 世界 の歴史 の始 まり. たが、 ヒ ンズー教 は これを利 用し て善行 を積 めば次 に生 れ る時 に 一. な った が、色 々な遺 跡 から考 え ると原中 国 人 が農耕 生活 に入 った の. 0. いえ ば、祭事宗教 だ った バラ モ ン教 が カ ル マから の解脱 を説 く仏教 の影響 を受け て魂救 済 型 の民族宗 教 に変貌 し たと いう のが ここで の 筋 道 であ ろう が、 何 故 逆 の形 にな ら な か った のか と考 え て み る と. 段階上 のカー スト にな って いると説 いたとか、 かな り の知性を必要. はかな り早 く、 前 三千年代 にはもう 始 ま ったと言 わ れ て いる。 ただ. 中 々興味深 いも のがあ る。 例 え ば仏教 は カー スト制度 に否定的 だ っ. とす る仏教 の教義 と違 って、苦 行 者 を聖 者 と仰ぐ単 純明快 な信仰 は. だ釈迦 だけ で、現世 の修 行者 は結 局 のと ころ聖 者 の域 に近 づく こと. で の教義 では、 カ ル マから解 脱 でき る のは前世 で究極 の善行 を積 ん. で以前 からあ った分派間 の亀裂 が 一層 深 ま ったから であ る。 そ れま. 尤も、仏教 の方 にも支持 を減 らす 原因 があ った。大乗 仏教 の登場. めて困難 で洪水も ナイ ル川 のよう に定期的 でな いから、 地味 は 肥え. 生産 力 が 一定 のレベ ルに達 しな か った から であ る。黄 河 の治 水 は極. 五百年も の間 そ のまま だ ったらし い。理由 は言う ま でも な いだ ろう 。. へと展開す る に は至 らず 、青 銅文 明を持 つ股 王朝 が出 現す るま で千. し黄 河 はナイ ル川 ほど の好条 件 には恵 ま れて いな か った こと もあ っ て、 土 器文化 の発展 はあ ったも の の直線 的 に都市 国家 から統 一王朝. 民衆 に歓 迎され たと か、色 々な こと が連想 さ れ るから であ る。. し か出来 な い。残 る可能 性 は次 に この世 に生ま れてく る時 の解 脱を. ま だ断続 的 で主 力 を占 め るに至 らず、 麦 類 や粟、 稗、 コウリ ャ ン、. て いても安 定 し た増産 が難し い。多 少 の水 稲耕 作 もあ ったらし いが、. 期待 し て、 現 世 で徳行 を積 ん でおく ことだと いう も のだ ったらし い が、 大衆派 の人 々は これを 小乗 だ と非 難 し て別 の考 え方 を 唱導 し た. 大 豆な ど気 温 と降水 量 の関係 で土地 に適し た作物 が作 ら れ る だけ だ ったらし い。あ とはた だ 「 食 は中 国 にあ り」 と言 わ れる程 に、 あ ら ゆ る動植物 から栄養 分を 摂取す る 工夫 が進 ん で いた にす ぎな い。 し. のであ る。 そ れ は、前 世 から の因縁 と いう なら釈迦以前 にも 同じ経 るけ れ ども前 世 の徳行 によ って次 に こ の世 に生 まれ たら確 実 に解 脱. かも長 江 の中 ・下流域 は 一面 の湖沼 と湿 地帯 であ り、上 流 で大 雨 が. 過 で解 脱し仏 陀 に成 った者 があ る はず だし、 さら に今 はあ の世 に居 す る こと が予定 さ れ て いる者 も いる はず だと いう議 論 であ った。 こ. 五.
(7) . . 宏. 上 岡. 降 れば台地 以外 はす べて水 没す るよう な非常 に住 み にく い土地 だ っ たよう であ る。. 六. と ころ が前 二世 紀 の前 漢 武帝 時 代 にな ると、 この王朝 が郡役 所 を. し か、 今 のと ころ考 え る材 料 はな い。 これ は最初 の論 文 でも述 べた. 出 現 し て いた時期 に、 異 民族 が青 銅器 文化 を携 え て侵 入し て来 たと. 地域 が漸 次的 に生 産 力 を上 昇 さ せ、 部族 共 同体 的な 原始的小国家 が. から であ る。段 壇 の位 置 から見 て、 比較 的 洪水 にやら れな い肥沃 な. く 分 からな い。 画 期的な変 化 を示す も のが黄 河流域 には見 られな い. 線 は今述 べた潅 河 から西 の秦 嶺 山脈 に伸 び て いる が、 このこと は鉄. 張 ら せる が、 これ こそ当時 の隆盛 を物 語 って いる。 中 国 の農 業 は畑. 有 名 にな った湖南 省 馬 王堆 の墓跡 は、 そ の副葬 品 の豊 かさ で目 を 見. 比較 にな ら ぬ収穫 を 可能 にす るから であ る。 生け るが如き ミイ ラ で. 技 術 水準 で亜熱帯 気 候 の好条件 に恵 ま れ るな ら、麦 類 や雑 穀 類 と は. 特 に長 江中 流域 の堤防 工事 は大規 模 な水 田耕 作を 可能 にし た こと に 、 よ って素晴 らし い報 酬をも たらし た。 と いう のも水 稲耕 作 は 同じ. 、 設 置し た都市 は 一挙 に広 が る。 これ は明ら か に鉄 器 の効 用 であ り. 通 り であ る。 や が て漢 民族 の固有 の王朝 とされ る周 が段 に取 って代 、 収奪. では段 王朝 の頃 に何 かがそ れを変 え た のだろう か。 実 はそ れも よ. わ ったが、 生 産 力 が横 ば いでは状況 に変 化も 生 じな い。 結局. 、 器 の普 及 に伴う 畑作 農 業 が黄 河 の両岸 から南 北 に広 が ったも のの 、 戦国 末 期頃 か. ら大規 模 な 堤防 工事 と 一緒 に水稲耕作 が本 格化 し た ことを傍 証 し て. 潅 河 の南 で水 郷地帯 に突 き 当 た った為 に限 界 に達 し. 作 と水 田地帯 と が現在 でも かな り は っき り分 かれ てお り、 そ の境 界. 、 型 の古代神 権 王朝 は農 民 の疲弊 によ って統 一力を 失 い 孔 子 が生 ま れ た頃 には大 小 の都市 国 家 が群 立す る状態 にな って いた のであ る。. 。 さ て このよう にし て、 中国 の鉄 器以後 の歴史 が始 ま った 都市 国 、 家 が群 立し た春 秋時 代 の盛 期 には、農業 よ りも製 鉄、 織物 製 塩 と い った工業 生産 で潤 った斉 のよう な国も あ り、秦 漢 統 一王朝 が実 現. いると言 え る だろう。. し かしな がら、 ま さ にそ の頃 から中国 の農業 生産 力 は上昇し始 め 。 た。原 因 は鉄器 の普 及 であ り、 鉄 の道 具 によ る土木 工事 であ る そ 、 れ は黄 河流域 の治 水 ・濯 瀦 ・開 墾を 可能 にし たば かり でな く 長 江 流域 の大規模 な堤防 工事 も 可能 にす る。 中 国 の農業 の広 がり に つい ては、 それ自体 の資 料 は見当 たらな いが、 段 ・周時 代 から春秋戦国. では 一体、 こ の中 国 世 界 に生 き る人 々は人倫 的構 造 の面 でど のよ. す るま で数 百 年 か か ったけ れ ども 、 地中 海 地域 より は 二百年 ほど早 く、 イ ンド の マウリ ヤ朝 より百 年 ばかり遅 れ て世界国 家 が出 現 し た. うな特徴 を備 え て いた のだろう か。 あ る学者 によ ると周時 代 の農 民. 時 代 にかけ て の都市国家 や有 力 な都市 の分布 を見 ると、 そ こから大. にな ると都市 国 家 の位 置 は ほ ぼ北緯 三十 三度 の線、 つま り准河 の両. わけ であ る。. 岸域 から黄 河 の北 側 一帯 、 それも かな り下 流 の方 ま で広 が って いる. は黄 河 流域 で畑 作中 心 の暮 らしを営 ん で いたが、 血族 的結 束 が強 固. 体 の見 当 が つく。 青 銅 器時 代 の農耕 地 は清 水 の中流域 から黄河 と の. のであ る。 た だし、 こ の時点 で は流 石 にま だ長 江流域 に手 を出 す に. で五代ま で の本 家 ・分家 関 係を 一つの単 位 とす る宗法 制 と呼 ば れ る. 合流点 を経 て段壇 の辺 りま でだ った のに、 前 八世紀 以 後 の春 秋時代. は至らな か ったらし く、 異 民族 とさ れ る楚 の国 の都 が洞庭 湖 と の接. 制度 があ ったそう でみ伊 。 従 って冠婚 葬祭 に当 っては本 家 の戸主 が. これを 取 り仕 切り、 濯凝 工事 な どは村共 同体 が総 出 で協 力 し、優 れ. 合 点 の少 し上流 のほとり に有 った のと、 河 口近 く の呉国 、 銭塘 江 河 口 の越国 を 除け ば大 部 分空白 地帯 であ った。.
(8) . 多元的世界の宗教について. の最高神 を 天帝 と呼 ん で自 分をそ の子孫 だとし た こと は青 銅器時 代. を主宰 し て いたらし い。そ の頃 の周 の君主 が自 らを 天子と称 し、神 々. 決ま った礼 式 や作 法 があ り、族 長 的 な位 置 にあ る総本家 の主 が これ. た人材 が いれ ば王朝 に推薦 し たりも し た。 そし て これら の行事 には. は土 に埋 め て墓 にす るが、 頭蓋骨 は家 の中 に鵡 ってお いて、 命 日に. 我 々から見 て衝 撃 的な のは、主 人 が死 ぬと首 と胴 を 切り離 し 、 胴体. 一家 の主 を 心 か ら哀 惜 す る心 情 を持 って いた の であ る。多 少 今 の. 張 ると共 に、 他方 では大 家族制 の家を 大 事 に思 い、 老 いて世 を去 る. え るだろう 。 人 々は額 に汗し て働き 収穫 を祝 って飲 めや歌 え の宴 を. 招 き寄 せたと いう のが右 の話 に連 な って いる点 であ る が、 これは ご. は これを 死者 の孫 の頭 に乗 せ、 この世 に居 な い魂 魂 を そ の頭蓋 骨 に. く古 い慣 習 だ ったらし い。 た だ、 こう し た伝統 があ るた め、中 国 人. の神 人君主 の例 に洩 れな いが、 だからと い って何 か特 定 の神 を 何 処 耕さ 今も そう だ が、中国 の農 民 は勤勉 であ った。 古 代神話 に は 「. には火葬 の習慣 が浸透 しな か った点 は注意 を喚 起 し ておく べき であ. か に 肥 って い た わ け で は な か った よ う で あ る 。. 理想 郷 の話 が いく つもあ ると いう が、 ず し て食 い、 織 らず し て着 る」. 孔 子以前 の中 国 人 の人倫的 側面 で推 定 でき る のは、 今 のと ころ こ. そ れ こそ彼 ら の勤勉 と労苦 を物語 って いる。 し かも大 雨が降 れ ば た 冬 は厳 し く実 り良け れ ば遊牧 民 や山岳 民族 にねらわれ ると い った案. の程度 であ る。 彼 ら は 一神教 的な 民族 宗 教も 神 話 的な多神教 も持 た. ろう。 仏教的慣 例 と は合 致 しな か ったから であ る。. 配 で心 休 ま る こと さえ少な か った。 そ の上 に色 んな災難 が不意 にや. な か ったし、 周王 朝も 天帝 を祖神 とし たと は いえ民衆 に宗教 とし て. ちまち 洪水 の危 険 にさ らされ、 日照 り が続 け ば早 魁 に苦 し めら れ、. ってく るとな れ ば、 誰 だ って死者 の謀 り と か悪霊 の存在を 考 えず に. 押 し つけ る ことはし な か った。 或 いはも し かす ると鬼 神 を肥 る土俗 宗教 があ った のかも しれな いが、 孔子以 後 の長 い年 月 にわ た る儒教. 儒 が呼 ばれ て、 死者 の心を 司 る魂 と身 体 を 司る晩 が再 び遺 体 に戻 っ. 界 はな いと言 っても よ いが、中 でも儒教 はそ の代表 であ る。 儒教 と. 歴 史を存 在論的 に考察 しよう とす る場合、中 国 ほど捉 え にく い世. 回 儒教の発生と政治理念 の問題. 的教 化 がそ れを 分 からな くし てしま った のであ る。 だ が いず れ にせ よ、 このよう な形 でそ の歴史 は始 ま った のであ った。. は いられなくな る だろう。 こ の点 で多 少 参 考 にな る のは、 今 で言 え ば 恐 山 の躯 子 のよ う な 「儒」 と呼 ばれ る人 が いて、 ど こか で 一家 の主 が死 ぬとそ の家 に招 かれ て葬式 を介 助 し、頼 ま れれば呪文を 唱え たり神 怒 り にな ったり し て死者 の霊 を呼 び寄 せる ことを生 業 とし て いたと いう話 であ る。 そ の場合 、家族 は悲 し み の余 り着物 の綻 び にも気 づか ぬと い った服. ・そ の手順 て来ら れ るよう 祈 蔵 し たり呪 いを し たりし た のだと いう。. は宗 教な のか、制 度 化 され た倫理体系 な のか、 既成 の概 念 に容 易 に. 装 に着 替 え、 本家 の主 人 に頼 んで葬儀 を差 配 し ても らう。 そ の時 に. も決ま って いて商 祝 と か夏祝 と い った伝 説王朝 にちな んだ流儀 があ. 当 てはま らな いから であ る。し かし歴 史時代 の中 国 の原点 はま さ に. 儒教 な のであ る から、 ここではまず そ の実態 の整 理 から始 め る こと にしよう。. った と 言 わ れ て い る 。. 断 片的 ではあ る が、 これら から推定す ると孔 子以前 の時 代 におけ る民衆 の人倫構 造 は、 五十年前 の日本 の古 い農 村 にかな り近 いと言. 七.
(9) . . 宏. 上 岡. 一般 に儒教 と は孔 子 によ って開 かれ た教 え とさ れ て いるが、 別 に. 八. 話 とか祖国 の歴史 を ま と め たと いう 程度 のも のであ る。 格 別 に神 秘. で暮 ら し て いる以上、 当 然受 入れら れ た であ ろう 。 だ が他 方 では、. こ の考 え方 は、 当時 の民衆 が前節 で述 べたよう な 人倫 的構 造 の中. し てゆ かねばな らな い。 つま り親 から貰 った命 は子孫 に伝 え る のが 孝 」 だと いう 人間 の義務 であ り、 それをす べて果す こと が本 当 の 「. 的な 人物 だ ったわけ でも 厳 し い宗 教家 だ ったわけ でも な い。 むし ろ. こ の考 え方 は 一種 の改 革 でもあ ったらし い。 と いう のも 当時 のお ど. のであ る。 人間 一人 の 一生 は限 ら れ て いるけ れ ども、 こ の徳 目を つ. 音 楽 を愛す る物静 かな 人柄 であ った。 地味な 文献 学者 タイプ であ り、. ろ お どろし い招魂 儀礼 は、 こう し た孝 の理念 によ って むし ろ退 け ら れ たから であ る。 孔 子 の特 徴 は、 こうし た生命 論 を直接 人 々に説 く. 彼 が何も かも新 し く始 め たわけ ではな い。彼 の経歴 を そ れ だけ とし. 多 少意外 な感 じ がす るとす れ ば、大変大 柄 な 人 で二米 以 上 の身 長 が. のではなく て、 これを理由 づけ に用 いる こと によ って例 えば親 の葬. つがな く実行す る ことによ って、 人 は皆永遠 の生 命 に与 か る こと が. あ ったと いう こと位 であ る。 す ると どう し てそんな 人物 が この世 界. 儀 はどう 行う べき か、服喪 期 間 はど の位 かな どを細 か に定 めよう と. て見 れ ば、春 秋時 代 に魯 の国 に生 まれ、 祖国 の宮廷 に仕 え て礼 式 の. 空 間を 括 る ほど の影 響 力 を持 った のかと いう こと が、 当 然 問題 にな. し た所 にあ った。 そ れも 彼 自身 が力説 し たり書 物 を 著す こと によ っ. 指導 に当り、中 年過 ぎ て から は他国 で重 用 され る べく諸国 を経巡 っ. るだろう 。 一体 、彼 の仕事 はど こにそ の意義 があ った のだろう か。. て ではな く て、 古 い文献 の編纂 と注解 を通 じ て であ った。 近代 文献. でき ると いう のが、 出 発点を な し た孔 子 の論理 だ った と言 わ れ て い. 彼 の仕事 がど の辺 り から 独自性 を持 ち始 め たか に ついては必ず し. 学 では原 テキ スト の正確 な復 元 が目標 にな る が。 孔 子 はま さ にそ の. たも のの志 を得ず 、再 び祖国 に戻 って弟 子 たち に自 分 の考 えを説 き、. も定説 があ るわけ ではな いが、 一説 によ ると、 彼 の母 が先 述 の儒 の. 反対 で殆 ど脈絡も な か ったと思 わ れる古代 の断 片資料 を 自 分 の理念. る。. 仕事も し て いた こと から、主 人 の死を悼 んで家 族 が執 り行う 葬式 儀. に基 づ いて整 理編集 し、 時 に書 き加 え たりし て いた のであ る。 こ の. 魯国 に伝 わ る古 文献 を 編纂 し て周時 代 の礼式 や詩 文や伝 説時 代 の逸. 礼 に独自 の意 味 づ け を し た 辺 り か ら彼 の哲 学 は スタ ー ト し たら し い。 人 々が親 の死 を嘆き 悲 し ん で丁重 な葬儀 を営 む のは善 いこと で. だが彼 の仕事 は こう し た礼 式 関係 のみにと どま らな い。 古く から. 方 法 だと、 これ は自 分 の著作 ではな く て大昔 から伝 わ るも のだと言. 知 ら れ て いる漢詩 を集 め て編集 し たり、 伝説時 代 の名 君 の逸 話 を集. あ る。 な ぜな ら自 分 の生 命 は両親 から授 か ったも のであ り、 両親あ. い。 そし て同じ考 え方 に立 てば両親 を生 んだ祖 父母 や さら に曾 祖 父. う こと が出来 る ので、 誰も が抵抗 な く従 いう る。 結 果 的 に見 れ ば実. 母 にも 同じ供養 を心 掛 け、 そ の先 の先 祖 にも そう す る こと が不 可欠. め て秩序 づけ たりし て、 それを弟 子教育 の教 科書 に使 いな がら、 道. って こそ の自 分 だから であ る。従 って両親 は い つも 大 切 にし、 死後. にな る。 し かも思 いを そ こま で広げ れば、 自 分 の命 は決 し て自 分 一. 徳 を 論 じ詩魂 を養 い、 あ る べき国家 の姿 や理想 の政治 を 説 いた ので. に見事 な アイ デ ア であ った。. 人 のも のではな く て実 は先 祖 や 父母 のも のであ ると いう ことも 当然. あ る。 この前 後 に現 れ た釈迦 や ソクラ テ スと同様、 彼 も 自 分 の思 想. も 折 々そ の魂 魂 が戻 って こら れ るよう 厚 く 供養 し な け れ ばな らな. 分 かるはず だから、 こ の命 は自 分 で終り と せず に子孫 に これを手 渡.
(10) . 多元的世界の宗教について. はまず 師 の言葉を忘 れ ぬ内 に文字 にし、 今後 の研究 の資料 にす る必. に全 体を括 るよう な原 理論 は何も書 かれ てな いのだ から、弟 子 たち. 学 な ど、 あ ら ゆ る学 問 が生身 の孔 子そ の人 の中 で統 一さ れ て いる の. 論 語 L が編 ま れて置 かれ る こと にな ったわけ であ る。 し か う やく 「 し弟 子 たちも大変 だ った であ ろう。道 徳哲 学、 詩学 、歴 史観 、 政治. そ の業績 のす べてが間接 的な表 現 でし かな い儒教体 系 の中心 に、 よ. 思想 を断片 でもよ いから集 め てお こう と考 え た。 かく て彼 の死後、. け だと いう ことも 強調 さ れ た のであ ろう 。 さら に こう し た孝 の考 え. 人式 の式 次第 も、 今ま では慣例 とし て形式的 に行 わ れて いた のが新. から、 そ の教 化 活動 が始 ま ったと見 てよ いだろう 。 次 いで婚 礼 や成. 礼 が整え ら れ、従 来 の神 懸 り的 な招魂 儀式 は否 定 さ れ ると いう 辺 り. だとす ると、まず は宗 法制 で示さ れ るよう な 血縁 共同体 で の葬式 儀. る。. に出来 たわけ であ る。 そ れ でも大体 この時 期 に、 後 の儒学 者 が準拠 す るテキ スト は 「孝 経」 を初 め とし てそれぞ れ編纂 さ れたよ う であ. をま と めて著述し よう と はしな か ったから、弟 子 たち は孔 子 の生 の. 要 があ った。 こう し て儒教あ る いは儒学 と呼 ばれ る広大な学 問体系 は、弟 子 たち の悪 戦苦闘 によ って彼 が死 ん でから開 かれ たと いえ る. 方 は農 村 共 同体 にも広 げ ら れ、親 を敬う 心 は村 の長老 への敬 意 や長. 葉 であ る から、 この間 三百年もあ った こと にな る。す るとそ の間 に. 表舞 台 に登場 す る のは漢 王朝 が成 立し て安 定 期を 迎 え た前 二世紀中. と ころ で孔 子 の没年 は前四七九年 と され て いるが、 儒教 が歴史 の. 大 切 だと いう のも そ の脈絡 の中 で語 ら れ た が、 周王朝時 代 か ら村 の. な愛情 を持 って人 に接 し、 互 いに思 いや る心 や いたわりあう 気 持 が. 意 が説 かれ るな ど、徳 目 の拡 大 と追 加 にも つな が ったらし い。 大 き. 幼 の序 の尊 重 に置き代 え ら れ、 兄弟愛 の延長 上 では朋輩 に対 す る誠. たな意 味 づけ によ って整備 さ れ、 同時 に重要 な のは形 ではな く心掛. では初 期 の儒教 はど んな 形 だ った のだろう か。 出 発点 が孝 の理念. よう な展開 を始 め た のであ る。. 儒教 はどう 形 成 さ れ て い ったかと いう こと が次 の問 題 にな るが、順. 行事 に伴 って いた諸 々の礼 式 も 当然 こう し た徳目 に合 わ せて整備 さ. と ころ で 一種 の布教 時 代 とも いえ る こう し た時 期 は、歴史 的 には. に辿 っても話 が長 くな るば かりな ので以 下 は学 者 たち の意 見 を参考. て書 き留 め る こと に費 やされ たらし い。 な にし ろ紙 がま だ発 明さ れ. 春 秋 後期 に相 当す る のであ るが、 こ の頃 はも ちろ ん各 地 に大 小 の都. れ たよう であ る。 ここま で来 ると、村 々で何 かが起 こるたび に正し. てな い時代 であ り、 絹 はあ っても 宮廷 への献 上 品 にさ れる程 の貴 重. 市国 家 があ り、 そ の多 く は周 王朝時 代 にそ の地 に封 ぜら れ た王族 の. に結 果 だけを ま と め る こと にしよう。まず 大 ま かな 経 過 から見 ると、. 品 であ るから木簡 や竹簡を作 って書 くし かな い。 し かも 一か所 でま. 末藷 を 君主 とし て いた。 そし て儒者 たち は周時 代 の宮 廷儀式 を当然. い礼式 を知 って いる儒学 者 に問 い合 せる ことも頻 発す るわけ で、彼. と めて出来 る仕事 ではな いから、 魯 の国 に いる孔 子 の子孫 と自 分 の. 学 ん で いたから、多 く の弟 子 がそう し た国 々に仕官す る こと にな る。. 最初 の百年 ほどは孔 子 の子孫 や直弟 子 とそ の息 子な ど、 直接間接 に. 祖国 に帰 った弟 子 たち の書 き留 め たも のが少し づ つ違 ったも のにな. こう な ると彼 ら の使命 は古 く から の式 次第 を踏襲す るよ り は、 孔 子. ら が各 地 で尊 敬 され る下地 も 次第 に出来 てゆく こと にな る。. る ことも避 け られな い。 後代 にな って新 発見 のテキ スト があ るな ど. の説 く理念 に則 って徳 目 を 整備 し拡張 し て、 そ こから儀式 を 再 編成. 師 の面影 を偲 べる位 置 にあ った人々 が、師 の言 葉を残 らず 思 い出 し. と いう 動き が儒教 の再生 にからん で出 てく る が、 そ の下地 は この頃. 九.
(11) . . 宏. 上 岡. 一〇. 治 には徳 も必 要 だ が法 律 を中 心 に据え る方 が効果 的 だと いう 思 想 も. 読 み取 る必要 に迫 られ る。 そ れ でも追 い つかな く な れば. 、 実際 の政. す る こと にな らざ るを えな い。 そ れ は村 共 同体 に拡張 さ れ た孝 の理. 当然出 てく るわけ で、 いず れも や がてく る破 綻 の危機 を予感 し て い. 念 が国 家 共同体 に広げ ら れ ると いう ことであ るから、 どう し ても 政 治哲学 にな る。 そ の場合、親 孝 行 の延長 上 で直線 的 に主 君 への忠 誠. 差 しな らな くな った のはそ れ から間も なく であ る。. 一貫 し た論 理 で正当化す る には、 今 は小国 の支 配者 にす ぎなくな っ. たらし い。 そし て どう やら、 拡張 さ れ た孝 の理 念 で こ の天下を 首尾. と の正統 性を 論証す ると共 に、 君 臣 双方 の心 掛け る べき徳 目 を説 い. はそ れを使 いな がら、 こ の国 が こ の君主 によ って治 められ て いる こ. 公然 と語 られ るよう にな って いると ころ にそ の状況 であ る。 秦 の始. って昔 を懐 かし むば かり だから無 用 の存在 だと い った悪 口も 、半 ば. 国 も皆 滅亡 し た。 もう 既 に大 分前 から、儒学 は細 か い礼式 に こだわ. あ る。 儒学 者 の政治哲学 が理念 の基 盤 にし て いた周王室 も 孔 子 の祖. 世紀 に入ると急速 に膨張 し て、 諸国 を滅 ぼし 君臨 し てしま った ので. 事件 は衝 撃的 であ った。 戦国 時 代 の大国 の 一つであ った秦 が前 三. るよう な傾向 を 示 し始 め た のであ った。 儒学者 たち の関 心事 が抜 き. を 位 置 づけ る こと が可能 かどう か は色 々議 論 があ ったよ う であ る が、 考察 の材料 は孔 子 の業 績 の中 に いくら でも あ る ので、 儒者 たち. た周 王室 が再 び諸 国 を統 一す る こと が必要 であ り、 そ こに訪 れ る平. 皇 帝 が儒学 の古典 を焼 き捨 てさ せ、 儒者 を生 きな がら穴 に放 り こん. 、 で埋 めたと いう話 は事 実 かどう か疑 わし い面もあ るそう だ が 仮 に 。 そう でな く ても 儒教自体 が消滅 の危機 にあ る こと は否 定 できな い 。 何 と か再 生 の道 を 探 らねばならな か った のであ る 幸 いにし て秦 帝 。 国 は短 期間 で滅 びた が、 し かし 難 題 が片付 いたわけ ではな い 漢 帝. 和 こそ が理想 の政治形態 だと いう と ころま で、彼 ら の議 論 は達 し た. の理由 は ほか でも な い、 現 実 の政治 状況 がそ こから次第 に逸 脱 の度. 国 を建 てた劉邦 は下賎 の出 であ り、 周 の血筋 には何 の関 係も な か っ. よう であ る。 誰 が如何な る権 限 で こ の世 界を統 治す る かと いう 問 題 は、 かく て中 国 では これ以後普 遍 的な 問題 とな り、知 識 人 の最大 の. を 深 め たから であ る。 春 秋時代 のよう に周王朝 の流 れを汲 む諸 候 の. たから であ る。. 関 心 事 とな った のであ る。 では 一体、 どう し て これ が彼 ら の関 心事 にな った のだろう か。 そ. 国 が健 在 であ れ ば、 儒教 と都市 国 家 は理想 論 は別 とし ても 一応蜜 月. 化 と商 業 経済 の発展 は食糧 のよう な 基幹 的物質 にま で価格変 動をも. 理念 からす れ ば承認し がた い事 件 が続 発し た。 そ の上. 造す る者 ま で現 れ た こと であ ろう。 儒学 者 は孔 子以来 自 分 の論 説を. 別 の文体 で書 かれ て いた ことも有 り得 る。 問題 はそ れを利 用し て偽. 弟 子 たち の祖述 は 一か所 で行 わ れ たわけ ではな いから、 同 じ主 題 が. ったと いう よう な朗 報 も実際 にあ ったら し い。前 にも述 べたよう に、. 儒学者 は こう し て暫 く沈 黙す る こと にな る。 ただし水面 下 で再生. たらし、村社 会 です ら新 興成 金 が中 を利 かし て長老 をな いがし ろ に. 述 べる こと はせず 、孔 子 の編纂 し た古典 や孔 子 の言葉 を祖述 し た弟. の道 は模 索 さ れ て いた。 焚書 を免 かれ た孔 子 の原テキ スト が見 つか. し たりす る。 つま り、 儒教理 念 の基盤 であ った共 同体 が様 々な レベ. 時 代を 過 ごす こと が出来 た。 と ころ が いわゆ る戦国 期 に入 ると、 由. ルで揺 さ ぶら れるよう にな った のであ る。 こう な ると儒学 者 の方 も. 子 の書 物 に訓 釈を 加 え る こと で間接 的 に意 見 を言う のが鉄則 であ っ. 緒あ る小国 が大国 に滅 ぼされ たり、 正統 君主 が退け ら れ たり、 儒教 、 産業 の多様. 徳 目 を見直 し て時 代 に即 し た倫 理綱 領を新 た に孔 子 のテキ スト から.
(12) . 多元的世界の宗教について. れた のだと解釈す る。 し かも 儒学者 の 一部 は何 か縁起 のよさそう な. 大 人物 に天下 の統 治 を命ず るも のであ って、 今はそ れが劉邦 に下 さ. 学 が スタート し た のであ る。 彼 ら は これ によ って、 天帝 は徳 のあ る. この時 から、新 テ キ スト と新 解 釈を織 り交 ぜ た経学 と いう新 たな 儒. 族 のも のであ る が、 そ の包 括性 からす れば中国 的 世 界空間 の上 に広. てはま るわけ ではな いと いう点 であ る。 天帝 は建 前 から いえ ば漢 民. い利 点 も儒教 にはあ った。 そ れ は、 この教 え が特 に漢民族 に だけ当. し かしな がら 一方 では、典 型的な 民族宗 教 では持 つこと の出 来 な. し て説 かなく ても容 易 に受 入れ ら れた為、宗 教性 が殆 ど感 じ ら れな. こと があ ると、 天命 が下 った証 拠 だとか瑞祥 があ ったな どと語 る こ. がる天空 の主 でも あ るから、 同じよう に 一族 共 同体 意 識 の強 い民族 な ら そ のまま受 け 入れ る こと が でき る。従 って韓国 や 日本 へ広 が っ. た。 偽造し て紛 れ込 ま せると いう のは従 って、新 し い儒教 理念を 唱. とも辞 さな くな り、 そう いう 部 門す ら儒学 の中 に取 り入 れ て、遂 に. ても充 分定着 しう るし、 民族 性す ら気 付 かぬ程 の普 遍性 を持 って い たわけ であ る。 そ の意 味 では、 儒教 は 一種 の世界宗 教 でもあ った。. いと いう特 徴 を持 った のであ ろう。. は ロー マ帝国 におけ るキ リ スト 教 のよう に、 漢帝国 の主導 理念を 司 ど ろ位 置 に つく。これ が中国 的 世 界国家 の実質 的 な出 発点 であ った。. 導す る べく書 き下 し の論 文を 公刊す る のと同 じ こと であ る。 そし て. そ の後何度も 王朝 は代 わ る が、 儒教 はそ の都度追 認し て近代 の入り. は、 同 じ頃 のイ ンド で釈迦 に帰依 し たよう な富 裕 な商 人階層 はま だ 生ま れ て いな か った。 民衆 は勤勉 だ った が、 ま だ 二毛 作も ままな ら. 人 の魂 を救 済す るよう な意 味 で の宗教 ではな い。 孔 子時 代 の中国 に. に入 って来 た仏教 を暫 く の間 く いと め てし ま った のであ る。 そ こで. 老 荘思 想 と呼 ばれ、宗教 とし ては道 教 と呼 ばれた が、 これ が 一世紀. では、 ま さし くそ こに仏教 が入 って来 た のだと言う べき であ ろう か。 いや、事実 はそ んな に簡 単 ではな か った。実 は極 め て中 国 的 な、. あ る。. 本来 のそ れ に及 ば ぬ点 があ ったとす れ ば、そ れ は魂 の救 済 と いう 側 面 が欠 け て いた こと で、 そ こに他 の宗 教 の入 る余 地 があ った こと で. 口ま でそ の影響 力 を維持 し続け る のであ る。 以上 のよう な経 過を眺 め てみると、 儒教 と は何 であ ったか大体 そ. な い状態 では余剰 生産 力 にも 限界 があ る。 孔 子 の役割 は、 呪術 的 な. 次節 では、 そ の辺 の事情 を 整 理し な がら、 儒教 に欠け て いた部 分を. の輪 郭も掴 めてく ると思 われ る。 我 々の観点 から言う と、 儒教 は個. 招魂 儀 礼 で 一族 の結束 を図 る農 民を啓 蒙 し、祖霊 信仰 の正し い有 り. 道 教 と仏 教 が ど のよ う に満 たし て行 った か考 え て み る こと に し よ 、 { ノo. 哲学 とも宗教 とも つか ぬ救 済 論 があ った。 そ れ は哲 学 とし て見 れ ば. 方 を教 え て心 のよ り ど ころを与 え てや る こと であ った。鬼 神 ではな く祖先 の霊 に祈り を捧 げ、祖先 を遡 って い って 一番向う に指 向 され るも のがあ るとす れ ば、 それ は天 であ り周 王朝 の祖神 とし ては天帝. 我 々は これま でイ ンド におけ る仏教 の始 まり から歴 史 の整 理 を進. 側 救済型宗教 の問題. あ れば、 当然 そ こから道徳命 令も 出 てく る。 た だ儒教 の場合 はそう. め て、 そ れ が中国 に入 って行 くま でに、中 国 ではど んな構造 的 展 開. であ ると いう形 で、 民族 共同体 の核心 を示 し た のであ る。 そ の限り では、儒教 は広 い意 味 で の民族 宗 教 だ ったと いえ るだろう。宗教 で し た命令 が民衆 の血縁 共同体 と深 く結 び ついて いた ので、声 を大 に. 一一.
(13) . . 宏. 上 岡. が生 じ て いたか考察 し て来 た。 そ し てよう や く、 仏教 が中 国 に入 っ 、 てく る時 代 に辿り ついたわけ であ る。 歴 史 的 には 後漢時 代 に西域 、 から来 た僧 侶 が山 西省 の五台山な ど で教 えを 説 きな がら 仏典 の漢 、 訳を始 め た のが この時 期 であ る。 し かし 今も 述 べたよう に 道教 が 。 あ った所 為 で中国 世 界 は これ にす ぐ には反応 し な か った 漢 民族 が 、 積極 的 に導 入 に傾 いた のは少な く とも 四世紀 に入 ってから であ り ざ っと三百年 の間隔 があ った のであ る。 一体 どう し てそ んな こと に な った の だ ろ う か 。. 、 道 教 と いう のは老 荘思想 に由来す ると さ れ て いるが 創 始者 と さ ( 3Y れる老 子 は孔 子と ほ ぼ同時 代 の思想家 であ る。 実在 しな か った ので 。 はな いかと いう 説も あ るが、差 し当 り それ はどちら でも よ い 少 な くともそ の思想 が実在 し た無名 の優 れ た文章 家 によ って祖述 されて 。 いる のな ら、 特定 の人物 でな く ても かま わな いから であ る むしろ ここで注 目す べき は、 この老 荘思 想 が儒教 に対す るア ンチテー ゼ の 、 役割 を当初 から果 たし て いた点 であ る。 この思 想 は 無 為を善 し と す る こと で知 ら れ るよう に、箸 の上げ 下 ろしま で事細 か に礼 式 に閉. 一二. た。 そし て長 い間 に 一定 の マ ニュア ルが作 ら れるま で にな った ので あ る。. 、 老 荘思想 が現れ て四百年、そ れが民衆 にど のよう に浸透 し た か は 、 額 に汗し て働 く勤 勉 な彼 ら と、 前 に述 べた 「働 かず し て食 い 織 ら 、 。 ず し て着 る」 理想 郷 の話 を考 え合 せれ ばす ぐ 分 るだろう 事 実 秦 、 王朝 の苛 烈な搾取 によ って疲 弊 し て いた農 民 は 劉 邦 が政権 を 握 っ. て から 当 初 は無 為 を 善 し と し た こと によ って暫 くす る と生 き 返 っ た。 口や かまし い儒家 と は別 に、庶 民出身 の皇 帝 はそう いう 民衆 の. 気 分を よ く心得 て いたらし い。 し かも そ の浸透 過 程 は民衆好 み の理. 。 想像 を伴 って いた。 いわゆ る仙 人 のイ メー ジがそ れ であ る 荘 子 の. 描 き出す 境 地 に達 す る には、修 行者 は自 分 の身 体 を 鍛 え て空気 のよ 、 血気 が. う な存在 にな らなけ れば いけ な い。す な わち食物 を 限 定し. 抜 け て神 気 が身 体 に充満す るま で、 長 い時 間 を かけ て不 死 の身 体 を 、. 作 る のであ る。 まず 酒 や肉 や米を断 って小 麦 粉 だけ の食事 を続 け. それ で安 定 し たら これも断 ち、 ナ ツメ の実 だけ で生き ら れ るよう に 慣らし てゆく。 そ れ が出来 るよう にな ったら、 次 に呼 吸法 の実践 に 、 とり かかり、 吸 い込 んだ空気 を体内 に留 め る修 行 を行 い 例 え ば 三. 日間そ れを留 め る ことが可能 にな れ ば、 遂 には空気 だけ で生き られ る。 霞 を食 って生 き る仙 人 と はそう いう 人 のこと だと説 かれ て いた. じ込 め る儒教 を批 判し て、自然 の成 り行 き に全 てを ゆだね てしま え 道 」 と呼 ばれ るが、 そ れ は と説 く哲 学 であ った。 根 源的 な 原 理 は 「 変幻自在 の様 相 を呈 し て現象 界 に現 れ る。 太 古 の昔 から 人 々は占 い. 必要 はな いだろう 。魂 のみな らず 身 体 ま でも不 死 の存在 に作 り上げ. 風 や雲 に乗 って何万 里も 移 動す る仙 人を、 人間 が到達 しう る理想 の 形 と重 ね合 わ せ て民衆 が仰 ぎ見 た こと の方 が こ こでは重要 だから で 、 あ る。 仙 人思想 は、 これ に憧 れ て修 行 に励 む道 士を輩 出 し た が イ. こんな マニ ュア ルが実行 でき るも のかどう かを ここで問題 にす る 、. の であ る。. に熱中 し て易学 ま で編纂 し てき たが、老 荘思 想 ではそ んなも のは不 要 であ り、 むし ろ自 分自身 を そ のタ オ の中 に融合 さ せ てし ま え と説 、そ. ンド の苦 行 者 と よ く 似 た こう し た修 行 は必 ず しも 無 駄 で はな か っ. いて いた。 生 も 死も 、 過去も 現在 も 、 自 分 が何も のであ る かも. 自由 自在 の存 在 に化 し てしまう こと こそ最高 の境 地 だと主 張 し たそ 、 う であ る。そう し た神 秘 的な体 験を荘 子 が書 き残 し た こと によ って. こでは関 係 な い。 或 る時 は人間、或 る時 は蝶、 ま るで空気 のよう に. これ に触 れ た後継者 たち はそれを追 体 験す る べく研究 と実践 を重 ね.
(14) . 多元的世界の宗教について. では漢 民族 は、 こう し た状況 下 でど の辺 り から仏教 に関 心 を向 け. 商 人な ど が大 金を投 じ て 一挙 にあ の世 の不 死を手 に入 れ る大 掛 かり な秘儀 をも請 負う宗 教 にな ったと言 わ れ て いる。. た。 呼 吸法 に重点 を 置く大極拳 は恐 る べき 武術 であ ると同時 に優 れ た健康法 とし て、 今 日でも盛 ん に実践 され て いるし、気 功術 や銭 灸. た のだ ろう か。 な にし ろ彼 ら は昔 から の中 華 思想 の持 ち主 であ り、. 術 な ど現代 科学 で説 明 できな い神 秘 的な技 は、多 かれ少 かれ皆 こ こ に淵 源を持 って いる のだ から であ る。. るが、 張角 兄弟 の卒 いる この宗 教 団 が五斗 米道 と呼 ばれ て猛威 を ふ. らし い。 三国 志 の英雄 たち が活 躍す る機 縁 にな った のが この乱 であ. 事態 とし て考 え ると、 そ の出現 は後漢末 期 の黄中 の乱 が最 初 だ った. にも そぐ わな いのであ る。 そ の点 を考 え ると原因 は別 にあ ったと見. いるが、 そ んな穏や かさ と四、 五世紀 の漢 人知識層 の活動 と は如 何. 家 の用語を 借 用し たため次第 に王朝 貴族 に受 け 入れら れ たと さ れ て. 後漢時 代 に西域 から来 た僧 侶 たち が経典 漢 訳 の際 に訳語を探 し て道. 外来 の宗教 な ど に敬意 を払う こと は滅多 にな い。一般 の歴史書 では、. る った こと はよく知 ら れ て いる。 この教 団 は修行 も望 めな い 一般庶. る方 が筋 が通 る だろう。 四世 紀 と いえ ば辺 境 に押 し 込 められ て いた. では、 宗 教 組織 とし て の道教 はどう だ った のだろう か。起 こ った. 民を 仙 人道 に励 ん で来 た道士 が救 済 し て、 不死 と は いわ ぬま でも あ. の世 の幸 わ せを願 う 信者 たち は、道教 で定 め た春 分 ・秋 分 の大祭 は. を投 じ、 道普 譜な ど何ら か の善 行 を積 ま ね ばな らな い。 こう し てあ. 気 や事故 は皆 そう いう報 いであ るから、 そ んな時 は悔 い改 め て私財. 何 か罪 を犯 し たとす れ ば、 そ の報 いは必ず 何 らか の形 で現 れ る。病. 指 示す る様 々な宗 教 儀式 を執 り行 ったと言 わ れて いる。 信者 たち が. を納 め、 自 分 の いる地域 を教区 とす る道 士 団 に師事し て いて道 士 が. あ る。. そ こでは仏 教 が大手 を振 って歩 くよう な 政治 状況 にな って いた ので. めて いた。つまり、中国 の北半 分が この時 期 異民族 の支配 下 に入 り、. 心 な 信者 とな り、仏教 を保護す ると同時 に配 下や民衆 にも そ れ を勧. 制 圧 し て後越国を建 て た石勤 は、 西域 から来 た仏 図 澄 に帰依 し て熱. 急速 に勢 力 を伸 ばし た時 代 であ る。 し かも 四世紀始 め に華北 一帯 を. 鮮卑 だ の旬 奴 だ のと奇 怪な漢字 の呼 び名 を つけ られ て いた北 方 民族 が、 三国 時 代 が司馬氏 の天下 に代 わ ったあ と、中 原 の乱れ に乗 じ て. の世 の幸 わ せを約束す ると称 し て いた。 信者 は年 貢 とし て五斗 の米. も ち ろ ん、 折 々の儀式 にも欠 かさず 参礼 し て酒食 を提 供 し、 道 士 に 仕 え たと いう。熱 心 に これらを勤 めれば教 団内 の地位も 上 り、 一層. 出来 たよう に思 われやす いが、 実際 には漢 代を通 じ て長 い間 に準備. こう し た教 団組織 は黄中 の乱 で急 に姿 を 現し た のでそ の時 初 めて. 育 成 し教 団 を作 った のは有名 であ るが、 そ の後も 二転 三転す る五胡. る知 識 人も 当然現 れ た。 釈道安 が仏図 澄 に学 ん で多 く の漢 人弟 子を. を考 え る者 も いたらし いが、ま じ め にそ の教えを学 ん で心 の糧 とす. こう な る と漢 民族 も 中 華 思想 ば か り振 り 回 し て は いら れ な く な る。 石動 に仕 え た儒者 や道 家な ど の中 には依然 とし て外来宗 教 排棄. さ れ て いたそう であ る。 張角 ・張魯 と い った兄弟 が指 揮 し た時 は、. 法顕 や玄奨 な ど烈し い情 熱 と共 にイ ンド へ向う 漢 人僧侶 が出 現す る. 極 楽 が近く な ると いう のが道士 の決ま り 文句 だ ったらし い。. そ れ が全 国 的 にまとま った為 に歴 史 を動 かす 程 の力 にな った のであ る。 し かし そ の後、 そ の武力も鎮 圧 され て教 団 は四 分五裂し、 地区. など、漢 民族 の知識 階級 は 一挙 に仏教 への関 心 を高 めた のであ る。. 十六国時 代 に は、鳩摩 羅 什を始 めとす る優 れ た僧侶 の招 聴 と 共 に、. 毎 に世襲 制 の導師 が いると いう 形 になり、 四世紀 頃 にな ると富 裕な. 一三.
(15) . . 宏. 上 岡. の民族 宗教 があ ると世界宗 教 の方 が変 貌 し たり、 逆 に民族 宗 教 の方. 界宗 教 はそ の土俗性 を肩 代 りす る役 目を持 つと か、 逆 に ハイ レベ ル. 土着 の宗 教 の レベ ルが低 いと完 全 に これを排 除し てしまう 代 り、 世. 我 々は このシリ ー ズ の第 三論文 で、世 界宗 教 が伝播 し てゆ く場 合、. では、 中 国 世 界 に入 って来 た仏教 はそ の後 どう な った のだ ろう か。. の保護 を受 け つ つ主 に漢 民族 の救 済宗 教 と いう 形 で乗 り、 次 いで仏. 根 付 いた儒教的慣 習道徳 を基 盤 とし て、 そ の上 にまず 道 教 が、唐 室. い。. 民衆 は儒者 や道 士 に向 け る のと 同様 な 敬 意 を 払 う に留 ま ったら し. 建 てら れた が、 日本 の檀 家制度 のよう に仏教 が統 治体 制 に組 み込 ま れ る ことも な く、大部 分 は出家 し た僧 侶 たち の作 る別 世 界 であ って、. しな か ったよう であ る。 権 力者 の寄 進 によ って大 きな 寺院 は各 地 に. 一四. が世界性 を帯 び るな ど、 事情 次第 で色 々な こと が起 こり得 ると述 べ た。 こ の図式 を中 国 世界 に当 て はめ ると、 ど んな こと が考 え ら れ る. す るよう にな る。 多 元的 な中国 世 界 で は、 儒教 と道 教 と仏教 が互 い. 教 が知 識階 級 の実存 的関心 に耐 え る優 れ た形 而上学 と いう 形 で定着. かく し て大唐 世 界帝国 の時 代 にな ると、 中 国 世 界 は民衆 に完 全 に. だろう か。 最 後 にそ の点 を ま とめて みる こと にしよう 。 まず 仏教 が儒教 や道教 と接 触 し てど んな変 化 をし た かと いう 点を. では これ で宗教概 念 の図式 の問 題 は整 理出来 たと いう べき であ ろ. 調 べると、外 面的 に最 も目 立 つのは死者 の扱 いであ る。 古代 イ ンド 灰 を 川 に流す と いう 現在 の方式 から見 ても 、 そ れ が祖霊 信仰 の定着. う か。 残 念な がら否 と言 わざ るを えな いだろう 。 仏教 そ のも のの本. に役割 分担 でもす るか のよう に共存し て いたわけ であ る。. し た中 国 で受 け 入 れられ たとは思 えな い。 一説 によ れば、 日本 人 の. 質 的な変 貌 がま だ問 われ て いな いから であ る。 ただし こ の問 題 は、 。 イ ンド から中国 に至 るま で の長 い途中 経 過も あ る ので大変 難 し い. の葬儀 がど のよう な も のだ ったか分らな いが、 川 べり で火葬 にし て. 仏式 葬 儀 の手順 の殆 どはそ の原 型 が儒教 にあ ると言 われ、 し かも そ れ は中 国 仏教 が整 え たも のであ った。 仏教 は儒教 から盗 ん で葬 儀 や. ここでは我 々の問 題意 識 に沿う 範 囲 で印象 風 にま と め る に留 め てお こう。 一体 、世 界宗 教 への契機 とな った大乗 仏教 の出 現 は、 原始仏. . 法要 の様式 を作 り出 し たと非 難す る中 国 人も居 たと いう から、 明ら. さ て、 し ばし ば感 じ る こと であ る が、我 々が日常 的 に接す る仏 教. 教 のど こを どんな 風 に変 え た こと で普遍 性 を 獲得 し た のか、 そ の辺. か に仏教 は中 国 の儒教 的慣 習 に妥協 し て いたわけ であ る。. から であ る。 こ のた め黄中 の乱 が鎮 圧 され て から道 教 は教 説 の整備. は最 初 に述 べたイ ンド の今も 見 かけ る苦 行者 のイ メー ジと何 処とな. り から 問 い直 さな いと中国 で の変 貌も 把握 できな いと思 わ れ るから. に力 を 入れ、大 乗 仏 教 で語 ら れ る多 く の仏 陀 や菩 薩 に対応す る神 々. く そぐ わな い。 東南 ア ジア の小乗仏 教 の僧 たち とも や はり合 わな い. し かし、教義 の面 では仏 教 はむし ろ優位 にあ ったよう であ る。 儒. を説 いたらし い。 五胡 十 六国 時代 に北方 民族 が中 原 を制 圧し て仏教. 感 じ がす る のであ る。 大 乗教 に感 じ られ る楽 天的 な雰 囲気 とあ のウ パ ニシ ャ ッド哲 学 の厳 し さ の県 隔 は余 り に大きす ぎ る。 いく らや み. 教 には大乗 経典 に描 かれ るよう な華麗 な形 而上 学 的 世 界 の発想 がな. が中 を 利 かせ て いた時 は、道 教も かな り対抗 意 識 を燃 やし て救 済型. くもな苦 行 は否 定 し たと は いえ、 釈 迦 の教 え はも とも と大 変 厳 し い. であ る。. 宗 教 の形を 整 え よう とし たと言 わ れ て いる。 そ のこともあ ってか、. 道 」 の理念 こそあ るけ れ どもイ メー ジが伴 わな い いし、 道教 には 「. 少く とも漢 民族 に関す る限 り大衆 レベ ルの仏教 は 日本 ほど には浸透.
(16) . 多元的世界の宗教について. わ せたと いう のだ から、 厳し さ の点 で は余 り違 わな いど ころか、却. 編纂 し、 し かも大 衆 の救 済 に 一身 を捧 げ る こと に修 行 の道 を重 ね合. たち の営 為 を否定 し て、 自 分も 大 衆も 一緒 に救 済す る方 向 で経典 を. とはな いはず であ る。大 乗仏教 は自 分 だけ の解 脱 に専念す る修 行者. そ の段階 で苦行的修行 は後退 し た のだろう か。 も ち ろ ん、 そ んな こ. の主 張を生 み出 し たと いう のも よ く知 られ た話 であ る。 とす ると、. も無 視 せざ るを得 な いよう な方 向 に進 ん で いた。 そ の反撰 が大乗 派. 王候貴族 な ど教養 の高 い在家 信 者 はとも かく、 一般大 衆 はどう し て. でも述 べたよう に、古代イ ンド の出 家 たち は僧院暮 し の修 行 の中 で、. も のであ った。そ れ がどう し て こんな形 に変 って来 た のか。 第 一節. 辺 り から苦 行的修 行 に代 る祈 り の役割 が少し づ つ増幅 され る余 地 が. な いが、 し かし祈 り と いう 行 為を 引き出す 点 では同じ であ り、 こ の. る ので、必ず しも 大乗仏 教 だけ が仏像制 作 に直結 し たとは断言 でき. 組合 せ の場 合 と、 布教時 代 の釈迦 と迦葉 と阿難陀を彫 んだも のがあ. り 分る。 仏像 の構 成 には、大乗的 な釈 迦如来 と普 賢 ・文珠 二菩 薩 の. 係 はギ リ シ ャ神話 と神 像 の関 係 に論 理的 にも対応す る こと が は っき. かされ る が、 ここま で見 てく れば、神話 化 し た大乗 仏教 と仏 像 の関. た にち が いな いから であ る。 我 々は仏像 の制 作 がガ ンダーラ で始ま った こと に ついて、 ギ リ シ ャ彫刻 の影 響 や ミリ ンダ王 の話 を よ く聞. ギ リ シ ャ系 民族 だ ったら、 ここに彼 ら の神 々のイ メー ジを重 ね合 せ. さげ、 神話 的宗 教 の素 地 があ るイ ンド ・アー リ ア人や西北イ ンド の. 6v (. って苦 行 的性格 が強 か ったとも 見 ら れる のであ る。 教典 の中 に隠 され て いたよう であ る。 大 乗 派 は釈迦 以前 にも 輪廻 転. かし この段 階 でも ま だ苦 行的修 行 の色 彩 は残 って いて、祈り を 理論. 仏教 は こうし て少し づ つ変貌 を遂げ な がら西域 に入 って来 た。 し. 生 ま れ た に ち が いな い の で あ る 。. 生 の無 限 回帰 から解 脱 し た者 ( 仏陀 と か如来 と呼 ばれ る )や前 世 の. 化す る宗教 は生 ま れな か ったよう であ る。 オアシ ス国 家 の僧 たち は. では楽 天性 の萌 芽 はど こに内 在 し た のだろう か。 それ は実 は大乗. 善行 によ って解脱 が予定 され て いる者 ( 菩薩 と呼 ばれ る) が天上 界. 各 地 で千仏 洞を 刻 み、自他 共 に祈 る に足 る仏 像 を造 り続 け て いたし、. 所 にされ て いる こともあ ると いう 。 そ れ でも こう いう 経典 に接す れ. ま ち で、 実際 のイ ンド の地名 が出 てく る こともあ れば、天上界 の場. す るとされ て いる阿弥 陀如来 に的を絞 って、 阿弥 陀 さまを念 じ てそ. そ の大乗教 典 から読 み取 り始 め て いた。 天上 界 では西方 浄 土 を 主宰. と いう 大乗仏教 の精 神 がそ こでは生 き て いた のであ る。 だが中 国 で は、彼 らを 迎え て これ に学 ん だ漢 人僧 侶 たち が全く別 の方向 性 を、. 他者救 済 の熱意 に燃 え る大乗 派 の僧侶 は困難な旅を 企 て て中 国 世 界 に入 って行 った。 苦労 が多け れ ば、 そ れ だけ自 分も解 脱 に近 づけ る. には沢山 いると主張 し て いたが、経典 の中 ではそう し た仏 たち が釈 迦如来 と様 々な対話 をす る情 景 が描 かれ て いると いう。 と ころ が こ. れは小乗と呼ばれた原始仏教が長 い間語り伝えて来た布教時代 の釈. ば、 天上 界 には如来 や菩薩 が沢 山 いて地上 の我 々を見守 ってく れ る. の名 を 称え続 け れ ば、 そ の慈 悲 によ ってあ の世 で極楽 に生 れ変 れ る. 迦 の言行 録を 脚色 し たも のであ った。 このため出 てく る地名 もま ち. と いう 発想 や、悪 い事 をし ても 仏様 は皆 見通 し て いると いう 考 え方. 化であり体系化であるが、先に述べた漢人僧侶釈道安 の弟子悪遠が. と いう新 し い解 釈を 打 ち出 し た のであ る。 それ はま さ に祈り の理論. こう し たイ メー ジが人 々にど んな方 向 づけ をも たらす かは言う ま. 既 にそ れを携 え て江南 に東 林寺 浄土宗 を開 いたと いう から、 四 世紀. が当 然 生 じ てく る であ ろう。 でも あ るま い。誰も が極 く自然 な心情 とし て仏 陀や菩薩 に祈 りを さ. 一五.
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