野田秀樹『贋作・桜の森の満開の下』論 : 戯曲受容の構造
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(2) 序章−⋮⋮−−−・−−−−−−−−−−−−9−・−−−−−−−−・−−−・−−−−◎−・−−. 第一章 ﹁贋作﹂という問題⋮⋮−−−・⋮− 第一節タイトルが呈示するもの−⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮−⋮⋮⋮−・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮. 第二節 ﹁桜の森の満開の下﹂と﹁夜長姫と耳男﹂−−⋮. 第三節 ︿贋作﹀という手法⋮⋮⋮⋮ 第一章の注−−⋮・⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮−⋮⋮9⋮−⋮⋮−:−⋮・−−⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮. 第二章 安吾解読ープレテクストの受容− 第一節戯曲化における二つの焦点−⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮:⋮⋮⋮◎⋮⋮⋮⋮⋮− 第二節 対構造の重複⋮⋮⋮⋮⋮−⋮9⋮⋮⋮⋮⋮⋮D⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹄⋮−−. 第一二節 戯曲に前景化してくるもの−⋮⋮⋮.
(3) 第二章の注−⋮:−⋮−−:−9⋮−⋮⋮⋮⋮⋮・−−⋮:⋮⋮⋮・⋮⋮⋮−. 第三章 行為としての観劇ー﹃贋作. の受容構造−−−−−−−・−−−−⋮−・・. 第一節 ﹃贋作・桜の森の満開の下﹄の構造と特質⋮⋮−. 第二節 語りの速度−饒舌と﹁空白﹂を手がかりにー⋮⋮⋮−. 第三節 戯曲の可能性−−⋮⋮−⋮−⋮じ⋮⋮−⋮−⋮−:・⋮−−⋮−⋮−. 第三章の注⋮⋮⋮⋮⋮⋮:・⋮⋮⋮⋮:⋮⋮・⋮⋮ c. 終章−−−−−−−−9−−−−−−−・−−−−−−−・−−⋮−−−−・⋮. 桜. i i i i i iの. 森. の. i i i i満i 開. i i i i i iの i i i i i i下. 69 66 63 52 45 45』 38.
(4) 引用文献及び参考文献の発行年は、すべて西暦に統一した。. 引用文中の︹ ︺は、筆者が補った語句とする。また、中略は⋮⋮によつて示す。. 特に断りのないかぎり、傍線はすべて筆者による。. ﹃贋作・桜の森の満開の下﹄︵新潮社 一九九一一年一月︶に拠り、適宜ルビを省略した。. 坂口安吾に関する引用は、﹃定本 坂口安吾全集﹄︵冬樹社 一九七一年四月︶に、戯曲に関する引用は、. 凡繍捌. 二、. 三、 四、. 、.
(5) 野田円夫乃樹. ﹃贋作・桜の森の満開の下﹄論 戯凸四再又点谷の︶槽肘距垣.
(6) 序立早. 本稿の目的は、野田秀樹作﹃贋作・桜の森の満開の下﹄を対象として、戯曲が持っている受容の構造を考 えることにある。. ﹁壬申の乱﹂という歴史的ターニングポイントを描いた﹃贋作・桜の森の満開の下﹄は、昭和から平成と. いうこれまた歴史的移行期に上演された。その話題性︵注ω︶故に多くの批評が行われたが、そのほとんど は印象批評的であり、演技や照明・装置などの舞台効果に帰するものばかり︵注図︶で、戯曲そのものの構 造についての 検 証 は 皆 無 で あ っ た 。. 筆者は、戯曲という文字テクスト自体が内包している、受容をうながす構造そのものを検証したいと考え ている。. 検証にあたっては、次の三つの観点が必要だと考えられる。 まず、戯曲のタイトルが﹁贋作﹂とされている意図はなにか、ということである。戯曲﹃贋作・桜の森の. 満開の下﹄は坂口安吾の諸作品を下敷きにしていることから、﹁贋作レとはプレテクストがあることを暗に 示す役割を持っている。しかし、同時に﹁贋作﹂という語には、演劇表現の重要な特質を際立たせる働きが 内包されてい る だ ろ う 。. 次に、下敷きとなった諸作品との比較から、戯曲において焦点化されたものを考える。戯曲の舞台設定や. 人物造形にはプレテクストからの大きな変化が見られる。その変化は、野田が安吾作品をどのように受容し. たかを探る手がかりとなるだろう。 最後に、野田戯曲を論じる評言においてしばしば目にする﹁ドライヴ感﹂﹁スピード感﹂が、どのような. 構造によって支えられているのかを検証する。先行研究では、野田戯曲に特徴的な手法として﹁言葉遊び﹂. 1.
(7) や﹁リフレイン﹂があげられてきたが、その効果についての検証は充分ではない。これらの手法が戯曲全体. の構造で果たしている役割を見ていくことが、受容構造を考える上で重要な視点となるだろう。. 以上の三点を通し、﹃贋作・桜の森の満開の下﹄の持つ受容構造を明らかにしたい。. ︻注︼. ω野田自身の創作ノートにも、﹁あまりに今回の作品とのタイミングが良くて、クニの輪郭線の話をするが、 予期していたことではあるが、劇中の崩御とかミカドといったコトバが、ぐっと重きをなしてくる﹂と書. かれている。︵﹃定本・野田秀樹と夢の遊眠社﹄河出書房新社 一九九三年七月 より転載。︶. ②長谷部浩の劇評︵﹁新劇﹂一九八九年四月号︶などはその典型だろう。長谷部は、﹁つねに新しい刺激を求. め、見慣れた劇団が、劇的に変化する舞台を望み続ける﹂観客の要請に応えるものとして、﹃贋作・桜の. 森の満開の下﹄を評価しており、その大きな変化として、これまでの﹁架空のファンタジア﹂ではなく﹁現. 実﹂が描かれていたことをあげ、それにあわせて役者が﹁つとめてテンションを抑える演技﹂をしていた という印象を述べている。. 2.
(8) 胱弔一立早. ﹁贋作﹂という問題. 第一節タイトルが呈示するもの. 野田秀樹の戯曲﹃贋作・桜の森の満開の下﹄について考えるに当たって、最初に注目したいのは、そのタ. イトルである。ここには、二つの点で興味深い特徴がある。 この戯曲は、﹁夜長姫と耳男﹂﹁桜の森の満開の下﹂を中心とする坂口安吾のいくつかの作品をプレテクス トとしている。特に﹁夜長姫と耳男﹂のストーリーは、戯曲のあらすじの主要部分となっているし、戯曲の. 主要人物二人の名も﹁夜長姫﹂と﹁耳男﹂である。タイトルとは﹁について﹂の観念であり、近世以降の演. 劇作品を含む文学作品には多く主人公の名を掲げたタイトルが見られるとする佐々木健一の分析︵注qD︶に 倣うなら、﹁夜長姫﹂と﹁耳男﹂の行動を中心に描かれた戯曲のタイトルには﹁夜長姫と耳男﹂が採用され. るのが自然であるように思われる。が、実際にタイトルとして採用されたのは﹁桜の森の満開の下﹂の方で ある。. もともと作品の同定や識別のための標識でしかなかった それゆえ、作者によって名づけられるよりも. 司書や出版者によることが多かったータイトルは、近代以降、重要なメッセージ性を持つものとしてとら. えられるようになり、かつ、タイトルづけは作者の特権となっていった。それゆえ、近代的なタイトルとは、. 作品内容の単なるガイドではなく、作品の見方や理解を左右するような作者からのメッセージという﹁意味 付与の性格︵注図ごを持つものであり、今やタイトルと作品全体の焦点︵U主題︶が不可分であるという 認識は自然だ ろ う 。. 野田は、折に触れて安吾作品の世界が好きであること、それゆえ、﹃贋作・桜の森の満開の下﹄の執筆に. 3.
(9) あたってもその世界観を尊重して取り組んだことを広言している︵注㈹︶。だが一方でタイトルの性格上、. 戯曲の中心的ストーリーとプレテクストのタイトルとが交錯していることは、作者とその作品の独自性を損 なうことにもなりかねない。だからこそ、なぜ、何のためにこのような交錯が行われたかは、戯曲を理解す. る上での大きな鍵となるだろう。 もう一つ着目したい点は、タイトルに含まれる﹁贋作﹂という語である。作品が﹁贋作﹂、つまり︿ニセ. モノである﹀と名づけられているのは強いインパクトを感じさせるであろうし、類似したタイトルを持つも. のとしては、﹃贋作ドン・キホーテ﹄﹃贋作吾輩は猫である﹄くらいしか思い浮かばない。. ﹃贋作ドン・キホーテ﹄については作者未詳であり、その後に刊行された本家﹃ドン・キホーテ﹄第二部. との関係からも、作品そのものの意味が問われるよりも、こうした贋作が登場するほどに﹃ドン・キホーテ﹄. が衆目を集めていたという論拠となっているにすぎない感がある︵注㈲︶。しかし、主人公ドン・キホーテ. をはじめとする人物造形の変化や作品からわずかに見える作者の問題意識の中核を探っていったとき、確か. にパロデイの持っている﹁批評的距離︵注㈲︶﹂は見えてくる。内田百間﹃贋作吾輩は猫である﹄について. も、﹁吾輩﹂を家人から大切にされる、﹁劫を経た﹂猫として設定することで、漱石の﹁猫﹂が持っていた観. 察者としての側面をより強化したのであろうという坂本緑の指摘︵注㈲︶にも見られるように、プレテクス トヘの批評的態度は感じられる。. では、﹃贋作・桜の森の満開の下﹄を考えてみるとき、こうした﹁批評的距離﹂のようなものが見出せる. であろうか。ここで、長谷部浩との対談における野田の言葉に注目してみたい︵注ω︶。. ★︹前略︺壊す作業は戯曲じゃなくてできるなと。つまり現場でできる、演出としてできるから、やっ ぱり戯曲としてはもう少し語り部をやっていいんじゃないか。それが最近の自分の作品には顕著に出て. 4.
(10) いると。. それは、﹃贋作・桜の森の満開の下﹄が坂口安吾の原作をもとにしていることと関係していますか。. ★うん、萩尾望都さんの﹃半神﹄︵八六年︶もそうだけれども、じぶんの好きな作家なり漫画家でしょう?. に、. しカもちゃんとじぶんの戯. だから、言葉というもののカがあるわけだカらその世界を絶ム・に壊したくない、壊しちゃいけないって. 言う意識がじぶんのなカに ごく働いた。そのジャンノの世界を壊さ.. ﹁夜長姫と耳男﹂. 5. 曲として成立させたカった。. もちろん、これは対談での言説であり実際の戯曲の中にこうした心構えがどこまで反映されているかとい う問題は残るが、ジャンルの異なる表現形式にもかかわらず﹁その世界を絶対に壊したくない﹂と考えた意. 識のありようから批評的態度は読み取りにくい。むしろここでの︿贋作﹀にこめられた意味を考えていくこ とは、作品の成立過程において、作者野田秀樹がプレテクストをどのように受容していたのかを解明する手. ﹁桜の森の満開の下﹂. がかりとなるように思われる。この点は第三節において検証してみたい。 胱弔一一研即. タイトル︵注⑧︶﹂である。ここから読者は、﹁夜長姫﹂﹁耳男﹂というやや風変わりな名︵とその名に付随. て考えてみたい。﹁夜長姫と耳男﹂は、主要人物の名を採った典型的な﹁について﹂のタイトル、﹁提喩型の. 戯曲のタイトルを検証する前に、まず﹁夜長姫と耳男﹂﹁桜の森の満開の下﹂それぞれのタイトルについ. と.
(11) する個性︶を持つ一一人の人物が一つの作品世界を代表する存在となるであろうことを予測する。対して、﹁桜. の森の満開の下﹂は、ある地点を表しながら、必ずしもそこのみが舞台なわけではなく、それでいて、その. 特殊な場に象徴されるものが作品全体を支配している。つまりは、﹁作品全体の意味を示唆する比喩﹂﹁作者. が自作について示した理解のメッセージ﹂という性格を持った﹁メタファi型のタイトル︵注⑨︶﹂である。. タイトルの持つ実用的な役割は、作品がどのようなものであるかをあらかじめ呈示することであり、だから こそ提喩型がタイトルの大多数を占めているのだ。このことを前提とすればなおのこと、実際に観たり読ん. だりする以前の段階で、受容者に作品への情報を呈示しえない﹁メタファi型のタイトル﹂を敢えて用いた 理由は考えてみるぺきだろう。. ﹁桜の森の満開の下﹂は、タイトルとして魅力的である。まずこのタイトルは映像イメージを浮かばせや. すい。﹁桜﹂﹁森﹂﹁満開﹂といった語は、一面に広がる桜の風景や舞い散る桜の花びら、春霞の空といった. 映像を連想させるであろうし、そうした映像は付随的に目本的な︿桜︵より端的に言えば、散る桜︶﹀の概. 念が主題に関わってくるのではないか、という予覚を持たせるであろう。その意味で、ストーリi性のある、. 暗示的なフレーズだといえる。加えて、﹁桜の森の﹂﹁満開の﹂﹁下﹂という語の結びつきには、視点の移動. が見られる。桜の森を鳥鰍する遠景の視点は、﹁満開の﹂という語によって近景へと転じ、﹁下﹂という一語. によって、ある一点へと集約される。あるいは、こうした視点の移動は、作品の焦点が﹁桜の森﹂という風 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ. 景相よりも、その﹁下﹂にあるなにものかであることを暗示する効果を持つともいえるだろう。. このように﹁桜の森の満開の下﹂というタイトルは、これ自体が豊かな表現力を持ったものであり、ゆえ に戯曲においてこちらのタイトルが採用されたという解釈は成り立つだろう。だが、そもそもタイトルが作. 品の主題と密接な形で結びついているという基本に立ち戻れば、別の解釈も想定できるのではないだろうか。. これまでに、﹁桜の森の満開の下﹂と﹁夜長姫と耳男﹂それぞれの中心となる︿女﹀像と︿男﹀像とを比. 6.
(12) 較し、両者の類似性を見出そうとした先行研究は多く見られる︵注⑳︶。確かにこの二作品を、おそろしさ. と美を併せ持つ︿女﹀とそのカに翻弄される︿男﹀という大まかな関係性を軸として把握することはできる. だろうし、︿女﹀を殺す︿男﹀という図式にも共通するものがある。だが、そうした︿女﹀と︿男﹀の関係. 性から視野を広げて作品そのものを眺めたとき、この二作品の間には大きな違いがある。﹁桜の森の満開の. 下﹂では三人称が用いられ、かつ︿女﹀も︿男﹀も﹁女﹂﹁男︵山賊︶﹂という一般名詞で呼ばれるのに対し. て、﹁夜長姫と耳男﹂が一人称形式によって書かれ、かつ﹁夜長姫﹂﹁耳男﹂という固有名詞を持った存在と して現れてくることがそれである︵注⑳︶。ここから、前者はより抽象化された人間どうしの物語であり、. 後者はより限定された個別的な人間関係を描いていると見ることも可能ではないだろうか。言い換えれば、. より根源的で基層をなす男女の関係が描かれているのが﹁桜の森の満開の下﹂であり、その中のある特定の 要素を抽出し焦点化したものが現れてくるのが﹁夜長姫と耳男﹂なのである。. この点を踏まえて考えると、﹃贋作・桜の森の満開の下﹄というタイトルから、﹁夜長姫と耳男﹂に見られ る関係性の基層としての﹁桜の森の満開の下﹂という構造が野田の意識の中にあり、ゆえに、双方の作品の 意図を包含して表現しうるタイトルとして﹁桜の森の満開の下﹂が採用されたことが読み取れるように思う。 第三章では、この一一作品において1少なくとも戯曲の中ではーそうした包含関係が成立していることを 検証したい。. 第三節︿贋作﹀という手法. 野田秀樹作・演出で一九八九年に上演された﹃贋作・桜の森の満開の下﹄を観た坂口夫人は以下のように 述べている︵注⑳︶。. 7.
(13) ︹上演に先立っての打合せで︺題名は﹁贋作・桜の森の満開の下﹂ にしたいということであった。. カら贋fとキち出 とは、ナンと大胆不 な、と思った。 原fとどんなに相違があろうとあたりまえということ、だから、こちらとしても気が楽だ、などと思 った。. だが考えてみると原作に忠実というのばかりが能ではない。むしろ忠実であろうとするあまり原作の. 模倣になって、魂を抜き取られたようなものになりかねない。 多くの成功例と不成功例があるけれども、今回、夢の遊眠社の﹁贋作・桜の森の満開の下﹂は成功例 で、優れてファンタジックないいお芝居になっていたと思う。. 上演許可を取るに当たって坂口夫人への紹介役を担った奥野健男も、この言説を受けて戯曲に対してほぼ. 同内容の評価をした。だが、この評価には大きな違和感を覚える。というのも、﹁贋作﹂という語が、︿原作. とどんなに相違があろうとあたりまえ﹀のもの︵”ニセモノ・紛い物︶を指しているとは考えられないから だ。. ︿贋作﹀をつくることに対する否定的な見方は近代以降︵おそらくは、複製技術の発達によって表面化し. てきたコピーライトの問題と不可分に︶生じてきたものであり、それはオリジナリティを過剰に重視する昨. 今の風潮へとつながっていると思われる。だが、本来、模範となる作品を模倣して作品を作るのは、︵特に. 徒弟制度が成立していた分野・時代においては︶技術習得のために必要な段階であった。あるいは、和歌・ 詩歌などに見られる本歌取りや引用、翻案を考えてみてもいい︵注㈲︶。すでに一つの形を成していたもの. が、この手法によって、別のコンテクストに置かれることで新たな意味や価値を得ていくのが見られるだろ. 8. 矧.
(14) 卸ワ。. 歌人であり、かつ野田と同じく戯曲家でもあった寺山修司は、この手法を最も効果的に使った一人である。. ﹁チェホフ祭﹂で﹁短歌研究﹂の︿五十首詠﹀に入選し歌壇にデビューした寺山は、 一時期、﹁模倣や剰窃. によって短歌を作っている﹂との非難を受けていた。事実、﹁チェホフ祭﹂中の短歌にも先行する俳句を引. 用した短歌がいくつか見られる。有名なものとしては、中村草田男・西東三鬼の俳句が引用された﹁向日葵 の下に饒舌高きかな人を訪わずば自己なき男﹂や、同じく草田男に発想をとった﹁茸火を床に踏み消して立. ち上がるチェホフ祭の若き俳優﹂、秋元不死男の俳句とよく似た﹁莫火を樹にすり消して立ちあがる孤児に. も寒き追憶はあり﹂などがあげられるだろう。確かに、元となる俳句が明らかに推察できる短歌であり、俳 壇︵と歌壇の一部︶からの非難も理解できる。. だが、これも一種の︿本歌取り﹀と言えるのではないだろうか。たとえば松岡正剛は﹁それにしても寺山. の﹁模倣﹂はたいへんうまい。︹富澤︺赤黄男がマッチと湖の霧を結びつけたイメージに、﹁身捨つるほどの. 祖国﹂を植えこんだのは、やはり寺山の技である。/かつて古代ギリシャでは﹁ミメシス︵模倣︶・アナロ. ギア︵類推︶・パロデイア︵譜誰Hかいぎゃく︶﹂という三つの方法が重視されたものだったが、寺山はその. 秘術をまことにみごとに体得していたようなのである。﹂と述べている︵注個︶。﹁チェホフ祭﹂以降の寺山. の短歌を見ても、こうしたジャンルを越えた︿引用﹀は、単に先行する作品のイメージを借用しているので はなく、想像のカによってより広く深い世界を表現する︿オリジナルな﹀手法−寺山戯曲の重層性にも通 じるであろう手法ーとなっているように思われるのである。. 野田戯曲には外部テクストや歴史上の人物・事件からの引用が多用されており、その手法もまた本歌取り. 的と形容されることが多かった。この点に大きな異論はない。先に引用した長谷部との対談でも指摘された. ことだが︵注㈲︶、﹃贋作・桜の森の満開の下﹄は、萩尾望都との共著の形で書かれた﹃半神﹄に続く、原作.
(15) を持った戯曲であり、これまでの戯曲よりも明瞭に引用であることが見えてくる構造となっている。ここか. ら、これまで行ってきた引用という手法を明示したものとして﹁贋作﹂というタイトルの意味をとらえるこ とも可能であ ろ う 。. だが、ここで行われている︿引用﹀については、もう一歩踏み込んで考えてみたい。そもそも全てのテク. ストは﹁引用の織物︵注⑯︶﹂ではある。だがこの言葉の意味するところは、作品自体が重層的な引用の上 に成り立っていることに限定されないのではないだろうか。 一般に戯曲というテクストから立ち上がってくる個別の舞台は再現されることがない、一回性の作品であ. ると理解されている。こうした理解の根底には、個々の上演が戯曲というテクストの一つの解釈であるとい. うこと、さらには、実際に舞台上に現れたものが演劇という表現形式の完成型であるということが暗黙の了. 解となっているのであろう。だが、この考え方には受容という側面が考慮されていない。. 実際の観劇を考えてみたい。舞台上では役者の動き・照明効果・舞台装置といった視覚的情報とせりふ・ 音響効果といった聴覚による情報とが呈示され、観客は主として映像としてその舞台を受容していくように. 見える。演劇が﹁視覚芸術﹂といわれる所以である。だが、実は、この時受容されているのは必ずしも実際. に目の前に現れている映像︵を中心とする感覚刺激︶そのものではなく、それらを通して観客の内部に創出 される︿映像的イメージ﹀なのである。. 限られた空間で行われる舞台には、舞台装置・照明/音響効果・役者の立ち位置など実に多くの面での制. 約が課せられる。複数のセットを暗転中に入れ替えるといった大がかりな舞台装置でないかぎり、一つの台 がある時はテーブルになり、別の場面ではベッドになるといったことも当たり前に見られる。だが、観客は. そうした約束事を了解している。同じように、遠く離れた恋人どうしが互いを思って言葉を発するときにも、 実際の舞台上では数メートルの距離にいる二人の間に、観客は数百キロの隔たりを了解する。舞台左方から. 10.
(16) ヤ ヤ ヤ. 照らされるオレンジの光は沈みゆく太陽を想起させ、遠く聞こえる雷鳴が上空に立ちこめる暗雲を見せる。 この約束事は観客の想像力によって補強される。それゆえ、観劇後の観客の脳裏に残されるのは、実際の. 舞台上で見えた/聞こえたものに、想像によってーそして、その想像は個々の経験、すなわちコンテクス トに左右されるー付与された光や音がより豊かに膨らませた映像イメージなのである。そして、その映像. イメージは、実際の舞台以上により戯曲テクストが喚起するイメ;ジに近づいていく。 舞台は、演劇表現の完成型ではない。書かれた文字は読書という行為がなされるまではインクのしみにす. ぎない。同様に、︿音響・照明・装置・役者の演技といった舞台で行われる一切のもの﹀は、︿観客の想像力 による受容﹀がなされるまでは︿単なる波動現象﹀にすぎないのである。. この受容構造について少し視点を変えて考えてみる。﹃贋作・桜の森の満開の下﹄の舞台が呈示する情報. は、多くの︿引用﹀に基づいている。だが、受容者一人一人の持っているコンテクストによって、そうした. 情報に触発される︵あるいは共振しうる︶︿引用﹀は異なってくる。つまり、観客が舞台を媒介として受容 し創出する︿作品﹀は限りなく原テクストである戯曲に近い、それでいて、個人のコンテクストによって一. 人一人の内部に少しずつ異なったものとして立ち上がってくる︿贋作﹀なのである。 無論、単純に﹁贋作﹂というタイトルを、戯曲そのものがプレテクストに対する贋作だとする態度表明と. 見ることもできる。だが、戯曲の中に織り込まれ、舞台上で呈示された︿引用﹀を縦糸とし、受容者︵観客︶. ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ. 一人一人のコンテクスト︵目プレテクストヘの理解︶を横糸として創り出される織物は、戯曲に対する一つ の︿贋作﹀である。すなわち、この﹁贋作﹂というタイトルは、ー野田がどこまでそれを意図していたか. は分からないが1舞台を媒介として創出される戯曲の︿贋作﹀を予告したものだとも考えられるのである。. この理解によれば、﹁夜長姫と耳男﹂が中心的ストーリーである戯曲に﹁桜の森の満開の下﹂というタイ トルを用いたことも説明できるように思う。安吾作品を知らない観客はもちろん、戯曲のプレテクストに十. 11.
(17) 分に反応することができず、内部に創出される︿作品﹀は︿贋作﹀となる。一方、ある程度プレテクストを. 知っている観客でさえも︵あるいは、だからこそ︶、﹁桜の森の満開の下﹂というタイトルがミスリードを誘 うこととなり、主要なストーりーが﹁夜長姫と耳男﹂に拠っていることに気づいたときには混乱が生じ、彼 /彼女の内部に創出される︿作品﹀もまた︿贋作﹀となるだろう︵注αの︶。. では、こうした手法は何のために行われているのだろうか。受容者を混乱させるかのような作劇手法が敢. えて選ばれているのは何故だろうか。そこには、受容の速度をコントロールしようという意図があるのでは ないかと考えられる。この点については第三章で検証してみたい。. ︻注︼. ω佐々木健↓﹃タイトルの魔力﹄︵中央公論社 二〇〇一年十一月︶ ②同右。. ㈹たとえば、﹁演劇的人問i太宰治﹂と題した奥野健男との対談︵野田秀樹﹃おねえさんといっしょ﹄新潮. 社 一九九一年五月 所収︶では、新潮文庫のいくつかの著作に付された経歴︹野田が安吾の生まれ変わ. りだとする﹁著者略歴﹂の冒頭部分︺が取り上げられ、﹁そんなに安吾が好きだった?﹂と尋ねられてい. る。この質問に対して野田は、﹁︹この略歴を書いたころが︺一番好きでしたね。今度﹃贋作・桜の森の 満開の下﹄をやって、また違ったふうに好きになっています。﹂と答えている。. 四岩根囲和﹃贋作ドン・キホーテ ラ・マンチャの男の偽者騒動﹄︵中央公論社 一九九七年十二月︶など が好例であろう。. ㈲リンダ・ハッチオン﹃パロデイの理論﹄︵辻麻子訳 未来社 一九九三年三月︶ ⑤坂本緑﹁内田百間﹃贋作吾輩は猫である﹄論1﹁贋作﹂の意味ー﹂︵﹃梅花日文論叢﹄一号 一九九三. 12.
(18) 年三月︶。ただし、坂本は、﹁贋作﹂とは形式や設定の上で原典をなぞらえていることを意味しているので. はなく、この作品の真価を試すための読者に対する問いかけであると結論づけており、筆者の立場とは異 なる。. ω長谷部浩﹃盗まれたリアル 九十年代演劇は語る﹄︵アスペクト 一九九八年九月︶ 圖佐々木、前掲書。. ⑨佐々木、前掲書。ここではメタファー型タイトルの典型として﹃親和力﹄﹃赤と黒﹄があげられ、後者を 例にすれば、﹁赤﹂とは﹁情熱﹂の比喩であり、主人公である青年の人生における華やかな部分を総括す るシンボリックな観念として解釈することも可能だとしている。 ㈹奥野健男﹃坂口安吾﹄︵文藝春秋社 一九九六年十月︶ 長田光展﹁坂口安吾﹃夜長姫と耳男﹄1姫と耳男の深層構造1﹂︵﹁人文研紀要﹂四号 一九八五年八 月︶. 同じく﹁﹃桜の森の満開の下﹄論−鬼と虚空の深層構造ー﹂︵﹁国文学 解釈と鑑賞﹂五八巻二号 至 文堂 一九九三年一一月︶. 笠原伸夫﹁説話的発想−坂口安吾・主題と方法1﹂︵﹃日本文学研究資料叢書 石川淳・坂口安吾﹄有 精堂出版 一九七八年七月︶. 田中美代子﹁﹁青春﹂の死について﹂︵﹁ユリイカ 詩と批評﹂七巻十一号 青土社 一九七五年十二月︶. 高橋好弘﹁﹁坂口安吾﹂論ー﹁桜の森の満開の下﹂周辺から、﹁巧みに殺された真実﹂を探ってー﹂︵﹃中 央大学国文﹄二五号 一九八二年三月︶ 壇一雄﹁解説﹂︵﹃坂口安吾選集4﹄東京創元社 一九五六年七月︶. 原卓史﹁絶頂期に於ける坂口安吾の鬼ー﹁桜の森の満開の下﹂を中心に﹂︵﹃中央大学国文﹄四〇号 一. 13.
(19) 九九七年三月︶. 矢島道弘﹃相反する情念−坂口安吾の世界1﹄︵近代文藝社 一九八三年三月︶. ⑰﹁夜長姫と耳男﹂が一人称で書かれていることを指摘した論文として、鬼頭七美﹁坂口安吾における死と 芸術−作品の結末にこめられた意味ー﹂︵﹃日本女子大学大学院文学研究科紀要﹄三号 一九九七年三. 月︶がある。三人称語りによって語られた﹁死﹂と﹁生﹂との対立は客観的に眺めることが可能だが、一. 人称で書かれた﹁夜長姫と耳男﹂では、﹁女﹂目﹁死﹂の恐ろしさが﹁オレ﹂︵耳男︶に内在化、同一化し. たものとして、読者に迫ってくる。 一人称語りは、この内在化、同一化を作者自身が自覚し、血肉化する ための必然的手法だというのが鬼頭の指摘の要旨である。. 圃坂口三千代﹁﹃贋作・桜の森の満開の下﹄を観て﹂︵﹃追憶 坂口安吾﹄ 筑摩書房 一九九五年十一月︶. ⑬鈴木敏幸﹁近代詩における贋作について﹂︵﹃ことばの論文集﹄ 一九九一年七月︶では、本歌取りの発. 想や翻訳詩の模倣に慣れ親しんだ近代詩人たちは、﹁先人の模倣﹂が﹁ユニークな自己確立を誘発﹂する. と考えており、島崎藤村、萩原朔太郎、高橋新吉、山村暮鳥、室生犀星らの諸作は、模倣から出発して新. たな作品をつくりえた﹁故と新とを自在にあやつり、創作する﹂奇跡的な行いであったと指摘されている。. 回松岡正剛﹁オリジナリティーとは何なのか﹂︵﹃朝日新聞﹄一九九六年八月二十三目付夕刊、第五面﹁情 報のツボ﹂欄︶ ㈲長谷部、前掲書。. ⑳ロラン・バルト﹃物語の構造分析﹄︵花輪光訳 みすず書房 一九七九年十一月︶. ㈲類似したタイトルのつけ方に、黒澤明監督の﹃羅生門﹄があげられるだろう。. 14.
(20) 第二章 安吾解読 プレテクストの受容 第一節 戯曲化における二つの焦点. 戯曲﹃贋作・桜の森の満開の下﹄のあらすじは、坂口安吾の﹁夜長姫と耳男﹂﹁桜の森の満開の下﹂を中. 心とし、その中に﹁飛騨・高山の抹殺﹂﹁飛騨の顔﹂といった諸作品の要素が折り込まれていると理解され. ている。多くの劇評・論評は、プレテクストとしての安吾作品の雰囲気を残しつつ、戯曲としての娯楽的要. 素が色濃く、古代目本の設定にもかかわらず﹁かんけり﹂や﹁遊園地﹂などが現れたり、人になりたがった. 鬼による﹁クニヅクリ﹂が行われたりという荒唐無稽な展開を持った、大胆な脚色としてこれを評価してい る。例えば、松岡和子は以下のような劇評を書いている︵注ω︶。. まずこれは、脚色として第一級と言える。安吾の作品を存分に生かし、書かれた言葉も随所にそのま. ま使いながら、全体としては紛れもなくダイナミックな野田の劇世界になっているからだ。︹中略︺﹁夜. 長姫﹂のストーリーを﹁飛騨・高山の抹殺﹂の飛騨王朝説という土台にのせ、ミロク造り、大仏造りを. クニ造りに重ね、下敷きにしたf品がなんのほころびも見せずに斗大なスケーノのひとつの舞台に織り 上げられてゆくさまは小気味がいい。. ここでは、いくつかの作品が矛盾することなく﹁織り上げられて﹂いることが評価されており、類似した 劇評・論評は散見される。だが、戯曲の中で複数のプレテクストが融合していることにどのような意味があ. るのか、その効果はどのようなものであるかといった点への論究は十分でな︽、ここを突き詰めていくこと. 15.
(21) が必要ではないかと考えている。 戯曲評価のもう一つの観点として、俗物と芸術家との間で揺れ動く男として耳男をとらえ、その対立者か. つ導き手︵ミューズ︶として夜長姫をとらえようとするものがあげられる。ふたたび松岡の劇評を引用する ︵注③︶。. 彼女︹夜長姫︺を殺してしまった耳男の姿は、ものを創るためには鬼を背負わねばならず、同時に、下 り坂のどこかで踏みとどまらねばならない芸術家の姿でもあるだろう。創る人、野田秀樹の顔がちらと その陰に見えた。. もちろん、こうした印象は誤りではないだろうし、﹁夜長姫と耳男﹂﹁桜の森の満開の下﹂の先行研究にお. いても同様の指摘がなされている︵注㈹︶。だが、俗物とミューズというとらえ方では、その関係性は明ら かに夜長姫が優位な立場となり、対等な人間どうしの物語として読む可能性は制限されてくる。はたして、 このような読みは成立しないのだろうか。. この二つの観点を検証するため、戯曲の主要人物二人の設定が﹁夜長姫と耳男﹂﹁桜の森の満開の下﹂の. それと相違している部分を確認してみる。戯曲は基本的ストーリーにおいて﹁夜長姫と耳男﹂に依拠してい. るが、耳男と夜長姫の人物造形には、﹁夜長姫と耳男﹂の﹁耳男﹂﹁夜長姫﹂とは異なる面が多く見られる。 ﹁夜長姫と耳男﹂の﹁耳男﹂は、﹁目もくらみ耳もふさがり、叫びたてるわが姿をトキをつくる鶏のよう. だと思﹂うほどの﹁カンシャク持ち﹂で、﹁小心のせいか、覚悟をきめてかからなければ人の顔を見つめ﹂ られず、人から耳のことを言われると逆上するという、不安定で烈しい気性の人物として描かれている。こ. うした性質は、戯曲の耳男にはほとんど見られない。たとえば、夜長姫との初対面においても、この差異は. 16.
(22) 現れている。耳と馬のような容貌を笑われた﹁耳男﹂は、師匠の教えに従い﹁ヒメの顔だけは見つめなけれ. ばいけない﹂と努力するものの、混乱し困窮して、﹁ヒメ﹂の前から走って逃げていってしまう。対して、. 戯曲の耳男は逆上することも逃げ出すこともなく、その後の展開を左右する重要な会話を交わしていく。. また、その特徴的な﹁耳﹂に対する意識にも差異が認められる。﹁耳男﹂においてはコンプレックスの因. であった耳は、戯曲の中では、片耳を失った耳男の﹁片親なくすと、もう片親を大切にしようという感じで、. この片耳はとても大切に思っています﹂というセリフにも見えるように、肉親のように親しみのあるものと して受け入れられていた。さらに、︵その名前からも明らかなように︶耳男が耳に付随する性質を持つもの. として描かれていることを考えれば、戯曲冒頭での﹁目をつぶって、何かを叫んで逃げたくなるけれど目は. つぶれても耳はつぶれない。まぶたはあるけれど、耳ぶたはないから。耳たぶはあるけど、耳ぶたがないか ら。それで桜の粉と一緒に耳から何かが入ってくる﹂という独白なども、単なる言葉遊びではないことがう. かがえるだろう。この後、耳男が両耳を失ったときにほぽ同様の台詞がリフレインされるとこの点はより明 らかになる。. 耳は、なにものをも拒まずに、木羅万象ひきうけて痛く苦しくとも、じいつと、かたつむりの貝殻の中 で動かずにいるこの静寂、このしじま⋮⋮ああ、あの桜の森の満開の下です。そこでは思わず目を閉じた. くなるけれど、耳まで閉じるわけにはいかない。まぶたはあっても耳ぶたはないから. ここに現れてくるのは、全てを﹁ひきうけ﹂る、すなわち受動的なものとしての耳というとらえ方である。. この受動性を耳男の特質として読み替えるとき、次の論考は一考の価値があるだろう︵注㈲︶。. 17.
(23) マナコは、目をえぐり取られて殺される。目隠しをされて殺された早寝姫といい、欄割﹁. への攻撃が組り、し れるが、これは権力の行き過ぎをチェック る機能への萌圧と考えていいだろう。. では、もう一つのチェック機能である﹁耳﹂への弾圧はどうか?天武が﹁桜の森にまぶたと耳ぶた﹂つ. まりマナコと耳男の殺害を命じたにもかかわらず、耳男は逃げきっている。⋮⋮潤﹁. の能動性と﹁耳﹂の受動性は、マナコと耳男の性格にほー当てはまっている。⋮⋮︹一一人の︺対照的な. 行動原理は、マナコが境界線を作る﹁カニ﹂としての役割を自覚しているからとも考えられる。耳男に はマナコのような明確な役割が付与されておらず、クニとオニとの位置関係も曖昧なため、権力に対し. て明快な態度を取れないのではないか。⋮⋮︹耳男が殺されなかったのは︺﹁耳﹂の受動→が逆説的に、 権力への一抗姿勢となっていることを示している。. この論は、登場人物それぞれの役割を国家権力という定点から規定しようとしたもので、本稿の主旨とは. 若干ずれるが、いくつかの類似点を持つ耳男とマナコとの差異を指摘したものとして、後に詳述してみたい。. もう一点指摘しておくべきことは、戯曲の耳男が師匠に成り代わった﹁ニセモノ﹂の名人であることだ。. 夜長の長者に招かれた﹁耳男﹂は、はじめのうちこそ親方の誉め言葉に驚愕するものの、﹁一心不乱に、. オレのイノチを打ち込んだ仕事をやりとげればそれでいいのだ。目玉がフシアナ同然の奴らのメガネにかな. わなくとも、それがなんだ﹂と自らを奮い立たせ、﹁ヒメ﹂の前から逃げ去った後には、﹁ヒメ︵の笑顔ご. を﹁押し返﹂そうと仕事に打ち込み、結果、﹁彫りの気魂、凡作の手ではない﹂と評価されるほどのバケモ. ノを完成させる。いわば、憎しみや怒りといった感情を、タクミの仕事を成し遂げるための原動力として昇 華させえたと も 言 え る 。. 対して、戯曲の耳男にこうした気概は見えにくい。名人と間違われヒダヘの招待を受けた時には﹁もしか. 18.
(24) して、ここは名人への近道?﹂﹁桜の下で、幸運を拾ったのは、この世にオレが、ただ一人だ︵注㈲︶﹂と単. 純に喜び、ヒダ王に腕前の披露を求められても、見様見真似のおかしな行動をとってしまうというように、. ニセモノであることは何度も強調されている。 バケモノを彫り上げた後の﹁耳男﹂は、さらには﹁ヒメ﹂の笑顔をうつしたミロクを彫ろうとする。﹁芸. 本来の三昧境﹂に浸り、﹁オレという人間のタマシイ﹂が乗りうつったミロクと向き合っている今の自分を ﹁すべてに於て立ちまさっている﹂と思う自信︵自負︶は、﹁ヒメ﹂の笑顔の前に揺らぐことはあるものの、. 強く現れてくる。戯曲において﹁ヒダタクミの名人とオレを呼ぶ声﹂を求めてミロクの顔を彫る耳男が、こ. の時点では未だ﹁俗物﹂でしかないこととは対照的である。ゆえに、戯曲の耳男には、蛇の死骸を吊るす﹁ヒ. メ﹂の姿に﹁こんな物を見ておいて、この先なにを支えに仕事をつづけて行けるだろうか﹂と嘆き、﹁ぶら. さがった蛇の死体までがこんなに美しいということは、なんということだろう﹂と、その殺害を決意する﹁耳. 男﹂の︿芸術家﹀としての苦悩は現れてこない︵注㈲︶。 このように、戯曲から立ち上がってくるのは、﹁耳男﹂ほど自負心︵とその裏返しのコンプレックス︶が. 強くはなく、多分に俗物的で小心な耳男像であろう。これはプレテクストとの差異の中でも重要なものの一 つである。. 最後に、もっとも大きな相違として、耳男が夜長姫を必ずしもおそれないことがあげられる。. ﹁夜長姫と耳男﹂の﹁耳男﹂は、﹁ヒメ﹂との初対面から﹁目を放すな﹂という師匠の教えに従うことも. できないほどに混乱し、﹁ヒメの気に入らない仏像﹂﹁怖ろしい馬の顔の化け物を造るために精魂を傾けて. やる﹂と覚悟をかためる。その一方で﹁ヒメの笑顔﹂を怖れ、耳を斬り落とした﹁エナコ﹂ではなく﹁ヒメ﹂. を叩几い、心がひるむときには蛇の生き血やその死骸を欲した。バケモノを彫りながら必死で奮い立たせてい. た気勢も、三年ぶりに見る﹁ヒメ﹂の笑顔に息の根がとまりかけるほどの恐怖に変わり、バケモノが気に入. 19.
(25) つたからと﹁オレを生かしておくヒメ﹂、﹁オレの物を選んでおいて、疫病よけのマジナイにでも使うほかに. 取得もなさそうだとシャアシャアと言うヒメ﹂の﹁本当の腹の底﹂を怖れる。こうした怖れは﹁桜の森の満. 開の下﹂の﹁男﹂が﹁女﹂や﹁桜の森﹂に対して抱いていたものとも近いだろう。もちろん、同じ﹁怖れ﹂. という表現であっても個々の状況での﹁耳男﹂の心理には複数の感情が交錯したことによる差異があるはず. だが、その点を考慮してもなお、戯曲において夜長姫への﹁おそれ﹂が表面化していないことには、明確な. 意図が感じられる。この脚色の意図は後に詳しく見ていくが、﹁耳男﹂にとって、﹁ヒメ﹂への怖れは﹁仕事. の心棒﹂であり、かつ、﹁その怖れがだきしめても足りないほどなつかしく心にしみる時があつた﹂と描写. されることとも関連していくのではないかと考えている。 このように、戯曲の耳男像には大きな、かつ、主要な点での変化が見られる。そして、夜長姫の設定もま た、耳男に連動して変化している。. 耳に関わる属性が強調される耳男に対して、夜長姫には目に関わる言説が多くなっている。﹁︹夜長姫の. 乗った馬車を︺、んでくるのは見えないカ、鬼、である。鬼達は、馬車の飾りのようでもあるが、逆立ちし. たり、そこにいる人々をからかつたりもする。側劉﹂という登場シーンのト書き. からも、彼女が︿よく見える目﹀を持つものとして設定されていることがうかがえる。また、夜長姫は﹁た. だ、じいつと見ているのが好きなだけ﹂で、﹁なんでも見ていると、しまいに、なんでも見えてきて、その うちなんでも見つけてしまうの﹂と耳男に語る。 夜長姫 なにが見える。 耳男 なにも。. 夜長姫 目をこらしてごらんよ。. 20.
(26) 耳男 どこなんです?. 見えていないと思って好き 題していたわね。. 耳男去る。. 夜長姫 見つけたものだけが遊べる、 古代の遊園地よ。. 夜長姫 エンマ. 夜長姫到。. ︹中略︺. ハンニャ ハンニャ思うの、生産することしか考えない人間どもに遊園地の浪費の美学は、わからない わ。. 仕事の青鬼 お金をムダ使いする為にやってくるのに、通し券なんか買って節約するんだから。 ハンニャ バカね人間て。. 仕事の赤鬼 バカだよ。. 仕事の 青 鬼 バ カ だ ! エンマ 大バカヤローだ。. 夜長姫 そう、人間なんかになりたくないのね。 鬼達 ︵しょんぼり︶なりた 死 ほどなりた. 21.
(27) ﹁夜長姫と耳男﹂の﹁夜長姫﹂にも︿見る﹀人としての側面が見られるが、﹁耳男﹂の耳がそぎ落とされ. るのを﹁生き生きとまるく大きく冴える﹂目で見つめ、小屋に吊るされた蛇の死骸に無邪気な笑顔を浮かべ、. 疫病に倒れる村人を高楼から探し求めるといった描写には、おそろしさがつきまとっている。こうしたおそ. ろしさは、﹁男︵山賊︶﹂に六人の女房を殺させ、その光景を見つめる﹁桜の森の満開の下﹂の﹁女﹂の目と 近いだろう。. 対して、引用部分で夜長姫の﹁見つけてしまう﹂鬼は、﹁古代の遊園地﹂に遊び興じつつ人に憧れる、滑. 稽な存在だ。第六場では人から﹁無視﹂され、﹁物語に参加できない﹂という、哀れを誘うものとして描写. されており、いわゆる︿鬼﹀のイメージからは遠いものとして設定されている。これらを考え合わせると、 ﹁目﹂に象徴される夜長姫の一側面には、﹁ヒメ﹂や﹁女﹂の魔性とは違う意味合いがあるのではないだろ うか。. さらに夜長姫のもう一つの特質に目を向けたい。戯曲の冒頭、耳男は桜の森で﹁森びこ﹂と称する鬼女に. 囲まれている。彼女らと耳男が交わす言葉は、﹁桜の森の満開の下﹂で、山を離れようと決意した﹁男﹂と. ﹁女﹂が交わす会話の変奏だ。後に夜長姫に対面した耳男は、﹁その声は、桜の粉と一緒に入ってきた声﹂﹁た. しかに背中越しに耳にした﹂と感じる。つまり、冒頭から︿女口鬼﹀という図式が暗示されている。そして、. ﹁森びこ﹂という表現からもうかがえるように、この鬼女達は、言葉を媒介する精霊や巫女のような︵ある. いは、コロス︵注ω︶のような︶存在として現れてくる。だとすれば、さきほどの図式を︿女”精霊あるい は巫女﹀と置き換えることも可能であろう。. ﹁女﹂に巫女的側面を見ようとする読みは﹁桜の森の満開の下﹂の先行研究にもいくつか見られるし︵注. ⑧︶、﹁夜長姫﹂が見えるはずのない村人の死に様や疫病の姿を見通し、さらなる災いを予見することも、こ. 22.
(28) うした読みに沿っていくものだろう。だが、死や破滅を好み残酷さを見せる﹁女﹂や﹁夜長姫﹂と比較した. とき、戯曲の中で夜長姫が担う︿巫女﹀という側面は、より本質的な意味での巫女に近いものであり、前者 のような怖ろしさとは根本的に異なるものとして描かれているのである。. 以上見てきたように、戯曲においては、小心で俗物的な耳男と残酷さよりも巫女的側面が強調された夜長. 姫とが描かれている。これが戯曲化が行われた際の焦点の一つだろう。そして、この変化は、︿女﹀に対す. る強い憎しみや怖れを顕にしない︿男﹀という、物語の根幹に関わるような変化を支えている。これが二つ. 目の焦点である。ここから、戯曲の中で語られていくのは対立のドラマでもなく、超越者による導きや救済. の物語でもなく、一人の男と女とが出会い、何らかの関係性をつくっていく過程であるという読みが現れて. くるだろう。長谷部浩は、その劇評の中で﹁野田は﹃贋作・桜の森の満開の下﹄で、はじめて、エロスをと もなった女性を登場させたのであり、劇は、その女性の存在そのものが持つカと、男達との綱引きによって. 進行していく︵注⑨︶﹂と指摘している。この指摘の是非にはプレテクストがどのように読まれ、構成され. ていったのかという問題も関わってくるだろう。この点について第三節で検証したい。. 第二節 対構造の重複. ﹁桜の森の満開の下﹂﹁夜長姫と耳男﹂の多くの先行研究は、作品内において︿男﹀と︿女﹀とが対立構 造をなしているという点で、ほぼ共通してきた。というよりもむしろ、その対立構造は当然の前提条件とし. て捉えられ、対立要素として何に注目していくのかが作品研究の一つの切り口となっていた感がある。例え ば、﹁非定住民﹂耳男と﹁定住民﹂夜長姫という図式を中核とした浅子逸男、男性原理と女性原理の対決と. して作品を分析した長田光展、﹁人問﹂耳男と﹁非人問﹂夜長姫との葛藤を読み取ろうとした堀川卓郎、あ. 23.
(29) るいは﹁視線﹂をキーワードとした城野拓郎・加藤達彦などがその好例である︵注⑯︶。. 確かに﹁桜の森の満開の下﹂における﹁女﹂と﹁男一も、﹁夜長姫と耳男﹂における﹁ヒメ﹂と﹁耳男﹂. もともに、性別、社会的地位、性情、生き方などのさまざまな要素によって対立しうる可能性を持った関係. であり、これらの指摘にはうなずける部分もある。しかし、男と女とを単なる対立関係と規定するのはあま. りにも単純であろう。 一方で、明らかに存在する両者の間の対立要素をどのように捉えていくかという問題 を看過することはできない。. では、戯曲において、この点はどのように処理されているだろうか。ここで、戯曲全体を傭磁してみると、. 多くの登場人物が新たに創造されていることに気づく。中でも重要な意味合いがあると考えられるのはマナ. コであり、早寝姫であり、あるいはエナコやオニもこの範疇に属するだろう。もちろん、これらの人物はス トーリーの展開上欠くことのできない役割をそれぞれに持っている。だが、それだけではなく、それぞれを. 夜長姫、あるいは耳男と対比してみたとき、二人の間に想定しうる対立要素の類似形としての側面が見えて くる。. 奥野・由良らを中心にこれまでも指摘されてきたことだが︵注㈲︶、﹁夜長姫と耳男﹂においては、﹁ヒメ﹂. の似姿としての﹁エナコ﹂と﹁耳男﹂との恋物語が1実際には﹁憎しみ﹂の交感という形になったとはい. え1可能性としてはありえていた。それは、﹁エナコの死に首よりも生き首がほしいか﹂と問われ、強く否. 定しながらも﹁うろたえ﹂る﹁耳男﹂の反応からもうかがえる。それに対して、戯曲は以下のように展開す る。. 夜長姫 耳男、あたしカら目をはなさないのは、あたしが憎くて?. 耳男 いえ、珍しい人や物に出会ったらトラクターに足をふまれても、 目をはなすなと師匠が・. 24.
(30) 夜長姫 エナコ. 耳男. ︹中略︺. 今度は、エナコカら目をはなさないのね。. でも、この無礼なお礼が欲しくてミロクをほるのね? そうとだけは思われたくない。. エナコ ︵つぶやき︶あたしを欲しがっているとだけは、思われたくないと思っているわ。. もしかしたら、オレが、あいつを欲しがっていると、あいつに思われるのがイヤダと思っている. 夜長姫 耳男、どうしたの、その冷や汗。 耳男. ことまで、カんぐっているのカもしれない。. まさかあいつ、おれがあいつを欲しがっていると、あいつに思われるのがイヤダと思っているこ. ことを、カんぐったことまで気づいたのカもしれない。. エナコ あいつめ、あたしを欲しがっていると、あたしに思われるのがイヤダと、あいつが思っている. 耳男. とを、あいつがかんぐっているとオレが気づいたことまで椙ったのカもしれないといった自意識 のつみカさねが冷や汗になって流れでるんだ。. 同様の場面で﹁耳男﹂は、﹁ヒメの気に入った仏像を造った者にエナコをホービにやるという長者の言葉﹂. に﹁大きな驚愕﹂と﹁激しい怒り﹂を覚え、﹁タクミの心になりきろうしと﹁エナコ﹂を見つめたが、﹁驚愕. と怒りを抑えた代わりに、嘲りが宿ってしまった﹂のを﹁エナコ﹂に気づかれてしまう。結果、両者は﹁た. だ憎しみをこめて睨み合﹂うことになってしまい、その﹁憎しみ﹂ゆえに﹁耳男﹂の耳は落とされるという. 25.
(31) 展開になっている。だが、﹁ヒメの気に入らない仏像を造る﹂と決めていたのだから﹁この女はオレがもら. う女ではない﹂と考え、それゆえ、﹁怒り﹂や﹁嘲り﹂が湧いてきたという﹁耳男﹂の心理の流れを読めば、. そこに好意の裏返しとしての憎しみを感じ取るのは無理なことではないだろう。 対して、戯曲での二人のやりとりは、無言で﹁かんぐっている﹂ものであり、直接的な交流は見えてこな. い構造となっている。そして、この相違は、残る耳が切り落とされるときも同様である。このように、戯曲. では、エナコと耳男の直接的な感情の交流は見えにくくなっており、二人の結びつきは弱まったと言えるだ. ろう。エナコと耳男が対峙しているはずのシーンでさえ、耳男が直接に言葉を交わしているのが夜長姫であ ることに注目すれば、﹁夜長姫と耳男﹂との差異は明らかである。. 同様に、男女の関係を成立させうるものとして描かれていた対構造が、オオアマと早寝姫である。次の引. 早寝姫. とはいえ勝利のあかつきは、お前さんの部屋にもさしこむんだ。. あたし恋を知って盲目になったはずなのに、あなたの嫌な諺が見えるのはなぜ?. 用は、身分を偽っていたオオアマの正体が明かされた直後の場面である。. マナコ. オオアマ 確かに、ハヤネ姫、私が新しいクニをつくったあかつきに、必ずや父君からもことほぎいた. マナコ. 早寝姫. 勝利のあかつきなんて興味がないわ。. こちらがミカドのあかつきに、あんたは皇后1しき光だ。. どういうこと?. だき、その下に結ばれましょう。. 早寝姫. あカつきは、どうせ眠っているもの。あたしの恋は、 盲の盲導犬。. オオアマ どうして。 早寝姫. 26.
(32) オオアマ. 早寝姫. え?. これ以上、くらい言はないわ。. 戯曲のみに登場する早寝姫は、その名が表すように夜長姫の陰画のような存在として設定されている︵注. 圃︶。両者の差異は、この後、﹁桜の木の下﹂に﹁メカクシをしたまま﹂入っていき、﹁鬼達﹂によって首に綱. を巻かれて吊るされるという早寝姫の最期にも暗示的に働くであろう。﹁よく見える目﹂を持つ夜長姫に対 して、﹁恋を知って盲目になった﹂早寝姫は、心を隠したオオアマの﹁トリック﹂を見破ることができず、. わけもわからずに殺されていく。結果として、﹁恋する者たち﹂として描かれてきたオオアマと早寝姫が、. 実際には互いを理解しないまま破綻していく関係でしかなかったことが、明らかにされていくという構成に なっているのだ。. 戯曲において、このような二組の男女の関係が描かれていったのは何故だろうか。 一つには、耳男と夜長. 姫の関係と対照していくことで、そのありようを照らし出していく証明材料とするためだとは言えないだろ うか。. さらに目を転じていくと、戯曲に登場してくるすべての人物が、同様の意味で夜長姫と耳男の関係1そ. れらは、﹁桜の森の満開の下﹂﹁夜長姫と耳男﹂の︿女﹀と︿男﹀から想定される様々な対立要素であり、例. えば﹁目﹂と﹁耳﹂、﹁貴︵聖ごと﹁賎︵俗物ご、﹁支配﹂と﹁被支配﹂、﹁可視﹂と﹁不可視﹂、﹁女性原理﹂. と﹁男性原理﹂などであるーと対照しうる対構造を持っていることが見えてくる。. 戯曲において新たに創造されたマナコにいたっては、より複雑な対をなしている。ニセモノの名人である こと、俗物であること、壬申の乱の後、ヒダ王家の側に立って行動していくことなど、耳男との類似点は多. い。追い剥ぎのついでに名人を殺害するという登場場面からは、﹁桜の森の満開の下﹂の﹁男︵山賊ごとの. 27.
(33) 類似性もうかがえ、その激しい気性や言動の荒々しさも含めて、プレテクストに現れる︿男﹀の中から耳男. に付与されなかった側面を抽出しているようにも思える。しかし、彼にもまた﹁俗物のマナコほど世間の裏. がよく見える﹂﹁オレのマナコは歴史の裏窓﹂といった﹁目﹂に関わる台詞が多く見られ、その点では耳男. との差異が強調され、むしろ夜長姫に近いともいえるだろう。それでいて、夜長姫との関係性を考えるとき. には、さまざまな面で対極に位置している。つまり、耳男とも夜長姫ともある点では類似し、ある点では際 立った差異を持っているのだ。. こうした対構造の重複は、大きく二つの意図によるのではないだろうか。 一つは、夜長姫と耳男に見られ. る対構造を、他のそれと対照することでプラス的側面を際立たせていくことであり、もう一つは、類似した. 対関係を作り出すことで、﹁夜長姫と耳男﹂﹁桜の森の満開の下﹂において︿闘争﹀的であった夜長姫と耳男. の対構造を、︿差異﹀の構造へとぼかしていくことである。このように考えると、戯曲における他の脚色ー 例えば、耳男が夜長姫をおそれないことや、夜長姫の残酷さが薄められていることーとの平灰も合ってく るだろう。. 第三節 戯曲に前景化してくるもの. 前節で取り上げた脚色の意図は、すべて一つの方向性を示していると考えられる。すなわち、他者を理解 しうる精神性を持った︿男﹀と︿女﹀という人間像を規定し、闘争を伴わない二人の関係性を描くという方. 向性である。これまでの先行研究で見えてくる︿女﹀は、︿男﹀にとって恐ろしい魔性であり、両者の間に. 親和的な人間関係は想定しがたい。しかし、次のような指摘は示唆的である︵注㈹︶。. 28.
(34) 一九三九年に書力れ. 安吾は、ジロリの女にどうしても抵抗を感じるという思いと、ジロリの女にどうしても一抗を感じる 気持という二律背反を母親への愛憎をつうじて につけてしまったのだろう。. していない。これが一九四七 の﹁桜の木の満開の下﹂、 五二年の﹁夜長姫と耳男﹂にな. た﹁紫大納言﹂では、まだこの尋粋ジロリの女は、あわれに美しいだけであって、ジロリの女特有の恐 るべき →は. ⋮︹﹁夜長姫と耳男﹂の結末 ると、この世のものなら 美女が恐ろしい 性をもって現れるのである。・. には︺安吾の亡き母に対する愛憎が美しい結晶をとげているように感じら れ る 。 自分に対してあくまで. 邪険であった母。その母にあくまでも始末に終えない餓鬼として抵抗した 自 分 を 肯 定 す る 気 持 と 、 そこ. にやはり深い罪を感じた気持とが、ここでは一つの和解に、しているように思われる。. また、兵藤正之介は、梶三千代との結婚︵昭和二二年︶が、安吾の女性観に変化の起こる転機で、ここで. 安吾は﹁魂は比類なく寛大で、何ものに対しても、悪意が稀薄﹂︵﹁我が人生観﹂︶な女性にはじめて出会っ. たとしている︵注回︶。こうした女性観の転換が直接に現れた作品として、兵藤は﹁青鬼の揮を洗う女﹂を挙. げているが、執筆時期から考えて、同様の変化は﹁夜長姫と耳男﹂にも反映されていると考えられる。. こうした観点も踏まえて、いくつかの作品群に見える安吾の内的経過を読み取ろうとした試みに鬼頭七美 による以下のようなものがある︵注㈲︶。. ﹃風博士﹄は昭和六年、﹃紫大納言﹄は昭和一四年、﹃桜の森の満開の下﹄は昭和二二年に書かれてい. る。このユニークな結末の着想が、﹁風﹂、﹁水﹂、﹁虚空﹂と変遷を遂げ、同一のモチーフを扱いながらも. 笑いや遊びの滑稽さから印象深い深遠さへと、そこに託された意味合いの奥行きが拡がっていくのを看. 取することができる。⋮⋮︹﹃夜長姫と耳男﹄は︺﹃紫大納言﹄や﹃桜の森の満開の下﹄と同じ﹁説話小. 29.
(35) でありながら、結末に同一のモチーフが見られず、主人公の耳男が夜長姫を殺す場面で終わってい. −前 ︹桜の森の満開の下﹄︺ではその後二人とも 虚空﹂に消えてしまうのに対し、後者︹夜. のうちに内在化された。. 欲の対象に過ぎ. “ 、. 桜の森の満開の下﹄では山貝に創造意欲を芽生え. されていた﹁ ﹂は、次第に女に形象化され、最後には男が体現していた﹁生﹂によって克服され、﹁生﹂. て芸術家たりえ、﹁死﹂を自己のうちに取り込むことができたのである。⋮⋮旨. 行為は、彼が真の芸術家になるための必要不可欠な階梯だったのである。耳男は夜長姫を殺してはじめ. は 、山 て 、 退屈な目常生活からときどき顔を出す﹁死﹂としてイメ!ジ化され、夜 賊 の 出 会 う 女 に お い 長姫に至って日常生活を破壊する﹁死﹂となったのである。⋮⋮︹山賊と比べて︺耳男の自覚的な殺人. を備 え 、 抗 し が た い 力で男に迫るということである。⋮⋮天女に付加されていた恐ろしさ︵冷たさ︶. 次 に 女 性 像 を 見 て み る と 、 女性像に共通しているのは、美しさと恐ろしさという二つの相反する要素. ることができる。. でしカない。ところが、 夜長 と耳男﹄において美H芸術は耳男の内部で生きる源泉となっていると見. るものとなっている。しカし、美U芸術はいまだ大納言と山貝にとって外的な得 の知れないもの. 前に具体的に れてはいるが所. いるが、男’像はこの制f年代順に変遷を、げている。つまり美”芸術が、 紫大納言 では大納言の眼. 各々の作品は﹃紫大納言﹄﹃桜の森の満開の下﹄、 昭和二七年の﹃夜長姫と耳男﹄という順に書かれて. 剤。. 長と耳男︺では登堺人物が諺を消す甥面がない、 そこには当、描、主題の変更があったことが推測され. o 一. ﹂うした示唆をもとに、この三作品に見える変化を男女の関係性という点から捉え直すと、次のような構. 30. る説 さ.
(36) 造が見えてくる。﹁紫大納言﹂において、物語は﹁男︵ロ大納言ごの消失ほ視点人物の死という形で終結し. た。それゆえ、その後のストーリーが語られることはなく、︿男﹀と︿女﹀は互いを理解しないままである。. つづく﹁桜の森の満開の下﹂を見ると、結末近くで﹁女﹂も﹁男﹂もともに︵多少の擦れ違いはあるものの︶. 相手を自らの一部のように感じ、精神的により近づいていく可能性を見せていた。しかし、﹁女﹂を鬼女と. 見た﹁男﹂によって﹁女﹂は死んでいき、残された﹁男﹂も﹁虚空﹂へと変じ消えてしまう。ゆえに、︿男﹀. と︿女﹀は本質的な理解をしないままに物語は終結していく。ところが、﹁夜長姫と耳男﹂には大きな変化. が見られる。﹁ヒメ﹂は死の間際に﹁耳男﹂に言葉を残して死んでいくし、﹁耳男﹂は気を失っただけで消失 することなく結末をむかえる。つまり、︿女﹀から何らかの影響を受けた︿男﹀による、その後のストーリ ーの可能性も残されていると読むことができるのだ。. このように見てくると、安吾は作品内において、︿和解﹀しうる男女、︿意思を疎通しうる男女﹀の関係を 描き出そうと志向していたと考えられる。あるいは、少なくとも戯曲を執筆した野田はそのように安吾作品 を読み、戯曲化したのではないだろうか。. この視点に立って、原作と戯曲のいくつかの場面を比較してみる。. ﹁夜長姫と耳男﹂での﹁ヒメ﹂との対面において、﹁耳男﹂は二心不乱にヒメを見つめなければならな いと思った﹂が、いつのまにか﹁ヒメのうしろに広々とそびえている乗鞍山﹂に気を取られる。そして、耳. のことを笑われ﹁逆上﹂し、﹁混乱﹂した﹁耳男﹂は、﹁ヒメ﹂の前から走って逃げていってしまう。該当部 分が、戯曲では次のように描かれる。 つくづく夜長姫、耳男の長い耳をみて。. 31.
(37) あつけにとられて、皆な大笑い。鬼も大笑い。. 夜長姫 ︵耳男を見て︶おかしな、お耳。. 耳男 あの。. たしカに背中越しに耳にした。. あたしの声は、おかしなお耳の恋人なの。. その声は、桜の粉と一緒に ってきた声。. 夜長姫 なあに? 耳男. 夜長姫 耳男. このように、戯曲の耳男は、侮辱されたことよりも夜長姫の声と桜の森で出会った鬼女の声との類似性に 気を取られており、﹁逆上﹂することはない。. また、初対面で﹁馬の顔にそッくりだと云われ﹂たときから、﹁ヒメの気に入らない仏像を造るために、. いや、仏像ではなくて怖ろしい馬の顔の化け物を造るために精根を傾けてやると覚悟をかためていた﹂﹁耳. 男﹂に対して、戯曲の耳男は、両耳を失ってはじめて、夜長姫への怖れを見せる。耳男は、﹁ひるんでしま いそうな夜には蛇をとり、ひっさいては生き血をしぼ﹂って、﹁イノチが宿っ﹂た化け物を彫ろうとする。 しかし、この後も、夜長姫への憎しみはあまり見られない。それどころかむしろ、二人の交感を垣間見せる 場面も見られる。. 例えば、次のような場面だ。夜長姫とともに高楼に上がった耳男は、姫から﹁わからないうちにときめい ていること﹂があるかと尋ねられ次のように答える。. 32.
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