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太宰治における神話『お伽草紙』の探求
保田 恵莉
(姫路獨協大学)
第二次世界大戦下、言論統制の厳しい、文学不毛と呼ばれた時代において、太宰は多くの作品を発表し続 けた。『お伽草紙』はその代表作である。太宰は、弱者である子どもや、何も無くしてしまった母親と幼子 に対し、この物語を通し、また、絵話ができる話を伝え、優しさや思いやりを訴え続けた。太宰の瞳は敗戦 に向う異常な状況の中に、その底に潜む人間の永遠の本質だけに注がれる。社会も政治もそして心理さえも 捨象され、性格、宿命など人間のどうにもならない不変の部分がテーマにとりあげられた。『お伽草紙』は、 子ども相手の誰でも知っている昔ばなしを題材にし、しかもユーモラスな口調でふざけながらも、人間の宿 命の深淵を見つめた深みのある作品であると言える。人の創り上げるものの中でも「よくわからない部分」 それが、「神話」とつながるものである。本研究ではその点を探っていった。 キーワード:お伽草紙四編 太宰治の神話 講談社の絵本 はじめに 「お伽草紙」についての太宰治研究の代表的なものとしては、『お伽草紙の「瘤取り」と童話』、『お伽草 紙の「浦島さん」と童話』、『溺れる醜男―「カチカチ山」と童話―』、『お伽草紙の「舌切り雀」と童話』の 4 件があげられる。いずれも「童話(お話)」の存在価値を知ることができる。本稿でのテーマ「太宰におけ る神話」としての先行研究では、二つの作品を論文にまとめた。 一つ目は、「津軽」〝太宰治―津軽の自然と太宰の心情―〟である。「津軽」を読む中で、読者には一種爽 快な生の響きが聞こえてくる。明るさがあるわけではないが、太宰がしばしば口にする「駄目な人間」の、 その故に自分を外側から見ているようにぼんやりとした薄明の灯。その太宰の心情を読み取る中から、故郷 と呼ばれる地、空間を対象として国民国家・日本への神髄にまで読者を導こうとした。太宰の土地の風韻豊 かな固有性を故郷に再発見しようという眼差しが、それ自体を目的としそこに留まり、あるいは地方の固有 性晶景化していくような動きは封殺されている。それは、8 世紀、日本における『風土記』が、律令国家体 制の完化をめざし、具体的には諸国貢献物のための物産把撞によって、地方を領有していったこととどこか 響き合う。『津軽』という作品が、母性においては、その欠落を埋めようと試み、父性においては、家父長 権の枠を壊し始める出発点であった。自己の中に稀薄な存在でしかなかった、母性を回復させ、父性を家父 長権とは別のものとして把握し、そうすることによって、自己の存在の根源を確認しようとした、そのため に書かれた作品が「津軽」であり、昔話「お伽草紙」との背中合わせ(明暗)に出来上がっている。 「津軽」は、昭和19 年 11 月、小山書店より『新風土記叢書』第七篇として書き下ろしの形で初版刊行さ れた。刊行されるに至った経緯は、生きているうちに、一度、自分の生まれた地方の隅々まで見ておきたか った太宰自身が記されている。5 月 12 日から 6 月 2 日にかけて、約 3 週間あまりの間、太宰は津軽半島を 一周してこの作品を書いた。 二つ目は、作品「竹青」を先行研究に取り上げた。ここでは〝太宰治―竹青の文芸的要素について―〟探 っている。「竹青」は「お伽草紙」同様「和漢の古典に想を重ねる面白み」がある。昭和 20 年 4 月 1 日発行 の『文芸』第 2 巻第 4 号(河出書房刊)の「作品特輯」欄に発表された作品であり、太宰は「創作であるこ と」を主張している。戦後、新紀元社刊『薄明』に初めて収録され、のち、『花烙』(昭和 23 年 1 月 25 日、 思索社刊)に再録された。23 このように「文学的要素」「創造的視点」という観点から、太宰の個性的分野とも言える「創作力」が浮 かび上がってくる。それは、孤独である中、「自立」し、何かにとりつかれたように創作を「見えないもの」 から「見えるもの」へと変換していった太宰自身への分析にも繋がっていった。 1. 問題と目的 太宰治(本名:津島修治 1909 年(明治 42 年)6 月 19 日 - 1948 年(昭和 23 年)6 月 13 日)が日本の 昔話などを題材に執筆した1945 年に刊行『お伽草紙』という短編小説は尊さをもち続けながら歴史のなか で密やかに存在している。『お伽草紙』は、敗戦直後の昭和20 年 10 月筑摩書房より書き下ろし小説として 刊行された。戦争末期の昭和20 年 3 月、「前書き」にもあるよう蓮日の空襲のさなか執筆にかかり、敗戦の 直前の7 月に完成した。物語は、「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切り雀」と続く四つの作品で構成 されている。 「お伽草子」は、太宰が、第二次世界大戦の中、防空壕の中で子ども達に読んで聞かせる「ムカシムカシ ノオ話ヨ」という絵本を元に練りあげた作品である。太宰は兄弟の内で最も聡明で、学校の成績は常に優秀 を修めていた。なかでも文章を得意としていた彼は、青森中学に入ると「花子さん」と題するユーモア小説 を書き、同級生を笑わせた。津軽の実家から余裕のある仕送りが送られていたということも手伝い、彼は級 友や弟、寄宿先の若夫婦などを誘って雑誌の創刊を試みた。また、このときには生涯師と仰ぐ井伏鱒二の『山 椒魚』のもとになった『幽閉』を読み、太宰を文学の道へと奮い立たせた。さらに太宰を文学の道に誘った もう一人の重要な人物として芥川龍之介が挙げられる。 太宰は秀才であったが、それと同時に実家からの期待は大きく、エリートの道を指示されるようになって いた。家族に認められたい一心から彼は懸命に努力をするが、一方でもうやめてしまいたいという気持ちが 膨らんでいた。兄からは、文学は馬鹿のやることなどと言われており、勉強の合間に息抜きとして文学作品 に触れていた彼は、反動からより一層、文学の世界に惹かれていく。このころから、家族に対する疎外感や 緊張感を強く感じ始めるようになる。 恐ろしい戦争の中であったが、子ども達は、防空壕の中で瞳を輝かせて「お伽草子」に心を寄せた。この ようにかけがえのない安らぎの時間と空間を与えたものが「お話」であった。 研究方法においては、文献を基に太宰の創作した「お伽草紙四編」と「時代背景」からテーマを探求して いくこととする。また、講談社の絵本を調査し、書誌・作品概要より「お伽草紙」がこども世界にどのよう な影響をもたらしていったか明らかにする。作品における「酒」、「狸の穴」「防空壕」など、太宰が神の力 を借りて描こうとした「虚」や「酔」は、それぞれに意味を持つ。 本稿では、日本の昔話を「竜宮」「雀のお宿」などの描写を通して、教育的視点から、『お伽草子』が太宰 の神話として、構築されている点を洞察していきたい。 2. 研究の背景 (1) 「戦時体制と国民化」 有山輝雄「戦時下の宣伝と文化」所収 現代史料出版 2001 年 5 月「カチカチ山」で見られる「言葉」 の空虚さ、徹底的な「言葉」の空回りは、「浦島さん」から続く、「言葉」による他者との隔たりによって他 者とは理解しあえない絶対的な信頼関係を築くことはできないことを示している。それは同時に、太宰の生 きる現実世界の「言葉」から感じとる美のイデオロギーを提示した「言葉」そのものも示している。美のイ デオロギーを提示した「言葉」とは、「玉砕」「大和魂」といった、当時の日本社会に蔓延していた戦争に対 する国民の姿勢を示す「言葉」と、その背後に戦争という概念を背負った数々の「言葉」を指す。「玉砕」 「大和魂」、政府の提示する美のイデオロギーは、パンフレット・ビラ・新聞といった印刷メディアから、 朝礼・公演といった放送メディアまで、当時のあらゆるメディアからそれは溢れていた。
24 昭和12 年 7 月の盧溝橋事件をきっかけとして起きた日中戦争以後、それらは一層強化され、例えば新聞 では「立派な覚悟で華々しい戦死十川部隊の四勇士」「死を以て断つ導火線」「爆発直前万歳」といった、国 家や天皇のために命を捧げることを美事とした記事が報じられることで、国民を戦争に駆りたてていた。戦 争を美化する言葉であった。 戦時下の時代では、現実と日々報道される死を美しく飾る言葉との間には大きな差異が生じていった。 (2) お伽草紙と講談社の絵本 「講談社の絵本」は、1936 年 12 月に発行された。講談社の絵本は,それまで絵雑誌中心であった日本の絵 本出版界にはじめて単行本形式の物語絵本を持ち込んだことで高く評価されている。「講談社の絵本」は、 絵本における「絵」の重要性を強調し,著名な画家に執筆を依頼していた。 赤本『兎大手柄』の絵を描いた尾竹国観(1880~1945)は、文部省の国定教科書にも挿絵を描き、「世界お 伽噺や「世界お伽文庫」の挿絵等でも活躍している。「講談社の絵本」は、それまでの絵雑誌や赤本的な絵 本のように読み捨てにする絵本だけではなく、繰り返し、繰り返し、「絵」を楽しむ絵本であった。それだ けに「講談杜の絵本」の子どもに与えた影響力は,功罪ともに少なかったといえる。 現代版と比較すると、狸・兎の動きがゆっくりと描かれている。そのため、残酷さの受け止めが、時代版 の方が緩やかな印象がある。「言葉と絵の融合」については、読者の好き好きであるが、子ども(5 歳児)に よっては、時代版を好み、何度も見入ることがある。色感が優しく絵が緻密であるため、「反復」の描写の 面白みがあるのか、それも一つの個性と捉えた。 時代の流れと共に少しずつ変化してきた〈講談社の絵本〉については、次のようである。ここでは「かち かち山」を抜粋して比較している。 ① 講談社の絵本(昭和 39 年)「クラウン版」 ②講談社の絵本(昭和 42 年)「ワイド版」 ③ 講談社のお話絵本館(平成元年)「大型本」 ④新・講談社の絵本(平成 13 年)「単行本」 (舌きり雀と 2 シリーズ) 絵・森国ときひこ 文・久保喬 絵・松谷みよ子 文・西村繁男 作・尾竹國観 絵・滝原章助 文・浜田廣介
25 講談社の絵本『新・講談社の絵本(平成13 年)「単行本」』は、今年度 2 月の「子育て支援」の絵本読み 聞かせの後で、保護者から「4 歳 2 ヶ月の息子に図書館で借りたことがある」と、聞いた。「子どもに媚び ず、徹底的に、残酷に描かれている点」、また、いろいろな描写に親は眉をひそめたくなってしまう部分も あるのだが、それはそれで生き生きとした感じが伝わってくる。また、絵の描写が、物語をリアルな感じと いうよりは、楽しいフィクションという感じにもっていってくれるため、残酷な場面で親は救われる。 3. 書誌と作品概要 〈書誌〉『お伽草紙』新潮文庫(解説:奥野健男)1931 年、収録作品は、・盲人独笑・清貧譚・釈諸国噺(全 12 編)・竹青、お伽草紙「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切り雀」である。 〈作品梗概〉(1)「瘤取り」 こぶとりじいさんは、「日本昔ばなし」で紹介されたストーリーでは、典型的な「欲のない者が得をし、 欲張りが損をする」となっている。「あるところに、頬に大きな瘤のある隣同士の二人の翁がいた。ふたり とも大きな瘤には困っていたが、片方は無欲で、もう片方は欲張りであった。ある日の晩、無欲な翁が夜更 けに鬼の宴会に出くわし、得意な踊りを披露すると、鬼は大変に感心して酒とご馳走を翁に勧め、翌晩も来 て踊るように命じ、明日来れば返してやるからと翁の大きな瘤を「スポン」と、傷も残さず取ってしまった。 それを聞いた隣の欲張りな翁が、自分の瘤も取ってもらおうと、夜更けにその場所に出かけると、同じよう に鬼が宴会をしていた。隣の翁も踊りを振る舞うが、鬼が怖くて腰が引けてしまう。それを見ている鬼は、 どうにも踊りが気にいらず、とうとう怒ってしまい、隣の翁から取り上げた瘤を欲張りの翁の頬に押し付け てひっつけると去ってしまう。それから、無欲な翁は、邪魔な瘤がなくなり清々するのだが、欲張りな翁は、 重い瘤を二つもぶら下げて難儀をすることになった」。 〈作品梗概〉(2)「浦島さん」 浦島太郎は、日本各地にある竜宮伝説の一つである。同時に、日本のお伽話の一つであり、その主人公の 名前でもある。「丹後の国に浦島という者がおり、その息子で、浦島太郎という、若者がいた。太郎は漁師 をして両親を養っていたが、ある日、釣りに出かけたところ、亀が網にかかった。亀は万年と言われるのに ここで殺してしまうのはかわいそうだ。「恩を忘れるなよ」と逃がしてやった。数日後、一人の女人が舟で 浜に漕ぎ寄せて「使いとして太郎を迎えに来ました」と言い、姫が亀を逃がしてくれた礼をしたい旨を伝え た。太郎はその女人と舟に乗り大きな宮殿に迎えられる。そこで姫と3 年暮らしたが、太郎は残してきた両 親が心配になり帰りたいと申し出た。姫は「実は私は太郎に助けられた亀であった」と明かし、玉手箱を手 渡した。太郎は玉手箱を受け取り、以前に住んでいた浜にたどり着くが、村は消え果ていた。ある一軒家で 浦島何其の事を尋ねると、近くにあった古い塚がその太郎と両親の暮だと教えられる。絶望した太郎は玉手 箱を開けた。三筋の煙が立ち昇り、太郎は鶴になり飛び去った」。 〈作品梗概〉(3)「かちかち山」 太宰治の「お伽草紙」では、かちかち山を新解釈で書き直し、美少女と男の宿命物語としている。兎を十 代後半の「潔癖で純真」、それ故に「冷却」とも言える美少女に置き換えた。対する狸は、兎に恋をしてい るが故に、どのような目にあっても兎に従い続ける愚鈍大食な中年男として書かれている。兎は、あだ討ち という名目で生理的嫌悪を感じている狸を虐待し、狸は兎の歓心を得たいばかりに嫌われるが、狸はただ従 い続ける。「惚れたが悪いか」を言い残し、溺死し、水底に沈む男を見送る美少女が、汗を拭いながらも美 しい風景に微笑みを浮かべて終わるという、少女の純粋さ故の悪意と、恋する男の惨めさを描いた。
26 〈作品梗概〉(4)「舌切り雀」 さるかに合戦やかちかち山など、多くの民括の類がそうであるように、この話も本来言い伝えられて来たも のは、残酷でグロテスクな内容を含んでいる。「お婆さんに助けられ、可愛がられていた雀は、お婆さんが 障子の張り替えに使おうとしていた糊を食べてしまい、舌を切られて逃げ出す。その雀をお婆さんが追って 山へ行くと、雀たちが恩返しにご馳走をしてくれたり、踊りを見せてくれたりした。お土産として、大小二 つのつづらのどちらかを持って帰るようにと言われ、お婆さんは「小さい方」を持って家に帰り、中を見て みると小判が詰まっていた。その後、欲張りなお婆さんが、大きなつづらをもらおうと省の宿に押しかけて、 「大きい方」を強引に受け取って、帰り道で開けてみると、中には妖怪や虫や蜘蛛や蜂や蛙や蛇が詰まって おり、お婆さんは腰を抜かし、気絶してしまった」。 以上のことから、太宰の『お伽草紙』に対し、読み取っていくと、太宰特有のオリジナルの作品『お伽草 紙』の楽しさ、面白さに触れることができる。「絵本」を参考にすることで、「昔話」としての「絵本」の中 から伝わることと、太宰の『お伽草紙』より伝わる「話の比較」や「神話的部分」に入り込んで考察してい った。 4. お伽草紙と神話との関連性 お伽草紙は、日本人の誰もが知っている民話・御伽話の中に込められた作者独特のユーモアに富んだ解釈 や語り口調が特徴とされるが、大胆で自虐的な空想が、胸に突き刺さるようでもある。太宰の深い人間洞察 を反映しているようでもある。また、「お伽草紙」4 篇は内容の上で「起承転結の形をとっている。「舌切り 雀」の主人公が憎むべき現実からひと時脱出し、ユートピア的空間における至福を体験するのに対し、転に あたる「カチカチ山」にはユートピアなどはなく、酷薄な現実だけがある。その意味では、狸が体験するの は一種の逆ユートピアであり、他の主人公たちがそこから逃亡した現実そのものを拡大してみせたものだと もいえるだろう。物語は、作者(語り手)が少女の「狸さん、可哀想ね」という思いがけない「放言」に「暗 示」を得て展開されるのだが、見方によってはこの狸の行為は「正当防衛」であり、憎まれ、仕打ちをうけ るようなことはしていない。狸仲間でも風采あがらず、ただ団々として、愚鈍大食の野暮天であるというだ け に 過 ぎ な い 。 そ れ は い わ ば 狸 の 存 在 そ の も の の 罪 と い う 他 は な い 。 こ の 狸 こ そ 、 永遠に許されない生き物である。対して、兎はいわば正統的な人間の非情さ、合法的な強者の理不尽さを象 徴しており、「人間失格」の大庭葉蔵がそうであったように、太宰という物語の主人公にとって他者とは、 しばしばこの兎のように無慈悲なものと映る。「カチカチ山」を読むものは、「人間失格」の世界を、連想す る。「「人間失格」のなかに書かれていた「自分には、人間の女性の方が、男性よりもさらに数倍難解」とい うような「女性不信」が、実はその裏に強い母性思慕を秘めていた1)」ように、兎は乙姫や小雀のお照さん の裏返しであり、それを通して理想的な女性への想いが逆説的に語られている。 一方、作者(語り手)は「「わが親愛なる兎に、純真ならざる37 歳の男性、狸」を重ね、人間の卑小性、 中年男の悲しい弱点を被虐的に措きながら、それを容認し、許しているようにみえる2)」。これは、「全ての 男性には、善良な狸がいつも溺れかかってあがいている」ことを知っているからである。このことから「竜 宮」も、「雀のお宿」も、外的現実から離れた母の胎内であるような「虚」であり、見えないところの「穴」 であると言えなくはない。 (1)
「
瘤取り」について 「ムカシムカシノオ話ヨ ミギノ ホホニジャマツケナ コブヲモッテル オヂイサン」このお爺さん は、四国の阿波、剣山のふもとに住んでいたのである。というような気がするだけの事で、別に典拠がある わけではない。もともと、この癌取りの話は、宇治拾遺物語から発しているものらしいが、防空壕の中であ27 れこれ原典を詮議する事は不可能である。 大人たちから「蛇にいたずらをすると、怪我をするよ」とか「彼岸花を家の中に置くと火事になる」など と教えられた昔、近所の腕白小僧が大人たちのいうタブーを犯してわざと蛇を棒でいたぶるのを、興味と畏 れの気持ちで見守ったものだ。中にはそんなことは迷惑だといってのける利発な子どももいたが、子どもは 大人たちの教えによって見えない世界が実在すること、実在するとは言い切れないいまでも、それが在るか ないか、懐疑を抱く心を与えられた。謎を解くのはまかせられていて、大人たちはそれに対する解釈や説明 などしてくれなかった。童話や民話が面白かったのも、このような目に見えない世界、超自然の世界に、そ こでは出会えるからであった。 日本の昔話の中では鬼や幽霊や神様、西洋では魔法の世界などが私達の日常の世界をゆさぶる。童話や民 話は見える世界から見えない世界への通路であり、それを通して見えない世界を見ようとする意識を育て想 像力を豊かにし、それが現実世界を創造する力を与えてくれる。やがて子ども達は、「瘤取り」の作品は「お にぎりころりん」と同じように大好きな話であることに改めて気がつく。それは、「鬼」という非現実の世 界があり、おにぎりの転がった穴の中に現実とは全く違った世界が存在する不思議が広がっているからであ る。「桃太郎や「花咲か爺さん」の話が明るい昼の世界の出来事に対して、「こぶとり爺さん」は夜の闇の世 界であり穴の中の世界である。その現実とは異様でありたち切れているところが、受け手の空想癖を満足さ せてくれたのかもしれない。 「こぶとり爺さん」は平凡社の百科事典によると何を根拠にしているか明らかではないが日本の五大民話 の一つに入っている。また、1973 年から 75 年の日本切手の民話シリーズの 7 話の一つに入っており、日 本民衆に親しまれ愛されてきた民話の一つである。この民話の最も面白いところは「鬼に食われるぞ」とか 「鬼に金棒」とかいわれて、「鬼は強くて恐いもの」という観念を抱いている子どもたちがそれとは全く違 う鬼に出会うところである。お爺さんの踊りに魅せられた鬼が何も役に立たないこぶを大切そうに質にとる というところが何ともユーモラスであり、恐い鬼はここでは間の抜けた愛すべき存在になってしまうのであ る。鬼にとってこぶは踊りの上手なじいさんそのものであり、爺さんのシンボルなのである。 「宇治拾遺物語」にある「瘤取り」も同一であり、こぶを取ると言ったとき、お爺さんは「これだけは大 切にしているものだからかんべんしてくれ」と言う。それを大勢の鬼が追いかけて行って取るといったもの で、一層ユーモラスである。 何も役に立たないものや一般に醜いと思われているものが昔話や童話の中では宝になったり福をもたら したりするが、その発想の転換そのものが面白い。それらは、人間の常識に固められた眼を新しく蘇生させ、 現実を見直す心を育てている。 (2)「浦島さん」について 浦島太郎が竜宮城で過ごした日々は数日だったが、地上ではずいぶん長い年月が経っていた。尚、浦島太 郎のその後については文献や地方によって諸説はあるが、定説はない。「浦島太郎」という人は、丹後の水 江というところに存在した。浦島について詳しく聴いたことはないが、「浦島」よりも「亀」の話をする者 が丹後には多く、太宰の話に登場する「亀」は、実は「赤海亀」であった。それから、海については、人々 に神話と語られる砂の鳴る「琴引浜」という京丹後市網野町の先の海が存在する。浦島の「亀」の登場を思 わせる浜辺である。 昔むかし、地域には、いくつもの顔があった。人々の「暮らし」が見え、異年齢集団の子どもたちが群れ をなして遊んでいた。近所に、小さな工場や製造所があると、「物」をつくる大人たちの姿が、なんとはな しに見えていたものだ。木を切ることも、靴を直すことも、魚をおろすことも、赤ちゃんが生まれることも、 お年寄りが死ぬことも、「知っている」人間関係の中で、見たり、味わったりしてきた。郵便や、漁師も、 紙芝居のお爺さんも、馴染みの人々であった。そして、そういう人たちに見守られて、子どもたちは遊び暮 らしていた。子どもたちが群れをなして遊ぶこと、大きい子も小さい子も、入り乱れて遊ぶこと、それがど
28 んなに子どもたちにとって大切なことかは既に論じ尽くされてきているが、太宰の「浦島さん」の話にも時 代の中の子どもの姿が見えている。 子どもは、遊びを通じて、人間関係を学び、創造力を養い、感性を磨いていく。子どもが遊んでいる姿に は、そうした意義づけを越えて言葉にはおさまりきらない何か、生きることそのもの、エネルギーそのもの、 とでもいうべきものがある。しかし、作品では、言葉のない世界である竜宮において、浦島は「無限に許さ れているという思想」を生まれてはじめて持つ。現実世界では持ち得なかったこの「無限に許されている」 という状態は、太宰が浦島をとおして求めていた現実には存在しない他者との絶対的信頼関係状態を示すも のであると考えられる。この「無限に許されている」状態は、いまだ「私」という主体が存在しない、対象 となっていない状態、つまり母の胎内の中で精神的一体化をしている胎児のような状態である。 竜宮とはそれ自体が大きな母親の体内であると考えられる。浦島は他者と互いに尊敬し、理解し合いたい と思ったが、陸上ではそれは不可能なことだった。なぜなら現実世界には言葉が存在し、相互理解には他者 との絶対的な信頼関係が前提として必要となるからである。 竜宮が大きな母親の体内の象徴であり、羊水の中であるなら、そこでは言葉を交わさなくとも意思疎通が 可能な、絶対的信頼関係が築ける場所と言える。だからこそ竜宮には言葉が存在しない。そして、そこで生 きている乙姫は、浦島が希求する言葉以前の知覚の体現者である。乙姫こそ太宰の理想であり、母性なるも のの象徴である。 また、「浦島」では、「遊びそのもの」という描写はないが、亀との友情というべき場面、竜宮伝説の語り に太宰のロマンが存在する。竜宮の「冥途もかくや」と思われるような「寂たる幽境」を、未生以前に眠っ ていた母の内なる「海」の如くに想像する。「乙姫」の優美、竜宮の薄暗さは、何とも柔らかく心を休めて くれる。 (3)「カチカチ山」について 竜宮や雀の里とは逆に、この「カチカチ山」には、「愛」も「平和」もなくて「言葉」だけがある。ここ での言葉は「だまし合い」のためのものであった。狸のことばは内的独自をのぞけばすべて「しどろもどろ のごまかし」、「苦しみのあまりの哀れな言葉」、「歯の浮くような見え透いたお世辞」である。この空しいや りとりは、竜宮や雀の里を支配している充足した沈黙や静寂と対照されるべきであり、それはまさに狸の 「生きている事の不安から芽生えたもの」である。狸の求愛の「言葉」はついに通じない。彼の「言葉」が 単に自意識の空転に過ぎないからである。狸は自己のもって生まれた宿命、換言すれば存在自身の罪によっ て破滅する。狸の「惚れたが悪いか」という言葉は、「人間失格」における葉蔵の「信頼は罪なりや?」と いう抗議に通じている。 「カチカチ山」に描かれているものは、他の三編と異なり、決定的な「言葉の空回り」と言える。相手に 想いを伝えようとしても、伝えようとすればするほど伝わらないというアイロニーである。兎はまだ十代の 処女であり、乙姫のような母性的な面は見られない。その兎が残酷なまでに狸を痛めつける。狸へ投げかけ る言葉は、どれもしんらつで容赦がない。絵本からも伝わるが、「汚いわよ、そんなに唾を飛ばして」「くさ いじゃないの、もっとあっちへ離れてよ」など、狸に対しての徹底的な生理的嫌悪が感じられる。狸が嫌い で仕方がないという兎の気持ちが伝わってくる。 しかし、狸の方は、何を言われようと、兎が好きでたまらない。兎は知恵者、人間のマスコット的存在と して描かれ、狸は他の昔話や民話でもそうであるように、人間をだます者、人間を化かす者として描かれる。 平安時代から既に見られる、狐・狸・ムジナを人間や地蔵や物に化けて人間を困らせるものとして描く類型 の一つである。 「兎が狸を懲らしめるために行う火つけと水没といった事柄は、決して狸を無意味に痛ぶるために行われ ているのではなく、世界各地や日本でも古代から中世にいたるまで政治的にも行われていた裁判の一形態で
29 ある、いわゆる兎は裁判官の役目を担わされている 3」」。かりに狸が無実であるならば、火傷もしないし溺 れもしないはずだという暗黙の前提で書かれている物語である。現在のトウガラシはもともと日本になくポ ルトガル人の渡来以降に持ち込まれたとする説をとり、本来は火責めと水没のみであり、その間に挿入され た、トウガラシを使う部分は江戸時代になってから付け加えられたとする見方もある。江戸時代には忠臣先 の流行に見られるような、主君に忠実であり仇討ちを義行する演目が人気を博したりしたのも、このような 話の背景があってのことと考えられる。 「江戸時代に五大昔話と言われて人気のあった「猿蟹」「花咲翁」「カチカチ山」「舌切雀」「桃太郎」は、 いずれも、質素倹約、勧善懲悪の話であった。勧善懲悪の「桃太郎」なども、村から財宝や娘を盗んだ鬼は 何も悪くないのに成敗されたとして鬼に感情移入してしまう読み方がある。同様に、「兎に懲らしめられる 狸が気の毒である」という読み手もいる4」」。 そこで、江戸時代には、狸に同情すべきところはないとするために、狸が懲らしめられるシーンの一部を 削ったものが存在した。江戸時代後期には、狸が火傷をさせられるシーンは省かれているようである。 女性の中には、無慈悲な兎が一匹住んでいる。男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかり、存在する。 自分の創りあげた理想の女性の姿を兎に重ねる。そのことが悲劇を生んだ要因であり、そんな狸の姿に太宰 の姿が逆照射されているように思えてくる。ここでは、「狸」の側に寄り添い、あくまで「狸」を主人公と して物語を展開する。この作品がパロディたるゆえんの一つである。 「島津久基は、「此の二獣の取り組みは、白と黒、善良と醜悪、可憐と狡猾、敏捷と遅鈍の対比で、それ に寄せて、智力の勝利と俠者の誠心とが語られているのである」と延べている5」」。 太宰は、現実から離脱した夢想へと沈潜し、ロマンティシズムを追い求めた。過酷な現実との相対を恐れ る太宰の姿が「カチカチ山」から浮かび上がる。「カチカチ山」では、このようにロマンティシズムを楽し みながら、「舌切り雀」の作品の中で、空極の愛を実現していった。「太宰は、日本文学の伝統は「文章を無 為に享楽する法を知らぬ。やたらに深刻をよろこぶ。ナンセンスの美しさを知らぬ。こ理くつが多くて、た のしくない。お月様の中の小鬼をよろこばず、カチカチ山の小兎を愛している。カチカチ山は仇討ち物語で ある6」」と述べた。 話に於ける兎は、お爺さんに代ってお婆さんの仇を討つのであるが、その心持ちにも行動にも、「自分が 老夫婦の養子かなんぞのような義理と熱意に燃えて、殆ど己れを忘れて目的の遂行に専心する純情が見られ るところに、精神の真義と実質が現れている感があり、その境地にあってはもはや他人の為とか、他人への 同情の域を越えているのが非常に嬉しい7」」と述べており、この「童話」がどこか「仇討ち」の通例をはみ 出してしまう要素をそなえていることを暗示している。 (4)「舌切り雀」について このような不毛の愛と他者への絶望の中から夢みられたのが、「舌切雀」のお爺さんと小雀の関係である。 世間的価値観の低いお婆さんに、その怠惰や消極性を非難されてもほとんど口をきかない。他人の「品評」 ばかりをしたがるこのお婆さんの「たまには優しい言葉の一つも掛けて」という「「世間的」要求に対して も、「おれをこんな無口な男にさせたのはお前だ」といってそれを拒絶する8)」。つまり、お爺さんはお婆さ んの「品評」に示されるような世俗的「言葉」への根深い不信を抱いている。一方、小雀とだけは「人が変 ったみたいに若やいだ声」で「言葉」を交わし、自分は本当の事を言うために生れてきた。 ここに、「絶望的な時代状況の中で、「「足の悪い馬よりも、もっと世間的の価値が低い」ことを自覚しな がらも、いやむしろそれゆえに本当の事を言うために生れてきた作家としての宿命に殉じようとする、太宰 の密かな決意を読みとることができる 9)」。もちろん、小雀の「言葉」は現実世界に住むお婆さんには聞え ず、お爺さんが小雀と超現実的世界を共有していることにお婆さんは苛立つのである。「言葉」に絶望して いるお爺さんが実行しているのは「無欲」の態度である。「無欲」なお爺さんが、生れてはじめて「異様な
30 熱心さ」で舌切雀の行方を探索する。お爺さんにとってこのように、がむしゃらな情熱を以て行動するのは、 その生涯に於いて、一度も無かったように見受けられた。「お爺さんの胸中に眠らされていた何ものかが、 この時はじめて頭をもたげたようにも見えるが、しかし、それは何であるかははっきりとはわからない10)。 このとき、お爺さんの胸中に眠らされていた何ものかとはどのようなものを指すのであろうか。 先に述べた「カチカチ山」のように、多くの民話の類がそうであるように、「舌切り雀」も本来言い伝え られて来たものは、残酷でグロテスクな内容を含んでいる。 太宰の「舌切り雀」の話の中での主人公は、「日本で一番駄目な男」と称されている。身体が弱く、顔色 も悪く、まだ40 歳にもならないのに自分のことを「翁」と称し、家の者にも「お爺さん」と呼ばせている。 ただぼんやりとしているだけの世間的価値がゼロに近い人物と設定することで、太宰は既に主人公を作品中 の現実から離脱させている。 「俺をこんな無口な男にさせたのはお前だ」というお爺さんの言葉は、「浦島さん」の「批評」に対する嫌 悪に通じるものである。「批評」を嫌悪するが故に浦島は竜宮へと旅立ち、同じように「舌切雀」のお爺さ んも、「人の悪いところばかり眼につき、自分自身にまるで気がつかない」人を恐怖して無口な人間になる。 雀に対して、お爺さんは「無関心の様子を示して」おり、時々、黙って餌を縁側にまいてやるくらいだっ たのだが、お婆さんに舌をむしり取られて雀が飛び去って行った翌日からは、様子が一変し、毎日何かに取 りつかれ、深い大竹薮の中を捜しまわるのである。お爺さんにとって、こんな、がむしゃらな情熱を持ち行 動するのは、生涯に於いて、一度も無かった。お爺さんの胸中に眠らされていた何ものかが、この時はじめ て頭をもたげた。 「舌切り雀」の絵本では、「お爺さんに助けられ可愛がられていた雀」という描写で書かれている。雀は、 お婆さんが障子の張り替えに使おうとしていた糊を食べてしまい、舌を切られて逃げ出した。お爺さんが嘆 き、雀を追って山へ行く話である。雀に合い、お土産として小さいつづらを持ち帰ったお爺さんが中を見て みると小判が詰まっていた。 その後、欲張りなお婆さんが欲張って山へ出かけ、雀から大きなつづらを取って帰るが、中には妖怪や蛇 が詰まっており、欲張りなお婆さんは腰を抜かしてしまう。その他の話として、「孝行雀」、「雀の祖惚」、「雀 の仇討」、「雀酒屋」などがあるが、いずれも主に米・穀物の招来・管理に雀が関わり描かれている。 4. 考察 太宰治の途絶えざる文学活動によって、日本文学の光栄ある伝統が、戦中から戦後に繋がっていき、人々 に感動と文学の広がりを与えたと言っても過言ではない。太宰の『お伽草紙』は、神話のように語り継がれ ていった物語であった。 近代日本の絵本絵ばなし(新潟県立図書館“絵ばなし”)について調べたところ、“絵ばなし”とは、大正時 代までの「絵本」の呼び方であることがわかった。復刻絵本絵ばなし集54 冊の内、明治 13 年~昭和 23 年 までに発刊された“絵ばなし”の復刻版は、「花咲爺・舌切り雀・桃太郎・一寸法師・カチカチ山」であっ た。“絵ばなし”や「紙芝居」は、子ども達にとって娯楽の一つであり、飴を食べながら語りかけや話の絵 を見て楽しんだ。拍子木の音が聞こえると、紙芝居やの叔父さんの「紙芝居」の“はじまり、はじまり”、 紙芝居やの叔父さんの自転車には釜芝居と一緒に、駄菓子が入った箱が積まれていた。小遣いで買った駄菓 子の中には、水飴やスルメ、味昆布などがあり、それを手にもって紙芝居や“絵ばなし”に夢中になった時 代背景があった。 太宰は、明日知れぬ生命を抱える空襲の最中、防空壕の中で子どもに話を読んで聞かせる「お伽草紙」に 自己の人生観や倫理感、思想と実生活体験のすべてを投げ込み創作した。『お伽草紙』は、はじめに書いた ように、子ども相手の誰でもが知る昔ばなしを題材に、しかもユーモラスな口調で人間の宿命の深淵を見つ めた深みのある作品である。「絵本」との比較においては、「絵」というものの「表し」があるものとないも
31 ので、作品から人に伝わる感情が違ってくる。 太宰の創り上げたかったものの中でも「よくわからない部分」、それは「神話」であり、後の世にも引き 継がれた。太宰自身も透明感を持ちつつ、「お伽草紙」を書き終えている。 また、太宰は、「言葉」ということについて、様々な文献の中から、自分自身を模索している。たとえば、 「桜桃」の作品には、「言葉のない4歳の息子」の記述がある。太宰には、4歳になるが一言も言葉を発す ることができない発育不良の長男がいた。津島祐子の幾つかの作品の中に「知恵遅れ」「ダウン症」という 宿命を背負った「兄」について書かれているものがあるが、太宰の長男「正樹」誕生・昭和20 年以降の作 品には息子の面影が見え隠れする。 昭和10 年代、太宰を困らせていた「文壇常識」とは、いうまでもなく太宰治の場合は、自虐的な告白にも見 られる通り、心の弱さや病のために、それが歪んだり、折れたりした。 また、太宰は肺結核を患った経験により、丙種として判定され、自身の出兵は免れている。よって自国 において、戦前・戦中・戦後の間継続的に筆をとった(とらざるを得なかった)戦中作家であると言え る。 1914(大正3)年、太宰はまだ当時五歳である。1931(昭和6)年は彼が本格的に執筆を始めた時であっ た。1937(昭和12)年、1941(昭和16)年の戦争を生きた文学作家となった。戦争末期、ほとんどの文学 者が創作活動を停止し、日本文学の命脈が超えようとしたとき、太宰だけが、『津軽』、『新釈諸国 噺』、『惜別』、『お伽草紙』と素晴らしい傑作を流れるように世に発表し続けたのは、まさに奇跡と思 われる。 無欲な翁のほうが踊り上手という話は、未だ阿波に伝わる。太宰が小説「お伽草紙の一篇である「瘤取り」 に採用される。その他、世界文化社「ふるさとの民話」にも採用された。全編には落語的な言い回しが多様 化されている。太宰の「落語好きな一面を伺わせる作品である。「お伽草子」では、竜宮城は海中ではなく、 島か大陸にあるように書かれている。春・夏・秋・冬の庭の話は、メインストーリーの付け足し程度に書か れている。能楽の「鶴亀」などに受け継がれ、更に鶴亀を演技物とする習俗が広がっていった。一説には、 妖怪に食い殺されてしまうという話もある。 太宰の『お伽草紙』には、何ともいえない温かみが感じられる。それは、「神話」という部分を太宰自身 が深い部分に持ち、作品を「描く」ことができたからであることが理解できる。 このように、「お伽草紙」は、太宰の作品の中でも非常に楽しく、太宰自身心を弾ませた作品である。 「「6 月 5 日付堤重久宛書籍には「お伽草紙、ただいまカチカチ山を書いている」とあり、5 月 8 日から 書きはじめられた「浦島さん」は、少なくとも6 月 5 日以前に書きあげられていることがわかる。小山清は 「6 月上旬やっとお訪ねしました時には、既に「浦島さん」を書き上げてしまっていて、「カチカチ山」も原 稿半ばでした」11)」と言っていたようである。「浦島さん」は、あるいは5 月中に書き終えられていたかも 知れない。6 月 26 日付菊田義孝宛書籍には「「お伽草紙」は、もう 2、30 枚で完成」とあり、400 字詰め原 稿用紙にして 54 枚ほどある現在の「舌切雀」が予定通りの枚数であると仮定すれば、このとき「舌切雀」 は約半分ほど書き進められていたことになる。全四篇完成の時期について小山清は「7 月上旬」(7 月 7 日 以前)と言い、津島美知子夫人は「6 月末」(創芸社販全集、第十巻後記)と書いている12)」。いずれにして も6 月末から 7 月初めにかけて脱稿されたことにまちがいはないであろう。 『津軽』『お伽草紙』『竹青』等の作品を書いた頃、当時の太宰からは、澄み切った心、明るい精神を感じ る。しかし、太宰の精神力の起伏は激しく、落ち込んだり、暗くなったり、また、立ち直ったり、振り返っ たりしながら、多くの作品(太宰作品は、麻疹のようなものだと言われるように魅了深い)をこの世に残した。 第二次世界大戦下、言語統制の激しい、文学不毛と呼ばれた時代背景のもとにおいて、太宰は作品を発表 し続ける。日本人に語り継がれたお伽話の中に自己の人生観、芸術観、倫理、思想、実生活体験の全てを投 げ込み、自己にしかできない芸術を創りあげようとしたのか。それは太宰治という一文学者の戦乱の時代の
32 懸命の芸術的人間的抵抗であったのか。 このように、一心不乱の状態で、太宰が作品に取り組んだのは、「お伽草紙」の中に魂が込められ、彼の 心を動かし、夢中にさせるものがあったからである。太宰は時代と人々に自身を伝えるべく想いを持ちつつ、 『お伽草紙』を書き終えている。 お伽話の中で、「酒に快く酔う」という姿を通し、物語の主人公を救出に導くことも、太宰の「神話の憂」 と結ばれているようである。 おわりに 太宰は「怪談好き」であり、そこからは創造的意義の深い作品が生まれた。太宰は、神の存在を信じ、「怪 談」という言葉に生涯にわたり取り憑かれた作家である。「お伽草紙」は、そんな「見えないものが見える」 という太宰の人間が描いた作品である。文学的要素を持ち、昔話のあどけなさや、読み手にストーリーの続 きを思い浮かばせたり、創作の続きを楽しませたりすることから、「お伽草紙」には、共通する面白みが存 在した。 太宰治集の中で太宰は和漢の古典や、軽い怪談にもよく通じていて、それらを書き替えた一群の名品を遺 している。太宰自身、幼い頃から怪談好きで、様々な怪談を聞き、多くの書籍から多くの怪談を知った。ま た、太宰は、日本の国難打開のために噴騰している人々の寸暇における慰労のささやかな玩具として作品を 世に残した。その太宰の生活を育てた人間関係、環境構成の具体的な視点の一つに、人の心を刺激し、自分 の能力を引き出すような活動が保障される「応答する環境」が考えられる。それは、不活性な大人依存とな っている子どもに対しても、できるだけ心の流れに沿った人間関係や環境構成を、興味に応じて柔軟に対応 し得るようなものとして整えようということである。 お話は人の心を開き、人への柵を開く。このことから「内発的動機」(自己開発性)は顕在化していくも のである。環境の意味するものは、人間への「柵を開く」ことを求めている。 故に、この「応答する環境」こそが、人間の生活の展開を支える基礎であり、その具体的機能がお話を神 話に準える人々への「心の柵を開く」要素となっていくものである。 註 1) 東郷克美: (1974 年)『お伽草紙の桃源鏡』「日本近代文学」第 21 集,p. 223 2) 同上書, p. 226 3) 島津久基: (1994 年)『日本国民童話十二講』,山一書房,p. 18 4) 同上書, p. 19 5) 同上書, p. 21 6) 太宰治 : (1977 年)『古典竜頭蛇尾文芸懇話会第一巻第五号』,筑摩書房,p. 164 7) 同上書, p.172 8) 奥野健男: (1937 年)『「お伽草紙解説』,新潮文庫,p. 75 9) 同上書, p.76 10) 太宰治 : (1967 年)『太宰治全集第七巻月報七』,筑摩書房,pp. 211 11) 小川清 : (1949 年)『お伽草紙の頃』,(八雲書店版『太宰治全集』付禄),p.112 12) 同上書, p.116
33 謝辞 本稿の執筆にあたり、太宰治の文献をご指導いただきました立命館大学大学院教授 瀧本和成先生に心 から御礼申し上げます。私事、微力ではありますが、日本文学(お話)を取り入れ、本論文を仕上げることが できました。有難うございました。 本稿を書き上げ考えてみますと、教育にかかわる諸課題の解決を図ろうとするときには、課題への問いと 同時に人間への深い洞察と理解が求められることが少しはわかった気がしています。また、研究(論文テー マ)が、自分のためだけではなく、教育、社会、人にとって、どのような意味を持つのかについて自分に問 いかけながら、今後も教育研究を進めてきたいと思います。